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CIAと米軍はどこまで関与したのかグリーンベレー、第2レンジャー大隊、対ゲリラ支援

CIAと米軍はどこまで関与したのか|グリーンベレー、第2レンジャー大隊、対ゲリラ支援

革命・ゲリラ戦

1967年3月、ボリビア軍はチェ・ゲバラのゲリラ隊との最初の戦闘で大きな損害を受けた。

待ち伏せに入り、兵士を失い、捕虜を取られ、武器まで奪われた。

4月にも似た状況が続いた。

当時の米政府内部では、ボリビア軍について、指揮、訓練、規律、部隊間の連携に重大な問題があると評価されていた。

ところが約半年後の10月。

チェ・ゲバラを山中で追い詰め、生きたまま捕らえたのは、そのボリビア軍だった。

中心となったのは、約650人からなるボリビア陸軍第2レンジャー大隊である。

この部隊は1967年春に新設され、米陸軍特殊部隊――いわゆるグリーンベレーから約19週間の訓練を受けていた。

さらにCIAも別の役割で動いた。

ゲリラ側から押収された旅券や写真を分析する。

捕虜や脱走者から得た情報を整理する。

CIA契約要員をボリビア軍側へ送り、情報・通信面を支援する。

その一人が、キューバ系亡命者のフェリックス・ロドリゲスだった。

こうした事実から、「CIAがチェを捕らえた」「米軍がチェを狩った」と説明されることがある。

しかし、その言い方では実際の役割分担が消えてしまう。


軍事訓練を行った米陸軍特殊部隊。
情報・技術支援を行ったCIA。
そして、実際に山中へ入り、戦闘し、チェを捕らえたボリビア軍。

この三つは同じではない。

第7回では、機密解除された米政府文書と米陸軍特殊作戦史料から、米国はチェ・ゲバラ追跡にどこまで関与し、どこから先がボリビア側の作戦だったのかを分解する。

CASE FILE 17|チェ・ゲバラ最後のボリビア戦役特集(全10回)

  1. 第1回|チェ・ゲバラ最後のボリビア戦役とは?|1966年潜入から1967年10月の捕縛・処刑まで
  2. 第2回|チェ・ゲバラはなぜボリビアへ向かったのか|キューバ離脱、コンゴの失敗、「大陸革命」構想
  3. 第3回|チェ・ゲバラはどうボリビアへ潜入したのか|偽名、ニャンカワス基地、ゲリラ隊の形成
  4. 第4回|ゲリラ隊はなぜ孤立したのか|ボリビア共産党、農民、都市支援網との亀裂
  5. 第5回|ボリビア戦役の戦闘はどう始まったのか|1967年3〜4月、基地発覚と政府軍との最初の交戦
  6. 第6回|なぜチェのゲリラ隊は崩壊したのか|部隊分断、補給難、タニア隊壊滅と追跡
  7. 第7回|現在の記事:CIAと米軍はどこまで関与したのか|グリーンベレー、第2レンジャー大隊、対ゲリラ支援
  8. 第8回|チェ・ゲバラはどう捕らえられたのか|1967年10月8日、ユロ渓谷最後の戦闘
  9. 第9回|チェ・ゲバラ処刑の命令はどこから来たのか|ラ・イゲラ、10月9日と秘密埋葬
  10. 第10回|映画『チェ 39歳 別れの手紙』はどこまで史実か|ボリビア日記・CIA文書と照合する

この記事で分かること

  • 米国はなぜボリビアの対ゲリラ戦へ関与したのか
  • グリーンベレーは実際に何をしたのか
  • 第2レンジャー大隊はどのような部隊だったのか
  • CIAは軍事訓練とは別に何を担当したのか
  • フェリックス・ロドリゲスはどのような立場でボリビアへ入ったのか
  • 米軍兵士がチェとの最後の戦闘へ直接参加したのか
  • 「CIAがチェを捕らえた」という表現がなぜ不正確なのか
  • 米国の関与と、後の処刑命令をなぜ分けて考える必要があるのか

先に結論|「CIAがチェを捕まえた」ではなく、米国がボリビア軍の能力を大きく引き上げた

米国の関与について、最初に構造を整理すると分かりやすい。

主体 主な役割 チェ捕縛との関係
米陸軍特殊部隊 第2レンジャー大隊の編成・訓練 捕縛した部隊の能力形成に関与
米国政府・軍事援助機構 装備、軍事助言、対ゲリラ支援 ボリビア軍全体の対処能力を強化
CIA 情報収集、資料分析、技術・通信支援、現地要員派遣 ゲリラの特定と追跡を支援
ボリビア第2レンジャー大隊 現地捜索、包囲、戦闘 1967年10月8日にチェを実際に捕縛
ボリビア軍上層部 作戦指揮・最終決定 捕縛後の処置を決定

米国が「無関係だった」とすることはできない。

米国務省の公式外交史料『Foreign Relations of the United States』は、1967年のボリビアにおける重要な対ゲリラ計画として、米国がボリビアのレンジャー大隊を訓練・装備したことを明記している。

CIA要員も現地で活動していた。

しかし、

米軍特殊部隊がユロ渓谷でチェと撃ち合い、その場で逮捕したわけではない。

10月8日の戦闘を行ったのはボリビア軍である。

この区別が、第7回で最も重要な点になる。

なぜ米国が関わったのか|1960年代のラテンアメリカとキューバ革命

1967年のボリビア戦役は、単なる国内治安事件として米国から見られていたわけではない。

1959年、キューバ革命が成功した。

その後キューバは米国と対立し、ソ連との関係を深めた。

1961年にはピッグス湾事件。

1962年にはキューバ危機が起きる。

冷戦期の米国政府にとって、ラテンアメリカでキューバ型の革命運動が拡大することは、安全保障上の問題だった。

さらに今回のゲリラを率いている可能性がある人物は、キューバ革命の中心人物の一人、チェ・ゲバラだった。

米国側がこの武装集団を、ボリビア国内だけの局地的な反乱として見なさなかったのはこのためである。

米国務省の資料では、ボリビアでの対ゲリラ計画を、他のラテンアメリカ諸国でも同様の反乱が発生した場合に応用できる「モデル」として見る考えすら存在した。

つまり米国にとって、

ボリビアでチェの作戦を失敗させることは、一人のゲリラ指揮官を止める以上の意味を持っていた。

3月の敗戦がきっかけになった|「今のボリビア軍では足りない」

第5回で見たように、1967年3月23日の初戦ではボリビア軍が待ち伏せを受けた。

政府軍7人が死亡し、多数が捕虜となり、武器も奪われた。

4月にも政府軍は損害を重ねる。

当時の米政府報告は、ボリビア治安部隊について、

  • 指揮統制
  • 部隊間の連携
  • 将校の指導力
  • 兵士の訓練
  • 規律

などに重大な弱点があると評価していた。

ゲリラ側は数十人しかいない。

それでも、地形を利用した待ち伏せに入れば政府軍へ大きな損害を与えられる。

この状況を受け、レネ・バリエントス大統領は新たな対ゲリラ部隊の編成を進め、米国へ訓練支援を求めた。

作られたのが、約650人の第2レンジャー大隊だった

新しい部隊は、既存の一個大隊に名前だけ「レンジャー」を付けたものではない。

米陸軍特殊作戦史によれば、バリエントス政権は約650人規模のレンジャー歩兵大隊を編成した。

しかし集められた兵士の多くは、対ゲリラ戦の熟練兵ではなかった。

新兵も多い。

服装や装備も統一されていない。

つまり米特殊部隊の任務は、

精鋭部隊へ高度な技術を少し追加することではなく、ほぼ一から対ゲリラ部隊を作ることだった。

1967年4月29日|16人の米特殊部隊チームがラ・エスペランサへ

訓練を担当したのは、パナマ運河地帯に駐留していた米陸軍第8特殊部隊群だった。

ラルフ・“パピー”・シェルトン少佐が率いるMobile Training Team、MTT BL 404-67Xがボリビアへ派遣された。

米陸軍特殊作戦史によれば、主力14人を含む16人規模の訓練チームが任務に参加し、4月29日に訓練拠点ラ・エスペランサへ入った。

ラ・エスペランサは小さな村だった。

電気も水道も十分にない。

訓練施設として利用できるのは、放棄された製糖工場などだった。

しかし人口が少なく、周囲に訓練可能な土地があり、外部から訓練内容を見られにくい。

秘密性を必要とする部隊育成には都合がよかった。

19週間|最初は「歩兵としての基礎」から始めた

訓練期間は約19週間だった。

米陸軍特殊作戦史では、4段階に分けられている。

段階 期間 主な内容
第1段階 約6週間 基本的な個人兵士訓練
第2段階 約3週間 射撃、通信、医療、重火器、専門技能
第3段階 約3週間 分隊・小隊単位の戦術行動
第4段階 約7週間 中隊・大隊行動、対ゲリラ戦、総合演習

特徴的なのは、待ち伏せやパトロールだけを教えていたわけではないことである。

まず歩兵としての基礎を作る。

その上で、小部隊が山中を移動し、互いに連携し、敵を捜索する方法へ進む。

これは3〜4月の政府軍が最も苦手としていた部分だった。

訓練されたのは「チェを暗殺する方法」ではない

第2レンジャー大隊について、「チェを殺すために米国が作った特殊部隊」と表現されることがある。

しかし訓練内容を見ると、もう少し一般的な対ゲリラ部隊だったことが分かる。

射撃。

偵察。

パトロール。

待ち伏せ。

襲撃。

通信。

医療。

迫撃砲や機関銃の運用。

分隊・小隊単位での火力と移動。

村落へ入った際の行動。

そして実際の「レッド・ゾーン」に近い地形での総合演習。

目的は、山中を移動する少人数の反乱部隊を、自力で探し、接触し、戦闘できるボリビア部隊を作ることだった。

チェ本人は最大の標的だったが、部隊の機能そのものは一人の人物だけに限定されていない。

FACT CHECK|米軍グリーンベレーはチェとの最後の戦闘に参加したのか?

確認できる史料では、10月8日のユロ渓谷で米特殊部隊の訓練チームが直接戦闘したとはされていない。

米陸軍第8特殊部隊群のMobile Training Teamは、第2レンジャー大隊の編成・訓練を担当した。

19週間の訓練終了後、第2レンジャー大隊はボリビア軍の指揮下でゲリラ活動地域へ展開した。

1967年10月8日にユロ渓谷周辺でチェの部隊と交戦し、チェを捕らえたのはボリビア第2レンジャー大隊である。

したがって、
「米特殊部隊がチェを捕らえた」のではなく、「米特殊部隊が訓練したボリビア部隊がチェを捕らえた」
とする方が正確である。

9月17日|訓練終了、その直後に実戦へ

第2レンジャー大隊の約19週間の訓練は、1967年9月17日までに終了した。

サンタクルスでは修了式が行われた。

その後、部隊はリオ・グランデ川、バジェグランデ周辺を含むゲリラ活動地域――いわゆる「レッド・ゾーン」へ投入される。

春の政府軍とは違う。

少人数部隊の行動を前提に訓練され、偵察と通信を組み合わせ、敵の位置情報から複数部隊を動かせるようになっていた。

チェ側から見れば最悪のタイミングだった。

自分たちの部隊は20人前後へ縮小している。

ホアキン隊はすでに壊滅していた。

喘息薬も少ない。

外部との通信もほぼない。

その一方で、政府側には新たに訓練された約650人規模の部隊が加わった。

CIAは何をしていたのか|軍事訓練とは別の「情報戦」

ここからCIAの役割を分けて見る。

CIAがグリーンベレーと同じように兵士へ19週間の歩兵訓練を行ったわけではない。

主要な役割は情報だった。

ゲリラの中に誰がいるのか。

本当にチェ・ゲバラなのか。

どこから入国したのか。

キューバとどう連絡しているのか。

都市部に誰が協力しているのか。

捕虜は何を知っているのか。

押収した文書は何を意味するのか。

こうした断片をつなぐ仕事だった。

1967年春の時点では、CIAもチェ本人の存在を確定できていなかった

第5回で見たように、3月には脱走者から「チェが指揮しているらしい」という情報が出ていた。

しかし証言者自身がチェ本人を見ていない場合もあり、それだけでは確認にならない。

4月20日にレジス・ドブレとシロ・ブストスが拘束されると状況が変わる。

CIAは2人から得た情報を整理し、チェ本人と会ったという証言を入手した。

さらに8月には、政府軍が旧基地周辺の隠匿場所から大量の文書を発見する。

二つの旅券。

身分証明書。

健康証明書。

写真。

指紋。

CIAの技術部門が分析すると、異なる名前の旅券に使われた写真と指紋が同一人物のものだと分かった。

指紋はCIAが以前から保有していたチェ・ゲバラの資料とも一致した。

ここまで来て、米国側は「チェがいるらしい」という情報から、物的証拠による確認へ進んだ。

情報の差が、春と秋で逆転している

3月の最初の戦闘では、政府軍はゲリラのことをほとんど知らない。

どこにいるのか。

何人なのか。

誰が指揮しているのか。

地形をどう使うのか。

分からない状態で山へ入り、待ち伏せを受けた。

8〜9月になると、

捕虜。

脱走者。

住民からの情報。

押収文書。

旅券。

写真。

暗号資料。

などが政府・CIA側へ集まっている。

反対にチェ側は、政府軍がどこにいるかを地元住民やラジオから推測する状態になっていた。

第6回で見た「情報を持つ側の逆転」に、CIAの分析能力が加わった。

7月、CIAは現地支援チームを追加した

米国務省の公式外交史料によれば、1967年7月、米政府内の関係機関はボリビアのレンジャー部隊へ情報・技術支援を行うチームの派遣を承認した。

この時期にCIA西半球部門が現地任務へ送り出した要員の中に、

フェリックス・ロドリゲス

グスタボ・ビジョルド

がいた。

2人はキューバ系亡命者で、CIA契約要員として活動していた。

ロドリゲスは1961年のピッグス湾侵攻にも関係した経歴を持つ。

ボリビアでは本名を前面に出さず、ボリビア軍士官を装うカバー身分で活動した。

フェリックス・ロドリゲスは「チェ暗殺人」として送られたのか

ロドリゲスについては、後世に非常に強い人物像が作られた。

「CIAから送られたチェの暗殺者」

というものだ。

しかし、機密解除資料から確認できる任務はもう少し広い。

ロドリゲスらは第2レンジャー大隊と連携し、情報収集、捕虜尋問、通信などを支援した。

CIAはサンタクルスにも通信・情報拠点を設けた。

ロドリゲス自身も後のCIA内部聞き取りで、捕虜から情報を得たことや、レンジャー部隊の投入を提案したことなどを説明している。

つまり彼の役割は、

「拳銃を持ってチェ一人を探す暗殺者」ではなく、ボリビア軍の対ゲリラ作戦へ組み込まれた情報・助言要員

として理解した方が資料に近い。

FACT CHECK|フェリックス・ロドリゲスはチェを捕らえた人物なのか?

「ロドリゲスがチェを捕まえた」とするのは不正確である。

1967年10月8日、チェの部隊と実際に交戦したのはボリビア第2レンジャー大隊だった。

National Security Archiveが整理した機密解除資料によれば、
戦闘開始時、ロドリゲスはバジェグランデのレンジャー大隊本部側にいた。

チェは戦闘中に負傷し、ボリビア兵によって捕らえられた。

ロドリゲスがチェ本人と直接接触するのは、捕縛後にラ・イゲラへ移送されてからである。

したがって、
「ロドリゲスはチェ追跡を支援したCIA要員で、捕縛後にチェと直接接触したが、ユロ渓谷でチェを実際に捕縛したのはボリビア軍」
と整理する。

米国の支援は「兵士を送り込む」以外の形で大きかった

米国が戦争へ関与したかどうかを考えるとき、「米兵が直接銃を撃ったか」だけを見ると実態を見失う。

ボリビアでは、

  • 軍事訓練
  • 装備支援
  • 情報分析
  • 通信支援
  • 技術支援
  • 捕虜・押収資料からの情報収集
  • 対ゲリラ作戦への助言

という形で米国が関与した。

直接戦闘へ米軍部隊を投入しなくても、現地軍の能力を変えることはできる。

この方式は、冷戦期の米国が各地で用いた「外国軍を支援して国内反乱へ対応させる」という対反乱戦略の一形態だった。

米陸軍特殊作戦の用語でいえば、後にForeign Internal Defense(FID/対外国内防衛支援)と整理される考え方に近い。

自国軍が前面へ出るのではなく、相手国自身の軍隊を訓練し、その国の指揮系統で戦わせる。

ボリビアは、その実例になった。

3月と10月の政府軍は、同じ軍隊でも能力が違っていた

1967年春 1967年秋
ゲリラの位置を十分把握できない 住民・捕虜・偵察から位置情報を集約
待ち伏せへ無警戒に進入 小部隊による偵察・包囲を実施
部隊間連携に問題 無線を使って増援を呼ぶ
対ゲリラ訓練不足 19週間訓練された第2レンジャー大隊を投入
外国人部隊の存在も不明確 チェ本人の身元を物証で確認

一方、チェ側は逆方向へ進んだ。

春には40人前後。

秋には20人を下回る。

春には秘密基地と物資がある。

秋には恒久基地がない。

春にはホアキン隊も存在する。

秋にはすでに壊滅している。

春には薬と通信設備がある。

秋には大部分を失っている。

この二つの変化が同時に進んだ。

10月初旬|第2レンジャー大隊が包囲を狭める

9月後半、第2レンジャー大隊はゲリラ活動地域へ投入された。

10月に入ると、住民から得た情報などを手掛かりに、チェの残存部隊がラ・イゲラ周辺にいる可能性が高まっていく。

10月7日。

チェの日記には、山中で出会った女性から近隣の集落について情報を得たことが記されている。

しかし、ゲリラの存在を見た住民が政府側へ情報を伝える可能性もある。

チェたちは夜間に移動を開始した。

翌10月8日。

第2レンジャー大隊の部隊がユロ渓谷周辺へ進出した。

そして、チェの最後の戦闘が始まる。

この詳細は次の第8回で時刻と部隊配置を追う。

「米国の関与」と「処刑命令」は別問題である

ここまでを見ると、米国がチェ追跡へ深く関与していたことは明らかである。

米国は第2レンジャー大隊を訓練した。

装備を支援した。

CIAは現地要員を送った。

通信・情報支援を行った。

押収資料も分析した。

だからといって、

「したがってCIAがチェの処刑を命令した」

とはならない。

これは資料上、別の問題である。

CIA長官リチャード・ヘルムズが1967年10月11日にまとめた内部メモでは、チェは10月8日に脚を負傷しながら生存した状態で捕らえられている。

そして翌9日11時50分、第2レンジャー大隊はラパスのボリビア陸軍司令部からチェを殺害する直接命令を受けたと記録されている。

米国務省のFRUS編集注記では、現地のCIA契約要員はこの処刑を止めようとしたが成功しなかった、と整理されている。

つまり、


米国が捕縛までの対ゲリラ能力向上に大きく関与したこと

と、


捕虜になったチェを誰が殺すと決めたのか

は分離しなければならない。

FACT CHECK|CIAはチェ・ゲバラの処刑を命令したのか?

現在公開されている米政府の主要機密解除文書は、その説明を支持していない。

1967年10月11日付CIA長官リチャード・ヘルムズのメモでは、
チェは10月8日に生きたまま捕らえられた。

翌10月9日11時50分、
ボリビア第2レンジャー大隊はラパスのボリビア陸軍司令部から
チェを殺害する直接命令を受けたと記録されている。

米国務省FRUSの編集注記では、
現地にいたCIA契約要員は処刑を阻止しようとしたが失敗したと整理されている。

したがって確認できる資料からは、
「米国は追跡・捕縛能力の形成に深く関与したが、処刑命令そのものはボリビア軍上層部から出された」
とするのが最も妥当である。

ただし、捕縛後の指揮系統、ボリビア政治指導部内の意思決定については資料ごとに細部の記述差があるため、
第9回で改めて分離して検証する。

「CIAがチェを狩った」という言葉は、半分は合っていて半分は違う

ここまでの資料を整理すると、通説が生まれた理由も分かる。

CIAは実際にチェの所在を追跡していた。

CIA要員も現地にいた。

フェリックス・ロドリゲスは第2レンジャー大隊と行動していた。

チェ捕縛後には本人と直接会っている。

米国が訓練した部隊がチェを捕らえた。

これだけの要素が重なるため、後世には、

「CIAがチェを捕まえて殺した」

という一文に圧縮されやすい。

しかし、史料を一段細かく見ると、


CIA=情報・助言
米特殊部隊=軍事訓練
ボリビア軍=捜索・戦闘・捕縛
ボリビア軍上層部=捕虜処置の決定

という役割の違いがある。

この区別を消すと、逆に米国の実際の影響力も分からなくなる。

米兵が自分で引き金を引かなくても、軍隊を訓練し、情報を提供し、その部隊が敵を捕らえれば、作戦への影響は大きい。

「直接参加していないから無関係」でもなく、

「支援したからすべてCIAが実行した」でもない。

ボリビア戦役における米国関与は、その中間にある。

1967年春から秋|政府側の能力はこう変わった

時期 米国・ボリビア側の動き ゲリラ側への影響
3月 初戦で政府軍が大損害。米国へ支援要請 チェ側が戦術的優位
4月29日 米第8特殊部隊群の訓練チームがラ・エスペランサへ 新たな対ゲリラ部隊の育成開始
5〜7月 レンジャー個人・小部隊訓練 政府側の捜索能力が将来的に向上
7月 CIA系情報・技術支援を強化 捕虜・資料・通信情報の利用拡大
8月 ゲリラの隠匿資料を大量押収 チェ本人の身元・潜入経路を物証で確認
8月31日 ボリビア軍がホアキン隊を壊滅 ゲリラ全体戦力が大幅減少
9月17日 第2レンジャー大隊が19週間の訓練を完了 訓練済み大部隊が作戦地域へ投入
10月8日 第2レンジャー大隊がユロ渓谷でチェの部隊と交戦 チェ負傷・捕縛

最大の変化は「政府軍がチェに追いついたこと」ではない

1967年3月から10月までを一本で見ると、米国支援の意味が分かりやすい。

最初の政府軍は、チェの部隊を探すことすら難しかった。

山へ入れば待ち伏せを受ける。

捕虜を取られる。

相手がチェ本人なのかも確認できない。

しかし政府は、時間と国家資源を使って不足を埋めていった。

人員を増やす。

米特殊部隊から訓練を受ける。

情報を集める。

CIAが押収資料を分析する。

捕虜を尋問する。

通信を整える。

一方のゲリラ側は、時間が経つほど逆の状態になる。

だから最終的に起きたのは、単に「政府軍がチェに追いついた」ということではない。

時間の経過によって政府側は強くなり、ゲリラ側は回復不能なまま弱くなり、その二つの曲線が10月に交差した。

まとめ|米国はチェを直接捕縛しなかった。しかし捕縛した軍隊を作る過程に深く関与した

「CIAはチェ・ゲバラの最期に関わっていたのか」

答えは、関わっていた。

CIAはチェの行方を追跡した。

捕虜や関係者から情報を集めた。

押収された旅券や指紋を分析した。

現地に契約要員を送った。

第2レンジャー大隊へ情報・技術支援も行った。

「米軍は関わっていたのか」

これも、関わっていた。

米陸軍第8特殊部隊群の16人規模の訓練チームが、約19週間かけて第2レンジャー大隊を育成した。

しかし、

「米軍がユロ渓谷でチェと直接戦ったのか」

となれば、答えは違う。

チェと戦い、捕らえたのはボリビア軍だった。

さらに、

「CIAがチェの処刑命令を出したのか」

についても、現在公開されている主要米政府文書は支持していない。

ボリビア軍への訓練。

情報。

通信。

助言。

これらを通じて米国は捕縛までの条件形成に大きな役割を果たした。

しかし実際の戦場と指揮系統はボリビア側にあった。

この両方を認めることが、1967年の米国関与を最も正確に理解する方法である。

そして1967年10月8日、その米国支援で訓練された第2レンジャー大隊が、ついにチェの残存部隊を捕捉した。

場所はラ・イゲラ近くのユロ渓谷。

チェ側は十数人。

レンジャー側は複数方向から谷を封鎖する。

戦闘中、チェは脚を負傷した。

使用していたカービンも撃てなくなった。

そして午後、政府軍兵士によって生きたまま捕らえられる。

次の第8回では、1967年10月8日のユロ渓谷だけに時間を絞り、第2レンジャー大隊がどのようにチェの位置を特定し、包囲し、最後の約4時間の戦闘で捕らえたのかを追う。

前の記事


第6回|なぜチェのゲリラ隊は崩壊したのか|部隊分断、補給難、タニア隊壊滅と追跡

次の記事


第8回|チェ・ゲバラはどう捕らえられたのか|1967年10月8日、ユロ渓谷最後の戦闘

CASE FILE 17|全10回

  1. 第1回|チェ・ゲバラ最後のボリビア戦役とは?|1966年潜入から1967年10月の捕縛・処刑まで
  2. 第2回|チェ・ゲバラはなぜボリビアへ向かったのか|キューバ離脱、コンゴの失敗、「大陸革命」構想
  3. 第3回|チェ・ゲバラはどうボリビアへ潜入したのか|偽名、ニャンカワス基地、ゲリラ隊の形成
  4. 第4回|ゲリラ隊はなぜ孤立したのか|ボリビア共産党、農民、都市支援網との亀裂
  5. 第5回|ボリビア戦役の戦闘はどう始まったのか|1967年3〜4月、基地発覚と政府軍との最初の交戦
  6. 第6回|なぜチェのゲリラ隊は崩壊したのか|部隊分断、補給難、タニア隊壊滅と追跡
  7. 第7回|現在の記事:CIAと米軍はどこまで関与したのか|グリーンベレー、第2レンジャー大隊、対ゲリラ支援
  8. 第8回|チェ・ゲバラはどう捕らえられたのか|1967年10月8日、ユロ渓谷最後の戦闘
  9. 第9回|チェ・ゲバラ処刑の命令はどこから来たのか|ラ・イゲラ、10月9日と秘密埋葬
  10. 第10回|映画『チェ 39歳 別れの手紙』はどこまで史実か|ボリビア日記・CIA文書と照合する

出典・参考資料

資料について:
本記事では、米国の関与を「米国政府」「米陸軍特殊部隊」「CIA契約要員」
「ボリビア第2レンジャー大隊」「ボリビア軍上層部」に分けています。
米国務省FRUSは米政府自身の機密解除史料集であり、
米軍特殊作戦史は訓練側の軍事史資料です。
したがって、米国自身の活動評価には組織側の視点が含まれる点に注意が必要です。
一方で、訓練人数、期間、役割分担、CIA要員の派遣、
10月8日の捕縛部隊などは複数資料で照合しています。
「CIAがチェを捕らえた」「グリーンベレーが最後の戦闘を行った」
「CIAが処刑を命じた」といった一文への単純化は避け、
確認できる指揮系統と行動を分離して記述しています。