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チェ・ゲバラはどう捕らえられたのか1967年10月8日、ユロ渓谷最後の戦闘

チェ・ゲバラはどう捕らえられたのか|1967年10月8日、ユロ渓谷最後の戦闘

革命・ゲリラ戦

1967年10月8日朝。

ボリビア南東部の山間にあるラ・イゲラ周辺で、第2レンジャー大隊の一部隊へ情報が入った。

前日の夕方、17人ほどの武装した男たちが、地元農民の畑の近くを通り、細い谷へ入っていったという。

その人数は、政府軍が探していたチェ・ゲバラの残存部隊とほぼ一致した。

第2レンジャー大隊は、谷の出口を塞ぐように部隊を動かした。

午後になると銃撃戦が始まった。

狭く急な谷底にいたチェたちは、複数方向から進むレンジャー隊に囲まれた。チェは脱出を試みたが、脚を負傷し、使用していたカービンも撃てない状態になった。

夕方までに、彼は生きたまま捕らえられた。

約11か月続いたボリビア戦役で、チェ本人が自由に行動した最後の日である。

だが、「政府軍が山中で偶然チェを見つけた」というほど単純ではない。

10月8日の戦闘は、9月から進められていた包囲、地元住民からの情報、無線による部隊間連絡、谷の地形を利用した封鎖が重なって成立していた。

そして、チェが捕らえられた時点では、彼はまだ生きていた。

第8回では、1967年10月7日夜から8日夕方までに何が起き、第2レンジャー大隊がどのようにチェの部隊をユロ渓谷で包囲し、生きたまま捕らえたのかを時系列で追う。

CASE FILE 17|チェ・ゲバラ最後のボリビア戦役特集(全10回)

  1. 第1回|チェ・ゲバラ最後のボリビア戦役とは?|1966年潜入から1967年10月の捕縛・処刑まで
  2. 第2回|チェ・ゲバラはなぜボリビアへ向かったのか|キューバ離脱、コンゴの失敗、「大陸革命」構想
  3. 第3回|チェ・ゲバラはどうボリビアへ潜入したのか|偽名、ニャンカワス基地、ゲリラ隊の形成
  4. 第4回|ゲリラ隊はなぜ孤立したのか|ボリビア共産党、農民、都市支援網との亀裂
  5. 第5回|ボリビア戦役の戦闘はどう始まったのか|1967年3〜4月、基地発覚と政府軍との最初の交戦
  6. 第6回|なぜチェのゲリラ隊は崩壊したのか|部隊分断、補給難、タニア隊壊滅と追跡
  7. 第7回|CIAと米軍はどこまで関与したのか|グリーンベレー、第2レンジャー大隊、対ゲリラ支援
  8. 第8回|現在の記事:チェ・ゲバラはどう捕らえられたのか|1967年10月8日、ユロ渓谷最後の戦闘
  9. 第9回|チェ・ゲバラ処刑の命令はどこから来たのか|ラ・イゲラ、10月9日と秘密埋葬
  10. 第10回|映画『チェ 39歳 別れの手紙』はどこまで史実か|ボリビア日記・CIA文書と照合する

この記事で分かること

  • 10月7日時点でチェの部隊はどのような状態だったのか
  • 第2レンジャー大隊は何を手掛かりにゲリラの位置を絞ったのか
  • ユロ渓谷はどのような地形だったのか
  • 10月8日の戦闘は何時ごろ始まり、どのくらい続いたのか
  • チェはなぜ谷から脱出できなかったのか
  • チェの武器は本当に使用不能になっていたのか
  • 誰がチェを捕らえたのか
  • 捕縛時のチェは瀕死だったのか

先に結論|チェは「戦闘で死亡した」のではなく、負傷した状態で捕らえられた

10月8日の最も重要な事実は、チェ・ゲバラが戦場で死亡していないことである。

CIA長官リチャード・ヘルムズが10月11日に米政府高官へ送った内部メモでは、チェは第2レンジャー大隊との戦闘後、脚を負傷した状態で生きたまま捕らえられたと記録されている。

傷はあったが、それ以外は比較的良好な状態だったと報告された。

つまり、

10月8日の戦闘と、10月9日の死亡は別の出来事である。

この区別は非常に重要になる。

翌日ボリビア軍が公表した当初の説明では、チェは戦闘で受けた傷によって死亡したとされた。

しかし米政府の非公開文書には、生存した状態で捕らえられ、翌日まで拘束されていたことが残っている。

そのため第8回では、まず「捕らえられるまで」だけを扱う。

処刑命令と10月9日の経緯は、第9回で分離して検証する。

9月26日|チェの部隊は一度ラ・イゲラへ入っていた

10月8日の包囲は、その日の朝だけで突然始まったわけではない。

第2レンジャー大隊は9月後半から、チェの残存部隊がいる地域を絞り込んでいた。

米陸軍特殊作戦史によれば、9月26日、約22人まで減っていたチェの部隊はラ・イゲラへ入った。

村にはほとんど人がおらず、ゲリラ側は当局が自分たちの接近を把握していることを示す情報を発見した。

その後の戦闘でゲリラ側に死者が出て、残存部隊は村の西側に広がる複雑な谷へ逃げ込んだ。

この時点から、第2レンジャー大隊はラ・イゲラ、プカラ、リオ・グランデ周辺を使って捜索範囲を狭めていく。

9月までのチェ側は、軍を避けながら広い地域を移動していた。

10月になると、その移動範囲自体が狭くなっていた。

ここで現在の地理では、ラ・イゲラの位置と周囲が山地・谷地形であることを確認できる。
ただし、1967年10月8日のEl Churo/ユロ渓谷における部隊配置、脱出方向、捕縛位置は現在のGoogle Mapだけでは再現できない。

ラ・イゲラの現在位置。現在のGoogle Mapは1967年当時の谷底の植生、軍のblocking position、迫撃砲・機関銃位置、チェ側の脱出経路や捕縛地点を再現するものではない。


Googleマップで大きく見る


米陸軍特殊作戦史のEl Churo Canyon戦術図を確認する

本文で重要なのは、ラ・イゲラという一点だけではなく、El Churoの細い谷へ入ったゲリラに対して、レンジャー隊が谷の北側と南側を押さえ、脱出方向を限定したという空間構造である。
この戦術配置は、米陸軍特殊作戦史の図を基準に読むのが最も分かりやすい。

位置関係【SELF-DIAGRAM|El Churo / Yuro 最終戦闘・1967年10月8日】

※U.S. Army Special Operations History掲載の戦術図と本文記述を基礎に、
「どこを塞ぎ、どこから脱出を試み、どこで捕らえられたか」だけを記事理解用に簡略化した模式図。
原図画像は転載していない。縮尺、個々の兵士の位置、射線、正確な捕縛座標は再現しない。

北東側(El Churo上部) ↑

A中隊 2個小隊/ペレス少尉側
北側の高地・出口を遮断

↓ 谷へ接触・前進
El Churo Canyon
約300m/北東→南西へ下る急峻な峡谷

チェ側主力
谷中央部に潜伏・分散
高地へ抜ける機会を探す
第1の脱出試行
南西側/La Tusca合流部方向へ

迫撃砲・機関銃射撃

チェ負傷・後退
Huanca軍曹の部隊
La Tusca側を掃討

El Churoへ進入

ゲリラを高地側へ圧迫

南西側/La Tusca合流部付近
プラド大尉CP+blocking position
60mm迫撃砲2門+機関銃

チェ+ウィリー
急斜面を登って高地へ脱出を試みる

プラド指揮所近くでボリビア兵が捕縛
(公式戦史ではCPから約15m)

捕縛後 → ラ・イゲラの学校へ約2km移送
※この模式図ではラ・イゲラへの正確な方位・歩行経路は描いていない。

この図で重要なのは、チェ側が単に「谷の中で発見された」のではなく、
北側の遮断、南側の火力・指揮位置、La Tusca側からの進入によって、
最終的に谷底から高地へ登る脱出を強いられた点である。


米陸軍特殊作戦史の原戦術図を確認する

谷が多すぎる|追う側にも難しい地形だった

ラ・イゲラ周辺は平原ではない。

険しい尾根から、細く深い谷がリオ・グランデ方向へ落ち込んでいる。

樹木や低木も多く、谷底から周囲を見通すことは難しい。

少人数のゲリラが隠れるには有利だった。

一方で、出口を軍に押さえられると逆に逃げにくい。

米陸軍特殊作戦史が「El Churo Canyon」と呼ぶ谷は、長さ約300メートル、場所によっては深さ約200メートルとされる。

谷底には濃い植生があり、斜面上部へ行くほど植物は薄くなる。

つまり谷底なら姿を隠せる。

しかし脱出するには、最終的に急斜面を登り、上に出なければならない。

そこを軍が監視していれば、隠れ場所がそのまま袋小路になる。

「ユロ渓谷」と「エル・チュロ渓谷」は同じ場所なのか

FACT CHECK|ユロ渓谷/エル・チュロ渓谷という呼称

チェ最後の戦闘地点は、日本語では一般に「ユロ渓谷」「ユロの谷」などと呼ばれる。

一方、米陸軍特殊作戦史では戦闘地点を
El Churo Canyon
と表記している。

文献によって
Quebrada del Yuro、
Quebrada del Churo、
El Churo
など表記の揺れがある。

本シリーズでは日本語で広く使われる
「ユロ渓谷」
を記事タイトルに使用し、
米軍史料を扱う際には「El Churo」と併記する。

現地地名の表記差を、別々の最終戦闘地点が存在したという意味には取らない。

10月7日|チェが残した最後の日記

チェ・ゲバラの『ボリビア日記』は1967年10月7日で終わっている。

つまり、最後の戦闘そのものについてチェ本人の記録はない。

10月7日の日記から確認できるのは、部隊がまだ周辺地形を十分把握できていなかったことだ。

この日、チェたちは地元の女性から周辺の集落について情報を聞いている。

ラ・イゲラを含む複数の村までの距離を、地元住民に尋ねなければならない状態だった。

第6回までに見たように、都市部との通信網も失われている。

ホアキン隊もすでに壊滅していた。

残った部隊は、自分たちの周囲を地元住民や携帯ラジオから得た断片的な情報で判断するしかなかった。

この日の夜、ゲリラたちは移動を続け、ユロ渓谷方面へ入っていく。

地元住民から政府軍へ情報が入る

翌10月8日朝、政府軍側に重要な情報が入った。

米陸軍特殊作戦史では、午前6時30分ごろ、第2レンジャー大隊A中隊のカルロス・ペレス少尉が、地元農民ペドロ・ペーニャから情報を得たとしている。

前日の夕方、17人ほどの男がジャガイモ畑の近くを通り、El Churoの谷へ入ったという内容だった。

人数はチェの残存部隊とほぼ一致する。

ペレス少尉はこの情報を無線でB中隊長ガリー・プラド大尉へ伝えた。

ここで、第7回で見た政府軍側の変化が現れる。

春なら、少人数の哨戒隊がそのまま谷へ入っていた可能性がある。

10月のレンジャー隊は、情報を無線で共有し、複数部隊を配置して出口を塞いだ。

プラド大尉は谷の南北を塞いだ

プラドは、ペレス少尉の部隊をEl Churo北側へ向かわせた。

自らは一部の歩兵、60mm迫撃砲、機関銃などを伴って谷の南側を押さえた。

別のレンジャー部隊も周辺の谷を掃討し、側面から近づく。

狙いは単純な突入ではない。

まず出口を塞ぎ、ゲリラ側が逃げる方向を限定する。

谷の上部へ逃げれば、斜面上にいる部隊から見える。

谷底を進めば、別の部隊と接触する。

南へ抜けようとすれば、プラド側の火力が待っている。

第2レンジャー大隊は、数百人全員を一か所へ突入させたわけではない。

複数の小部隊で地形の出口を押さえ、少しずつ包囲を閉じていった。

チェ側は17人前後|それでも全員が一か所にいたわけではない

政府側へ伝わった情報では、ゲリラは17人程度だった。

しかし戦闘時、チェは全員を一つの集団として動かしていない。

前衛。

主力。

後衛。

さらに戦闘開始後には、負傷者などを逃がすため小グループへ分かれていった。

少人数部隊が包囲された場合、一団のまま動けば見つかりやすい。

分散すれば一部が包囲を抜けられる可能性がある。

実際、チェの部隊の一部はこの日の包囲から脱出している。

一方、分散すると指揮官が個々のグループを統制することはさらに難しくなる。

午後1時ごろ|北側で最初の銃撃戦が始まる

CIAが10月9日に作成した戦闘直後の情報報告は、10月8日13時ごろ、第2レンジャー大隊とゲリラ隊がラ・イゲラの北西約7キロの地域で交戦したとしている。

米陸軍特殊作戦史では、北側から谷へ入ろうとしたペレス少尉の部隊がゲリラ側から射撃を受け、レンジャー2人が死亡したとする。

政府軍はここで前進を止めた。

3月のように、そのまま谷底へ突っ込んだわけではない。

別部隊を動かし、側面や南側から圧力をかける。

ゲリラ側が出口へ動くよう仕向ける。

狭い谷の中では、少人数のレンジャーであっても、複数方向から接近すればチェ側は自由に移動できなくなる。

最初の脱出|南へ抜けようとして火力を受ける

チェたちは包囲が完成する前に谷から抜ける必要があった。

米陸軍特殊作戦史では、ゲリラ側が南側へ脱出を試みた際、プラド大尉が配置していた迫撃砲と機関銃による射撃を受けたとしている。

ここでチェが負傷した。

右脚のふくらはぎ付近に傷を負ったとされる。

さらに、使用していたカービンも射撃できない状態になった。

史料によって「被弾した」「故障した」と細部には表現差がある。

しかし、捕縛時にチェの主武器が有効に使えなかったという点では複数の記録がおおむね一致する。

チェのカービンは撃てなかったのか

FACT CHECK|チェの武器は本当に使用不能だったのか?

米陸軍特殊作戦史では、脱出時の戦闘でチェのM1系カービンが銃撃によって損傷したと記載している。

National Security Archiveによる機密解除資料の整理では、
チェのカービンは故障または被弾によって使用できなくなり、
拳銃にも使用可能な弾薬がなかったとされる。

細かな武器型式や故障原因について資料差はあるため、
本記事では、
「捕縛直前、チェは主武器を有効に使用できる状態ではなかった」
という範囲を確実な部分として扱う。

狭い谷では航空支援も使えなかった

プラドは戦況をバジェグランデの第8師団司令部へ無線で報告した。

支援用の航空機も向かった。

米陸軍特殊作戦史では、機関銃とナパーム爆弾を搭載したAT-6機がサンタクルスから発進したとしている。

しかし谷は狭く、斜面は急だった。

しかも政府軍とゲリラが近距離で入り乱れている。

このため航空攻撃は実施できなかった。

最終的には歩兵同士の近距離戦闘になった。

この点でも、「米軍の空爆でチェが追い詰められた」というイメージとは異なる。

レンジャー隊が谷底へ入る

周辺の谷を掃討していたレンジャー部隊がEl Churoへ入り始めた。

手榴弾などを使いながらゲリラ側を押す。

チェ側はさらに後退した。

南へ抜けることは難しい。

北側も塞がれている。

残る選択肢は、急斜面を登って谷の上へ逃げることだった。

チェはすでに脚を負傷している。

喘息も長期間悪化していた。

それでも、シモン・クーバ・サラビア――コードネーム「ウィリー」に助けられながら斜面を登った。

チェは最後まで部隊全員と一緒だったわけではない

戦闘後の記録を読むと、「チェを中心に17人全員が最後まで一団となって包囲され、その全員が捕らえられた」という状況ではない。

一部のゲリラは戦闘の早い段階で包囲を抜けた。

別の者は谷の中で死亡した。

チェはウィリーら少数とともに脱出を試みた。

つまり最後の数十分は、組織された17人の部隊というより、

分断された小グループが、それぞれ出口を探す戦闘

へ変わっていた。

指揮官であるチェ自身も、他のグループがどこまで逃げられたのかを把握できない状態だったと考えられる。

斜面を登った先に、2人のレンジャー兵がいた

米陸軍特殊作戦史の再構成では、チェとウィリーは谷から斜面を登り、プラド大尉の指揮所に近い場所まで到達した。

そこには監視位置についていた2人のボリビア兵がいた。

兵士たちはすぐには発砲せず、2人が近づくまで待った。

距離が十数フィート程度まで縮まったところで姿を現し、投降させたとされる。

チェが捕らえられた地点は、プラドの指揮所から十数メートル程度だったという。

大規模な銃撃の中心で倒れたのではない。

谷から抜けようとして斜面を登り、包囲線の一角に出たところで捕らえられた。

誰がチェを捕らえたのか|CIAでも米軍でもない

FACT CHECK|チェを実際に捕縛したのは誰か?

ボリビア陸軍第2レンジャー大隊の兵士である。

CIAの10月9日付戦闘報告も、
チェとみられる人物が
「Bolivian Second Rangers」
によって捕らえられたと記録している。

米陸軍特殊部隊はこの第2レンジャー大隊を約19週間訓練したが、
10月8日のユロ渓谷で直接チェを捕らえたわけではない。

CIA契約要員フェリックス・ロドリゲスも、
戦闘開始時にはバジェグランデのレンジャー大隊本部側におり、
チェ本人と接触するのは捕縛後である。

したがって、
「米国支援で訓練されたボリビア第2レンジャー大隊が、チェを戦闘で捕縛した」
と表現するのが最も正確である。

「私はチェ・ゲバラだ」|捕縛直後の発言はどこまで確実か

捕縛場面については、後年の回想や伝記で多くの台詞が紹介されている。

「撃つな、私はチェだ」

「生きたチェは死んだチェより価値がある」

といった有名な表現もある。

しかし、こうした細かな台詞は資料によって表現が異なる。

米陸軍特殊作戦史では、プラド大尉から身元を問われた際、チェが自分の名を認めたという趣旨の記録を採用している。

一方、戦闘直後のCIA電報は、捕らえられた人物がチェ本人である可能性は高いものの、当初はまだ最終確認前として報告している。

そのため本記事では、

「捕虜となった人物は自らチェ・ゲバラであることを認めたとされるが、細かな台詞の一字一句までは確定しない」

と整理する。

13時から17時ごろ|CIAの最初の報告

10月9日付のCIA情報電報は、戦闘直後の状況を比較的簡潔に記録している。

10月8日13時ごろ、第2レンジャー大隊とゲリラ隊が衝突。

戦闘は17時ごろまで続いた。

ゲリラ側3人死亡。

2人捕虜。

捕虜の1人がチェ・ゲバラである可能性が高い。

レンジャー側は2人死亡、4人負傷。

残存ゲリラはまだ谷の周辺に包囲されている。

ただし、この電報が書かれた段階ではワシントン側も情報を完全には確認できていなかった。

実際、10月9日にウォルト・ロストウがジョンソン大統領へ送ったメモでも、チェ捕縛情報をまだ「暫定的」として扱っている。

つまり現在から見れば確定した歴史でも、当日の米政府内では情報確認が続いていた。

捕縛時、チェは瀕死だったのか

ボリビア軍が後に行った公式説明では、チェは戦闘中に重傷を負い、その傷によって死亡したという説明が使われた。

しかしCIA長官ヘルムズの10月11日付内部メモは、これと異なる。

チェには脚の傷があった。

しかしそれ以外の状態は比較的良好だったとしている。

さらに10月13日の別のCIAメモでは、翌朝ラ・イゲラの学校でチェが意識を保ち、質問にも応答していたことが記録されている。

つまり10月8日夕方の時点で、

チェは負傷した捕虜ではあったが、戦闘傷で死亡寸前だったとは言いにくい。

FACT CHECK|チェは「戦闘の傷が原因で翌日死亡した」のか?

機密解除された米政府文書とは一致しない。

CIA長官リチャード・ヘルムズの10月11日付メモでは、
チェは10月8日に脚を負傷して捕らえられたものの、
その他の状態は比較的良好だったとされる。

10月9日朝にも意識があり、CIA系要員との会話が記録されている。

したがって、
「10月8日の戦闘で致命傷を負い、そのまま自然に死亡した」
という説明は、現在確認できる米政府内部資料とは整合しない。

実際の死亡経緯は次の第9回で扱う。

日没まで、戦闘は続いていた

チェが捕らえられたからといって、その瞬間に戦闘全体が終わったわけではない。

谷にはまだ別のゲリラが残っていた。

レンジャー隊は午後も捜索を続けた。

一部のゲリラは包囲を突破し、その後数日間逃走を続けることになる。

チェ本人はプラド大尉の指揮所付近で拘束された。

戦闘終了と日没を待ち、捕虜をラ・イゲラへ移送する準備が行われた。

米陸軍特殊作戦史では、夕方、チェとウィリーはボリビア兵に連れられ、約2キロ離れたラ・イゲラまで歩かされたとしている。

そこには小さな学校があった。

チェはその一室へ入れられた。

戦闘員として過ごした最後の夜は、その教室で始まった。

10月8日の流れ|最後の約1日

時刻・時期 出来事 意味
10月7日夕方〜夜 チェの部隊が地元住民から周辺集落の情報を得て移動 日記最後の日。部隊はユロ方面へ入る
10月8日 6:30ごろ 地元農民から「17人が谷へ入った」とレンジャー側へ情報 ゲリラ位置を具体的に絞り込む
午前 レンジャー各部隊が谷の南北・周辺へ配置 脱出経路を封鎖
13:00ごろ 第2レンジャー大隊とゲリラ隊が交戦開始 最後の本格戦闘
午後 ゲリラ側が複数回脱出を試みる チェ負傷、武器使用不能
夕方まで チェとウィリーが斜面を登り、ボリビア兵に捕らえられる チェの自由行動が終わる
17:00ごろ CIA初期報告上の主要戦闘終了時刻 チェを含む捕虜2人、複数の死傷者
日没後 チェをラ・イゲラへ移送 学校内で一夜を拘束される

3月23日と10月8日|同じ「谷の待ち伏せ」でも立場が逆転した

CASE17を最初から読むと、10月8日の意味がより分かりやすい。

3月23日。

地形を知っていたのはゲリラ側だった。

政府軍が谷へ入り、待ち伏せを受けた。

ゲリラ側は敵の位置を先に把握し、攻撃する場所と時間を選ぶことができた。

10月8日。

今度は逆だった。

政府軍が住民から情報を得た。

無線で各部隊へ共有した。

谷の出口を塞いだ。

ゲリラ側は谷の中から出口を探す側になった。

1967年3月23日 1967年10月8日
情報優位 ゲリラ側 政府軍側
地形を選んだ側 ゲリラ側 政府軍側
待ち伏せされる側 ボリビア軍 チェの部隊
政府軍 対ゲリラ訓練不足 第2レンジャー大隊投入
チェ側 40人前後・基地あり 十数人・基地なし・補給断絶

チェを捕らえた最大の要因を、一人の兵士の射撃や一つの偶然だけに求めると、この変化を見落とす。

3月から10月までに、

政府側は情報・訓練・通信・兵力を増やした。

ゲリラ側は人員・通信・補給・支援網を失った。

10月8日は、その二つの変化が同じ谷の中で直接ぶつかった日だった。

チェ捕縛は「CIAの特殊作戦」でも「偶然の遭遇」でもなかった

第7回で見たように、CIAはチェ追跡へ深く関与していた。

押収文書を分析し、情報を整理し、現地要員を派遣した。

米特殊部隊は第2レンジャー大隊を訓練した。

しかし10月8日の直接的な捕縛過程を見ると、その中心はボリビア軍の現場作戦だった。

地元住民から情報を得る。

小隊長が無線で中隊長へ伝える。

複数部隊を谷の出口へ配置する。

歩兵が谷底へ入り、ゲリラを押し出す。

逃げてきたチェをボリビア兵が拘束する。

そこにCIA要員が直接指揮した空挺奇襲や、米兵による捕縛があったという史料ではない。

一方、米国支援がなければ同じ能力を持つ第2レンジャー大隊が同じ時期に存在したか、という問いは別である。

だから、

「CIAが捕らえた」

でも、

「米国は無関係だった」

でもない。

米国が能力形成と情報面を支援したボリビア軍が、現地の情報と自らの指揮系統でチェを捕らえた。

それが確認できる範囲で最も実態に近い。

まとめ|チェの最後の戦闘は、約4時間で終わった

1967年10月7日。

チェは最後の日記を書いた。

部隊は十数人まで減っていた。

外部との通信はほとんど失われ、周辺地理すら住民に尋ねながら進んでいた。

翌8日朝。

地元農民から第2レンジャー大隊へ、17人ほどの武装集団がEl Churo――ユロ渓谷へ入ったという情報が伝わった。

レンジャー側は無線で部隊を動かした。

谷の北側を塞ぐ。

南側を塞ぐ。

周辺の谷から別部隊を接近させる。

午後1時ごろ戦闘が始まった。

チェ側は包囲を抜けようとした。

その過程でチェは脚を負傷し、主武器も使えなくなった。

ウィリーとともに斜面を登り、谷の上へ出ようとしたところをボリビア兵に捕らえられた。

CIAの戦闘直後報告では、主要な戦闘は午後5時ごろまで続いた。

チェは死んでいない。

重篤な昏睡状態でもない。

脚を負傷していたが、意識のある捕虜だった。

日没後、彼はラ・イゲラへ連れて行かれた。

学校の小さな教室へ入れられた。

その夜、ボリビア軍上層部は、世界で最も著名な革命家の一人を生きたまま拘束している状態になった。

捕虜として裁判を行うのか。

ラパスへ移送するのか。

国外へ送るのか。

それとも、この場で殺すのか。

翌10月9日11時50分。

CIA内部文書によれば、ラ・イゲラにいる第2レンジャー大隊へ、ラパスのボリビア陸軍司令部から直接命令が届いた。

内容は、チェを殺害せよというものだった。

次の第9回では、生きたまま捕らえられたチェが、なぜ翌日処刑されたのか。誰が命令を出し、CIA要員フェリックス・ロドリゲスは何をし、なぜボリビア政府は最初「戦闘の傷で死亡した」と発表したのかを追う。

前の記事


第7回|CIAと米軍はどこまで関与したのか|グリーンベレー、第2レンジャー大隊、対ゲリラ支援

次の記事


第9回|チェ・ゲバラ処刑の命令はどこから来たのか|ラ・イゲラ、10月9日と秘密埋葬

CASE FILE 17|全10回

  1. 第1回|チェ・ゲバラ最後のボリビア戦役とは?|1966年潜入から1967年10月の捕縛・処刑まで
  2. 第2回|チェ・ゲバラはなぜボリビアへ向かったのか|キューバ離脱、コンゴの失敗、「大陸革命」構想
  3. 第3回|チェ・ゲバラはどうボリビアへ潜入したのか|偽名、ニャンカワス基地、ゲリラ隊の形成
  4. 第4回|ゲリラ隊はなぜ孤立したのか|ボリビア共産党、農民、都市支援網との亀裂
  5. 第5回|ボリビア戦役の戦闘はどう始まったのか|1967年3〜4月、基地発覚と政府軍との最初の交戦
  6. 第6回|なぜチェのゲリラ隊は崩壊したのか|部隊分断、補給難、タニア隊壊滅と追跡
  7. 第7回|CIAと米軍はどこまで関与したのか|グリーンベレー、第2レンジャー大隊、対ゲリラ支援
  8. 第8回|現在の記事:チェ・ゲバラはどう捕らえられたのか|1967年10月8日、ユロ渓谷最後の戦闘
  9. 第9回|チェ・ゲバラ処刑の命令はどこから来たのか|ラ・イゲラ、10月9日と秘密埋葬
  10. 第10回|映画『チェ 39歳 別れの手紙』はどこまで史実か|ボリビア日記・CIA文書と照合する

出典・参考資料

資料について:
1967年10月8日の戦闘について、チェ本人の日記は前日10月7日で終了しているため、
最終戦闘の詳細はボリビア軍側の記録、CIA同時代報告、
米陸軍特殊作戦史、後に機密解除された米政府文書を中心に再構成しています。
そのため、個々の兵士の移動、捕縛地点までの距離、
チェのカービンが「被弾した」のか「故障した」のかなど、
資料間で差がある細部は単一の確定事実として固定していません。
また後年広まったチェの有名な発言についても、
戦闘直後資料で一字一句を確認できないものは直接引用せず、
身元を認めたという範囲に留めています。
本記事では「誰がチェを捕らえたか」「捕縛時に生存していたか」という
複数資料で確認できる事実を優先しています。