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チェ・ゲバラはどうボリビアへ潜入したのか偽名、ニャンカワス基地、ゲリラ隊の形成

チェ・ゲバラはどうボリビアへ潜入したのか|偽名、ニャンカワス基地、ゲリラ隊の形成

革命・ゲリラ戦

1966年11月3日、ひとりのウルグアイ人がボリビアの首都ラパスへ入った。

旅券に記された名前は、アドルフォ・メナ・ゴンサレス

頭髪は薄く、額は広く見え、大きな眼鏡をかけている。数年前までキューバ革命の象徴として世界中の新聞に写真が掲載されていた、長髪とひげのチェ・ゲバラとは印象がまるで違った。

しかし、その人物こそチェ本人だった。

ゲバラはボリビアへ入ってからわずか数日後、首都から南東へ移動する。そして11月7日、ニャンカワス川周辺に用意されていた農場へ到着した。

この日、彼は日記の最初に「今日、新しい段階が始まる」という趣旨の一文を記している。

だが、「革命家が偽名で密入国し、ジャングルへ消えた」という映画的な印象だけでは、実際の作戦は見えてこない。

チェが到着する何か月も前から、ボリビアでは農場の購入、人員の潜入、都市部の連絡網、偽装身分の準備が進められていた。ニャンカワスの基地も、最初から完成された軍事キャンプではなかった。普通の農場に見える表側と、山中の秘密キャンプを分けながら、少しずつ武器・食料・通信設備を隠していく必要があった。

第3回では、世界的な著名人だったチェ・ゲバラがどのように別人へ姿を変え、ボリビアへ入り、ニャンカワスの農場をゲリラ戦の拠点へ変えていったのかを追う。

CASE FILE 17|チェ・ゲバラ最後のボリビア戦役特集(全10回)


  1. 第1回|チェ・ゲバラ最後のボリビア戦役とは?|1966年潜入から1967年10月の捕縛・処刑まで

  2. 第2回|チェ・ゲバラはなぜボリビアへ向かったのか|キューバ離脱、コンゴの失敗、「大陸革命」構想
  3. 第3回|現在の記事:
    チェ・ゲバラはどうボリビアへ潜入したのか|偽名、ニャンカワス基地、ゲリラ隊の形成

  4. 第4回|ゲリラ隊はなぜ孤立したのか|ボリビア共産党、農民、都市支援網との亀裂

  5. 第5回|ボリビア戦役の戦闘はどう始まったのか|1967年3〜4月、基地発覚と政府軍との最初の交戦

  6. 第6回|なぜチェのゲリラ隊は崩壊したのか|部隊分断、補給難、タニア隊壊滅と追跡

  7. 第7回|CIAと米軍はどこまで関与したのか|グリーンベレー、第2レンジャー大隊、対ゲリラ支援

  8. 第8回|チェ・ゲバラはどう捕らえられたのか|1967年10月8日、ユロ渓谷最後の戦闘

  9. 第9回|チェ・ゲバラ処刑の命令はどこから来たのか|ラ・イゲラ、10月9日と秘密埋葬

  10. 第10回|映画『チェ 39歳 別れの手紙』はどこまで史実か|ボリビア日記・CIA文書と照合する

この記事で分かること

  • チェ・ゲバラがどのような偽名・変装でボリビアへ入ったのか
  • 米情報機関は後にどの証拠から本人だと確認したのか
  • チェが到着する前から誰が作戦準備を進めていたのか
  • ニャンカワスの農場は何のために購入されたのか
  • 「カサ・デ・カラミナ」と山中のキャンプの関係
  • キューバ人とボリビア人はどのようにゲリラ隊へ集められたのか
  • 秘密基地にはどのような弱点が最初から存在していたのか

先に結論|チェ一人が秘密裏にボリビアへ入ったわけではない

チェ・ゲバラのボリビア潜入を本人だけに注目すると、「変装した革命家が一人で国境を越え、山中へ消えた」という物語になる。

実際の作戦はもっと組織的だった。

ゲバラ本人が到着する数か月前から、キューバ人の先遣要員、ボリビア人協力者、都市部の支援要員が動いていた。農場を購入し、候補地を調査し、物資を運び、現地人員を募集する。さらに、それらの動きを軍事作戦に見せないための「表向きの説明」も必要だった。

つまりニャンカワス作戦は、


チェの偽装入国
+都市部の支援網
+キューバ人先遣隊
+ボリビア人協力者
+農場という合法的な表向きの拠点
+山中の秘密キャンプ

という複数の層によって成立していた。

そして、この複雑さは強みであると同時に弱点でもあった。

一つの人物、一つの農場、一つの連絡経路が政府側に知られれば、そこから別の人物や物資、文書へつながる可能性があるからだ。

チェ本人より先に「作戦」がボリビアへ入っていた

1966年11月にゲバラ本人が到着した時点で、作戦はゼロから始まったわけではない。

準備にはキューバ人活動家とボリビア人共産主義者らが関与していた。

その中心となった人物の一人が、ボリビア人のロベルト・“ココ”・ペレドだった。兄弟のギド・“インティ”・ペレドとともにボリビア共産党に関係し、後にゲバラの部隊へ直接参加する。

キューバ側からも先遣要員が入った。

その一人がホセ・マリア・マルティネス・タマヨ、コードネーム「リカルド」である。さらに、キューバ革命以来の戦闘経験を持つハリー・“ポンボ”・ビジェガスらも、ゲバラに先行してボリビアへ入っていた。

彼らの仕事は、単に武器を持って待機することではない。

どこに基地を置くか。誰が農場を買うか。道路からどの程度離れているか。近隣住民からどの程度見えるか。都市部から人や物をどのように運ぶか。軍や警察に質問されたとき、何と説明するのか。

ゲリラ戦が始まる前には、こうした地味な準備が必要になる。

タニアは1964年からボリビアにいた

準備段階で特徴的な存在が、タマラ・ブンケである。

ゲリラ隊では「タニア」の名で知られるが、チェがボリビアへ入るよりかなり前の1964年から現地で活動していた。

彼女は「ラウラ・グティエレス・バウアー」という身分を用い、ボリビア社会の中へ入っていった。

その役割は山中で銃を持つことではなく、都市部で接点を作り、情報や人員の移動を支えることだった。

これはゲリラ組織にとって重要な役割である。

山中に数十人の武装兵がいても、外部と完全に切断されれば長期間は活動できない。食料、薬、衣服、通信、偽造文書、移動手段、追加人員、政治情報などを、都市部から何らかの形で供給する必要がある。

つまりニャンカワスには、目に見える「山の部隊」と、それを外側から支える「都市ネットワーク」が存在する想定だった。

この二層構造は、後にタニアの身元や連絡網が政府側へ知られていくことで大きな問題になる。

1966年、ニャンカワスの農場が購入された

秘密基地を作るためには、まず人間が合法的に出入りできる場所が必要だった。

そのために購入されたのが、ボリビア南東部、ニャンカワス川周辺にある広大な農場だった。

米陸軍特殊作戦史料の整理では、1966年6月ごろ、ペレド兄弟がニャンカワス近くの約3,000エーカーの農場を購入したとされている。

場所は石油産業と軍の拠点があるカミリから北へおよそ80キロ。人口密度が低く、山地と河川、森林が入り混じる地域だった。

人目につきにくい。

小部隊が訓練できる。

武器や物資を隠せる。

一見すると、ゲリラ基地には適しているように見える。

しかし、この土地には大きな矛盾もあった。

革命運動を広げるには人間が必要なのに、秘密を守るには人間が少ない場所の方が都合がいい。

ニャンカワスは後者には向いていたが、前者には必ずしも向いていなかった。

「カサ・デ・カラミナ」|秘密基地の玄関口になった農家

農場には、亜鉛メッキされた金属板の屋根を持つ建物があった。

スペイン語ではこの種の金属板を「calamina」と呼ぶことから、ゲリラ側は建物を「カサ・デ・カラミナ」――カラミナの家、あるいはトタン屋根の家と呼んだ。

ただし、この建物そのものがゲリラ全員の主キャンプだったわけではない。

ここは外部から来た人間や車両が接触しやすい農場部分にあり、奥地の秘密キャンプへ向かうための玄関口として使われた。

実際の武器、弾薬、通信設備、重要文書などは、より山中へ入った場所へ分散して隠す必要があった。

表側には「普通の農場」がある。

その奥には「軍事拠点」がある。

この二重構造が、ニャンカワス基地の基本だった。

農場には「合法的な顔」が必要だった

ここで問題になったのが、広大な土地を所有しているのに、そこで何をしているのかという疑問だった。

何十人もの男が出入りし、車で物資が運ばれ、農業らしい農業もしていなければ、周辺住民から見ても不自然である。

後に生き残ったインティ・ペレドの回想では、ゲバラは農場に農学技術者を置き、実際に農場として生産させる必要性を繰り返し訴えていた。

つまり、軍事基地を隠すためには、

「ここは本当に農場として使われている」

という合法的な外観が必要だった。

しかし、その体制は十分に構築できなかった。

土地があるだけで農業活動は乏しく、人の出入りだけが増えていく。この不自然さは後に秘密保持上の弱点になる。

近くに誰もいない――わけではなかった

ニャンカワスは人口の少ない地域だった。

しかし、「人口が少ない」と「誰にも見られない」は違う。

農場の近隣には住民や労働者がいた。道路を使えば運転手や商人と接触する。食料を購入すれば、誰かに顔を見られる。車を使えば車両そのものが記憶される。

山中へ数十人を完全に透明な状態で送り込むことはできない。

ゲリラ側も近隣住民を警戒していた。

先遣隊だったポンボの記録では、農場に強い関心を示す近隣人物について、秘密保持上の危険になる可能性が事前に指摘されている。

この問題は後の戦役を考えるうえで重要である。

基地の位置そのものがすぐ政府軍へ知られたわけではない。しかし、秘密基地が存在する地域では、日常の小さな接触が少しずつ情報を外へ漏らす。

秘密作戦は、一度も撃たなくても発見される可能性がある。

1966年10月末|チェは別人になった

作戦準備が進む一方、最も目立つ人物をどうボリビアへ入れるかという問題が残っていた。

チェ・ゲバラの顔は世界中に知られていた。

特徴的な長髪、ひげ、ベレー帽という姿のまま空港を通ることはできない。

そこで彼は外見を大きく変えた。

ひげを剃り、髪型を変え、大きな眼鏡をかける。写真では、よく知られたゲリラ指揮官というより、中年のビジネスマンや研究者のように見える。

使用した主要な偽名が、アドルフォ・メナ・ゴンサレスだった。

旅券上ではウルグアイ人として扱われた。

この変装がどの程度有効だったかは、結果から見れば明らかである。

彼は空港で即座に逮捕されることなくボリビアへ入った。

CIAは当時、チェがどこにいるのか分かっていなかった

ここは重要な点である。

後世から見ると、CIAはチェ・ゲバラを世界中で追跡し、ボリビア入国も最初から把握していたような印象を受けることがある。

しかし1966年当時、米情報機関にはゲバラの所在についてさまざまな噂が入っていた。

コロンビア、ベネズエラ、ドミニカ共和国など、複数地域にいるという情報が流れたが、確証はなかった。

米政府の機密解除文書には、1966年3月時点でもCIAが複数の矛盾する所在情報を検討していたことが残っている。

つまり、チェは有名人だったが、その行方を米国側がリアルタイムで完全に把握していたわけではない。

この情報の空白を利用して、ボリビア作戦は準備された。

1966年11月3日|アドルフォ・メナ・ゴンサレスがラパスへ

後にCIAが押収文書を分析した報告によれば、ゲバラが使用していた複数の旅券には異なる名前が記されていた。

ところが、旅券の写真と指紋を比較すると、同一人物のものだった。

さらに指紋は、CIAが以前から保有していたゲバラ本人の指紋資料とも一致した。

CIAの分析では、彼は1966年10月末にヨーロッパからマドリードを経てブラジルのサンパウロへ移動し、その後11月3日ごろラパスへ入った可能性が高いとされた。

ただし、この報告が作成されたのは1967年9月である。

つまり、

1966年11月の入国時にCIAが空港で本人確認したのではなく、約10か月後に押収された旅券・指紋などを逆向きに分析して潜入経路を再構成した

ということになる。

FACT CHECK|CIAはチェのボリビア入国を最初から知っていたのか?

確認できる資料からは、そうは言えない。

1966年にはゲバラの所在をめぐって複数の情報があり、CIA自身も確定できていなかった。

1967年になってボリビア治安部隊がゲリラ側の旅券、身分証明書、写真などを押収し、それをCIAが技術分析したことで、1966年末の移動経路がかなり具体的に再構成された。

したがって、より正確には、「チェは偽装身分で入国に成功し、その潜入経路の詳細は後に押収資料から米情報機関によって確認された」となる。

ラパスは標高3,600メートル超|潜入後もすぐ戦場には行かなかった

ボリビアの首都ラパスは、標高3,600メートルを超える高地都市である。

一方、ニャンカワスは国の南東側にあり、気候も地形も大きく異なる。

ゲバラがラパスへ入ったからといって、そのまま徒歩で秘密基地へ向かったわけではない。

都市部で接触を行い、そこから国内移動を経て南東部へ向かう必要があった。

移動する人間には偽名が必要になる。宿泊、交通、車両、同行者、それぞれに説明が必要になる。

武装ゲリラへ姿を変えるのは、基地に入ってからだった。

11月7日|ニャンカワスへ到着、「新しい段階」が始まった

1966年11月7日、ゲバラはニャンカワスの農場へ到着した。

この日から『ボリビア日記』が始まる。

最初の記録は短い。

「新しい段階が始まる」という趣旨の言葉に続いて、夜に農場へ到着したこと、移動がおおむね問題なく進んだことなどが書かれている。

ここから、チェ・ゲバラという公的人物は完全に姿を消す。

部隊の内部では、彼は「ラモン」と呼ばれた。

以後約11か月、世界のニュースから見れば「行方不明の革命家」だった人物が、ボリビア南東部の山中で一小隊の指揮官として生活することになる。

ニャンカワスで最初に行ったのは「戦闘」ではなく基地工事だった

ゲバラが到着しても、すぐ政府軍への攻撃が始まったわけではない。

1966年11月から翌年初めにかけて行われたのは、基地整備と部隊形成である。

山中には人員が長期間生活できる空間が必要だった。

  • 寝泊まりする場所
  • 食料を保管する場所
  • 武器・弾薬を隠す場所
  • 医薬品を置く場所
  • 通信機材を置く場所
  • 重要文書や予備物資を隠す場所
  • 外から来た人間を受け入れる導線

さらに、発見された場合にすべてを一度に失わないよう、物資を複数地点へ分散する必要があった。

ゲリラ戦の基地は、普通の軍隊の駐屯地とは違う。

大きな建物を建て、目立つ倉庫へ武器を集めれば、それだけで秘密性を失う。

そのため、自然地形を利用しながら小規模なキャンプ、隠匿場所、通路を作っていった。

キューバ人は「外国人部隊」ではなく、将来のボリビア人部隊を作る中核だった

ニャンカワスへ集まった部隊には、多数のキューバ人が含まれていた。

ここだけを見ると、「キューバ人がボリビアへ侵入して戦争を始めた」と見ることもできる。

実際、後にボリビア政府は外国からの介入という側面を強調する。

一方、ゲバラ側の構想では、キューバ人が永続的に部隊の多数を占めることを理想としていたわけではなかった。

キューバ革命を経験した戦闘員を中核として、現地ボリビア人を訓練する。

そして最終的にはボリビア人自身が主力になり、運動を拡大する。

これが想定された形だった。

そのため、1966年夏からボリビア人の募集も進められていた。

問題は、予定した人数が十分集まるのか、そして政治的な指揮権を誰が握るのかだった。

この問題が12月末、ボリビア共産党書記長マリオ・モンヘのニャンカワス訪問によって表面化する。

1966年末|「秘密基地」は一応形になった

11月から12月にかけて、キューバ人メンバーが順次ボリビアへ入った。

一度に大人数で入国すれば疑われるため、個別または小グループで移動し、最終的にニャンカワスへ集まっていく。

ゲバラの日記からは、11月末の段階で本人が潜入そのものを比較的順調と評価していたことが分かる。

チェ本人は無事入国した。

キューバ側の主要メンバーも到着しつつある。

農場は辺境にあり、現時点では政府軍も来ていない。

この時点だけを見れば、秘密作戦は成功しているように見えた。

しかし、「人が入れた」ことと「革命戦争を始められる」ことは同じではない。

まだボリビア人の人数は十分ではなく、都市部との支援線も完成していなかった。そして何より、ボリビア共産党との関係が確定していなかった。

人数より重要だった「誰が指揮するのか」

ゲリラ組織には武器と人員だけでなく、指揮系統が必要である。

ニャンカワスに集まった人間には、キューバ人、ボリビア共産党系、別系統の左派活動家など、異なる背景があった。

ゲバラは軍事部隊の最高指揮権を自分が持つ前提で準備していた。

しかし、ボリビア国内の共産主義運動を率いていた側からすれば、外国人であるゲバラが国内武装闘争を指揮することには政治的な問題がある。

この矛盾は、基地を作っている間は表面化しにくい。

実際に戦争を始めようとした瞬間、

「誰の革命なのか」

という問題になる。

1966年12月31日、ボリビア共産党書記長マリオ・モンヘがニャンカワスを訪れた。

そこでゲバラとの間に、武装闘争の指揮権をめぐる重大な対立が起きる。

この対立は、翌年のゲリラ隊が政治的に孤立していく重要な出発点となった。

詳しくは第4回で扱う。

秘密潜入は成功した。それでも作戦準備が成功したとは言えない

1966年11月時点の潜入作戦だけを評価すれば、かなり成功している。

世界的に顔を知られていたゲバラ本人は、偽装身分でボリビアへ入ることができた。

キューバ人の先遣隊も入った。

農場も確保した。

都市部には支援者がいた。

武器や物資を隠す山中キャンプも作り始めた。

政府軍はまだチェ本人の存在を把握していなかった。

工作活動として見れば、ここまでは機能していた。

しかし、戦略レベルでは別の問題が残っている。

準備項目 1966年末の状態 潜在的な問題
チェ本人の潜入 成功 偽造・偽装文書が押収されれば身元へつながる
農場確保 成功 農場としての合法的な外観が弱い
キューバ人中核 概ね集結 外国人比率が高く、政治的弱点になる
ボリビア人人員 一部参加 想定人数に達していない
都市支援網 存在 少数の人物への依存が大きい
ボリビア共産党 協力関係を調整中 指揮権をめぐる対立
地元農民との関係 ほぼ未形成 革命の社会的基盤がない

ここに、ボリビア戦役の重要な特徴がある。

軍事組織を秘密裏に国内へ作ることには成功したが、その組織を支える政治的・社会的基盤までは作れていなかった。

後に起きる崩壊は、政府軍との銃撃戦だけで説明できない。

地図で見る|ニャンカワスはラパスから遠く離れていた

ニャンカワスは、首都ラパスの近郊ではない。

ボリビア南東部、サンタクルス県とチュキサカ県の境界に近い山地で、カミリの北側に位置する。

この距離は秘密保持には有利だった。

首都の政治・警察機構から離れ、人口密度も低い。山と河川によって視界も限定される。

一方、同じ距離が補給と政治活動には不利になる。

都市部で人を募集しても、基地へ運ばなければならない。物資を買っても、長距離輸送が必要になる。鉱山労働者や政治組織と接触しようとしても、そのたびに山から外へ連絡しなければならない。

ニャンカワスの地理は、

「隠れるには便利だが、革命を広げるには不便」

という二面性を持っていた。

ここで位置関係を確認しておく。
現在のGoogle MapはÑancahuazú川流域という現在地理を確認するために使い、
1966年当時の農場、カサ・デ・カラミナ、Camp #1 / #2の正確な配置や、
ラパスから基地までの実際の潜入経路を示すものではない。

Ñancahuazú川流域の現在位置。米陸軍特殊作戦史料は、ゲリラ農場をCamiriの約50マイル北に位置するÑancahuazú近郊としている。現在のGoogle Map上の一点を、1966年の農場・カサ・デ・カラミナ・Camp #1 / #2の正確な座標として扱わない。


Googleマップで大きく見る


U.S. Army Special Operations Historyの地図でLa Paz・Camiri・Ñancahuazúの位置関係を確認する

地図注記:
ニャンカワス・ゲリラ基地は1966〜67年当時の農場、山中キャンプ、隠匿地点など複数の場所から構成されていました。
現在の地図上の地名一点を、1966年の主キャンプや各施設の正確な座標として扱うことはできません。
本記事ではカミリ、Ñancahuazú川流域、ボリビア南東部という位置関係の把握を目的とします。

後から発見された旅券が、潜入作戦を逆向きに明らかにした

ニャンカワス潜入の詳細が今日まで比較的よく分かっている理由の一つが、ゲリラ側の文書が後に政府軍へ渡ったことである。

1967年8月、ボリビア治安部隊はゲリラ側が残した文書や物品を入手した。

その中には旅券、身分証明書、コード、写真などが含まれていた。

それらは米国側へ渡され、CIAの技術部門が分析した。

そこで分かったのが、異なる名前を持つ二つの旅券に同一の人物が存在することだった。

さらに指紋を過去のゲバラの資料と比較できた。

秘密作戦では、偽名は本人と文書の関係を切るために使われる。

しかし、複数の偽装身分がまとめて押収されれば、逆にそれらを比較することで同一人物へ戻すことができる。

1966年には潜入を成功させた偽装文書が、1967年には本人の潜入を証明する資料へ変わったのである。

まとめ|ニャンカワスは「ゲリラ戦が始まった場所」ではなく、戦争を作ろうとした場所だった

1966年11月の時点では、まだボリビア軍との本格的な戦闘は始まっていない。

ゲバラたちが行っていたのは、戦争そのものより、その前段階だった。

偽装身分を用意する。

人員を少人数ずつ入国させる。

農場を購入する。

山中へキャンプを作る。

武器、通信機材、食料を隠す。

都市部の協力者と連絡する。

現地の戦闘員を増やす。

それらを政府に気づかれないよう同時に進める。

その意味で、1966年末までの作戦は一定の成果を上げた。

チェ本人の正体は露見していない。政府軍もまだニャンカワスへ大部隊を送り込んでいない。ゲリラ側には時間が残されているように見えた。

しかし、その基地の中にはすでに問題があった。

ボリビア人は十分集まっていない。

地元農民との関係はほとんど形成されていない。

農場の合法的な外観も弱い。

都市支援は少数の協力者に依存する。

そして、最大の国内協力組織になるはずだったボリビア共産党とは、誰が軍事組織を指揮するのかという根本問題が残っていた。

1966年12月31日。

ボリビア共産党書記長マリオ・モンヘがニャンカワスへやって来る。

そこでゲバラと交わされた話し合いは、秘密基地を支えるはずだった政治的基盤を逆に弱めることになる。

次の第4回では、基地と武器を用意することには成功したチェのゲリラ隊が、なぜ戦闘開始前から政治的・社会的に孤立していったのかを追う。

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第2回|チェ・ゲバラはなぜボリビアへ向かったのか|キューバ離脱、コンゴの失敗、「大陸革命」構想

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第4回|ゲリラ隊はなぜ孤立したのか|ボリビア共産党、農民、都市支援網との亀裂

CASE FILE 17|全10回

  1. 第1回|チェ・ゲバラ最後のボリビア戦役とは?|1966年潜入から1967年10月の捕縛・処刑まで
  2. 第2回|チェ・ゲバラはなぜボリビアへ向かったのか|キューバ離脱、コンゴの失敗、「大陸革命」構想
  3. 第3回|現在の記事:チェ・ゲバラはどうボリビアへ潜入したのか|偽名、ニャンカワス基地、ゲリラ隊の形成
  4. 第4回|ゲリラ隊はなぜ孤立したのか|ボリビア共産党、農民、都市支援網との亀裂
  5. 第5回|ボリビア戦役の戦闘はどう始まったのか|1967年3〜4月、基地発覚と政府軍との最初の交戦
  6. 第6回|なぜチェのゲリラ隊は崩壊したのか|部隊分断、補給難、タニア隊壊滅と追跡
  7. 第7回|CIAと米軍はどこまで関与したのか|グリーンベレー、第2レンジャー大隊、対ゲリラ支援
  8. 第8回|チェ・ゲバラはどう捕らえられたのか|1967年10月8日、ユロ渓谷最後の戦闘
  9. 第9回|チェ・ゲバラ処刑の命令はどこから来たのか|ラ・イゲラ、10月9日と秘密埋葬
  10. 第10回|映画『チェ 39歳 別れの手紙』はどこまで史実か|ボリビア日記・CIA文書と照合する

出典・参考資料

  • U.S. Department of State, Foreign Relations of the United States,
    1964–1968, Volume XXXI, Document 168


    1967年に押収されたゲリラ側旅券、写真、指紋のCIA分析。
    異なる名義の旅券が同一人物のものであること、
    ゲバラ本人の既知の指紋と一致したこと、
    1966年10〜11月の欧州・ブラジル・ボリビア間の移動経路の推定に使用。
  • U.S. Department of State, Foreign Relations of the United States,
    1964–1968, Volume XXXI, Document 167


    1967年9月時点の米政府による押収資料分析と、
    ゲバラが1966年末に偽造・偽装文書を使用して
    ボリビアへ入ったとの評価を確認。
  • Ernesto Che Guevara, The Bolivian Diary

    1966年11月7日から始まる本人の日記。
    ニャンカワス到着、基地形成、人員集結、
    1966年11〜12月段階でのゲバラ自身の状況認識を確認する一次資料。
  • Robert W. Jones Jr.,
    “Today a New Stage Begins: Ernesto ‘Che’ Guevara in Bolivia,”
    Veritas / U.S. Army Special Operations History


    アドルフォ・メナ・ゴンサレス名義、
    ニャンカワス農場購入、
    カサ・デ・カラミナ、
    キューバ人・ボリビア人の組織形成、
    タニアを含む支援網の概要を確認。
  • Guido “Inti” Peredo,
    Mi campaña con el Che


    ニャンカワス農場の合法的な表向きの活動をどう作ろうとしていたか、
    農場運営と秘密保持の問題をゲリラ側参加者の視点から確認。
  • Harry “Pombo” Villegas などボリビア作戦参加者の記録・後年の研究

    ゲバラ到着前の先遣活動、ニャンカワス選定、
    周辺住民への警戒、基地準備の不完全さを補助的に参照。

資料について:
本記事では、ゲバラ本人の『ボリビア日記』をゲリラ側の行動・認識を確認する一次資料として使用し、
米国務省FRUSに収録されたCIA分析を、押収された旅券・写真・指紋および米政府が当時把握した潜入経路の確認に使用しています。
『ボリビア日記』は作戦当事者自身の記録であり、ゲリラ側の判断が客観的に正しかったことを保証する資料ではありません。
またCIA文書も、米情報機関が当時得た資料と分析を記録したものであり、記載された推定をすべて確定事実として扱うことは避けています。
農場面積、購入時期、準備要員など細部には資料間で差が見られるため、本記事では複数資料で概ね一致する範囲を中心に記述しています。