1976年6月27日。
エールフランス139便は、イスラエルのベン・グリオン空港を出発した。
目的地はフランス・パリ。
途中、ギリシャのアテネに立ち寄る定期便だった。
アテネでは新たな乗客が機内へ入った。
その中に、4人のハイジャック犯がいた。
139便がアテネを離陸してから、まだそれほど時間は経っていなかった。
4人は武器を取り出し、機体を制圧する。
パリへ向かっていた旅客機は進路を変えた。
最初の目的地はフランスでも、ウガンダでもなかった。
北アフリカのリビア――ベンガジだった。
CASE FILE 35|エンテベ空港奇襲作戦特集
第2回では、後の救出作戦からいったん離れ、エールフランス139便そのものを追う。
- 発生日:1976年6月27日
- 航空会社:Air France
- 便名:Flight 139
- 予定経路:テルアビブ → アテネ → パリ
- 実際の経路:テルアビブ → アテネ → ベンガジ → エンテベ
- ハイジャック犯:4人
エンテベ空港奇襲作戦特集|全10回
先に結論|4人はテルアビブから乗っていたのではない
エンテベ事件を理解するとき、最初に押さえておきたいのがここである。
139便はイスラエルのベン・グリオン空港を出発したが、ハイジャック犯4人はそこで搭乗したわけではない。
彼らが139便へ乗り込んだのは、途中寄港地のアテネだった。
イスラエルを出発した旅客機が、別の空港で新たな乗客を受け入れる。
そして、その新規搭乗者の中に武装した4人がいた。
したがって139便事件の最初の重要地点は、後に人質が拘束されるエンテベだけではない。
アテネ空港で何が起きていたのか。
ここから事件は始まっている。
テルアビブからパリへ向かう普通の定期便だった
139便は、テルアビブからパリへ向かうエールフランスの国際便だった。
使用されていたのはAirbus A300。
1976年6月27日の便は、テルアビブを出発した後、アテネで乗客を乗せ、そのままパリへ向かう予定になっていた。
後に公開されたイスラエル国会クネセトの資料では、アテネ出発時点の乗客・乗員は合計260人とされている。
ただし、この人数については資料差がある。
当時の報道や後年の研究では、乗客数について244人、246人、248人など異なる数字が掲載されている例がある。
このシリーズでは母数を無理に一本化せず、政府資料についてはクネセトの「乗客・乗員260人」を基本値として扱う。
アテネで4人が139便へ乗り込んだ
アテネでは多数の乗客が新たに139便へ搭乗した。
その中にいたのが、後に機体を乗っ取る4人だった。
4人のうち2人は西ドイツ人だった。
ヴィルフリート・ベーゼ(Wilfried Böse)と、
ブリギッテ・クールマン(Brigitte Kuhlmann)である。
両者は西ドイツの極左武装組織「革命細胞(Revolutionäre Zellen/RZ)」のメンバーだった。
残る2人はパレスチナ人で、パレスチナ解放人民戦線(PFLP)系の活動家だった。
つまり139便のハイジャックは、単一国籍・単一組織だけで構成された犯行ではない。
西ドイツの極左武装活動家と、パレスチナ系武装組織の構成員が共同して実行した事件だった。
問題は、4人が武器を持って機内へ入れたことだった
アテネで139便へ乗り込んだ4人は、機内で突然武器を調達したわけではない。
1977年に米国連邦地方裁判所で扱われた、139便乗客によるAir Franceへの訴訟記録にも、アテネで搭乗した4人が銃器と爆発物で武装していたことが記録されている。
つまり航空保安の観点で見れば、最も基本的な問題は、
「なぜ武装した4人が国際線へ搭乗できたのか」
という点にある。
後年の複数の事件研究では、当時のアテネ空港は保安体制が弱く、手荷物や金属探知のチェックが十分に機能していなかったとされる。
一部資料では、地上職員のストライキも当日の混乱を大きくしたと説明されている。
ただし、ここには注意が必要である。
「金属探知機に誰もいなかった」「X線監視員が画面を見ていなかった」といった具体的な描写は主として後年の再構成資料であり、今回確認できたイスラエル公文書館やクネセトの一次資料だけでは、その一つ一つまで裏付けられない。
確実に言えるのは、
4人がアテネから武装した状態で139便へ搭乗し、その後その武器を使って航空機を制圧した
というところまでである。
Evidence Ledger|アテネ空港の保安
| 内容 | 判定 |
|---|---|
| ハイジャック犯4人はアテネで139便へ搭乗した | FACT |
| 4人は銃器・爆発物を所持していた | FACT |
| 当時のアテネ空港は保安上の問題を抱えていた | LIKELY / 複数資料一致 |
| 当日のストライキが保安低下に直接影響した | LIKELY |
| 特定の検査担当者が職務を怠っていたという細部 | CLAIM / 二次資料依存 |
離陸後まもなく、機内の状況が一変した
139便はアテネを離陸した。
ここまでは通常の旅客便だった。
だが離陸後まもなく、4人は行動を開始する。
武器を取り出し、乗客と乗員を制圧した。
ベーゼは操縦室へ入り、機長のミシェル・バコスらに進路変更を命じた。
後年の複数の証言・研究では、この時ハイジャックされた機体には「Haifa One」という呼称が与えられたとされている。
乗客はパスポートを提出させられ、機内で自由に動くこともできなくなった。
ここでパリ行きの定期便は、人質を乗せたハイジャック機へ変わった。
最初に向かったのは、ウガンダではなくリビアだった
犯人側が最初に指定した目的地は、リビア東部のベンガジだった。
139便は地中海を南下し、ベンガジへ着陸する。
ここで機体は長時間地上に留まり、燃料を補給した。
米国CIAが事件直後の1976年6月29日に作成した情報資料でも、139便はベンガジに約8時間滞在し、給油した後にウガンダへ向かったと記録されている。
このベンガジ滞在は単なる寄港ではなかった。
アテネからエンテベまでは長距離になる。
大量の乗客を乗せたまま東アフリカまで飛行するため、ここでの給油が必要だった。
ベンガジで、1人の女性が解放された
ベンガジでは、人質のうち女性1人が機外へ出された。
当時のCIA資料は、彼女を体調を崩して医療を必要としていた英国人女性として記録している。
後年の証言では、流産を装った、あるいは出血を利用して重症に見せたなど、より具体的な経緯も語られている。
しかし細部については資料間に差がある。
そのため、ここでは確実に確認できる、
「ベンガジで女性人質1人が解放された」
という事実までを基準とする。
この女性から得られた情報は、後に事件対応側へ伝わることになる。
ただし、解放人質からどの情報がどのように集約され、作戦立案へ利用されたのかは、第5回でまとめて扱う。
給油を終えた139便は、さらに南東へ飛んだ
ベンガジを離れた139便は、パリへ戻らなかった。
地中海沿岸からさらにアフリカ大陸を南東へ進む。
その目的地が、ウガンダのエンテベ空港だった。
ベンガジからエンテベまでは2,000kmを大きく超える。
乗客からすれば、アテネを離陸した時点では数時間後にパリへ着く予定だった旅が、そのままアフリカ大陸の奥へ延びていったことになる。
139便は6月28日、エンテベへ到着した。
ここで乗客と乗員は航空機から降ろされ、空港のターミナル施設へ移される。
事件はここから第二段階へ入った。
エンテベには、さらに別の武装メンバーがいた
139便をアテネで乗っ取ったのは4人だった。
しかし、エンテベで人質を拘束したグループが最後まで4人だったわけではない。
現地では追加の武装メンバーが合流する。
さらに、人質の周囲にはウガンダ兵も存在した。
イスラエル側から見れば、状況は大きく変わっていた。
単純な航空機内のハイジャックであれば、問題は「犯人と航空機」である。
しかしエンテベでは、
- ハイジャック犯
- 追加された武装メンバー
- ウガンダ軍
- 空港施設
- 多数の人質
が一つの場所に集まった。
しかもイスラエルから約4,000km離れている。
この時点で、事件を航空機の中だけで解決する可能性はほぼ失われた。
なぜエンテベだったのか
139便がエンテベへ向かったことを、偶然の緊急着陸と考えると事件の構造を見誤る。
ウガンダでは当時、イディ・アミン政権が成立していた。
エンテベ到着後、ハイジャック犯は空港施設を使用し、人質はそこで数日間拘束されることになる。
さらにアミン本人も現場に姿を見せた。
後に解放された人質から得られた情報により、イスラエル政府はウガンダ側とハイジャック犯の関係について認識を変えていくことになる。
ただし、
ウガンダ政府は事件にどこまで関与していたのか。
アミンは仲介者だったのか、それとも犯人側に協力していたのか。
これは別の検証を必要とする。
第3回では、人質が旧ターミナルへ移された後の出来事とともに、この問題を公文書から追う。
139便ハイジャックの時系列
| 時点 | 場所 | 出来事 |
|---|---|---|
| 6月27日朝 | テルアビブ | Air France 139便がパリへ向け出発 |
| 6月27日 | アテネ | 定期寄港。新規乗客の中に4人のハイジャック犯がいた |
| アテネ離陸後 | 機内 | 4人が銃器・爆発物を使って機体を制圧 |
| 同日 | 地中海上空 | 機長へリビア・ベンガジへの進路変更を要求 |
| 同日 | ベンガジ | 着陸。数時間滞在し給油 |
| ベンガジ滞在中 | ベンガジ | 女性人質1人が解放される |
| その後 | アフリカ上空 | 139便がウガンダへ向け出発 |
| 6月28日 | エンテベ | エンテベ空港へ到着 |
| 到着後 | 旧ターミナル | 乗客・乗員が航空機から空港施設へ移される |
ルートを地図で見る
予定ルート
テルアビブ → アテネ → パリ
実際のルート
テルアビブ → アテネ → ベンガジ → エンテベ
※現在の空港位置を確認するための地図と、1976年当時の施設配置は別物である。特にエンテベ旧ターミナル周辺については、第5~7回で当時の資料を基準に扱う。
139便事件で最初に起きた「防護層の破綻」
エンテベ事件は、後半だけを見るとイスラエル軍の人質救出作戦として知られている。
しかし事件の出発点は軍事作戦ではない。
国際航空の保安である。
4人はアテネで旅客機へ搭乗した。
そして、銃器や爆発物を機内へ持ち込むことに成功した。
その結果、
搭乗検査で止めるべき脅威が機内へ入り、飛行中の航空機を制圧する段階まで進んだ。
ここが139便事件の最初の防護層の破綻だった。
しかし、この一点だけでエンテベ事件全体を説明することもできない。
ハイジャック後には、リビアでの給油、ウガンダへの長距離飛行、エンテベでの受け入れ、人質拘束という別の条件が重なっている。
一つの失敗がそのまま救出作戦を生んだのではない。
複数の出来事が連続した結果、139便はイスラエルから数千km離れた場所で、多数の人質を抱える事件へ変わっていった。
まとめ|アテネを離陸した瞬間には、目的地はまだ「パリ」だった
6月27日、139便はパリへ向かう普通の国際線としてテルアビブを出発した。
その予定を変えたのは、アテネから乗り込んだ4人だった。
2人の西ドイツ人と、2人のパレスチナ人。
彼らは武器を持って機内へ入り、アテネ離陸後に航空機を制圧した。
139便はリビアのベンガジへ向かい、そこで給油した。
そしてパリからさらに遠ざかり、ウガンダのエンテベへ飛んだ。
ここまでは航空機ハイジャック事件である。
しかしエンテベに到着し、人質が旧ターミナルへ移されたところから、事件の構造が変わる。
犯人だけではなく、ウガンダ軍とイディ・アミン政権が現場に入ってくる。
そして、人質の一部だけが解放され、別の人々が残されることになる。
次回は、
「なぜ人質は分けられたのか」
というエンテベ事件でも特に重要な問題を追う。
出典・参考資料
-
The Knesset
「Operation Entebbe」。1976年6月27日の139便ハイジャックと、事件後の政府・国会対応に関する公開資料。 -
Israel State Archives
「50 Years to Operation Entebbe (Operation Yonatan) – Special Publication」。2026年6月公開。事件発生から救出までの日別資料・政府文書。 -
Karfunkel v. Compagnie Nationale Air France, U.S. District Court, S.D. New York, 1977
139便乗客による訴訟記録。アテネで武装した4人が搭乗し、離陸後に機体を制圧、ベンガジからエンテベへ移動した基本経路を確認。 -
Jeffrey Herf, Cambridge University Press
『Undeclared Wars with Israel』Chapter 10 “The Entebbe Hijacking and the West German Revolutionary Cells”。西ドイツ人実行犯と革命細胞の関係確認に使用。 -
Central Intelligence Agency
1976年6月29日付、Air France 139便ハイジャックに関する機密解除済み情勢資料。ベンガジ滞在、給油、女性人質の解放、エンテベへの移動を確認。 -
Air & Space Forces Magazine
“Entebbe”。アテネ空港の保安状況に関する後年の再構成を補助資料として参照。
資料について:
事件直後の公文書でも搭乗者数、犯人組織の表記、ベンガジ滞在時間などに差がある。本記事では、発生日・経路・4人がアテネで搭乗したこと・武装して機体を制圧したこと・ベンガジで給油したこと・女性人質1人が解放されたこと・その後エンテベへ向かったことを高確度のFACTとして採用した。アテネ空港の検査担当者の具体的行動など、主として後年の再構成に依存する細部については断定していない。