1972年2月7日。
群馬県警察に、一台の不審な放置車両について届出が入った。
警察が捜査を進めると、榛名山中で雪に埋もれたアジトが見つかった。
そこから、あさま山荘事件へ続く追跡が始まる。
12日後の2月19日。
警察に追われていた連合赤軍のメンバー5人は、県境を越えた長野県軽井沢町で警察官に発見された。
そして、逃走の末に「あさま山荘」へ入る。
そこで管理人の妻を人質に取り、10日間続く籠城事件が始まった。
では、なぜ5人は軽井沢まで逃げていたのか。
そして、なぜ「あさま山荘」だったのか。
重要なのは、あさま山荘が最初から計画された「決戦場所」だったと考えないことである。
警察の公式記録から見えてくるのは、むしろ逆だ。
山岳地帯で維持していた潜伏網が次々と発見され、移動を続ける中で警察に発見された5人が、逃走の末に山荘へ入った。
あさま山荘事件は、2月19日に突然始まったのではない。
その前に、山中での潜伏が崩れていく過程があった。
先に結論|あさま山荘は「目的地」ではなく、追跡の終着点だった
警察庁の記録を基準にすると、5人があさま山荘へ至る流れは次のように整理できる。
1971年~1972年初頭
連合赤軍が山梨・神奈川・静岡・群馬などの山岳アジトを移動
↓
1972年1月
警察が神奈川県・丹沢山中の山岳アジトを発見
↓
1972年2月7日
不審な放置車両の届出から群馬県・榛名山中のアジトが発見される
↓
警察の追跡が強まる
連合赤軍メンバーが山岳アジトを離れて移動
↓
1972年2月19日
移動していた5人が警察官に発見される
↓
長野県軽井沢町・あさま山荘へ逃げ込む
↓
人質籠城事件へ
つまり、
「あさま山荘で事件を起こすために5人が集まった」
のではない。
少なくとも警察庁の公式記録は、そのようには説明していない。
記録されているのは、山岳アジトを引き払って移動していた5人が警察官に発見され、あさま山荘へ「逃げ込んだ」という流れである。
FACT CHECK|あさま山荘は事前に選ばれた籠城拠点だったのか?
警察庁の公式記録からは、そのような事前計画は確認できない。
『昭和48年 警察白書』は「軽井沢のあさま山荘に逃げ込み」、『昭和63年 警察白書』は「警察官に発見されたため、長野県軽井沢のあさま山荘に人質を取って立てこもり」と記している。
したがって本シリーズでは、あさま山荘を当初から予定された作戦拠点とは扱わず、追跡・逃走の結果として選ばれた場所として扱う。
そもそも、なぜ彼らは山の中にいたのか
ここを理解するには、連合赤軍がどのような状態にあったのかを最低限知る必要がある。
ただし、CASE37の中心は学生運動史でも、新左翼運動史でもない。
必要なのは、「なぜ警察が山を捜索し、なぜメンバーが逃げ続けていたのか」を理解する範囲だけである。
警察庁の整理によれば、連合赤軍は1971年、日共革命左派系と赤軍派が合流して成立した。
その後、メンバーは山梨、神奈川、静岡、群馬などの山岳地帯にアジトを置き、場所を移しながら活動していた。
山中で行われていたのは、単なる潜伏だけではなかった。
警察白書は、武闘訓練、爆発物製造、警察施設襲撃の準備などを目的として山岳アジトを使用していたと記録している。
つまり山岳地帯は、組織にとって外部の監視から離れて活動するための重要な拠点だった。
逆に言えば、警察にその場所を発見されれば、組織の活動基盤そのものが崩れる。
警察側も、すでに潜伏先を探していた
警察が2月7日に偶然すべてを知ったわけではない。
それ以前から、過激派組織のアジトや指名手配中のメンバーを発見するための捜査が続けられていた。
警察庁によれば、1971年暮れには、アパートや貸間など潜伏が予想される場所を一軒ずつ確認する、いわゆる「アパート・ローラー作戦」が本格化していた。
同年11月には、赤軍派や日共革命左派の関係者計10人が重要指名手配被疑者として全国に特別手配されている。
1972年1月になると、神奈川県の丹沢山中でも連合赤軍の山岳アジトが発見された。
山岳地帯だから警察の手が届かない、という状況ではなくなり始めていた。
そして2月7日、さらに大きな転換点が訪れる。
2月7日|一台の放置車両から榛名山のアジトが見つかった
警察庁『昭和48年 警察白書』が、あさま山荘事件の直接的な始まりとして記録しているのがこの日である。
群馬県警察に、一般人から不審な放置車両について届出があった。
警察がそこから捜査を進め、榛名山中を調べた。
雪の中から発見されたのは、連合赤軍が使用していた山岳アジトだった。
それまで山中に隠されていた拠点が、一般人からの一件の届出を端緒として警察に発見されたことになる。
警察白書は、その後について簡潔にこう整理している。
連合赤軍の一味は「警察の急追を受けることとなった」。
この一文が重要である。
2月19日に5人が山荘へ入るまでの12日間は、独立した二つの出来事ではない。
榛名山中のアジト発覚によって山岳潜伏を維持することが難しくなり、その後の追跡が、軽井沢での籠城へつながっていく。
「山岳ベース事件」は、この時点ですでに起きていた
ここで時間軸に注意したい。
榛名山などの山岳アジトでは、それ以前に連合赤軍内部で重大な事件が起きていた。
後に「山岳ベース事件」と呼ばれる一連の内部殺人である。
警察庁の後年の整理では、連合赤軍のメンバー29人のうち12人が、1971年末から1972年初めにかけて、「総括」や「処刑」などの名の下に死亡させられたとされている。
遺体は山中に埋められていた。
ただし、ここで現在の知識を1972年2月上旬へそのまま持ち込んではいけない。
山中で何が行われていたのかという後世から見た全貌と、警察がアジトを追跡していた時点で把握していた情報は、分けて考える必要がある。
本シリーズでも、山岳ベース事件の詳しい経緯をこの回で再現することはしない。
CASE37で重要なのは、
内部で事件が起きた山岳拠点そのものが警察の捜査によって維持できなくなり、残ったメンバーが移動を余儀なくされていった
という点である。
資料上の注意|「その時点で何が知られていたか」
警察白書は事件解決後に作成された資料であるため、山岳ベース事件の犠牲者数や内部で行われていた行為も結果を知った状態で整理されている。
したがって、1972年2月7日時点の警察官や一般社会が、後に判明する全情報をすでに共有していたかのような描写は避ける。
山岳アジトは、一つだけではなかった
「山岳ベース」という言葉から、一つの秘密基地に全員が集まっていたように感じるかもしれない。
実際にはそうではない。
警察庁は、連合赤軍が山梨、神奈川、静岡、群馬などの山岳アジトを転々としていたと記録している。
これは捜査する側から見ると厄介な構造だった。
一つの拠点を発見しても、そこに全員がいるとは限らない。
別の山へ移動すれば、再び所在を追わなければならない。
一方、逃げる側にも問題がある。
アジトが一つずつ発見されれば、移動できる場所は減っていく。
潜伏を続けるには、食料、装備、移動手段も必要になる。
そして警察が捜索範囲を広げれば、移動そのものが発見の機会になる。
山中に隠れることによって成立していた環境が、捜査の進展によって徐々に失われていった。
2月中旬|組織は急速に追い詰められていく
榛名山のアジト発見後、警察の捜査は続いた。
後年の警察白書は、この時期の5人について、
「山岳アジトを引き払って移動中」
だったと記している。
この表現から分かるのは、少なくとも彼らが安定した拠点にとどまっていたわけではないということだ。
山岳地帯を拠点としていた組織が、その拠点を失って移動している。
警察はその所在を追っている。
そして移動中のメンバーが次々と警察に発見されていく。
この状態で残った5人が軽井沢方面へ至った。
最後に残った5人は誰だったのか
2月19日にあさま山荘へ入ったのは、次の5人である。
| 人物 | 当時の年齢 |
|---|---|
| 坂口弘 | 25歳 |
| 坂東国男 | 25歳 |
| 吉野雅邦 | 23歳 |
| 加藤倫教 | 19歳 |
| 加藤元久 | 16歳 |
警察庁『昭和48年 警察白書』は坂口弘、吉野雅邦、坂東国男ら5人を検挙したと記録しており、事件50年に際してまとめられた資料でも5人の構成が確認できる。
ここで注意したいのは、5人の年齢である。
最年少は16歳だった。
後世に「あさま山荘事件の犯人グループ」と一括して記憶される5人も、年齢や組織内での位置づけは同じではなかった。
ただし、その個人史を詳しく追うことは今回の目的ではない。
重要なのは、彼ら5人が2月19日までに山中の安定した潜伏場所を失い、警察の追跡下で移動していたという状況である。
2月19日|5人が警察官に発見された
そして2月19日。
警察庁の後年の記録は、山岳アジトを引き払って移動していた5人が警察官に発見されたと記している。
ここから、あさま山荘事件へ直接つながる。
5人は逃走し、長野県軽井沢町にあった「あさま山荘」へ入った。
山荘には、管理人の妻が一人で留守番をしていた。
警察庁によれば、5人は彼女をロープで拘束して人質にし、家具などを利用してバリケードを築き、壁には銃眼を設けた。
この瞬間、警察が直面する事件の種類が変わった。
2月19日まで
指名手配者・連合赤軍メンバーの追跡
↓
2月19日
5人が建物へ逃げ込む
↓
一般人を人質にする
↓
銃器・爆発物を持って籠城
↓
人質立てこもり事件へ
警察にとって、ここからは単純な追跡ではない。
逃げる5人を捕まえるだけなら、追跡を続ければいい。
しかし山荘内には人質がいる。
強く追い詰めれば、人質が危険にさらされる可能性がある。
あさま山荘へ入ったことで、追われる側だけでなく、追う側の条件も大きく変わったのである。
なぜ「軽井沢」だったのか
この疑問について、公式記録から言えることには限界がある。
警察白書は、5人が軽井沢のあさま山荘に「逃げ込んだ」と記録している。
しかし、
- 何日前から軽井沢を目的地としていたのか
- 最初からあさま山荘を知っていたのか
- 山荘を籠城に適した建物として事前に選んでいたのか
といった細部までは、警察白書だけでは確認できない。
後年の当事者回想や事件史にはより詳しい移動経路が記されているが、それらは公式記録とは資料の性質が異なる。
したがって、本記事で確実に言える範囲はこうなる。
5人は山岳アジトを引き払って移動中に警察官に発見され、逃走した末、軽井沢のあさま山荘へ入った。
「なぜあさま山荘だったのか」を、後から見た建物の防御性だけで説明するのは危険である。
結果的に山荘は10日間の籠城に耐える場所となった。
しかし、「結果として防御しやすかったこと」と「事前に要塞として選んだこと」は同じではない。
FACT / CLAIMを分ける
FACT:5人は山岳アジトを引き払って移動中、警察官に発見され、あさま山荘へ逃げ込んだ。
FACT:山荘に入った後、管理人の妻を人質にし、バリケードと銃眼を設けた。
公式資料だけでは確定できない:あさま山荘を何日前から籠城場所として計画していたか。
本シリーズでは、この三つを混同しない。
山岳アジトの発見がなければ、あさま山荘事件は起きなかったのか
これは反実仮想なので、断定することはできない。
ただし、事件の因果関係として確実に確認できることはある。
警察庁自身が、あさま山荘事件の概要を説明する際、2月19日から話を始めていない。
その12日前、2月7日の榛名山中のアジト発見から記述を始めている。
つまり警察側の公式な事件整理においても、
アジト発見 → 急追 → 逃走 → あさま山荘
は一続きの流れとして扱われている。
山岳潜伏の崩壊こそが、5人を軽井沢へ追い出した直接的な前段階だった。
追跡の構造|「隠れる側」が不利になっていった
この一連の流れを、追跡という観点から整理すると分かりやすい。
| 段階 | 連合赤軍側 | 警察側 |
|---|---|---|
| 山岳潜伏 | 複数地域の山岳アジトを移動 | 指名手配・アジト探索 |
| アジト発見 | 拠点を失う | 丹沢、榛名などの拠点を発見 |
| 逃走 | 移動を続ける必要が生じる | 捜索・追跡を継続 |
| 2月19日 | 5人が警察官に発見される | 所在を捕捉 |
| あさま山荘 | 建物へ逃げ込み籠城 | 人質事件への対応へ切り替え |
山岳アジトにいる間、連合赤軍側には「所在を知られないこと」が大きな防御になっていた。
しかし、アジトが見つかれば動かなければならない。
動けば発見される可能性が高まる。
さらに別のアジトも発見されれば、次の移動先も失われる。
この循環によって、潜伏は次第に難しくなっていった。
最終的に5人が建物へ入り込んだことで、「隠れて逃げる」段階は終わる。
その代わりに始まったのが、警察と正面から対峙する籠城だった。
この時点では、まだ「10日間の事件」になるとは分からない
現在の私たちは、2月19日の後に何が起こるかを知っている。
警察が大規模な部隊を投入すること。
家族による説得が行われること。
山荘へ大量の放水が行われること。
鉄球が使用されること。
警察官2人が殉職すること。
そして2月28日に人質が救出されること。
しかし2月19日の時点で、それらはまだ起きていない。
山岳地帯で続いていた追跡の末に、武装した5人が一棟の山荘へ入り、そこにいた一般人が人質になった。
その瞬間に警察が突きつけられた問題は、非常に単純だった。
どうすれば、人質を殺さずに5人を逮捕できるのか。
この問いが、その後10日間の警察活動を決めることになる。
まとめ|2月19日は「逃走の終わり」と「籠城の始まり」だった
あさま山荘事件は、山荘から始めてしまうと構造が見えにくい。
その前には、山岳地帯での潜伏と警察の捜査があった。
1971年から1972年初頭にかけて、連合赤軍は複数地域の山岳アジトを移動していた。
一方、警察は指名手配者やアジトを追跡していた。
1972年1月には丹沢山中のアジトが発見される。
そして2月7日、不審な放置車両についての一般人からの届出を端緒として、榛名山中でも雪に埋もれたアジトが発見された。
警察の追跡を受け、メンバーは山岳アジトを離れて移動する。
2月19日、そのうち5人が警察官に発見された。
坂口弘、坂東国男、吉野雅邦、加藤倫教、加藤元久。
5人は逃走し、軽井沢のあさま山荘へ入った。
そして管理人の妻を人質にする。
ここまでが、あさま山荘事件の「前史」である。
山中を移動し続ける逃走は、ここで終わった。
代わりに、建物の中から警察と対峙する10日間が始まる。
次回は1972年2月19日、その日だけに焦点を当てる。
5人は山荘へ入った後、何をしたのか。
一般人が、どのように人質となったのか。
そして警察は、いつ「人質籠城事件」が始まったと認識したのか。
逃走が籠城へ変わった最初の数時間を追う。
CASE FILE 37|全10回
- あさま山荘事件とは何だったのか|10日間の籠城と人質救出の全体像
- なぜ連合赤軍5人はあさま山荘へ逃げ込んだのか|山岳アジト発覚から軽井沢まで【現在の記事】
- 2月19日、あさま山荘で何が起きたのか|人質確保と籠城開始
- 警察はなぜすぐ突入しなかったのか|「人質の安全」を最優先した包囲作戦
- なぜ籠城は10日間も続いたのか|厳寒・地形・銃器・山荘構造
- 説得はなぜ成立しなかったのか|家族の呼びかけと山荘内の断絶
- 2月28日の突入作戦はどう組み立てられたのか|放水・装甲車・鉄球
- 最終突入で何が起きたのか|殉職・負傷・人質救出・5人逮捕
- なぜ日本中がテレビに釘付けになったのか|生中継とカップヌードル
- あさま山荘事件は何を残したのか|裁判・警察装備・社会的記憶
今回出てきた言葉
- 山岳アジト
- 連合赤軍が山梨、神奈川、静岡、群馬などの山岳地帯に設けていた潜伏・活動拠点。警察庁は武闘訓練や爆発物製造、警察施設襲撃準備などに使用されていたと記録している。
- 榛名山
- 群馬県にある山域。1972年2月7日、一般人からの不審な放置車両の届出を端緒として、群馬県警察が山中の連合赤軍アジトを発見した。
- 山岳ベース事件
- 1971年末から1972年初めにかけて、連合赤軍内部で「総括」「処刑」などの名目の下にメンバー12人が死亡した一連の事件。あさま山荘での人質籠城事件とは区別して扱う。
- アパート・ローラー作戦
- 警察が過激派活動家などの潜伏場所を探すため、アパート、貸間、下宿などを一軒ずつ訪問して確認していった捜査活動。警察庁によれば1971年暮れから本格化した。
出典・参考資料
- 警察庁『昭和48年 警察白書』第7章「公安の維持」
1971年暮れ以降のアジト捜査、丹沢山中の山岳アジト発見、1972年2月7日の榛名山中アジト発見、警察による急追、2月19日のあさま山荘への逃走、連合赤軍の成立・山岳アジト利用状況について基準資料として参照。 - 警察庁『昭和63年 警察白書』第1章
山梨・神奈川・静岡・群馬などの山岳アジトを転々としていたこと、山岳アジトを引き払って移動中の5人が警察官に発見され、あさま山荘へ逃げ込んだという事件構造の確認に参照。 - nippon.com「あさま山荘事件:連合赤軍がたどり着いた悲惨な結末」
事件50年時点の整理として、あさま山荘に立てこもった5人の氏名・当時年齢などの補助確認に使用。
資料上の注意:
本記事では警察庁の公式記録を事件の骨格として使用しています。警察白書は警察側による事件後の整理であり、連合赤軍内部の意思決定や移動中の会話などを直接示す資料ではありません。そのため、公式資料で確認できない具体的な移動経路、発言、心理状態については事実として補完していません。
今回のFACT GATE:
「あさま山荘が当初から籠城場所として計画されていた」という前提は採用していません。公式資料が確認できるのは「山岳アジトを引き払って移動中に警察官に発見され、あさま山荘へ逃げ込んだ」というところまでです。