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ポル・ポト時代の大量殺害はすべて「ジェノサイド」なのかチャム人・ベトナム人迫害とECCCの認定

ポル・ポト時代の大量殺害はすべて「ジェノサイド」なのか|チャム人・ベトナム人迫害とECCCの認定

大量虐殺・人道犯罪

1975年から1979年のカンボジアについて調べると、
「カンボジア・ジェノサイド」
という言葉を頻繁に目にする。

約150万~200万人が死亡したとされる民主カンプチア時代を表す言葉として、書籍、報道、博物館、映像作品などでも広く使用されてきた。

しかし、法律上の「ジェノサイド」は、
大量の人が殺された事件をすべて意味する言葉ではない。

国際法では、対象となる集団の種類と、その集団そのものを全部または一部破壊しようとする特別な意図が必要になる。

そのため、同じクメール・ルージュ政権下で殺害された人々でも、

旧クメール共和国の軍人だったため殺された人。
「階級の敵」とみなされた人。
党内粛清でスパイと疑われた人。
仏教徒として迫害された人。
チャム人として標的になった人。
ベトナム人として標的になった人。

では、法的な評価が同じとは限らない。

今回はECCC、カンボジア特別法廷のCase 002/02判決を中心に、
なぜチャム人とベトナム人への犯罪がジェノサイドとして審理され、それ以外の大量殺害の多くは人道に対する罪などとして扱われたのか
を整理する。

CASE FILE 22|ポル・ポトと民主カンプチア特集(全10回)

この特集では、ポル・ポト個人の伝記としてではなく、
国家・組織・思想が社会をどう再編し、そのシステムがなぜ大量の死と迫害を生んだのか
を中心に1975~1979年のカンボジアを追います。


  1. 第1回 ポル・ポトと民主カンプチアとは?|クメール・ルージュ政権の1975–1979年

  2. 第2回 ポル・ポトはどう権力を握ったのか|カンボジア内戦からクメール・ルージュ政権成立まで

  3. 第3回 1975年4月17日、プノンペンで何が起きたのか|都市強制退去と「新人民」

  4. 第4回 民主カンプチアは人々の生活をどう統制したのか|協同組合・共同食堂・家族分離という社会改造

  5. 第5回 なぜ大量の死者が出たのか|強制労働・食糧不足・病気・処刑が重なった民主カンプチア

  6. 第6回 S-21とは何だったのか|トゥール・スレン、拷問、処刑とクメール・ルージュの党内粛清
  7. 第7回 ポル・ポト時代の大量殺害はすべて「ジェノサイド」なのか|チャム人・ベトナム人迫害とECCCの認定
    【現在の記事】

  8. 第8回 なぜ民主カンプチアは崩壊したのか|ベトナムとの国境戦争と1979年1月

  9. 第9回 犠牲者は何人だったのか|「キリング・フィールド」と死者数推計を資料から検証する

  10. 第10回 ポル・ポトはなぜECCCで裁かれなかったのか|1979年以後のクメール・ルージュと長い司法の道

先に結論|「大量殺害」と「ジェノサイド」は同じ言葉ではない

ジェノサイドという言葉は、日常語では「極めて大規模な虐殺」という意味で使われることがある。

しかし国際法上は、もっと限定された犯罪である。

ECCC法第4条は、1948年のジェノサイド条約に基づき、ジェノサイドを
国民的、民族的、人種的、宗教的集団を、全部または一部破壊する意図をもって一定の行為を行う犯罪
としている。

対象となる行為には、

  • 集団構成員を殺害すること
  • 重大な身体的・精神的危害を与えること
  • 集団を物理的に破壊するような生活条件を意図的に課すこと
  • 出生を妨げる措置を取ること
  • 子どもを別の集団へ強制移送すること

などがある。

ただし、それだけでは足りない。

最も重要なのが
「その集団を、その集団として破壊しようとする意図」
である。

人を大量に殺していても、標的が政治的反対者、社会階級、個人的な敵などである場合、それだけではジェノサイド条約上の対象集団にはならない。

犯罪類型 重要なポイント
ジェノサイド 国民的・民族的・人種的・宗教的集団を、その集団として全部または一部破壊する特別な意図が必要。
人道に対する罪 民間人に対する広範または組織的な攻撃の一部として、殺人、絶滅、奴隷化、拷問、迫害などを行う。
戦争犯罪 武力紛争下で、ジュネーブ諸条約など国際人道法に重大に違反する行為。

一つの行為が複数の犯罪類型に該当する場合もある。

重要なのは、
犠牲者の苦痛の大きさを順位付けするための分類ではなく、犯罪の構造と必要な法的要件が異なる
ということである。

なぜ「カンボジア人がカンボジア人を殺した」だけではジェノサイドにならないのか

民主カンプチアで死亡した人々の多数は、民族的にはクメール人だった。

そのため、

「自国民を大量に殺したのだからジェノサイドではない」

と説明されることがある。

これも正確ではない。

加害者と犠牲者が同じ国籍であるかどうかは、ジェノサイド成立を直接決める条件ではない。

問題なのは、
犠牲者がどの集団に属する者として標的となり、その集団を破壊する意図が存在したか
である。

たとえば同じ国家の国民でも、特定の民族集団や宗教集団を破壊する目的で殺害すれば、ジェノサイドになり得る。

逆に、数十万人が死亡していても、

元軍人だから。
政治的な敵だから。
「富裕階級」だから。
党への忠誠を疑われたから。

という理由で標的にされた場合、その属性はジェノサイド条約が保護する4種類の集団と一致するとは限らない。

だから、
死亡者数だけを見てジェノサイドかどうかを判断することはできない。

CPKは「均質な社会」を作ろうとした

Case 002/02でECCCは、CPK上層部が急速な社会主義革命を実施し、
無神論的で均質なクメール人労働者・農民社会へ人口を変える
という共通目的を持っていたと認定した。

そのための政策として、

  • 繰り返される人口移動
  • 協同組合と労働現場
  • 治安センターと処刑地
  • 特定集団への攻撃
  • 結婚の統制

などが実施された。

特定集団には、

チャム人。
ベトナム人。
仏教徒。
旧クメール共和国の軍人や公務員。

などが含まれていた。

しかし、この4つの集団に対して行われた犯罪が、すべて同じ法的分類になったわけではない。

ここから、チャム人とベトナム人を分けて見ていく。

チャム人とは誰なのか

チャム人は東南アジアに暮らす民族集団で、カンボジアにも長くコミュニティを形成してきた。

カンボジアのチャム人の多くはイスラム教徒で、

  • イスラム教の礼拝
  • モスク
  • コーラン
  • チャム語
  • 独自の衣服
  • 食習慣

などを持っていた。

クメール・ルージュ支配が強まるにつれて、これらの文化・宗教的な違いは圧力の対象となった。

ECCCで証言したチャム人ヒム・マンは、1975年以降、

髪型を変える。
頭を覆わない。
イスラム教の礼拝をしない。
宗教的慣行を続けない。
豚肉を食べる。

といった要求が出されたと証言している。

別の証言でも、

  • チャム語の使用禁止
  • 伝統衣装の禁止
  • モスクの閉鎖
  • コーランの焼却
  • イスラム教の礼拝禁止

などが語られている。

ECCCは、こうした宗教・文化的制限が民主カンプチア期の複数地域で行われたと認定した。

チャム人コミュニティを「ばらばらにする」

チャム人への政策は、宗教を禁止するだけではなかった。

1975年9~10月、コー・パルとスヴァイ・クレアンでは、クメール・ルージュの政策に抵抗するチャム人による反乱が発生した。

その後、東部地域のメコン川沿いなどに暮らしていたチャム人は移動させられた。

ECCCは、この人口移動について、
チャム人コミュニティを解体し、クメール人の村へ分散させ、カンボジア人口へ完全に同化させる目的
があったと認定している。

これは通常の人口移動とは意味が違う。

一つの村にまとまって住んでいれば、

言語を使える。

宗教を守れる。

モスクを維持できる。

文化を次世代へ伝えられる。

ところが、コミュニティを分解し、少人数ずつ別の村へ配置すれば、その集団としての生活を維持することは難しくなる。

ECCCは、
チャム人が個人ではなく、チャム集団の構成員であることを理由に標的にされた
と認定した。

文化弾圧から大量殺害へ

文化や宗教への弾圧そのものと、ジェノサイドによる殺害は区別する必要がある。

チャム語を禁止する。

宗教儀式を禁止する。

モスクを別用途へ変える。

それだけで自動的に「殺害によるジェノサイド」が成立するわけではない。

しかし、後の段階ではチャム人を集団として特定し、殺害する行為も確認された。

Case 002/02では、1977年にカン・ミアス地区の多数のチャム人がワット・アウ・トラクオンへ連行され、処刑されたと認定された。

さらに1978年、クロチ・チュマー地区のチャム人がトレア村治安センターへ連行された。

そこで重要だったのが、
その人がチャム人であるかどうかの確認
だった。

ECCCは、チャム人と判断された人々が処刑され、非チャム人は助命されたと認定している。

つまりこの場面では、

何をしたのか。
どの党に所属したのか。
犯罪を犯したのか。

ではなく、

「チャム人である」

こと自体が生死を分ける基準になった。

ECCCは、これらの場所で大量に殺害されたチャム人に対して、実行者側にジェノサイドの意図が存在したと認定した。

ただし「チャム文化の破壊すべて=ジェノサイド」と単純化しない

ここにも注意が必要である。

チャム人への犯罪について、ECCCはジェノサイドだけを認定したわけではない。

同時に、

  • 殺人
  • 絶滅
  • 投獄
  • 拷問
  • 政治的・宗教的迫害
  • 強制移送に相当する非人道的行為

などの人道に対する罪も認定した。

一つの迫害政策の中でも、法律上は複数の犯罪が同時に成立している。

「ジェノサイド」という一語ですべてをまとめるより、
何が行われ、それがどの犯罪に該当したのか
を分けて見る必要がある。

ベトナム人|最初は国外追放、後には「破壊」へ

ベトナム系住民への政策は、チャム人とは異なる経過をたどった。

ECCCは、1975年から1976年末まで、
カンボジア国内に暮らしていたベトナム系住民を国外へ追放する全国政策
が存在したと認定している。

クメール・ルージュ側はベトナム人を特定するため、名前や経歴などを調べ、その情報を上層部へ送った。

対象者はトラックや船などでベトナム国境へ移送された。

混合家庭でも、民族的な分類によって家族が分断された。

ECCCは、CPKがベトナム民族を母系によって判断していたとして、

ベトナム人の母親とその子どもを対象とし、クメール人の父親を残す。

一方で父親がベトナム人、母親がクメール人の場合には、父親を対象とし、母親と子どもを残す。

といった扱いがあったと認定した。

ここでも、個人が何をしたかではなく、
民族的な所属を行政的に確認し、それに基づいて処遇を決定する仕組み
が見える。

1977年以降、ベトナム人への政策はさらに変わる

1975~1976年の政策は主として追放だった。

しかしカンボジアとベトナムの関係が悪化し、国境で軍事衝突が激しくなるにつれて、ベトナム人への扱いはさらに過激化した。

ECCCは、
1977年4月以降、ベトナム人が集団として「破壊」の対象となった
と認定している。

1977~1978年には、

  • スヴァイリエン
  • カンボジア領海
  • コンポンチュナン
  • シェムリアップ
  • クラチェ

などでベトナム人住民の組織的な殺害が確認された。

ECCCは、これらが偶発的な個別事件ではなく、
ベトナム人を民族集団として標的にした組織的・大規模な殺害
だったと認定している。

S-21へ送られたベトナム人

第6回で扱ったS-21にも、ベトナム人の民間人や兵士が収容された。

ECCCによれば、数百人規模のベトナム人民間人・兵士がS-21で拘禁され、強制的な尋問を受けた後に殺害された。

ベトナム人囚人は到着した段階で「スパイ」「敵」と扱われた。

手続上、自分がスパイではないことを争う公正な裁判は存在しない。

尋問ではスパイであるとの自白を求められ、その後処刑された。

さらに、その自白の一部は民主カンプチアの宣伝に利用され、
「ベトナムがカンボジアを侵略している」
ことを示す材料として公表された。

ここでは、

民族的な敵視。
国家間の戦争。
治安システム。
宣伝。

が一つにつながっている。

仏教徒への迫害は、なぜ同じ「ジェノサイド判決」ではないのか

民主カンプチアでは仏教も大きな弾圧を受けた。

Case 002/02で審理されたトラム・カク地区では、

  • 仏教の実践禁止
  • 仏教シンボルの破壊
  • 寺院の宗教用途停止
  • 僧侶の強制還俗

などが認定された。

アンク・ロカ寺院では100人を超える僧侶が集められ、強制的に還俗させられた。

ECCCはトラム・カク地区全体で数百人の僧侶が還俗させられたことを示す信頼できる証拠があると認定した。

その結果として認定されたのは、
宗教を理由とする迫害という人道に対する罪
だった。

ここで重要なのは、

「仏教徒が迫害された事実が軽かったからジェノサイドにならなかった」

という意味ではない。

ジェノサイドとして有罪を認定するには、
仏教徒という宗教集団を全部または一部、物理的に破壊する特別な意図
まで証明する必要がある。

犯罪の重大さと、特定の犯罪類型の証明要件は別問題である。

旧クメール共和国関係者も大量に標的となった

旧ロン・ノル政権の軍人、警察、官僚などもクメール・ルージュの重要な標的だった。

1975年4月の政権掌握直後から、

以前の職業は何だったのか。
軍にいたのか。
警察だったのか。
政府関係者だったのか。

という経歴調査が行われた。

トラム・カクでは旧クメール共和国の軍人・警察官が選別され、連行されて消えた事例が認定されている。

1977年以降にも再び逮捕・殺害が行われた。

ECCCはこれを、
実際または疑われた旧政権との政治的関係を理由とする迫害
として、人道に対する罪と認定した。

つまり、多数が殺害されていても、
「旧政権関係者」という政治的分類はジェノサイド条約の保護集団ではない。

この違いが、「クメール・ルージュによる大量殺害をすべて一括してジェノサイドと呼べない」理由の一つである。

ではECCCは誰をジェノサイドで有罪にしたのか

ここは特に慎重に整理する必要がある。

Case 002/02の第一審判決は2018年11月16日に言い渡された。

被告人は、

  • ヌオン・チア
  • キュー・サムファン

だった。

第一審では、両者についてベトナム人に対するジェノサイドに関する責任が認定された。

一方、チャム人へのジェノサイドについては扱いが異なる。

ECCC第一審は、チャム人を殺害するジェノサイド犯罪そのものが存在したと認定した。

しかしキュー・サムファンについては、
チャム民族・宗教集団を破壊する特別な意図を本人が持っていたことを合理的疑いを超えて立証できなかった
として、チャム人ジェノサイドについて有罪とはしなかった。

ヌオン・チアについても、共同犯罪計画の一員としてチャム人を破壊する直接のジェノサイド意図までは認定されなかった。

ただし、ヌオン・チアは最高指導部でポル・ポトとともに意思決定権を持ち、部下を統制できる立場にあり、
チャム人へのジェノサイドが行われていた、または行われようとしていたことを知る理由があったのに防止・処罰しなかったという上官責任
によって、第一審でチャム人へのジェノサイドについて有罪とされた。

「第一審」と「最終判決」を分けなければならない

ここでもう一つ重要な注意点がある。

ヌオン・チアは第一審判決後に上訴したが、2019年8月4日、上訴審が終了する前に死亡した。

そのためECCC最高裁判部は、ヌオン・チアについて上訴手続を終了した。

第一審判決そのものが取り消されたわけではない。

しかし、
上訴審による最終的な有罪・無罪判断は出されていない。

したがって、

「ヌオン・チアのチャム人ジェノサイド有罪判決が最終確定した」

と書くのは正確ではない。

一方、キュー・サムファンの上訴は審理された。

2022年9月22日、ECCC最高裁判部はキュー・サムファンに対する終身刑を維持し、
ベトナム人を殺害したジェノサイドについての有罪認定を維持した。

そのため、ECCCで上訴審まで完了して確定したジェノサイド有罪判決として明確なのは、
キュー・サムファンのベトナム人に対するジェノサイド
である。

ポル・ポト本人はジェノサイドで有罪になったのか

ここも誤解されやすい。

ポル・ポトは民主カンプチアの最高指導者だった。

Case 002/02判決でも、ポル・ポトはヌオン・チアらとともにCPK上層部で共通目的を共有した主要人物として繰り返し登場する。

しかし、
ポル・ポト本人がECCCでジェノサイドの有罪判決を受けたわけではない。

理由は単純で、ECCCが本格的に活動を始める以前の1998年に死亡していたためである。

そのため、

「ECCCがポル・ポトをジェノサイドで有罪にした」

という表現は事実ではない。

ECCCは、ポル・ポトが率いた体制下の犯罪を審理し、その共犯者・後継指導者らの刑事責任を判断したのである。

FACT CHECK|「カンボジア・ジェノサイド」という言葉

よくある理解 資料から確認できる整理
約150万~200万人の死者全員が法律上のジェノサイド被害者 不正確。死亡には飢餓・疾病・強制労働・処刑などがあり、法的には人道に対する罪、戦争犯罪、ジェノサイドなど複数の犯罪類型が関係する。
大量殺害なら自動的にジェノサイドになる ならない。保護対象集団と、その集団を全部または一部破壊する特別な意図が必要。
同じ民族同士ならジェノサイドは成立しない 国籍が同じかどうかではなく、被害者が民族・宗教など保護対象集団として標的になったかが問題になる。
ECCCは民主カンプチアの犯罪すべてをジェノサイドと認定した 認定していない。チャム人・ベトナム人への犯罪の一部についてジェノサイドを認定し、その他には人道に対する罪などを認定した。
キュー・サムファンはチャム人ジェノサイドでも有罪になった なっていない。第一審はチャム人ジェノサイド犯罪の存在を認定したが、キュー・サムファン本人の特別なジェノサイド意図を必要な水準で認定できなかった。
ヌオン・チアのチャム人ジェノサイド有罪は上訴審まで確定した 第一審では上官責任により有罪とされたが、上訴中に死亡したため最終的な上訴判断は出ていない。
ポル・ポトはECCCでジェノサイドの有罪判決を受けた 受けていない。ポル・ポトは1998年に死亡しており、ECCCの被告人にはならなかった。

「ジェノサイドではない」ことは「軽い犯罪」という意味ではない

法的分類を説明すると、ときに誤解が生じる。

「ジェノサイドではない」

と書くと、その犯罪が軽いと言っているように見えるかもしれない。

そうではない。

人道に対する罪には、

  • 殺人
  • 絶滅
  • 奴隷化
  • 投獄
  • 拷問
  • 強制移送
  • 迫害
  • 強制結婚

など、極めて重大な犯罪が含まれる。

民主カンプチアでは、これらが広範囲に実行された。

旧政権関係者として処刑された人。

党内粛清でS-21へ送られた人。

協同組合で過労や疾病によって死亡した人。

それらの犠牲者がチャム人・ベトナム人へのジェノサイドより軽い被害だった、という意味ではない。

法律は、
どのような目的と構造によって犯罪が行われたかを区別している
のである。

なぜこの区別が重要なのか

民主カンプチアを一つの「狂気」で説明すると、

誰でも無差別に殺された。

という印象になりやすい。

しかし実際には、異なる分類が存在した。

新人民。

旧人民。

旧クメール共和国軍人。

知識人。

党内の「敵」。

ベトナム人。

チャム人。

仏教徒。

それぞれに異なる論理で監視・排除・迫害が行われた。

その中で、民族・宗教集団そのものを破壊しようとする意図まで確認された犯罪が、法律上ジェノサイドとなる。

この区別をすると、
民主カンプチアが単純な無差別暴力ではなく、人間を分類し、その分類に応じて異なる政策を適用する国家システムだった
ことが見えてくる。

そして、ベトナム人への敵視は国内迫害だけでは終わらなかった。

カンボジアとベトナムの国境では軍事衝突が激化する。

1977年以降、両国は事実上の全面戦争へ近づき、同時にクメール・ルージュ内部では
「ベトナムとつながった敵」
を探す粛清がさらに拡大する。

1978年には東部地域の大規模粛清が始まった。

そして同年12月、ベトナム軍がカンボジアへ大規模侵攻する。

わずか数週間後、プノンペンは陥落した。

次回は、
なぜ民主カンプチアは隣国ベトナムとの戦争へ進み、1979年1月に崩壊したのか
を追う。


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CASE FILE 22|全10回


  1. 第1回 ポル・ポトと民主カンプチアとは?

  2. 第2回 ポル・ポトはどう権力を握ったのか

  3. 第3回 1975年4月17日、プノンペンで何が起きたのか

  4. 第4回 民主カンプチアは人々の生活をどう統制したのか

  5. 第5回 なぜ大量の死者が出たのか

  6. 第6回 S-21とは何だったのか
  7. 第7回 ポル・ポト時代の大量殺害はすべて「ジェノサイド」なのか|チャム人・ベトナム人迫害とECCCの認定
    【現在の記事】

  8. 第8回 なぜ民主カンプチアは崩壊したのか

  9. 第9回 犠牲者は何人だったのか

  10. 第10回 ポル・ポトはなぜECCCで裁かれなかったのか

出典・参考資料

本記事は、ECCC Case 002/02の第一審判決・判決要旨・上訴審資料および証人証言を中心に構成しています。
「カンボジア・ジェノサイド」という一般的な歴史上の呼称と、1948年ジェノサイド条約およびECCC法に基づく法的なジェノサイド認定を区別しています。
また、ヌオン・チアはCase 002/02の上訴中に死亡したため第一審判断について最終的な上訴審判決がなく、キュー・サムファンについては2022年の上訴審でベトナム人に対するジェノサイド有罪認定が維持されています。