現実世界のCASE FILE 現実世界のCASE FILE

アイヒマン拘束は合法だったのかアルゼンチン抗議・国連安保理・エルサレム裁判へ

アイヒマン拘束は合法だったのか|アルゼンチン抗議・国連安保理・エルサレム裁判へ

逃亡・追跡・拘束

1960年5月23日。

イスラエル首相David Ben-Gurionはクネセトで、
Adolf Eichmannがすでにイスラエル国内で拘束されていると発表した。

15年間行方をくらませていたナチ戦犯が発見され、
イスラエルで裁判を受ける。

追跡作戦として見れば、
これは成功の発表だった。

しかしアルゼンチン政府から見れば、
まったく別の事実が明らかになったことになる。

外国の要員がアルゼンチン領内へ入り、
そこで生活していた人物をアルゼンチン当局の許可なく拘束し、
通常の犯罪人引渡し手続を経ずに国外へ連れ出していた。

Eichmannがナチ体制下で重大な犯罪に関与した人物であることと、
外国がアルゼンチン領内でこのような行為を行ってよいかという問題は同じではない。

1960年6月、
この問題は両国間の外交問題を超え、
国連安全保障理事会へ持ち込まれた。

そしてその後、
エルサレムで始まった裁判では、
さらに別の問いが突きつけられる。


仮にEichmannが違法な方法でイスラエルへ連れてこられたとしても、
イスラエルの裁判所は彼を裁くことができるのか。

CASE45最終回では、
1960年5月の作戦成功から、
アルゼンチンの抗議、
国連安保理決議138、
両国間の和解、
そしてエルサレム裁判までを追う。

CASE FILE 45

アドルフ・アイヒマン追跡・拘束作戦(全10回)

戦後15年間逃亡したAdolf Eichmannは、
どのように所在を特定され、本人確認され、
アルゼンチンで秘密拘束されてイスラエルへ移送されたのか。
最終回では、成功した作戦が生み出した外交・国際法上の問題と、
その後の裁判までを扱う。

先に結論|「裁かれるべき人物だった」と「捕まえ方が合法だった」は別問題

Eichmann事件を法的に整理すると、
少なくとも三つの問題を分ける必要がある。

問題 何を問うのか
① Eichmann本人の犯罪 ナチ体制下でどの犯罪に関与したのか
② アルゼンチンでの拘束・国外移送 外国要員が他国領内で秘密拘束することは許されるのか
③ イスラエル裁判所の裁判権 違法な方法で連れてこられた被告人をイスラエルで裁けるのか

この三つは連動しているが、
同じ答えにはならない。

国連安全保障理事会は、
Eichmannが重大犯罪で適切な裁判を受けるべき人物であることを否定しなかった。

その一方で、
国家主権へ影響する今回のような行為は
国際的摩擦を生じさせるとして問題視した。

つまり、


「Eichmannを裁くこと」への支持と、
「他国領内で無断で拘束すること」への批判は両立する。

この二つを分けたことが、
国連決議138を理解するうえで最も重要である。

5月23日|Ben-Gurionの発表で秘密作戦が公になる

Eichmannがイスラエルへ到着した後、
Ben-Gurion首相は1960年5月23日、
クネセトで拘束を公表した。

クネセトの公式資料によれば、
Ben-Gurionはイスラエルの治安機関がEichmannを追跡し、
現在はイスラエルで拘束されており、
イスラエル法に基づいて裁判を受けることになると説明した。

ここで世界は、
Eichmannが生存していたことだけでなく、
すでにアルゼンチンからイスラエルへ移されていることを知る。

しかし、
公表直後には
「どうやってアルゼンチンから来たのか」
という点が曖昧だった。

イスラエル側からは当初、
Eichmannが自発的な意思によってイスラエルへ来ることに同意したという説明も行われた。

だがアルゼンチン側は、
自国内で実際に何が起きたのか調査を進める。

アルゼンチンの問題は「Eichmannを守ること」ではなかった

ここは誤解されやすい。

アルゼンチンがイスラエルへ抗議したからといって、
Eichmannのナチ犯罪を擁護したことにはならない。

アルゼンチンが国際問題として提起した中心は、
自国の国家主権
だった。

外国の国家機関またはその関係者が、
アルゼンチン政府の承認を得ず、
アルゼンチン国内で実力を行使する。

これは、
その対象が誰であっても、
国家間の秩序に関わる問題になる。

たとえば、
A国が「重大犯罪者がいる」という理由で、
B国の警察へ知らせずB国領内へ要員を送り、
対象を拘束して自国へ連れ去ることが認められるなら、
各国が互いの領土内で独自に警察権を行使できることになってしまう。

国際法上、
国家主権が問題になるのはこのためである。

6月15日|アルゼンチンが国連安全保障理事会へ

1960年6月15日、
アルゼンチン代表は国連安全保障理事会議長宛てに書簡を送り、
Eichmann事件を正式に国連へ持ち込んだ。

国連資料では、
議題は
「Adolf Eichmannのイスラエル領域への移送がアルゼンチン共和国の主権侵害を構成するという申し立て」
として扱われている。

安全保障理事会では6月22日から23日にかけて審議が行われた。

ここでも焦点は、
Eichmannの無罪・有罪ではなかった。

問題は、
国家主権を侵害する形で外国から人間を連れ出す行為を
国際社会としてどう評価するかだった。

1960年6月23日|国連安保理決議138

1960年6月23日、
国連安全保障理事会は
決議138(S/RES/138)
を採択した。

投票結果は、
賛成8、反対0、棄権2。

ポーランドとソ連が棄権し、
当事国であるアルゼンチンは投票に参加しなかった。

決議の構造は非常に慎重だった。

まず安全保障理事会は、
国家主権へ影響を与え、
国際的摩擦を生じさせるような行為が繰り返されれば、
国際の平和と安全を危険にさらす可能性があるとした。

そしてイスラエル政府に対し、
国連憲章と国際法の原則に従った
「適切な補償(appropriate reparation)」を行うよう求めた。

さらに、
アルゼンチンとイスラエルの伝統的な友好関係が
改善されることへの希望を表明した。

しかし決議138は、Eichmannの犯罪を擁護していない

決議138には、
もう一つ重要な部分がある。

安全保障理事会は、
この決議が
Eichmannに आरोपされた忌むべき犯罪を
容認するものと解釈されてはならないと明記した。

つまり国連は、

  • Eichmannのナチ犯罪に対する国際的非難
  • Eichmannが適切な司法の場で裁かれるべきだという関心
  • アルゼンチン主権への侵害問題

を同時に扱った。

これは、
「ナチ戦犯だから何をしてでも連れてきてよい」
とも、
「拘束方法に問題があったからEichmannを裁いてはいけない」
ともしていない。

FACT CHECK|国連が「Eichmannをアルゼンチンへ返せ」と決議したわけではない

決議138はイスラエルに対して
「appropriate reparation」を求めた。

しかし、
Eichmann本人をアルゼンチンへ返還するよう明示的に命じた決議ではない。

またEichmannの犯罪を軽視したものでもなく、
決議自体が彼に आरोपされた犯罪を容認するものではないと明記している。

したがって、
「国連がEichmannの返還を命じた」
という説明は正確ではない。

8対0対2|誰がどう投票したのか

投票
セイロン(現スリランカ) 賛成
中華民国 賛成
エクアドル 賛成
フランス 賛成
イタリア 賛成
チュニジア 賛成
イギリス 賛成
アメリカ 賛成
ポーランド 棄権
ソ連 棄権
アルゼンチン 当事国のため投票せず

反対票はなかった。

この投票結果からも、
安全保障理事会の多数が、
Eichmann本人の犯罪とは切り離して、
アルゼンチンの主権問題を無視できないと判断していたことが分かる。

イスラエル側は何を認めたのか

この問題では、
「イスラエルが最初から国家作戦だったと全面的に認めた」
と単純化するのも注意が必要である。

国連審議や両国間交渉では、
拘束・移送に関わった人物の法的な位置づけ、
イスラエル政府の責任をどこまで認めるかが問題になった。

一方、
最終的な両国間の解決文書では、
行為そのものがアルゼンチン国家の基本的権利を侵害したことが明記される。

ここで重要なのは、
国家間では
「何が起きたか」を最後まで完全に一致させるより、
外交紛争としてどのように終了させるかが重視されたことである。

1960年8月3日|アルゼンチンとイスラエルは事件を「解決済み」とした

国連決議から約6週間後。

1960年8月3日、
アルゼンチンとイスラエルは共同コミュニケを出した。

この文書は、
6月23日の安全保障理事会決議を踏まえ、
両国間の伝統的な友好関係を改善する意思を示した上で、
Eichmann事件を
「解決済みとみなす」
ことを表明した。

共同コミュニケは、
イスラエル国民による行為が
アルゼンチン国家の基本的権利を侵害したことで生じた事件、
という形で問題を表現している。

これは後のエルサレム地裁判決でも引用された。

少なくとも国家間では、
ここで主権侵害をめぐる外交紛争は終結した。

FACT CHECK|アルゼンチンとイスラエルは裁判開始前に外交紛争を解決していた

国連安保理決議138は1960年6月23日。

両国の共同コミュニケは1960年8月3日。

Eichmann裁判の開始は1961年4月11日。

したがって、
エルサレムで刑事裁判が始まった時点では、
アルゼンチンとイスラエルの国家間紛争はすでに共同合意によって
「解決済み」とされていた。

それでもEichmann側は「イスラエルに裁判権がない」と争った

外交問題が終わっても、
刑事裁判には別の問題が残った。

Eichmannの弁護側は、
イスラエルの裁判所に彼を裁く権限がないと主張した。

論点は大きく二つあった。

  1. 犯罪はイスラエル建国以前、イスラエル国外で行われており、
    当時の被害者もイスラエル国民ではなかったのに、
    イスラエル法で裁けるのか。
  2. Eichmannは外国から違法に連行されたのだから、
    そのような方法で得た被告人をイスラエル裁判所が裁けるのか。

この二つも別問題である。

前者はイスラエル法の域外適用と国際犯罪に対する裁判権。

後者は違法な拘束・連行が裁判そのものを無効にするかという問題だった。

イスラエル法は建国前・国外の犯罪を裁けるよう作られていた

Eichmannが起訴された法的基盤は、
1950年制定の
Nazis and Nazi Collaborators (Punishment) Law
だった。

この法律は、
ナチ体制下および第二次世界大戦中に国外で行われた
「ユダヤ人に対する犯罪」
「人道に対する犯罪」
「戦争犯罪」などを
イスラエルの裁判所で扱うことを前提にしていた。

つまり、
通常の刑法のように
「イスラエル国内で、法律制定後に行われた犯罪」だけを対象とする法律ではなかった。

弁護側は、
このような遡及的・域外的な裁判権自体も争った。

エルサレム地裁はこれを退けた。

判決では、
対象となる犯罪が人類全体に対する極めて重大な国際犯罪であること、
さらにユダヤ人を標的とした犯罪とイスラエルとの特別な関係などを理由として、
イスラエルの裁判権を認めた。

そして最大の論点|違法に連れてきた被告人を裁けるのか

弁護側は、
Eichmannが1960年5月11日にアルゼンチンで拉致され、
強制的にイスラエルへ連れてこられた以上、
裁判所はその違法行為の結果を利用してはならないと主張した。

これに対するエルサレム地裁の判断は明確だった。

裁判所は、
被告人がどのような方法で裁判所の管轄下へ連れてこられたかは、原則として刑事裁判の裁判権を失わせない
とした。

判決は、
イギリス、アメリカ、旧パレスチナの判例を参照し、
不法な拘束や強制的な連行があったとしても、
被告人が実際に裁判所の管轄下に存在し、
その犯罪について裁判権があるなら、
連行方法だけを理由に裁判を拒否する必要はないという考え方を採用した。

この考え方は、
英米法系で
「male captus, bene detentus」
と整理されることがある。

簡略化すれば、

「違法に捕らえられたとしても、それだけで適法な裁判が不可能になるわけではない」

という考え方である。

違法な連行を「合法だった」と判断したわけではない

ここは最も重要な区別である。

エルサレム地裁は、
「アルゼンチンからの連行は完全に合法だったから裁判できる」
と判断したわけではない。

むしろ、
仮に国際法違反が存在したとしても、
それはアルゼンチンとイスラエルという国家間で解決すべき問題であり、
Eichmann本人がアルゼンチン国家の主権侵害を理由として
自分の刑事裁判を止めることはできない、
という構造で判断した。

さらに裁判所は、
1960年8月3日の共同コミュニケによって
アルゼンチンとイスラエルの国家間紛争がすでに解決されていたことも重視した。

判決は、
アルゼンチンが国家として持っていた主権侵害に関する請求が
両国の合意によって解決された以上、
その問題をEichmannが改めて自身の裁判権否定に利用することはできないとした。

FACT CHECK|「違法な拉致だったから裁判も違法」にはならなかった

エルサレム地裁は、
拘束・連行方法と刑事裁判の裁判権を分離した。

国家主権の侵害があれば、
それは関係国家間の国際法上の問題になる。

一方、
被告人が実際にイスラエル裁判所の管轄下にあり、
その犯罪について法律上の裁判権があるなら、
違法な連行だけを理由として刑事裁判そのものを無効にはしない、
という立場を採った。

これは「連行方法を合法と認定した」こととは異なる。

国際法の問題と個人の権利は同じなのか

Eichmann判決の考え方では、
アルゼンチン領内で外国人を秘密拘束したことによって直接侵害されたのは、
まずアルゼンチンという国家の主権だった。

その国家は抗議し、
国連へ問題を持ち込み、
最終的にはイスラエルとの交渉で事件を解決した。

このため裁判所は、
Eichmann本人が
「アルゼンチンの国家主権が侵害された」
ことを自分自身の免責理由として利用することを認めなかった。

ただし、
この考え方があらゆる国・あらゆる時代で無条件に採用されるという意味ではない。

国家によって、
違法な国外連行に関する判例や人権法上の扱いは異なる。

CASE45で確認するべきなのは、
1961年のEichmann裁判でイスラエルの裁判所が実際にこのように判断した
という事実である。

1961年4月11日|エルサレムで裁判が始まる

外交紛争が解決された翌年、
1961年4月11日、
Eichmann裁判がエルサレム地方裁判所で始まった。

Eichmannは15件の罪状で起訴された。

USHMMによれば、
その中には
ユダヤ人に対する犯罪、
人道に対する犯罪、
戦争犯罪、
犯罪組織への所属などが含まれていた。

裁判では、
Eichmann個人の行為だけでなく、
ナチ体制による迫害と大量殺害について、
大量の文書と生存者証言が提示された。

CASE45は追跡・拘束を扱うシリーズであるため、
裁判全体をここで再構成することはしない。

ただし、
追跡の最終的な目的が
「秘密裏に殺害すること」ではなく
「生きた状態で司法の場へ出すこと」
だった以上、
この裁判までがCASE45の終点となる。

1961年12月|有罪判決

1961年12月、
エルサレム地方裁判所は
Eichmannを主要な罪状について有罪とした。

Yad Vashemでは12月13日に大部分の罪状について有罪、
12月15日に死刑判決が言い渡されたと整理されている。

USHMMは、
12月11〜12日に有罪判断が示され、
15日に死刑を言い渡されたとしており、
判決言渡しの日付表現には資料差がある。

共通しているのは、
1961年12月に有罪となり、
12月15日に死刑判決が下されたという点である。

弁護側はイスラエル最高裁判所へ上訴した。

1962年5月29日|最高裁も判決を維持

Yad Vashemによれば、
イスラエル最高裁判所は1962年5月29日、
地方裁判所の判断を維持した。

その後Eichmannは
大統領Yitzhak Ben-Zviへ恩赦を求めたが、
申請は認められなかった。

そして1962年5月31日から6月1日にかけての夜、
Ramla刑務所で絞首刑が執行された。

遺体は火葬され、
遺灰はイスラエル領海外の海へ撒かれた。

これによって、
1945年の敗戦から続いたEichmannの戦後史も終わった。

1960〜1962年|拘束後の流れ

日付 出来事 意味
1960年5月11日 アルゼンチンで秘密拘束 15年間の逃亡が終了
5月20〜21日 El Al機でアルゼンチンを離脱 秘密国外移送
5月22日頃 イスラエル到着 イスラエルの管理下へ
5月23日 Ben-Gurionがクネセトで公表 作戦が世界へ明らかになる
6月15日 アルゼンチンが国連へ問題提起 国家主権問題へ
6月23日 国連安保理決議138 イスラエルへ適切な補償を要請
8月3日 アルゼンチン・イスラエル共同コミュニケ 国家間の事件を解決済みとする
1961年4月11日 エルサレムで裁判開始 刑事司法の段階へ
1961年12月15日 死刑判決 第一審終了
1962年5月29日 最高裁が判決を維持 上訴棄却
5月31日〜6月1日 死刑執行 事件の司法上の終結

では結局、アイヒマン拘束は合法だったのか

一語で「合法」「違法」と答えると、
この事件では重要な違いを失う。

整理すると、

論点 結論
アルゼンチン領内での無断拘束・移送 アルゼンチンは主権侵害として抗議し、国連安保理も国家主権に関わる問題として扱った
Eichmannの犯罪を裁く必要性 国連決議138も彼の重大犯罪を容認せず、適切な司法に付す国際的関心を認識した
アルゼンチンとの国家間紛争 1960年8月3日の共同コミュニケで解決済みとされた
違法な連行でイスラエルの裁判権が消えるか エルサレム地裁は消えないと判断した
Eichmann本人の刑事責任 別問題として裁判され、有罪・死刑判決が確定した

つまり、
最も正確な答えはこうなる。


Eichmannをアルゼンチンから秘密裏に連れ出した方法は、
国家主権を侵害する国際法上の問題を生じさせた。
しかし、その問題が存在することと、
イスラエルの裁判所がEichmann本人を裁く権限を持つかどうかは、
別の問題として処理された。

このCASEが特殊なのは「目的と手段の評価が分離した」こと

Eichmann捕獲は、
秘密作戦の成功例として紹介されることが多い。

確かにHUNTとして見れば成功した。

1945年に姿を消した人物を、
1950年代の断片的な情報から探し出し、
Ricardo Klementという偽名を特定し、
家族関係を確認し、
秘密監視で本人と判断し、
1960年5月11日に身柄を確保した。

MISSIONとしても成功した。

作戦チームは約10日間Eichmannを秘密拠点へ保持し、
El Al機へ乗せ、
アルゼンチン国外へ出した。

しかし、
作戦が成功したことは、使用した手段が国際法上問題なかったことを意味しない。

その代償として、
イスラエルはアルゼンチンとの外交紛争を抱え、
国連安全保障理事会で問題を審議されることになった。

一方、
秘密移送に法的問題があったことは、
Eichmannのナチ犯罪を消すものでもなかった。

この二つを同時に成立させたところに、
CASE45の特殊性がある。

「悪人なら何をしてもよい」という事件ではない

Eichmannが逃亡戦犯だったことを知っていると、
「結果的に正しい人物を捕まえたのだから問題ない」
と考えやすい。

しかし国家間のルールは、
対象の善悪だけでは決められない。

外国の警察権・治安権を無視して、
自国が望む人物を独自に拘束できるという原則が認められれば、
別の事件でも同じ行為を正当化できてしまう。

だからアルゼンチンは抗議した。

だから国連安全保障理事会は主権問題として扱った。

そして同時に、
決議138はEichmannの犯罪を擁護しているのではないことも明記した。

目的と手段の双方を評価する。

この事件では、
それが最も重要である。

CASE45まとめ|15年間の追跡は何によって終わったのか

1945年、
Adolf Eichmannは敗戦後に身元を隠し、
一度は米軍の拘束下に入りながら逃走した。

Otto Eckmann。

Otto Henninger。

そしてRicardo Klement。

複数の身元を使い、
1950年にはアルゼンチンへ渡った。

そこでは家族と暮らし、
Mercedes-Benzで働き、
社会生活を続けていた。

一方、
Simon Wiesenthal、
Lothar Hermann、
Fritz Bauerらが異なる経路から所在情報を集めていく。

最終的にイスラエル側は
Ricardo KlementとAdolf Eichmannを結びつけ、
家族関係、写真、生活状況を監視して本人と判断した。

1960年5月11日。

Garibaldi Street付近でEichmannは拘束された。

秘密拠点で真の身元を確認された後、
El Al機を利用してアルゼンチン国外へ移送された。

5月23日、
世界はEichmannがイスラエルにいることを知った。

そこでHUNTは終わった。

しかし、
秘密作戦は国際法上の問題を残した。

アルゼンチンは抗議し、
国連安全保障理事会は決議138を採択した。

両国は8月3日に外交紛争を解決。

そして翌1961年、
Eichmannはエルサレムの法廷へ立つ。

裁判所は、
彼がどのようにイスラエルへ連れてこられたかという問題と、
彼の犯罪をイスラエルで裁けるかという問題を切り離した。

1961年12月、死刑判決。

1962年5月、最高裁が判決を維持。

5月31日から6月1日にかけての夜、
刑は執行された。

戦後15年間続いた逃亡は、
一つの秘密作戦だけによって終わったのではない。

噂を情報へ変える人間。

情報を国家機関へつなぐ人間。

目の前の人物が本人かを確認する人間。

何週間も生活を監視する人間。

路上で身柄を押さえる人間。

航空機を飛ばす人間。

そして最後に、
その人物を法廷で裁く司法制度。

そのすべてがつながって、
「Ricardo Klement」は再びAdolf Eichmannとなった。

CASE FILE 45――完。


← 前の記事:第9回|アイヒマンをどうアルゼンチンから連れ出したのか|El Al機による秘密移送


CASE FILE 45 第1回・総合入口へ戻る

出典・参考資料

本記事では、
「Eichmann本人の犯罪」
「アルゼンチン領内での秘密拘束・国外移送」
「イスラエル裁判所の裁判権」
を別の法律問題として扱っています。

国連安保理決議138はEichmannのアルゼンチン返還を明示的に命令したものではなく、
同時にEichmannに आरोपされたナチ犯罪を容認したものでもありません。

またエルサレム地裁は、
秘密拘束・国外連行を合法だったと認定したから裁判を続けたのではなく、
そのような国際法上の問題が存在したとしても、
それは国家間で処理すべき問題であり、
被告人を刑事裁判にかける裁判権とは別であると判断しました。

国家間の紛争は1960年8月3日のArgentina-Israel共同コミュニケによって
裁判開始前に「解決済み」とされていました。