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ユナボマー爆破事件の時系列1978年から1995年、16件のUNABOM事件を追う

ユナボマー爆破事件の時系列|1978年から1995年、16件のUNABOM事件を追う

テロ・襲撃事件

1978年5月25日、シカゴ。

大学の駐車場で、宛名と切手が付いた一つの荷物が見つかった。

それから約17年後の1995年4月24日、カリフォルニア州サクラメントでは、郵送された荷物がCalifornia Forestry Associationの事務所で爆発し、同協会会長ギルバート・マレーが死亡した。

この二つの事件の間に、FBIが現在UNABOM事件として整理している16件が並んでいる。

大学、航空機、航空会社幹部、コンピューター関係者、研究者、広告会社幹部、林業団体――標的は一見すると統一されていない。事件が起きた都市も、シカゴ、ソルトレイクシティ、ナッシュビル、バークレー、サクラメント、ニューヘイブン、ニュージャージーなどへ広がっていった。

そして16件は、一定の間隔で機械的に続いたわけでもない。

1985年には1年間で4件が起き、初めて死者が出た。1987年には初めて犯人とみられる人物が目撃される。その直後、事件は約6年間途絶えた。そして1993年、突然再開する。

つまりUNABOM事件を理解するには、16件を単に「同じ犯人による連続爆破」とまとめるだけでは足りない。

どこで、誰が狙われ、どの時点で捜査の意味が変わったのか。

第2回では、FBIが公開している16件の時系列を基準に、1978年から1995年までを一本につなげていく。

CASE FILE 21|ユナボマー追跡特集(全10回)

CASE FILE 21では、約17年間に及んだUNABOM事件を「セオドア・カジンスキーの人物伝」ではなく、正体不明の爆弾犯へFBIがどう近づいたのかというHUNTとして追う。

第1回では事件全体を俯瞰した。今回の第2回では、その基礎資料となる16件をすべて時系列に並べる。爆発物の具体的な製造方法ではなく、場所、標的、被害、事件間の空白、そして捜査上の転換点に焦点を置く。


  1. 第1回|ユナボマー事件とは?|17年に及んだ連続爆破とFBI追跡の全貌
  2. 第2回|現在の記事:
    ユナボマー爆破事件の時系列|1978年から1995年、16件のUNABOM事件を追う

  3. 第3回|FBIはなぜユナボマーを17年間特定できなかったのか|UNABOM捜査班と残された物証

  4. 第4回|1987年の目撃者は何を見たのか|フード姿の似顔絵、6年の沈黙、1993年の犯行再開

  5. 第5回|ユナボマーのマニフェストはなぜ新聞に掲載されたのか|35,000語の声明とFBIの決断

  6. 第6回|家族はどうユナボマーに気づいたのか|リンダとデイヴィッド・カジンスキー、捜査を動かした情報提供

  7. 第7回|文章から犯人は特定できたのか|手紙・マニフェストのFBI言語分析と捜索令状

  8. 第8回|1996年4月3日、モンタナの小屋で何が見つかったのか|カジンスキー逮捕と家宅捜索

  9. 第9回|ユナボマー事件の裁判とその後|有罪答弁、終身刑、2023年の死と捜査の遺産

  10. 第10回|Netflix映画『UNABOMBER』はどこまで実話なのか|ハーバード実験とFBI捜査を史実検証

先に結論|16件は「同じ種類の事件」の繰り返しではなかった

FBIの現行事件ページは、1978年5月25日から1995年4月24日までの16件を「Timeline of Unabomber Devices」として整理している。

この一覧を時系列で追うと、事件の性格が少なくとも6段階に変化していることが分かる。

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段階 期間 特徴
第1段階 1978〜1980年 大学から航空機・航空会社へ拡大し、UNABOM捜査が成立
第2段階 1981〜1982年 シカゴ圏を離れ、大学・コンピューター分野へ広がる
第3段階 1985年 1年間に4件。初の死者が発生
第4段階 1987年 犯人とみられる人物が初めて目撃される
空白期 1987〜1993年 約6年間、確認された事件が途絶える
第5段階 1993年 犯行再開。研究者2人が相次いで負傷
第6段階 1994〜1995年 2人が死亡し、犯人からの声明・要求が捜査の中心へ移る

最初から「反テクノロジー思想を持つ人物が特定の業界を攻撃している」と明確に見えていたわけではない。

むしろ捜査当時に見えていたのは、大学、航空、コンピューター、研究者、企業幹部という、互いに直接関係しない被害者の列だった。

後からカジンスキーの思想や経歴を知れば共通性を読み取りやすい。しかし捜査側には、その「答え」が存在しない状態で16件を結びつけなければならなかった。

UNABOM全16件|1978年から1995年まで

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No. 日付 場所・標的 結果 捜査上の意味
1 1978年5月25日 University of Illinois Chicago Circle Campus/Northwestern University教授名義の荷物 大学警備員が負傷 一連の事件の最初
2 1979年5月9日 Northwestern University大学院生用スペース 大学院生が負傷 大学を舞台とした事件が継続
3 1979年11月15日 American Airlines 444便 機内に煙。複数乗客が煙を吸う。航空機は安全に着陸 航空機が標的となり、UNABOM捜査の成立へ
4 1980年6月10日 United Airlines社長パーシー・ウッド 負傷 航空会社そのものから経営者個人へ対象が変化
5 1981年10月8日 University of Utah/ソルトレイクシティ 安全処理。負傷者なし 事件地域がシカゴから西部へ広がる
6 1982年5月5日 Vanderbilt Universityコンピューター科学部門 秘書が負傷 コンピューター分野が標的として現れる
7 1982年7月2日 University of California, Berkeley/Cory Hall 工学教授が負傷 バークレーで最初の事件
8 1985年5月15日 UC Berkeley/Cory Hall 工学系学生が負傷 約3年ぶりに同じ建物で再発
9 1985年6月13日 Boeing Fabrication Division/ワシントン州 安全処理。負傷者なし 航空・製造分野へ再び接近
10 1985年11月15日 University of Michigan心理学教授と助手 2人が負傷 論文査読を装った文章が同封される
11 1985年12月11日 Rentech Computer Store/サクラメント 店主ヒュー・スクラットン死亡 一連の事件で初の死亡者
12 1987年2月20日 CAAMSコンピューター店/ソルトレイクシティ 店主の息子が重傷 犯人とみられる人物を初めて目撃
13 1993年6月22日 UC San Francisco遺伝学者チャールズ・エプスタイン 負傷 約6年ぶりに事件再開
14 1993年6月24日 Yale Universityコンピューター科学者デイヴィッド・ゲランター 重傷 2日後に別州でも事件。文章による接触が増える時期へ
15 1994年12月19日 広告会社幹部トーマス・モッサー/ニュージャージー州 死亡 2人目の死亡者
16 1995年4月24日 California Forestry Association会長ギルバート・マレー/サクラメント 死亡 最後の爆破事件。その後、声明公開をめぐる段階へ

第1段階|1978〜1980年――大学の事件が「UNABOM」になるまで

1件目|1978年5月25日――シカゴの大学駐車場

FBIの現行タイムラインが最初の事件として挙げるのは、1978年5月25日である。

University of Illinois Chicago Circle Campusの駐車場で、通行人が宛名と切手の付いた荷物を発見した。

荷物の差出人欄にはNorthwestern University教授バックリー・クリスト・ジュニアの名前が記されていたため、本人のところへ戻された。

しかしクリストには、その荷物を送った記憶がなかった。

大学警備へ連絡し、警備員が荷物を扱った際に爆発。警備員が負傷した。

この時点では「大学に関係する奇妙な爆発物事件」でしかない。

犯人像はもちろん、今後17年にわたり続くシリーズの最初だということも分からなかった。

2件目|1979年5月9日――Northwestern University

約1年後、同じNorthwestern Universityで再び事件が起きた。

大学院生が使用する部屋に、プレゼントのように見える箱が置かれていた。大学院生が開けたところ爆発し、負傷した。

これで「大学」という共通点が2度続いた。

ただし、同じ大学を狙った人物なのか、大学関係者個人を狙ったのか、それとも別の理由なのか。この段階ではまだ標的選択の論理は見えない。

3件目|1979年11月15日――American Airlines 444便

事件の規模を一気に変えたのが、American Airlines 444便だった。

シカゴからワシントンD.C.へ向かっていた旅客機の貨物・手荷物区画で爆発物が作動し、機内に煙が広がった。

航空機は安全に着陸したが、複数の乗客が煙を吸った。

ここで事件は大学施設の範囲を超える。

航空機に爆発物を持ち込む事件は、多数の乗客を巻き込む可能性を持つ。そのため捜査上の重要性も大きく変わった。

1979年、FBIを中心にATFとU.S. Postal Inspection Serviceなどが参加する合同捜査班が組織される。

名称は、

UNiversity and Airline BOMbing――UNABOM。

後に世界的に知られる「Unabomber」という名称は、ここから生まれた。

4件目|1980年6月10日――United Airlines社長

翌1980年、航空関係の標的が再び現れる。

United Airlines社長パーシー・ウッドのもとへ荷物が届いた。中にはSloan Wilsonの小説『Ice Brothers』を利用した仕掛けがあり、開いた際に爆発してウッドが負傷した。

この事件は、1979年の旅客機とは対象の性質が違う。

航空機そのものではなく、航空会社の経営者個人へ荷物が送られた。

「大学」と「航空」というUNABOMの名称には合う。しかし、それだけでは犯人が大学や航空産業全体を標的としているのか、個々の対象を別の理由で選んでいるのかは判断できなかった。

第2段階|1981〜1982年――西部とコンピューター分野へ広がる

5件目|1981年10月8日――University of Utah

1981年、事件はユタ州ソルトレイクシティへ移る。

University of Utahの建物内の廊下で不審な荷物が発見された。

今回は爆発する前に処理され、負傷者は出なかった。

しかし地理的には重要だった。

シカゴ周辺で始まった事件が、アメリカ西部へ明確に広がったからである。

後年、FBIは犯人がシカゴで育ち、ソルトレイクシティとサンフランシスコ地域に何らかの関係を持っている可能性を推定するようになる。

6件目|1982年5月5日――Vanderbilt University

1982年5月、テネシー州ナッシュビルのVanderbilt Universityへ荷物が送られた。

宛先はコンピューター科学部門の責任者だったが、オフィスで秘書が開封し、負傷した。

ここから「コンピューター」という分野が、後の事件でも繰り返し現れるようになる。

ただし、現在の知識から遡って「反テクノロジー思想だからコンピューター関係者を狙った」と即断するのは危険である。

捜査当時には、犯人の思想を明確に示す35,000語の文章はまだ存在していなかった。

7件目|1982年7月2日――UC Berkeley

約2か月後、カリフォルニア大学バークレー校のCory Hallで事件が起きる。

休憩スペースに置かれていた荷物が爆発し、工学教授が負傷した。

これは後から見ると特に注目される場所である。

セオドア・カジンスキー自身が1967年から1969年までUC Berkeleyで数学の教員を務めていたからだ。

しかし1982年時点で、捜査側がこの事件から元数学教員カジンスキーへ直接たどることはできなかった。

大学には膨大な数の学生、卒業生、研究者、元教員、職員が関係する。「バークレーと関係がある」という条件だけでは容疑者を一人に絞れない。

第3段階|1985年――4件が集中し、初めて死者が出る

1983年と1984年について、FBIの現行16件タイムラインには事件が掲載されていない。

そして1985年、一気に4件が起きる。

8件目|1985年5月15日――再びCory Hall

約3年前と同じUC BerkeleyのCory Hallで、再び爆発が起きた。

今度は工学系の学生が負傷した。

同じ建物が2度対象になったことは、捜査側にとって当然重要だった。

一方で、「同じ建物」という強い共通点があっても、そこから犯人個人へつながる証拠は得られなかった。

9件目|1985年6月13日――Boeing

約1か月後、ワシントン州のBoeing Fabrication Divisionへ不審な荷物が送られた。

今回は安全に処理され、負傷者はいなかった。

FBIのタイムラインは、この処理によって法科学的証拠の多くが失われたと記している。

つまり「爆発しなかった事件=捜査に有利」とは限らなかった。

安全確保を優先して処理すれば、装置に残っていた可能性のある情報が失われることもある。

10件目|1985年11月15日――University of Michigan

ミシガン大学の心理学教授宛てに荷物が届いた。

教授と助手が開封し、2人が負傷した。

この事件には、それまでとは違う要素があった。

荷物には、学生の修士論文を評価してほしいという趣旨の手紙が添えられていた。

後のUNABOM捜査で「文章」が重要になることを考えると、この手紙は興味深い。

ただし1985年の段階で、これだけから犯人の身元へ到達できたわけではない。

11件目|1985年12月11日――サクラメント、初の死亡事件

1985年最後の事件は、それまでのUNABOM事件とは明確に違う結果をもたらした。

カリフォルニア州サクラメントのRentech Computer Storeの駐車場に置かれていた物を、店主ヒュー・スクラットンが動かした。

爆発し、スクラットンは死亡した。

1978年から7年以上続いていた一連の事件で、初めて死者が出た。

大学警備員、学生、教授、企業幹部などを負傷させてきた事件は、ここで明確な殺人事件を含む連続事件となった。

1996年6月の連邦起訴でも、このスクラットン死亡事件はカジンスキーに対する主要な訴因の一つになった。

第4段階|1987年――初めて「人」が見えた

12件目|1987年2月20日――ソルトレイクシティ

1987年2月、ユタ州ソルトレイクシティのCAAMSというコンピューター店で事件が起きた。

駐車場付近に置かれていた物が爆発し、店主の息子が重傷を負った。

被害そのものも重大だったが、この事件がUNABOM捜査史で特に重要なのは別の理由である。

犯人とみられる人物を見た目撃者が現れた。

店の従業員が、フード付きの服を着て大型のサングラスを掛けた男を目撃した。

その証言をもとに作られたのが、後にユナボマー事件の象徴となる似顔絵である。

約9年間、捜査当局が見てきたのは爆発物、破片、包装、送り先、被害者だった。

1987年、初めてそこに「犯人らしい人間の姿」が加わった。

ところが、その直後に事件は途絶える。

1987〜1993年|約6年間の沈黙

FBIの16件タイムラインでは、1987年2月20日の次が1993年6月22日である。

約6年4か月の空白がある。

捜査側から見れば、これは非常に厄介だった。

新しい事件が起きないことは、当然ながら新しい被害者が出ないという意味では望ましい。

しかし同時に、新しい物証、目撃者、発送経路、文章なども増えない。

1987年には似顔絵という大きな手掛かりが得られたものの、そこから直ちに身元を特定することはできなかった。

犯人が死亡したのか。

収監されたのか。

国外へ移ったのか。

自主的にやめたのか。

あるいは、再開するのか。

捜査側には答えがないまま時間だけが過ぎていった。

第5段階|1993年――6年ぶりに事件が再開する

13件目|1993年6月22日――チャールズ・エプスタイン

1993年6月22日、カリフォルニア大学の遺伝学者チャールズ・エプスタインが、自宅の台所で荷物を開けた。

爆発し、エプスタインは負傷した。

FBIのタイムライン上では、1987年以来約6年ぶりの事件だった。

捜査当局にとっては、長期間姿を消していた犯人が再び動き始めたことを意味した。

14件目|1993年6月24日――デイヴィッド・ゲランター

わずか2日後。

今度は東海岸、コネチカット州ニューヘイブンのYale Universityで事件が起きた。

コンピューター科学者デイヴィッド・ゲランターへ送られた荷物が爆発し、ゲランターは重傷を負った。

1996年の米司法省起訴発表では、カジンスキーがエプスタインとゲランターに対する2件の爆発物をモンタナからサクラメントへ運び、そこから郵送したとして起訴された。

重要なのは、1993年から犯人が捜査当局やメディアへ文章を送るようになることだ。

これまで主に「爆発物」という物理的証拠を追っていた捜査に、犯人自身の言葉という新しい情報源が加わった。

第6段階|1994〜1995年――最後の2件で死者が続く

15件目|1994年12月19日――トーマス・モッサー

1994年12月19日、ニュージャージー州North Caldwell。

広告会社幹部トーマス・モッサーの自宅へ送られた荷物が爆発し、モッサーは死亡した。

ヒュー・スクラットンに続く、2人目の死亡者だった。

この頃には犯人は、爆発物だけでなく、自分の行動について説明する文章も外部へ送り始めていた。

事件の捜査は、現場から得られる物証だけでなく、「犯人自身が何を書いたか」を読む段階へ入りつつあった。

16件目|1995年4月24日――ギルバート・マレー

FBIの16件タイムラインで最後に掲載されているのが、1995年4月24日の事件である。

カリフォルニア州サクラメントのCalifornia Forestry Associationへ郵送された荷物を、同協会会長ギルバート・マレーが開封した。

爆発し、マレーは死亡した。

1996年6月の連邦起訴では、カジンスキーがこの爆発物をモンタナからオークランドへ運び、サクラメントのCalifornia Forestry Associationへ郵送したとして訴追された。

FBIが現在整理している16件の爆破事件は、ここで終わる。

しかしUNABOM事件そのものは終わらない。

むしろここから、追跡は最終段階へ入る。

犯人は約35,000語の文章を送り、その公表を要求する。

爆発物を追っても名前へ到達できなかったFBIは、犯人自身が残した「言葉」を一般に公開するという異例の判断を検討することになる。

FACT CHECK|UNABOM事件は「16件」なのか「17件」なのか?

公開されている米政府資料には、集計方法の違いがある。

FBIの現行「Timeline of Unabomber Devices」は、1978年5月25日から1995年4月24日までを16項目として掲載している。

一方、米司法省の1996年度年次報告には、カジンスキーへ結びつけられたものとして17 explosive devices、3人死亡・23人負傷という表現がある。

これは必ずしも「どちらかが誤り」という意味ではない。事件単位で数えるのか、個々の爆発物・装置単位で数えるのか、また未爆発・処理済みの装置をどの範囲へ含めるのかによって集計が変わり得る。

CASE FILE 21では、記事構造としてはFBIが現在一般向けに公開している16件のタイムラインを基準とし、別の政府資料に異なる集計がある場合はその都度明記する。

「3人死亡」は一致するが、負傷者数には資料差がある

死者については、主要な米政府資料で3人という点が一致している。

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死亡日 被害者 場所
1985年12月11日 ヒュー・スクラットン カリフォルニア州サクラメント
1994年12月19日 トーマス・モッサー ニュージャージー州North Caldwell
1995年4月24日 ギルバート・マレー カリフォルニア州サクラメント

一方、負傷者数は政府資料でも一定しない。

FBIの現在の事件ページでは「nearly two dozen」、FBIの別資料では24人、米司法省の1996年度報告では23人とされている。

古いFBI Law Enforcement Bulletinには28人という集計も残る。

こうした差がある以上、単一の数字を根拠なく絶対値として扱うべきではない。

特に1979年のAmerican Airlines 444便では、複数の乗客が煙を吸っており、その扱いによって総数が変化する可能性がある。

そのため本特集の概要表現では、「3人死亡、20人以上負傷」を基本とする。

標的を並べても、犯人像はすぐには見えてこない

16件を並べると、「大学」「航空」「コンピューター」という言葉が繰り返し現れる。

しかし、それだけを見て明確な一つの標的カテゴリーが存在したと考えると、捜査当時の難しさを見失う。

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対象
大学 Northwestern、Utah、Vanderbilt、UC Berkeley、Michigan
航空 American Airlines 444便、United Airlines社長、Boeing
コンピューター 大学のComputer Science、コンピューター店、Yaleの研究者
科学・研究 工学教授、心理学教授、遺伝学者
企業・団体幹部 航空会社社長、広告会社幹部、林業団体会長

後にカジンスキーの文章を読めば、技術社会に対する強い敵意という説明軸が見える。

だがFBIによれば、捜査段階では犯人の職業について航空機整備士から科学者まで幅広い仮説があり、性別さえ完全には確定していなかった。

さらにFBIは逮捕後、被害者の一部が図書館での調査を通じて選ばれていたと理解したとしている。

被害者同士が直接つながっていなければ、通常の殺人事件で有効な「被害者の人間関係から犯人を逆算する」という方法も使いにくい。

16件が増えるほど情報量は増えた。

それでも情報が一人の名前へ収束するとは限らなかった。

1985年が大きな境目だった

16件の時系列で最も密度が高い年は1985年である。

5月、6月、11月、12月の4件。

UC Berkeley、Boeing、University of Michigan、サクラメントのコンピューター店と続き、最後の事件でヒュー・スクラットンが死亡した。

それまで負傷者を出しながら続いていた事件が、明確に人命を奪う段階へ入った。

一方、法科学的な物証が増えれば自動的に犯人へ近づけるわけではなかった。

1997年に公表された米司法省監察総監室(OIG)のFBI Laboratory調査では、UNABOM関連装置の一部について、当時の爆発物残留物分析の記録・確認手順に問題があったと指摘されている。

OIGは複数の分析について、記録不足や確認試験の不足を問題視し、問題となった担当者のUNABOM分析を資格のある別の検査官が再評価すべきだと結論づけた。

さらに連邦検察側は、カジンスキーの訴追に際して問題となった担当者の分析結果には依存せず、別の検査官や外部研究所の結論を使う方針をOIGへ伝えている。

これは「UNABOMの法科学的証拠がすべて無効だった」という意味ではない。

むしろ長期捜査では、証拠そのものだけでなく、その証拠をどう記録し、再検証可能な状態にしておくかも重要だったことを示している。

1987年の目撃証言は、なぜ逮捕まで9年かかったのか

16件の中で、追跡という意味で最も大きな事件の一つが12件目である。

1987年2月20日、初めて犯人とみられる人物が目撃された。

似顔絵まで作られた。

それでも逮捕は1996年4月である。

約9年かかった。

似顔絵は「この顔の人物を探せ」という強力な情報に見える。しかし、サングラスとフードによって顔の多くが隠され、DNAや指紋のように一人へ機械的に一致させられる証拠でもない。

しかも目撃事件の直後、犯行が6年間止まった。

FBIは人物像を得たが、新しい事件からその人物像を更新する機会を失った。

第4回では、この1987年事件と似顔絵、そして6年間の空白を詳しく追う。

1993年以降、捜査対象は「物」から「言葉」へ広がった

1993年に犯行が再開したことは、被害が再び始まったというだけではない。

犯人が手紙を通じて外部と積極的に接触し始めた。

FBIの捜査関係者は後年、1993年から届き始めた文章が、犯人への重要な接続点になったと振り返っている。

爆発物の素材を調べても購入者へ逆算できない。

被害者を調べても共通の知人へ到達しない。

似顔絵があっても本人が見つからない。

そこで新しく現れたのが、

「犯人が自分で書いた文章」

だった。

この文章は1995年の35,000語のマニフェストへつながり、最終的にはカジンスキーの家族からFBIへの情報提供へつながる。

つまり16件の爆破時系列は、最後には「17件目の爆発」へ向かうのではない。

爆発物による事件から、文章を利用した追跡へ切り替わって終わる。

そこがUNABOM事件のHUNTとしての大きな転換点である。

16件を「地理」で見ると何が分かるか

ここで、16件がアメリカ国内のどこへ広がっていたのかを、FBIが当時公開した分布図で確認しておく。


FBIのUNABOM報奨ポスターに掲載された全16件の事件地点分布図

事件分布図|FBI「UNABOM CRIMES」全16件
FBIが約1995年に公開した報奨ポスター。シカゴ/エバンストン周辺から、ソルトレイクシティ、バークレー、サクラメント、ナッシュビル、アナーバー、ニューヘイブン、ノース・コールドウェルなどへ事件地点が広がったことを一枚で確認できる。
この図は当時の捜査広報資料であり、現在FBIが公開している「Timeline of Unabomber Devices」と一部の日付・表記に差があるため、本記事では事件地点の地理分布を確認する図として使用し、各事件の日付・順序は本文の現行FBIタイムラインを優先する。
画像:Federal Bureau of Investigation / circa 1995 / Public Domain / Wikimedia Commons

UNABOM事件はアメリカ全土で無差別に起きたわけではない。

大きく見ると、シカゴ周辺から始まり、西部、特にサンフランシスコ湾岸やソルトレイクシティとの関連が繰り返し現れる。

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地域 主な事件
シカゴ周辺 1978年、1979年Northwestern、AA444便
ソルトレイクシティ 1981年University of Utah、1987年CAAMS
サンフランシスコ湾岸 1982・1985年UC Berkeley、1993年エプスタイン
サクラメント 1985年スクラットン、1995年マレー
その他 ナッシュビル、ミシガン、ニューヘイブン、ニュージャージーなど

FBIは長期捜査の中で、犯人がシカゴで育ち、ソルトレイクシティやサンフランシスコ周辺に居住歴を持つ可能性を考えていた。

この推定自体は後にかなり当たっていた。

カジンスキーはシカゴ地域で育ち、UC Berkeleyで教員を務め、モンタナへ移る過程でソルトレイクシティにも関係があった。

それでも「地域推定が正しかった」ことと「犯人を特定できた」ことは別である。

アメリカ西部と中西部に関係する人物は膨大に存在する。

地理情報は容疑者を絞る条件にはなっても、単独では捜索令状を取るほどの証拠にはならなかった。

まとめ|16件を並べると、17年間の捜査がなぜ難しかったかが見える

FBIの現行タイムラインでは、UNABOM事件は1978年5月25日から1995年4月24日までの16件として整理されている。

最初は大学だった。

次に航空機と航空会社が加わり、UNABOM捜査班が組織された。事件はシカゴからソルトレイクシティ、バークレー、サクラメントへ広がり、コンピューターや科学関係者も対象になった。

1985年には4件が集中し、ヒュー・スクラットンが死亡した。1987年には初めて犯人とみられる人物が目撃されたが、その後は約6年間沈黙する。

1993年に事件が再開し、1994年と1995年にはさらに2人が死亡した。

それでも、16件の現場だけから犯人の名前は出てこなかった。

事件を重ねるごとに物証、地域情報、被害者情報、似顔絵は増えたが、それらを一人の人物へつなぐ決定的な接続点がなかったからである。

そして1995年、捜査の中心は大きく変わる。

犯人自身が大量の文章を外へ送り出した。

次の第3回では、この16件を抱えながらFBIがどのような捜査を行っていたのかを見る。150人を超える規模へ成長したUNABOM Task Forceは、爆発物、被害者、地域、プロファイリングをどう分析し、それでもなぜ17年間名前へ届かなかったのかを追う。


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CASE FILE 21|全10回


  1. 第1回|ユナボマー事件とは?|17年に及んだ連続爆破とFBI追跡の全貌
  2. 第2回|現在の記事:
    ユナボマー爆破事件の時系列|1978年から1995年、16件のUNABOM事件を追う

  3. 第3回|FBIはなぜユナボマーを17年間特定できなかったのか|UNABOM捜査班と残された物証

  4. 第4回|1987年の目撃者は何を見たのか|フード姿の似顔絵、6年の沈黙、1993年の犯行再開

  5. 第5回|ユナボマーのマニフェストはなぜ新聞に掲載されたのか|35,000語の声明とFBIの決断

  6. 第6回|家族はどうユナボマーに気づいたのか|リンダとデイヴィッド・カジンスキー、捜査を動かした情報提供

  7. 第7回|文章から犯人は特定できたのか|手紙・マニフェストのFBI言語分析と捜索令状

  8. 第8回|1996年4月3日、モンタナの小屋で何が見つかったのか|カジンスキー逮捕と家宅捜索

  9. 第9回|ユナボマー事件の裁判とその後|有罪答弁、終身刑、2023年の死と捜査の遺産

  10. 第10回|Netflix映画『UNABOMBER』はどこまで実話なのか|ハーバード実験とFBI捜査を史実検証

今回出てきた言葉

UNABOM
FBIの捜査コードネーム。University and Airline Bombingに由来する。1979年の航空機事件を経て、FBI、ATF、U.S. Postal Inspection Serviceなどによる合同捜査が進められた。
UNABOM Task Force
一連の事件を追跡した合同捜査班。後に150人を超える捜査官・分析官などが関わる規模へ成長した。
Cory Hall
University of California, Berkeleyの工学系建物。1982年と1985年の2度、UNABOM事件の現場となった。
Composite Sketch
目撃者の証言をもとに作成する人物の似顔絵。1987年のソルトレイクシティ事件で得られた証言から、フードとサングラス姿の有名な似顔絵が作られた。
法科学
科学的な分析を犯罪捜査や裁判へ応用する分野。UNABOMでは回収物の分析が長期間続けられたが、法科学情報だけでは犯人の身元を特定できなかった。

出典・参考資料

本記事は、FBIが現在公開している「Timeline of Unabomber Devices」の16項目を時系列の基準としています。爆発物については、事件理解に必要な「置かれた/郵送された/爆発した/安全処理された」という範囲にとどめ、具体的な製造工程・構造・材料配合など再現可能性を高める情報は扱っていません。また、FBIと米司法省の公開資料では事件・装置数および負傷者数に集計差があるため、それを隠さず本文中で区別しました。1997年司法省監察総監室報告についても、当時の一部法科学分析の記録・確認方法への批判であり、UNABOM事件全体の物証が無効だったという意味には拡張していません。最終確認日は2026年8月31日です。