1960年春、追跡の問題はほぼ解けていた。
ブエノスアイレス郊外で「Ricardo Klement」を名乗って暮らす男は、
家族構成、年齢、経歴、外見、生活状況を照合した結果、
アドルフ・アイヒマン本人である可能性が極めて高いと判断されていた。
しかし、ここから先の方が難しかった。
対象はイスラエル国内にいるわけではない。
アルゼンチンで生活する一人の住民であり、
イスラエルの警察官や情報要員に現地で逮捕権があるわけでもない。
正式な外交・司法手続きを取るのか。
秘密裏に拘束するのか。
拘束したとして、どこに隠すのか。
そして南米からイスラエルまで、どうやって連れ出すのか。
追跡はここで、
「どこにいるのか」というHUNTから、
「どう確保して国外へ運ぶのか」というMISSIONへ変わった。
CASE FILE 45
アドルフ・アイヒマン追跡・拘束作戦(全10回)
戦後15年間にわたって複数の偽名を使ったアドルフ・アイヒマンは、
どのように所在を特定され、監視され、
アルゼンチンで拘束されてイスラエルへ運ばれたのか。
CASE45では追跡、本人確認、作戦計画、拘束、秘密移送をそれぞれ分けて追う。
CASE FILE 45|全10回
- 第1回|アドルフ・アイヒマンはどう捕まったのか|戦後15年の逃亡・追跡・拘束作戦
- 第2回|アイヒマンは戦後どこへ消えたのか|米軍拘束からアルゼンチン逃亡まで
- 第3回|「リカルド・クレメント」は誰だったのか|ブエノスアイレスで暮らした逃亡犯
- 第4回|誰がアイヒマンの居場所を突き止めたのか|Lothar Hermann、Fritz Bauerと複数の手掛かり
- 第5回|「Ricardo Klement」は本当にアイヒマンか|身元確認と秘密監視
- 第6回|なぜアルゼンチンで秘密拘束することになったのか|アイヒマン捕獲作戦の計画【現在の記事】
- 第7回|1960年5月11日、Garibaldi Street|アイヒマン拘束はどう実行されたのか
- 第8回|拘束後の9日間|秘密拠点で行われた本人確認とイスラエル移送準備
- 第9回|アイヒマンをどうアルゼンチンから連れ出したのか|El Al機による秘密移送
- 第10回|アイヒマン拘束は合法だったのか|アルゼンチン抗議・国連安保理・エルサレム裁判へ
先に結論|作戦は「拘束」だけでは成立しなかった
アイヒマン捕獲作戦を理解するうえで最も重要なのは、
1960年5月11日の数分間だけを見ないことである。
対象を路上で取り押さえるだけなら、
作戦全体の一部にすぎない。
必要だったのは、
- 対象の日常行動を把握する
- 人目の少ない拘束地点を選ぶ
- 複数の車両と実働要員を準備する
- 拘束後に身柄を隠せる場所を確保する
- 本人確認を続ける
- 約10日間、外部に発見されず身柄を保持する
- アルゼンチンから出国できる航空機を確保する
- 空港で身元が露見しない方法を準備する
という一連の工程だった。
Yad Vashemは、この作戦がMossad長官Isser Harelの指揮下で実行され、
David Ben-Gurion首相の支持を受けていたと記録している。
一方、イスラエル総保安庁(Shin Bet)は、
作戦自体をMossadとShin Betの共同作戦と位置づけ、
実働チーム、とりわけ実際にEichmannを拘束したチームの大部分がShin Bet要員だったとしている。
したがって、
一般に使われる「MossadによるEichmann捕獲」という表現は大筋では理解しやすいが、
実際の作戦組織はそれより複合的だった。
作戦を指揮したIsser Harel
作戦全体の中心にいたのが、
当時Mossad長官だったIsser Harelである。
本人確認が進み、
Ricardo KlementがAdolf Eichmann本人である可能性が十分高まると、
Harelは追跡を実際の拘束作戦へ移す判断を進めた。
Yad Vashemは、
「Operation Eichmann」がHarelの指揮の下で実行され、
Ben-Gurion首相の支持を受けたと明記している。
これは重要である。
外国領内で一人の人物を秘密裏に拘束し、
その国の通常の司法手続きを経ずに国外へ連れ出す作戦は、
情報機関内部だけで完結する小規模任務ではない。
失敗すれば、
現地要員の逮捕、
イスラエル政府との関係露見、
外交問題、
そしてEichmann本人の再逃亡が同時に起こり得る。
結果的に実際の作戦成功後、
アルゼンチンは自国の主権を侵害されたとして正式に抗議し、
問題は国連安全保障理事会まで持ち込まれた。
つまり、作戦前に想定しなければならなかった政治リスクは、
後に現実のものとなった。
David Ben-Gurionの承認が必要だった理由
作戦にはBen-Gurion首相の支持があった。
この点を単に
「首相が戦犯を捕まえるよう命令した」
とまとめると、意思決定の重さが見えにくい。
問題はEichmannの罪責だけではなかった。
Eichmannをイスラエルで裁くという目的と、
外国領内で秘密拘束を行うという手段は別の問題である。
イスラエル側から見れば、
Eichmannを裁判へ出すことには歴史的・司法的な意味があった。
一方、
アルゼンチン側から見れば、
自国領内で外国機関が住民を秘密裏に拘束し、
国外へ移送すれば主権問題になる。
実際、1960年6月15日にアルゼンチンは
国連安全保障理事会へ緊急会合を要請し、
Eichmannの国外移送を自国の主権侵害として問題にした。
したがって、
作戦承認とは単なる治安作戦の決裁ではなく、
成功した場合にも外交的な代償を負う可能性がある国家判断だった。
FACT CHECK|「アルゼンチン政府へ頼めば絶対に逃がされた」とは断定できない
秘密作戦が選択された背景については、
情報漏洩や再逃亡への警戒が重要な要素として後年の記録や研究で語られている。
しかし、今回確認できたYad Vashem、Shin Bet、国連の公的ページだけから、
「アルゼンチン政府へ正式に引渡しを求めれば必ず拒否された」
「アルゼンチン政府が必ずEichmannへ警告した」
と断定することはできない。
確実に言えるのは、
イスラエル側が正式な公開拘束ではなく秘密作戦を選び、
その結果としてアルゼンチンとの主権問題が発生したことである。
「Mossadだけの作戦」ではなかった
Eichmann捕獲はしばしばMossadの代表的作戦として紹介される。
しかしShin Betの公式史を見ると、
実働面では同機関の要員が大きな割合を占めていた。
Shin Betはこの事件を、
「MossadとShin Betによる共同作戦」と説明している。
また、作戦チーム、とりわけ実際にEichmannを拘束したチームは、
ほぼShin Bet要員によって構成されていたとしている。
2020年の60周年資料では、
当時のIsser Harelの記述として、
実働任務のためには自分がよく知っているShin Betの作戦部門から
人員を選ぶ必要があったという趣旨の回想も紹介されている。
役割を大まかに整理すると、
| 役割 | 主な担当 |
|---|---|
| 作戦全体の指揮 | Isser Harel |
| 政治的承認 | David Ben-Gurion |
| 実働指揮 | Rafi Eitan |
| 現地確認・監視 | Zvi Aharoniら |
| 拘束実働 | Peter Malkin、Moshe Taborらを含むチーム |
| 秘密撮影・作戦支援 | Shin Bet作戦要員など |
細かな所属や任務分担は資料ごとに表記差がある。
そのため本シリーズでは、
すべてを「Mossad工作員」と一括しない。
拘束チームには誰がいたのか
Yad Vashemが挙げている主要な拘束チームには、
Rafi Eitan、Peter Malkin、Zvi Aharoni、Moshe Taborが含まれる。
Rafi Eitanは現場の指揮を担った。
Peter Malkinは、
実際にEichmannへ接近して身体を押さえた人物として後に広く知られる。
Zvi Aharoniは、
前回見た本人確認の段階から関わっていた。
Moshe Taborも拘束作戦に加わった。
Shin Betのヘブライ語公式資料では、
これに加えて前方支援チームとしてAvraham Shalom、Yaakov Gat、
さらに麻酔を担当する医師が参加したことが記されている。
ここで分かるのは、
作戦が単なる数人の尾行班ではなかったことである。
監視、
車両運用、
拘束、
隠れ家での警戒、
医学的管理、
空港への移送。
それぞれに異なる役割が必要だった。
作戦で最初に解くべき問題|どこで拘束するか
対象が住む家へ突入する方法も考えられる。
しかし住宅内には家族がいる。
近隣住民へ気づかれる危険もある。
さらに家屋内部の状況が分からなければ、
抵抗、逃走、目撃者の増加など不確定要素が大きい。
そこで監視側が利用できるのが、
Eichmannの規則的な帰宅行動だった。
彼は仕事から公共交通を使って戻り、
自宅まで歩いていた。
この移動中なら、
家族から離れた状態で対象へ接触できる。
実際に1960年5月11日の拘束は、
Garibaldi Streetの自宅付近で行われた。
詳細な待ち伏せ位置、帰宅時刻、
最初に誰が接触したかは次回で扱う。
この回で重要なのは、
本人の日常生活そのものが、作戦計画の基礎データになった
ことである。
拘束より難しい問題|その後どこへ連れていくのか
仮に路上で数十秒以内に身柄を確保できたとしても、
そのまま空港へ向かうことはできない。
El Al機がいつでもブエノスアイレスに待機しているわけではないからである。
さらに拘束直後には、
本当に本人なのかを改めて確認する必要がある。
そのため作戦側は、
拘束後のEichmannを収容できる秘密拠点を準備した。
Yad Vashemは、
Garibaldi Street付近で身柄を確保した後、
Eichmannが「place of concealment」へ運ばれ、
そこで尋問を受けて真の身元を認めたと記録している。
Shin Bet公式史も、
Eichmannがブエノスアイレスの作戦用住居で拘束状態に置かれ、
初期尋問によって本人であることが疑いなく確認されたとしている。
この隠れ家には二つの役割があった。
一つは本人確認。
もう一つは、
イスラエルへ運べる機会が来るまで、
外部から発見されず身柄を保持することだった。
最大の制約|約10日間、誰にも見つからず保持する
Eichmannが拘束されたのは1960年5月11日。
Shin Bet公式資料では、
Eichmannを乗せたEl Al機がブエノスアイレスを離陸したのは5月21日とされる。
つまり、
拘束したその日の夜にアルゼンチンから消えたわけではない。
約10日間、
作戦チームは外国領内でEichmannの身柄を隠し続ける必要があった。
この期間が長くなるほどリスクは増える。
家族が失踪を届け出る可能性がある。
警察が捜索を始める可能性もある。
隠れ家周辺の住民に不審がられる可能性もある。
拘束時に負傷させれば医療上の問題が起こる。
大声を出されたり逃走されたりすれば、
作戦全体が露見する。
したがって、
作戦計画は「路上で勝てるか」ではなく、
拘束した対象を10日間安全に管理できるか
まで含んでいなければ成立しなかった。
なぜ5月まで待ったのか|El Al機という出口
秘密作戦で最も難しい問題の一つが、
国外への出口だった。
自動車でアルゼンチン国境を越えれば、
さらに別の国を巻き込む。
民間旅客便に通常の乗客として乗せるにも、
旅券、出国審査、搭乗手続がある。
作戦側にとって大きな機会になったのが、
1960年5月のアルゼンチン独立150周年記念行事だった。
イスラエルから公式代表団がアルゼンチンを訪問することになり、
El Al機がブエノスアイレスへ飛来する。
Shin Bet公式史によれば、
この航空機はイスラエルの外相Abba Ebanを
アルゼンチン独立150周年記念行事へ運ぶための便だった。
公式代表団を乗せたイスラエル機が現地に存在する。
これは作戦側にとって、
通常なら存在しない「イスラエルへ直接戻れる航空機」を確保できる機会だった。
したがって作戦は、
対象の生活パターンだけでなく、
航空機の日程にも合わせて設計する必要があった。
FACT CHECK|拘束日は5月11日、El Al機の出発は5月21日
Yad VashemはEichmannの拘束を1960年5月11日としている。
Shin Bet公式資料は、
1960年5月21日にEichmannを乗せたEl Al機が
ブエノスアイレスからイスラエルへ向けて出発したと記録している。
したがって、
「捕獲してそのまま空港へ運んだ」という説明は正確ではない。
拘束から国外移送までには約10日間の秘密保持期間が存在した。
作戦は一つの失敗で全体が崩れる構造だった
この作戦を工程に分けると、
どれか一つが成功すればよいのではなく、
すべてが連続して成功する必要があったことが分かる。
| 工程 | 失敗した場合 |
|---|---|
| 本人確認 | 無関係な人物を拘束する |
| 監視 | 対象に警戒され、再逃亡される |
| 接近 | 大声・抵抗・目撃で警察が来る |
| 車両収容 | 現場から離脱できない |
| 隠れ家 | 拘束後に所在地が露見する |
| 身柄管理 | 逃走・負傷・健康問題が発生する |
| 航空移送 | 空港で身元が露見する |
| 国外離脱 | 現地当局に拘束され外交事件となる |
しかも最終行の外交問題は、
作戦成功後にも消えなかった。
秘密移送が明らかになると、
アルゼンチン政府はイスラエルへ抗議した。
1960年6月15日には国連安全保障理事会へ緊急会合を要請し、
6月23日にはEichmann事件を扱う安全保障理事会決議138が採択された。
したがって、
作戦は「成功すればすべて解決する」設計ではなかった。
現場では成功しても、
国家間では別の問題が始まることを内包していた。
作戦の中心にあったのは、派手な装備ではない
この種の秘密作戦は、
後世の映像作品では武器、特殊装備、変装などが目立ちやすい。
しかし公的資料から見える計画の本質は、
もっと地味である。
対象が本人かを確認する。
毎日の行動を記録する。
道路と人通りを見る。
車両を準備する。
役割を割り振る。
隠れ家を用意する。
航空機の日程に合わせる。
対象を捕まえた後の10日間まで計画する。
Shin Betが2020年の60周年資料で、
この作戦を「綿密で正確な作戦計画」に基づくものと表現しているのは、
この構造をよく示している。
「逮捕」ではなく「秘密拘束」と書く理由
本シリーズでは、
1960年5月11日の行為を基本的に
「拘束」または「秘密拘束」と表現する。
イスラエル側の公式史では「capture」、
Yad Vashemでは「seizing」「abduction」などの表現が使われる。
一方、
アルゼンチン政府は後に、
本人が自国領内から違法かつ秘密裏に移送されたとして国連へ問題を提起した。
通常の国内警察が裁判所の令状に基づいて行う「逮捕」とは法的構造が異なる。
そのため記事本文では、
目的の正当性と行為の法的性質を混同しないためにも、
「逮捕作戦」より「秘密拘束作戦」を基本語とする。
作戦計画を時系列で整理する
| 段階 | 内容 | 目的 |
|---|---|---|
| 1959〜1960年 | Ricardo Klementの所在・家族・外見を確認 | Eichmann本人かを判断 |
| 1960年春 | 継続監視 | 生活・帰宅経路を把握 |
| 作戦準備 | 実働要員・車両・隠れ家を準備 | 拘束から秘密保持までを可能にする |
| 航空日程確定 | 独立150周年行事に伴うEl Al機を利用 | イスラエルへの出口を確保 |
| 1960年5月11日 | Garibaldi Street付近で拘束 | 対象の身柄確保 |
| 5月11日以降 | 秘密拠点で身柄保持・本人確認 | 出国まで対象を隠す |
| 5月21日 | El Al機でブエノスアイレスを離脱 | イスラエルへ移送 |
まとめ|捕獲作戦ではなく「捕獲から国外離脱までのシステム」だった
1960年春までに、
イスラエル側はRicardo KlementがAdolf Eichmann本人であるとの確信を高めていた。
しかし、
所在を特定できたことは作戦の半分にも満たなかった。
対象は外国領内にいる。
そこで秘密拘束を選ぶなら、
接近、車両、隠れ家、身柄管理、航空機、
空港通過、国外離脱までを連続した一つの作戦として設計する必要がある。
作戦全体はMossad長官Isser Harelの指揮下で進められ、
David Ben-Gurion首相の支持を受けた。
実働面ではShin Bet要員が大きな役割を担い、
Rafi Eitan、Peter Malkin、Zvi Aharoni、Moshe Taborらが主要チームへ入った。
そして作戦側にとって大きな機会となったのが、
アルゼンチン独立150周年記念行事に伴うEl Al機の飛来だった。
これによって、
「捕まえる方法」と
「イスラエルまで運ぶ方法」が初めて一本につながった。
1960年5月11日。
準備していた計画は、
実際の路上で試されることになる。
仕事を終えたEichmannは、
いつものように帰宅しようとしていた。
Garibaldi Street付近では、
複数の男たちがすでに待っていた。
次回は、待ち伏せから接触、身体拘束、車両への収容、
そして隠れ家へ離脱するまで、
1960年5月11日の数分間を資料から再構成する。
CASE FILE 45|アドルフ・アイヒマン追跡・拘束作戦
- 第1回|アドルフ・アイヒマンはどう捕まったのか|戦後15年の逃亡・追跡・拘束作戦
- 第2回|アイヒマンは戦後どこへ消えたのか|米軍拘束からアルゼンチン逃亡まで
- 第3回|「リカルド・クレメント」は誰だったのか|ブエノスアイレスで暮らした逃亡犯
- 第4回|誰がアイヒマンの居場所を突き止めたのか|Lothar Hermann、Fritz Bauerと複数の手掛かり
- 第5回|「Ricardo Klement」は本当にアイヒマンか|身元確認と秘密監視
- 第6回|なぜアルゼンチンで秘密拘束することになったのか|アイヒマン捕獲作戦の計画【現在の記事】
- 第7回|1960年5月11日、Garibaldi Street|アイヒマン拘束はどう実行されたのか
- 第8回|拘束後の9日間|秘密拠点で行われた本人確認とイスラエル移送準備
- 第9回|アイヒマンをどうアルゼンチンから連れ出したのか|El Al機による秘密移送
- 第10回|アイヒマン拘束は合法だったのか|アルゼンチン抗議・国連安保理・エルサレム裁判へ
出典・参考資料
-
Yad Vashem — Operation Eichmann
Isser Harelの指揮、David Ben-Gurionの支持、
Rafi Eitan、Peter Malkin、Zvi Aharoni、Moshe Taborら拘束チーム、
Garibaldi Street付近での拘束、秘密拠点への移送、
11日後のEl Al機による移送の確認に使用。
-
Israel Security Agency(Shin Bet)— 60 Years Since the Operation to Bring Adolf Eichmann to Israel
Mossad・Shin Bet共同作戦であったこと、
作戦計画と実働要員、
Rafi Eitanの作戦日誌、
1960年5月21日のEl Al機出発の確認に使用。
-
Israel Security Agency — Organizational History
1959〜1960年のEichmann本人確認、
MossadとShin Betの共同作戦、
実際の拘束チームの大部分がShin Bet要員だったこと、
作戦用住居での本人確認、
Abba Ebanを独立150周年記念行事へ運んだEl Al機を利用したことの確認に使用。
-
United Nations — Letter dated 15 June 1960 from Argentina to the Security Council
アルゼンチンがEichmann事件を自国の主権に関わる問題として
安全保障理事会へ持ち込んだ事実の確認に使用。
-
United Nations Security Council — Resolution 138 (1960)
1960年6月23日に安全保障理事会がEichmann事件を扱う決議138を採択したこと、
秘密移送が外交・国家主権問題へ発展したことの確認に使用。
本記事では、秘密作戦が選択されたという確認事実と、
「正式手続なら必ず失敗した」「アルゼンチン政府が必ず情報を漏らした」といった反実仮想を分離しています。
作戦チームの所属・人数・細かな役割は資料や回想によって表現差があるため、
Yad Vashemおよびイスラエル総保安庁の公式資料で確認できる範囲を基準にしています。