1960年5月。
アドルフ・アイヒマンはすでに捕まっていた。
5月11日、ブエノスアイレス郊外のGaribaldi Street付近でイスラエル側の作戦チームに拘束され、
その後は市内に用意された秘密拠点で身柄を保持されていた。
しかし、まだアルゼンチン国内にいる。
ここからが作戦最後の難所だった。
外国領内で秘密裏に拘束した人物を、
正規の犯罪人引渡し手続を使わず、
国際空港を通過させ、
大西洋を越えてイスラエルまで運ばなければならない。
道路上での拘束なら数分で終わる。
空港には出入国管理があり、
航空会社の手続があり、
政府関係者や空港職員がいる。
一度でも身元が露見すれば、
約15年間に及んだ追跡と5月11日の拘束は、
アルゼンチンを離れる直前で失敗する可能性があった。
作戦側が利用したのは、
偶然その時期にブエノスアイレスへ飛来することになっていた
イスラエルの国営航空会社El Alの航空機だった。
CASE FILE 45
アドルフ・アイヒマン追跡・拘束作戦(全10回)
戦後15年間逃亡したAdolf Eichmannは、
どの情報から発見され、本人確認され、アルゼンチンで拘束され、
イスラエルへ移送されたのか。
CASE45では、所在特定から国外移送、そして外交問題までを一続きで追う。
CASE FILE 45|全10回
- 第1回|アドルフ・アイヒマンはどう捕まったのか|戦後15年の逃亡・追跡・拘束作戦
- 第2回|アイヒマンは戦後どこへ消えたのか|米軍拘束からアルゼンチン逃亡まで
- 第3回|「リカルド・クレメント」は誰だったのか|ブエノスアイレスで暮らした逃亡犯
- 第4回|誰がアイヒマンの居場所を突き止めたのか|Lothar Hermann、Fritz Bauerと複数の手掛かり
- 第5回|「Ricardo Klement」は本当にアイヒマンか|身元確認と秘密監視
- 第6回|なぜアルゼンチンで秘密拘束することになったのか|アイヒマン捕獲作戦の計画
- 第7回|1960年5月11日、Garibaldi Street|アイヒマン拘束はどう実行されたのか
- 第8回|拘束後の9日間|秘密拠点で行われた本人確認とイスラエル移送準備
- 第9回|アイヒマンをどうアルゼンチンから連れ出したのか|El Al機による秘密移送【現在の記事】
- 第10回|アイヒマン拘束は合法だったのか|アルゼンチン抗議・国連安保理・エルサレム裁判へ
先に結論|「民間便の乗客」として連れ出したわけではない
Eichmannは、
Ricardo Klement名義で普通に航空券を購入してイスラエルへ向かったわけではない。
El Alが公開している作戦史によれば、
EichmannにはEl Al乗務員の制服が着せられ、
体調を崩した乗務員のように見せる形で航空機へ運ばれた。
また、作戦側では事前に乗務員用の制服や身分関係書類が準備され、
Mossad側の人員の一部も航空会社関係者を装って移動していた。
そしてEichmann本人については、
医師による医学的管理の下で、
周囲から不自然に見えない状態にして空港を通過させたとされる。
つまり秘密移送の核心は、
「警備を突破する」ことではなかった。
空港を突破すべき場所に見せないこと。
通常の航空会社の業務に見える外形を作り、
対象の正体を知られないまま航空機の扉を閉めることだった。
なぜEl Al機がブエノスアイレスにいたのか
1960年は、
アルゼンチンが1810年の五月革命から150周年を迎える年だった。
その記念行事には各国から代表団が招かれ、
イスラエル側も公式代表団を送ることになっていた。
El Alの社史資料によれば、
この代表団の輸送が
ブエノスアイレスへイスラエル機を飛ばす表向きの目的になった。
Shin Bet側の記録でも、
アルゼンチン独立150周年記念行事に伴う公式便が
Eichmannの国外移送に利用されたことが確認できる。
これは作戦側にとって極めて都合のよい条件だった。
普段、
イスラエルからブエノスアイレスへ直接回収用航空機を送り込めば、
その目的自体を説明しなければならない。
しかし今回は、
政府代表団を運ぶという正当な飛行理由がある。
機体も乗員も、
「なぜアルゼンチンにいるのか」を説明できる。
秘密作戦のためだけに突然現れた航空機ではなかった。
使われた航空機|Bristol Britannia
El Alが公開している自社の歴史記事では、
この任務に使用された機種として
Bristol Britannia
が挙げられている。
1950年代に登場した4発ターボプロップ旅客機で、
当時のEl Alが長距離路線で使用していた機体だった。
El Alの記事では航続距離を約6,900kmとしており、
イスラエルと南米を一度で飛ぶのではなく、
複数地点で給油しながら運航するルートが計画された。
当初の往路計画として、
Lod → Rome → Dakar → Recife → Buenos Aires
という経路が紹介されている。
これはジェット旅客機による現在の長距離直行便とは大きく異なる。
南米からイスラエルへ一人を連れ帰るには、
航空機を確保するだけでなく、
給油地、飛行許可、乗員、天候まで含めて長距離飛行そのものを成立させる必要があった。
航空会社側にも作戦を知る人間が必要だった
El Al機を利用するとしても、
情報機関だけで航空機を飛ばすことはできない。
El Al側では、
飛行許可、
乗員編成、
飛行ルート、
給油地などを準備する必要がある。
同社の歴史記事は、
当時の経営陣や一部社員が作戦の秘密を共有し、
飛行計画に関与していたと記録している。
一方、
全員が作戦を知っていたわけではない。
同記事によれば、
代表団の一部や、
現地で通常のEl Al業務を担当することになった人物には
Eichmann移送の真の目的を知らされていなかった。
秘密作戦では、
関係者を増やせば準備は容易になるが、
情報漏洩の危険も増える。
そのため、
必要な者だけが作戦目的を知るという
情報の分離が行われていたことが分かる。
乗務員の制服と身分関係書類
空港を通るには、
Eichmannを「乗客」に見せるより
「航空会社側の人物」に見せる方が都合がよかった。
El Alの記録では、
作戦のために制服や乗務員関係の証明書が準備されたとしている。
また、Mossad側の人員の一部が
El Alの乗務員を装えるよう準備されていた。
さらに同社の歴史記事には、
身分関係書類に使う写真をEichmannへ合わせるため、
作戦側の一人が外見を似せる処置を受け、
アルゼンチンに残った後、
その証明書をEichmann側で利用する計画だったという詳細も記載されている。
この細部は主としてEl Alの社史記事に依存するため、
本シリーズでは
「作戦のため乗務員制服と身分関係書類が準備された」
という部分を中心に扱う。
いずれにしても、
空港通過は即興ではなかった。
拘束前から、
Eichmannを航空機へ接続するための身分上の外形が準備されていた。
秘密拠点から空港へ|「酔った乗務員」に見せたのか
Eichmann移送で有名なのが、
「酒に酔ったEl Al乗務員を装った」という説明である。
El Alの公式歴史記事では、
Eichmannは乗務員の制服を着せられ、
部分的に薬物を投与された状態で航空機へ移され、
「病気の乗務員」として扱われたと記録されている。
後年の回想や二次資料では、
「酔っているように見せた」という表現が広く使われている。
しかし、
公式資料で確認できる範囲では、
中心になるのは
乗務員の制服・医学的管理・体調不良者としての偽装
である。
そのため本シリーズでは、
「大量の酒を飲ませた」
といった単純な描写にはしない。
FACT CHECK|薬で完全に意識を失わせて運んだわけではない
El Alの社史記事は、
Eichmannが部分的に薬物を投与された状態で、
El Al乗務員の制服を着せられ、
体調を崩した乗務員として航空機へ運ばれたとしている。
この作戦には医師も参加していたことが、
Yad Vashemやイスラエル側資料から確認できる。
一方、
投与された薬剤名・量・意識レベルについては、
回想や二次資料で細部に差がある。
そのため本記事では、
「医学的管理下で行動を制限し、病気の乗務員に見せた」
という公的資料で確認しやすい範囲を基準とする。
空港で起きた予想外の停止
El Alの歴史記事には、
航空機の扉が閉じた後にも、
作戦が失敗しかねない瞬間があったと記録されている。
機体が滑走路へ向かおうとしたとき、
管制塔から飛行を一時止め、
乗員の一人を塔へ送るよう指示が入ったという。
Eichmannはすでに機内にいる。
もし当局が失踪事件に気づき、
航空機を検査するための停止命令だったなら、
ここで作戦は露見する。
しかしEl Al側の記録によれば、
原因は飛行登録に関する軽微な行き違いであり、
乗員は短時間で機内へ戻った。
結果として航空機は離陸できた。
このエピソードはEl Alの後年の社史記録に依存するが、
作戦にとって
「車から機内へ入れれば成功」ではなく、
アルゼンチンの滑走路から実際に離れるまで失敗の可能性が残っていた
ことをよく示している。
出発日は5月20日か、5月21日か
ここでは資料差をそのまま示す必要がある。
El Alが現在公開している歴史記事は、
1960年5月20日の夜にEichmannを秘密拠点から航空機へ移し、
同日23時05分に離陸したと記録している。
一方、
イスラエル総保安庁Shin Betは、
2020年5月21日の60周年声明で、
「今日からちょうど60年前、
Eichmannを乗せたEl Al機がブエノスアイレスからイスラエルへ離陸した」
としている。
同じイスラエル側の公式系資料でも、
離陸日の記録に1日の差がある。
したがってCASE45では、
出発日を一方だけに合わせて他方を消さない。
FACT CHECK|公式系資料でも出発日に1日の差がある
| 資料 | 記載 |
|---|---|
| El Al社史 | 1960年5月20日夜に機内へ移送、23:05離陸 |
| Shin Bet 60周年資料 | 1960年5月21日にブエノスアイレスを離陸 |
| Yad Vashem | 5月11日の拘束から11日後にEl Al機でイスラエルへ移送 |
本シリーズでは、
「5月20日夜から21日にかけてアルゼンチンを離脱した」
と整理し、
これ以上の日付統一は行わない。
一方、
5月22日のイスラエル到着と
5月23日のBen-Gurionによる公表は別の出来事として扱う。
大西洋横断|最初の目的地はDakar
離陸しただけでは作戦は終わらない。
Bristol Britanniaは
ブエノスアイレスからイスラエルまで無給油で飛べる機体ではなかった。
帰路についてEl Alの歴史記事では、
気象条件を検討した結果、
ブエノスアイレスから西アフリカのDakarまで
直接飛ぶルートが選択されたとされる。
南西からの追い風を利用し、
燃料の余裕が小さい状態で大西洋を横断したという。
この部分は、
秘密作戦というより長距離航空運航そのものの問題である。
対象を捕まえる情報要員だけでは完結しない。
機長、
航法士、
航空機関士、
通信担当、
整備担当。
長距離飛行を成立させる通常の航空技術があって初めて、
Eichmannをアルゼンチンの外へ運ぶことができた。
なぜRomeへ降りなかったのか
El Alの歴史記事によれば、
帰路では当初Romeも経由地として考えられていた。
しかし飛行中、
作戦露見の可能性を考慮して計画が変更されたという。
もしEichmann失踪の情報が世界へ広まり、
Romeで報道陣や当局が航空機を待ち構えていれば、
着陸すること自体がリスクになる。
そこでRomeには着陸せず、
上空を通過してLodへ向かったとEl Alは記録している。
ここでも重要なのは、
作戦計画が離陸時点で固定されていたわけではないことだ。
国外へ出た後も、
情報漏洩や政治状況を見ながら
飛行ルートを変更する必要があった。
5月22日|イスラエル到着
El Alの社史記事は、
航空機が1960年5月22日午前6時40分にLodへ着陸したと記録している。
Yad Vashemも、
5月23日のBen-Gurionによる発表を
「Eichmann到着の2日後」と説明しており、
イスラエルへの到着がその直前だったことを示している。
Shin Betの公式史でも、
Eichmannがイスラエルへ運ばれ、
到着後に正式な拘束状態へ置かれたとされる。
ここで初めて、
アルゼンチン領内での秘密作戦は終わる。
外国の市街地にある秘密拠点から、
イスラエルの司法・捜査機関が管理できる場所へ身柄が移った。
5月23日|世界はそこで初めて知った
イスラエル政府は、
Eichmannを拘束した5月11日に世界へ発表しなかった。
アルゼンチン国内にいる間に公表すれば、
移送自体が不可能になる。
航空機がアルゼンチンを離れても、
まずイスラエルへ安全に到着する必要がある。
そして1960年5月23日、
David Ben-Gurion首相がクネセトで短い声明を行った。
クネセトの公式資料によれば、
Ben-Gurionは、
イスラエルの治安機関が主要なナチ犯罪者の一人Adolf Eichmannを発見し、
すでにイスラエル国内で拘束しており、
イスラエル法に基づいて裁判を受けることになると発表した。
世界がEichmann拘束を知ったのは、
作戦側から見れば最も危険な段階がすべて終了した後だった。
移送を時系列で整理する
| 時期 | 出来事 | 意味 |
|---|---|---|
| 5月11日 | Garibaldi Street付近で拘束 | 追跡から秘密拘束へ |
| 5月11日以降 | ブエノスアイレスの秘密拠点で保持 | 本人確認・出国待機 |
| 移送前 | 乗務員制服・身分関係書類・医学的管理を準備 | 空港通過のための偽装 |
| 5月20日夜 | El Al資料ではEichmannを航空機へ移送 | 秘密拠点から空港へ |
| 5月20日23:05/Shin Betでは5月21日 | ブエノスアイレスを離陸 | アルゼンチン領内から離脱 |
| 帰路 | Dakar経由、Rome着陸を回避したとEl Alが記録 | 身柄をイスラエルへ輸送 |
| 5月22日 | Lodへ到着 | 秘密移送完了 |
| 5月23日 | Ben-Gurionがクネセトで公表 | 作戦が世界へ明らかになる |
地図で見る|ブエノスアイレスからイスラエルへ
El Al機による移送の概略
Buenos Aires
↓ 大西洋横断
Dakar
↓
Rome方面
※El Al社史では最終的にRomeへ着陸せず通過
↓
Lod / Israel
この図はEl Alが公開している帰路説明を簡略化したもの。
実際の飛行経路は気象、燃料、飛行許可などによって決定されるため、
現在の民間航空路をそのまま1960年の航跡として表示するものではない。
「飛行機に乗せる」ことがなぜ最大の難所だったのか
Garibaldi Streetでの拘束では、
作戦側が時間と場所を選べた。
秘密拠点でも、
内部の状況は作戦側が管理できる。
しかし空港では違う。
そこには作戦を知らない多数の第三者がいる。
空港職員。
入国・出国管理担当者。
航空会社関係者。
警備担当。
政府関係者。
他の旅行者。
しかもEichmannは、
普通の乗客として自由意思で旅行している人物ではない。
その状態を外から見て不自然に見せず、
航空機まで運ぶ必要がある。
このため、
制服、
身分関係書類、
医師、
航空会社との調整がすべて必要だった。
秘密移送は
「一人をこっそり機内へ隠した」
という単純な方法ではなかった。
通常の航空運航の中へ、異常な一人を紛れ込ませる作戦だった。
作戦は成功した。しかし問題はそこで始まった
5月22日までに、
作戦側の目標は達成された。
Eichmannはアルゼンチンを離れ、
イスラエル国内で拘束された。
5月23日、
Ben-Gurionがその事実を公表した。
しかし発表を聞いたアルゼンチン側から見れば、
別の事実が明らかになったことになる。
外国の情報・治安要員が、
アルゼンチン領内で一人の住民を秘密裏に拘束し、
アルゼンチン政府が管理する正式な犯罪人引渡し手続を経ず、
国外へ運んでいた。
Eichmannがナチ体制下で何をした人物なのかという問題と、
他国の領土でこのような行為を行うことが許されるのかという問題は、
同じではない。
秘密移送が成功した瞬間、
HUNTとMISSIONは終わった。
代わりに始まったのが、
国家主権と国際法をめぐる争いだった。
まとめ|最後の関門は「国境」だった
1960年5月11日、
Adolf Eichmannはブエノスアイレス郊外で拘束された。
しかし、
それだけではイスラエルで裁判にかけることはできない。
作戦側には、
アルゼンチンから身柄を出す方法が必要だった。
その出口になったのが、
アルゼンチン独立150周年記念行事に伴って
ブエノスアイレスへ飛来したEl Al機だった。
El Al側の一部関係者は作戦準備に加わり、
乗務員制服、身分関係書類、飛行計画、
給油地などが準備された。
Eichmann本人には乗務員の制服が着せられ、
医学的な管理を伴う状態で
体調を崩した航空会社関係者のように見せて機内へ運んだとEl Alは記録している。
出発日の細部には資料差がある。
El Al社史は5月20日23時05分。
Shin Betは5月21日。
本シリーズではこの違いを無理に統一しない。
確実なのは、
5月20日夜から21日にかけてEichmannがアルゼンチンを離れ、
5月22日までにイスラエルへ到着したこと。
そして5月23日、
Ben-Gurion首相がクネセトで、
Eichmannがすでにイスラエルで拘束されていると世界へ公表した。
15年間の逃亡。
数年間に散らばった所在情報。
本人確認。
秘密監視。
5月11日の拘束。
秘密拠点での保持。
そして大西洋を越える航空移送。
追跡作戦としては、
ここで完了した。
しかし歴史的には、
ここからもう一つの事件が始まる。
アルゼンチン政府は、
自国の主権を侵害されたとしてイスラエルへ抗議する。
問題は国連安全保障理事会へ持ち込まれ、
1960年6月23日には決議138が採択される。
そしてイスラエル側では、
「違法な方法で連れてこられた人物を裁判にかけることができるのか」
という別の法的問題も生じる。
最終回は、
Eichmannの犯罪そのものではなく、
「捕まえ方は合法だったのか」
という問いを追う。
CASE FILE 45|アドルフ・アイヒマン追跡・拘束作戦
- 第1回|アドルフ・アイヒマンはどう捕まったのか|戦後15年の逃亡・追跡・拘束作戦
- 第2回|アイヒマンは戦後どこへ消えたのか|米軍拘束からアルゼンチン逃亡まで
- 第3回|「リカルド・クレメント」は誰だったのか|ブエノスアイレスで暮らした逃亡犯
- 第4回|誰がアイヒマンの居場所を突き止めたのか|Lothar Hermann、Fritz Bauerと複数の手掛かり
- 第5回|「Ricardo Klement」は本当にアイヒマンか|身元確認と秘密監視
- 第6回|なぜアルゼンチンで秘密拘束することになったのか|アイヒマン捕獲作戦の計画
- 第7回|1960年5月11日、Garibaldi Street|アイヒマン拘束はどう実行されたのか
- 第8回|拘束後の9日間|秘密拠点で行われた本人確認とイスラエル移送準備
- 第9回|アイヒマンをどうアルゼンチンから連れ出したのか|El Al機による秘密移送【現在の記事】
- 第10回|アイヒマン拘束は合法だったのか|アルゼンチン抗議・国連安保理・エルサレム裁判へ
出典・参考資料
-
El Al — “Operation Finale”: The Capture and Bringing of Adolf Eichmann to Israel
Bristol Britanniaの使用、
航空会社側の準備、
乗務員制服・身分関係書類、
往路・帰路の飛行計画、
Eichmannを乗務員として偽装した移送、
5月20日23:05の離陸記録、
Dakar経由とRome着陸回避、
5月22日06:40のLod到着について確認。
-
Israel Security Agency(Shin Bet)— 60 Years Since the Operation to Bring Adolf Eichmann to Israel
Mossad・Shin Bet共同作戦であったこと、
Eichmannを乗せたEl Al機が1960年5月21日にブエノスアイレスから離陸したとする公式記録の確認に使用。
El Al社史との1日の差は本文で明示した。
-
Yad Vashem — Operation Eichmann
5月11日の拘束、
秘密拠点での本人確認、
同意文書への署名、
その11日後にEl Al機で秘密裏にイスラエルへ移送されたこと、
到着後にBen-Gurionが公表した経緯の確認に使用。
-
The Knesset — Capture of Nazi Criminal Adolf Eichmann
1960年5月23日、
David Ben-Gurion首相がクネセトで
Eichmannがすでにイスラエル国内で拘束されていることを発表した事実の確認に使用。
本記事では、El Alが公開する航空会社側の詳細な作戦史と、
Shin Bet、Yad Vashem、Knessetの公的資料を照合しています。
特にブエノスアイレス離陸日は、
El Al社史が1960年5月20日23:05、
Shin Betの60周年資料が1960年5月21日としており、
公式系資料間に1日の差があります。
このため一方を誤りと断定せず、
本文では「5月20日夜〜21日にかけての出国」と整理しています。
また薬剤の種類・量や偽装身分証の細部など、
資料ごとに詳細度が異なる事項は確認できる範囲を超えて補完していません。