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あさま山荘事件とは何だったのか10日間の籠城と人質救出の全体像

あさま山荘事件とは何だったのか|10日間の籠城と人質救出の全体像

人質・籠城事件

1972年2月19日、長野県軽井沢。

警察に追われていた連合赤軍のメンバー5人が「あさま山荘」に入り、そこにいた管理人の妻を人質に取って立てこもった。

山荘にはバリケードが築かれ、壁には銃眼が設けられた。内部には銃器と爆発物があり、外には警察部隊が展開した。

しかし、警察はすぐには突入しなかった。

中には人質がいる。犯人側は武装している。現場は2月の軽井沢で、厳しい寒さの中にある。

こうして始まった籠城は、その日のうちには終わらなかった。

翌日も、その翌日も山荘は包囲されたままだった。

最終的に事件が動いたのは、立てこもり開始から10日目となる2月28日である。

警察は山荘への突入を実施。人質は救出され、立てこもっていた5人は全員逮捕された。

ただし、これは単純な「人質救出の成功」で終わる事件ではなかった。

警察官2人が殉職し、26人が重軽傷を負った。さらに一般人1人が死亡し、1人が負傷している。

そして事件が終わった後、警察の捜査によって、連合赤軍が山中で仲間を次々と死亡させていた「山岳ベース事件」の全貌も明らかになっていく。

あさま山荘事件とは何だったのか。

このCASE FILEでは、政治思想史を広く語るのではなく、「5人はなぜこの山荘へ来たのか」「警察はなぜ10日間も突入しなかったのか」「最後の突入では何が起きたのか」という事件そのものの流れを追っていく。

CASE FILE 37|あさま山荘事件 1972

この記事で分かること

  • あさま山荘事件がいつ、どこで、どのように起きたのか
  • 立てこもった5人がなぜ警察に追われていたのか
  • なぜ事件が10日間に及んだのか
  • 警察がどれほどの規模で対応したのか
  • 2月28日の突入で何が起きたのか
  • 事件によって生じた人的被害
  • あさま山荘事件と山岳ベース事件の違い
  • このシリーズで今後どの論点を追っていくのか

先に結論|あさま山荘事件は「10日間の人質籠城事件」だった

あさま山荘事件は、1972年2月19日から28日にかけて、長野県軽井沢町で発生した人質立てこもり事件である。

警察に追われていた連合赤軍のメンバー5人があさま山荘へ入り、管理人の妻を人質として籠城した。

犯人側は銃器や爆発物を持っており、山荘にはバリケードや銃眼が設けられた。

警察側は人質の生命を最優先しながら包囲を続け、長野県警察、警視庁などから延べ約1万4,000人が警備に投入された。

2月28日に警察が山荘へ突入し、人質を救出。5人全員を逮捕して事件は終結した。

項目 内容
発生 1972年2月19日
終結 1972年2月28日
場所 長野県軽井沢町・あさま山荘
立てこもった人数 連合赤軍メンバー5人
人質 山荘管理人の妻1人
籠城期間 10日間
警察動員 延べ約1万4,000人
結果 人質救出・5人全員検挙
警察側被害 殉職2人・重軽傷26人
一般人被害 死亡1人・負傷1人

FACT CHECK|「1万4,000人の警察官が山荘を取り囲んだ」わけではない

警察庁『昭和48年 警察白書』が記録している「1万4,000人」は、10日間の警備に投入された警察官の延べ人数である。

同時に1万4,000人が現場を包囲していた、という意味ではない。

事件の始まりは、2月19日より前だった

あさま山荘事件だけを見ると、突然5人の若者が山荘へ入り、人質を取って立てこもった事件のように見える。

しかし、警察との追跡はそれ以前から始まっていた。

警察庁『昭和48年 警察白書』によれば、1972年2月7日、群馬県警察は一般人から寄せられた不審な放置車両の届出をきっかけに、榛名山中で雪に埋もれたアジトを発見した。

当時の連合赤軍は、都市部を拠点とする通常の政治組織ではなく、山岳地帯に複数の拠点を置きながら活動していた。

警察がアジトを発見したことで捜査網が急速に狭まっていく。

逃走を続けたメンバーの一部は次々と警察に確保される一方、5人が長野県側へ移動した。

その逃走の末に現れたのが、軽井沢のあさま山荘だった。

つまり、あさま山荘事件は単独で突然始まったのではない。

山中に潜伏していた連合赤軍を警察が発見し、逃げる側と追う側の距離が縮まり続けた末に発生した事件として見る必要がある。

第2回では、この「なぜ5人はあさま山荘まで追い込まれたのか」を詳しく追う。

2月19日|逃走していた5人が山荘へ入った

1972年2月19日。

警察の追跡を受けていた5人は、軽井沢のあさま山荘へ入り込んだ。

山荘にはそのとき、管理人の妻が一人で残っていた。

警察白書によれば、5人は彼女をロープで拘束して人質とした。

そして山荘内部にバリケードを築き、壁には外へ向けて発砲するための銃眼を設けるなど、警察の接近に備えた。

ここで事件の性質が変わる。

それまで警察が追っていたのは、山岳アジトから逃走している連合赤軍メンバーだった。

しかし山荘へ入った時点で、事件は「逃亡者の追跡」から「武装した5人による人質籠城事件」へ移行した。

警察にとって最大の問題は、人質が生きたまま山荘内にいることだった。

犯人を逮捕するだけなら、選択できる手段は広い。

しかし人質救出が加われば、突入によって犯人側を追い詰めること自体が、人質を危険にさらす可能性を持つ。

この条件が、その後10日間の警察活動を大きく制約することになる。

なぜ10日間も終わらなかったのか

現在から結果だけを見ると、一つの山荘を多数の警察官が包囲しているなら、すぐに突入できそうにも見える。

しかし現場には、少なくとも四つの大きな制約があった。

1.人質がいた

最も大きい。

警察側が強行突入すれば、犯人側が人質を殺害する可能性がある。

警察庁は事件後の白書でも、この警備について「人命尊重」を第一義としたと記録している。

犯人逮捕より先に、人質を生きて救出する必要があった。

2.犯人側が銃器を持っていた

5人は単に建物へ鍵をかけて立てこもっていたわけではない。

警察白書には、銃器や爆発物を使用して抵抗したことが記録されている。

警察官が接近すれば、建物内部から射撃を受ける危険があった。

3.山荘そのものが防御拠点になった

山荘にはバリケードが築かれ、壁には銃眼が設けられた。

建物は、人質を抱えた5人にとって単なる避難場所ではなく、外部からの接近に抵抗する拠点へ変えられていた。

4.2月の軽井沢という環境

警察白書は現場条件を「酷寒の山岳地帯」と表現している。

包囲する警察側も、寒さの中で長時間警備を継続しなければならなかった。

建物、人質、武器、寒さ。

人数だけでは解決できない条件が重なっていた。

FACT CHECK|「警察が何もせず10日間待っていた」のではない

10日間という数字だけを見ると、警察が突入をためらい続けたようにも見える。

しかし実際には、包囲、警戒、説得、接近方法の検討などを継続しながら、人質への危険を抑えて事件を終わらせる方法が模索されていた。

なぜ即時突入を選択しなかったのかは、第4回で警察側の作戦判断として詳しく扱う。

包囲の規模は「延べ1万4,000人」まで膨らんだ

事件は長野県内で発生したが、対応したのは長野県警だけではなかった。

警視庁などからも部隊が派遣され、大規模な警備体制が組まれた。

警視庁の公式な歴史資料では、あさま山荘事件に約500人の応援部隊を派遣したと記録されている。

警察庁がまとめた10日間の警察官動員数は、延べ約1万4,000人。

この数字から分かるのは、単純な現場人数の多さよりも、昼夜を通じて交代しながら長期間の警備を維持しなければならなかった事件の規模である。

しかも警察官が遠巻きに山荘を監視するだけでは済まなかった。

犯人側は外へ向けて発砲した。

警察官だけでなく、現場周辺にいた報道関係者らも危険にさらされた。

そして籠城中には、人質の身代わりになることを申し出て現場へ接近した一般人が撃たれ、後に死亡している。

事件が長引けば、危険にさらされる人間も増えていった。

2月28日|10日間の籠城が終わった

籠城開始から10日目となった1972年2月28日。

警察は最終的な突入作戦を実施した。

この日の映像として後世まで強く残ることになるのが、山荘へ向けられる大量の放水や、重機を使用して建物へ接近・開口していく場面である。

ただし、その映像だけを見ると「大人数の警察が一気に建物を破壊した」ようにも見える。

実際の突入は、武装した犯人からの射撃を受けながら、人質の位置を確認し、建物内部へ少しずつ進んでいく危険な作業だった。

警察側にも死傷者が発生した。

最終的に人質は救出され、山荘に立てこもっていた5人は全員逮捕された。

これによって、2月19日から続いていた籠城事件そのものは終結する。

しかし、事件の人的被害は大きかった。

区分 死亡 負傷
警察官 2人 26人
一般人 1人 1人
人質 0人

最も重要な目的だった人質救出は達成された。

一方で、警察官2人と一般人1人の命が失われた。

警察庁は事件後、銃器や爆発物に対応するための装備充実が必要だと総括している。

つまり、この事件は一つの立てこもり事件の終結だけではなく、後の警察装備や重大事件への対応を考えるうえでも大きな経験となった。

「あさま山荘事件」と「山岳ベース事件」は同じ事件ではない

連合赤軍を調べると、あさま山荘事件とほぼ必ず一緒に出てくるのが「山岳ベース事件」である。

ここは分けて考えたほうが分かりやすい。

あさま山荘事件は、5人が人質を取って山荘へ立てこもり、警察と対峙した事件である。

一方の山岳ベース事件は、それ以前に連合赤軍内部で発生していた仲間への暴行・殺害事件を指す。

警察庁の後年の整理では、連合赤軍29人のうち12人が「総括」や「処刑」の名の下に死亡させられたとされている。

この二つは密接につながっているが、同じ事件ではない。

しかも重要なのは、現在の私たちは両方の結末を知っている一方、1972年2月19日の時点で社会が連合赤軍内部の殺人の全容を把握していたわけではないという点である。

したがって本シリーズでも、後から判明した事実を最初から現場の警察や報道が知っていたかのようには描かない。

第2回では、山岳ベース事件そのものを詳述するのではなく、5人が警察に追われて軽井沢へ至るために必要な範囲だけを整理する。

現場は「浅間山そのもの」ではない

事件名の「あさま山荘」から、浅間山の山中深くにある山小屋を想像するかもしれない。

しかし事件現場は、長野県軽井沢町にあった「あさま山荘」である。

現在「浅間山荘」という名称を持つ別の宿泊施設や登山施設も存在するため、現代の地図検索では事件現場と別施設を混同しない注意が必要になる。

地図:長野県軽井沢町周辺。事件当時の「あさま山荘」の歴史的位置を理解するための地域表示であり、現在「浅間山荘」と呼ばれる別施設の所在地を示すものではありません。

なぜこの事件は一つのCASE FILEになるのか

あさま山荘事件は、「連合赤軍が山荘に立てこもった」という一文だけなら単純に見える。

しかし事件を分解すると、複数の疑問が現れる。

  • そもそも5人はなぜ警察に追われていたのか。
  • なぜ偶然入った山荘で人質事件になったのか。
  • 多数の警察官がいたのに、なぜすぐ突入できなかったのか。
  • なぜ10日間も膠着したのか。
  • 説得はなぜ成功しなかったのか。
  • 最終突入はどのように計画されたのか。
  • 2月28日の山荘内部では何が起きていたのか。
  • なぜ事件はテレビ史にも残る出来事になったのか。
  • 事件後、警察や社会は何を変えたのか。

これらを一つの記事へ詰め込むと、最も重要な「なぜ」が見えなくなる。

そのためCASE FILE 37では、事件を10本に分ける。

第1回で全体像を確認したうえで、第2回からは一つずつ時間を戻し、事件成立の条件を追っていく。

あさま山荘事件を時系列で見る

時期 出来事 CASE37で扱う回
1972年2月7日 群馬県警が榛名山中のアジトを発見し、捜査が進む 第2回
2月中旬 連合赤軍メンバーが山岳地帯を移動・逃走 第2回
2月19日 5人があさま山荘へ入り、管理人の妻を人質として立てこもる 第3回
2月19日以降 警察が山荘を包囲。説得と警備が続く 第4~6回
2月28日 警察が最終突入を実施 第7~8回
2月28日 人質救出、立てこもった5人全員を逮捕 第8回
事件後 捜査・裁判、警察活動への影響、事件の社会的記憶 第9~10回

まとめ|10日間の籠城は、逃走の終着点だった

1972年2月19日、警察に追われていた連合赤軍の5人が軽井沢のあさま山荘へ入った。

その場にいた管理人の妻を人質に取り、バリケードを築き、銃器や爆発物を使って警察に抵抗した。

警察は人質の生命を最優先に包囲を続けた。

長野県警、警視庁などから投入された警察官は10日間で延べ約1万4,000人。

2月28日、最終突入によって人質は救出され、5人は全員逮捕された。

しかしその過程で警察官2人と一般人1人が死亡した。

あさま山荘事件を理解するとき、最終日の突入だけを見ても全体像は分からない。

5人がなぜ軽井沢へ来たのか。

なぜ山荘へ入ったのか。

なぜ人質を取ったのか。

そして、なぜ警察との対峙が10日間も続いたのか。

次回は時計を2月19日より前へ戻す。

警察が山岳アジトを発見した2月7日から、5人があさま山荘へ逃げ込むまで。

10日間の籠城は、どのように始まったのかを追う。

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CASE FILE 37|全10回

今回出てきた言葉

連合赤軍
1971年に赤軍派と日共革命左派系の軍事組織が統合して成立した組織。山岳アジトを拠点として活動し、1972年に山岳ベース事件とあさま山荘事件が明らかになった。
あさま山荘事件
1972年2月19日から28日まで、連合赤軍メンバー5人が長野県軽井沢町のあさま山荘で人質を取って立てこもった事件。
山岳アジト
連合赤軍が訓練や潜伏などに使用していた山岳地帯の拠点。1972年2月7日のアジト発見が、あさま山荘事件へつながる警察追跡の重要な転換点となった。
山岳ベース事件
あさま山荘事件以前、連合赤軍内部で「総括」などの名の下にメンバーが暴行され、12人が死亡した一連の事件。あさま山荘での人質籠城とは区別して扱う必要がある。
延べ人数
一定期間に参加した人数を日ごと・勤務ごとなどで積算した値。同じ人物が複数日に参加すれば複数人分として数えられるため、「延べ1万4,000人」は同時に現場にいた人数ではない。

出典・参考資料

  • 警察庁『昭和48年 警察白書』
    あさま山荘事件の発生経緯、2月7日の山岳アジト発見、2月19日の籠城開始、警察官延べ1万4,000人の動員、人的被害、人質救出・5人検挙について参照。
  • 警察庁『昭和63年 警察白書』
    連合赤軍の成立、山岳ベース事件とあさま山荘事件の関係、5人が警察に発見されて山荘へ逃げ込んだ経緯の整理に参照。
  • 警視庁「警視庁の歴史」
    あさま山荘事件への警視庁応援部隊約500人の派遣、人質救出、被疑者5人逮捕、警察官2人殉職の確認に参照。
  • 長野県警察「極左暴力集団ってなに?」
    長野県警による現在の事件概要説明と、軽井沢町で10日間にわたって発生した事件であることの確認に参照。
  • 警察文化協会『連合赤軍あさま山荘人質事件』1973年
    事件直後に刊行された警察関係資料として、国立国会図書館サーチで書誌・所蔵を確認。本文制作における追加一次資料候補として位置付ける。

資料上の注意:
本記事では、事件から比較的近い時期に作成された警察庁の公式記録を基準資料としています。ただし、警察白書は警察側が作成した公的記録であり、事件当事者の認識をそのまま示す資料ではありません。今後の各回では、必要に応じて長野県警察側の記録、裁判資料、当事者記録、報道記録を照合し、事実として確認できる事項と当事者による回想・主張を区別します。

表記上の注意:
資料によって「浅間山荘事件」「あさま山荘事件」「連合赤軍あさま山荘人質事件」など表記が異なります。本シリーズでは、シリーズ名および本文の基本表記を「あさま山荘事件」に統一します。