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アムンセン対スコット二つの隊はどのルートで南極点へ進んだのか基地・氷河・補給線の比較

アムンセンが1911年11月の南極点行で撮影したトランスアンタークティック山脈のフリチョフ・ナンセン山。雪と氷河の向こうに急峻な山体がそびえる。

STORY SO FAR

前回「犬ぞり・スキー対ポニー・モーターそり|二つの輸送計画はどう違ったのか」で確認した論点を受け、この回では二つの隊はどのルートで南極点へ進んだのか | 基地・氷河・補給線の比較について、この回が担う固有の論点は何か。を扱う。

アムンセン隊とスコット隊は、どちらもロス海側から南極点を目指した。

しかし、同じ「南へ進む」遠征でも、実際に使った線は同じではない。

アムンセンはクジラ湾のフラムハイムからロス棚氷をほぼ南へ進み、85度南緯付近で未知だった山地へ入り、アクセル・ハイバーグ氷河を使って南極高原へ上がった。

スコットはロス島のケープ・エバンスを冬営基地とし、ハット・ポイント側からロス棚氷へ出て、シャクルトンが1908年に通ったベアドモア氷河を使って高原へ上がった。

両隊は最終的に同じ地理的南極点へ向かったが、基地の置き場所、棚氷上の進路、山脈を越える氷河、デポの配置と発見方法が違っていた。

前の記事では犬、ポニー、モーターそり、人力曳行という輸送手段を比較した。ここではその議論をいったん閉じる。

見るのは「何で運んだか」ではなく、どこを通り、どこに物資を置き、帰路でその線をどう再利用する設計だったかである。

二つの基地は、最初から同じ位置にいなかった

アムンセンの冬営基地フラムハイムは、クジラ湾のロス棚氷上に置かれた。

アムンセン隊の観測記録ではフラムハイムは南緯78度38分付近にあり、FRAM Museumはスコット側の基地に比べて南極点へ約96km近い位置だったと整理している。

この約96kmは、それだけで勝敗を決める数字ではない。

棚氷の状態、山地へ入る位置、高原上の迂回、デポ運用が違うため、基地から極点までの実移動距離を単純に96km差し引けばよいわけではない。

それでも、遠征開始時点の地理的条件として、アムンセンがより南側から出発できたことは事実である。

一方、スコットの主基地ケープ・エバンスはロス島にあった。

遠征隊はここに大型の小屋を建て、科学観測と越冬を行った。本番の南行ではケープ・エバンスだけを一点の「スタート」と考えると分かりにくい。ロス島南西側のハット・ポイントやSafety Campを経てロス棚氷へ入り、そこから内陸へ伸びる補給線を使ったからである。

つまり二つの隊は、極点へ向かう以前に、基地と棚氷への接続方法が違っていた。

アムンセンはフラムハイムから棚氷へ直接南下できる構成だった。

スコットはケープ・エバンスを生活・研究の中心としつつ、ハット・ポイント側から棚氷ルートへ接続した。

この違いが、そのままデポ設置と帰路の線にも影響する。

アムンセンは本番前に80度、81度、82度へ物資を進めた

アムンセン隊は1911年2月から4月、本番より前に南へ複数回のデポ行を実施した。

アムンセン自身の記録によれば、80度、81度、82度南緯に3か所の主要デポを作り、合計約3トンの物資を前進配置した。

80度のデポだけでも大量の食料と燃料が置かれ、81度、82度にも犬用ペミカン、人用食料、燃料などが分散された。

ここで重要なのは、デポが単なる「食料の山」ではなかったことである。

本番の極点行では、フラムハイムからすべての食料を一度に運ぶのではなく、すでに南へ置いてある物資を拾いながら進める。

帰路も同じである。

南下時に通ったデポ列は、そのまま北上時の生命線になる。

だから「デポを作った」という事実より、帰りに再発見できるようにしたかが重要になる。

アムンセンはデポを横方向にも広くマーキングした

ロス棚氷は広く、雪面には目印が少ない。

晴天なら進行方向を維持できても、霧、降雪、低い雲、吹雪で視界が落ちれば、数km横へずれただけで小さなデポを見失う可能性がある。

アムンセン隊はこの問題を強く意識していた。

80度南緯のデポでは、デポそのものから東西方向へ竹竿と黒い旗を並べた。アムンセンの記録では、左右10本ずつ、合計20本を約900m間隔で置き、それぞれの側へ約9kmの帯を作っている。[1]

旗には番号を付け、どちら側に本体デポがあり、そこまでどの程度離れているか判断できるようにした。

これは一本の点を狙う方式ではない。

帰還隊が予定線から東西へずれても、まず横長のマーキング帯のどこかに接触し、そこからデポ本体へ戻れるようにする考え方である。

さらに本番では、80度23分以南で雪のビーコンを多数築いた。

アムンセンの公刊記録では最終的に150基の雪標を作り、82度以南ではおおむね5kmごとにビーコンを置き、各緯度でデポを作る方針へ強化している。

これは「方向感覚が優れていた」から不要だったのではない。

逆である。

方向を失う可能性を前提に、帰り道を人工物で冗長化した。

82度を越えると、アムンセン隊は未知の区間へ入った

80度、81度、82度までは、本番前のデポ行で通った区間だった。

1911年11月6日に82度南緯を出ると、その先はアムンセン隊自身にとって未踏のルートになる。[1]

ここから隊は、83度、84度、85度と南下するごとに物資を残し、帰路で使える補給点を増やした。

11月17日ごろ、85度南緯付近でロス棚氷の平坦な行程が終わり、目の前にトランスアンタークティック山脈の高い山々が立ちはだかる。

ここに大きなルート選択があった。

スコット側が使うベアドモア氷河はシャクルトン遠征によって既知だった。

アムンセンはそこへ回り込まず、より東側の山地から自分たちで高原へ上がる通路を探した。

その結果使われたのが、後にアクセル・ハイバーグ氷河と命名された氷河である。

アクセル・ハイバーグ氷河は「近道」という一語では足りない

アクセル・ハイバーグ氷河は、ロス棚氷から南極高原へ標高を上げるための通路だった。

アムンセン隊は山地へ入ると、急斜面、クレバス、複数の氷河地形を越えながら高度を稼いだ。

アムンセンの記録では、場所によっては犬20頭を1台のそりにつけ、4台を2回に分けて急斜面へ上げた。雪で覆われたクレバスを避けるため迂回した区間もある。

このため「アムンセンは短い氷河を簡単に上がった」という描写は正確ではない。

ベアドモアより新しいルートを選んだことには距離上の利点があったが、未知の地形を自分たちで探索するリスクと交換している。

また、隊は85度付近に主要なデポを作り、高原へ上がる前に荷を整理した。

アムンセンの初期報告では、そこから60日分を前へ持ち、30日分を残す構成が記されている。

山地を越える前後で補給を分けることで、急な氷河へ不要な荷を全部持ち上げずに済む。

つまりアクセル・ハイバーグ氷河の選択は、地図上の線だけでなく、棚氷上のデポ列から山地用の荷重構成へ切り替える境界でもあった。

スコットは、すでに知られていたベアドモア氷河を選んだ

スコット側の大きな違いは、山脈を越える主要ルートが既知だったことである。

アーネスト・シャクルトンのニムロッド遠征は1908年、ベアドモア氷河を経て南極高原へ上がり、南緯88度23分まで進んでいた。

スコットはその経験を利用できた。

ロス棚氷を南下し、マウント・ホープ付近からベアドモア氷河へ入り、高原へ達する。

これは「安全が保証された道」という意味ではない。

ベアドモア氷河にはクレバス、圧力氷、深雪、急な高度上昇がある。1911年12月、スコット隊は氷河下部の軟らかい雪に苦しみ、数マイルしか進めない日もあった。

ただし、どこから山地へ入り、どの氷河が高原へ通じるかという根本の地理は既知だった。

アムンセンが「未知の氷河を見つけて上がる」必要があったのに対し、スコットは「既知のベアドモアをどう通過するか」が課題だった。

スコット側も、本番前に補給線を作っていた

スコット遠征も、1911年初頭にロス棚氷上へデポを設置した。

Gonville & Caius Collegeの整理では、ポニー、犬などを使って予定ルート上へ補給物資を運び、翌シーズンの極点行に備えた。

その中で最も知られているのがOne Ton Depotである。

当初の目標は南緯80度だった。

しかし1911年2月、ポニーの状態と天候を考慮し、スコットは南緯79度29分で前進を止めた。

Scottの日記には、その地点へ梱包を含め1トンを超える物資を置いたことが記録されている。

ここで「35マイル手前」と「31マイル手前」という数字が資料によって混在する。

位置は79度29分で、目標は80度00分である。緯度差は31分だ。

緯度1分は約1海里なので、地理的な南北差は約31海里、約57km、約36 statute milesになる。

したがって、Cambridgeの一般向け資料が「35 miles short」、Polar Recordの論文が「31 miles short」と書く差は、海里と英マイルの扱いを含む単位表現の違いで説明可能である。

本CASEでは位置そのものを基準にし、One Ton Depot = 79度29分南緯、80度計画より31分北として扱う。

One Ton Depotは「目印のない小さな箱」ではなかった

スコットのデポ運用についても、後世の単純化がある。

「アムンセンは大量の旗を立てたが、スコットは一本の旗だけだった」という説明だけでは不正確である。

Scottの日記によれば、One Ton Campには旗竿と黒旗だけでなく、ビスケット箱を積み、そりを雪面へ立て、上部に茶缶を固定し、反射して見えやすくする工夫をしていた。

デポの雪丘は6フィートを超える高さだった。

つまりスコットも、デポを視認できる構造物として作っている。

一方で、アムンセン80度デポのように東西へ約18km幅のマーキング帯を作った方式とは設計思想が違う。

スコット側はデポ本体を大きく目立たせる。

アムンセン側はそれに加えて、デポから外れた位置でも横方向の旗列へ当たりやすくする。

この違いは、どちらかが「目印を使った/使わなかった」ではなく、探索範囲の作り方の違いとして見るべきである。

スコットの南行では、進みながら新しいデポも増えた

One Ton Depotは補給線の全てではない。

1911年10月から始まった本番の南行では、支援隊が物資を前へ運び、途中に複数のデポを作った。

Scottの日記には81度35分付近のMiddle Barrier Depot、ベアドモア氷河上・上部のデポ、高原上のデポなどが登場する。

支援隊は一定地点まで最終隊と同行し、荷物を分け、そこから引き返す。

この方法では、往路のキャンプやデポが帰路の節点になる。

特にベアドモア氷河は、棚氷と高原の間で大きく標高を変えるため、往路と帰路の双方で重要だった。

スコット自身も1912年3月の「Message to the Public」で、内部高原と極点往復にわたる補給・衣類・デポが計画上重要だったことを強調している。

この自己評価をそのまま事故原因の結論にはしない。

ただし、遠征がデポ連鎖を前提に設計されていたことは明確である。

二つの隊は、山脈の越え方も異なった

ロス棚氷は海面に近い広大な氷の平面である。

南極点はそこからさらに高い南極高原上にある。

したがって、どちらの隊も途中でトランスアンタークティック山脈を越えなければならない。

アムンセン隊は85度付近からアクセル・ハイバーグ氷河を上がった。

スコット隊はより西側のベアドモア氷河を上がった。

二つの氷河は同じ山脈を越える別の通路である。

この違いは、地図上の一本線より大きい。

氷河の入口へ達するまでの棚氷上ルートが違う。

登坂時の斜面、クレバス、雪質が違う。

高原へ出た位置も違う。

そのため、基地位置だけ、氷河だけ、直線距離だけを切り出して「こちらが何km短い」と断定すると、実際の行程を見失う。

CASE069-D02では、距離の厳密な縮尺比較ではなく、基地→棚氷→主要デポ→氷河→南極高原→極点という構造を並べて示す。

アムンセンのルートは「真南へ一直線」でもなかった

アムンセンの初期行程は、フラムハイムからおおむね南へ伸びる。

そのため「ほぼ直線ルート」と説明されることがある。

しかし、実際の山地では地形に合わせて迂回し、クレバス帯や斜面を避けなければならない。

高原へ出た後も、位置観測を繰り返しながら南極点を目指した。

したがって、専用図では「直線距離の勝負」のようには描かない。

ロス棚氷上で概ね南下したことと、山地・高原で実際の地形対応が必要だったことを分ける。

同様に、スコット側も「ケープ・エバンスから南へ一本線」ではない。

ロス島からハット・ポイント側へ接続し、棚氷へ出て、ベアドモア氷河へ向かう。

基地の座標をそのまま極点へ結ぶ直線は、実際の徒歩・そりルートではない。

デポは「距離を短くする装置」だった

デポの役割を食料の保管だけと考えると、物流設計の意味が薄れる。

遠征では、最初から全てを極点まで運んで持ち帰る必要はない。

前方へ先に物資を置けば、本番で基地から運ぶ重量を減らせる。

往路で不要になった物資を置けば、その後の荷を軽くできる。

帰路用の食料と燃料を残せば、極点から基地まで全量を運ぶ必要がない。

つまりデポは、時間を前倒しして輸送距離と荷重を分割する装置である。

アムンセンは秋のうちに3トンを80〜82度へ運んだ。

スコットも1911年初頭にOne Ton Depotなどを作り、本番ではさらにデポを追加した。

両隊とも「現地調達なしで全部持っていく」方式ではない。

違いは、どの位置へどれだけ前進配置したか、デポをどう見つける設計にしたか、山地へ入る前後で荷をどう区切ったかにある。

デポの位置は、帰路では「到達しなければならない点」になる

往路では、多少予定より北にデポを置いても、その場では前進を続けられる。

しかし帰路では事情が変わる。

次のデポまでの距離が、そのまま手持ちの食料と燃料で耐えなければならない区間になる。

One Ton Depotが80度ではなく79度29分に置かれたことが後世に注目されるのは、このためである。

ただし、ここでも「この位置だけがスコット隊死亡の原因だった」と決めつけてはいけない。

1912年3月、スコット、ウィルソン、バウワーズの最後の3人はOne Ton Depotから約11マイルの地点で行動不能になった。

その事実から、デポがさらに南にあれば助かったと考えることは自然である。

しかし実際の結末には、エヴァンズとオーツの死亡、身体状態、低温、向かい風、雪面抵抗、燃料、日程、支援隊運用、吹雪など複数の条件が重なっている。

デポ位置は重要な要因の一つだが、単独原因とは扱わない。

因果関係はCASE069-07でまとめて検証する。

アムンセンの帰路では「来た道を見つける仕組み」が効いた

アムンセン隊は極点から北へ戻る際、南下時に築いたビーコンとデポを順番に再利用した。

1912年1月6日、アクセル・ハイバーグ氷河を下りきって85度付近の主要デポへ戻ると、そこから先は緯度ごとのデポと雪標が連続する区間になる。

アムンセンは1月21日に最後のビーコンを通過し、80度の大デポへ到達したと記録している。

これは、「帰路の方が楽だった」という意味ではない。

犬の数は減り、長距離移動の疲労は蓄積している。

しかし、未知の場所を再び探索するのではなく、自分たちが往路で作った線を回収しながら北上できる。

デポ、旗列、ビーコン、緯度ごとの補給点は、個別の工夫ではなく一つのナビゲーション兼補給システムだった。

スコットの帰路も、往路のデポ列をたどる設計だった

スコット隊も同じ基本原理を持つ。

極点からの帰路では、南下時に残した高原上のデポをたどり、ベアドモア氷河を下り、ロス棚氷上のデポ列を北上する。

1912年1月10日、極点到達前のスコット隊は南緯88度29分付近に1週間分の食料を置き、帰路用の補給点を増やしている。[1]

帰路の日記には、デポまで残り何マイルかという記述が何度も現れる。

これは精神的な目標だけではない。

「次のデポまで行けば食料と燃料がある」という区間設計そのものだからである。

逆に言えば、速度が落ちると、次のデポまでの距離が同じでも必要日数が増える。

1日あたりの移動距離が落ちれば、予定していた食料・燃料の余裕が削られる。

補給線は地図上では固定でも、隊の身体状態や天候によって実質的な長さが変わる。

CASE069-D02|基地・氷河・補給線の比較

フラムハイムとケープ・エバンスから南極点までの基地、主要デポ、氷河、南極高原を二本の経路として比較した歴史ルート模式図。
フラムハイム/ケープ・エバンスから南極点までの主要ルートと氷河・補給線を比較する歴史ルート図。

この記事に付属するSELF_DIAGRAM CASE069-D02 は、現代のGoogle Mapを使わない。

歴史的な遠征ルートを、縮尺なしの概念図として二本並べる。

アムンセン側は、

フラムハイム → 80°デポ → 81°デポ → 82°デポ → 83°・84°・85°デポ → アクセル・ハイバーグ氷河 → 南極高原 → 地理的南極点

を示す。

80度デポの横方向マーキング帯と、82度以南の雪ビーコンも補助記号で示す。

スコット側は、

ケープ・エバンス → ハット・ポイント/棚氷接続 → One Ton Depot 79°29′S → Middle Barrier Depot → ベアドモア氷河 → 高原上デポ → 地理的南極点

を示す。

図の目的は、正確な地図投影や距離測定ではない。

二つの隊が別の基地、別の氷河、別の補給線を使ったことを一目で把握するための歴史ルート概念図である。

そのため、現代の道路地図のような線、現在地ナビゲーション、Google Maps埋め込みは使わない。

検証ポイント|ルートとデポで混同しやすい点

「両隊はほぼ同じ道を進んだ」

違う。どちらもロス海側から南極点を目指したが、アムンセンはクジラ湾側からアクセル・ハイバーグ氷河、スコットはロス島側からベアドモア氷河を通った。

「アムンセンは既知の安全な氷河を使った」

違う。アクセル・ハイバーグ氷河はアムンセン隊が山地へ入って見いだしたルートで、未知のクレバスや急斜面を含んでいた。

「スコットのOne Ton Depotは目立たない一本旗だった」

不正確である。Scottの日記では旗竿、黒旗、積んだ箱、直立させたそり、茶缶、6フィートを超えるデポ丘で目立たせている。

「One Ton Depotは35マイル北、別資料では31マイル北なのでどちらかが誤り」

位置は79度29分南緯、目標は80度で固定できる。差は緯度31分で、約31海里、約36 statute milesに相当する。単位表現の違いで31/35前後の数値が出る。

「アムンセンはデポ本体だけを頼りに戻った」

違う。80度デポでは東西方向へ広い旗列を作り、本番でも多数の雪ビーコンを築いた。

「デポが35マイル南ならスコット隊は必ず助かった」

断定できない。デポ位置は重要な検討要因だが、最終結果は複数要因の組み合わせとしてCASE069-07で扱う。

Primary Questionへの答え

フラムハイムとケープ・エバンスから出発した二つの隊は、どの経路と補給線を使って南極高原へ上がったのか。

アムンセン隊は、クジラ湾のフラムハイムからロス棚氷をほぼ南へ進み、事前に設置した80度、81度、82度の主要デポを利用した。本番ではさらに緯度ごとにデポと雪ビーコンを増やし、85度付近からアクセル・ハイバーグ氷河を使って南極高原へ上がった。80度デポでは東西方向に幅広く旗を展開し、予定線からずれても補給点へ復帰しやすい仕組みを作った。

スコット隊は、ロス島のケープ・エバンスを冬営基地とし、ハット・ポイント側からロス棚氷へ接続した。1911年には翌年用の補給線を設置し、最大のOne Ton Depotを南緯79度29分に置いた。本番では支援隊とともに棚氷上へ追加デポを作り、シャクルトン遠征で既知だったベアドモア氷河を経て南極高原へ上がった。

二つの隊の差は「片方だけがデポを使った」ことではない。

両隊ともデポ依存の遠征だったが、基地位置、デポの前進量、目印の作り方、山脈を越える氷河、帰路で再利用する線が違っていた。

アムンセン側は、フラムハイムから82度までの事前デポと、横方向の旗列・多数の雪ビーコンによって補給線を太くした。

スコット側は、ロス島からベアドモアへ向かう既知ルート上へデポを置き、支援隊の折り返しとともに補給点を連ねた。

その違いは、次の記事で扱う「南極点そのもの」での出来事にもつながる。

アムンセン隊はどのように自分たちの位置を確認したのか。

スコット隊は南極点で何を見つけ、何を記録したのか。

次は、1911年12月と1912年1月の極点到達時点へ進む。

FACT CHECK|出典・参考資料

  1. [1] FRAM Museum, “The Third Fram Expedition (1910-1914)”
  2. [2] Roald Amundsen, “The South Pole”, Volume I, Project Gutenberg
  3. [3] Roald Amundsen, “The South Pole”, Volume II, Project Gutenberg
  4. [4] Scott Polar Research Institute, University of Cambridge, “Scott’s Last Expedition” diary archive
  5. [5] Robert Falcon Scott, “Scott’s Last Expedition, Volume I”, Project Gutenberg
  6. [6] Gonville & Caius College, University of Cambridge, “The Terra Nova expedition”
  7. [7] Charles Turley, “The Voyages of Captain Scott”, Project Gutenberg
  8. [8] Apsley Cherry-Garrard, “The Worst Journey in the World”, Project Gutenberg
  1. 01 南極点到達競争とは何だったのか|アムンセンとスコット、1911–1912
  2. 02 アムンセンはなぜ北極計画を南極へ転じたのか|秘密の進路変更とフラムハイム
  3. 03 スコットのテラ・ノヴァ遠征は何を目指していたのか|南極点と科学調査
  4. 04 アムンセン対スコット|犬ぞり・スキー対ポニー・モーターそり|二つの輸送計画はどう違ったのか
  5. 05 アムンセン対スコット|二つの隊はどのルートで南極点へ進んだのか|基地・氷河・補給線の比較
  6. 06 先着したアムンセン、33日後のスコット|南極点で何が起きたのか
  7. 07 スコット隊の帰路で何が重なったのか|エヴァンズ、オーツ、最後の11マイル
  8. 08 勝者と悲劇だけではない|アムンセンとスコットの遠征は何を残したのか

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