STORY SO FAR
前回「二つの隊はどのルートで南極点へ進んだのか|基地・氷河・補給線の比較」で確認した論点を受け、この回では先着したアムンセン、33日後のスコット | 南極点で何が起きたのかについて、この回が担う固有の論点は何か。を扱う。
アムンセン隊とスコット隊は、どちらも「南極点に到達した」と記録されている。
しかし、南極点は山頂や島のように、遠くから見える目標ではない。
地理的南極点は、地球の自転軸が南半球側で地表と交わる位置である。雪原の上に最初から柱や標識が立っているわけではなく、1911年の隊員たちは太陽高度、時刻、人工水平器、六分儀、推測航法を組み合わせ、自分たちがその一点を含む範囲へ入ったかを判断する必要があった。
だから、1911年12月14日のアムンセンと、1912年1月17日のスコットを比較するとき、見るべきなのは単に「先に旗を立てた/後から旗を見た」という場面だけではない。[1]
アムンセン隊は、見えない一点をどのように測り、誤差をどう潰したのか。スコット隊は、現地に残された何を見て先着者の存在を確定したのか。
ここがこの記事の中心になる。
前の記事では、フラムハイムとケープ・エバンスから南極点へ至るルート、氷河、デポ配置を比較した。その議論はここでは繰り返さない。
この記事では、二つの隊が最終的に極点付近で何を観測し、何を残し、何を発見したかに限定する。
南極点は「目で見つける場所」ではなかった
現在なら衛星測位で緯度を確認できる。
1911年には、その方法はない。
地理的南極点では緯度は90度南になるが、極点へ近づくほど経度は実用上扱いにくくなる。あらゆる経線が一点へ収束するため、通常の地図上で「東へ何度、西へ何度」という感覚が成立しにくくなるからである。
アムンセン隊が頼った中心的な道具は六分儀と人工水平器だった。
六分儀は天体の高度を測る。海上では水平線を基準にできるが、南極高原には海の水平線がない。そのため水平な基準面を人工的に作り、太陽の高度を測る必要がある。
さらに、一回の観測で「ここが90度00分00秒」と断定できるわけではない。
器差、読み取り、時刻、太陽高度の変化、気象条件などに誤差が入る。
そのためアムンセン隊は、極点付近へ着いたあとに複数日にわたって観測し、周辺を移動し、位置の不確かさを狭めていった。
この点を押さえると、「12月14日に着いたのに、なぜ16日や17日にも観測しているのか」という疑問が解ける。
12月14日は、隊の推測航法上で目標圏へ到達した日であり、その後の観測は“本当に地理的南極点を包含できているか”を確かめる工程だった。
1911年12月14日、アムンセン隊は計算上の目標に達した
アムンセン、オラフ・ビャーランド、ヘルマー・ハンセン、スヴェレ・ハッセル、オスカー・ウィスティングの5人は、1911年12月14日に南極点付近へ到達した。
Scott Polar Research Instituteの極地到達年表も、アムンセンと4人の隊員がこの日に90度南へ達したものとしている。
アムンセン自身の公刊記録では、その日の午後3時ごろ、推測航法によって目標に達したと判断し、5人でノルウェー国旗を立てた。
ただし、これで測量作業が終わったわけではない。
雪原には「ここがPole」と書かれた目印はない。
その時点で彼らが言えるのは、自分たちの行程計算と観測から、地理的南極点の近傍へ来たということだった。
そこで隊は、その日の周辺確認に続いて観測を重ねた。
アムンセンは、到達の象徴的な瞬間と、位置を天文学的に詰める作業を分けている。
この二段階を混同すると、「12月14日に到達した」という史実と、「12月16〜17日にPolheimで観測した」という史実が矛盾しているように見えてしまう。
実際には矛盾しない。
前者は到達日、後者は測位精度を上げるための確認作業である。
最初の観測では、まだ90度南そのものではなかった
アムンセンの記録では、12月15日に太陽高度を繰り返し測った結果、最初の観測地点はおおむね南緯89度54〜55分付近と算出された。
つまり、厳密な意味ではまだ90度南そのものではない。
そこで隊は、残る距離を南へ詰めた。
アムンセンの初期報告では約9km、詳細記録では最初の観測地点と後のPolheimの位置関係が整理されている。
ここで重要なのは、「一発で極点座標を当てた」わけではないということである。
彼らは、
- 推測航法で目標圏へ入る
- 太陽観測で緯度を求める
- ずれを確認する
- さらに南へ移動する
- 再び連続観測する
という手順で誤差を減らした。
これは冒険談としては地味だが、極点到達を史実として成立させる核心部分である。
「最初に旗を立てた位置」と「後にPolheimを置いた位置」と「数学上の90度南」は、完全に同じ一点として雑に扱うべきではない。
12月16〜17日、24時間の観測で位置を詰めた
アムンセン隊は、より南へ進んだ地点で小型テントを設営し、そこで集中的な観測を行った。
公刊記録では、12月16日から17日にかけて24時間、1時間ごとに太陽高度を測ったとされる。
ハンセンとアムンセン、ハッセルとウィスティングの二組に分かれ、一方が休む間にもう一方が観測する形で作業を続けた。
この連続観測を後に計算した天文学者の報告では、Polheimの緯度は約南緯89度58.6分と算出された。
90度南との差は約1.4分である。
緯度1分を約1海里と考えれば、数km規模の範囲になる。
当時の携行機材で、移動する隊が雪原上で行う測定としては極めて近い。
しかもアムンセン隊は、単にテント地点だけで満足しなかった。
隊員を周辺方向へ走らせ、実際の極点が自分たちの確認範囲から外れる可能性をさらに減らした。
FRAM Museumは、隊が極点周辺に3日間とどまり、測定を行い、スキーで周囲を回って「見えない一点」を確実に包含するようにしたと説明している。
したがって、アムンセンの到達確認は、現代的な意味で一本のGPS座標を表示したものではない。
観測誤差を含む範囲を作り、その範囲の中に地理的南極点を確実に入れるという方法だった。
「アムンセンは正確な極点に立っていなかった」は何を意味するのか
極点史では、ときどき「アムンセンのテントは真の南極点から少しずれていた」という説明がされる。
それ自体は間違いではない。
後計算されたPolheimの位置は90度南そのものではない。
しかし、そこから「だからアムンセンは南極点に到達していない」と結論するのは適切ではない。
当時の到達確認は、観測誤差を前提に評価される必要がある。
アムンセン隊は一地点だけを測って帰ったのではなく、最初の観測地点、南への追加移動、24時間観測、周辺への探索を組み合わせた。
後の天文学的検討も、その観測系列から極点到達を認定している。
SPRIの年表が1911年12月14日を最初の地理的南極点到達として扱うのは、この一連の確認作業を踏まえた歴史的評価である。
「テントが数学上の一点から何kmずれていたか」と「遠征が地理的南極点へ到達したか」は、同じ問いではない。
前者は測位精度の話であり、後者は観測・探索範囲を含めた到達認定の話である。
Polheimには、単なる国旗以上のものが残された
アムンセン隊は、極点付近に小型テントを残した。
このテントはPolheim(ポルハイム)と名付けられた。
テントの上にはノルウェー国旗とフラム号のペナントが掲げられた。
内部には複数の物品が残された。
アムンセン自身の記録では、六分儀、人工水平器、ハイプソメーター関係の器具、履物や手袋などが置かれた。
しかし、歴史的に最も重要なのは文書である。
アムンセンは、ノルウェー国王ホーコン7世へ宛てた到達報告をテント内に残した。
さらにスコット宛ての短い手紙も残した。
理由は単純だった。
アムンセン隊はまだフラムハイムへ戻っていない。
極点に着いても、帰還できなければ自分たちで成果を世界へ伝えることはできない。
そこで、後から来る可能性が高いスコットに国王宛ての手紙を託し、もしノルウェー隊が帰路で消失しても、到達の記録が外へ運ばれるようにした。
つまりPolheimは、
到達標識、観測拠点、記録保存場所、そして帰還失敗に備えた情報伝達のバックアップ
でもあった。
これは、無線通信のない遠征時代の重要な設計である。
スコット隊が最初に見たのは、Polheimそのものではなかった
スコット、エドワード・ウィルソン、ローレンス・オーツ、ヘンリー・バワーズ、エドガー・エヴァンズの5人は1912年1月、南極高原を南へ進んでいた。
1月15日には、スコットの日記上で極点まで約27マイルの位置まで来ている。
その時点でも、最悪の可能性としてノルウェー国旗を先に見ることを意識していた。
そして1月16日、その懸念が現実になる。
バワーズが前方の黒い点に気づいた。
近づくと、それはそりの部材に結び付けられた黒旗だった。
周囲にはキャンプ跡、そりの跡、スキー跡、そして多数の犬の足跡が残っていた。
スコットは、その時点で意味を理解した。
ノルウェー隊がすでにこの地域を通過している。
つまり、英国隊が「最初」である可能性は消えた。
重要なのは、1月16日の発見時点では、まだスコット隊はアムンセンのテントを開けて手紙を読んだわけではないことである。
最初に先着を知らせたのは黒旗と移動痕跡だった。
Polheimでの文書確認は、その後である。
1912年1月17日、スコット隊は自分たちの計算上の極点へ進んだ
本CASEでは、スコット隊の南極点到達日を1912年1月17日で固定する。
Scott Polar Research Instituteの年表は17日を採用し、University of Cambridgeの資料も17日としている。
スコットの日記も1月17日の項目を「The Pole」として記録している。
この日、隊はノルウェーのそり跡をしばらく追ったが、跡が西へ外れるように見えたため、自分たちの計算で南へ進んだ。
昼の緯度観測では南緯89度53分37秒。
そこからさらに南へ約6.5マイル進んだ。
夜にはバワーズが厳しい条件の中で観測を続けた。
つまりスコット隊も、ノルウェーの標識だけを頼りに「ここが極点」としたのではない。
自分たち自身の天測で位置を確定しようとしている。
この点は重要である。
南極点到達という事実は、「アムンセンのテントを見つけたから成立した」のではなく、英国隊自身の測位作業でも確認された。
1月18日、スコット隊はPolheimを発見した
翌1月18日の朝、前夜までの観測を整理した結果、スコット隊は自分たちのキャンプが極点から数マイルずれていると判断した。
その方向に、バワーズが小さなテントらしきものを見つけた。
近づくと、それがアムンセン隊のPolheimだった。
テント内には、アムンセン、ビャーランド、ハンセン、ハッセル、ウィスティングの5人の名前と、1911年12月の日付を示す記録があった。
スコットはアムンセンからの文書を受け取り、国王ホーコン7世宛ての手紙を持ち帰る役目を事実上引き受けることになった。
この時点で、英国隊が知った内容は明確だった。
- ノルウェー隊は5人だった
- 彼らは自分たちより前に極点地域へ到達していた
- テントと国旗を残していた
- 観測器具や衣類の一部を置いていた
- アムンセンはスコットが後から来ることを想定していた
- 国王へ成果を伝える文書を、スコット経由でも外へ出せるようにしていた
つまり、先着の証拠は噂でも伝聞でもない。
現地に残されたテント、署名、日付、装備、手紙という物証だった。
スコット隊は写真とスケッチで現場を記録した
Polheimで、英国隊はただ落胆して帰ったわけではない。
バワーズは写真を撮影し、ウィルソンはテントや標識をスケッチした。
スコットもテントを訪れた記録を残した。
さらに隊は自分たちのユニオンジャックを掲げ、ケルンを築き、自分たちの到達を写真に残した。
現存する有名な集合写真では、スコット、オーツ、バワーズ、ウィルソン、エヴァンズの5人が極点で写っている。
別の写真には、アムンセンのPolheimとノルウェー国旗の前に英国隊員が立つ姿が残る。
この記録が後世に重要なのは、感情を示すためだけではない。
写真、日記、スケッチ、ノルウェー隊の文書が相互に結び付き、両遠征が同じ極点地域へ到達したことと、その先後関係を物証として確認できるからである。
スコットの公刊日記にも、後に「両遠征が極点へ到達し、優先権の問題に疑いがないことの証拠になった」という趣旨の整理がある。
皮肉だが、二つの遠征は互いの到達を証明する関係にもなった。
スコットはアムンセンの測位をどう見たのか
Polheimを確認したあと、スコットはノルウェー隊が極点位置を慎重に確かめていたことを認めている。
テントとは別に、そりの部材を立てた標識があり、そこにPolheimまでの方向・距離を示す情報が付けられていた。
スコットは、それをアムンセン隊が極点の正確な位置を示すために置いたものと推測した。
また、ノルウェー隊が「markを thoroughly sure」にしたという評価を書いている。
ここでも重要なのは、勝敗の感情と測量上の評価を分けることである。
スコットは先着されたことに強い失望を記した。
一方で、アムンセンの到達そのものを疑ったわけではない。
むしろ現地の痕跡を見て、ノルウェー隊が十分な位置確認を行ったと判断している。
したがって「英国隊はアムンセン到達を疑っていた」という描写は適切ではない。
「33日後」と「34日後」は、日付そのものと分けて扱う
この記事のlocked titleには「33日後のスコット」とある。
一方、本CASEで固定している到達日は、
- アムンセン:1911年12月14日
- スコット:1912年1月17日
である。
この二つの日付を通常の経過日数として単純に差し引くと34日になる。
Cambridgeの資料にも表現差があり、Gonville & Caius Collegeは「33 days」、University of Cambridge本体の資料は「34 days」としている。
このため本CASEでは、日数表現より日付を優先する。
タイトルの「33日後」はH1で固定した慣用表現として維持するが、本文中で経過日数を史実の基準にはしない。
先後関係を確定する基準は、12月14日と1月17日という日付である。
なお、1月18日はスコット隊がPolheimのテントを詳しく確認し、写真や記録を残した日として重要である。
そのため一般向け資料で「1月18日」が目立つ場合があるが、本CASEでは極点到達日=1月17日、Polheim確認=1月18日と分ける。[1]
これで日付の混同を防ぐ。
アムンセンの「到達」とPolheimの位置は同じ一点ではない
もう一つ混同しやすい点がある。
1911年12月14日にノルウェー国旗を立てた場所、12月16〜17日に集中的な観測をしたPolheim、数学上の90度南は、厳密には同一の点ではない。[1]
しかし歴史上の到達判定は、アムンセン隊がこの地域を測量し、極点を含む範囲を横断・観測したことを踏まえている。
したがって記事内では、
「12月14日に地理的南極点へ到達した」
と書く一方、測量説明では、
「最初の到達地点から追加観測と移動を行い、Polheimで24時間観測し、周辺を確認した」
と分ける。
この二つは両立する。
現代の衛星座標の感覚を1911年へそのまま持ち込まないことが重要である。
極点での出来事だけでは、帰路の結末は説明できない
スコット隊は先着されたことを知った。
精神的な打撃があったことは、本人の日記から明白である。
しかし、ここから「失望したから帰路で死亡した」と因果関係を単純化してはいけない。
1月19日以降、スコット隊は往路のデポ列をたどって北上する。
その後に起きるのは、雪面状態、低温、風、移動速度、エドガー・エヴァンズの衰弱と死亡、オーツの重度凍傷、燃料・食料余裕、支援犬隊との接続、最後の吹雪などが重なる長い過程である。
それは次のCASE069-07で分解する。
この記事では、極点で確認できる事実だけを閉じる。
アムンセンは先に到達し、測位作業を重ねて記録を残した。スコットは後から到達し、ノルウェー隊の物証を発見し、自分たち自身でも位置観測を行った。
極点で起きたことはここまでである。
検証ポイント|南極点到達で混同しやすい点
「アムンセンは12月14日に一発で90度00分00秒を測り当てた」
違う。12月14日は推測航法上の到達日で、その後に太陽観測、追加移動、24時間観測、周辺探索を行って位置の不確かさを減らした。
「Polheimのテントが正確な地理的南極点そのものだった」
厳密には違う。後計算ではPolheimは約89度58.6分南とされた。ただしアムンセン隊は周辺を観測・探索して極点を含む範囲を確認している。
「スコットは1月17日に初めてアムンセンの存在を知った」
違う。1月16日に黒旗、キャンプ跡、そり・スキー跡、犬の足跡を発見し、先着されたことを理解した。
「スコットはアムンセンのテントだけを頼りに極点到達を主張した」
違う。英国隊も自分たちで天測を続け、位置を計算している。
「スコットの南極点到達日は1月18日である」
本CASEでは1月17日を基準とする。SPRI chronologyとCambridge資料が17日を採用する。1月18日はPolheimを詳しく確認した日として分ける。
「アムンセンとスコットの差は必ず33日である」
固定日付12月14日と1月17日の通常の日付差は34日。Cambridge系資料でも33日と34日の表現が併存するため、本CASEは日数より日付を優先する。
「アムンセンは国王宛ての手紙をスコットに直接手渡した」
違う。Polheimに残し、後から到着するスコットが回収して外へ持ち帰れるようにした。
「スコットはアムンセンの到達を疑っていた」
史料上、そのようには扱えない。スコットは現地の物証を確認し、ノルウェー隊が位置を十分に確かめたと評価している。
Primary Questionへの答え
アムンセン隊は南極点到達をどのように確認し、後から到着したスコット隊は現地で何を知ったのか。
アムンセン隊は1911年12月14日、推測航法上で南極点へ達したと判断してノルウェー国旗を立てた。
その後、太陽高度を六分儀と人工水平器で繰り返し測り、最初の観測地点が90度南そのものではないことを確認するとさらに南へ移動した。12月16〜17日にはPolheim付近で24時間にわたり1時間ごとの観測を行い、後計算で約89度58.6分南となる位置まで詰めた。さらに周辺へ隊員を走らせ、観測誤差を含めても地理的南極点を包含する範囲を確認した。
Polheimにはノルウェー国旗とフラム号のペナントを掲げ、国王ホーコン7世への報告、スコット宛ての文書、観測器具や装備の一部を残した。これは、ノルウェー隊が帰還できなかった場合にも到達記録を外部へ伝えるためのバックアップでもあった。
スコット隊は1912年1月16日、まず黒旗とノルウェー隊の移動痕跡を発見し、先着されたことを知った。
1月17日には自分たちの計算で極点へ進み、バワーズを中心に観測を続けた。翌18日にPolheimを発見し、アムンセンら5人の記録、日付、手紙、残された器具を確認した。写真とスケッチを残し、自分たちのユニオンジャックと到達記録も現地に残した。
したがって、南極点で起きたことは単純な「旗の早い者勝ち」ではない。
アムンセン隊は測位と周辺探索で見えない一点を確定し、物証と文書を残した。スコット隊はその物証を発見すると同時に、自分たち自身でも位置を測定し、両遠征の到達と先後関係を後世に残した。
次の記事では、ここから北へ向きを変える。
アムンセン隊は帰還した。
スコット隊は帰路で5人全員を失った。
その差を一つの原因に押し込まず、エヴァンズ、オーツ、天候、雪面、燃料、食料、デポ、支援判断、最後の11マイルがどの順番で重なったのかをCASE069-07で追う。
FACT CHECK|出典・参考資料
- [1] Scott Polar Research Institute, University of Cambridge, “Concise Chronology of Approach to the Poles”
- [2] FRAM Museum, “The Third Fram Expedition (1910-1914)”
- [3] Roald Amundsen, “The South Pole”, Volume II, Project Gutenberg / public-domain edition
- [4] Robert Falcon Scott, “Scott’s Last Expedition, Volume I”, Project Gutenberg
- [5] Scott Polar Research Institute, University of Cambridge, “Scott’s Last Expedition” diary archive
- [6] Gonville & Caius College, University of Cambridge, “The Terra Nova expedition”
- [7] University of Cambridge, “Celebrating the centenary of Captain Scott reaching the South Pole”
- [8] Wikimedia Commons, “Scotts Gruppe am Polheim-Zelt Amundsens.jpg”
アムンセン対スコット|南極点到達競争はなぜ成功と悲劇に分かれたのか 第6回 全8回 全8回を見る
- 01 南極点到達競争とは何だったのか|アムンセンとスコット、1911–1912
- 02 アムンセンはなぜ北極計画を南極へ転じたのか|秘密の進路変更とフラムハイム
- 03 スコットのテラ・ノヴァ遠征は何を目指していたのか|南極点と科学調査
- 04 アムンセン対スコット|犬ぞり・スキー対ポニー・モーターそり|二つの輸送計画はどう違ったのか
- 05 アムンセン対スコット|二つの隊はどのルートで南極点へ進んだのか|基地・氷河・補給線の比較
- 06 先着したアムンセン、33日後のスコット|南極点で何が起きたのか
- 07 スコット隊の帰路で何が重なったのか|エヴァンズ、オーツ、最後の11マイル
- 08 勝者と悲劇だけではない|アムンセンとスコットの遠征は何を残したのか