1972年2月19日、午後3時半ごろ。
雪の中を逃走してきた5人が、一棟の山荘へ駆け込んだ。
長野県軽井沢町にあった、河合楽器の保養施設「あさま山荘」。
5人は連合赤軍のメンバーだった。
少し前まで、彼らは別の山荘で警察に発見され、そこから逃げていた。
山中へ戻る体力も乏しい。
食料も尽きかけている。
そして警察はすぐ後ろまで来ている。
彼らが目についたあさま山荘へ入ると、中には一人の女性がいた。
山荘管理人の妻、当時31歳。
5人は彼女を拘束した。
家具や畳を使って入口を塞ぎ始めた。
そして、その約30分後。
追跡してきた警察官に向けて、山荘から銃弾が撃たれた。
一つの逃走事件が、ここで別の段階へ入る。
「逃げる5人を捕まえる事件」から、「人質を抱えた武装集団が建物に立てこもる事件」へ。
後に10日間に及ぶ「あさま山荘事件」が始まった瞬間だった。
この記事で分かること
- 2月19日に5人が警察へ発見された場所
- なぜ再び山中へ逃げなかったのか
- あさま山荘へ入った時刻
- 山荘内に誰がいたのか
- 人質はどのように拘束されたのか
- 5人がどのように籠城態勢を作ったのか
- 最初の警察官への発砲はいつ起きたのか
- 「逃走」と「籠城」の境界がどこにあったのか
先に結論|約30分で「逃走」は「武装籠城」に変わった
東京高等裁判所の判決では、5人があさま山荘へ侵入した時刻を1972年2月19日午後3時半ごろとしている。
山荘内にいた管理人の妻を拘束し、家具や畳などを使ってバリケードを構築。
さらに建物内部を防御できる状態へ変えていった。
そして同判決によれば、午後4時ごろには、追跡してきた警察官に対する最初の狙撃が行われている。
| 時刻・段階 | 出来事 |
|---|---|
| 2月19日昼ごろ | 5人が「さつき山荘」に入り休息 |
| その後 | 捜索中の警察官に発見される |
| 午後 | さつき山荘を脱出して逃走 |
| 午後3時半ごろ | あさま山荘へ侵入 |
| 侵入直後 | 管理人の妻を拘束 |
| 侵入後 | 家具・畳などでバリケードを構築 |
| 午後4時ごろ | 追跡してきた警察官を狙撃、負傷させる |
| 以後 | 人質を抱えた武装籠城事件となる |
この日の核心は、5人が山荘へ入ったことだけではない。
侵入、人質確保、建物の防御化、警察官への発砲が非常に短い時間の中で連続したことにある。
2月19日昼|5人は「あさま山荘」の前に別の山荘へ入っていた
あさま山荘へ入る直前、5人はすでに別の建物へ逃げ込んでいた。
軽井沢の別荘地にあった「さつき山荘」である。
東京高裁判決は、5人がこのさつき山荘で警察官に発見され、その後脱出したと認定している。
ここは、事件の流れを理解するうえで重要である。
2月19日の5人は、元気な状態で好きな場所を探して移動していたわけではなかった。
判決では、連日の逃避行によって疲労し、食料も途切れていたとされている。
さらに坂口弘については、自分の靴を別のメンバーへ貸したため、片足にタオルを巻いて移動するような状態だったことまで認定されている。
それでも警察に発見されれば、そこに留まることはできない。
5人はさつき山荘から再び逃げた。
しかしここで、次の問題が生じる。
どこへ逃げるのか。
もう一度山へ戻るという選択肢は難しくなっていた
それまでの連合赤軍は、山岳地帯を移動しながら警察の捜索から逃れていた。
しかし2月19日の時点で、5人はかなり消耗していた。
東京高裁判決は、再び山中へ入る余力がない状態だったと認定している。
別の案もあった。
車を奪ってさらに逃走するという考えである。
しかし、それも現実的ではないと判断された。
山へ戻れない。
車で逃走することも難しい。
警察は後ろから追ってくる。
そこで5人は、付近の建物へ入ることを選んだ。
そのとき目についたのが、あさま山荘だった。
FACT CHECK|あさま山荘は「計画された決戦拠点」ではない
東京高裁判決では、疲労と食料不足から再び山中へ入ることが難しくなった5人が、付近の山荘へ入ろうとして、目についたあさま山荘へ向かった経緯が認定されている。
したがって、後世の映像で有名になった建物の形状から逆算し、最初から「籠城に適した要塞」として選ばれていたと考えるのは適切ではない。
結果的に防御しやすい建物だったことと、事前に作戦拠点として選定されていたことは別である。
午後3時半ごろ|5人があさま山荘へ入った
東京高裁判決が認定した侵入時刻は、午後3時半ごろ。
正式には河合楽器健康保険組合の保養施設だった。
山荘には、そのとき管理人の妻がいた。
警察庁『昭和48年 警察白書』では「たまたま一人で留守番をしていた」と記録されている。
彼女は当時31歳だった。
5人は山荘内へ侵入すると、彼女を拘束した。
警察白書によれば、洗濯用のロープを使って両手を後ろで縛り、さらに足首や膝も縛って人質とした。
東京高裁判決でも、管理人の妻を脅迫してベッドルーム内で拘束したことが認定されている。
この時点で、山荘への侵入は単なる不法侵入ではなくなった。
そこにいた一般人が自由を奪われた。
人質事件が成立した。
「人質を取る」ことについて、5人の中でも考えは一枚岩ではなかった
後の裁判記録には、山荘へ侵入した直後の5人の判断について、さらに一段細かい経緯が残されている。
坂口弘には当初、人質を利用して、すでに逮捕されていた仲間の釈放や自分たちの逃走を要求する考えがあった。
しかしこの案は、そのまま実行されたわけではない。
判決によれば、吉野雅邦が反対し、坂東国男の同意も得られなかったため、人質を交換材料として使う案は撤回された。
ここは重要な点である。
「人質を取った」という結果だけを見ると、最初から明確な要求を警察へ提示するための計画的人質事件に見える。
しかし裁判記録からは、山荘侵入後にも5人の間で方針が固まっていく過程が確認できる。
最終的に選ばれたのは、交換交渉ではなく籠城して抵抗を続けることだった。
FACT / INTERPRETATION
FACT:管理人の妻は拘束され、その後10日間山荘内に留め置かれた。
FACT:判決では、当初、人質を交渉材料に使う案が出たものの撤回されたと認定されている。
注意:したがって、「5人は最初から具体的な人質交換要求を政府へ突きつけるため、あさま山荘へ入った」と単純化しない。
山荘内部は、侵入直後から「防御拠点」へ変えられた
人質を拘束した5人は、山荘内で籠城の準備を始めた。
警察庁は、バリケードを築き、壁に銃眼を設けたと記録している。
東京高裁判決では、畳や家具などを利用して山荘内部の各所にバリケードを設置したことが認定されている。
さらに後には、ベッドルームの天井板を切り抜いて屋根裏への通路を作った。
食料もベッドルームへ集められた。
屋根裏や玄関付近などには銃眼が設けられていく。
ただし、これらの設備が午後3時半の侵入直後にすべて完成していたわけではない。
10日間の籠城中に強化されていったものも含まれる。
したがって、初日の時点で確実に言えるのは、
- 人質を拘束した
- 家具・畳などで侵入口を塞ぎ始めた
- 武器を持ったまま建物内部へ配置した
- 警察の接近に抵抗する態勢を取った
というところである。
普通の保養所だった建物は、この時点から警察の侵入を拒む防御拠点へ変わっていった。
あさま山荘は、外から入りにくい構造だった
後の警察活動を難しくする一因になったのが、建物の構造である。
東京高裁判決には、その特徴が具体的に記されている。
山荘は斜面に建っていた。
道路側から見ると、玄関は建物の上層階に近い位置にある。
反対側は斜面から立ち上がるコンクリート壁となっており、外部から接近できる経路が限られていた。
つまり、単純に「建物を四方から囲み、どこかの窓から入る」という構造ではなかった。
そこへ家具や畳によるバリケードが加えられた。
さらに犯人側は銃器を持っている。
この条件が、後に警察を長期間苦しめることになる。
ただし2月19日の午後、警察がその内部構造や犯人の配置をすべて把握していたわけではない。
外から見える一棟の建物の中に、武装した5人と人質1人がいる。
警察は、そこから状況を把握しなければならなかった。
午後4時ごろ|追跡してきた警察官が撃たれた
山荘への侵入から、およそ30分後。
事件はさらに重大な段階へ入る。
東京高裁判決によれば、午後4時ごろ、追跡してきた永瀬洋一郎巡査が山荘付近へ接近した。
山荘内で見張りをしていた坂東国男が発砲。
巡査は負傷した。
これは、あさま山荘内から警察官に対して行われた最初期の銃撃として裁判記録に認定されている。
侵入から約30分。
すでに状況は、
「犯人が建物の中に隠れている」
という段階ではなくなっていた。
警察官が接近すれば実際に銃撃される。
しかも建物内には人質がいる。
警察にとって、二つの条件を同時に考えなければならない事件となった。
逃走者の追跡
↓
建物への侵入
↓
一般人の拘束
↓
バリケード構築
↓
警察官への発砲
↓
武装人質籠城事件
警察側の目的も、ここで変わった
山荘へ入る前の警察側の目的は明確だった。
逃走する連合赤軍メンバーを発見し、逮捕することである。
しかし管理人の妻が人質になった瞬間、逮捕だけを優先することはできなくなった。
警察庁は後の白書で、この事件への対応について「人命尊重を第一義」と記録している。
以後の警察活動には、二つの目標が存在する。
- 人質を安全に救出する
- 武装した5人を逮捕する
しかも、この二つは常に同じ方向を向くわけではない。
犯人を早く制圧しようとして強行突入すれば、人質が巻き込まれる可能性がある。
人質の安全を最優先して慎重に動けば、その間に犯人側が防御を強化する時間を与えることにもなる。
この矛盾が、その後の10日間を支配する。
なぜその日のうちに突入しなかったのか
事件発生直後の状況だけを見ると、犯人は5人である。
警察側は時間がたてば大量の人員を投入できる。
「早いうちに突入すればよかったのではないか」という疑問は自然に生まれる。
しかし、この時点ですでに警察官が銃撃されていた。
犯人側が実際に発砲する意思を持っていることは確認されている。
そして人質の位置や犯人の配置、所持している武器の詳細、山荘内部の状態は、外部から完全には把握できない。
無理に突入すれば、
- 人質を撃たれる
- 人質が警察側の射線に入る
- 侵入する警察官が狙撃される
- 爆発物を使用される
といった危険があった。
「警察の人数が犯人より多い」という事実だけでは解決できない事件だった。
この問題は、次回の中心テーマになる。
人質は「10日間ずっとロープで縛られていた」わけではない
初日の警察白書だけを見ると、人質が縛られた状態で10日間拘束され続けたように受け取る可能性がある。
しかし裁判記録は、もう少し細かい。
東京高裁判決によれば、人質の拘束は翌2月20日の昼ごろにいったん解かれている。
ただし、解放されたわけではない。
山荘外へ出る自由はなく、坂口弘らの監視下に置かれた。
つまり、
ロープによる身体拘束が解かれたこと
と、
人質状態から解放されたこと
は別である。
彼女は2月28日の警察突入まで山荘内に留め置かれた。
FACT CHECK|「縛られていた期間」と「人質だった期間」は違う
2月19日の侵入直後にはロープで身体を拘束された。
裁判記録では翌20日昼ごろに身体の緊縛は解かれたとされる。
しかし山荘から解放されたわけではなく、その後も監視下に置かれ、2月28日まで人質状態が継続した。
2月19日の時点で、警察には何が分かっていたのか
現在から事件を見ると、犯人5人の名前も、山荘内部で何が行われていたかも、その後何日間続くかも分かっている。
しかし事件発生当日の警察は、結果を知らない。
確実に認識できる状況は限られていた。
| 確認できること | まだ十分には分からないこと |
|---|---|
| 連合赤軍のメンバーが山荘へ入った | 内部での5人の正確な配置 |
| 一般人が人質になっている | 人質が建物内のどこにいるか |
| 犯人側が銃器を使用する | 銃器・実包・爆発物の正確な量 |
| 接近した警察官が撃たれた | どの方向から安全に侵入できるか |
| 山荘がバリケード化されている | 事件がどの程度長期化するか |
この情報差が、立てこもり事件では大きな意味を持つ。
建物内の犯人側には、自分たちの位置、人質の位置、バリケードの場所が分かる。
外にいる警察側には見えない。
警察はその状態で、人質の生命を守りながら接近しなければならない。
2月19日だけを見ると、事件の構造がよく分かる
あさま山荘事件は「10日間の籠城」という巨大な出来事として記憶されている。
しかし最初の日だけを抜き出すと、事件がどのように成立したのかが見えてくる。
5人は警察から逃げていた。
さつき山荘で発見された。
再び逃走した。
疲労と食料不足から山中へ戻ることも難しかった。
目についたあさま山荘へ入った。
そこに一般人がいた。
彼女を拘束した。
山荘をバリケード化した。
追跡してきた警察官へ発砲した。
この一連の変化は、何日もかけて起きたわけではない。
午後3時半ごろの侵入から、午後4時ごろの最初の銃撃まで約30分。
逃走中の5人は、極めて短い時間で「人質を持つ武装籠城グループ」へ変わった。
まとめ|2月19日午後3時半、事件のルールが変わった
1972年2月19日。
警察に追われていた5人は、軽井沢のさつき山荘で警察官に発見された。
再び逃走したものの、長期間の逃避行によって疲労し、食料も不足していた。
東京高裁判決によれば、午後3時半ごろ、5人は付近で目についたあさま山荘へ侵入した。
中には管理人の妻が一人でいた。
5人は彼女を拘束した。
家具や畳を使ってバリケードを築き始めた。
そして午後4時ごろ。
追跡してきた警察官に対して山荘内から発砲し、負傷させた。
ここで状況は完全に変わった。
警察にとって、もう目的は「逃走者を捕まえる」だけではない。
建物内には人質がいる。
犯人側は実際に銃を撃っている。
しかも外から内部の状況は十分には分からない。
警察はこれ以降、犯人逮捕と人質救出という二つの課題を同時に解かなければならなくなる。
そして、この難問を前に、警察はその日のうちの強行突入を選ばなかった。
では、なぜか。
次回は山荘の外へ視点を移す。
警察はなぜすぐ突入しなかったのか。
人数で圧倒していたはずの警察が、なぜ包囲、説得、情報収集を続けることを選んだのか。
「人質の安全」を最優先した10日間の警備方針を追う。
CASE FILE 37|全10回
- あさま山荘事件とは何だったのか|10日間の籠城と人質救出の全体像
- なぜ連合赤軍5人はあさま山荘へ逃げ込んだのか|山岳アジト発覚から軽井沢まで
- 2月19日、あさま山荘で何が起きたのか|人質確保と籠城開始【現在の記事】
- 警察はなぜすぐ突入しなかったのか|「人質の安全」を最優先した包囲作戦
- なぜ籠城は10日間も続いたのか|厳寒・地形・銃器・山荘構造
- 説得はなぜ成立しなかったのか|家族の呼びかけと山荘内の断絶
- 2月28日の突入作戦はどう組み立てられたのか|放水・装甲車・鉄球
- 最終突入で何が起きたのか|殉職・負傷・人質救出・5人逮捕
- なぜ日本中がテレビに釘付けになったのか|生中継とカップヌードル
- あさま山荘事件は何を残したのか|裁判・警察装備・社会的記憶
今回出てきた言葉
- さつき山荘
- 2月19日、あさま山荘へ入る直前に5人が一時的に入った軽井沢の山荘。ここで警察官に発見され、脱出・逃走したことが東京高裁判決で認定されている。
- あさま山荘
- 河合楽器健康保険組合が軽井沢に設けていた保養施設。1972年2月19日午後3時半ごろ、逃走中の連合赤軍メンバー5人が侵入した。
- 人質
- 本人の意思に反して拘束し、その自由を奪っている状態。本件では山荘管理人の妻が2月19日に拘束され、2月28日の警察突入まで山荘内に留め置かれた。
- バリケード
- 外部からの侵入を妨げる障害物。5人は山荘内の家具や畳などを利用して侵入経路を塞ぎ、その後も防御態勢を強化していった。
- 銃眼
- 建物内部から外へ観察・射撃するために設ける小さな開口部。警察庁は、犯人側が山荘の壁に銃眼を設けたと記録している。
出典・参考資料
- 警察庁『昭和48年 警察白書』第7章「公安の維持」
2月19日のあさま山荘への逃走、管理人の妻の拘束方法、バリケード・銃眼、銃器・爆発物による抵抗、人命尊重を第一義とした警察活動について基準資料として参照。 - 東京高等裁判所 昭和57年(う)1330号判決
さつき山荘からの逃走、5人の疲労・食料不足、あさま山荘を選ぶまでの判断、午後3時半ごろの侵入、人質拘束、籠城方針、午後4時ごろの警察官への最初期の発砲、山荘構造について参照。 - 警察庁『昭和63年 警察白書』
山岳アジトを引き払って移動していた5人が警察官に発見され、あさま山荘へ人質を取って立てこもったという事件全体の因果関係確認に参照。 - 長野県警察「極左暴力集団ってなに?」
1972年に軽井沢町で発生し、10日間にわたって続いたあさま山荘事件について、現地警察による現在の概要確認に参照。
資料上の注意:
警察白書は事件後に警察側がまとめた公式資料です。一方、東京高裁判決は刑事裁判で認定された犯罪事実・証拠評価を含む資料です。本記事では、発生日時・拘束・銃撃など両資料で整合する事項をFACTとして扱い、犯人側の心理や会話を資料の裏付けなく再現していません。
時刻について:
警察庁白書は2月19日の事件概要を示しますが、侵入時刻の「午後3時半ごろ」、最初期の狙撃の「午後4時ごろ」といった細かな時刻は東京高裁判決の認定を基準としています。そのため、秒・分単位の映画的な時系列には拡張していません。
表記について:
人質となった管理人の妻の氏名は裁判記録や多数の後年資料で公知となっていますが、本シリーズでは事件構造の説明に氏名が必須ではないため、原則として「管理人の妻」と表記します。