THE QUESTION
警察はなぜすぐ突入しなかったのか | 「人質の安全」を最優先した包囲作戦について、この回が担う固有の論点は何か。
STORY SO FAR
前回「2月19日、あさま山荘で何が起きたのか|人質確保と籠城開始」で確認した論点を受け、この回では警察はなぜすぐ突入しなかったのか | 「人質の安全」を最優先した包囲作戦について、この回が担う固有の論点は何か。を扱う。
山荘の中にいる犯人は5人。
外には警察。
時間がたつにつれて応援部隊も集まり、最終的には現場の包囲に最高時約1,400人の警察官が投入された。
人数だけを見れば、圧倒的な差がある。
それなら、なぜ警察はすぐに突入しなかったのか。
事件は2月19日に始まった。
しかし本格的な最終突入が実施されたのは2月28日。
その間、10日間。
現在から結果だけを知って見ると、「もっと早く突入していればよかったのではないか」と感じるかもしれない。
だが、警察が解かなければならなかった問題は、単純な人数勝負ではなかった。
山荘の中には、武装した5人だけではなく、一般人の人質がいた。
犯人側はすでに警察官へ発砲している。
山荘内部の正確な状況は外から見えない。
そして警察側の最優先目標は、犯人を倒すことではなかった。
人質を生きたまま救出し、そのうえで5人を逮捕すること。
この二つを同時に成立させなければならなかった。
この記事で分かること
- 警察が掲げた事件処理の基本方針
- なぜ「人数が多い=すぐ突入できる」ではなかったのか
- 人質の存在が警察の選択肢をどう制限したのか
- なぜ説得を繰り返したのか
- なぜ山荘内部の情報収集が重要だったのか
- 長野県警と警視庁などがどの程度の規模で対応したのか
- 「10日間待った」という見方がなぜ不正確なのか
- 包囲作戦が最終突入の準備とどうつながったのか
先に結論|警察の目的は「5人を早く捕まえること」だけではなかった
事件終結からわずか3日後の1972年3月3日。
参議院地方行政委員会で、警察庁警備局長があさま山荘事件について報告している。
そこで示された警察側の基本方針は明確だった。
「人質の安全救出」と「犯人の逮捕」
である。
これは似ているようで、実際には別の目標である。
犯人の逮捕だけを目的とするなら、より攻撃的な方法を早期に選べる可能性がある。
しかし人質を生きて救出しなければならないなら、犯人側を急激に追い詰める行動そのものが危険になる。
| 目的 | 単独なら選びやすい手段 | 人質がいる場合の問題 |
|---|---|---|
| 犯人逮捕 | 急速な接近・強制侵入 | 犯人が人質へ危害を加える可能性 |
| 犯人制圧 | 銃器等による強い制圧 | 人質を巻き込む危険 |
| 建物侵入 | 複数方向から同時突入 | 人質と犯人の位置が不明 |
| 長期包囲 | 時間を使って情報収集 | 犯人側にも防御を強化する時間を与える |
どの選択肢にも欠点がある。
警察は、その中で人質の生命に最も大きなリスクを与えない方法を選び続ける必要があった。
事件発生から約30分で、警察は「撃たれる相手」になった
前回見たように、5人があさま山荘へ入ったのは2月19日午後3時半ごろ。
その約30分後の午後4時ごろには、追跡してきた警察官が山荘内部から撃たれて負傷している。
これは警察側の判断に大きな意味を持った。
犯人側が銃器を「持っているらしい」のではない。
実際に警察官へ発砲する意思があることが確認された。
警察庁『昭和48年 警察白書』にも、その後5人が銃器や爆発物を使用して抵抗したことが記録されている。
つまり、山荘へ近づくだけでも警察官が撃たれる可能性がある。
しかも内部には人質がいる。
この二つが重なることで、単純な突入は難しくなった。
問題1|人質がどこにいるのか、外から正確には分からない
立てこもり事件で最も大きい問題の一つが、建物内部の情報差である。
犯人側には分かっている。
- 自分たちがどこにいるか
- 人質がどこにいるか
- どこをバリケードで塞いだか
- どこから警察を監視できるか
- どの方向から撃てるか
しかし警察側からは、その多くが見えない。
外から確認できる窓や入口には限界がある。
人質が一階にいるのか、上階にいるのか。
犯人と同じ部屋なのか。
別の部屋なのか。
突入した瞬間に移動させられる可能性はないのか。
内部情報が不足した状態では、突入計画そのものを正確に組み立てることが難しい。
事件後の国会報告で警察庁がわざわざ、
「内部状況把握のための諸方策を忍耐強く講じてきた」
と説明しているのはこのためである。
情報収集は、突入とは別の消極的な行為ではなかった。
人質を守りながら最終的に建物へ入るための作戦そのものだった。
問題2|山荘へ近づけば、警察官自身が狙撃される
人質の位置が分からないなら、まず建物へ近づいて内部を確認したくなる。
しかし、それにも危険がある。
犯人側は山荘の壁などに銃眼を設け、外部を警戒していた。
警察庁は、包囲中の警察官だけでなく、取材中の報道関係者や説得に来た家族に対しても発砲が行われたと記録している。
つまり山荘の周囲は、警察側が自由に動ける空間ではなかった。
接近すれば狙撃される。
距離を取れば内部状況が分からない。
その中で包囲を維持しなければならなかった。
問題3|山荘の構造自体が侵入を難しくしていた
あさま山荘は、平地に建つ一般住宅を四方向から取り囲むような現場ではなかった。
斜面上に建てられ、道路側と谷側で建物への接近条件が異なる。
さらに犯人側は侵入後、家具や畳などを使用して内部をバリケード化した。
銃眼も作られた。
入口から警察官がまとまって入れば、狭い通路で待ち構えている犯人側に狙われる可能性がある。
窓や壁を壊して別経路から入る場合でも、その先に人質がいないことを確認する必要がある。
「入口があるから、そこから入ればよい」という建物ではなくなっていた。
問題4|警察側が火力で上回ればよい事件ではなかった
犯人側が銃を撃つなら、警察側もより強い銃器で制圧すればよい。
軍事的な発想なら、そう考えることもできる。
しかし、警察活動の目的は敵を撃破することではない。
あさま山荘事件では特に、人質救出と犯人逮捕が同時に求められていた。
火力を強めれば、犯人だけでなく人質への危険も増える。
建物内部の壁を貫通した弾丸がどこへ到達するか。
人質が犯人の近くへ移動していないか。
銃撃を受けた犯人が、人質へ危害を加えないか。
外側の警察にとって制御できない要素が多すぎた。
だからこそ、人数や武器の優位だけでは解決できなかった。
FACT CHECK|「警察が犯人より弱かったから突入しなかった」のではない
警察は長野県警だけでなく警視庁などからも応援部隊を投入し、現場の包囲は最高時約1,400人規模となった。
問題は人数ではない。
人質の存在、内部情報の不足、武装した犯人、建物構造という条件の下で、強制力をどこまで使用できるかという問題だった。
「延べ1万4,000人」と「最高時約1,400人」は別の数字
あさま山荘事件では、警察官「1万4,000人」という数字がよく出てくる。
しかし、この数字をそのまま現場の人数と考えると誤解になる。
警察庁『昭和48年 警察白書』が示す約1万4,000人は、10日間に投入された警察官の延べ人数である。[2]
一方、事件直後の国会報告では、包囲体制に投入された警察官は最高時約1,400人と説明されている。
| 数字 | 意味 |
|---|---|
| 延べ約1万4,000人 | 10日間の警備に参加した人数を累積した値 |
| 最高時約1,400人 | 現地の包囲体制が最大になった時点の規模 |
| 警視庁応援約500人 | 警視庁から派遣された応援部隊の規模 |
10日間、24時間体制で包囲を維持するには交代要員が必要になる。
そのため累積人数は大きくなる。
「1万4,000人対5人」という単純な対比では、この事件の難しさを説明できない。
警察が最初に選んだのは「包囲」だった
事件発生後、警察は山荘周辺を包囲した。
包囲には複数の目的がある。
- 5人を再び逃走させない
- 外部から武器や物資を入れさせない
- 第三者が不用意に接近することを防ぐ
- 周辺の安全を確保する
- 内部の動きを観察する
- 説得や情報収集を続ける時間を確保する
これは「何もしない」という意味ではない。
むしろ、建物内部に直接入らずに状況を制御する方法である。
一度包囲が完成すれば、5人は山荘を出て逃げることが難しくなる。
警察側は時間を使うことができる。
問題は、その時間を何に使うかだった。
次に選ばれたのが「説得」だった
警察は、犯人側が自発的に出てくる可能性を捨てなかった。
事件直後の国会報告には、
- 警察
- 人質の家族
- 犯人の母親などの家族
によって説得を繰り返したことが明記されている。
これは人質立てこもり事件では非常に重要な選択肢である。
説得によって投降させることができれば、建物へ強行突入する必要そのものがなくなる。
警察官が銃撃を受ける危険も減る。
人質が突入作戦に巻き込まれる危険も減る。
したがって、成功する可能性が残っている限り、説得を試みる合理性があった。
家族まで現場へ呼んだ理由
警察官から「投降しろ」と呼びかけられても、5人が応じる可能性は高くなかった。
彼らにとって警察は、直前まで自分たちを追跡してきた相手である。
そこで、警察以外の声も使われた。
犯人側の家族である。
親がマイクを通じて名前を呼び、生きて出てくるよう訴える。
人質の家族も、人質を解放するよう呼びかける。
現在なら「交渉人」という専門職を連想するかもしれないが、当時の現場では、本人と心理的な接点を持つ家族による直接的な説得も試みられていた。
しかし、説得は成功しなかった。
山荘側からは発砲が続いた。
この「なぜ説得が成立しなかったのか」は、第6回で犯人側の判断を含めて詳しく扱う。
「時間をかける」ことにもリスクがあった
人質の安全を考えれば、すぐ突入しないほうが安全に見える。
しかし長期包囲にも欠点がある。
時間を与えれば、犯人側も準備できる。
実際、5人は籠城中に山荘内部の防御を強化していった。
バリケードを作る。
銃眼を設ける。
建物内の移動経路を変える。
屋根裏なども利用する。
つまり、
警察が情報を集める時間=犯人側が防御を固める時間
でもあった。
さらに人質の安全状態を外から完全には確認できない。
長く待てば必ず安全になるわけでもない。
警察は「今すぐ入る危険」と「待ち続ける危険」を比較し続けなければならなかった。
早期突入
+ 犯人が防御を固める前に入れる可能性
- 人質位置・内部構造の情報が不足
- 銃撃を受ける
- 人質を巻き込む危険
↓
包囲継続
+ 情報を集められる
+ 説得による解決を試せる
+ 応援部隊・装備を整えられる
- 犯人側も防御を強化できる
- 人質状態が長期化する
どちらにも明確な正解はない。
その中で警察は、まず包囲と説得を優先した。
「人命尊重を第一義」は後付けの説明なのか
事件後の警察白書だけを読むと、成功した人質救出を後から「人命尊重」と説明しているだけではないか、という疑問も生じる。
しかし、この点については事件直後の国会記録が重要である。
事件終結は2月28日。
その3日後の3月3日、警察庁警備局長は参議院で、事件処理について、
人質の安全救出と犯人逮捕を基本方針としていた
と公式に報告している。
さらに、説得と内部状況把握を「忍耐強く」続けたとも説明している。
翌年の『昭和48年 警察白書』でも、警察は「人命尊重を第一義」として慎重な警備を続けたと総括している。
したがって、人質の安全を優先したという方針については、後世の映画や回想だけに依存する必要はない。
事件直後の公式記録から確認できる。
よく語られる「六つの命令」はどう扱うべきか
あさま山荘事件について調べると、当時の警察庁長官・後藤田正晴から現場へ、
- 人質を必ず救出する
- 犯人を全員生け捕りにする
- 身代わり人質交換には応じない
- 銃器使用を厳格に管理する
- 報道機関との関係を維持する
- 警察官の犠牲を避ける
といった複数の指示が出された、という話がよく紹介される。
この内容は、事件の指揮幕僚として現場に入った佐々淳行の後年の回想や、それを原作とした映画などを通じて広く知られるようになった。
ただし資料の階層は分ける必要がある。
1972年3月3日の国会における警察庁の公式報告で直接確認できる基本方針は、[1]
「人質の安全救出」+「犯人の逮捕」
である。
そのため本シリーズでは、いわゆる「六つの命令」を同時期公式記録と同じ確度の事実として扱わない。
EVIDENCE LEVEL
FACT:事件直後の国会報告で「人質の安全救出並びに犯人の逮捕」が基本方針だったことを確認できる。
FACT:警察、家族らによる説得と、内部状況把握のための措置を継続した。
FACT:翌年の警察白書は「人命尊重を第一義」と総括している。
MEMOIR / LATER ACCOUNT:後藤田長官による詳細な複数項目の指示については、佐々淳行などの後年の回想でより具体的に語られている。
現場には長野県警だけでなく警視庁も入った
事件が発生したのは長野県である。
現地の警備本部を中心に対応したのは長野県警察だった。
しかし、武装した5人による人質籠城という特殊な事件となったため、他県からも応援が投入された。
警視庁の公式史によれば、あさま山荘事件には約500人の応援部隊が派遣されている。
警察庁の国会報告では、警視庁などの応援を含め、包囲体制は最高時約1,400人まで拡大した。
つまり現場では、地元警察だけで処理する事件から、広域的に警察力を集める大規模事案へと急速に変化していた。
警察は10日間「待った」のではない
ここまでを見ると、事件発生から最終突入までの10日間に対する見え方が変わる。
単純な時系列では、
2月19日 籠城開始
↓
10日間待機
↓
2月28日 突入
のように見えてしまう。
しかし実態は違う。
包囲
逃走を防ぎ、周辺を制御する。
↓
説得
警察・人質家族・犯人家族から投降を呼びかける。
↓
情報収集
人質の状態、犯人側の動き、山荘内部を把握する。
↓
警備力増強
応援部隊・装備を集める。
↓
接近・偵察
どのように建物へ侵入できるかを探る。
↓
最終突入の準備
時間は、そのまま作戦準備の時間だった。
結果として説得だけでは事件を終わらせることができなかった。
そのため最後には強制的に山荘へ入る必要が生じた。
しかし、その最終手段へ移る前に、できる限り人質を危険にさらさない方法を試していたのである。
それでも、警察官の犠牲を防ぐことはできなかった
慎重に作戦を進めたからといって、警察側が安全だったわけではない。
犯人側は包囲中も警察官などへ発砲した。
そして2月28日の最終突入では、警察官2人が銃撃を受けて殉職する。
事件全体では、さらに警察官26人が重軽傷を負った。
警察庁は事件後、この経験から、爆発物・銃器に対応するための装備充実の必要性を強く認識したと白書で総括している。
つまり、10日間かけて慎重に準備しても、武装した犯人が立てこもる建物へ入る危険を消すことはできなかった。
もし内部状況がさらに不明な初期段階で突入していたならどうなったか。
それは反実仮想なので答えることはできない。
「早く入れば犠牲が少なかった」「早く入れば人質が危険だった」と、結果から断定することもできない。
確認できるのは、警察が人質救出を基本方針に置き、包囲・説得・情報収集を選択したという事実である。
なぜ2月28日には突入したのか
ここまで来ると、逆の疑問が生まれる。
人質の安全を最優先するなら、なぜ最後には強行突入したのか。
包囲と説得をさらに続ける方法もあったのではないか。
ここが、警察の判断の次の段階である。
説得だけでは5人は出てこない。
籠城は長期化している。
人質の状態を無期限に外から見守ることもできない。
犯人側の抵抗も続いている。
どこかで、
「突入による危険」より「このまま籠城を継続する危険」を大きいと判断する時点
が来る。
そして2月28日、警察は最終的に山荘へ入る作戦を実施した。
ただし、警察官がただ玄関から突っ込んだわけではない。
放水。
催涙ガス。
装甲化した車両。
防弾盾。
そして、テレビ中継で有名になった鉄球。
人質を抱えた建物へ侵入するため、複数の手段を組み合わせた作戦が準備された。
その具体的な設計は第7回で扱う。
まとめ|「突入しない」ことも警察作戦の一部だった
あさま山荘事件で、警察は事件発生直後の強行突入を選ばなかった。
最大の理由は、人質がいたことにある。
犯人5人を逮捕するだけなら、警察側にはより強い手段を選ぶ余地があった。
しかし警察庁が事件直後の国会で示した基本方針は、
「人質の安全救出並びに犯人の逮捕」
だった。
人質がいる。
犯人側はすでに警察官へ発砲している。
山荘内部の正確な状況が分からない。
建物はバリケード化されている。
こうした条件の下で早期突入を行えば、その結果を警察側が制御できない。
そこで警察は山荘を包囲した。
警察、人質の家族、犯人の家族らによる説得を続けた。
内部状況を把握しようとした。
応援部隊を集めた。
現場の警察官は最高時約1,400人規模となり、10日間の延べ動員は約1万4,000人に達した。[2]
それでも、事件は説得だけでは終わらなかった。
そして時間がたつほど、別の問題が大きくなっていく。
なぜ5人は、これほど長く警察の突入を阻止できたのか。
人数では圧倒的に優位だった警察を、何が山荘の外に止めていたのか。
次回は警察側の「判断」から、現場そのものへ視点を移す。
厳寒。
斜面。
建物構造。
バリケード。
銃器。
人質。
あさま山荘が10日間の膠着を生んだ、物理的な条件を分解する。
CASE FILE 37|全10回
今回出てきた言葉
- 包囲
- 対象を一定区域の内部に封じ込め、外部への逃走や第三者の接近などを制御すること。本件では山荘周辺に警察部隊を配置し、逃走を阻止しながら説得・情報収集を続けた。
- 人質救出
- 犯人逮捕とは別に設定された警察側の主要目的。事件直後の国会報告でも「人質の安全救出並びに犯人の逮捕」が基本方針として示されている。
- 延べ人数
- 一定期間に投入された人員を累積した数。本件の延べ約1万4,000人と、同時期の包囲規模である最高時約1,400人は意味が異なる。
- 内部状況把握
- 建物内部の人質位置、犯人の配置、武器、防御設備などを把握する活動。警察庁は事件直後の国会報告で、内部状況を把握するための諸方策を講じたと説明している。
- 強行突入
- 交渉や自発的投降ではなく、警察部隊が物理的に建物内部へ入り、犯人確保・人質救出を図る方法。本件では2月28日に本格実施された。
FACT CHECK|出典・参考資料
- [1] 第68回国会 参議院地方行政委員会 第2号(1972年3月3日) 事件終結直後の警察庁による公式報告。最高時約1,400人の包囲体制、「人質の安全救出並びに犯人の逮捕」という基本方針、警察・人質家族・犯人家族による説得、内部状況把握のための措置について主要資料として参照。
- [2] 警察庁『昭和48年 警察白書』第7章「公安の維持」 10日間の警備、延べ約1万4,000人の動員、人命尊重を第一義とした警備、銃器・爆発物による抵抗、警察官2人殉職・26人重軽傷、事件後の装備上の課題について参照。
- [3] 警視庁「警視庁の歴史」 あさま山荘事件に警視庁が応援部隊約500人を派遣したこと、人質救出、5人逮捕、警察官2人殉職の確認に参照。
- [4] 東京高等裁判所 昭和57年(う)1330号判決 山荘構造、犯人側の配置・バリケード、警察官への銃撃など、警察が突入を検討する際の物理的条件を確認するため参照。
- [5] 佐々淳行『連合赤軍「あさま山荘」事件』 現場指揮幕僚側の後年の回想資料。警察内部の詳細な判断・指示を理解する補助資料として位置づけるが、同時期の国会記録・警察白書と区別して扱う。
あさま山荘事件|山荘立てこもりはなぜ長期包囲戦になったのか 第4回 全10回 全10回を見る
- 01 あさま山荘事件とは何だったのか|10日間の籠城と人質救出の全体像
- 02 あさま山荘事件|なぜ連合赤軍5人はあさま山荘へ逃げ込んだのか|山岳アジト発覚から軽井沢まで
- 03 あさま山荘事件|2月19日、あさま山荘で何が起きたのか|人質確保と籠城開始
- 04 あさま山荘事件|警察はなぜすぐ突入しなかったのか|「人質の安全」を最優先した包囲作戦
- 05 あさま山荘事件|なぜ籠城は10日間も続いたのか|厳寒・地形・銃器・山荘構造
- 06 あさま山荘事件|説得はなぜ成立しなかったのか|家族の呼びかけと山荘内の断絶
- 07 あさま山荘事件|2月28日の突入作戦はどう組み立てられたのか|放水・装甲車・鉄球
- 08 あさま山荘事件|最終突入で何が起きたのか|殉職・負傷・人質救出・5人逮捕
- 09 あさま山荘事件|なぜ日本中がテレビに釘付けになったのか|生中継とカップヌードル
- 10 あさま山荘事件は何を残したのか|裁判・警察装備・社会的記憶