山荘の外から、家族の声が響いた。
警察だけではない。
人質となった女性の夫や両親。
そして、立てこもっている5人の父母たち。
人質を解放してほしい。
銃を置いて出てきてほしい。
生きて戻ってきてほしい。
警察は、強行突入より危険の少ない方法として、何度も説得を続けた。
しかし山荘から5人が出てくることはなかった。
それどころか警察庁の記録では、涙ながらに訴える母親に対してさえ、山荘側から発砲が行われた。
なぜ、家族の声まで届かなかったのか。
実際には、「聞こえなかった」という問題ではない。
東京高等裁判所の判決を読むと、山荘内部ではすでに、
「警察に降伏しない」「一日でも長く抗戦を続ける」
という方針が形成されていたことが分かる。
外側では、事件を終わらせようと説得が続く。
内側では、長く抵抗すること自体に意味を見いだす。
双方が目指している方向そのものが違っていた。
あさま山荘事件が10日間続いたもう一つの理由は、この意思決定の断絶にあった。
この記事で分かること
- 警察がなぜ家族による説得を試みたのか
- 誰が山荘内へ呼びかけていたのか
- 人質の家族からどのような呼びかけがあったのか
- 犯人側の父母による説得がなぜ投降につながらなかったのか
- 山荘内部でどのような抗戦方針が取られていたのか
- 5人全員が常に同じ考えだったのか
- 人質解放を提案したメンバーがいたこと
- なぜ「交渉」と呼ぶより「説得」に近い状況だったのか
先に結論|問題は「声が届くか」ではなく、「投降する意思があるか」だった
警察は、山荘内の5人と完全に連絡不能だったわけではない。
事件終結から3日後の1972年3月3日、警察庁は国会で、
- 警察による説得
- 人質家族による呼びかけ
- 犯人の母親等による説得
を繰り返していたと公式に説明している。
東京高裁判決でも、
- 警察当局による人質解放・投降の勧告
- 人質の夫や両親からの呼びかけ
- 立てこもった5人の父母らによる説得
が何度も行われたことが認定されている。
しかし5人は、これらを受け入れなかった。
裁判所が認定した山荘内部の方針は、むしろ反対方向だった。
警察には降伏しない。
一日でも長く銃撃戦を続ける。
長く抗戦すること自体に意味がある。
つまり、説得失敗を単なる「通信の失敗」と考えると本質を外す。
| 山荘の外 | 山荘の中 |
|---|---|
| 人質を解放してほしい | 人質を手元に残す |
| 投降してほしい | 降伏しない |
| 事件を早く終わらせたい | 一日でも長く抗戦する |
| 家族との接点を作る | 外部との接触を制限する |
説得する側と、説得される側の目的が噛み合っていなかった。
警察はなぜ家族を現場へ呼んだのか
警察から「出てこい」と言われても、5人が簡単に応じる可能性は低かった。
彼らにとって警察は、山岳アジトから自分たちを追跡してきた相手である。
しかも山荘侵入直後から警察官への発砲が始まっている。
すでに双方は、逮捕する側と抵抗する側として直接対峙していた。
そこで利用されたのが、警察とは異なる関係を持つ人間の声だった。
家族である。
犯人の親が本人の名前を呼ぶ。
生きて出てくるよう訴える。
人質の家族も、人質を安全に返すよう呼びかける。
もしこれによって5人が自発的に投降すれば、警察が建物へ入る必要はない。
人質が銃撃戦へ巻き込まれる危険も小さくなる。
警察官の死傷リスクも減る。
人質救出を第一に考えるなら、強行突入より先に試す合理性のある方法だった。
人質の夫と両親も、山荘へ呼びかけていた
説得を行ったのは犯人側の家族だけではない。
人質となった管理人の妻の夫や両親も、山荘の外から彼女の安否を気遣い、呼びかけていた。
東京高裁判決には、2月20日以降、夫や両親から呼びかけが行われたことが記録されている。
人質本人にも、その声は届いていた。
彼女は、せめて顔だけでも見せて応えたいと求めた。
しかし、それさえ認められなかった。
判決によれば、その理由は、
外部に山荘内部の状況が分かってしまうから
だった。
ここには、山荘側の考え方がよく表れている。
人質が窓などから姿を見せれば、家族には生存が確認できる。
しかし同時に警察側にも、
- 人質がどの階にいるか
- どの部屋が使用されているか
- 犯人側がどの場所を支配しているか
といった情報を与える可能性がある。
そのため、人質本人からの小さな要求さえ、籠城維持という目的によって拒否された。
FACT CHECK|人質の拘束は「ロープ」だけではない
人質は2月20日昼ごろにいったん身体の緊縛を解かれている。
しかし解放されたわけではない。
その後も坂口弘の監視下に置かれ、山荘外へ出ることは許されなかった。
夫や両親へ姿を見せたいという要求も拒否された。
したがって、「ロープを外した=自由になった」とは考えない。
山荘の外では、「投降してください」が繰り返された
事件直後の国会報告で、警察庁は説得を「繰り返した」と説明している。
東京高裁判決では、さらに具体的に、
警察当局が毎日幾度も人質解放と投降を促した
ことが認定されている。
つまり、一度だけ呼びかけて反応がなかったという話ではない。
説得は継続的な対応だった。
その目的も一貫していた。
まず人質を解放する。
そして5人が投降する。
これが成立すれば、銃撃戦を伴う強制突入を避けることができる。
警察にとっては、最も人的被害の小さい終結方法だった。
しかし、山荘内部の方針はそれを受け入れなかった。
「母親の声」でも止まらなかった
警察庁『昭和48年 警察白書』には、印象的な記述が残されている。
山荘側は警察官や報道関係者だけでなく、
涙ながらに訴える母親に対しても発砲した
と記録されている。
この記述は、説得が単に無視されただけではなかったことを示している。
家族が現場へ来れば、心理的な動揺が生まれ、そのまま投降へ向かう。
警察側にはそうした可能性を試す理由があった。
しかし実際には、家族が近くにいることさえ、山荘側の武装抵抗を停止させなかった。
家族関係より、籠城内部で共有されていた抗戦方針が優先された。
なぜ、そこまで投降を拒否したのか
ここから先は、山荘内部の意思決定を見る必要がある。
東京高裁判決では、坂口弘が籠城方針について、
警察官には降伏しないこと、そして一日でも長く抗戦を続けることに意味があるという趣旨の考えを示し、他のメンバーの同意を得たと認定されている。
そのうえでバリケードの強化も指示された。
この方針が成立すると、外からの説得を受け入れること自体が、山荘内で設定した目的と矛盾する。
外部からの提案
人質を解放する
↓
武器を置く
↓
山荘から出る
↓
逮捕される
山荘内部の方針
人質を保持する
↓
警察を進入させない
↓
降伏しない
↓
一日でも長く抗戦する
両者に共通する着地点がほとんどない。
これでは、相手を説得する材料を提示して合意点を探る「交渉」にはなりにくい。
「交渉」ではなく「説得」に近かった理由
立てこもり事件というと、映画などでは犯人が電話で要求を伝え、警察が条件を交渉する場面を想像しやすい。
例えば、
- 金を用意しろ
- 車を用意しろ
- 仲間を釈放しろ
- 要求を受け入れれば人質を解放する
という形である。
あさま山荘事件では、侵入直後に人質を交渉材料として利用する案が検討されたことは裁判記録から確認できる。
しかし、その案は山荘内部でまとまらず撤回された。
その後、事件の中心になったのは、警察との条件交換ではなく籠城と抗戦だった。
そのため公式資料に繰り返し現れる言葉も、条件を交換する「交渉」より、
人質を解放し、投降するよう求める「説得」
である。
ここを区別すると、なぜ10日間も平行線になったのかが分かりやすい。
5人全員が、最初から最後まで完全に同じ考えだったのか
そう単純ではない。
東京高裁判決には、山荘内部でも人質の扱いをめぐる異論があったことが記録されている。
特に重要なのが吉野雅邦の提案である。
判決によれば、吉野は、
人質を解放したうえで、自分たちの立場を明らかにして戦う
ことを提案した。
つまり山荘内部にも、
「人質をこのまま拘束し続ける必要があるのか」
という別の考えが存在した。
しかし、この提案は採用されなかった。
裁判所は、坂口がこの人質解放案を退けたと認定している。
これは重要である。
事件が10日間続いたことを、5人全員が初日から一枚岩で同じ思想を持っていたから、と説明するのは正確ではない。
内部には別案もあった。
しかし最終的な意思決定として、
人質を解放せず、抗戦を続ける方針が維持された。
内部で別案が出ても、方針転換につながらなかった
組織内部に異論があったということは、説得成功の可能性が全くなかったとは言えない。
少なくとも、人質解放という選択肢そのものが誰にも思いつかなかったわけではない。
しかし、一人が別案を出すことと、組織全体の行動が変わることは別である。
山荘内部では坂口が中心となって抗戦方針を主導していたと、東京高裁は認定している。
人質解放案は退けられた。
バリケードは強化された。
警察への発砲も続いた。
結果として、内部の異論が外部との妥協へつながることはなかった。
説得を拒否すると、何が起きるのか
警察側から見ると、説得には時間を使う価値がある。
成功すれば、最も危険な強行突入を回避できるからである。
しかし、何日説得しても相手が投降しない場合、状況は変わっていく。
警察が説得を続ける。
↓
5人が拒否する。
↓
籠城が続く。
↓
犯人側がバリケードや銃眼を強化する。
↓
警察側の突入条件がさらに難しくなる。
↓
それでも人質を無期限に拘束させておくことはできない。
↓
最終的には物理的な制圧が必要になる。
説得の失敗は、「何も起きなかった」という意味ではない。
時間の経過によって、事件を別の終結方法へ押し進めた。
人質の存在そのものが、警察を制約していることを5人は理解していた
東京高裁判決は、人質の拘束によって警備当局の対応が困難になり、人質の安全な救出を第一の基本方針とせざるを得なかったため、解決が長期化したと指摘している。
さらに判決では、警察側が人質の安全に配慮して銃器使用を抑制している一方、山荘側が警察官への狙撃・乱射を続けたことも問題とされている。
つまり、人質は単に山荘内にいた第三者ではない。
彼女の存在そのものが、警察側の行動範囲を狭めていた。
山荘側がその制約を認識していれば、投降しなくても警察は簡単には突入できない。
その状況が抗戦継続を可能にする。
説得が失敗し、人質が解放されない限り、この構造は変わらなかった。
人質を解放すれば、事件の条件は大きく変わっていた
ここは重要な分岐点である。
仮に5人が投降しなくても、人質だけを解放していたらどうなったか。
その後の具体的結果は反実仮想なので断定できない。
ただし警察側の制約が一つ大きく減ることは明らかである。
| 人質あり | 人質なし |
|---|---|
| 突入時に人質位置を考慮する必要 | その制約がなくなる |
| 催涙ガス等の影響を人質にも配慮 | 犯人制圧を中心に考えやすくなる |
| 銃撃時の人質巻き込みリスク | 第三者への危険が減る |
| 建物破壊時に人質位置を確認 | 進入方法の選択肢が増える |
だからこそ警察は、人質解放だけでも先に実現させようと繰り返し説得した。
そして吉野からも、内部で人質解放案が出ていた。
それでも実行されなかった。
この判断が、事件の長期化に大きく影響した。
「家族なら説得できる」は、結果を知っている側の期待でもある
事件を後から見ると、親が現場へ来たなら、そこで考え直すのではないかと思いたくなる。
しかし家族関係が存在することと、その言葉が組織内の意思決定を覆せることは別である。
特にあさま山荘事件の直前、連合赤軍内部では「総括」「処刑」と呼ばれる暴力によって12人が死亡していた。
通常の社会関係や個人の判断より、組織内部で形成された価値基準が優先される状態が存在していた。
ただし、本記事で「洗脳されていたから家族の声が聞こえなかった」といった単純な心理説明は採用しない。
裁判資料から直接確認できるのは、
- 父母らによる説得が行われた
- 5人がそれを受け入れなかった
- 抗戦継続方針が形成されていた
- 内部でも人質解放案が出た
- その案が採用されなかった
という意思決定の結果である。
その心理的背景を、資料以上に断定する必要はない。
FACT / INFERENCEを分ける
FACT:警察、人質の夫・両親、犯人側の父母らが投降・人質解放を繰り返し呼びかけた。
FACT:山荘側は説得に応じず、警察への発砲を続けた。
FACT:坂口を中心に「降伏しない」「一日でも長く抗戦する」という方針が取られた。
FACT:吉野から人質解放案が出たが採用されなかった。
断定しない:個々の5人が家族の声を聞いたとき具体的に何を感じたか。
説得は「失敗」だったが、無意味だったとは限らない
最終的に5人は説得によって投降しなかった。
その意味では、説得による事件解決は失敗した。
しかし警察側から見れば、結果だけで「最初からやる意味がなかった」と評価することはできない。
突入には重大な危険がある。
実際、2月28日の最終突入では警察官2人が殉職する。
説得によって投降させられる可能性が残っているなら、それを試すことには人命保護上の合理性がある。
また、説得を続ける時間は、同時に警察が、
- 山荘構造を調査する
- 装備を集める
- 部隊を編成する
- 内部状況を把握する
- 最終突入方法を検討する
時間でもあった。
説得と突入準備は、必ずしも二者択一ではない。
外では説得を続けながら、説得が成立しなかった場合の次の手段も準備されていた。
それでも、どこかで判断を切り替える必要があった
2月19日。
2月20日。
2月21日。
日数が進んでも、5人は投降しない。
人質も解放されない。
家族の呼びかけにも応じない。
警察が接近すれば発砲する。
そして山荘内部の防御は強化されていく。
この状態を無期限に続けることはできない。
説得による解決の可能性が下がるほど、警察は次の問いに向き合わなければならなくなる。
どうやって、こちらから山荘へ入るのか。
通常の玄関から入るのは危険だった。
窓も銃撃を受ける。
斜面と建物構造が接近方向を制限する。
そして内部には人質がいる。
それでも進入しなければ、事件は終わらない。
この問題を解くために準備されたのが、2月28日の最終突入作戦だった。
まとめ|説得を遮ったのは「距離」ではなく、内部の意思決定だった
あさま山荘事件では、警察だけが5人へ投降を呼びかけていたわけではない。
人質の夫と両親。
立てこもっている5人の父母。
複数の家族が山荘へ向かって声を掛けた。
警察庁は事件直後の国会で、こうした説得を繰り返していたと公式に説明している。
東京高裁判決も、警察、人質家族、犯人側の父母による説得が何度も行われたことを認定している。
それでも5人は投降しなかった。
山荘内部では、警察に降伏せず、一日でも長く抗戦を続けるという方針が取られていた。
人質の夫や両親が呼びかけても、人質が姿を見せることすら許されなかった。
犯人側の父母が説得しても、抗戦方針は変わらなかった。
そして内部から人質解放を提案する意見が出ても、それは採用されなかった。
つまり、説得が成立しなかった最大の問題は、声が山荘まで届かなかったことではない。
山荘の中で、説得を受け入れない意思決定が維持されていたことだった。
これで、警察に残された選択肢はさらに狭くなる。
待っても出てこない。
説得しても人質を解放しない。
しかし通常の入口から突入すれば銃撃される。
では、どうやって山荘へ入るのか。
次回は2月28日の作戦そのものを見る。
放水。
催涙ガス。
特殊車両。
建物破壊。
そして、あさま山荘事件を象徴する映像となった鉄球。
最終突入は、どのような考えで組み立てられたのか。
CASE FILE 37|全10回
- あさま山荘事件とは何だったのか|10日間の籠城と人質救出の全体像
- なぜ連合赤軍5人はあさま山荘へ逃げ込んだのか|山岳アジト発覚から軽井沢まで
- 2月19日、あさま山荘で何が起きたのか|人質確保と籠城開始
- 警察はなぜすぐ突入しなかったのか|「人質の安全」を最優先した包囲作戦
- なぜ籠城は10日間も続いたのか|厳寒・地形・銃器・山荘構造
- 説得はなぜ成立しなかったのか|家族の呼びかけと山荘内の断絶【現在の記事】
- 2月28日の突入作戦はどう組み立てられたのか|放水・装甲車・鉄球
- 最終突入で何が起きたのか|殉職・負傷・人質救出・5人逮捕
- なぜ日本中がテレビに釘付けになったのか|生中継とカップヌードル
- あさま山荘事件は何を残したのか|裁判・警察装備・社会的記憶
今回出てきた言葉
- 説得
- 相手に人質解放や投降を自発的に選ばせるための働きかけ。本件では警察だけでなく、人質の夫・両親、犯人側の父母らによる呼びかけも繰り返された。
- 交渉
- 双方が条件を提示し、合意可能な着地点を探す行為。本件では侵入直後に人質を取引材料にする案が検討されたものの、その後の中心は具体的条件交換ではなく、警察側による人質解放・投降の説得と山荘側の抗戦だった。
- 抗戦
- 警察への投降を拒否し、武装抵抗を継続すること。東京高裁判決では、坂口を中心に「一日でも長く抗戦を続ける」方針が形成されたと認定されている。
- 人質解放案
- 籠城中、吉野雅邦から、人質を解放して自分たちの立場を明らかにして戦うという提案が出された。しかし東京高裁判決では、坂口弘がこの提案を退けたと認定されている。
出典・参考資料
- 第68回国会 参議院地方行政委員会 第2号(1972年3月3日)
事件終結3日後の警察庁による公式報告。警察、人質の家族、犯人の母親等による説得を繰り返したこと、人質の安全救出・犯人逮捕を基本方針としていたことを確認する主要資料として参照。 - 警察庁『昭和48年 警察白書』第7章「公安の維持」
人命尊重を第一義とした警備、警察官・報道関係者だけでなく、涙ながらに訴える母親に対しても山荘側が発砲したとの公式記録について参照。 - 東京高等裁判所 昭和57年(う)1330号判決
警察による反復した投降・人質解放勧告、人質の夫・両親による呼びかけ、犯人側の父母による説得、抗戦継続方針、人質本人が家族へ姿を見せることを拒否された経緯、吉野雅邦による人質解放案とその不採用について主要資料として参照。 - 警察庁『昭和63年 警察白書』
あさま山荘で5人が10日間にわたり銃器・爆発物を使用して警察部隊と対峙したという事件全体の整理に参照。
資料上の注意:
本記事では、個々の5人が家族の声を聞いた際に具体的に何を感じたかという心理状態までは断定していません。確認できるのは、家族による説得が行われたこと、それが受け入れられなかったこと、山荘内部で抗戦継続方針が形成されていたことです。
「説得」と「交渉」について:
両語を完全に排他的な法律用語として使っているわけではありません。本記事では、公式記録が「説得」と表現していること、籠城の中心が具体的要求をめぐる条件交換ではなかったことから、事件構造を説明するために区別しています。
内部対立について:
5人を完全な一枚岩として描写していません。東京高裁判決では吉野から人質解放案が出たことが認定されています。一方、最終的には解放されず、抗戦方針が継続しました。その意思決定過程以上の心理描写は補っていません。