現実世界のCASE FILE 現実世界のCASE FILE

ドーラ・ブロッホはなぜ救出されなかったのかムラゴ病院からの失踪と英国政府の追及

ドーラ・ブロッホはなぜ救出されなかったのか|ムラゴ病院からの失踪と英国政府の追及

人質・救出作戦

1976年7月4日未明。

イスラエル軍はエンテベ空港の旧ターミナルへ突入し、100人を超える人質を救出した。

しかし、人質名簿にいた一人の女性だけは、救出されたC-130に乗っていなかった。

ドーラ・ブロッホ。

英国とイスラエル、双方の国籍を持つ高齢女性だった。

イスラエル軍が彼女を見落としたわけではない。

作戦が失敗して取り残されたわけでもない。

イスラエル軍がエンテベへ到着した時点で、彼女はすでに空港にいなかった。

体調を崩し、約35km離れたカンパラのムラゴ総合病院へ搬送されていたからである。

7月4日夜、英国高等弁務官事務所の職員は、その病院でブロッホ本人を確認した。

その約1時間後。

同じ職員が再び病院へ戻ると、中へ入ることを拒否された。

ブロッホはその後、二度と公の場に姿を現さなかった。

CASE FILE 35|第9回の論点

  • 人物:ドーラ・ブロッホ
  • 場所:エンテベ空港 → カンパラ・ムラゴ総合病院
  • 失踪:1976年7月4日夜
  • 主な追及主体:英国政府・駐ウガンダ英国高等弁務官事務所
  • 遺体確認:1979年5月
  • Primary Question:なぜドーラ・ブロッホだけが救出されず、病院から姿を消したのか

エンテベ空港奇襲作戦特集|全10回

  1. 第1回|エンテベ空港奇襲作戦とは?
  2. 第2回|エールフランス139便はどう乗っ取られたのか
  3. 第3回|なぜ人質はエンテベ旧ターミナルに残されたのか
  4. 第4回|イスラエル政府はなぜ交渉から救出作戦へ動いたのか
  5. 第5回|4,000km先の空港をどう攻略できたのか
  6. 第6回|C-130部隊はどうエンテベへ到達したのか
  7. 第7回|エンテベ旧ターミナルでは何が起きたのか
  8. 第8回|救出部隊はどう撤収したのか
  9. 第9回|ドーラ・ブロッホはなぜ救出されなかったのか【現在の記事】
  10. 第10回|エンテベ作戦は国際社会でどう扱われたのか

先に結論|救出できなかった理由は「病院にいたから」

ドーラ・ブロッホが他の人質とともに救出されなかった理由自体は、複雑ではない。

イスラエル軍が救出作戦を実行した時、

彼女はエンテベ旧ターミナルにいなかった。

食事中に体調を崩し、カンパラのムラゴ総合病院へ移されていた。

イスラエル軍の作戦目標はエンテベ空港であり、約35km離れたカンパラ市内の病院まで同時に急襲する計画ではなかった。

したがって彼女は、作戦開始時点ですでに救出計画の物理的な範囲外にいた。

問題は、その後である。

イスラエル軍がエンテベから撤収した後も、ブロッホはムラゴ病院で生存していた。

そして7月4日夜、英国外交官によって本人の生存が直接確認されている。

その数時間以内に、彼女は病院から消えた。

7月2日|食事が喉に詰まり、病院へ運ばれた

ブロッホは、息子イランとともにエールフランス139便に乗っていた。

エンテベでの拘束中、食事の一部が喉に詰まるなどして体調を崩した。

当時の報道や後年公開された資料では、食べ物が食道付近に詰まり、治療が必要になったと説明されている。

そのため7月2日、ブロッホはエンテベ空港からカンパラのムラゴ総合病院へ搬送された。

病院では詰まった物を除去する処置が行われ、その後も経過観察のため入院していたとされる。

英国議会Hansardは、7月4日時点で彼女がムラゴ病院へ入院していたことを公式に確認している。

病院へ行ったことが、結果的に彼女を救出地点から外した

ブロッホが搬送されたムラゴ病院は、エンテベ空港の敷地内にはない。

ウガンダの首都カンパラにある大規模病院である。

したがってイスラエル軍にとっては、

旧ターミナル。

滑走路。

ウガンダ軍。

ハイジャック犯。

というエンテベ作戦とは、別の場所になる。

もしブロッホも同時に救出するのであれば、

  • カンパラ市内へ別部隊を送り込む
  • 病院内で本人を捜索する
  • ウガンダ軍・警察との衝突に対応する
  • そこからエンテベまたは別の脱出地点まで搬送する

という、もう一つの作戦が必要になる。

それは7月3日に政府が承認したエンテベ救出計画の範囲ではなかった。

彼女の息子は、エンテベで救出された

ブロッホの息子イランは、他の人質とともにエンテベ旧ターミナルに残っていた。

イスラエル軍が突入した時、イランは救出された。

しかし母親はいない。

彼女が病院にいること自体は知られていた。

問題は、救出作戦後にウガンダ政府が彼女を安全に国外へ出すかどうかだった。

この時点ではまだ、

「救出できなかった人質」ではあっても、「死亡した人質」とは確認されていない。

英国政府は7月4日に、初めて彼女を自国民として把握した

ブロッホはイスラエル国籍だけではなく、英国籍も持っていた。

しかし英国政府は、ハイジャック事件の最初からその事実を正確に把握していたわけではない。

1976年7月7日の英国下院で、外務担当国務相エドワード・ローランズは経緯を説明している。

事件発生後、英国政府はイスラエル人乗客の中に英国籍保持者がいるか確認した。

しかしAir Franceとイスラエル当局からは、「まだ機内・人質側に英国籍保持者はいない」と伝えられていた。

ところが7月4日になって、

ムラゴ病院へ入院しているドーラ・ブロッホが英国・イスラエル二重国籍者である

ことを英国側が把握した。

英国政府はただちに、カンパラの高等弁務官事務所へ彼女の出国を支援するよう指示した。

7月4日夜|英国職員は、病室で本人を確認した

ここから先は、後世の伝聞だけではない。

英国政府自身の記録が残っている。

7月4日夜、英国高等弁務官事務所の職員がムラゴ病院を訪れた。

そこにドーラ・ブロッホ本人がいた。

つまり、

イスラエル軍によるエンテベ救出作戦が終わった後も、彼女は生存していた。

英国政府が議会で公式に確認した最後の生存確認である。

病室には、私服の男が2人いた

英国職員がブロッホを訪問した際、病室には異常な点があった。

彼女は私服の男2人によって監視されていた。

男たちは英国職員に対し、

ブロッホは間もなくカンパラ市内のImperial Hotelへ移される予定だと説明した。

少なくともこの時点では、

「治療が終わり、安全な場所へ移される」

という説明になっていた。

英国職員はいったん病院を離れた。

約1時間後|同じ職員が病院へ戻った

英国職員は、その日のうちにもう一度ムラゴ病院へ戻った。

ブロッホへ食べ物を届けるためだった。

ところが、状況が変わっていた。

病院の正門で入場を拒否された。

先ほどまで本人に面会できた外交官が、今度は病院へ入ることさえできない。

そしてこれ以降、英国政府はドーラ・ブロッホ本人と接触できなくなった。

Evidence Ledger|7月4日夜までに確認できること

事項 判定
ブロッホはエンテベ救出作戦時、ムラゴ病院にいた FACT
7月4日夜、英国高等弁務官事務所職員が本人と面会した FACT
病室に私服の男2人がいた FACT:英国政府公式説明
男たちはImperial Hotelへ移す予定だと説明した FACT:英国政府公式説明
約1時間後、英国職員は病院への入場を拒否された FACT
この時点ですでに英国政府が殺害現場を直接確認していた FALSE

7月5日|英国政府がウガンダへ説明を要求する

翌日、英国政府は動いた。

1977年1月に英国議会へ提出された外務省の回答から、追及の流れをかなり細かく確認できる。

7月5日。

英国高等弁務官事務所はウガンダ外務省へ、口頭および文書でブロッホの所在について照会した。

同時にロンドンでも、駐英ウガンダ高等弁務官が外務省へ呼び出された。

翌7月6日。

満足できる回答がなかったため、カンパラとロンドンの双方で再び申し入れが行われた。

ウガンダ政府は「知らない」と回答した

7月7日の英国議会で、ローランズはウガンダ政府の回答について説明している。

ウガンダ側は、

ブロッホがどこにいるのか知らない

と回答した。

さらに、

イスラエル軍によるエンテベ作戦が行われた時点から、ウガンダ政府は人質に対する責任を負わなくなった、

という趣旨の説明を加えた。

英国政府はこの回答を受け入れなかった。

なぜなら英国職員は、

イスラエル軍がエンテベを離れた後の7月4日夜にも、ウガンダ政府の支配下にあるカンパラの病院で彼女を直接確認していた

からである。

7月9日|英国政府はアミン本人の説明も拒否した

英国側の追及は続いた。

1977年1月のHansardによれば、7月9日には英国高等弁務官事務所がイディ・アミン本人に、

ウガンダ側の「責任はない」という説明を英国政府は受け入れられない

と伝えている。

さらに7月15日には正式な外交文書を提出。

ブロッホ本人、あるいは遺体を発見するための完全な捜索を要求した。

それでも決定的な回答は得られなかった。

7月12日|英国政府は「もう生存していない」と判断した

失踪から約1週間後。

英国の高等弁務官ジェームズ・ヘネシーがウガンダから帰国し、政府へ調査結果を報告した。

7月12日、英国政府は下院で重大な発表を行う。

調査の結果、

ドーラ・ブロッホが7月4日午後9時30分ごろ、ムラゴ病院の病室から連れ出され、その後生存していないことにはほとんど疑いがない

と判断したのである。

ここで英国政府の認識は、

「行方不明」

から、

「死亡したと考えられる」

へ変わった。

しかし、1976年には遺体は見つからなかった

死亡した可能性が極めて高くても、遺体はない。

ウガンダ政府も責任を認めない。

したがって1976年時点では、

どこで、誰が、どのように殺害したのか

まで公的に確定することはできなかった。

英国政府はその後もウガンダへ説明を求めた。

1977年1月の英国議会記録によれば、1976年10月1日以降、ウガンダ政府から英国側の申し入れに対する回答は届いていなかった。

事件は未解明のまま残った。

英国政府の追及を時系列で整理する

日付 英国政府の対応
7月4日夜 英国職員がムラゴ病院でブロッホ本人を確認
約1時間後 同じ職員が病院へ戻るが入場拒否
7月5日 カンパラとロンドンでウガンダ側へ所在確認を要求
7月6日 回答不十分のため再度申し入れ
7月7日 英国議会で失踪を公式発表。「重大な懸念」
7月9日 アミンへウガンダ側の責任否定を受け入れないと通告
7月12日 英国政府、「7月4日21時30分頃に病室から連れ出され、死亡した可能性が極めて高い」と発表
7月15日 本人または遺体の徹底捜索を求める外交文書を提出
1977年1月 前年10月1日以降、ウガンダ側から回答なしと英国議会で確認

ウガンダ側の説明には、別の問題もあった

イディ・アミン政権は、エンテベ作戦をめぐる国連審議で別の説明も行っていた。

ウガンダ側は、ブロッホが治療後にエンテベへ戻され、イスラエル軍の攻撃時には他の人質とともに旧ターミナルにいたという趣旨の説明を行っている。

しかしこれは、英国側の記録と両立しない。

英国職員は7月4日夜に、カンパラのムラゴ病院で本人を確認している。

つまり、

ウガンダ政府が国際社会へ示した説明と、英国外交官による直接確認が衝突している。

この食い違いも、英国政府がウガンダ側の説明を受け入れなかった理由の一つとして理解できる。

1979年|アミン政権が崩壊する

事件から約3年。

1979年、ウガンダの政治状況が大きく変わる。

ウガンダ・タンザニア戦争によってアミン政権が崩壊した。

新しい状況の中で、アミン政権下では調べることのできなかった失踪者や殺害事件の調査が進められた。

その中に、ドーラ・ブロッホも含まれていた。

浅い墓から、人骨が発見された

1979年5月。

カンパラ東方の地域で、浅い墓から遺骨が発見された。

それがドーラ・ブロッホの遺骨ではないかと考えられた。

ただし、3年が経過している。

外見だけで本人確認をすることはできない。

そこでイスラエルとウガンダの医療専門家による鑑定が行われた。

1979年5月30日|遺骨がドーラ・ブロッホと確認された

1979年5月30日。

イスラエルとウガンダの医療専門家は、発見された遺骨をドーラ・ブロッホ本人のものと正式に確認した。

当時の報道では、本人の過去のX線写真・医療記録と遺骨を比較した結果、脊椎の特徴などが一致したとされている。

歯科的特徴なども識別材料となった。

1976年7月12日に英国政府が「死亡している可能性が極めて高い」と発表してから、約3年。

初めて物理的な証拠によって、彼女の死が確認された。

Evidence Ledger|1976年と1979年で何が変わったのか

時点 確認できていたこと
1976年7月4日夜 英国職員がムラゴ病院で生存確認
1976年7月12日 英国政府は病院から連れ出され死亡した可能性が極めて高いと判断
1976~78年 遺体未発見。ウガンダ政府は十分な説明をしない
1979年 アミン政権崩壊後、遺骨を発見
1979年5月30日 医療記録との比較によりドーラ・ブロッホ本人と正式確認

「アミンの命令で殺された」はどこまで確認できるか

現在では、ドーラ・ブロッホはアミン政権側によって殺害されたと広く整理されている。

現在のウガンダ政府系情報サイトも、彼女はエンテベ作戦後に病院から連れ去られ、イディ・アミンの命令によって殺害されたと説明している。

しかし1976年7月当時の英国政府は、そこまでを公的に確定していたわけではない。

当時のHansardで確認できるのは、

「7月4日21時30分頃、病院から連れ出され、その後死亡したことにほとんど疑いがない」

というところまでである。

誰が命令したのかという具体的な責任関係は、後年の証言、アミン政権崩壊後の調査、英国公文書などによって補強されていった。

したがって本記事では、

1976年当時に英国政府が確認した事実

と、

後年の調査によって形成された殺害責任の評価

を分離する。

遺骨はイスラエルへ戻された

本人確認後、ドーラ・ブロッホの遺骨はイスラエルへ送られた。

1979年6月、彼女の葬儀が行われた。

事件から約3年。

エンテベから帰国した他の人質とは、あまりにも違う形での帰還だった。

ブロッホの遺体が発見されたことで、

英国政府が1976年7月に抱いた疑念が、物理的な証拠によって裏付けられることになった。

ドーラ・ブロッホ事件の時系列

日付 出来事
6月27日 Air France 139便に息子イランと搭乗。ハイジャックされる
6月28日 エンテベ到着。他の人質と旧ターミナルへ
7月2日 体調を崩し、カンパラのムラゴ総合病院へ搬送
7月3~4日 イスラエル軍がエンテベ旧ターミナルを急襲。息子イランらを救出
7月4日夜 英国職員がムラゴ病院でブロッホ本人を確認
約1時間後 英国職員が再訪するが病院への入場を拒否される
21時30分頃 後の英国政府調査では、この頃に病室から連れ出されたと判断
7月5日以降 英国政府が所在確認を要求。ウガンダ側は有効な説明をしない
7月12日 英国政府、ブロッホは死亡した可能性が極めて高いと議会で発表
1979年5月 アミン政権崩壊後、カンパラ東方で遺骨発見
5月30日 イスラエル・ウガンダの専門家が本人と正式確認
6月 遺骨がイスラエルへ戻され、葬儀

この一件がエンテベ作戦の評価を複雑にする

エンテベ作戦では100人を超える人質が救出された。

その事実は変わらない。

しかし「人質は全員救われた」という説明も正しくない。

作戦中に3人が死亡した。

そしてドーラ・ブロッホは、そもそも作戦地点にいなかった。

彼女は作戦後まで生存していたにもかかわらず、その後病院から消え、死亡した。

つまりエンテベ事件の犠牲を整理する場合、

  • 突入時に死亡した人質
  • 救出された人質
  • 救出部隊の戦死者
  • ウガンダ側の死者
  • 作戦地点外にいて、その後死亡したドーラ・ブロッホ

を分けなければならない。

「救出作戦成功」という一語だけでは、この最後の一人が消えてしまう。

まとめ|エンテベ作戦が終わった後にも、事件は続いていた

ドーラ・ブロッホが救出されなかった理由は明確だった。

救出作戦の時、彼女はエンテベにいなかった。

治療のため、カンパラのムラゴ病院にいた。

7月4日夜。

英国職員はそこで本人を確認した。

その約1時間後、同じ職員は病院への入場を拒否された。

英国政府は追及を始めた。

ウガンダ政府は所在を知らないと答えた。

英国側はその説明を拒否した。

7月12日には、

彼女が4日午後9時30分頃に病室から連れ出され、すでに死亡している可能性が極めて高い

と議会で発表した。

遺体が見つかるまでには、さらに3年近くかかった。

1979年。

アミン政権が崩壊した後、カンパラ東方の浅い墓から遺骨が発見された。

医療記録との照合で、ドーラ・ブロッホ本人と確認された。

エンテベ空港では、イスラエル軍が人質をC-130へ乗せて撤収した。

しかし、

1976年7月4日にエンテベ空港を離れたことは、事件そのものの終わりではなかった。

そして、もう一つの問題も残っていた。

外国の空港へ軍隊を送り込み、相手国の許可なく武力を使って人質を連れ帰る。

それは人質救出として成功していても、国際法・国家主権の問題が消えるわけではない。

最後に残るのは、

「イスラエルには、この作戦を実行する権利があったのか」

という問いである。

次回|エンテベ作戦は国際社会でどう扱われたのか

作戦成功の翌日から、評価は二つに分かれた。

イスラエル側は、自国民を救うために必要な行動だったと主張した。

ウガンダ側は、自国領へ外国軍が侵入した重大な主権侵害だと主張した。

問題は国連安全保障理事会へ持ち込まれる。

そこでは、

人質救出。

テロ対策。

自衛権。

領土主権。

外国領内での武力行使。

という論点が衝突した。

最終回では、ウガンダとイスラエルが国連へ提出した一次文書を中心に、「成功した作戦」と「合法な作戦」は同じ意味なのかを検証する。


第10回|エンテベ作戦は国際社会でどう扱われたのか →

出典・参考資料

  • UK Parliament, Hansard|Uganda (Mrs Dora Bloch), 7 July 1976
    英国政府による最重要一次資料。7月4日夜の英国高等弁務官事務所職員による生存確認、私服男性2人の存在、Imperial Hotelへ移すとの説明、約1時間後の病院入場拒否、ウガンダ政府の「所在不明」という回答を確認。
  • UK Parliament, Hansard|Uganda (Mrs Dora Bloch), 12 July 1976
    駐ウガンダ英国高等弁務官の調査後、英国政府が「7月4日21時30分頃に病室から連れ出され、その後生存していないことにはほとんど疑いがない」と判断したことを確認。
  • UK Parliament, Hansard|Uganda (Mrs Dora Bloch), 13 January 1977
    7月5日、6日、9日、15日に英国政府が行った外交的申し入れと、1976年10月1日以降ウガンダ側から回答がなかったことを確認。
  • Uganda Government Information Hub|Mulago Referral Hospital
    エンテベ危機中にドーラ・ブロッホがムラゴ病院へ搬送され、救出作戦後に病院から連れ去られて殺害されたという現在のウガンダ政府系資料による整理を確認。
  • TIME, July 19, 1976|After Entebbe: Showdown in New York
    作戦直後の同時代資料として、ブロッホが食物を喉に詰まらせてカンパラの病院で治療されていたことを確認。
  • The Washington Post, May 31, 1979|Experts Identify Bloch Remains
    1979年5月30日、カンパラ東方の浅い墓から発見された遺骨をイスラエル・ウガンダの専門家がドーラ・ブロッホ本人と正式確認したこと、過去のX線・医療記録が識別に利用されたことを確認。
  • Jewish Telegraphic Agency, June 5–6, 1979
    本人確認後の遺骨のイスラエル移送と葬儀について、当時報道として参照。

資料について:
ドーラ・ブロッホの年齢は1976年当時の資料でも73~75歳と差があり、英国議会Hansardは74歳としているため、本記事では本文中の固定年齢表記を避けた。入院理由も「食物」「鶏骨」など資料差があるため、「食物が喉に詰まり治療を受けた」とした。1976年7月時点の英国政府が確認したのは、7月4日夜までの生存、約21時30分の病室からの連れ出し、そして死亡した可能性が極めて高いという点であり、「アミン本人が殺害を命令した」という責任関係は後年の証言・調査によって補強された事項として分離した。1979年の遺骨発見・本人確認は当時報道で確認している。