1989年9月5日、米国大統領ジョージ・H・W・ブッシュは
ホワイトハウスから国民へ向けて演説した。
最大の国内的脅威として取り上げたのは、
ソ連でも国際テロでもなかった。
違法薬物、特にコカインとクラックだった。
ブッシュは国内の治安、治療、教育だけでなく、
コカインの生産地へ直接働きかける政策を打ち出した。
対象となったのは南米アンデス地域――
コロンビア、ペルー、ボリビアである。
この時、コロンビア政府が戦っていた最大の相手の一つが
パブロ・エスコバルらの
メデジン・カルテルだった。
しかし、
「エスコバルがあまりにも凶悪だったので、
米国政府が突然彼を倒そうと決めた」
という説明では、
この政策の流れは理解できない。
米国の麻薬対策は、
エスコバルが大物になるより前から始まっていた。
1971年のニクソン政権。
1973年のDEA設立。
1980年代のコカイン・クラック危機。
レーガン政権による麻薬問題の国家安全保障化。
そして1989年、ブッシュ政権によるアンデス戦略。
約20年にわたり政策の範囲が拡大した結果、
米国へ大量のコカインを供給するメデジン・カルテルは、
単なる外国の犯罪組織ではなく、
米国の国内治安・外交・安全保障政策が交わる標的になった。
SPECIAL FILE第6回では、
なぜ米国がコロンビアの麻薬組織を
自国の重大問題として追うようになったのか
を政策の流れから見ていく。
CASE FILE 26|パブロ・エスコバル SPECIAL FILE
CASE FILE 26本編では、
パブロ・エスコバル本人の台頭から国家との戦争、
投降、脱走、追跡、1993年の死亡までを追う。
SPECIAL FILEでは、
その周囲にあった市場、人物、武装勢力、
米国政策、地域社会を別角度から掘り下げる。
- SP-01|グリセルダ・ブランコとは何者だったのか|マイアミ・コカイン市場とメデジン以前の密輸ネットワーク
- SP-02|カルロス・レデルとは何者だったのか|Norman’s Cayとメデジン・カルテルの国際化
- SP-03|バリー・シールとは何者だったのか|メデジン・カルテルに潜入した密輸パイロットと1986年の暗殺
- SP-04|麻薬カルテルはなぜ反ゲリラ戦争へ入ったのか|ロドリゲス・ガチャ、MAS、準軍事組織の誕生
- SP-05|1985年司法宮殿占拠事件|M-19とパブロ・エスコバルは本当につながっていたのか
- SP-06|なぜアメリカはメデジン・カルテルを追ったのか|ニクソンの麻薬戦争からレーガン、ブッシュのアンデス戦略へ
- SP-07|ノリエガとメデジン・カルテルはどうつながっていたのか|パナマ、資金洗浄、1989年米軍侵攻
- SP-08|なぜエスコバルは著名人を次々と誘拐したのか|1990~91年、人質作戦と投降交渉
- SP-09|なぜメデジンの若者はシカリオになったのか|麻薬戦争が生んだ殺し屋社会と都市の崩壊
- SP-10|エスコバルを支えた側近たち|グスタボ・ガビリアとメデジン・カルテル内部の人物相関
- SP-11|Netflix『ナルコス』はどこまで史実か|パブロ・エスコバル像と実際の記録を照合する
この記事で分かること
- 米国の「麻薬戦争」はいつ始まったのか
- なぜ1973年にDEAが設立されたのか
- 1980年代のコカイン・クラック危機が政策をどう変えたのか
- NSDD-221はなぜ麻薬取引を国家安全保障問題としたのか
- なぜメデジン・カルテルが米国の主要標的になったのか
- 犯罪人引き渡しがなぜエスコバル最大の恐怖になったのか
- 1989年のアンデス戦略で米国支援がどう拡大したのか
- 冷戦と麻薬戦争はどのように重なったのか
先に結論|米国が狙ったのは「反共の敵エスコバル」ではない
先に最も重要な点を整理する。
米国がメデジン・カルテルを主要標的とした理由は、
パブロ・エスコバルが共産主義者だったからではない。
そもそもエスコバルを、
一貫した共産主義革命家として分類すること自体が適切ではない。
米国側から見た問題の中心は、
コロンビアを拠点とする巨大犯罪ネットワークが
大量のコカインを米国市場へ供給していたことだった。
1980年代になると、その問題へさらに三つの要素が加わる。
- 米国内でのコカイン・クラック問題の深刻化
- カルテルによるコロンビア国家への暗殺・爆破・買収
- 麻薬取引が西半球諸国の政治的安定を脅かすという国家安全保障上の認識
つまり米国政策は、
「麻薬を輸入する犯罪者を逮捕する」
という法執行だけの問題から、
供給国の制度・治安・政治安定まで含む問題へ拡張した。
メデジン・カルテルは、
まさにそのすべてに当てはまる組織だった。
1971年|ニクソンが「全面攻勢」を宣言した
米国の麻薬戦争をパブロ・エスコバルから始めることはできない。
1971年6月17日、
リチャード・ニクソン大統領は
米国内の薬物乱用を
「公共の敵ナンバーワン」と位置づけた。
そして対策を国内だけに限定しなかった。
供給源、
国外の流通、
米国内への持ち込み、
治療、
教育、
法執行をまとめて扱う
政府横断型・国際型の対策を打ち出した。
ここで重要なのは、
1971年時点の中心的薬物問題が
後のメデジン・カルテルによるコカインではなかったことだ。
当時の政策では、
特にヘロイン依存などが強い問題意識として存在した。
したがって、
「ニクソンがエスコバルとの戦争を始めた」
という意味ではない。
重要なのは、
米国内の薬物問題を抑えるには、
国外の供給源と国際流通まで追わなければならない
という政策思想が、
この時代に明確になったことである。
1973年|DEAが誕生した理由
その次の大きな転換点が
DEA――Drug Enforcement Administration
の設立である。
DEAは1973年7月1日に発足した。
それ以前、
米国の連邦麻薬取締り機能は
司法省、税関、複数の専門組織などへ分散していた。
ニクソン政権は、
国際化した麻薬取引を追う一方で、
連邦政府側が省庁ごとに分断されていることを問題視した。
そこで複数の麻薬取締り機能を統合し、
巨大犯罪組織の捜査、
情報収集、
国外機関との連携を
一つの組織で進める体制が作られた。
このDEAが、
後にメデジン・カルテルを追う
米国側の主要機関になる。
| 年 | 政策・出来事 | CASE26との関係 |
|---|---|---|
| 1971年 | ニクソン政権が薬物問題への全面攻勢を表明 | 国外供給源まで追う基本思想 |
| 1973年 | DEA発足 | 国際麻薬組織を専門的に追う連邦機関 |
| 1979年 | 米・コロンビア犯罪人引き渡し条約署名 | 後のLos Extraditables最大の争点 |
| 1986年 | NSDD-221 | 麻薬取引を国家安全保障問題として位置づけ |
| 1989年 | ブッシュ政権アンデス戦略 | コロンビア等への軍事・警察支援拡大 |
| 1990年 | カルタヘナ首脳会談 | 供給・需要・経済政策を含む多国間協力 |
米国とコロンビアを直接結んだ「犯罪人引き渡し」
メデジン・カルテルと米国政府との対立を理解するうえで、
最も重要な制度が
犯罪人引き渡しである。
米国とコロンビアは1979年9月、
新たな犯罪人引き渡し条約へ署名した。
条約は1982年に発効し、
麻薬密輸などの越境犯罪について、
コロンビア人を米国へ送って裁く法的枠組みを作った。
これはメデジン・カルテル側にとって
単なる法律問題ではなかった。
コロンビア国内では、
裁判官、政治家、警察官、証人を
買収したり脅迫したりできる余地があった。
しかし米国へ送られれば、
同じ影響力を行使することは難しくなる。
そのため、
カルロス・レデル、
パブロ・エスコバル、
オチョア家などにとって、
米国への引き渡し阻止は
非常に重要な政治目標になった。
後に彼らは
Los Extraditables
という名称を用い、
引き渡し制度へ暴力的に抵抗するようになる。
「米国の刑務所へ送られる」が最大級の脅威になった
その脅威が現実になった象徴が
カルロス・レデルだった。
レデルは米国で起訴され、
1987年2月にコロンビアから米国へ引き渡された。
米国側から見れば、
これは国境を越える巨大犯罪組織の指導者を
自国司法へ持ち込む有力な手段だった。
メデジン側から見れば逆である。
今までコロンビア国内で通用していた
資金、脅迫、人脈による防御が通用しにくい場所へ
送られる可能性を意味した。
犯罪人引き渡しをめぐる争いは、
やがて単なる法廷闘争ではなくなる。
司法関係者への脅迫、
政治家への攻撃、
爆破、
暗殺――。
エスコバルと国家との戦争の中心には、
最後までこの問題が存在した。
1980年代|米国へ流れ込むコカインの規模が変わった
一方、米国内でも状況が大きく変わっていた。
DEAの公式史によれば、
1980年代半ばにはメデジン・カルテルが
コロンビアでのコカイン加工から米国への輸送、
さらに米国内の最初の卸売段階まで
大きな影響力を持っていた。
つまり米国当局にとって、
メデジン・カルテルは
「南米にいる外国犯罪者」ではなかった。
米国内で流通するコカインの供給構造そのものに
深く組み込まれていた。
さらに1980年代半ばには、
クラックが米国各地へ急速に広がる。
DEA史料では、
1985年から1986年にかけて
コカイン関連の救急搬送・救急受診が大きく増加し、
1986年末までにはクラックが
28州とワシントンD.C.で確認されたとされる。
米国政府から見れば、
国内市場末端の販売者だけを逮捕しても
供給は止まらない。
そこで戦略上、
生産地、輸送経路、
そして巨大供給組織そのものを攻撃する
必要性が強調されるようになった。
なぜメデジン・カルテルが優先標的になったのか
DEAの1985~1990年史は、
1980年代末の主要標的として
メデジンとカリの両組織を挙げている。
したがって、
米国がコロンビアの麻薬問題を
「エスコバルだけの問題」と見ていたわけではない。
しかしメデジン・カルテルは、
特に目立つ特徴を持っていた。
- 米国向け大量コカイン供給
- 国際的な輸送ネットワーク
- 大規模な資金洗浄
- 政治家・司法・警察への買収
- 暗殺と爆破を含む大規模な暴力
- 犯罪人引き渡しへの組織的抵抗
1980年代後半になると、
メデジン・カルテルの問題は
米国の薬物供給だけではなく、
同盟国コロンビアの国家制度そのものを脅かす問題
として見られるようになった。
1986年|麻薬問題が「国家安全保障」になった
ここで大きな転換となるのが、
レーガン政権が1986年4月8日に出した
NSDD-221
(National Security Decision Directive 221)
である。
題名は
「Narcotics and National Security」。
その意味は明確だった。
国際麻薬取引を
法執行や公衆衛生だけではなく、
米国の国家安全保障にも影響する問題
として扱ったのである。
NSDD-221は、
麻薬産業が大きい国では、
国際犯罪組織、地方の反乱勢力、
都市テロ組織などが重なることで、
政府の安定を損ねる危険を指摘した。
特に問題視されたのが、
西半球の民主国家だった。
ここがCASE26では重要になる。
1980年代のコロンビアには、
メデジン・カルテルだけがいたわけではない。
FARC、M-19、ELNなどのゲリラ、
準軍事勢力、
麻薬密輸人、
国家治安機関が
複雑に交差していた。
麻薬資金がこうした武装政治へ流れ込めば、
米国にとって問題は
「米国人がコカインを使う」だけではなくなる。
FACT CHECK|「レーガン政権はエスコバルを共産主義者とみなした」?
NO:
NSDD-221はPablo Escobarを
共産主義者として標的指定した文書ではない。
FACT:
同文書は国際麻薬取引そのものを
米国の国家安全保障への脅威と位置づけた。
FACT:
麻薬犯罪組織と反乱勢力・テロ組織が重なり、
国家を不安定化させる可能性を問題視した。
FACT:
特に西半球の民主国家への影響を重視している。
結論:
冷戦期の安全保障政策と麻薬対策は接続したが、
「Escobar個人が共産主義者だから米国が追った」
という説明にはならない。
「冷戦」と「麻薬戦争」は同じものだったのか
同じではない。
しかし1980年代には、
両者が同じ地域で重なる場面が増えた。
中米では、
ニカラグアのサンディニスタ政権とContraをめぐり、
米国が強く関与していた。
南米では、
コロンビアやペルーでゲリラ勢力が活動していた。
その地域を、
コカイン生産・輸送のネットワークも利用していた。
そのため米国政府内部では、
- 麻薬取締り
- 反乱対策
- テロ対策
- 同盟国政府の安定
- 冷戦外交
を完全に別々に扱うことが難しくなっていった。
SP-03で見たバリー・シール事件は、
まさにこの重なりを示す例だった。
DEAの潜入捜査で得た情報が、
ニカラグアのサンディニスタ政権をめぐる
レーガン政権の政治材料として使われた。
麻薬捜査と冷戦外交が
同じ作戦の中でぶつかったのである。
1984年以降、コロンビア国家そのものが攻撃された
米国がコロンビア問題への関与を強めたもう一つの理由が、
メデジン・カルテル側の暴力だった。
1984年4月、
法相ロドリゴ・ララ・ボニージャが暗殺された。
その後も、
裁判官、警察官、政治家、報道関係者などが
カルテルの攻撃対象となった。
DEA公式史では、
1980年代後半のメデジン・カルテルについて、
賄賂、威嚇、殺人を利用して
犯罪目的を達成した組織として記録している。
1988年には
検事総長カルロス・マウロ・オヨスが殺害され、
1989年には
大統領候補ルイス・カルロス・ガランが暗殺された。
さらに1989年には、
航空機爆破や政府機関への爆弾攻撃など、
暴力の規模が一段と拡大する。
米国から見れば、
大量コカインの供給者が、
同時に重要な同盟国の司法・政治制度を
武力で圧迫している状況だった。
1989年8月|米国はコロンビアへ緊急支援を決めた
1989年8月25日、
ジョージ・H・W・ブッシュ大統領は
コロンビア政府に対する
6500万ドルの緊急麻薬対策支援を承認した。
対象はコロンビアの警察と軍だった。
米国から提供されるのは、
装備、航空機、ヘリコプター、
訓練などである。
重要なのは、
米軍部隊そのものをコロンビアへ送って
メデジン・カルテルと直接戦わせる計画ではなかったことだ。
ブッシュ政権は、
米軍兵士の戦闘投入ではなく、
コロンビア政府自身が行う対麻薬作戦を
装備・訓練・資金で支援する
形を取った。
FACT CHECK|「米軍がエスコバルとの戦争へ参戦した」?
単純化:
1989年に米軍部隊がコロンビアへ入り、
Medellín Cartelと直接地上戦を行った、
という理解。
FACT:
Bush政権は6500万ドルの緊急軍事・麻薬対策支援を承認した。
FACT:
装備、航空機、ヘリコプター、
訓練等をColombia側へ提供する内容だった。
FACT:
Bushは当時、
Colombia政府から米軍部隊の派遣要請はなく、
米側は物資支援と訓練を行うと説明している。
1989年9月|アンデス戦略が始まる
緊急支援は一時的な措置だった。
さらに大きな政策が、
1989年9月5日に発表された
ブッシュ政権の
National Drug Control Strategyである。
これは国内の警察・刑務所・治療・教育だけでなく、
国外のコカイン供給国を対策の一部へ組み込んだ。
特にコロンビア、ペルー、ボリビアの
アンデス3か国に対し、
翌年度だけでも
2億5000万ドルを超える軍事・法執行支援を計画した。
さらにブッシュは、
これを
5年間・20億ドル規模の構想
の最初の段階と説明した。
目的は、
単にエスコバルを逮捕することではない。
生産者、
加工拠点、
密輸人、
巨大犯罪組織を
供給側から弱体化させようとする地域戦略だった。
なぜ「コロンビアだけ」ではなかったのか
コカイン市場は一国だけで完結していない。
当時、
コカ葉生産ではペルーやボリビアが重要な位置を占め、
コロンビア側では加工・組織化・国際輸送の巨大ネットワークが発達していた。
一国で取締りを強化しても、
隣国へ活動が移れば市場は残る。
そのためブッシュ政権の政策は、
コロンビア単独ではなく
Andean nationsという地域単位で設計された。
この考え方は、
一人の犯罪者を捕まえる捜査とは異なる。
市場の供給構造そのものを対象にする
対外政策だった。
しかし「軍事化だけ」が政策ではなかった
米国のアンデス政策を
「南米へ武器を送り込む政策」
だけで説明するのも不十分である。
1990年2月15日、
ブッシュ大統領はコロンビアのカルタヘナで、
コロンビアのビルヒリオ・バルコ、
ペルーのアラン・ガルシア、
ボリビアのハイメ・パス・サモラと会談した。
4か国が採択した
カルタヘナ宣言では、
対策を供給削減だけに限定していない。
- 米国を含む消費国での需要削減
- 違法薬物の生産・輸送対策
- 経済協力
- 代替開発
- 貿易・投資
- 資金洗浄・犯罪収益対策
- 多国間協力
を一つの枠組みに入れた。
つまり、
少なくとも政策文書上は、
「コロンビアが麻薬を作るから摘発すればよい」
という一方向の説明ではなく、
米国側の需要も問題の一部
として認められていた。
「米国人がコカインを買う」ことも戦争の一部だった
ブッシュの1989年9月演説には、
非常に重要な点がある。
コロンビア政府だけへ責任を押しつけてはいない。
米国内でコカインを購入する消費者の需要が、
国外の巨大犯罪市場を支えていることを認めている。
これは市場構造を考えれば当然である。
メデジン・カルテルが巨大化できたのは、
エスコバルが大量の商品を供給したからだけではない。
それを高額で買う巨大な米国市場が存在したからである。
したがって、
麻薬戦争には最初から
一つの矛盾があった。
供給国の組織を壊しても、
巨大な需要と利益が残れば、
別の犯罪組織が市場へ参入できる。
実際、
メデジン・カルテルが弱体化した後には
カリ・カルテルがさらに大きな存在になる。
米国の対策は「エスコバル個人」から組織全体へ向いていた
ドラマでは、
DEA捜査官とパブロ・エスコバルの
一対一の追跡劇として描きやすい。
しかし実際の米国側の対策は、
もっと広かった。
対象になったのは、
- 指導者
- 輸送網
- 資金
- 銀行口座
- 加工に必要な物資
- 通信
- 米国内の流通組織
である。
1989年には、
コロンビア政府、DEA、
欧州・中南米の捜査機関が協力し、
ロドリゲス・ガチャの海外資産について
8000万ドルを超える銀行口座を凍結したと
DEA公式史は記録している。
これは、
麻薬組織を弱体化させるには
人物を射殺・逮捕するだけでなく、
金融インフラを攻撃する必要がある
という考え方を示している。
米国はなぜこれほど「引き渡し」にこだわったのか
米国にとって犯罪人引き渡しには、
単に国外犯を米国で裁けるという以上の価値があった。
カルテルの力の源泉の一つは、
コロンビア国内の制度へ
暴力と資金で圧力を加えられることだった。
米国へ移送すれば、
その環境から被告を切り離せる。
だからこそ、
エスコバル側も引き渡しを最重要問題として扱った。
言い換えれば、
米国にとって有効な武器だったからこそ、
カルテル側にとって最大級の脅威になった。
1980年代のコロンビアで起きた
司法関係者への脅迫や政治的暴力を理解するには、
この対称関係を見る必要がある。
ただし、犯罪人引き渡し制度は一直線ではなかった
1979年に署名された米・コロンビア条約は、
1982年に発効した。
しかしコロンビア国内では、
条約を実施する国内法の合憲性をめぐる争いが続いた。
1986年には、
条約承認法が最高裁によって無効とされる。
その後も大統領令などを使った引き渡しが行われたが、
制度は政治的・司法的に不安定だった。
そして1991年の新憲法では、
出生によるコロンビア国民の国外引き渡しが禁止される。
これはメデジン・カルテル側にとって
大きな政治的勝利となった。
この点は、
本編のラ・カテドラル編へ直接つながる。
FACT CHECK|「1979年条約があるのだから、いつでもEscobarを米国へ送れた」?
NO:
条約署名だけで問題が終わったわけではない。
FACT:
米・Colombia犯罪人引き渡し条約は1979年に署名され、
1982年に発効した。
FACT:
Colombia最高裁は1986年、
条約を承認した国内法を無効とした。
FACT:
その後も国内法上の仕組みを用いた引き渡しが行われた。
FACT:
1991年憲法は出生によるColombia国民の引き渡しを禁止した。
結論:
Extraditionは1980年代を通じて
激しい司法・政治闘争の対象だった。
米国の政策には問題やトレードオフもあった
米国の麻薬政策を、
「巨大犯罪組織を倒す正しい作戦」
として一方向に評価するべきでもない。
国家安全保障化と軍・警察支援の拡大には、
別の問題が伴う。
コロンビアでは当時、
ゲリラ、
準軍事勢力、
治安機関、
麻薬組織が複雑に重なっていた。
治安部門への資金・装備支援を増やす場合、
それがどの組織へ渡り、
どのように運用され、
人権侵害を防ぐ仕組みが存在するかが重要になる。
また生産地を一か所で抑えても、
隣国や別地域へ生産・輸送網が移動する可能性がある。
巨大な需要が残っていれば、
利益を狙う新しい犯罪組織も現れる。
実際、
メデジン・カルテルの崩壊は
米国のコカイン市場そのものの消滅を意味しなかった。
ニクソンからブッシュまで|何が変わったのか
| 政権 | 主な転換 | 政策の範囲 |
|---|---|---|
| ニクソン | 薬物問題を国家的優先課題へ | 国内治療+法執行+国外供給 |
| フォード/カーター期 | DEAによる国際捜査網拡大 | 越境犯罪捜査 |
| レーガン | コカイン・クラック対策、NSDD-221 | 法執行+国家安全保障 |
| G.H.W.ブッシュ | National Drug Control Strategy/Andean Initiative | 国内需要+軍事・警察支援+地域外交 |
この20年間で、
米国の麻薬政策は明らかに広がっている。
最初は、
薬物依存と国内犯罪への対策だった。
そこから国外の供給組織を追うようになり、
さらに同盟国の政治安定や
地域安全保障まで含む政策へ変化した。
メデジン・カルテルは、
その変化した政策のほぼすべての問題が
一か所に重なった組織だった。
では、なぜアメリカはメデジン・カルテルを追ったのか
答えを一文にすると、
こうなる。
米国内へ大量のコカインを供給する巨大犯罪ネットワークが、
同時にコロンビアの政治・司法・治安機構を
暴力と腐敗で弱体化させていたためである。
そこへ、
1980年代のコカイン・クラック危機と、
冷戦期の西半球安全保障政策が重なった。
だから米国の対応は、
DEAによる刑事捜査だけでは終わらなかった。
外交、
犯罪人引き渡し、
情報活動、
資産凍結、
コロンビア警察への支援、
軍事物資、
アンデス地域への経済・治安政策へ広がった。
そして重要なのは、
エスコバル本人が死んでも
この政策が終わらなかったことである。
人物ではなく、
市場と国際犯罪システムを相手にしていた
からである。
次回|ノリエガとメデジン・カルテル
米国の麻薬戦争と冷戦政策が交差した場所として、
もう一つ重要な国がある。
パナマである。
その中心にいたのが、
マヌエル・アントニオ・ノリエガだった。
ノリエガは長年、
米国の情報・安全保障政策と関係を持ちながら、
後に米連邦当局から
メデジン・カルテルの犯罪活動を支援したとして起訴された。
DEA資料では、
輸送支援、
コカイン製造用物資、
カルテル関係者への避難場所、
資金洗浄などが問題とされた。
そして1989年12月、
米軍はパナマへ侵攻する。
しかし、
「米国は麻薬王ノリエガを捕まえるためだけにパナマへ侵攻した」
と説明するのも正確ではない。
次回は、
ノリエガとメデジン・カルテルの実際の関係と、
1989年のOperation Just Causeを
麻薬、冷戦、パナマ政治、運河問題に分けて追う。
CASE FILE 26|SPECIAL FILE 全11回
- SP-01|グリセルダ・ブランコとは何者だったのか|マイアミ・コカイン市場とメデジン以前の密輸ネットワーク
- SP-02|カルロス・レデルとは何者だったのか|Norman’s Cayとメデジン・カルテルの国際化
- SP-03|バリー・シールとは何者だったのか|メデジン・カルテルに潜入した密輸パイロットと1986年の暗殺
- SP-04|麻薬カルテルはなぜ反ゲリラ戦争へ入ったのか|ロドリゲス・ガチャ、MAS、準軍事組織の誕生
- SP-05|1985年司法宮殿占拠事件|M-19とパブロ・エスコバルは本当につながっていたのか
- SP-06|なぜアメリカはメデジン・カルテルを追ったのか|ニクソンの麻薬戦争からレーガン、ブッシュのアンデス戦略へ
- SP-07|ノリエガとメデジン・カルテルはどうつながっていたのか|パナマ、資金洗浄、1989年米軍侵攻
- SP-08|なぜエスコバルは著名人を次々と誘拐したのか|1990~91年、人質作戦と投降交渉
- SP-09|なぜメデジンの若者はシカリオになったのか|麻薬戦争が生んだ殺し屋社会と都市の崩壊
- SP-10|エスコバルを支えた側近たち|グスタボ・ガビリアとメデジン・カルテル内部の人物相関
- SP-11|Netflix『ナルコス』はどこまで史実か|パブロ・エスコバル像と実際の記録を照合する
今回出てきた言葉
- War on Drugs
-
米国の薬物問題に対する長期的な政策を示す通称。
1971年のNixon政権で薬物問題が国家的優先課題となり、
後の政権で法執行、外交、安全保障へ範囲が拡大した。 - DEA
-
Drug Enforcement Administration。
1973年7月1日に発足した米司法省の麻薬取締機関。
国際的な麻薬犯罪組織の捜査で中心的役割を担った。 - NSDD-221
-
1986年4月8日にReagan政権が発出した
「Narcotics and National Security」。
国際麻薬取引を米国の国家安全保障問題として位置づけた。 - Andean Initiative
-
Bush政権が1989年から進めた
Colombia、Peru、Boliviaを中心とする対麻薬戦略。
軍事・警察支援だけでなく、
国際協力や経済政策も組み合わせていった。 - Cartagena Declaration
-
1990年2月15日、
米国、Colombia、Peru、Boliviaの首脳が採択した対麻薬協力文書。
供給削減だけでなく、
需要削減、経済協力、代替開発などを含む包括的戦略を掲げた。
出典・参考資料
-
Richard Nixon,
Remarks About an Intensified Program for Drug Abuse Prevention and Control,
17 June 1971.
Nixon政権が薬物乱用を国家的優先課題とし、
国外供給源を含む対策を提示したことの確認に使用。 -
U.S. Drug Enforcement Administration,
DEA History / 1970–1975.
1973年のDEA設立、
連邦麻薬取締機能の統合について使用。 -
U.S. Drug Enforcement Administration,
DEA History / 1985–1990.
米国内のcocaine・crack問題、
Medellín CartelとCali組織への捜査、
Carlos Lehderの引き渡し、
Rodríguez Gacha資産凍結等の確認に使用。 -
Ronald Reagan Presidential Library,
National Security Decision Directive 221:
Narcotics and National Security,
8 April 1986.
国際麻薬取引を国家安全保障上の脅威と位置づけた
Reagan政権の公式政策文書として使用。 -
U.S. Department of State,
U.S.–Colombia extradition relationship historical reports.
1979年の犯罪人引き渡し条約、
1982年発効、
1986年以降の国内法上の問題、
1991年憲法について使用。 -
Presidencia de la República de Colombia / SUIN-Juriscol,
1979 U.S.–Colombia Extradition Treaty and implementing legislation.
条約署名・承認法・Colombia国内における司法判断の確認に使用。 -
George H. W. Bush,
Statement on United States Emergency Antidrug Assistance for Colombia,
25 August 1989.
Colombia警察・軍への6500万ドル緊急支援、
米軍部隊を直接投入しない方針の確認に使用。 -
George H. W. Bush,
Address to the Nation on the National Drug Control Strategy,
5 September 1989.
Andean3か国への翌年度支援、
5年間20億ドル構想、
国内需要と国外供給を組み合わせる政策の確認に使用。 -
Declaration of Cartagena,
15 February 1990.
United States、Colombia、Peru、Boliviaによる
需要削減、供給対策、経済協力、代替開発を含む
包括的な対麻薬協力方針の確認に使用。
本記事では、
米国の対Medellín Cartel政策を
Pablo Escobar個人への追跡だけではなく、
1971年以降の米国麻薬政策の長期的発展として整理した。
1971年Nixon政権の政策、
1973年DEA設立、
1986年NSDD-221、
1989年Bush政権のNational Drug Control Strategy、
1990年Cartagena Declarationを主要な政策上の転換点として扱っている。
特に、
「米国はEscobarが共産主義者だったから追跡した」
という説明は採用していない。
NSDD-221が示したのは、
国際麻薬取引が犯罪組織、反乱勢力、テロ組織、
政府腐敗などと接続することで、
特に西半球諸国の安定と米国の国家安全保障へ影響し得るという認識である。
また、1989年のAndean Initiativeを
米軍によるColombiaへの直接参戦とはしていない。
Bush政権が公表した6500万ドルの緊急支援は、
Colombian police・militaryへの装備、航空支援、
訓練等を中心とするもので、
当時Bush自身が米軍部隊の派遣要請はないと説明している。
1989年9月に示された5年間20億ドル構想は
Pablo Escobar一人の追跡費用ではなく、
Colombia、Peru、Boliviaを対象とした
生産・流通・組織犯罪対策を含むAndean地域戦略として扱った。
さらに1990年Cartagena Declarationでは、
供給国側への取締りだけでなく、
米国を含む消費国での需要削減、
経済協力、代替開発、貿易・投資なども
相互に関連する政策課題として位置づけられている。
最終確認:2026年9月1日。