1990年8月30日。
コロンビアの著名なジャーナリスト、
ディアナ・トゥルバイは取材へ向かった。
元大統領フリオ・セサル・トゥルバイの娘でもある彼女には、
ゲリラ組織ELNの指導者へのインタビューが設定されたと伝えられていた。
しかし、それは罠だった。
ディアナと取材チームは拘束され、
やがて自分たちが左翼ゲリラではなく、
パブロ・エスコバル側の勢力に捕らえられたことを知る。
それから数か月、
コロンビアでは著名人の誘拐が続いた。
大手新聞の幹部。
元大統領府高官の家族。
政治家の妻。
政府系機関の幹部。
ジャーナリスト。
これは無差別な身代金目的の誘拐とは違っていた。
人質そのものを、
政府の司法政策と犯罪人引き渡し制度へ圧力をかけるための
政治的な道具として利用する作戦だった。
1989年、
メデジン・カルテルは暗殺、爆破、警察官殺害などを通じて
国家との「全面戦争」を繰り広げた。
1990年になると、
暴力の形はさらに変わる。
人を殺して政府を恐怖させるだけでなく、
生かしたまま拘束し、その家族、報道機関、政治家、
世論を交渉の圧力へ変えるようになったのである。
SPECIAL FILE第8回では、
1989年のテロ戦争から1991年6月19日のエスコバル投降まで、
その間に何が起きていたのかを追う。
CASE FILE 26|パブロ・エスコバル SPECIAL FILE
CASE FILE 26本編では、
パブロ・エスコバル本人の台頭から国家との戦争、
投降、ラ・カテドラル、脱走、追跡、1993年の死亡までを追う。
SPECIAL FILEでは、
その一本道だけでは見落とす人物、社会、国際政治、
そして本編の時系列上の空白を独立した記事として掘り下げる。
- SP-01|グリセルダ・ブランコとは何者だったのか|マイアミ・コカイン市場とメデジン以前の密輸ネットワーク
- SP-02|カルロス・レデルとは何者だったのか|Norman’s Cayとメデジン・カルテルの国際化
- SP-03|バリー・シールとは何者だったのか|メデジン・カルテルに潜入した密輸パイロットと1986年の暗殺
- SP-04|麻薬カルテルはなぜ反ゲリラ戦争へ入ったのか|ロドリゲス・ガチャ、MAS、準軍事組織の誕生
- SP-05|1985年司法宮殿占拠事件|M-19とパブロ・エスコバルは本当につながっていたのか
- SP-06|なぜアメリカはメデジン・カルテルを追ったのか|ニクソンの麻薬戦争からレーガン、ブッシュのアンデス戦略へ
- SP-07|ノリエガとメデジン・カルテルはどうつながっていたのか|パナマ、資金洗浄、1989年米軍侵攻
- SP-08|なぜエスコバルは著名人を次々と誘拐したのか|1990~91年、人質作戦と投降交渉
- SP-09|なぜメデジンの若者はシカリオになったのか|麻薬戦争が生んだ殺し屋社会と都市の崩壊
- SP-10|エスコバルを支えた側近たち|グスタボ・ガビリアとメデジン・カルテル内部の人物相関
- SP-11|Netflix『ナルコス』はどこまで史実か|パブロ・エスコバル像と実際の記録を照合する
この記事で分かること
- なぜ1990年から著名人誘拐が相次いだのか
- ディアナ・トゥルバイ、フランシスコ・サントスらはどうなったのか
- 人質がどのように政府への政治・司法圧力へ使われたのか
- 「sometimiento a la justicia」とはどのような制度だったのか
- 1990~91年に犯罪人引き渡しの扱いがどう変わったのか
- 人質解放とエスコバル投降がどうつながったのか
- 1991年憲法の引き渡し禁止を誘拐だけで説明してよいのか
先に結論|目的は身代金より「政府を動かす人質」を持つことだった
1990~91年の連続誘拐を理解するうえで、
最も重要なのは被害者の社会的な立場である。
狙われたのは、
単純に「金を持っている人」だけではなかった。
新聞社、
政府、
政界、
歴代大統領、
有力政治家とつながる人物が選ばれていた。
人質を拘束すれば、
家族だけが動くのではない。
新聞が毎日事件を報じる。
政治家が政府へ働きかける。
宗教家や元大統領が仲介へ入る。
世論が人命を優先するよう政府へ圧力をかける。
つまり、人質一人を拘束することで
その背後にある巨大な社会的ネットワークまで圧力装置に変える
ことができた。
エスコバル側が求めていた最大の課題は、
米国への犯罪人引き渡しを避けながら、
コロンビア国内の司法制度へ自らを「投降」させる条件を整えることだった。
1989年の「全面戦争」が行き詰まったあと
1989年は、
パブロ・エスコバルとコロンビア国家の対立が
最も激しくなった年の一つだった。
ルイス・カルロス・ガラン暗殺。
アビアンカ203便爆破。
DAS庁舎爆破。
さらに警察官、司法関係者、政治家、
一般市民を巻き込む多数の暴力事件が続いた。
しかし、国家を爆弾だけで屈服させることはできなかった。
新大統領セサル・ガビリアが1990年8月に就任すると、
政府側にも別の考え方が現れる。
軍事・警察作戦だけでなく、
犯罪者が自主的に出頭し、
犯罪を認めることと引き換えに
刑事上の利益を与える制度を整えようとしたのである。
これが
sometimiento a la justicia――「司法への服従・投降政策」
だった。
1990年8月30日|ディアナ・トゥルバイが消えた
ガビリア政権発足からまだ1か月もたたない
1990年8月30日、
ディアナ・トゥルバイと取材チームが誘拐された。
ディアナは、
元大統領フリオ・セサル・トゥルバイの娘であり、
テレビニュースや雑誌を率いる著名なジャーナリストだった。
誘拐犯側は、
ELN指導者への秘密インタビューを装って
取材チームを誘い出した。
この事件で重要なのは、
ジャーナリストとしての知名度だけではない。
元大統領の娘を拘束すれば、
政府、政治家、報道界のすべてに影響を与えられる。
「著名人を人質にする」という戦略が
本格的に表面化した事件だった。
政府はその直後、「投降すれば刑を軽くする」制度を出した
1990年9月5日、
ガビリア政権は
Decreto 2047 de 1990を公布した。
この政令は、
麻薬犯罪などに関与した人物が
自発的に司法へ出頭し、
一定の条件を満たした場合に、
刑の減軽などの利益を認める仕組みを設けた。
目的は政府自身が文書で明記している。
暴力によって公共秩序を乱してきた人物を
司法制度へ戻し、
国内の平穏を回復することである。
これは
「エスコバルと政府が政治的和平交渉を始めた」
ということではない。
政府側は、
あくまで犯罪者が司法へ服するための刑事法上の制度
として構築しようとした。
しかしエスコバル側には、まだ条件が足りなかった
最大の問題は、
犯罪人引き渡しだった。
刑が短くなっても、
最終的に米国へ送られる可能性が残るなら、
エスコバル側にとって投降する意味は小さい。
そのため政府が制度を整備する一方、
Los Extraditables側は
さらなる保証を求め続けた。
そして誘拐は止まらなかった。
1990年9月19日|フランシスコ・サントスとマリナ・モントージャ
9月19日、
大手紙『El Tiempo』の編集幹部
フランシスコ・サントス・カルデロンが
ボゴタで誘拐された。
襲撃では彼の運転手も殺害された。
サントスは、
コロンビアでも最も影響力の大きい新聞社一族の一員だった。
同じ日には、
マリナ・モントージャ・デ・ペレスも
ボゴタの飲食店から連れ去られた。
彼女は前バルコ政権で大統領府事務総長を務めた
ヘルマン・モントージャの姉妹だった。
偶然に著名人が並んだのではない。
政府、新聞、政治エリートへ直接届く人物が
人質になっていた。
11月7日|マルハ・パチョンとベアトリス・ビジャミサール
11月7日には、
政府系映画振興機関Focineの責任者だった
マルハ・パチョン・デ・ビジャミサールが誘拐された。
彼女は国会議員アルベルト・ビジャミサールの妻であり、
1989年に暗殺された大統領候補
ルイス・カルロス・ガランの義理の姉妹でもあった。
同乗していた
ベアトリス・ビジャミサール・デ・ゲレーロも
一緒に連れ去られた。
この襲撃でも運転手が殺害されている。
ここまで来ると、
誰を人質にすれば国家と世論へ強い影響を及ぼせるかという
選択性が明確に見えてくる。
主要人質を混同しない|1990~91年の経過
| 人質 | 誘拐 | 結果 |
|---|---|---|
| ディアナ・トゥルバイ | 1990年8月30日 | 1991年1月25日、警察作戦の最中に銃撃を受け死亡 |
| マリナ・モントージャ | 1990年9月19日 | 遺体が1991年1月24日にボゴタで発見。Los Extraditablesは処刑命令を出したことを認めた |
| フランシスコ・サントス | 1990年9月19日 | 1991年5月20日解放 |
| マルハ・パチョン | 1990年11月7日 | 1991年5月20日解放 |
| ベアトリス・ビジャミサール | 1990年11月7日 | 1991年2月5日解放 |
さらにディアナと同時に誘拐された取材チームの複数人も、
1990年末から1991年初頭にかけて段階的に解放された。
このように、
同じ「人質事件」としてまとめられる人物でも
結末はまったく同じではない。
マリナ・モントージャは殺害された
マリナ・モントージャは、
他の著名人のように生きて帰ることができなかった。
1991年1月24日、
ボゴタ北部で身元不明の女性遺体が発見された。
当初は身元が確認されないまま扱われたが、
その後の指紋照合によって
マリナ・モントージャと確認された。
Los Extraditablesは同時期の声明で、
彼女を処刑するよう命じていたことを公に認めている。
ここで注意したいのは、
「人質は政府との交渉材料だから安全だった」
わけではないことだ。
人質は交渉力を持つ一方で、
圧力を強めるために殺害される危険も持っていた。
翌日、ディアナ・トゥルバイも死亡した
1991年1月25日、
ディアナ・トゥルバイを拘束していた場所の周辺で
警察作戦が行われた。
後の資料では、
当初の作戦目的自体が
エスコバルまたは麻薬組織関係者の拘束だったとする記録もある。
作戦中に混乱が起き、
ディアナは銃撃を受けた。
病院へ搬送されたものの、
同日死亡した。
誰の弾丸が致命傷となったのかについては、
その後も議論が残った。
したがって、
本記事では
「警察作戦の最中に銃撃を受け死亡した」
ところまでを確実な記述とし、
射手については断定しない。
FACT CHECK|「警察がディアナ・トゥルバイを射殺した」?
FACT:
Diana Turbayは1991年1月25日、
警察作戦が行われた現場から銃創を負って搬送され、死亡した。
FACT:
作戦の経緯と指揮について、その後当局内でも調査が行われた。
DISPUTED:
致命傷となった弾丸を誰が発射したのか。
結論:
「救出作戦中に死亡」は確認できるが、
特定の射手を確定事実として書くべきではない。
政府は制度を何度も作り変えていった
一連の誘拐と並行して、
ガビリア政権の
sometimiento a la justiciaも変化していった。
最初のDecreto 2047だけで完成した制度ではない。
1990年10月にはDecreto 2372、
12月14日には
Decreto 3030が公布された。
3030はそれまでの制度を組み替え、
自発的に出頭し、
犯罪を認める者に対する
刑の軽減や手続上の利益をより明確にした。
そして犯罪人引き渡しについても、
国内で拘禁・刑事手続を受ける者への保護が拡大された。
1991年1月29日の
Decreto 303 de 1991では、
条件を満たして司法へ服した人物について、
出頭以前に行った犯罪に関して
原則として国外へ引き渡さないことがさらに明確にされた。
「投降政策」はエスコバル一人だけのために作られたのか
制度がエスコバルとの対立を背景に強化されたことは間違いない。
しかし、
法令そのものはエスコバル一人だけを名指ししたものではない。
実際、
メデジン・カルテルのオチョア兄弟は
エスコバルより先に司法へ出頭している。
| 人物 | 出頭時期 |
|---|---|
| ファビオ・オチョア | 1990年12月18日 |
| ホルヘ・ルイス・オチョア | 1991年1月15日 |
| フアン・ダビド・オチョア | 1991年2月16日 |
| パブロ・エスコバル | 1991年6月19日 |
つまり1991年前半には、
「戦い続ける」以外に
国内司法へ出頭するという出口が
実際に機能し始めていた。
それでも、なぜ人質は解放されなかったのか
エスコバル側から見れば、
政令による保証だけでは不十分だった。
政令は政府が変更できる。
さらに将来、
政治情勢が変われば
犯罪人引き渡しが再び使われる可能性もある。
そのため最も強い保証となるのは、
単なる大統領令ではなく
憲法そのものに「コロンビア国民を引き渡さない」と書かれること
だった。
ちょうど同じ時期、
コロンビアでは
新憲法を作るための
Asamblea Nacional Constituyente――
国民憲法制定議会が開かれていた。
人質は「憲法制定議会を動かすためだけ」に誘拐されたのか
ここは単純化できない。
エスコバル側の暴力と脅迫が、
引き渡しをめぐる政治環境へ巨大な圧力を加えていたことは明らかである。
しかし、
「数人を誘拐した結果、議員たちがその要求どおりに憲法を書いた」
と説明するのは不正確である。
引き渡し制度については、
主権、
国内司法制度への信頼、
米国との関係などをめぐる
以前からの政治・法律上の論争も存在した。
後年、コロンビア真実委員会が元制憲議員から集めた証言でも、
引き渡し禁止へ賛成した理由は一つではなかった。
理念・政治的信念から反対した者。
暴力を恐れた者。
そして麻薬組織による買収工作が
一部で行われていたことを示す証言もある。
したがって、
テロ・誘拐は重要な圧力要因だったが、
1991年憲法の一条項を
一つの誘拐作戦だけから説明するべきではない。
FACT CHECK|「人質誘拐が1991年憲法から引き渡しを消した」?
FACT:
Medellín Cartel/Los Extraditablesは
長年にわたり犯罪人引き渡し廃止を最重要要求としていた。
FACT:
1990~91年の著名人誘拐は、
政府のsometimiento政策と引き渡し問題へ圧力をかける目的を持っていた。
FACT:
1991年6月19日、
制憲議会は51対13、棄権5で
コロンビア国民の国外引き渡し禁止を承認した。
注意:
制憲議会の判断には、
法理、政治思想、恐怖、暴力、買収疑惑など複数の要因が存在した。
結論:
「誘拐だけが憲法を変えた」と単純化してはいけない。
家族と政府の間に立ったアルベルト・ビジャミサール
マルハ・パチョンの夫
アルベルト・ビジャミサールは、
人質解放とエスコバル投降をめぐる過程で
重要な仲介者となった。
彼にとってこれは、
国家政策だけの問題ではなかった。
妻が人質になっていた。
同時に、
政府が犯罪組織へ屈服したと見られる形で
政策を変更すれば、
国家そのものがさらに脅迫へ弱くなる危険もあった。
このため1990~91年の過程は、
単純な
「政府対エスコバル」
という二者間交渉ではない。
被害者家族、
政府、
司法、
教会、
新聞社、
政治家、
エスコバル側の弁護士や仲介者が入り組んだ
複雑な交渉空間になった。
ラファエル・ガルシア・エレロス神父が仲介へ入る
1991年春になると、
カトリック司祭
ラファエル・ガルシア・エレロスも
エスコバル側との接触を始める。
彼は公開の場でも
人質解放とエスコバルの投降を呼びかけた。
この仲介は、
事件の終盤で大きな役割を持つ。
エスコバル側は、
自らの投降意思を
政府へ直接届けるだけでなく、
宗教家という第三者を通じて
社会へ示すことができた。
1991年2月5日|ベアトリス・ビジャミサール解放
1991年2月5日、
ベアトリス・ビジャミサールが解放された。
しかし、
マルハ・パチョンとフランシスコ・サントスは
なお拘束されたままだった。
人質を一斉に解放するのではなく、
段階的に解放することで、
エスコバル側は
政府との交渉状態そのものを維持できた。
人質が残っている限り、
政府、メディア、家族は
エスコバル側の動向を無視できない。
1991年5月20日|最後の主要人質が戻る
5月20日夜、
マルハ・パチョンが解放された。
その後、
フランシスコ・サントスも自由になった。
マルハは約半年、
フランシスコは約8か月にわたって拘束されていた。
二人の解放は、
単に誘拐事件が一つ終わったという意味ではなかった。
当時の報道では、
この解放が
パブロ・エスコバル本人の投降が近づいた兆候
として受け止められた。
実際、その約1か月後、
エスコバルは司法へ出頭する。
人質解放から投降まで|最後の1か月
| 日付 | 出来事 |
|---|---|
| 1991年5月20日 | Maruja Pachón、Francisco Santos解放 |
| 1991年5~6月 | García Herreros神父らを通じEscobar投降交渉が進行 |
| 1991年6月19日 | 制憲議会がコロンビア国民の国外引き渡し禁止を承認 |
| 同日午後 | Pablo Escobarが当局へ出頭 |
| 1991年7月4日 | 新憲法公布 |
1991年6月19日|午前に引き渡し禁止、午後にエスコバル投降
1991年6月19日、
制憲議会は
コロンビア国民の国外引き渡しを禁止する条項を
51票対13票、棄権5票で承認した。
そして、その数時間後。
パブロ・エスコバルは当局へ出頭した。
同時代報道によれば、
午後5時ごろには
ヘリコプターでエンビガドの収監施設へ到着している。
投降交渉自体はそれ以前から進んでいた。
したがって、
「午前中に憲法が変わったので、
その場で思いついて午後に投降した」
というわけではない。
しかし、
彼が長年最も恐れてきた
米国への引き渡しについて、
制憲議会が禁止を決定した同じ日に
投降したという時系列は極めて重要である。
FACT CHECK|Escobarは「誘拐で勝利したから」投降した?
FACT:
Escobar側は1990~91年の著名人誘拐を
政府へ圧力をかけるために利用した。
FACT:
政府は同時期に
sometimiento a la justiciaの制度を段階的に整備した。
FACT:
Ochoa兄弟などはEscobarより先にその制度を利用して出頭した。
FACT:
最後の主要人質が解放された約1か月後、
Escobarは司法へ出頭した。
FACT:
投降日は、制憲議会が国外引き渡し禁止を承認した
1991年6月19日と同日だった。
結論:
誘拐は投降条件をめぐる圧力戦略の重要部分だったが、
投降は法令整備、仲介、他のCartel幹部の出頭、
制憲議会、引き渡し問題など複数の要因が重なった結果である。
「政府はエスコバルと交渉しなかった」は本当なのか
ガビリア政権は当時、
「犯罪者と政治交渉をする」という表現を避けた。
政府の公式な立場では、
投降条件は法律・政令として一般化されており、
特定の犯罪者と国家が対等な立場で和平協定を結ぶものではなかった。
しかし現実には、
エスコバルがどの条件なら出頭するのか、
人質をいつ解放するのか、
収監をどう行うのかをめぐり、
多数の仲介者を通じた意思疎通が続いていた。
したがって、
「政治的和平交渉ではなかった」
ことと
「実質的な条件調整が存在しなかった」
ことは同じではない。
なぜ政府も「投降」という出口を必要としたのか
政府側にも理由があった。
1989~90年の全面戦争では、
犯罪組織だけでなく
多数の一般市民、警察官、司法関係者、
政治家、報道関係者が犠牲になっていた。
国家がエスコバルをすぐに拘束できる保証もない。
追跡が長引けば、
さらに爆破や誘拐が続く可能性がある。
そのため、
犯罪者を国内司法へ自発的に出頭させ、
暴力を減らし、
刑事裁判へ移行させる政策には
政府側にも合理性があった。
問題は、
その制度が本当に「国家が犯罪者を収監する」形になるのか
という点だった。
この問題は、
投降後すぐに表面化する。
そしてラ・カテドラルへ
1991年6月19日、
エスコバルは投降した。
しかし送られた場所は、
通常の刑務所ではなかった。
メデジン南部エンビガドの山中に設けられた
ラ・カテドラル。
エスコバル側が施設の立地・環境へ
大きな影響を持ち、
警備体制にも重大な特殊性があった。
結果として、
国家が最大級の犯罪組織指導者を
完全に統制したとは言い難い収監状態が生まれる。
つまり、
1990~91年の人質作戦は
「誘拐事件の終結」で終わらない。
全面戦争
→ 著名人誘拐
→ 投降政策
→ 人質解放
→ 引き渡し禁止
→ エスコバル投降
→ ラ・カテドラル
という一本の時系列になっている。
この誘拐作戦が残したもの
エスコバル側から見れば、
著名人誘拐は政府へ圧力をかける手段だった。
しかし被害者側から見れば、
それは「政治戦略」という言葉では片づけられない。
何か月も自由を奪われ、
家族は生死も分からないまま待ち続けた。
運転手など、
誘拐対象ですらなかった人々も殺害された。
マリナ・モントージャは帰らなかった。
ディアナ・トゥルバイも帰らなかった。
生還した人々にも、
長期間の拘束と恐怖はその後の人生へ残った。
ここを抜いて
「エスコバルは引き渡しを止めて投降に成功した」
とだけ書けば、
犯罪者側の戦略だけを描くことになる。
実際にその戦略のために使われたのは、
生身の人間だった。
1989年と1991年の間に何があったのか
| 時期 | エスコバル側の行動 | 国家側 |
|---|---|---|
| 1989年 | 暗殺・爆破を含む全面戦争 | 大規模追跡・引き渡し強化 |
| 1990年後半 | 著名人の連続誘拐 | sometimiento政策開始 |
| 1990年末~91年初頭 | 人質を維持し圧力継続 | 投降制度を段階的に拡張 |
| 1991年2~5月 | 人質を段階的に解放 | 仲介・投降条件整備 |
| 1991年6月19日 | Escobar出頭 | 制憲議会が引き渡し禁止を承認 |
これで、
CASE26本編第5回の
「1989年全面戦争」から、
第6回の
「1991年、なぜ突然エスコバルが投降したのか」
までがつながる。
突然投降したのではない。
その間に約10か月に及ぶ
人質、法律、世論、政治、司法を使った圧力戦
が存在していたのである。
次回|なぜメデジンの若者はシカリオになったのか
ここまでCASE26では、
エスコバルやカルテル幹部、
米国政府、ゲリラ、準軍事組織、
誘拐された著名人を中心に見てきた。
しかし、
麻薬戦争の最前線にいたのは
有名人だけではない。
1980~90年代のメデジンでは、
若い男たちが
シカリオ――報酬を受けて人を殺す実行犯
として大量に動員された。
その背景を
「貧しい少年が麻薬王に憧れた」
だけで説明することはできない。
急速な都市化。
周縁地区。
若者の排除。
地域ギャング。
麻薬資金。
銃。
国家と犯罪組織の暴力。
そして、
殺す側になった若者自身も
次々と殺されていった。
次回は、
パブロ・エスコバルの「ロビン・フッド」像とは別の場所から、
メデジンという都市が払った代償を見る。
CASE FILE 26|SPECIAL FILE 全11回
- SP-01|グリセルダ・ブランコとは何者だったのか|マイアミ・コカイン市場とメデジン以前の密輸ネットワーク
- SP-02|カルロス・レデルとは何者だったのか|Norman’s Cayとメデジン・カルテルの国際化
- SP-03|バリー・シールとは何者だったのか|メデジン・カルテルに潜入した密輸パイロットと1986年の暗殺
- SP-04|麻薬カルテルはなぜ反ゲリラ戦争へ入ったのか|ロドリゲス・ガチャ、MAS、準軍事組織の誕生
- SP-05|1985年司法宮殿占拠事件|M-19とパブロ・エスコバルは本当につながっていたのか
- SP-06|なぜアメリカはメデジン・カルテルを追ったのか|ニクソンの麻薬戦争からレーガン、ブッシュのアンデス戦略へ
- SP-07|ノリエガとメデジン・カルテルはどうつながっていたのか|パナマ、資金洗浄、1989年米軍侵攻
- SP-08|なぜエスコバルは著名人を次々と誘拐したのか|1990~91年、人質作戦と投降交渉
- SP-09|なぜメデジンの若者はシカリオになったのか|麻薬戦争が生んだ殺し屋社会と都市の崩壊
- SP-10|エスコバルを支えた側近たち|グスタボ・ガビリアとメデジン・カルテル内部の人物相関
- SP-11|Netflix『ナルコス』はどこまで史実か|パブロ・エスコバル像と実際の記録を照合する
今回出てきた言葉
- Los Extraditables
-
米国への犯罪人引き渡しに反対する
コロンビアの大物麻薬密輸人らが使用した名称。
1980年代後半から暗殺、爆破、誘拐などを通じて
引き渡し政策へ圧力を加えた。 - sometimiento a la justicia
-
1990年以降のGaviria政権が整備した
犯罪組織構成員の自主的な司法への出頭を促す制度。
自発的出頭、犯罪の自白などを条件に、
刑の減軽や一定の非引き渡し保証などが設けられた。 - Decreto 2047 de 1990
-
1990年9月5日に公布された政令。
麻薬犯罪等の関係者が司法へ出頭することを促すため、
刑事上の利益を設けた初期のsometimiento政策。 - Decreto 3030 de 1990
-
1990年12月14日の政令。
それまでの投降政策を再編・拡張し、
刑の減軽や犯罪人引き渡しの取扱いをより具体化した。 - ディアナ・トゥルバイ
-
Colombiaの著名ジャーナリストで元大統領Julio César Turbayの娘。
1990年8月30日に取材チームとともに誘拐され、
1991年1月25日の警察作戦中に銃撃を受けて死亡した。
出典・参考資料
-
Centro Nacional de Memoria Histórica,
Justicia y Paz: ¿Verdad judicial o verdad histórica?.
1990年の著名人誘拐と
sometimiento a la justicia政策の成立過程、
各政令の流れを確認するために使用。 -
Centro Nacional de Memoria Histórica,
Normas y dimensiones de la desaparición forzada en Colombia.
Diana Turbay一行、
Francisco Santos、Maruja Pachón、Beatriz Villamizar等の
誘拐・解放時系列の補助確認に使用。 -
República de Colombia / SUIN-Juriscol,
Decreto 2047 de 1990.
1990年9月5日に開始された
sometimiento a la justicia制度の目的・対象・刑事上の利益を確認。 -
República de Colombia / SUIN-Juriscol,
Decreto 2372 de 1990.
Decreto 2047の修正・拡張過程の確認に使用。 -
República de Colombia / SUIN-Juriscol,
Decreto 3030 de 1990.
1990年12月14日の制度再編、
刑の軽減と犯罪人引き渡し取扱いの確認に使用。 -
República de Colombia / SUIN-Juriscol,
Decreto 303 de 1991.
司法へ服した人物について、
出頭以前の犯罪に対する非引き渡し保証を
より明確にした規定の確認に使用。 -
Corte Suprema de Justicia de Colombia,
Sala de Casación Penal,
1995年3月1日判決.
Pablo Escobarが1991年6月19日に
sometimiento制度の下で自発的に出頭したことの司法記録として使用。 -
Comisión para el Esclarecimiento de la Verdad,
La Constituyente.
1991年6月19日の国外引き渡し禁止投票、
51賛成・13反対・5棄権、
制憲議員の動機が一様でなかったことの確認に使用。 -
El Tiempo, 1990~1991年同時代報道アーカイブ.
Francisco Santos、Marina Montoya、
Maruja Pachón、Beatriz Villamizar、
Diana Turbayの各事件と解放・死亡日のクロスチェックに使用。 -
UPI, El Paísほか1991年6月19~20日の同時代報道.
制憲議会の引き渡し禁止決定と
Pablo Escobarの同日投降の時系列確認に使用。
本記事は、CASE FILE 26引継ぎで指定された
「1990~91年人質誘拐を本編第5回と第6回の最大の空白として扱う」
という構成に基づいている。
各人質の経過を混同しないことを最優先し、
Diana Turbayは1991年1月25日に警察作戦中の銃撃で死亡、
Marina Montoyaは1991年1月24日に遺体発見、
Beatriz Villamizarは1991年2月5日に解放、
Maruja PachónとFrancisco Santosは1991年5月20日に解放、
と分離した。
Diana Turbayの致命弾については、
後年も射手が確定していないため、
「警察作戦中に銃撃を受け死亡」とし、
警察または誘拐犯のいずれかを断定していない。
Marina Montoyaの誘拐日については、
一部の後年CNMH資料に9月10日とする記載がある一方、
事件翌日のEl Tiempo報道および複数の時系列資料は
1990年9月19日としている。
本記事では同時代報道を優先して9月19日を採用した。
1991年憲法の犯罪人引き渡し禁止についても、
「著名人誘拐だけによって成立した」とは扱っていない。
Comisión de la Verdadが記録するように、
制憲議員には法理・政治的信念、暴力への恐怖、
麻薬組織による買収工作など複数の要因が存在した。
また、
1991年6月19日のPablo Escobar投降については、
同日正午ごろにAsamblea Nacional Constituyenteが
コロンビア国民の引き渡し禁止を51対13、棄権5で承認し、
その数時間後にEscobarが出頭したという時系列を採用する。
新憲法そのものの正式公布は1991年7月4日であり、
「6月19日に新憲法全体が施行された」とはしていない。
最終確認:2026年9月1日。