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S-21とは何だったのかトゥール・スレン、拷問、処刑とクメール・ルージュの党内粛清

S-21とは何だったのか|トゥール・スレン、拷問、処刑とクメール・ルージュの党内粛清

大量虐殺・人道犯罪

プノンペン中心部に、現在「トゥール・スレン虐殺犯罪博物館」として保存されている建物がある。

もともとは学校だった。
だがクメール・ルージュ支配下では、教室が監房や尋問室へ変えられ、鉄格子や有刺鉄線が設置された。

ここが、民主カンプチアの治安施設「S-21」だった。

S-21に送られた人々は、写真を撮られ、経歴を記録され、尋問を受けた。
尋問では拷問が用いられ、CIA、KGB、ベトナムなどの「スパイ組織」に所属していたという自白を作らされた人もいる。

しかし、S-21を理解するうえで最も重要なのは、ここが単なる刑務所でも、単なる処刑施設でもなかったことである。


一人を逮捕する。
自白を取る。
自白の中から別の人物の名前を探す。
その人物を逮捕する。
再び自白を取る。

その繰り返しによって、疑いが組織内部を広がっていった。

革命を実行していたクメール・ルージュの幹部や兵士自身が、ある日突然「敵」「裏切り者」「スパイ」とされ、S-21へ送られる。

今回はトゥール・スレンを「恐ろしい監獄」としてだけではなく、
疑いが次の疑いを生み、党が自らの構成員を次々に粛清していく情報処理システム
として見ていく。

CASE FILE 22|ポル・ポトと民主カンプチア特集(全10回)

この特集では、ポル・ポト個人の伝記としてではなく、
国家・組織・思想が社会をどう再編し、そのシステムがなぜ大量の死と迫害を生んだのか
を中心に1975~1979年のカンボジアを追います。


  1. 第1回 ポル・ポトと民主カンプチアとは?|クメール・ルージュ政権の1975–1979年

  2. 第2回 ポル・ポトはどう権力を握ったのか|カンボジア内戦からクメール・ルージュ政権成立まで

  3. 第3回 1975年4月17日、プノンペンで何が起きたのか|都市強制退去と「新人民」

  4. 第4回 民主カンプチアは人々の生活をどう統制したのか|協同組合・共同食堂・家族分離という社会改造

  5. 第5回 なぜ大量の死者が出たのか|強制労働・食糧不足・病気・処刑が重なった民主カンプチア
  6. 第6回 S-21とは何だったのか|トゥール・スレン、拷問、処刑とクメール・ルージュの党内粛清
    【現在の記事】

  7. 第7回 ポル・ポト時代の大量殺害はすべて「ジェノサイド」なのか|チャム人・ベトナム人迫害とECCCの認定

  8. 第8回 なぜ民主カンプチアは崩壊したのか|ベトナムとの国境戦争と1979年1月

  9. 第9回 犠牲者は何人だったのか|「キリング・フィールド」と死者数推計を資料から検証する

  10. 第10回 ポル・ポトはなぜECCCで裁かれなかったのか|1979年以後のクメール・ルージュと長い司法の道

先に結論|S-21は「刑務所」よりも党の内部捜査機関に近かった

S-21には監房があり、囚人が拘束され、拷問と処刑が行われた。
その意味では刑務所だった。

だが、一般的な刑務所と決定的に違う点がある。

裁判で罪を判断し、有罪になった者を一定期間収監する施設ではなかった。

S-21へ送られた段階で、その人物はすでに「敵」とみなされていた。

ECCCでS-21所長カイン・ギュク・イアウ、通称ドッチは、S-21の中心的任務が囚人から自白を引き出し、それを上層部へ提出することだったと証言している。

そして自白は、過去の犯罪を確定するためだけのものではなかった。

自白に書かれた人間関係を利用して、
「ほかに誰が裏切り者なのか」
を探すために使われた。

段階 S-21で起きたこと
1. 逮捕 党・軍の上層部などによる判断で「敵」とされた人物を拘束する。
2. 登録 氏名、経歴などを記録し、写真を撮影する。
3. 尋問 本人の経歴や「敵のネットワーク」を追及する。
4. 自白 拷問を含む尋問によって、CIA・ベトナムなどとの関係を認める文書が作られる。
5. 上層部へ報告 自白やドッチの注記がCPK上層部へ送られる。
6. 新たな容疑者 自白に名前が出た人物や所属組織が新たな捜査・逮捕対象となる。
7. 処刑 多くの囚人は処刑され、次の逮捕・尋問へ連鎖する。

このためS-21の役割は、
「敵を収容する場所」だけでなく、「新しい敵を発見する場所」
だった。

S-21はいつ、どこに作られたのか

S-21の組織そのものは、少なくとも1975年10月までには活動を始めていたとECCCは認定している。

ただし現在トゥール・スレン虐殺犯罪博物館となっている学校跡地が、最初からS-21の中心施設だったわけではない。

1976年4月ごろ、S-21はプノンペン市内の旧学校施設へ移転した。

そこには複数の校舎があり、教室が監房や尋問室へ転用された。
小さな独房が作られた部屋もあれば、多人数を収容した部屋もあった。

外周には塀や有刺鉄線が設けられ、施設への出入りは厳しく管理された。

現在この場所はトゥール・スレン虐殺犯罪博物館として保存されている。

現在のトゥール・スレン虐殺犯罪博物館。1976年から1979年初頭までS-21の主要施設として使用された歴史地点そのものです。
施設内部には博物館化に伴う変更もあります。


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ドッチ|S-21を運営した人物

S-21と切り離せない人物が、カイン・ギュク・イアウ、通称ドッチ(Duch)である。

ドッチはS-21以前にも、M-13と呼ばれるクメール・ルージュの治安施設を運営していた。

ECCCによれば、M-13で使われていた尋問方式や職員の一部は、その後S-21へ引き継がれた。

ドッチは1976年3月中旬から1979年1月7日までS-21の責任者を務め、尋問、文書作成、職員教育、処刑を含む施設運営全体を監督した。

ただし、
「誰を逮捕するかをドッチ一人が自由に決定していた」
と理解するのは正確ではない。

ECCCでドッチは、逮捕に関する決定は党センターや軍総参謀部などの上層部から下りていたと説明している。

S-21は国防部門の指揮系統に置かれ、当初ドッチは国防を担当していたソン・センへ報告していた。

1977年8月にソン・センがベトナム国境方面へ移った後は、ヌオン・チアへ直接報告するようになった。

ドッチは送られてきた囚人を尋問し、自白を読み、注記を付け、その内容を上層部へ送る。

つまり、


上層部が敵を疑う

S-21へ送る

S-21が自白を作る

自白が上層部へ戻る

という情報の往復が存在していた。

到着すると「人」ではなく記録へ変えられた

S-21が現在まで大量の証拠を残している理由の一つは、詳細な記録を作成していたことにある。

囚人が到着すると、氏名などが登録され、番号が与えられ、写真が撮影された。

現在トゥール・スレンで展示されている大量の正面写真は、この過程で撮影されたものである。

その後、囚人には詳細な経歴を書くことが求められた。

生まれた場所。

家族。

仕事。

革命への参加。

所属した部隊。

上司。

部下。

友人や同僚。

重要だったのは、本人の経歴だけではない。

その人物が誰とつながっているのかだった。

だから自白が長くなればなるほど、多くの人間の名前が文書の中に現れる可能性があった。

「自白」は真実を確認するためのものだったのか

通常、自白という言葉からは、本人が実際に行った犯罪を認める文書を想像する。

しかしS-21文書は、そのようにそのまま史実として読むことができない。

ECCC自身も、S-21の自白の多くが拷問によって得られたため、
そこに書かれた内容を真実として受け入れてはならない
と明確に注意している。

囚人はCIAのスパイだった。

KGBとつながっていた。

ベトナムの工作員だった。

国家を転覆しようとしていた。

そうした供述が残っていても、本当にその活動をしていた証拠にはならない。

実際、尋問側には「敵のネットワークが存在する」という前提があった。

囚人が「何もしていない」と答えれば、尋問側から見れば、それは無実の証明ではなく
「まだ真実を隠している」
と解釈される可能性がある。

その状態で拷問を加えれば、囚人には尋問者が期待している物語を作る強い動機が生まれる。

そして作られた物語の中に、実在する上司、部下、同僚、家族の名前が書かれる。

ここから次の問題が始まる。

自白に名前が出ると、その人まで疑われる

S-21の最大の危険性は、拷問された一人の自白が、その人物だけで終わらなかったことである。

ECCCはCase 002/02で、S-21の自白がゾーン、軍、各省庁、党センターなどの指導者へ広く送られ、
自白の中で名前を挙げられた人物を特定し、新たな逮捕を決定する材料として使用された
と認定している。

しかも党上層部は、自白が拷問によって得られ信頼できないことを知りながら、それを大規模粛清の根拠として利用していたとされた。

構造を単純化すると、こうなる。

Aが逮捕される。

Aは拷問を受ける。

Aの自白にBとCの名前が書かれる。

BとCが疑われる。

Bが逮捕される。

Bの自白にD、E、Fの名前が書かれる。

D、E、Fが疑われる。

こうして、
証拠が増えるのではなく、容疑者が増えていく。

これが党内粛清を自己増殖させる仕組みになった。

革命の幹部が、翌日には「敵」になる

S-21に送られた人々の中には、クメール・ルージュと戦っていた外部の敵だけでなく、
クメール・ルージュ自身の幹部、兵士、行政関係者
が多数含まれていた。

米国ホロコースト記念博物館は、S-21の囚人にはクメール・ルージュ内部の重要人物が多く含まれていたと説明している。

代表例の一つがコイ・トゥオンである。

コイ・トゥオンは北部地域の有力幹部で、中央委員会メンバーとなり、商業を担当する立場にも就いていた。

つまり外部から潜入した反革命運動家ではない。

革命を実行する側にいた人物だった。

しかし、ほかのS-21自白の中で名前を挙げられ、最終的に逮捕された。

ECCCによれば、コイ・トゥオンはS-21でドッチ自身から尋問され、その後、1977年初めには北部地域から数百人が逮捕、拘禁、殺害される粛清へつながった。

別の例では、東部地域のセクター24書記だったスオス・ネオウの逮捕・尋問・処刑が、その後の東部地域幹部への逮捕、自白、処刑の連鎖を引き起こしたとECCCは認定している。

つまり、党内で高い地位にいることが安全を保証しなかった。

むしろ高位幹部が「敵」と認定されれば、
その人物の部下や周囲の人々まで一つのネットワークとして疑われる
危険があった。

なぜ「ネットワーク」が重要だったのか

クメール・ルージュ指導部は、国内に単独の裏切り者が存在するというより、
敵が秘密のネットワークを作り、組織の内部へ侵入している
と考える傾向を強めていった。

CIA。

KGB。

ベトナム。

こうした外国勢力の「手先」が、党・軍・行政の内部に潜伏しているという疑いである。

その前提に立てば、一人の逮捕者から聞くべきことは、

「あなたは何をしたのか」

だけではない。

「誰から指示されたのか」
「あなたの仲間は誰なのか」
「誰を勧誘したのか」

になる。

S-21で重要視された「string」や「network」に相当する考え方は、この構造を表している。

囚人一人を孤立した容疑者として処理するのではなく、
その人物から人間関係をたどって組織全体の「敵」を探す

だから一つの自白が、数十人、数百人規模の粛清へ拡大することがあった。

家族まで逮捕された理由

疑いは職場や軍の仲間だけに向けられなかった。

S-21には囚人の配偶者や子どもも送られた。

ECCCでドッチは、家族が一緒に逮捕され、配偶者の多くは尋問を受けずに処刑されたことを証言している。

子どもも例外ではなかった。

その背景には、
親を殺せば、残された子どもが後に復讐する可能性がある
という党側の論理があったとドッチは証言している。

これは司法手続によって個人の責任を判断する考え方とは正反対だった。

本人が何をしたかではなく、

誰の妻なのか。
誰の夫なのか。
誰の子どもなのか。

という関係そのものが危険になる。

「敵」を個人ではなくネットワークで見る思想が、ここでは家族にまで広がっていた。

S-21で何人が拘禁・殺害されたのか

S-21の人数については、資料によって数字が異なる。

そのため「正確に○人」と一つの数字で固定するのは適切ではない。

ECCCが現在公開しているS-21囚人記録データベースでは、保存・確認された資料から、
少なくとも10,887人がS-21へ逮捕・拘禁され、少なくとも11,742人がS-21またはその周辺で処刑された
とする保守的な最低値が示されている。

一方、トゥール・スレン虐殺犯罪博物館は、1975~1979年に約15,000~20,000人がS-21へ収容されたと説明している。

米国ホロコースト記念博物館は14,000~17,000人程度と推計している。

数字が異なる理由の一つは、S-21の記録が完全には残っていないことである。

子どもなど、一部の囚人が名簿へ記録されていなかったケースもある。

したがって、
ECCCが公開する人数は「確認できる最低値」であり、S-21の全犠牲者数を完全に確定した数字ではない。

処刑場所となったチュンエク

S-21へ入れられた人々の多くは、そこで長期間服役して出所することを予定されていなかった。

尋問が終わった囚人は施設から運び出され、処刑された。

その代表的な場所が、プノンペン郊外のチュンエク(Choeung Ek)である。

現在「キリング・フィールド」として知られる場所の一つで、S-21からおよそ15km離れた場所にある。

S-21とチュンエクは別々の施設だったが、


S-21で拘禁・尋問

処刑対象として搬送

チュンエクなどで殺害

という一つの運用系統として機能した。

S-21には処刑記録も残されており、施設は囚人の逮捕から最終的な処理までを文書で管理していた。

職員側も安全ではなかった

S-21で働いている側なら安全だったのか。

そうとも言えない。

ECCCで証言した元職員たちは、警備員や尋問担当者自身も規律違反や囚人との「ネットワーク」を疑われれば逮捕される環境だったと述べている。

元尋問員プラク・コーンは、自分が所属していた尋問部門で、Division 703出身者の中では自分だけが生き残り、ほかの者が囚人との関係を疑われて逮捕されたと証言している。

元警備員チェアム・ソウルの所属部署でも、上官が逮捕され、のちに殺された。

警備員には、囚人を逃がせば自分たちも殺されるという指示が伝えられていた。

これはS-21が、
囚人だけを恐怖で支配する施設ではなかった
ことを示している。

尋問する側。

警備する側。

記録する側。

誰でも次に疑われる可能性がある。

「敵を探す装置」の内部で働く人間も、その装置の対象になり得た。

なぜS-21はこれほど多くの記録を残したのか

S-21の特殊性の一つが、膨大な文書である。

囚人写真。

名簿。

経歴。

自白。

尋問官のメモ。

処刑記録。

内部文書。

こうした資料が大量に作成された。

これは単なる官僚的な記録癖ではない。

S-21の主要目的が、上層部へ
「誰が敵なのか」という情報を供給すること
だったからこそ、文書化が必要だった。

ドッチは日々、自白文書を読み、注記し、上層部へ送っていた。

その文書は、場合によっては別の組織へ回覧され、次の逮捕を決める資料として利用された。

結果として、S-21は自らの犯罪について異例なほど大量の一次資料を残すことになった。

1979年1月、ベトナム軍がプノンペンへ迫ると、ドッチらは施設を放棄した。

しかし、すべての文書を処分する時間はなかった。

そのため残された記録は、後の調査、犠牲者の身元確認、そしてECCCの裁判で重要な証拠となった。

S-21だけがクメール・ルージュの治安施設ではない

もう一つ注意したいのは、
「S-21=クメール・ルージュのすべての刑務所」ではない
ことである。

S-21は最も有名で、中央レベルの重要囚人を扱った治安施設だった。

しかしカンボジア各地には、ほかにも多数の治安施設や尋問・処刑場所が存在していた。

米国ホロコースト記念博物館は、確認されている尋問施設だけでも189か所と説明している。

ECCC Case 002/02でも、

  • S-21
  • アウ・カンセン治安センター
  • プノム・クラオル治安センター

など複数施設が審理対象となった。

S-21にはさらに、プレイ・サー、別名S-24など関連施設があり、チュンエクが主要な処刑場所として使われた。

したがって、トゥール・スレンを訪れただけで民主カンプチアの治安システム全体を見たことにはならない。

S-21は、
全国に広がった治安・粛清ネットワークの中でも、党中央に近い重要拠点
と位置付けるのが適切である。

FACT CHECK|S-21について混同しやすいこと

よくある理解 資料から確認できる整理
S-21は1975年4月17日から現在の学校跡地にあった S-21組織は少なくとも1975年10月までには活動していたが、現在のトゥール・スレン所在地へ移ったのは1976年4月ごろ。
S-21の囚人は一般市民だけだった 一般市民や外国人も含まれたが、クメール・ルージュ自身の幹部・兵士・関係者も多数拘禁された。
ドッチが一人で逮捕対象を選んでいた ドッチはS-21運営の最高責任者だったが、逮捕は党センターや軍上層部の意思決定と結び付いていた。
S-21の自白は歴史的事実を記録した証言である 多くが拷問によって得られており、内容自体を真実として使用することはできない。ECCCも明確に注意している。
自白は本人を処罰するためだけに使われた 自白に名前が出た人物を新たな逮捕対象として特定するためにも利用され、党内粛清を拡大させた。
S-21で正確に何人殺されたか確定している 残存資料が不完全なため推計に幅がある。ECCCは確認できる記録に基づく保守的な最低値を示している。
生存者は「正確に12人」だけだった トゥール・スレン博物館は1979年の施設解放時に12人が生存していたと説明するが、生存者数は定義・時点によって表現が異なるため注意が必要。
S-21だけがクメール・ルージュの刑務所だった 全国には多数の治安・尋問施設が存在し、S-21はその中でも党中央に近い重要施設だった。

1979年、S-21は証拠そのものになった

1979年1月7日、ベトナム軍を中心とする部隊がプノンペンへ入り、民主カンプチアによる首都支配は崩壊した。

S-21の職員も施設を離れた。

現在のトゥール・スレン博物館によれば、施設が発見された際に生存していた元囚人は12人で、そのうち4人が子どもだった。

施設には囚人写真、自白、名簿、内部文書など大量の記録が残されていた。

その後、S-21はトゥール・スレン虐殺犯罪博物館として保存される。

そして数十年後、その文書が裁判の重要な証拠になった。

S-21責任者ドッチはECCC Case 001で起訴され、2010年に人道に対する罪とジュネーブ諸条約の重大な違反について有罪となった。

2012年の上訴審では終身刑となった。

皮肉なのは、
「敵を記録し、粛清を進めるため」に作られた文書が、最終的にはそのシステム自体を司法の場で証明する資料になった
ことである。

S-21の本当の恐ろしさは「自白が増殖すること」にある

S-21の写真を見ると、最初に目を引くのは狭い監房、有刺鉄線、鉄製の足枷、囚人の顔写真だろう。

それだけでも、この施設で何が起きたかの一部は伝わる。

しかし、SYSTEMとして見たときの恐ろしさは別の場所にある。

ある人物が疑われる。

逮捕される。

拷問を受ける。

存在しなかった陰謀を認める。

知っている人の名前を書く。

上層部がその文書を読む。

名前を書かれた人が逮捕される。

その人も拷問を受ける。

さらに名前を書く。

この仕組みでは、
最初に本当の陰謀が存在したかどうかが、途中から重要ではなくなっていく。

拷問によって作られた自白そのものが、次の「証拠」になるからである。

そして疑いが広がれば、革命を作った側の人間まで次々に消えていく。

S-21は、民主カンプチアの治安システムが最終的に自分自身を食い始めた場所でもあった。

しかし、クメール・ルージュ政権下で迫害された人々を、すべて「党内粛清の犠牲者」とまとめることもできない。

ベトナム人。

チャム人。

仏教徒。

旧クメール共和国関係者。

異なる理由で標的となった集団が存在する。

そして、その中でも後のECCCが法律上の「ジェノサイド」として認定した犯罪には、限定された範囲がある。

次回は、
「ポル・ポト時代の約150万~200万人の死を、すべてジェノサイドと呼んでよいのか」
という問題を扱う。

歴史上の呼称としての「カンボジア・ジェノサイド」と、国際刑事法上のジェノサイド、人道に対する罪、戦争犯罪を区別しながら、チャム人とベトナム人への迫害を見ていく。


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CASE FILE 22|全10回


  1. 第1回 ポル・ポトと民主カンプチアとは?

  2. 第2回 ポル・ポトはどう権力を握ったのか

  3. 第3回 1975年4月17日、プノンペンで何が起きたのか

  4. 第4回 民主カンプチアは人々の生活をどう統制したのか

  5. 第5回 なぜ大量の死者が出たのか
  6. 第6回 S-21とは何だったのか|トゥール・スレン、拷問、処刑とクメール・ルージュの党内粛清
    【現在の記事】

  7. 第7回 ポル・ポト時代の大量殺害はすべて「ジェノサイド」なのか

  8. 第8回 なぜ民主カンプチアは崩壊したのか

  9. 第9回 犠牲者は何人だったのか

  10. 第10回 ポル・ポトはなぜECCCで裁かれなかったのか

出典・参考資料

  • Extraordinary Chambers in the Courts of Cambodia(ECCC)— Case 001

    S-21責任者ドッチに対する捜査・裁判、人道に対する罪・ジュネーブ諸条約の重大な違反についての有罪判決、終身刑の確認に使用。
  • ECCC — S-21 Prisoner List

    現存するS-21名簿、確認できる最低拘禁者数・処刑者数、記録の不完全性、自白資料を事実として扱えないことについて確認。
  • ECCC — Kaing Guek Eav alias Duch

    S-21の組織構造、上層部との指揮系統、尋問方法、自白の使用、家族・子どもの拘禁、処刑命令について確認。
  • ECCC — Case 002/02

    S-21治安センター、内部粛清、他の治安施設、党上層部の役割について確認。
  • ECCC — Use of S-21 Confessions by CPK Leaders

    S-21自白が党・軍・ゾーン・省庁へ共有され、そこに名前の出た人物への新たな逮捕や大規模粛清に利用されたことを確認。
  • ECCC — Koy Thuon Profile

    CPK中央委員会メンバーだったコイ・トゥオンの逮捕・S-21での尋問と、その後に北部地域で拡大した粛清について確認。
  • ECCC — Suos Neou Profile

    東部地域での逮捕、拷問、自白、処刑が後続する幹部粛清へ連鎖した事例として確認。
  • Tuol Sleng Genocide Museum — History of the Museum

    旧学校施設の構造、S-21への転用、収容人数推計、職員構成、S-24・チュンエクとの関係、1979年の施設発見について確認。
  • United States Holocaust Memorial Museum — S-21, Tuol Sleng

    S-21の囚人構成、記録、自白、処刑、党内粛清との関係、および全国の治安施設網について照合。

本記事は、ECCC Case 001・Case 002/02の司法資料、S-21文書データベース、元S-21責任者・職員・生存者の法廷証言、トゥール・スレン虐殺犯罪博物館および米国ホロコースト記念博物館の資料を照合して構成しています。
S-21で作成された「自白」の多くは拷問によって得られたため、その内容を歴史的事実として扱っていません。
また、S-21の拘禁者・犠牲者・生存者数は資料の残存状況や集計方法によって異なるため、単一の数字を絶対的な確定値として提示していません。