現実世界のCASE FILE 現実世界のCASE FILE

ポル・ポトと民主カンプチア犠牲者は何人だったのか「キリング・フィールド」と死者数推計を資料から検証する

犠牲者は何人だったのか|「キリング・フィールド」と死者数推計を資料から検証する

大量虐殺・人道犯罪

STORY SO FAR

前回「なぜ民主カンプチアは崩壊したのか|ベトナムとの国境戦争と1979年1月」で確認した論点を受け、この回では犠牲者は何人だったのか | 「キリング・フィールド」と死者数推計を資料から検証するについて、通説と確認可能な事実はどう異なるのか。を扱う。

150万人。

170万人。

200万人。

ポル・ポトと民主カンプチアについて調べると、
犠牲者数として複数の数字が出てくる。

「約200万人が虐殺された」
という説明を目にすることも多い。

一方、カンボジア各地には大量の人骨が発見された
「キリング・フィールド」
が残されている。

では、墓を数えれば正確な死者数が分かるのだろうか。

結論から言えば、そうではない。

民主カンプチアで死亡した人々には、
処刑された人だけでなく、
飢餓、栄養失調、過労、疾病、医療不足、強制移動などによって死亡した人々も含まれている。

さらに1975年以前の内戦、人口移動、国外への避難、
人口統計資料の不足などもあるため、
1975年4月17日に何人がいて、
1979年1月7日に何人残っていたのかを単純に引き算することもできない。[2]

そのため研究者は、

人口統計。
生存者調査。
国勢調査資料。
難民記録。
家族の死亡調査。
クメール・ルージュ文書。
治安施設の名簿。
集団墓地。

といった複数の資料を組み合わせて推計してきた。

今回は、
「何人死んだのか」という数字そのものが、どのように作られているのか
を検証する。

CASE FILE 22|ポル・ポトと民主カンプチア特集(全10回)

この特集では、ポル・ポト個人の伝記としてではなく、
国家・組織・思想が社会をどう再編し、そのシステムがなぜ大量の死と迫害を生んだのか
を中心に1975~1979年のカンボジアを追います。

先に結論|現在もっとも妥当なのは「約150万~200万人」

民主カンプチア期の死者について、
現在もっとも広く用いられているのは
約150万~200万人
という範囲である。

ECCCは、1975年4月から1979年1月までに死亡した人数について、
過去には約60万人から300万人までさまざまな推計が存在したことを確認している。[2]

そのうえで、人口統計の専門家が最も妥当と評価した範囲として、
約150万~200万人の超過死亡を採用している。

ほかの主要機関を見ても、数字はほぼこの範囲に集中している。

資料・機関 代表的な推計 注意点
ECCC 約150万~200万人 裁判資料・人口統計専門家報告を踏まえた範囲。
処刑だけでなく飢餓・疾病・過労などを含む。
Yale Cambodian Genocide Program 約170万人 当時の人口のおよそ21%とする代表的推計。
United States Holocaust Memorial Museum 約200万人に近い規模 強制労働、思想統制、大量処刑などの下で「nearly two million」が死亡したと整理。

つまり、


150万人説と200万人説のどちらか一方が完全に間違っているわけではない。

歴史人口統計では、
一人単位の「確定死者名簿」を集計しているのではなく、
不完全な人口資料から死亡規模を推定するため、一定の幅を持つのが普通である。

「超過死亡」とは何を数えているのか

死者数を理解するために重要な言葉が、
「超過死亡(excess deaths)」
である。

これは、

「1975~1979年の間に死亡した人を全員足す」

という意味ではない。

戦争や政治的暴力がなくても、
人口の中では病気、老衰、事故などによって一定数の人が毎年死亡する。

人口統計では、
通常の状況で予想される死亡を超えて発生した死亡を推計する。

ECCCのために作成された2009年の人口統計専門家報告では、
民主カンプチア期の超過死亡を大きく二つに整理している。

分類 例
直接的・暴力的な超過死亡 処刑、殺害、拷問中の死亡、拘禁中の暴力死など。
間接的な超過死亡 飢餓、過労、基本的医療の欠如、劣悪な生活・衛生条件、強制移動などによる死亡。

このため、
「死者200万人」=「処刑された200万人」ではない。

第5回で見たように、
民主カンプチアでは処刑されなくても死亡する経路が多数存在した。

十分な食事を取れない。

長時間働く。

身体が弱る。

感染症にかかる。

薬がない。

休めない。

その結果として死亡する。

こうした死も、
通常の社会条件であれば起きなかった可能性が高い死亡として、
民主カンプチア期の超過死亡に含まれる。

なぜ正確な人数を数えられないのか

現代の大規模災害であれば、
住民登録、病院記録、死亡届、国勢調査などを照合して、
犠牲者名簿を作ることができる場合がある。

民主カンプチアでは、その条件自体が崩壊していた。

まず1970~1975年には、
すでにカンボジア内戦が続いていた。

多数の住民が農村から都市へ避難し、
国外へ逃れた人もいた。

1975年4月には、
プノンペンだけで少なくとも200万人が強制的に移動させられた。

その後も全国で人口移動が繰り返される。

さらに、

  • 通常の住民登録制度が機能しなくなる
  • 家族が離散する
  • 死亡が正式に記録されない
  • 処刑者の記録が残らない地域がある
  • 文書そのものが失われる
  • 国外へ逃れた人口も存在する

という問題がある。

そのため、


1975年人口 − 1979年人口 = 死者数

という計算はできない。

出生した人もいる。

国外へ逃れた人もいる。

国外から戻った人もいる。

通常の死亡もある。

それらを補正しなければならないからである。

「1975年の人口」自体にも推計が必要だった

もう一つ大きな問題がある。

死者数を出すには、
政権成立時の人口を知る必要がある。

ところが1975年4月17日時点のカンボジア人口について、
その日に全国民を数えた国勢調査が存在するわけではない。

研究者は、
以前の人口統計、出生率、死亡率、内戦による死亡、難民移動などから、
1975年の人口を推計する必要がある。

当然、その出発点が変われば最終的な死者数も変わる。

たとえば、

1975年の人口を高く推計する。
↓
1979年に予想される人口との差が大きくなる。
↓
超過死亡推計も大きくなる。

逆に1975年人口を低く見積もれば、
死亡推計も小さくなる可能性がある。

過去の研究で数十万人単位の差が生まれた理由の一つが、
この基準人口の違いだった。

Yale大学の「約170万人」はどこから来たのか

よく引用される数字の一つが
約170万人
である。

Yale大学のCambodian Genocide Programは、
1975~1979年に約170万人が死亡し、
これは当時のカンボジア人口のおよそ21%に当たるとしている。

この数字は、
一つの大量墓地を数えて出したものではない。

人口推計や生存者調査など、
複数の研究成果にもとづいている。

カンボジア研究者ベン・キアナンも、
民族・社会集団ごとの人口と死亡割合を推計し、
合計約167万人という推計を示した。

そこから、

「約170万人」

という数字が広く知られるようになった。

ただし、これも一人ずつ犠牲者名を確認した確定値ではない。

人口統計モデルから得られた推計値
であることを忘れてはいけない。

ECCCの専門家は過去の推計をどう評価したのか

ECCCでは、
裁判のために死者数そのものも検証された。

2009年、
人口統計学者エヴァ・タボーらは、
「Khmer Rouge Victims in Cambodia, April 1975–January 1979」
という人口統計専門家報告を提出した。[2]

この報告では、
過去に公表された主要な死者数推計を比較した。

研究によって数字にはかなり差があり、
古い推計には100万人を下回るものも、
200万人を大きく超えるものもあった。

専門家報告は、
後年利用できるようになった人口資料や調査結果などを再検討し、
約174万7000人~220万人程度を最も可能性の高い範囲
として評価した。

一方、ECCC判決や現在の一般向け資料では、
それをより分かりやすく
「約150万~200万人」
という範囲で示している。

したがって一般向けの記事であれば、


「ECCCでは約150万~200万人が死亡したと推計されている」

とするのが最も安全である。

では、集団墓地を数えれば処刑者数が分かるのか

ここで「キリング・フィールド」の問題に戻る。

1990年代以降、
Documentation Center of Cambodia、DC-Camは、
全国のクメール・ルージュ時代の治安施設、墓地、慰霊施設を調査してきた。

現地調査。

住民への聞き取り。

GPS。

GISによる地図化。

これらを組み合わせ、
民主カンプチア期の犯罪地点を記録した。

DC-Camの公開した主要なマッピング結果では、

確認されたもの 公開された集計
集団埋葬坑 19,733
墓坑を含むクラスター 388
旧民主カンプチア治安施設・刑務所 196
生存者らが建てた慰霊施設 81

DC-Camでは、
4人以上の遺体を含む穴を集団墓として扱っている。

中には1000人以上が埋葬されたとみられる墓坑もある。

数字だけでも、
処刑・拘禁・死亡がS-21やチュンエクだけの問題ではなく、
カンボジア全国へ広がっていた
ことが分かる。

19,733の墓坑=19,733人ではない

ここは数字を読むときに注意が必要である。

「19,733の集団墓」

と聞くと、

19,733人が埋葬されている。

あるいは、
すべての穴に同じ人数が埋められている。

と誤解しやすい。

そうではない。

一つの墓坑に埋葬された人数は場所によって大きく異なる。

さらに、

  • すでに掘り返された墓
  • 侵食や開発によって失われた墓
  • まだ確認されていない墓
  • 正確な遺体数を確認できない墓

も存在する。

したがって、


墓坑数 × 平均人数 = 全国の処刑者数

という単純な計算はできない。

そもそも全死亡者が「キリング・フィールド」に埋められたわけではない

さらに重要なのがこの点である。

民主カンプチア期の死者すべてが、
処刑場の集団墓へ埋められたわけではない。

たとえば、

協同組合で栄養失調によって死亡する。

ダム建設現場で病気になる。

強制移動中に死亡する。

マラリアで死亡する。

医療を受けられず死亡する。

こうした人々が必ず「処刑地」として知られる集団墓に入るとは限らない。

逆に集団墓が確認されたからといって、
そこに埋められた全員について氏名や具体的死因を確定できるとも限らない。

だから、
集団墓地調査と人口統計調査は、同じものを測っているわけではない。

集団墓は、
実際に全国規模の大量殺害が行われたことを示す重要な物的証拠である。

人口統計は、
処刑だけでは捉えられない政権下の総死亡規模を推計するために必要になる。

「キリング・フィールド」は一か所ではない

映画や観光資料の影響から、
「キリング・フィールド」というと
プノンペン郊外のチュンエクを思い浮かべる人も多い。

チュンエクは確かに重要な場所である。

S-21から囚人が運ばれ、
多数が殺害された処刑地だった。

しかし、
チュンエク=カンボジアのキリング・フィールド全部
ではない。

DC-Camの調査が示したように、
集団墓地や旧治安施設は全国各地に存在する。

DC-Cam「Mapping of Cambodia Killing Fields (1975–1979)」では、集団墓地・旧治安施設・慰霊施設がカンボジア全国へ分布していることを確認できる。これは位置分布を確認するための資料であり、地図上の地点数や墓坑数をそのまま犠牲者数へ換算するものではない。


DC-Cam公式「Mapping of Cambodia Killing Fields」を見る

地方には、
それぞれの地区・地域の治安施設があり、
そこから人々が処刑場所へ送られた。

第6回で扱ったS-21も、
全国に存在した治安システムの中で特に党中央に近い施設だったにすぎない。

したがって「キリング・フィールド」という言葉は、


特定の処刑・埋葬地点を指す場合
と
民主カンプチア期全体の大量死を象徴する表現として使われる場合

を区別した方がよい。

なぜ「何人が処刑されたか」はさらに難しいのか

総死亡者数の推計だけでも難しい。

その中から、

「直接殺害された人数」

だけを取り出すのはさらに難しい。

S-21のように名簿や処刑記録が多く残る施設もある。

しかし地方の治安施設では記録が失われている場合がある。

一方で死亡原因そのものも重なる。

拘禁された人物が、
拷問で死亡したのか。

飢餓で死亡したのか。

病気で死亡したのか。

最後に処刑されたのか。

資料だけでは判断できない場合もある。

そのため、
「総死者○人、そのうち処刑○人」と細かく確定値のように書くことには注意が必要
である。

研究者によって直接暴力死の推計にも差がある。

だから本シリーズでは、
総死亡者数についてはECCCの約150万~200万人という範囲を採用し、
処刑・飢餓・疾病などの内訳については確定値として固定しない。

数字が違うことは「何が起きたか分からない」という意味ではない

150万人なのか。

170万人なのか。

200万人なのか。

数字に幅があると、

「結局、本当に大量死があったのか分からないのでは」

と思うかもしれない。

しかし、
推計値に幅があることと、大量死そのものに疑いがあることは別問題
である。

独立した種類の証拠が複数存在する。

  • 人口統計上の巨大な人口損失
  • 全国の集団墓地
  • 治安施設跡
  • S-21などの囚人名簿
  • クメール・ルージュ内部文書
  • 処刑記録
  • 大量の生存者証言
  • 元クメール・ルージュ職員の証言

これらが互いに異なる方向から、
1975~1979年に非常に大規模な死亡と殺害が発生したことを示している。

議論されているのは、


「大量死があったか、なかったか」

ではなく、


「その規模を人口統計上どこまで正確に推計できるか」

である。

検証ポイント|「200万人」「キリング・フィールド」をどう読むか

よくある理解 資料から確認できる整理
死者数は正確に200万人と確定している 確定値ではない。ECCCが一般に示す妥当な推計範囲は約150万~200万人。
150万人説と200万人説のどちらかが誤り 歴史人口統計の推計には幅があり、主要研究の多くが約150万~200万人前後へ集中している。
約200万人全員が処刑された 不正確。超過死亡には処刑に加え、飢餓、過労、疾病、医療不足、強制移動などによる死亡が含まれる。
キリング・フィールドはチュンエクのこと チュンエクは代表的な処刑地だが、DC-Camは全国で多数の集団埋葬坑・治安施設を記録している。
DC-Camが19,733人分の墓を発見した 19,733は人の数ではなく集団埋葬坑の数。各墓坑に含まれる人数は異なる。
集団墓地を全部数えれば総死者数が分かる 分からない。飢餓・疾病・過労などで死亡した人のすべてが既知の集団墓地へ埋葬されたわけではなく、未発見・消失した墓もあり得る。
推計値に幅があるので大量死自体も不確か 大量死そのものは人口統計、墓地、文書、名簿、証言など複数の独立資料から確認されている。幅があるのは精密な人数推計。

約150万~200万人という数字の意味

CASE FILE 22では、
ここまで都市強制退去、協同組合、共同食堂、強制労働、S-21、民族迫害、党内粛清、ベトナムとの戦争を追ってきた。

一つずつ見ると、
別々の事件に見える。

しかし死者数という視点から見ると、
それらが一つにつながる。

都市から強制移動させられる。

農村へ組み込まれる。

食糧を組織が管理する。

長時間働く。

病気になる。

医療を受けられない。

「敵」と疑われれば治安施設へ送られる。

民族や経歴によって標的になる場合もある。

政権末期には党内部でも粛清が広がる。

こうした複数の死亡経路を合計した結果が、
約150万~200万人という人口規模の損失
として表れる。

だからこの数字は、
単に「処刑場で何人殺されたか」を示しているのではない。

民主カンプチアという統治システムの下で、
通常なら生きていた可能性のある膨大な人々が失われた規模
を示す数字である。

だが、数字が推計できても、
それで責任者が裁かれるわけではない。

政権が崩壊した1979年、
ポル・ポトは逮捕されなかった。

クメール・ルージュはその後も存続した。

ポル・ポトは1998年まで生き、
国際的な法廷に立つことなく死亡した。

ECCCが本格的な司法手続きを開始するのは、
民主カンプチア崩壊から四半世紀以上も後である。

最終回では、
なぜポル・ポト本人はECCCで裁かれなかったのか
を軸に、
1979年以後のクメール・ルージュ、
ポル・ポトの死、
ドッチ、ヌオン・チア、キュー・サムファンの裁判、
そして2022年まで続いたECCCの司法手続きを追う。

FACT CHECK|出典・参考資料

  1. [1] Extraordinary Chambers in the Courts of Cambodia(ECCC)— Historical Context: The Democratic Kampuchea Regime 民主カンプチア期の推計死者数約150万~200万人と、劣悪な労働条件、疾病、拘禁、栄養失調、飢餓、処刑など複数の死亡要因の確認に使用。
  2. [2] Ewa Tabeau and They Kheam — Khmer Rouge Victims in Cambodia, April 1975–January 1979: A Critical Assessment of Major Estimates ECCCの人口統計専門家報告。主要な死者数推計、1975年・1979年人口、超過死亡、直接的死亡・間接的死亡の考え方を確認。
  3. [3] ECCC — Case 002/01 Trial Judgment 過去の死者数推計の幅と、専門家が約150万~200万人の超過死亡を最も妥当な範囲と評価していることを確認。
  4. [4] Yale University — Cambodian Genocide Program 約170万人、当時の人口のおよそ21%という代表的な推計と、カンボジア大量虐殺研究・史料収集事業について確認。
  5. [5] Documentation Center of Cambodia(DC-Cam)— Mapping the Killing Fields 全国の集団埋葬坑、旧民主カンプチア治安施設・刑務所、慰霊施設のGPS・GISによる調査とマッピング結果を確認。
  6. [6] DC-Cam — Mass Graves Study 集団墓地調査の方法、住民聞き取り、現地調査、GPS測量、および墓地資料から死者数を検証する際の限界について参照。
  7. [7] United States Holocaust Memorial Museum — Cambodia 1975–1979 民主カンプチア期に約200万人近くが死亡したという全体規模、強制労働、大量処刑などについて照合。

  1. 01 ポル・ポトと民主カンプチアとは?|クメール・ルージュ政権の1975–1979年
  2. 02 ポル・ポトと民主カンプチア|ポル・ポトはどう権力を握ったのか|カンボジア内戦からクメール・ルージュ政権成立まで
  3. 03 ポル・ポトと民主カンプチア|1975年4月17日、プノンペンで何が起きたのか|都市強制退去と「新人民」
  4. 04 民主カンプチアは人々の生活をどう統制したのか|協同組合・共同食堂・家族分離という社会改造
  5. 05 なぜ大量の死者が出たのか|強制労働・食糧不足・病気・処刑が重なった民主カンプチア
  6. 06 ポル・ポトと民主カンプチア|S-21とは何だったのか|トゥール・スレン、拷問、処刑とクメール・ルージュの党内粛清
  7. 07 ポル・ポトと民主カンプチア|ポル・ポト時代の大量殺害はすべて「ジェノサイド」なのか|チャム人・ベトナム人迫害とECCCの認定
  8. 08 なぜ民主カンプチアは崩壊したのか|ベトナムとの国境戦争と1979年1月
  9. 09 ポル・ポトと民主カンプチア|犠牲者は何人だったのか|「キリング・フィールド」と死者数推計を資料から検証する
  10. 10 ポル・ポトと民主カンプチア|ポル・ポトはなぜECCCで裁かれなかったのか|1979年以後のクメール・ルージュと長い司法の道

RSS FEED

RSSで更新を受け取る

RSSリーダーへ次のURLを登録すると、新着記事を確認できます。

フィードを直接開く