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ポル・ポトはなぜECCCで裁かれなかったのか1979年以後のクメール・ルージュと長い司法の道

ポル・ポトはなぜECCCで裁かれなかったのか|1979年以後のクメール・ルージュと長い司法の道

大量虐殺・人道犯罪

1998年4月15日。

カンボジア北部、タイとの国境に近いクメール・ルージュの拠点で、
ポル・ポトが死亡した。

1975年から1979年の民主カンプチアで最高権力を握り、
約150万~200万人が死亡した体制の中心にいた人物だった。

しかしポル・ポトが、
後にクメール・ルージュ指導者を裁くことになるECCC――
Extraordinary Chambers in the Courts of Cambodia――の法廷へ立つことはなかった。

理由は単純である。


法廷が本格的に動き始めるより前に、死亡していたからだ。

だが、本当に難しい問題はその先にある。

民主カンプチア政権が崩壊したのは1979年1月。

ポル・ポトが死亡したのは1998年。

ECCCで最初の本格的な公判が始まったのは2009年。

最終的な上訴判決が出たのは2022年だった。

なぜ、これほど時間がかかったのか。

今回はCASE FILE 22の最終回として、
1979年以後も続いたクメール・ルージュ、ポル・ポトの最期、ECCC成立までの交渉、そして実際に誰が何の罪で裁かれたのか
を追う。

CASE FILE 22|ポル・ポトと民主カンプチア特集(全10回)

この特集では、ポル・ポト個人の伝記としてではなく、
国家・組織・思想が社会をどう再編し、そのシステムがなぜ大量の死と迫害を生んだのか
を中心に1975~1979年のカンボジアを追ってきました。


  1. 第1回 ポル・ポトと民主カンプチアとは?|クメール・ルージュ政権の1975–1979年

  2. 第2回 ポル・ポトはどう権力を握ったのか|カンボジア内戦からクメール・ルージュ政権成立まで

  3. 第3回 1975年4月17日、プノンペンで何が起きたのか|都市強制退去と「新人民」

  4. 第4回 民主カンプチアは人々の生活をどう統制したのか|協同組合・共同食堂・家族分離という社会改造

  5. 第5回 なぜ大量の死者が出たのか|強制労働・食糧不足・病気・処刑が重なった民主カンプチア

  6. 第6回 S-21とは何だったのか|トゥール・スレン、拷問、処刑とクメール・ルージュの党内粛清

  7. 第7回 ポル・ポト時代の大量殺害はすべて「ジェノサイド」なのか|チャム人・ベトナム人迫害とECCCの認定

  8. 第8回 なぜ民主カンプチアは崩壊したのか|ベトナムとの国境戦争と1979年1月

  9. 第9回 犠牲者は何人だったのか|「キリング・フィールド」と死者数推計を資料から検証する
  10. 第10回 ポル・ポトはなぜECCCで裁かれなかったのか|1979年以後のクメール・ルージュと長い司法の道
    【現在の記事】

先に結論|「政権崩壊」と「クメール・ルージュ消滅」は別だった

1979年1月7日、ベトナム軍がプノンペンを掌握した。

これによって民主カンプチアという国家体制は崩壊した。

しかし、
クメール・ルージュという政治・軍事組織が同じ日に消えたわけではない。

ポル・ポト。

ヌオン・チア。

イエン・サリ。

キュー・サムファン。

タ・モク。

多くの指導者と兵士は、
西部やタイ国境方面へ退却した。

ポル・ポトは1979年1月の政権崩壊後も、
イエン・サリ、キュー・サムファンらと会合し、
ベトナム側に対する戦争を指揮していたことがECCC資料で確認されている。

つまり、


1979年=ポル・ポトが逮捕された年

ではない。

むしろ彼はその後も、
国境地帯の武装勢力を率いる立場にあり続けた。

1979年8月|実はポル・ポトは一度「有罪判決」を受けていた

ECCCよりはるか以前に、
ポル・ポトを裁いた法廷は存在する。

1979年8月、
ベトナム軍の支援を受けて成立した新政権の下で、
人民革命法廷(People’s Revolutionary Tribunal)
が開かれた。

被告人はポル・ポトとイエン・サリ。

ただし二人とも拘束されていなかった。

裁判は欠席したまま行われ、
1979年8月19日、二人はジェノサイドについて有罪とされ、
死刑判決を受けた。

したがって、

「ポル・ポトは一度も裁判で有罪になっていない」

という説明も厳密には正しくない。

しかし、この1979年裁判と後のECCCを同じ法的水準で扱うこともできない。

後にECCCがイエン・サリの1979年判決を検討した際には、
裁判所の独立性、弁護、防御権、証拠手続、極めて短い審理などに重大な問題があったとして、
1979年の判決をECCCでの新たな訴追を妨げる
「真正な司法判断」
とはみなさなかった。

つまり1979年の法廷は、
クメール・ルージュ犯罪を公に告発した初期の試みとして歴史的意味を持つ一方、
後の国際的な刑事司法基準を満たす裁判とは区別する必要がある。

なぜ1979年の時点でポル・ポトを拘束できなかったのか

最大の理由は、
クメール・ルージュが軍事的に完全消滅していなかったことである。

ベトナム軍と新政権はプノンペンや主要都市を支配した。

しかしタイ国境地帯などでは、
クメール・ルージュ軍が武装活動を続けた。

ECCCの歴史資料も、
1979年1月にプノンペンから逃れたクメール・ルージュ残存勢力が、
その後もタイ国境から反乱を継続したと整理している。

さらに1980年代のカンボジアは、

  • ベトナム軍の駐留
  • 反政府武装勢力
  • 冷戦下の国際対立
  • 国内の政治的不安定

が重なっていた。

大量犯罪を捜査し、
国外や国境地帯にいる指導者を拘束し、
国際的に受け入れられる裁判を行える状態ではなかった。

「政権が倒れれば、翌日に指導者を裁判にかけられる」

という状況ではなかったのである。

1990年代|クメール・ルージュが内部から崩れ始める

転機は1990年代だった。

1991年にはカンボジア和平のためのパリ和平協定が成立した。

しかしクメール・ルージュ勢力がただちに武装解除し、
全員が政府へ戻ったわけではない。

1994年にはカンボジアで
「民主カンプチア」グループを非合法化する法律が制定された。

さらに1996年、
大きな変化が起きる。

民主カンプチア時代に外務を担当した最高幹部の一人、
イエン・サリ
が政府側へ離反した。

イエン・サリは1979年の死刑判決について国王から恩赦を受け、
1994年法に関する訴追からも恩赦を受けた。

これによって、
長く一枚岩のように見えていたクメール・ルージュ指導部が、
内部から崩れ始めていることが明確になった。

1997年|今度はポル・ポト自身がクメール・ルージュに拘束される

1997年、
クメール・ルージュ内部で決定的な事件が起きた。

長年軍事・治安部門を担当してきた
ソン・セン
が、家族13人とともに殺害された。

ECCCは、この殺害がポル・ポトの命令によるものだったとしている。

これを受けて、
タ・モクがポル・ポトに反旗を翻した。

ポル・ポトは拘束され、
クメール・ルージュ内部で行われた独自の「裁判」によって、
事実上の終身拘束状態に置かれた。

だが、これはECCCでも、
カンボジアの通常刑事裁判所でも、
国際刑事法廷でもない。

クメール・ルージュ内部の権力闘争の中で行われた手続だった。

それでも、
かつて民主カンプチアの最高権力者だった人物が、
最後には自分の組織の一派によって拘束されるところまで、
クメール・ルージュの内部崩壊は進んでいた。

1997年6月|カンボジア政府が国連へ協力を求める

同じ1997年、
後のECCCにつながる重要な動きが始まった。

6月21日、
当時のカンボジアの二人の首相は国際社会に対し、
民主カンプチア期の犯罪責任者を裁くための支援
を求めた。

国連の支援を受けて、
どのような裁判所を設置するのか。

カンボジア国内の裁判所にするのか。

完全な国際法廷にするのか。

誰まで起訴するのか。

どの法律を適用するのか。

外国人裁判官をどの程度参加させるのか。

ここから長い交渉が始まった。

しかし、その裁判所を見ることなくポル・ポトは死んだ

1998年4月15日、
ポル・ポトは死亡した。

ECCCは死因を心不全としている。

場所はタイ・カンボジア国境のクメール・ルージュ拠点だった。

つまり、

1979年の民主カンプチア崩壊から、
19年間、国際的に認められる法廷へ身柄を引き渡されないまま生きていた
ことになる。

ECCC公式資料は現在も明確に、


ポル・ポトはECCCの容疑者、被疑者、被告人ではなかった

と注意している。

ECCC判決の中では、
ポル・ポトの権限、命令、党内での役割、他の指導者との共同行為について多数の事実認定が存在する。

しかし、それは
「ポル・ポト本人に対する刑事有罪判決」ではない。

死亡した人物を被告人として刑罰に処すことはできないからである。

1999~2006年|法廷を作るだけでさらに時間がかかった

ポル・ポト死亡後も、
裁判所はすぐには完成しなかった。

1999年3月、
国連が任命した専門家グループは、
民主カンプチア期のジェノサイドや人道に対する罪を裁く法廷の設置を勧告した。

その後、
カンボジア政府と国連の間で長い交渉が続く。

2001年にはカンボジア国民議会がECCC設置に関する法律を承認。

2003年6月6日、
カンボジア政府と国連がECCCに関する協定へ署名した。

協定は2005年4月29日に発効する。

2006年7月には裁判官と検察官が就任。

2007年には内部規則が整備され、
具体的な捜査・訴追が本格化した。

1979年の政権崩壊から、
実際の司法制度が動き出すまで、
四半世紀以上が経過していた。

ECCCは「ポル・ポト政権の全員」を裁く法廷ではなかった

ここも重要である。

ECCCの目的は、
クメール・ルージュに所属した全員を裁くことではない。

司法対象は、


民主カンプチアの「上級指導者」
および
1975~1979年の重大犯罪について「最も責任を負う者」

に限定された。

時間的管轄も、
1975年4月17日から1979年1月6日まで
である。

したがって、
地方の下級兵士や協同組合幹部を全員捜査し、
数千人規模で裁くタイプの法廷ではなかった。

この限定された設計によって、
誰が「最も責任を負う者」に当たるのかという問題も生じた。

ECCCでは最終的に10人が捜査対象として名前を挙げられたが、
全員が公判まで進んだわけではない。

最初に裁かれたのはS-21所長ドッチだった

ECCCで最初の本格的な裁判となったのが
Case 001
である。

被告人は、
第6回で扱ったS-21治安センター責任者、
カイン・ギュク・イアウ、通称ドッチだった。

2009年3月に本格審理が開始。

2010年、
第一審は人道に対する罪とジュネーブ諸条約の重大な違反について有罪とし、
懲役30年を言い渡した。

上訴審では刑が見直され、
2012年2月3日、
ECCC最高裁判部は
終身刑
を言い渡した。

ドッチはその後も服役し、
2020年に死亡した。

S-21の膨大な記録、
生存者証言、
元職員の証言などが存在したことから、
Case 001はクメール・ルージュ犯罪の運用構造を司法判断として確定する重要な裁判となった。

Case 002|最高指導部を裁く

より大規模だったのが
Case 002
である。

対象になった主要被告は、

  • ヌオン・チア
  • キュー・サムファン
  • イエン・サリ
  • イエン・チリト

だった。

しかし法廷設立までに長い時間がかかった影響は、
ここでも現れた。

被告人たちはすでに高齢だった。

イエン・サリは2013年、
公判途中で死亡した。

イエン・チリトは裁判を受けられる健康状態にないと判断され、
2015年に死亡した。

最終的に判決まで進んだ中心人物は、
ヌオン・チアとキュー・サムファンだった。

2014年|強制移動をめぐって終身刑

Case 002は非常に巨大だったため、
ECCCは審理を複数の裁判へ分割した。

最初の
Case 002/01
では、

  • 1975年4月のプノンペンからの人口移動
  • その後の地域間人口移動
  • トゥール・ポー・チュレイでの旧クメール共和国兵士処刑

などが審理された。

2014年8月7日、
ヌオン・チアとキュー・サムファンは人道に対する罪で有罪となり、
ともに終身刑を言い渡された。

2016年、
ECCC最高裁判部は終身刑を維持した。

2018年|ジェノサイド、人道に対する罪、戦争犯罪

続く
Case 002/02
では、
CASE FILE 22で扱ってきた制度の多くが裁判対象となった。

協同組合。

大規模労働現場。

S-21などの治安施設。

党内粛清。

チャム人・ベトナム人への犯罪。

仏教徒への迫害。

旧クメール共和国関係者への迫害。

強制結婚。

ベトナムとの武力紛争。

2018年11月16日、
第一審はヌオン・チアとキュー・サムファンについて、
ジェノサイド、人道に対する罪、戦争犯罪に関する有罪判決を言い渡し、
終身刑とした。

ただし第7回で確認したように、
二人の個別責任とジェノサイド認定の範囲は同一ではない。

ヌオン・チアは最終上訴判決を迎えられなかった

ヌオン・チアは民主カンプチア時代、
CPK副書記としてポル・ポトに次ぐ最高指導者の一人だった。

Case 002/01の終身刑は2016年に確定した。

しかしCase 002/02の第一審判決後、
上訴手続が進んでいた2019年8月4日に死亡した。

そのため、
Case 002/02については最終的な上訴判断まで到達せず、
その後の手続は終了した。

ここにも、
裁判開始まで数十年を要したことの現実的な影響
が表れている。

裁こうとしても、
被告人が高齢化し、死亡したり健康状態が悪化したりすれば、
司法手続そのものが完結できない。

2022年9月22日|キュー・サムファンへの最終判断

最後まで上訴審が続いたのが、
民主カンプチア国家幹部だった
キュー・サムファン
である。

2022年9月22日、
ECCC最高裁判部はCase 002/02について判決を言い渡した。

人道に対する罪。

戦争犯罪。

そして
ベトナム人を殺害したジェノサイド
を含む有罪認定の大部分を維持した。

終身刑も維持された。

これがECCCにおける最後の大規模な上訴判決となった。

ECCCは、
2006~2022年に行われた司法手続をここで実質的に完了した。

ECCCでは結局、誰が有罪になったのか

人物 主な立場 ECCCでの結果
ポル・ポト CPK書記・民主カンプチア首相 1998年死亡。ECCCの被告人にはならなかった。
ドッチ S-21責任者 人道に対する罪・戦争犯罪で有罪。2012年に終身刑。
ヌオン・チア CPK副書記 Case 002/01で終身刑確定。Case 002/02第一審でも有罪となったが、上訴中の2019年に死亡。
キュー・サムファン 民主カンプチア国家幹部 人道に対する罪・戦争犯罪・ベトナム人に対するジェノサイドなどで有罪。終身刑。
イエン・サリ 副首相・外務担当 起訴されたが2013年、公判中に死亡。判決なし。
イエン・チリト 社会問題相 裁判能力なしと判断され、2015年死亡。判決なし。

このほかにもECCCでは複数の人物が捜査対象となったが、
すべてが起訴・公判・有罪判決まで進んだわけではない。

したがって、


「クメール・ルージュ指導者全員がECCCで裁かれた」

という理解も正しくない。

なぜ「たった数人」しか有罪にならなかったのか

ここはECCCを評価するときに必ず出てくる疑問である。

約150万~200万人が死亡した体制なのに、
なぜ裁判で有罪になった人物はこれほど少ないのか。

理由の一つは、
最初からECCCの人的管轄が限定されていたことである。

すべての実行者ではなく、
「上級指導者」と「最も責任を負う者」が対象だった。

二つ目は時間である。

ポル・ポト。

ソン・セン。

タ・モク。

ケ・ポーク。

ECCCが捜査を本格化させるまでに、
すでに死亡していた重要人物が複数いた。

公判開始後にも、
イエン・サリやヌオン・チアが死亡した。

三つ目は、
誰がECCCのいう「最も責任を負う者」に入るのかについて、
検察官・捜査判事間で見解の相違が生じた事件もあったことである。

つまり、
犯罪規模が大きければ自動的に多数の被告人を裁けるわけではない。

法廷の管轄、証拠、被告人の生存、健康、身柄確保、手続の適法性といった条件が必要になる。

FACT CHECK|ポル・ポトとECCC

よくある理解 資料から確認できる整理
1979年にポル・ポトは逮捕された 逮捕されていない。国境地帯へ退却し、その後もクメール・ルージュの活動を続けた。
ポル・ポトは一度も有罪判決を受けなかった 1979年の人民革命法廷で欠席のまま有罪・死刑判決を受けている。ただし後のECCCとは法的手続・基準が大きく異なる。
ポル・ポトはECCCでジェノサイド有罪になった なっていない。1998年に死亡しており、ECCCの容疑者・被告人ではなかった。
1979年にクメール・ルージュは完全消滅した 民主カンプチア政権は崩壊したが、クメール・ルージュはタイ国境を中心に武装活動を継続した。
ECCCはクメール・ルージュ全員を裁く法廷だった 対象は民主カンプチアの上級指導者と、重大犯罪について最も責任を負う者に限定されていた。
ECCCは現在も新しい大規模裁判を続けている 司法手続は2022年に完了。2023年から残余機能の段階へ移行している。
ECCCは2025年で完全終了した 終了していない。残余機能は2026年1月1日から2027年12月31日まで2年間延長されている。

2026年現在|ECCCはまだ存在している

2022年のキュー・サムファン上訴判決によって、
ECCCの大規模な司法手続は終了した。

しかし法廷組織が即座に消滅したわけではない。

2023年1月1日から、
ECCCは
「残余機能(residual functions)」
の段階へ移行した。

主な役割には、

  • 確定判決の再審請求への対応
  • 被害者・証人の保護
  • 司法妨害などへの対応
  • 刑の執行の監督
  • 受刑者の処遇の監視
  • 司法記録の保存・管理
  • 文書の公開・アクセス対応
  • ECCCに関する情報提供・教育

などがある。

ECCCの司法記録は、
200万ページを超える法的・歴史的資料を含み、
現在も保存・公開が進められている。

キュー・サムファンは終身刑を服役しており、
刑の執行監督も残余機能の一つである。

残余機能は2027年末まで延長された

当初の残余段階は、
2023~2025年の3年間として開始された。

しかし国連とカンボジア政府は2024年以降、
どの機能をその後も継続する必要があるか検討した。

その結果、
2026年1月1日から2027年12月31日まで、さらに2年間継続する
ことで合意した。

2026~2027年には、
民事当事者への賠償実施監視を除く残余機能が継続される。

ECCCは同時に、
将来の正式な閉鎖と、
記録・教育・研究などを恒久的に引き継ぐ仕組みへの移行を進めている。

つまり2026年現在、


ECCCは「裁判中の法廷」ではない。
しかし「すでに存在しない法廷」でもない。

裁判で残された判決、証言、写真、文書、
被害者参加の記録を管理し、
後世へ残す段階に入っている。

司法は遅すぎたのか

1979年から本格的な裁判まで、
あまりにも長い時間がかかった。

その間にポル・ポトは死亡した。

タ・モクも死亡した。

裁判中にはイエン・サリが死亡した。

ヌオン・チアも最終上訴判断の前に死亡した。

この意味では、
「もっと早ければ、より多くの責任者を直接裁けた」
という問題は残る。

一方でECCCが残したものは、
刑罰だけではない。

S-21の文書。

党内電報。

会議記録。

人口移動の証言。

協同組合の運用。

強制労働。

チャム人・ベトナム人への犯罪。

強制結婚。

東部地区粛清。

それまで断片的だった大量の資料が、
法廷で証拠として検討され、
どの事実を合理的疑いを超えて認定できるのかが判決として残された。

CASE FILE 22で使用してきた資料の多くも、
この司法手続によって整理・公開されたものである。

最後に残ったのは「ポル・ポトという人物」ではなく、記録だった

この特集は、
ポル・ポトという名前から始まった。

だが全10回を追うと、
この事件を一人の独裁者だけで説明できない理由が見えてくる。

秘密政党が成長する。

内戦で国家権力を奪う。

都市人口を移動させる。

人間を新人民と旧人民に分類する。

協同組合へ組み込む。

仕事と食事を管理する。

病気でも逃げられない。

敵と判断した人を治安施設へ送る。

自白からさらに敵を探す。

民族と宗教によって人を分類する。

国外ではベトナムと戦う。

国内ではベトナムの協力者を疑って自軍を粛清する。

最後には、そのシステム自体が崩壊する。

ポル・ポトはその最上部にいた。

しかし命令を実行したのは組織だった。

人を分類したのも組織だった。

食糧を管理したのも組織だった。

自白を集めたのも組織だった。

そして1979年以後、
その組織を司法の言葉で再構成するために数十年が費やされた。

ポル・ポト本人をECCCで裁くことはできなかった。

しかし、
彼が死んだことで民主カンプチアの責任構造そのものが消えたわけでもない。

残された命令書。

写真。

名簿。

電報。

集団墓地。

そして生存者の証言。

それらを積み重ねて、
「何が起きたのか」を司法記録として残すこと
がECCCのもう一つの役割になった。

民主カンプチアが存在したのは、
3年8か月20日。

その出来事を裁判所が検証するまでには、
それよりはるかに長い時間が必要だった。

そして2026年現在も、
その記録を残す仕事はまだ終わっていない。


← 前の記事:犠牲者は何人だったのか


CASE FILE 22 完結

CASE FILE 22|全10回


  1. 第1回 ポル・ポトと民主カンプチアとは?

  2. 第2回 ポル・ポトはどう権力を握ったのか

  3. 第3回 1975年4月17日、プノンペンで何が起きたのか

  4. 第4回 民主カンプチアは人々の生活をどう統制したのか

  5. 第5回 なぜ大量の死者が出たのか

  6. 第6回 S-21とは何だったのか

  7. 第7回 ポル・ポト時代の大量殺害はすべて「ジェノサイド」なのか

  8. 第8回 なぜ民主カンプチアは崩壊したのか

  9. 第9回 犠牲者は何人だったのか
  10. 第10回 ポル・ポトはなぜECCCで裁かれなかったのか|1979年以後のクメール・ルージュと長い司法の道
    【現在の記事】

出典・参考資料

  • Extraordinary Chambers in the Courts of Cambodia(ECCC)— Pol Pot / Saloth Sar Profile

    1979年以後のポル・ポトの活動、1979年人民革命法廷、1998年4月15日の死亡、ECCCの被告人ではなかったことの確認に使用。
  • ECCC — Historical Context: Accountability and Justice

    1979年以後のクメール・ルージュ武装活動、1997年の国際支援要請、国連専門家グループ、ECCC成立交渉、2003年協定、2006~2007年の司法制度始動について確認。
  • ECCC — Legal Framework / Guide to the ECCC

    ECCCの人的管轄、1975年4月17日~1979年1月6日という時間的管轄、国連・カンボジア政府による法廷設置制度について確認。
  • ECCC — People’s Revolutionary Tribunal 1979 Records

    1979年8月のポル・ポト・イエン・サリ欠席裁判、有罪・死刑判決と、後にECCCが検討した適正手続上の問題について確認。
  • ECCC — Case 001

    S-21責任者ドッチに対する人道に対する罪・戦争犯罪の裁判、2012年の終身刑について確認。
  • ECCC — Case 002 / Trial 002/01 / Trial 002/02

    ヌオン・チア、キュー・サムファン、イエン・サリ、イエン・チリトの訴追、強制移動、協同組合、治安施設、民族迫害、ジェノサイドなどの裁判経過について確認。
  • ECCC — Nuon Chea Profile

    Case 002/01終身刑、Case 002/02第一審判決、2019年の死亡と上訴手続終了について確認。
  • ECCC — Khieu Samphan Profile

    2014年・2018年の有罪判決、2016年・2022年の上訴判断、ベトナム人に対するジェノサイド、終身刑について確認。
  • ECCC — Residual Mandate / Budget for 2026–2027

    2023年開始の残余機能、刑の執行監督、被害者・証人保護、司法記録の保存・公開、および2026年1月1日~2027年12月31日への延長について確認。
  • United States Holocaust Memorial Museum — Early Efforts / A Tribunal for Cambodia

    1979年人民革命法廷の位置付け、長期化した責任追及、1990年代のクメール・ルージュ弱体化、1997年のポル・ポト内部裁判と1998年の死亡について照合。

本記事は、ECCCの公式人物資料・裁判記録・歴史年表・法的枠組み・2026~2027年残余機能関連資料、および米国ホロコースト記念博物館の資料を照合して構成しています。
1979年の人民革命法廷とECCCは異なる司法制度であり、1979年判決を後のECCC判決と同一の司法的確定として扱っていません。
また、ECCC判決にはポル・ポトの役割に関する多数の事実認定がありますが、ポル・ポト本人は1998年に死亡しておりECCCの被告人ではなかったため、それらをポル・ポト本人に対する有罪判決とは表現していません。
ECCCの大規模な司法手続は2022年に終了しましたが、2026年現在は残余機能の段階にあり、その期間は2027年12月31日まで延長されています。