サダム・フセインはどう捕まったのか|2003年、政権崩壊からOperation Red Dawnまで
2003年12月13日夜、イラク中部のティクリートから南へ下ったアド・ドール周辺で、米軍部隊が農場を捜索していた。
探していたのは、8か月以上にわたって行方を追われていた元イラク大統領サダム・フセインだった。バグダッドの政権はすでに崩壊し、息子のウダイとクサイも死亡していた。それでもサダム本人の居場所は分からないままだった。
その夜に実施されたOperation Red Dawn(レッド・ドーン作戦)では、第4歩兵師団第1旅団と特殊作戦部隊などが、チグリス川近くの農場地帯を捜索した。最初に目標とされた建物からサダムは見つからなかった。しかし、人的情報――HUMINTをさらにたどった結果、地面に隠された入口が発見され、その地下の狭い隠れ場所からサダム本人が拘束された。[1]
この結末だけを見ると、「米軍が大規模な捜索を行い、最後に地下の穴を発見した」という単純な話に見える。しかし、追跡の核心はそこではない。米陸軍の記録を追うと、初期には旧政権の高官を次々と拘束してもサダムには近づけず、途中から政治組織ではなく、親族、幼少期からの知人、側近、ボディーガードという個人的な人間関係を逆向きにたどる方法へ切り替えていたことが分かる。[1]
CASE FILE 27では、サダム・フセインの生涯や24年間の政権史そのものではなく、2003年の政権崩壊後、彼がどこへ消え、追跡側がどのように情報網を組み立て直し、12月13日の拘束へ到達したのかを追う。
CASE FILE 27|サダム・フセイン逃亡・追跡・拘束特集(全10回)
この特集の中心は「独裁者サダム・フセインとは何者だったのか」ではなく、「政権を失った一人の逃亡者を、どうやって見つけたのか」というHUNTである。
第1回では、2003年4月のバグダッド政権崩壊から、ティクリート周辺での捜索、人的ネットワークの分析、12月13日のOperation Red Dawnまでを俯瞰する。個々の急襲作戦や人脈分析、最終拘束地点の詳細は、第4回以降で分けて検証する。
- 第1回|現在の記事:サダム・フセインはどう捕まったのか|2003年、政権崩壊からOperation Red Dawnまで
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第2回|バグダッド陥落後、サダムはどこへ消えたのか|2003年4月から始まった逃亡
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第3回|なぜティクリート周辺が捜索の中心になったのか|故郷・支援網・チグリス川沿いの地理
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第4回|米軍はどうサダムを追ったのか|親族・側近・HUMINTをつないだ人物相関図
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第5回|ウダイとクサイの死は追跡をどう変えたのか|2003年7月、モスルで失われた政権中枢
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第6回|なぜサダムを何度も捕まえられなかったのか|急襲作戦と逃亡を支えた人間関係
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第7回|サダムの居場所はどう突き止められたのか|側近拘束からアド・ドールへ続いた情報連鎖
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第8回|Operation Red Dawnとは何だったのか|Wolverine 1・2と2003年12月13日の急襲
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第9回|「スパイダーホール」で何が見つかったのか|サダム拘束と身元確認の全記録
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第10回|拘束後のFBI尋問で何が分かったのか|サダムが語った逃亡生活と2003年を再検証する
この記事で分かること
- 2003年の政権崩壊後、サダム・フセインがどのような立場になったのか
- 米軍が当初行っていた「旧政権幹部の追跡」だけでは、なぜ本人へ近づけなかったのか
- ティクリート周辺が捜索の中心になった理由
- HUMINTと人物相関の分析が、どのように追跡方法を変えたのか
- ウダイとクサイの死亡が起きた2003年7月以降、捜索がどう進んだのか
- アル・ムスリット家周辺の人物関係が、なぜ重要になったのか
- 12月13日、最終的な情報がアド・ドールの農場へどうつながったのか
- Operation Red Dawnでサダムがどのように拘束されたのか
- 有名な「スパイダーホール」という説明で、何が事実として確認できるのか
- サダム拘束が、イラク戦争そのものの終結を意味しなかった理由
先に結論|サダムを見つけた決め手は「広く探すこと」ではなく、人間関係を狭くたどることだった
2003年のサダム追跡を一言で整理するなら、捜索範囲を広げ続けた結果ではなく、逃亡者の周囲に残っていた人間関係を一人ずつ狭くたどった結果だった。
政権崩壊直後、米軍は旧イラク政権の有力者をHigh Value Target(HVT=高価値目標)として追跡していた。いわゆる「イラク最重要指名手配者カード」に掲載された高官もその対象だった。2003年6月までには大統領秘書を含む複数の旧政権幹部を拘束していたが、それでもサダム本人の所在を示す情報は得られなかった。[1]
理由は、政権という組織がすでに崩れていたからである。
大統領として国家機構を動かしていた時代のサダムと、身を隠して移動する逃亡者となったサダムでは、頼る人間が違う。政府高官や軍上層部をたどっても、逃亡中の本人と直接接触できるとは限らなかった。
そこで第4歩兵師団第1旅団の情報部門などは、サダムの個人的な信頼関係へ焦点を移した。幼少期から彼を知る家族、親族、側近、ボディーガードをつなぎ、人物同士の関係を図にしていくLink Analysis(リンク分析)が使われた。拘束した人物への尋問、新たな急襲で得られた写真や文書、地元住民からの情報を重ねることで、巨大だった捜索対象は少しずつ小さくなっていった。[1]
そして12月13日、その情報の連鎖がサダムと直接つながる側近へ届き、アド・ドールの農場が特定された。
最後に必要だったのは、イラク全土を探す能力ではなく、「誰がサダムと今もつながっているか」を見抜くことだった。
2003年4月|首都バグダッドは制圧されたが、サダム本人はいなかった
2003年3月、米英を中心とする連合軍によるイラク侵攻が始まった。米陸軍の公式年表では、4月9日に米陸軍第3歩兵師団と米海兵隊第1海兵師団がバグダッドを掌握した出来事が記録されている。[2]
通常の戦争であれば、首都の制圧や政府機構の崩壊は大きな区切りになる。
しかし、このときサダム・フセイン本人は拘束されていなかった。
大統領宮殿や政府施設を確保しても、そこに最高指導者がいるとは限らない。政権が機能を失うにつれて、それまで政府機構を通じて把握できた指揮系統も散り、サダムは「大統領」という公的な存在から、所在不明の個人へ変わっていった。
米陸軍の後年の解説は、バグダッド確保後にサダムが首都から逃れ、その後長期の追跡が始まったと整理している。[1]
追跡側から見れば、ここから問題の性質が変わる。
軍隊同士の位置を衛星や偵察で把握し、部隊を攻撃する戦争ではない。移動先を公表せず、ごく限られた人間だけと接触し、民家や農場に潜伏する一人の人物を探す必要があった。
CASE FILE 27のHUNTは、この時点から始まる。
最初の捜索|旧政権高官を捕まえても、サダム本人には近づけなかった
政権崩壊直後の追跡には、一見すると合理的な方法があった。
サダムの政府で高い地位にあった人物を拘束し、そこから本人の所在を聞き出す方法である。
米軍は旧政権幹部をHVTとして追跡した。だが、米陸軍情報部門が後にまとめたOperation Red Dawnの事例研究によれば、旧政権の政治的な有力者を次々に拘束しても、サダムの居場所へ直接近づくことはできなかった。政権崩壊によって、彼の「政治的な権力基盤」はすでに分散していたからだ。[1]
これは逃亡者追跡では重要な違いである。
ある人物が権力を持っていたときの組織図と、逃亡するときに頼る人物の一覧は同じとは限らない。大臣や将軍よりも、長年の知人、血縁者、運転手、護衛、地元の協力者の方が、潜伏場所へ近い可能性がある。
米陸軍の情報担当者は、やがてこの違いに気づいた。
追うべきなのは、崩壊した国家機構ではなかった。
サダムが個人として信用していた人間のネットワークだった。
追跡の転換点|「誰が偉かったか」から「誰を信用していたか」へ
第4歩兵師団は、サダムの出身地であるティクリートとその周辺を担当した。そこでは、米陸軍の尋問担当者、対情報要員、通訳などからなるTactical HUMINT Teamが活動し、地元住民との接触や拘束者への聞き取りから大量の情報を集めていた。[1]
HUMINTはHuman Intelligenceの略で、人間から得る情報を指す。衛星写真や通信傍受のように機械から得る情報ではなく、住民の証言、情報提供者、拘束者への尋問、関係者への聞き取りなどから組み立てていく。
ただし、人が話したことは、そのまま事実になるわけではない。
勘違いもあれば、意図的な虚偽もあり、対立する人物を陥れるための情報もあり得る。そのため、一つの証言だけで急襲するのではなく、別の証言、人物関係、押収資料、過去の行動などと照合する必要がある。
第1旅団の情報担当者は、サダムを若い頃から知る複数の家族を中心に人間関係を整理する「Three Tier Strategy」を構築し、特殊作戦部隊Task Force 121とともにLink Analysis Diagramを作成した。[1]
人物を拘束する。
その人物が別の人物との関係を明らかにする。
新しい人物を調べると、さらに別の接点が見える。
家宅捜索で写真などが見つかれば、これまで名前だけだった人物に顔が結びつく。
こうして情報網は、国全体から地域へ、地域から家族へ、家族から数人の側近へと狭まっていった。
なぜティクリートとアド・ドールだったのか
追跡の地理を理解するには、バグダッドだけを見ても足りない。
ティクリートはバグダッドから北へ離れたチグリス川沿いの都市で、サダムの出身地域でもある。政権崩壊後、第4歩兵師団はこの一帯を担当し、親族や古くからの人脈を調べていった。最終的にサダムが発見されたアド・ドールは、ティクリートより南側に位置する。[1]
以下のGoogle Mapは、現在のアド・ドール周辺とティクリート南方という地理を把握するためのものだ。
現在のアド・ドール周辺。ティクリートの南、チグリス川沿いに位置する。これは地域の位置関係を確認するための地図であり、2003年12月13日にサダム・フセインが発見された農場や地下の隠れ場所の正確な地点を示すものではない。
重要なのは、「サダムの故郷だからティクリートを探せばよかった」という単純な話ではないことである。
出身地は捜索範囲を示す一つの手掛かりにすぎない。実際に必要だったのは、その地域に残る人物関係の中で、誰が本人へ接触でき、誰がその仲介役を知っているのかを見分けることだった。
第3回では、バグダッド、ティクリート、アド・ドール、チグリス川の位置関係と、サダムの地元人脈を重ね、「なぜこの地域で追跡網が収束したのか」を詳しく見る。
2003年7月|ウダイとクサイが死亡しても、父サダムの所在は分からなかった
2003年7月22日、サダムの息子ウダイ・フセインとクサイ・フセインは、北部モスルで米軍部隊との戦闘の末に死亡した。
これは旧政権中枢を追う作戦の大きな出来事だった。しかし、二人の死亡がそのまま「父親の居場所判明」につながったわけではない。
サダム本人はその後も数か月にわたって拘束を逃れている。
この点は、CASE27の追跡構造を理解するうえで重要である。著名な関係者を一人ずつ排除すれば、自動的に最重要人物へ近づくわけではない。必要なのは、本人へ現在も情報や物資を届けている人間を特定することだった。
米陸軍の記録では、その後の分析でアル・ムスリット家が重要な対象として浮上した。サダムの近しいボディーガードを供給していた一族で、そこからさらに運転手や友人などの人物関係が追跡された。[1]
この人脈が、秋から冬にかけて捜索を大きく狭めることになる。
10月から12月|人間関係の鎖がサダム本人へ近づいていく
米陸軍情報部門の記録では、2003年10月11日、アル・ムスリット兄弟の一人が拘束され、尋問からバシム・ラティフという人物の存在が重要になった。
バシムは、イブラヒム・アル・ムスリットの運転手であり親しい友人だった。イブラヒムはサダムが信頼していた少数の人物の一人とみられていた。バシムへの再度の聞き取りによって、イブラヒムの現在地と、彼がサダム本人へ直接つながっているという情報が得られたと米陸軍は記録している。[1]
ここから追跡は急速に収束する。
| 時期 | 追跡側の動き | 意味 |
|---|---|---|
| 2003年4月 | バグダッドの政権機構が崩壊。サダム本人は拘束されず | 国家指導者の追跡から、所在不明者の追跡へ性質が変化 |
| 春〜夏 | 旧政権のHVTを相次いで捜索・拘束 | 政治的ネットワークだけでは本人に近づけないことが明確になる |
| 2003年夏以降 | ティクリート周辺でHUMINTを集積し、個人的な人脈をリンク分析 | 親族・古い知人・護衛などへ捜索軸を変更 |
| 2003年7月22日 | モスルでウダイとクサイが死亡 | 旧政権中枢の重要な変化。ただしサダム本人の位置特定には至らず |
| 2003年10月11日 | アル・ムスリット家の人物を拘束 | バシム・ラティフ、イブラヒム・アル・ムスリットへ情報がつながる |
| 2003年12月13日早朝 | Task Force 121がイブラヒム・アル・ムスリットを拘束 | 尋問からアド・ドールの農場という具体的な場所へ到達 |
| 2003年12月13日夜 | Operation Red Dawnを実施 | サダム・フセインを生きたまま拘束 |
つまり、最後の突破口は「この村にサダムがいる」という突然の匿名情報ではない。
何か月も蓄積した人物関係の中から、本人へ近い人物を順番に特定し、その人物から次の人物へ進む連鎖だった。
FACT CHECK|サダムは「米軍が偶然見つけた地下の穴」に隠れていた?
この説明では追跡過程の重要部分が抜ける。米陸軍の記録では、12月13日早朝にTask Force 121がイブラヒム・アル・ムスリットを拘束し、その尋問からサダムがアド・ドールの農場にいるという情報を得た。その夜のOperation Red Dawnで農場を捜索したものの、最初の捜索ではサダムを発見できなかった。
その後、協力していたHUMINT情報源からさらに場所を絞り込み、隠された地下の空間が発見された。したがって、拘束は「たまたま穴を見つけた」のではなく、数か月の人的情報収集と人物関係分析の末に農場まで到達し、最後に現場で追加情報を得て隠れ場所を特定した結果と捉える方が正確である。[1]
12月13日夜|Operation Red Dawn
2003年12月13日夜、米軍はOperation Red Dawnを開始した。
米陸軍Fort Carsonに残る第1旅団の部隊史では、この作戦にRaider Brigadeの兵士約600人と特殊作戦部隊が参加したとされている。[3]
目標は、アド・ドール周辺に設定された2か所の農場だった。
第4歩兵師団第1旅団とTask Force 121などが周辺を押さえ、建物と農場を捜索した。しかし、最初の段階でサダム本人は見つからなかった。大規模な部隊が場所へ到達できても、そこから数十m単位の隠れ場所を見つけるには、さらに細かな情報が必要だった。
協力者から得た追加情報をもとに現場を調べると、地面に隠された入口が見つかった。
その下にいたのがサダム・フセインだった。[1]
翌12月14日に公開された当時の米ホワイトハウス記録では、拘束は12月13日20時30分ごろ(バグダッド時間)、ティクリート郊外の農場近くで行われ、作戦による死傷者はいなかったと発表されている。[4]
サダムは生きたまま拘束された。
米陸軍Center of Military Historyが現在保存する関連資料には、拘束時に地下の隠れ場所にあった緑色の金属箱も含まれている。箱には75万ドル分の100ドル紙幣が入っていたと記録されている。[5]
ただし、こうした現場の細部は第9回で整理する。第1回で重要なのは、地下の穴そのものではなく、そこへ至るまでに追跡側が情報の集め方を変えていたことである。
「スパイダーホール」は事件の象徴になったが、それだけを見ると追跡の本質を見失う
サダム拘束を象徴する言葉として、現在も頻繁に使われるのが「spider hole(スパイダーホール)」である。
一般には、地面に作られた狭い地下の隠れ場所を指す表現として知られている。サダムがそこから発見されたという映像的な印象が非常に強かったため、拘束事件そのものが「地下の穴に隠れていた独裁者を発見した事件」として記憶されやすくなった。
しかし、追跡史として見るなら、これは最後の数分にすぎない。
より長かったのは、その場所へ到達するまでだった。
旧政権幹部を追う。
成果が出ない。
個人的な人脈へ切り替える。
ティクリート周辺でHUMINTを集める。
家族と護衛の関係を図にする。
拘束者の証言から別の人物を探す。
その人物からさらに本人へ近い人物を割り出す。
そしてようやく、アド・ドールという具体的な地点へ到達した。
地下の隠れ場所は追跡の「答え」だったが、答えを導いた方法は人間関係の分析だった。
拘束後|FBIの尋問記録から、逃亡前後を逆向きに検証できるようになった
サダムの拘束によって、追跡は終わった。
一方で、そこから別の資料が生まれることになる。
FBIは拘束後のサダム本人に対する長期的な聞き取りを行った。FBIの公式史によれば、特別捜査官ジョージ・ピロが2004年1月13日に最初の面談を行い、その後数か月にわたってサダム本人から情報を引き出した。CIA分析官、FBI捜査官、情報分析官、言語専門家なども支援していた。[6]
これらは、2003年当時の追跡側がリアルタイムで知っていた情報とは区別する必要がある。
逃亡中に米軍が「そう考えていたこと」と、拘束後に本人が「そう語ったこと」は同じ資料ではない。また、本人の供述だからといって、それだけで自動的に事実になるわけでもない。
第10回ではこの違いを明確にし、米軍側の追跡記録とFBIの拘束後資料を照合しながら、「サダム本人の説明によって何が補強され、何が依然として確認できないのか」を扱う。
サダム拘束は「イラク戦争の終結」ではない
2003年12月13日の拘束は、サダム本人を追うHUNTとしては明確な終点だった。
しかし、イラク戦争の終点ではない。
翌14日の米大統領声明でも、サダムの拘束がイラク国内の暴力の終結を意味しないことは明示されていた。[4]
実際、イラクではその後も武装勢力との戦闘が続き、ファルージャなどで大規模な戦闘が発生する。サダムは2006年に処刑されるが、米軍の主要戦闘部隊がイラクから撤退するのは2011年である。
したがってCASE FILE 27では、「サダムを捕まえたことでイラク戦争が終わった」という構図にはしない。
このシリーズで完結するのは、あくまで2003年に行われたサダム・フセイン個人の逃亡・追跡・拘束である。
この特集で扱う範囲|サダムの24年間の政権史ではなく、2003年のHUNTを見る
サダム・フセインという人物を扱うと、論点は非常に広くなる。
1979年の大統領就任、イラン・イラク戦争、クウェート侵攻と湾岸戦争、クルド人への弾圧、国際制裁、2003年の大量破壊兵器問題、イラク戦争、裁判、2006年の処刑まで、いずれも独立した長いテーマである。
それらを一つのCASEへ入れると、「なぜ捕まったのか」という中心の問いが埋もれてしまう。
そこでCASE FILE 27では、必要な背景だけを短く確認し、時間軸を2003年の政権崩壊後から12月13日の拘束までへ絞る。
追うのは、独裁体制全体ではない。
政権を失った人物がどのように追跡網から姿を消し、追跡側が何を間違え、何を学び、どの人間関係をたどって最後の農場へ到達したのかである。
そう見ると、Operation Red Dawnは単独の特殊作戦ではなく、約8か月にわたる情報収集の最終工程だったことが見えてくる。
まとめ|「独裁者の地下壕」より、その場所を突き止めた情報の鎖を見る
2003年春、バグダッドの政権は崩壊した。しかし、サダム・フセイン本人は拘束されず、所在不明となった。
当初、米軍は旧政権の有力者を追跡した。だが、政府という組織が崩れた後、その政治的ネットワークをたどっても逃亡中の本人には近づけなかった。
追跡方法は変わった。
ティクリート周辺で集めたHUMINTを使い、親族、古くからの知人、側近、ボディーガードを人物相関としてつないでいく。その中からアル・ムスリット家周辺が浮かび、バシム・ラティフ、イブラヒム・アル・ムスリットへ情報の鎖が続いた。
2003年12月13日早朝、イブラヒムが拘束される。
その情報からアド・ドールの農場が特定され、同日夜、Operation Red Dawnが始まった。
そして20時30分ごろ、サダム・フセインは生きたまま拘束された。
有名なのは、最後に発見された地下の隠れ場所である。
しかし、追跡の本質はそこではない。
巨大な軍事力でイラク全土を探したから捕まったのではなく、逃亡者が最後まで切ることのできなかった少数の人間関係をたどり続けたことで、捜索地点が一つの農場まで縮んだ。
次の第2回では、この追跡が始まった2003年4月へ戻る。バグダッドの政権が崩壊する中で、サダムはいつから所在不明になり、米軍は当初どこにいると考え、なぜすぐには捕まえられなかったのか。「大統領」から「逃亡者」へ変わった最初の段階を時系列で追う。
CASE FILE 27|全10回
- 第1回|現在の記事:サダム・フセインはどう捕まったのか|2003年、政権崩壊からOperation Red Dawnまで
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第2回|バグダッド陥落後、サダムはどこへ消えたのか|2003年4月から始まった逃亡
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第3回|なぜティクリート周辺が捜索の中心になったのか|故郷・支援網・チグリス川沿いの地理
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第4回|米軍はどうサダムを追ったのか|親族・側近・HUMINTをつないだ人物相関図
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第5回|ウダイとクサイの死は追跡をどう変えたのか|2003年7月、モスルで失われた政権中枢
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第6回|なぜサダムを何度も捕まえられなかったのか|急襲作戦と逃亡を支えた人間関係
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第7回|サダムの居場所はどう突き止められたのか|側近拘束からアド・ドールへ続いた情報連鎖
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第8回|Operation Red Dawnとは何だったのか|Wolverine 1・2と2003年12月13日の急襲
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第9回|「スパイダーホール」で何が見つかったのか|サダム拘束と身元確認の全記録
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第10回|拘束後のFBI尋問で何が分かったのか|サダムが語った逃亡生活と2003年を再検証する
今回出てきた言葉
- HUMINT
- Human Intelligenceの略。住民、情報提供者、拘束者、関係者への聞き取りなど、人間を通じて得る情報。サダム追跡では、ティクリート周辺の人物関係をたどるうえで重要な役割を持った。
- HVT
- High Value Targetの略。軍事・情報作戦上、特に重要と判断された人物や対象。2003年のイラクでは、旧政権の高官などが追跡対象となった。
- Link Analysis
- 人物、組織、場所などの関係を図として整理し、直接・間接のつながりを探す分析方法。CASE27では、政権組織よりもサダム本人の個人的ネットワークを把握するために重要となる。
- Task Force 121
- 2003年当時、イラクで高価値目標の追跡などに関与した米軍の特殊作戦タスクフォース。第4歩兵師団側の情報・地上部隊と連携してサダム追跡に関与した。
- アド・ドール(Ad Dawr)
- イラク中部、ティクリート南方の町。2003年12月13日、周辺の農場でサダム・フセインが発見・拘束された。
- Operation Red Dawn
- 2003年12月13日に実施されたサダム・フセイン拘束作戦。第4歩兵師団第1旅団と特殊作戦部隊などが参加し、アド・ドール周辺を捜索した。
- スパイダーホール
- サダムが発見された地下の狭い隠れ場所を指して広く使われた呼称。追跡全体から見れば、数か月にわたるHUMINTと人脈分析の最後に発見された潜伏場所である。
出典・参考資料
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U.S. Army — Operation RED DAWN nets Saddam Hussein
バグダッド政権崩壊後の追跡、HVT中心の初期捜索、ティクリート周辺でのTactical HUMINT Team、Three Tier Strategy、Link Analysis、アル・ムスリット家、バシム・ラティフ、イブラヒム・アル・ムスリット、アド・ドールの農場特定、Operation Red Dawnと最終発見までの主要根拠として使用。
-
U.S. Army Center of Military History — Chronology of Army History
2003年3月のOperation Iraqi Freedom開始、4月9日のバグダッド掌握、12月13日のサダム拘束という大きな時系列の確認に使用。
-
U.S. Army Fort Carson — 1st Stryker Brigade Combat Team History
第1旅団の2003年イラク展開、12月13日のOperation Red Dawn、Raider Brigade約600人と特殊作戦部隊が作戦へ参加したという部隊史の確認に使用。
-
The White House Archives — President Bush Addresses Nation on the Capture of Saddam Hussein, December 14, 2003
2003年12月13日20時30分ごろ(バグダッド時間)、ティクリート郊外の農場付近でサダムが生きたまま拘束されたこと、作戦で死傷者が出なかったこと、および拘束がイラク国内の暴力終結を意味しないという当時の公式発表確認に使用。
-
U.S. Army Center of Military History — Saddam Hussein’s Money Box
2003年12月13日の拘束時に関連する現物資料として、地下の隠れ場所にあった緑色の金属箱と、内部に75万ドル分の100ドル紙幣があったという記録の確認に使用。
-
Federal Bureau of Investigation — A New Era of National Security, 2001–2008 / Interviewing Saddam
拘束後にFBI特別捜査官ジョージ・ピロが2004年1月13日からサダム本人への面談を開始し、CIA分析官、FBI捜査官、情報分析官、言語専門家などの支援を受けながら長期間の聞き取りを行ったことの確認に使用。
本記事は、主として米陸軍、U.S. Army Center of Military History、米政府公文書、FBIの公開資料を照合して構成しています。2003年の追跡・拘束作戦については米側公的資料が主要な一次・準一次資料となるため、各資料が米政府・米軍機関によって作成された記録である点にも留意しています。追跡当時に把握されていた情報と、拘束後の尋問で得られた本人供述は区別し、後世の逸話や再現表現を確認済み事実として扱わない方針です。