1966年8月17日、Ken MilesがRiversideでFord J-carのテスト中に死亡した。
FordはそこでJ-car計画を捨てなかった。しかし、事故車と同じ思想のままレースへ持ち込むこともしなかった。The Henry Fordは、Milesの死後にJ-carが「thoroughly reworked」――徹底的に作り直されたと説明している。その結果として生まれたのがFord Mk IVだった。[1]
新しい車は、J-carで試した接着式アルミ・ハニカム構造を残しながら、空力を大幅に変更した。安全面では鋼管ロールケージを追加し、シートベルトや車体強度も見直された。J-carで試していた実験的な自動変速機はやめ、実績のある4速マニュアルへ戻された。1967年Le Mansに投入されたFordには自動消火装置も装備されていた。[2][3][4]
1967年4月1日、Mk IVはSebring 12 Hoursで実戦デビューする。Bruce McLaren/Mario Andretti組が優勝。新しい車は、最初のレースで12時間を走り切った。[5]
そして6月10〜11日、Le Mans。Dan Gurney/A.J. Foyt組の#1 Mk IVは、最初の約90分を除いて先頭を走り、2位Ferrari 330 P4に32マイルの差をつけて優勝した。平均速度135.48mph――約218km/h――は当時の大会記録だった。[6][7]
CASE FILE 11の最終回では、これを単純な「Milesの死を乗り越えて勝った」という物語にはしない。事故によって何が見直され、J-carのどの技術が残され、何が捨てられ、その変更が1967年の結果へどうつながったのかを見る。
CASE FILE 11|ケン・マイルズとFord GT40特集(全10回)
この特集では、Ken Milesという一人の開発ドライバーを軸に、Ford GT40計画の成立、1964〜1965年の失敗、1966年Le Mans、J-car事故、そして事故後の技術的帰結までを追ってきた。最終第10回では、J-carからMk IVへの再設計と1967年Le Mansを扱う。
- 第1回|ケン・マイルズとは何者だったのか|Ford GT40を勝てる車へ変えた開発ドライバー
- 第2回|FordはなぜFerrariへ挑んだのか|GT40計画が始まるまで
- 第3回|Ford GT40はなぜル・マンを勝てなかったのか|1964〜1965年の失敗とMk IIへの進化
- 第4回|ケン・マイルズはGT40開発で何をしたのか|テスト、空力、ブレーキ、耐久性
- 第5回|DaytonaとSebringを制した1966年|ケン・マイルズがル・マンへ近づいた2連勝
- 第6回|1966年ル・マン24時間で何が起きたのか|Ford GT40 1-2-3までの24時間
- 第7回|ケン・マイルズはなぜル・マンの公式勝者にならなかったのか|同時フィニッシュを検証する
- 第8回|Ford J-carとは何だったのか|GT40 Mk IIの先を狙った実験車
- 第9回|ケン・マイルズ死亡事故|1966年8月17日、RiversideのJ-car事故で何が分かっているのか
- 第10回|現在の記事:J-carからFord Mk IVへ|事故後の改良と1967年ル・マン優勝
この記事で分かること
- Ken Milesの事故後、J-car計画が中止されなかった理由
- J-carとFord Mk IVはどこが同じで、どこが変わったのか
- アルミ・ハニカム構造が事故後も残された理由
- 空力、安全装備、トランスミッションでどのような変更が入ったのか
- 鋼管ロールケージとシートベルト改良の位置づけ
- Mk IVの実戦デビューとなった1967年Sebringの結果
- 1967年Le MansでFordが何台のMk IVを投入したのか
- Dan Gurney/A.J. Foyt組がどのように24時間を管理したのか
- 1966年型Mk IIと1967年型Mk IVの勝ち方は何が違ったのか
- Ken Milesの事故を「勝利のための犠牲」として美談化すべきでない理由
先に結論|Fordが残したのはJ-carの「新構造」、捨てたのは未成熟な部分だった
Milesの死亡事故後にFordが行ったことは、「J-carが危険だったので全部捨て、別の車を作った」ことではない。
逆に、「事故車を少し直してMk IVと名前を変えただけ」でもない。
Shelby American CollectionとThe Henry Fordの整理を合わせると、FordはJ-carで始めたアルミ・ハニカムの基本構造を残しながら、空力、乗員保護、駆動系などを大幅に再設計した。初期J-carの長く平坦なリア形状は見直され、車体にはロールケージが追加され、実験的トランスミッションは4速マニュアルへ戻された。[1][2][4]
つまりMk IVは、事故によってJ-carの思想を否定した車ではない。J-carで有効だった新技術と、実戦には未成熟だった部分を切り分けた結果として成立した。
事故後の最初の判断|J-car計画そのものは止めなかった
J-carは事故以前から問題を抱えていた。第8回で見た通り、1966年4月のLe Mansテストでは速さを示したものの、その後の試験で24時間レースへ投入するには開発不足と判断されている。主な課題の一つは空力だった。
その開発中、1966年8月17日にJ-2でMilesの死亡事故が起きた。
通常なら、実験車プロジェクト全体を止める判断もあり得る。しかしFordは、接着式ハニカム構造そのものを捨てなかった。Fordが求めていた「Mk IIより軽く、前面投影面積が小さく、高速効率の良い新しい車」という方向性には価値があると判断したからである。
Shelby American Collectionは、J-carが427 V8以外の大部分を新しく設計した車で、Mk IIより約300lb軽量化されたと説明している。また、航空機技術を応用したアルミ・ハニカム構造によって、軽さと剛性を両立しようとしていた。[4]
事故が起きたから新技術をすべて捨てるのではなく、事故とテストで得た情報を使って車両全体を再評価する。Fordはその道を選んだ。
変更1|「Bread Van」の空力を作り直した
初期J-carの特徴だった長く平坦なリアデッキは、開発上大きく見直された。The Henry Fordは初期J-carを空力面で失敗した車と評価し、Milesの事故後に徹底的な再設計が行われたと説明している。[1]
Mk IVでは、長い後部そのものは残しながら、ボディ全体が滑らかに整えられた。前面投影面積を抑えた低いキャビン、長いテール、リアスポイラーなどを組み合わせ、Mulsanne Straightでの最高速度と高速安定性の両立を狙う。
The Henry Fordは、Mk IVのボディ形状が長時間の風洞試験によって作られたと整理している。[8]
ここで「事故原因が空力だったから直した」と逆算しないことが重要である。初期J-carに空力問題があったことと、Miles事故の直接原因が空力だったことは別だ。Fordは事故原因を一つに確定できなくても、既に問題と分かっていた空力を改善する必要があった。
変更2|アルミ・ハニカム構造は残した
事故後も最も大きく残ったJ-carの遺産が、接着式アルミ・ハニカムのモノコックだった。
1967年Le Mansを取材したMotor Sport誌は、Mk IVの主要車体構造を、接着されたハニカムとアルミ板で作り、前後のボディ部分にはFRPを使っていたと記録している。[3]
Sebring時のMk IVについて同誌は、初期J-1〜J-3よりリベットを多く用いたハニカム・アルミ構造になっていたと説明する。つまり「接着だけ」という実験色の強い考えから、接着と機械的締結を組み合わせる方向へ進んでいた。[2]
新材料の採用で重要なのは、一度壊れたから「材料が間違っていた」と決めつけないことである。事故荷重は通常走行の剛性要求とは別であり、乗員保護にはロールケージ、ベルト、衝突時の車体変形など別の設計要素が必要になる。
Fordは、軽量・高剛性というハニカム構造の利点を残しながら、衝突時の保護を別の構造で補う方向へ進んだ。
変更3|鋼管ロールケージを追加した
Mk IVで事故後の安全対策として特に分かりやすいのが、コクピットを囲む鋼管ロールケージである。
Motor Sport誌は、J-carの空力修正とともにMk IVへsteel roll-cageが追加されたと記録している。別の同誌記事も、Mk IVをNASCARスタイルの鋼管ロールケージを備えた車として説明している。[9]
ハニカム・モノコックは通常荷重に対して軽く硬い。一方、車が何度も転覆するような事故では、ドライバーの周囲に生存空間を確保する別の構造が有効になる。鋼管ケージはルーフや側面が押し潰されるのを抑え、シート・ベルトの荷重を受ける構造としても機能できる。
ただし「Miles事故の原因がロールケージ不足だった」と書くのも違う。ロールケージは事故を起こさない装置ではなく、事故が起きた後に乗員が受ける傷害を減らすための装備である。
変更4|シートベルトと乗員保持も強化された
第9回で触れたように、Milesが事故で車外へ投げ出されたことについては、後年の関係者からシートベルト取付部に関する証言が残る。ただし、それが事故原因だったわけではなく、乗員保持の問題である。
Shelby American CollectionのJ-7車歴は、1967年Le MansでMario AndrettiがJ-7を大破させた際、J-2事故後に強化されたロールケージ、シャシー、シートベルトによって、Andrettiが主として肋骨の打撲程度で済んだと説明している。[4]
異なる事故を単純比較することはできない。しかし、FordがJ-2事故後に乗員保持とコクピット保護を設計変更の対象にしたことは確認できる。
ここにJ-carからMk IVへの再設計の重要な特徴がある。速度を上げる変更だけではなく、「事故が起きた後にドライバーを車内へ残す」ことも車両性能の一部として扱われ始めていた。
変更5|実験的トランスミッションをやめ、4速マニュアルへ戻した
初期J-carは2速の油圧式トランスミッションとトルクコンバーターを試していた。大トルクの427 V8を使い、変速回数を減らし、ドライバー負荷を軽くするという実験的な考え方だった。
Mk IVではこの機構を採用しなかった。
1967年SebringのMotor Sport誌は、J-carのautomatic transmissionが廃止され、4速マニュアルへ置き換えられたと明記している。エンジンには、既に耐久性が確認されていた7.0L 427 V8を継続使用した。[2]
これは開発の保守化ではない。新しいシャシーと空力を実戦へ持ち込むなら、同時に抱える未知の要素を減らす必要がある。Mk IIで実績のある大トルクV8と4速駆動系へ戻すことで、Fordはリスクを車体・空力側へ集中させた。
第9回で触れた「トランスミッション異常がMiles事故の原因だった」という説が事実かどうかとは別に、Mk IVで実験的自動変速機が採用されなかったこと自体は確認できる。
変更6|自動消火装置まで組み込んだ
1967年Le Mansに出場したFord勢には、もう一つ現在的な装備がある。
Motor Sport誌の車両解説では、Ford車のコクピットに赤外線で炎を検知すると自動的に消火剤を放出するfire-fighting apparatusが搭載されていた。[3]
1960年代の耐久レースでは、大量の燃料を搭載した車が高速で衝突し、火災になる事故は珍しくなかった。J-2も転覆後に火災となっている。
消火装置がMiles事故だけを受けて採用されたと断定する資料はない。そのため本記事では「Miles事故の直接対策」とはしない。ただし、1967年のFordが衝突後の火災まで含めて乗員保護を考えていたことを示す重要な装備である。
FACT CHECK|Mk IVは「Milesの事故原因を完全に解明して作った安全車」なのか
そうではない。Miles事故の直接原因は公開資料上確定していない。しかしFordは事故後、J-car全体を再設計し、空力、ロールケージ、シャシー、シートベルト、駆動系など複数領域を変更した。つまり一つの原因に一つの対策を当てたのではなく、未成熟だった車両システム全体の安全余裕と完成度を高めた、と捉える方が正確である。
J-carとMk IV|何を残し、何を変えたのか
| 項目 | 初期J-car | 1967年Mk IV |
|---|---|---|
| 基本思想 | 次世代軽量プロトタイプの実験 | 実験成果を24時間レースへ収束 |
| 主要構造 | 接着式アルミ・ハニカム | ハニカム・アルミを継承、接着+リベットを強化 |
| エンジン | 427 V8 | 427 V8を継承 |
| 空力 | 長く平坦な“Bread Van”系。開発課題あり | 風洞試験を重ねた大幅な新ボディ |
| トランスミッション | 実験的2速+トルクコンバーターを試験 | 4速マニュアル |
| ロールケージ | 後のMk IVほど強化されていない | 鋼管ロールケージを追加 |
| 乗員保持 | J-2事故後に再評価 | シートベルト等を強化 |
| 消火 | 試作段階 | 1967 Le Mans Ford勢に自動消火装置 |
| 実戦 | 1966年Le Mans本戦には出走せず | SebringとLe Mansで優勝 |
1967年4月1日|Mk IVはSebringで最初の実戦に出る
再設計されたMk IVが最初にレースへ出たのは1967年Sebring 12 Hoursだった。
使用されたのはJ-4。Fordの公式回顧によればBruce McLaren/Mario Andretti組がドライブし、Mk IVのデビュー戦で優勝した。[5]
Motor Sport誌の現地記事は、J-4のアルミ・ハニカム構造、FRPボディ、427 V8、4速マニュアルなどを詳しく紹介している。つまりSebringは「名前だけMk IVになった車」の初戦ではなく、J-carで試した複数技術を実戦仕様へ収束させた最初の確認だった。[2]
12時間の初戦を勝ったことは大きい。しかしFordの目的は変わっていない。最終目標はLe Mansだった。
1967年Le Mans|FordはMk IVだけに賭けなかった
前年FordはMk IIを1-2-3にした。しかし1967年も「新しいMk IVがあるからMk IIは不要」とは考えなかった。
Motor Sport誌の車両解説では、Fordは4台のMk IVに加えて3台のMk II系車両も用意した。さらにGT40系も参加している。新型へ完全一本化せず、実績ある車も残す構成だった。[3]
4台のMk IVは、Shelby AmericanとHolman & Moodyに2台ずつ分けられた。
| 車両 | チーム | ドライバー | 結果 |
|---|---|---|---|
| #1 J-5 | Shelby American | Dan Gurney / A.J. Foyt | 1位 |
| #2 J-6 | Shelby American | Bruce McLaren / Mark Donohue | 4位 |
| #3 J-7 | Holman & Moody | Mario Andretti / Lucien Bianchi | リタイア |
| #4 J-8 | Holman & Moody | Denny Hulme / Lloyd Ruby | リタイア |
ACO公式記録では、最終順位は#1 Ford Mk IVが1位、Ferrari 330 P4が2位と3位、#2 Ford Mk IVが4位だった。[7]
1966年のようなFord 1-2-3にはならない。しかし、Ferrariの最新P4を相手に新型Mk IVが優勝したことで、J-carから続いた技術開発は結果として成立した。
Dan Gurneyの戦略|「一番速く走れる場所」でも、あえて早くアクセルを戻した
1967年の#1 Mk IVは、単に500hp級の427 V8でFerrariを振り切ったわけではない。
Dan Gurneyは後年、Mk IV最大の弱点の一つが車重とブレーキ負荷だったと振り返っている。Mulsanne Straightで210mphを超える速度から急減速すれば、ブレーキを短時間で消耗させる。そこでGurneyは、通常よりかなり早くアクセルを戻し、空気抵抗で速度を落としてからブレーキを使う走り方を採った。[10]
これは遅く走るという意味ではない。
427 V8と低抵抗ボディによって、Mk IVは直線でFerrariより高い速度を出せた。その速度差の一部を「ブレーキを守る余裕」に変えたのである。直線終端まで全開にして最大制動する代わりに、早めにコースティングして熱入力を減らす。
耐久レースでは、この数秒の犠牲が24時間後に大きな利益になる。ブレーキ交換、故障、ピット時間を減らせるからだ。
第3回でGT40が学んだ「最高速があっても24時間持たなければ意味がない」という教訓が、1967年にはドライビングそのものへ組み込まれていた。
リアスポイラーも「最大ダウンフォース」にはしなかった
GurneyはMk IVのリアスポイラー高さも細かく調整したと回想している。狙いは、Mulsanneの高速区間を安定して通過できるだけのリアグリップを確保しながら、直線速度を落としすぎない位置を探すことだった。[10]
ここでも「安全のためダウンフォースを最大にする」という単純な解決にはならない。スポイラー角や高さを増やせば安定性は上げやすいが、空気抵抗も増える。Le Mansではその差が長い直線で大きな時間損失になる。
J-car時代に問題となった空力は、Mk IVでは「風洞で直した」で終わらず、実際のドライバーがコース上で最適値を詰める対象になっていた。
レース前半|#1は最初の90分を除いて先頭へ
The Henry Fordの記録では、Gurney/Foyt組の#1はレース最初の約90分を除き、ほぼ全行程で先頭を走った。[11]
A.J. FoytにとってLe Mansは初出場だった。一方Gurneyは何度もLe Mansを経験していた。Gurneyがセットアップとペース管理を主導し、Foytはその方針に合わせた。
Motor Sport誌の回顧では、2人は「速いが無理をしない」一定ペースを選んだとされる。FoytはGurneyにセットアップを任せ、Gurneyはブレーキと車体を温存する走りを徹底した。[10]
1966年のFordは大量のMk IIを高速で走らせ、最後に3台を残した。1967年の#1は、最初から「壊さない速度」を意識してレースを組み立てていた。
夜間|Ferrariに挑発されても競争しなかった
レース中、2位Ferrari 330 P4のMike ParkesがGurneyへ接近し、ライトでプレッシャーをかける場面があったとGurneyは後に回想している。
Gurneyはそこで無理な競争をしなかった。Arnage付近でいったん車を止め、Parkesが先へ行くのを待つような行動まで取ったとされる。[10]
このエピソードの面白さは「心理戦」そのものより、Fordの目標が明確だったことにある。ラップごとにFerrariを打ち負かす必要はない。24時間後に前へいればよい。
1964年のFordには速さはあったが、耐久戦としての完成度がなかった。1967年には車だけでなく、ドライバーの使い方まで耐久戦仕様になっていた。
J-7の大事故|事故後の安全変更が実戦で試される
1967年Le Mansでは、Miles事故後の安全対策が別の形で現実の事故に直面した。
Mario Andrettiの#3 J-7が大きな事故を起こし、その後に別のFord車も事故現場へ巻き込まれる展開になった。J-7は激しく損傷してリタイアした。[4]
Shelby American Collectionは、Andrettiが大きな負傷を免れた背景として、J-2事故以降に強化されたロールケージ、シャシー、シートベルトを挙げている。[4]
事故条件はMilesの事故と同じではないため、「Mk IVなら必ず助かった」といった比較はできない。それでも、事故後に追加された乗員保護構造が単なる設計図上の装備ではなく、実際のクラッシュで機能した例として重要である。
1967年6月11日|Ford Mk IV、Le Mans優勝
24時間後、#1 Ford Mk IVは先頭でフィニッシュした。
ACO公式記録では、1位はDan Gurney/A.J. Foyt、2位はLudovico Scarfiotti/Mike ParkesのFerrari 330 P4、3位もFerrari P4。Bruce McLaren/Mark Donohue組の#2 Mk IVが4位に入った。[7]
The Henry Fordによれば、Gurney/Foyt組は2位Ferrariに32マイル――約51km――の差をつけた。平均速度は135.48mph、約218km/h。これは当時のLe Mans記録だった。[6]
しかも#1 J-5は、この一戦のために作られ、The Henry Fordの車歴では競技出場は1967年Le Mansの一度だけ。その一戦を勝っている。[6]
FACT CHECK|1967年はFordが再び1-2-3だったのか
違う。ACO公式順位は1位Ford Mk IV、2位Ferrari 330 P4、3位Ferrari 330 P4、4位Ford Mk IVである。1966年のFord 1-2-3とは結果の形が異なる。1967年の価値は、新設計Mk IVがFerrariの新型P4を相手に優勝し、2年連続のFord総合勝利を達成したことにある。
「オールアメリカン」の意味|車もドライバーも米国
1967年の勝利は、Fordにとって別の象徴性も持っていた。
The Henry Fordは、#1 Mk IVを米国で設計・製造された車とし、米国人Dan GurneyとA.J. Foytがドライブしたことで、Le Mans初の「American car, built in the United States and driven by Americans」による勝利になったと説明している。[8]
初期GT40は、LolaやFord Advanced Vehiclesなど英国側の技術と製造基盤から始まった。そこからShelby American、Kar-Kraft、Ford Dearbornの開発比重が増え、J-car/Mk IVでは米国内での設計・製造が中心になった。
つまり1967年のMk IV勝利は、単にFerrariへもう一度勝っただけではない。GT40計画で欧州から始まったノウハウをFord自身の開発体系へ取り込み、米国で次世代車を作れるところまで来たことを象徴していた。
勝利後のシャンパン|もう一つ残った1967年の風景
優勝後、Dan Gurneyは表彰台でシャンパンのボトルを振り、人々へ噴きかけた。現在モータースポーツで一般的になった「シャンパンファイト」の起源として知られる場面である。The Henry Fordも、この即興の行動が後の表彰台文化につながったと紹介している。[12]
華やかな映像としては、CASE FILE 11を締めるのに適した場面に見える。
しかし、その10か月前にはMilesが同じ開発計画の試作車で死亡している。1967年の成功を「その犠牲のおかげ」と結びつける必要はない。事故で失われた命は開発費ではなく、勝利で帳消しになるものでもない。
技術史として見るなら、事故後に設計変更が行われ、その結果としてMk IVの完成度と乗員保護が高まった、とだけ記録するのが適切である。
Ken MilesはMk IVを知らなかったのか
Milesは1967年型Mk IVが完成し、SebringやLe Mansを走る姿を見ることはなかった。
しかしMk IVの土台になったJ-car開発には関わっている。J-carの軽量構造、高速テスト、車両評価は、Milesが生前に進めていた次世代Fordレーサー計画の一部だった。
だからといって、「Mk IVはMilesが作った車」とするのも正確ではない。事故後の再設計にはFord、Kar-Kraft、Shelby American、Holman & Moodyを含む多数の技術者とドライバーが関わり、Bruce McLaren、Mario Andretti、Dan Gurneyらがテストと実戦で仕上げている。
Milesの役割を過大評価しなくても、シリーズ全体の中で彼が担った位置は明確だ。初期GT40の問題を見つける段階から、Mk IIを勝てる車へする段階、さらに次世代J-carを試す段階まで、開発の連続線上にいた。
1964→1967|Fordが4年間で変えたもの
CASE FILE 11全体を車両側から振り返ると、Fordの変化は単なる馬力の増加ではなかった。
| 時期 | 車両 | 状態 | Fordが学んだこと |
|---|---|---|---|
| 1964 | 初期GT40 | 速いが空力・サスペンション・駆動系が未成熟 | 1周の速さと24時間の完成度は別 |
| 1965 | GT40 / 427 GT40X | Daytonaで勝てるまで改善するが、Le Mansでは再び全滅 | 性能向上は新しい故障モードを作る |
| 1966 | GT40 Mk II | 427、4速、ブレーキ、耐久性を収束 | 速度を残しながら故障を潰す |
| 1966 | J-car | ハニカム、新空力、新駆動系を実験 | 次世代技術には新しい未知が生まれる |
| 1967 | Ford Mk IV | J-car技術を実戦仕様へ再設計 | 新構造+安全+実績部品を統合する |
1964年のFordは、速い車を作ることから始めた。
1966年には、速い車を24時間壊さない方法を学んだ。
1967年には、さらに新しい材料と構造へ進みながら、未知の技術をどこまで残し、どこを実績ある部品へ戻すかを選べるようになっていた。
Mk IVの本当の成熟は、最高速度ではなく、この「選択」にある。
映画『フォードvsフェラーリ』のその先
映画『フォードvsフェラーリ』は、Ken Milesの死亡事故で物語をほぼ閉じる。人物ドラマとしては自然な終わり方である。
しかしFord GT40計画の技術史はそこで終わらない。
Milesの事故後、J-carは作り直され、1967年Sebringで初戦優勝し、Le Mansでも勝った。さらに規則変更によって7.0Lプロトタイプが使いにくくなると、FordのLe Mans勝利は再び旧来のGT40 Mk I系へ戻り、1968年、1969年にも続く。
つまり「Ferrariを倒すためにGT40を作り、1966年に勝って終わり」ではない。Fordのスポーツカー計画は、規則、事故、材料、空力、耐久性に応じて形を変え続けた。
映画の終点はKen Milesの人生の終点に近い。しかし技術の終点ではなかった。
まとめ|Mk IVは「事故の後継車」ではなく、4年間の失敗を統合した最終形だった
Ford Mk IVは、Ken Milesの死亡事故後にJ-carを大幅に再設計して生まれた。
J-carで採用したアルミ・ハニカム構造は残した。空力は作り直した。実験的トランスミッションは4速マニュアルへ戻した。鋼管ロールケージを追加し、シャシーとシートベルトを強化した。1967年Le MansのFord勢には自動消火装置も組み込まれた。
そしてMk IVはSebringで初戦優勝。Le MansではDan Gurney/A.J. Foyt組のJ-5が、2位Ferrariに32マイル差をつけて勝った。Fordは2年連続のLe Mans総合優勝を達成した。
ただし、この結果をMilesの事故と引き換えに得た勝利として描く必要はない。事故原因は今も一つに確定できず、技術変更も一項目ではない。Fordが行ったのは、事故とテストで見えた複数の弱点を、車両システム全体の再設計へ戻すことだった。
Ken Milesは1966年Le Mansの公式優勝者にはならなかった。1967年のMk IVにも乗らなかった。
それでもFordが1964年の「速いが壊れるGT40」から、1967年の「新構造で24時間を制するMk IV」まで進む過程には、Milesが繰り返したテスト、フィードバック、レース、そしてJ-car開発が含まれている。
CASE FILE 11で追ってきたのは、一人の悲劇的なレーサーだけではない。一台の車が勝てるようになるまで、失敗がどう記録され、次の設計へ戻され、さらに新しい失敗を生み、それをまた修正していったのかという開発の連鎖だった。
Ford GT40の1966年勝利は、その途中にある一つの頂点だった。
そしてFord Mk IVの1967年勝利は、その連鎖がKen Milesの死後も続いたことを示す、もう一つの到達点だった。
CASE FILE 11|全10回
- 第1回|ケン・マイルズとは何者だったのか|Ford GT40を勝てる車へ変えた開発ドライバー
- 第2回|FordはなぜFerrariへ挑んだのか|GT40計画が始まるまで
- 第3回|Ford GT40はなぜル・マンを勝てなかったのか|1964〜1965年の失敗とMk IIへの進化
- 第4回|ケン・マイルズはGT40開発で何をしたのか|テスト、空力、ブレーキ、耐久性
- 第5回|DaytonaとSebringを制した1966年|ケン・マイルズがル・マンへ近づいた2連勝
- 第6回|1966年ル・マン24時間で何が起きたのか|Ford GT40 1-2-3までの24時間
- 第7回|ケン・マイルズはなぜル・マンの公式勝者にならなかったのか|同時フィニッシュを検証する
- 第8回|Ford J-carとは何だったのか|GT40 Mk IIの先を狙った実験車
- 第9回|ケン・マイルズ死亡事故|1966年8月17日、RiversideのJ-car事故で何が分かっているのか
- 第10回|現在の記事:J-carからFord Mk IVへ|事故後の改良と1967年ル・マン優勝
出典・参考資料
-
The Henry Ford — Ford at Le Mans in 1967
初期J-carの空力課題、1966年8月17日のKen Miles事故、事故後にJ-carが徹底的に再設計されMark IVになったという基本的な技術系譜の確認に使用。 -
Motor Sport Magazine — Sebring 12-hours, May 1967
1967年Sebring時のMk IV J-4について、接着式アルミ・ハニカム構造、初期J-carより増えたリベット、FRPパネル、7.0L V8、実験的自動変速機から4速マニュアルへの変更などを確認するため使用。 -
Motor Sport Magazine — Le Mans: Notes on the cars, July 1967
1967年Le Mansにおける4台のMk IVとMk II系車両の構成、427 V8、4速トランスミッション、接着式ハニカム・アルミ構造、FRP前後パネル、Ford勢の自動消火装置を確認するため使用。 -
Shelby American Collection — 1967 Ford GT J-7 / Mk IV
J-1〜J-3からMk IVへの開発、Mk IV各車のシャシー番号とチーム分担、J-7の1967年Le Mans事故、J-2事故後に強化されたロールケージ・シャシー・シートベルトとAndrettiの生存についての車両履歴確認に使用。 -
Ford Media Center — Mario Andretti on the 1967 Sebring Mk IV victory
Ford Mk IVが1967年Sebringで実戦デビューし、Bruce McLaren/Mario Andretti組が優勝したことのFord公式確認に使用。 -
The Henry Ford — 1967 Ford Mark IV Race Car
Le Mans優勝車の427 V8、4速マニュアル、米国Dearbornでの製作、Gurney/Foytによる1967年Le Mans優勝、2位Ferrariへの32マイル差、平均135.48mphという記録の確認に使用。 -
Automobile Club de l’Ouest — 1967 Official Track Record
1967年Le Mans公式順位を確認。1位#1 Ford Mk IV Gurney/Foyt、2位#21 Ferrari 330 P4、3位#24 Ferrari 330 P4、4位#2 Ford Mk IV McLaren/Donohue。 -
The Henry Ford — Driven to Win: In the Winner’s Circle
Mk IVのアルミ・ハニカム構造、風洞試験によるボディ、427 V8、32マイル差と平均速度記録、米国で作られ米国人ドライバーが勝った最初のLe Mans勝利という歴史的位置づけの確認に使用。 -
Motor Sport Magazine — Gallery: 1967 Ford GT40 Mk IV
J-carからMk IVへの空力修正と鋼管ロールケージ追加についての後年技術整理を確認するため使用。 -
Motor Sport Magazine — Le Mans 1967: Gurney and Foyt win for Ford
Dan Gurney本人の後年回想を含む資料。Mk IVの重量とブレーキ負荷、Mulsanneで早めにアクセルを戻してブレーキを温存した走法、リアスポイラー調整、Foytとのペース戦略、レース展開の確認に使用。 -
The Henry Ford — Ford Mark IV Driven by A.J. Foyt and Dan Gurney at Le Mans, June 1967
#1 Mk IVが最初の約90分を除いて先頭を走り、Fordに2年連続のLe Mans勝利をもたらしたことの写真資料・収蔵記録として使用。 -
The Henry Ford — Racing Collection
1967年Le Mans勝利後、Dan Gurneyがシャンパンを振って周囲へ噴きかけ、その後の表彰台文化につながったという博物館側の記録を確認するため使用。
本記事は、The Henry Ford、Ford Motor Company、Automobile Club de l’Ouest(ACO)、Shelby American Collection、1967年当時および後年のMotor Sport誌資料を照合して構成しています。Ken Miles事故の直接原因は第9回と同様に未確定として扱い、「この部品が原因だったからMk IVで変更された」と逆算していません。事故後に確認できる変更として、空力再設計、鋼管ロールケージ、シャシー・シートベルト強化、実験的トランスミッションから4速マニュアルへの変更等を分離しています。また、1967年Le Mansの最終順位はACO公式記録を優先しています。