1966年6月19日午後4時。24時間を走り切ったFord GT40 Mk IIの2台が、雨のLe Mansでほぼ並んでフィニッシュした。#1はKen Miles/Denny Hulme、#2はBruce McLaren/Chris Amon。Fordが狙ったのは、長年追い続けたLe Mans初勝利を「2台同着」という写真で残すことだった。
しかし公式優勝は#2 McLaren/Amon組になった。#1 Miles/Hulme組は2位。DaytonaとSebringをすでに制していたMilesは、同じ年に3つの大耐久レースを勝つ可能性を失った。
この結末は後世、「FordがMilesから勝利を奪った」「ACOが最後にルールを変えた」「McLarenが最後にアクセルを踏んだから勝った」など、いくつもの形で語られてきた。ところが資料を並べると、単純な一つの物語にはならない。ACO、Ford、1966年当時のMotor Sport誌で、同着をめぐる経緯の説明には差がある。
それでも公式結果そのものは明確だ。ACOの現在の検証では、#2はフィニッシュラインでも#1より約0.5秒、距離にして約6m先におり、さらにスタート時には#1より14.28m後方から出発していた。したがって24時間で進んだ総距離は#2の方が約20m長く、公式優勝車はMcLaren/Amon組とされた。[1]
第7回では、「誰が本当の勝者だったのか」を感情で決めない。公式順位がどう決まったのか、Fordはなぜ2台を並べたのか、当時チームはルールを知っていたのか、そして“Ken Miles robbed”という後世の語り方をどこまで事実として扱えるのかを資料ごとに分けて検証する。
CASE FILE 11|ケン・マイルズとFord GT40特集(全10回)
この特集では、Ken Milesという一人の開発ドライバーを軸に、Ford GT40計画の成立、1964〜1965年の失敗、1966年Le Mans、そしてJ-car事故までを追う。第7回は、前回の24時間時系列から「最後の数分」だけを切り離し、公式記録と後世の物語がどこで分かれるのかを検証する回である。
- 第1回|ケン・マイルズとは何者だったのか|Ford GT40を勝てる車へ変えた開発ドライバー
- 第2回|FordはなぜFerrariへ挑んだのか|GT40計画が始まるまで
- 第3回|Ford GT40はなぜル・マンを勝てなかったのか|1964〜1965年の失敗とMk IIへの進化
- 第4回|ケン・マイルズはGT40開発で何をしたのか|テスト、空力、ブレーキ、耐久性
- 第5回|DaytonaとSebringを制した1966年|ケン・マイルズがル・マンへ近づいた2連勝
- 第6回|1966年ル・マン24時間で何が起きたのか|Ford GT40 1-2-3までの24時間
- 第7回|現在の記事:ケン・マイルズはなぜル・マンの公式勝者にならなかったのか|同時フィニッシュを検証する
- 第8回|Ford J-carとは何だったのか|GT40 Mk IIの先を狙った実験車
- 第9回|ケン・マイルズ死亡事故|1966年8月17日、RiversideのJ-car事故で何が分かっているのか
- 第10回|J-carからFord Mk IVへ|事故後の改良と1967年ル・マン優勝
この記事で分かること
- 1966年Le Mansの公式優勝車はどの車だったのか
- Fordがなぜ「同時フィニッシュ」を狙ったのか
- #1 Miles車と#2 McLaren車のスタート位置はどれだけ違ったのか
- ACOが現在説明する「約20m差」の内訳
- フィニッシュラインでは本当に完全同着だったのか
- Ford公式の回顧と1966年当時のMotor Sport誌で何が食い違うのか
- 「ACOが直前にルールを変更した」と断定できるのか
- 「McLarenが最後に抜いたから勝った」だけで説明できるのか
- Fordが隊列フィニッシュを命じなければMilesが勝っていたと言えるのか
- “Ken Miles robbed”という表現をどこまで事実として扱えるのか
先に結論|公式2位になった直接理由は「総走行距離」である
まず、現在確認できる公式的な結論から整理する。1966年Le Mansの優勝は#2 Bruce McLaren/Chris Amon組、2位は#1 Ken Miles/Denny Hulme組である。Shelby American Collectionに残るP/1015の車歴も、Miles/Hulme組のLe Mans結果を2位と記録している。[2]
ACOが2021年に公開した「Le Mans ’66: what really happened?」では、この順位をかなり具体的に説明している。ラップデータ上、フィニッシュラインでは#2が#1より約0.5秒先。距離に換算すると約6mだった。さらに#1はスターティンググリッド2番手、#2は4番手で、#2は#1より14.28m後ろからスタートしていた。[1]
24時間でどれだけの距離を進んだかを見るなら、後ろから出発して前でゴールした#2の方が長い。ACOは、約6mのフィニッシュ差と14.28mのスタート位置差を合わせ、#2が#1より「20mを少し超える」距離を走ったと説明している。[1]
したがって、Milesが公式優勝者にならなかった直接的な理由は、同じ周回数の2台について24時間の総走行距離を比較した結果、McLaren/Amon車の方が長かったためと整理できる。
そもそもFordはなぜ2台を並べたのか
問題の出発点は、Ford側が自然なレース結果をそのまま受け入れず、最後に「演出」を加えたことにある。
Ford公式史によれば、残り約2時間の段階でLeo BeebeとCarroll Shelbyがレース終盤の扱いを協議した。Fordは1-2-3を占めており、Ferrariは優勝争いから脱落していた。ここでMilesとMcLarenを最後まで競わせれば、一方が機械故障や接触を起こす可能性がある。Fordにとって重要なのは、初優勝そのものを確実にすることだった。[3]
同時に、3台のFordが並んでフィニッシュする写真は強い宣伝効果を持つ。長年Ferrariに敗れてきたFordが、Le Mansで表彰台を独占し、しかも車を隊列でゴールさせる。その映像は「Fordが完全に制した」ことを世界へ示す象徴になる。
ACOの現在の解説も、Ford経営陣が3台を揃えてフィニッシュさせるよう指示した理由を、印象的なFord勝利の写真を得るためだったと説明している。[1]
つまりMilesが勝利を失う原因になった最初の判断は、「ACOの順位計算」より前にある。Fordが自然な競争を止め、2台を意図的に近づけたことで、同着時の順位規則が結果を左右する状況を自ら作ったのである。
最終1時間|Milesは34秒前にいた
ACOの再検証では、最終1時間に入る時点で#1 Miles/Hulme組が#2 McLaren/Amon組より前にいた。Milesが347周目で車へ戻った時点では、#1は#2より34秒先行していたとされる。ただし#2はすでに給油を終え、もうピットインする必要がなかったため、単純な34秒差だけで最終順位を予測することはできない。[1]
その後の最終ピットサイクルで順位は動く。前回の記事で見たように、Fordは最終30分に2台を近づけ、3位のBucknum/Hutcherson車も後方から合流させた。Motor Sport誌の1966年7月号は、MilesがMcLarenを待ち、2台が静かに周回していたと報じている。[4]
この段階で重要なのは、「レースをしていた2台」が「Fordの指示に従って隊列を作る2台」へ変わったことである。ここから先の位置関係は、純粋な競争ペースだけで生まれたものではない。
スタート位置の差|#2は#1より14.28m後ろから出た
1966年のLe Mansは現在のローリングスタートではなく、ドライバーがコース反対側から自分の車へ走るル・マン式スタートだった。車両はピット前に斜めに並び、予選順位によってスタート位置そのものが異なっていた。
#1 Miles/Hulme車はグリッド2番手。#2 McLaren/Amon車は4番手。ACOの現代の解析では、2台のスタート位置の差は14.28mだった。つまりスタートした瞬間から、#2は#1より14.28m余計に走らなければ同じ地点へ到達できない。[1]
もし24時間後に2台が完全に同じ地点へ到達していたとしても、後方から出た#2の方が14.28m長い距離を走ったことになる。これが「写真上は同着でも、総走行距離は同じではない」という問題の中心である。
Motor Sport誌の1966年8月号も、この考え方を当時の規則と計時方式から説明している。同誌ではスタート位置の差を20mと報じているため、ACOの現代解析による14.28mとは数値に差がある。ただし、後方スタートのMcLaren車が、その差の分だけ長く走ったと扱われるという原理については一致している。[5]
FACT CHECK|スタート位置差は「8m」「14.28m」「20m」のどれが正しいのか
資料によって数字が異なる。Ford公式の2019年記事はMcLaren車が8m後方からスタートしたと記述している。1966年当時のMotor Sport誌は20mと報じた。一方、ACOがラップデータとグリッドを再検証した2021年の記事では14.28mとしている。本記事では、主催者による後年の具体的な再計測値である14.28mを中心値として使用し、資料差そのものを隠さない。重要なのは、数値の細部よりも「#2が#1より後方からスタートしていた」という一致点である。
フィニッシュでは完全同着だったのか|ACOは「#2が約0.5秒先」としている
もう一つ広く誤解されやすい点がある。「Fordの2台は完全に横一線でゴールし、スタート位置差だけでMcLarenが勝った」という説明である。
ACOの現在の解析は、ラップデータ上、フィニッシュラインで#2が#1より0.5秒先だったとしている。距離にすると約6m。複数角度の写真でも、#2が完全にラインを越えた時点で#1がまだ後方にいることが確認できると説明する。[1]
Motor Sport誌の1966年8月号も、「実際にはMcLaren車がMiles車より車1台分ほど前でラインを越えた」と書いている。ただし同誌は、24時間レースの公式計時は日曜16時時点で成立するため、その後の数秒における視覚的な前後差だけが順位を決めるわけではないとも説明している。[5]
したがって「完全な同着だった」と断定するのも正確ではない。Fordが狙ったのは同着に近い隊列フィニッシュだったが、実際のフィニッシュでは#2がわずかに前に出ていたとする資料が強い。
ではMcLarenが最後にアクセルを踏んだから勝ったのか
この点も単純化しない方がよい。後年の証言や写真から、McLaren車が最後に前へ出たように見えることは確かである。Motor Sport誌の後年記事では、Holman側はMcLarenが加速したと述べ、Chris Amonの回想でも2台がほぼ並んでフィニッシュしたと語られている。[6]
しかし公式順位を「最後にMcLarenがアクセルを踏んだから」の一因だけに還元すると、スタート位置の問題が消えてしまう。仮に写真上で完全横並びだったとしても、#2は後方からスタートしていたため、総走行距離では#2が長くなる。
逆に、#2が6m先でフィニッシュしたことだけで説明するのも不十分である。Fordが2台を人工的に接近させなければ、その6mという差が最後の勝敗を決める状況自体が生じなかった可能性が高い。
つまりMcLaren車の最後の位置は結果の一部だが、根本原因はFordの隊列フィニッシュ指示と、Le Mans独自の距離計算が組み合わさったことにある。
最大の資料差|ACOは途中で「ルールを変えた」のか
ここが最も慎重に扱うべき論点である。
Ford Motor Companyが2019年に公開した公式史では、残り2時間の段階でFord側がACOへ「同着は可能か」と問い合わせ、当初は可能との回答を得たと記している。その後、ACOから「同着は認められず、後方からスタートしたMcLaren車がより長い距離を走るため勝者になる」という回答が来た、と説明する。さらにFord記事は、1966年のスポーティングレギュレーションに同着時の扱いが明記されていなかったと述べている。[3]
一方、1966年8月のMotor Sport誌は異なる。記事は、24時間の距離計算方法と「デッドヒート」の扱いは規則に基づいており、Shelbyピットもスタート位置差を含むルールを知っていたはずだ、とかなり明確に書いている。[5]
さらにACOが2021年に公開した再検証でも、「同一周回で並んでフィニッシュした場合はスタート位置を考慮する」という規定があったとして説明している。[1]
3資料を並べると、「ACOがレース終了直前に新しいルールを作った」と事実として断定することはできない。 Ford公式の回顧には「当初の回答と後の回答が変わった」という説明があるが、当時の専門誌と現在のACOは、少なくともスタート位置を考慮する考え方が既存の規則・計時制度に含まれていたという立場である。
ここは「どちらかが嘘」と処理するより、組織内伝達の齟齬、問い合わせの表現、デッドヒートの定義、レース終了時点の距離計算についてFord側とACO側で理解が一致していなかった可能性を残す方が資料に忠実である。
Ford内部では何が起きていたのか|BeebeとShelbyの判断
Ford公式史では、ACOからMcLaren車が勝者になるという情報が戻った後、ドライバーへその変更を知らせるかどうかはLeo BeebeとCarroll Shelbyの判断になったとされる。そして最終的に、Milesへは知らせず、予定どおり隊列フィニッシュを行わせたという。[3]
Ford記事はさらに、Beebeが後にMcLaren/Amon組のチームプレーを評価し、MilesについてはDaytonaやSebringでチーム指示に従わなかった点も考慮したという趣旨の説明を残している。これはFord自身が後年まとめた社史上の説明であり、ACOの順位判定そのものとは分けて考える必要がある。
重要なのは、仮にFord側が「このまま並べればMilesが2位になる」と認識した時点があったのなら、それでも隊列フィニッシュを続けた判断はACOではなくFord側に属するということである。
その意味で、「MilesはACOだけに勝利を奪われた」という説明は成り立ちにくい。公式順位を決めたのはACOだが、その規則がMilesに不利な形で作用する状況を作ったのはFordの演出だった。
McLaren/Amon組は「棚ぼた」だったのか
これも避けたい単純化である。第6回で見た通り、McLaren/Amon組は序盤にタイヤ問題で大きく遅れたが、その後追い上げ、16時間目には首位へ立っていた。彼らは最後だけ現れて勝利を得たわけではない。
Chris Amonは後年、Firestoneタイヤのトレッド問題で遅れ、Goodyearへ変更した後、McLarenから「失うものはない」と言われて全力で追い上げたと回想している。日曜朝にはMiles/Hulme組を上回る時間帯もあった。[7]
したがってMcLaren/Amon組の公式優勝には、規則上の距離計算だけでなく、24時間を最後まで上位で走り続けた実績がある。Milesが隊列指示によって不利益を受けたという論点と、McLaren/Amon組が正当な競技参加者として勝利条件を満たしたという事実は両立する。
FACT CHECK|McLaren/Amonは「Fordのミスだけ」で勝ったのか
公式順位が隊列フィニッシュの影響を受けたことは事実だが、#2は24時間の大半を上位で戦い、序盤のタイヤ問題から追い上げて首位に立つ時間帯もあった。ACOの現代解析ではフィニッシュラインでも#2が約0.5秒先で、スタート位置まで含めた総距離も#1を上回った。したがって「何もしていない車がFordの事務的ミスで勝った」という説明は不正確である。
「Milesが本来なら勝っていた」はどこまで言えるのか
ここは事実と反実仮想を分ける必要がある。
確認できる事実として、最終1時間の一時点でMiles車はMcLaren車より前にいた。Fordが隊列フィニッシュを指示し、MilesがMcLarenを待ったことも当時報道に残る。したがって、Fordの指示がMilesの自然なレース運びを変えたことは強く支持される。
しかし「指示がなければMilesが確実に優勝していた」とまでは断定できない。McLaren/Amon車は最終給油のタイミングが異なり、残り周回での燃料、タイヤ、路面、ドライバーのペースも関係する。2台を最後まで自由に競わせた場合に、誰が先にゴールしたかは実際には観測できない。
つまり最も正確な言い方は、Fordの隊列フィニッシュ指示が、Milesが自力で勝敗を決める機会を失わせたということである。「本来の勝者がMilesだった」と断定するより、この表現の方が資料に忠実である。
「勝利を奪われた」という表現は使えるのか
一般向けの記事や映画評では、Milesが「勝利を奪われた」と表現されることが多い。その感覚が生まれる理由は理解できる。MilesはDaytona、Sebringを勝ち、GT40開発にも深く関わり、Le Mans終盤でも勝利圏内にいた。そして自分の意志ではなくFordの指示でMcLaren車を待った。
ただし資料ベースの記事では、「誰かが不正にMilesの勝利を盗んだ」という意味で使うべきではない。ACOの公式順位は距離計算に基づき、McLaren/Amon組は正式な優勝者である。規則そのものが後付けで作られたと断定できる根拠も一致していない。
本サイトでは、Milesが失ったものを「公式優勝そのもの」よりも、最後まで自由に競争して自分の結果を決める機会と捉える。それはFordの戦略・広報判断によって制限された。この整理なら、公式結果を否定せず、Miles側に残った不公平感も説明できる。
「耐久3冠」は公式タイトルではない
MilesがLe Mansを勝っていれば、1966年にDaytona 24 Hours、Sebring 12 Hours、Le Mans 24 Hoursの3つを同一年に制することになった。このため後世、「同一年の耐久3冠を逃した」と表現される。
ただし、第5回でも触れた通り、これは当時の公式選手権が授与する一つのタイトル名ではない。3つの主要耐久レースを同一年に勝つという実績を説明する便宜的な表現である。
Ford公式史は、MilesがLe Mansを勝っていればDaytona、Sebring、Le Mansを同一年に制した最初のドライバーになったと記している。[3]
この可能性が失われたことで、1966年のフィニッシュは単なる「1位と2位の入れ替わり」以上の意味を持つようになった。そしてMilesがわずか2か月後にJ-carのテスト事故で死亡したため、再挑戦の機会も永遠に失われた。それが後世の物語をさらに強くしている。
資料を並べると何が確定し、何が残るのか
この問題は、FACTと資料差を表にすると整理しやすい。
| 論点 | 確認できること | 評価 |
|---|---|---|
| 公式優勝 | #2 McLaren/Amon | FACT |
| Miles/Hulmeの順位 | #1、公式2位 | FACT |
| Fordの隊列指示 | 2台を近づけ、3台を揃えてフィニッシュさせる計画があった | FACT |
| MilesがMcLarenを待った | 1966年当時のMotor Sport誌が記録 | FACT |
| #2のスタート位置 | #1より後方 | FACT |
| スタート位置差 | ACO現代解析14.28m、Ford 8m、当時Motor Sport約20m | 資料差あり |
| フィニッシュ差 | ACO現代解析では#2が0.5秒・約6m先 | FACT(ACO解析) |
| ACOが途中で判断を変えたか | Ford公式回顧は「変わった」と説明。当時Motor Sportと現代ACOは既存規則を強調 | 資料間で不一致 |
| 指示がなければMilesが勝ったか | 実際には自由競争をしていないため検証不能 | 反実仮想 |
| McLarenが勝利を「盗んだ」か | そのような公式根拠なし | 支持できない |
この区別を守れば、ドラマ性を失わずに事実を整理できる。最も興味深いのは「誰かが悪意でMilesを負けさせた」という単純な筋書きではない。Fordが勝利を確実にし、宣伝効果も得ようとした結果、耐久レースの距離規則とぶつかり、最も重要なドライバーの一人が公式優勝を失ったという、組織判断の皮肉である。
なぜこのフィニッシュは60年近く語られ続けるのか
もしMilesが単純な機械故障で2位になっていたなら、1966年Le MansはFord初優勝の記録として今ほど複雑には語られなかっただろう。問題は、車が壊れたのではなく、人間が結果へ介入したことにある。
Fordの狙い自体には合理性がある。24時間の最後で2台を競わせ、接触や故障で初勝利を失う必要はない。3台を並べればFordの完全勝利を象徴する写真も残る。企業として見れば、リスクを下げつつ最大の宣伝効果を得る判断だった。
しかしドライバー側から見れば、勝敗を最後まで自分で決められない。特にMilesはその年すでにDaytonaとSebringを勝っており、GT40の開発にも深く関わっていた。だから同じ指示でも、彼が失うものはMcLarenより大きく見えた。
さらにMilesは8月17日、RiversideでFord J-carをテスト中に死亡する。翌年Le Mansへ戻って自分の優勝を取り直すことはできなかった。その後知識が、1966年の2位を「失われた最後の勝利」として強く見せている。
まとめ|Milesが失ったのは「ルール上の勝利」ではなく、最後まで競う機会だった
1966年Le Mansの公式優勝者はBruce McLaren/Chris Amonである。この結果を覆す一次・公式記録はない。ACOの現在の解析では、#2はフィニッシュで#1より約0.5秒、約6m前におり、さらに14.28m後方からスタートしていたため、24時間の総走行距離で20m余り上回った。
一方、Ken Milesが自らMcLarenを待ち、Fordの隊列フィニッシュ指示に従ったことも当時のレース報告で確認できる。Fordが自然な競争を続けさせていれば結果がどうなったかは分からないが、少なくともMilesが最後まで自分のペースで勝敗を決める機会は失われた。
最も注意すべきなのは「ACOが突然ルールを変えてMilesを負けさせた」という断定である。Ford公式の回顧は途中でACOの回答が変化したと説明する一方、1966年当時のMotor Sport誌と現在のACOは、スタート位置を含む距離計算が既存の規則・計時体系に基づいていたと説明している。資料は一致していない。
したがって、このフィニッシュを最も正確に表現するなら、Fordが演出した同時フィニッシュがLe Mansの距離規則と衝突し、その結果Miles/Hulme組は公式2位になった、となる。McLaren/Amonの勝利は公式かつ正当な記録であり、同時にMiles側に大きな不公平感が残ったことも否定する必要はない。
そしてFordの開発は、この勝利で終わらなかった。すでに次世代の実験車「J-car」が進んでいた。次回は、GT40 Mk IIの後継を目指し、軽量なアルミ・ハニカム構造と新しい空力思想を採用したFord J-carとは何だったのかを追う。
CASE FILE 11|全10回
- 第1回|ケン・マイルズとは何者だったのか|Ford GT40を勝てる車へ変えた開発ドライバー
- 第2回|FordはなぜFerrariへ挑んだのか|GT40計画が始まるまで
- 第3回|Ford GT40はなぜル・マンを勝てなかったのか|1964〜1965年の失敗とMk IIへの進化
- 第4回|ケン・マイルズはGT40開発で何をしたのか|テスト、空力、ブレーキ、耐久性
- 第5回|DaytonaとSebringを制した1966年|ケン・マイルズがル・マンへ近づいた2連勝
- 第6回|1966年ル・マン24時間で何が起きたのか|Ford GT40 1-2-3までの24時間
- 第7回|現在の記事:ケン・マイルズはなぜル・マンの公式勝者にならなかったのか|同時フィニッシュを検証する
- 第8回|Ford J-carとは何だったのか|GT40 Mk IIの先を狙った実験車
- 第9回|ケン・マイルズ死亡事故|1966年8月17日、RiversideのJ-car事故で何が分かっているのか
- 第10回|J-carからFord Mk IVへ|事故後の改良と1967年ル・マン優勝
出典・参考資料
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Automobile Club de l’Ouest — Le Mans ’66: what really happened?
ACOによる1966年フィニッシュの再検証。#2と#1のフィニッシュ差約0.5秒/約6m、スタート位置差14.28m、総距離で20m余りの差となる説明、Fordの隊列フィニッシュ指示、最終1時間の位置関係の確認に使用。 -
Shelby American Collection — 1966 Ford GT40 P/1015
Ken Miles/Denny HulmeがP/1015で1966年Le Mansに出走し、公式2位となった車歴の確認に使用。 -
Ford Motor Company — Ford vs. Ferrari: The Le Mans Committee – Victory in 1966
Leo Beebe/Carroll Shelbyによる終盤協議、ACOへの同着照会、Ford側が認識した回答変化、スタート位置差の説明、Milesへ順位条件を通知しなかったというFord側の回顧、Beebeの判断理由の確認に使用。ACO・当時報道と説明が一致しない点は本文で分離した。 -
Motor Sport Magazine — 1966 Le Mans 24 Hours race report
1966年7月号の当時レース報告。最終30分にMilesがMcLarenを待ち、Fordの事前計画によって2台が同着に近い形でフィニッシュしたこと、McLaren/Amon組が公式優勝となった当時の説明の確認に使用。 -
Motor Sport Magazine — ’66 Le Mans aftermath: Ford cars win – but which one?
1966年8月号の検証記事。24時間終了時点の距離計算、スタート位置差を考慮する考え方、McLaren車が後方スタート分だけ長く走ったという当時の説明、Shelby側も規則を知っていたはずだという当時誌の見解を確認するため使用。 -
Motor Sport Magazine — 1966: Ford’s first Le Mans win
50年後の関係者回顧。最終フィニッシュでMcLarenが前へ出たというHolman側の説明、Milesの反応などを補助的に確認するため使用。 -
Motor Sport Magazine — Lunch with Chris Amon
Chris Amon本人の後年回想。序盤のFirestoneタイヤ問題、Goodyearへの変更、McLarenとの追い上げ、Fordから同着指示が出たこと、Miles側の反応についての補助資料として使用。 -
Automobile Club de l’Ouest — Ford at Le Mans: the 1966 1-2-3
ACOによる2016年時点の公式回顧。Milesが先行していたところFordの指示でMcLaren車を待ったこと、#2が後方スタートのため総距離で勝者とされたという整理の確認に使用。
本記事は、Automobile Club de l’Ouest(ACO)の公式記録・後年のラップデータ再検証、Ford Motor Companyの公式社史、Shelby American Collection、1966年当時および後年のMotor Sport誌を照合して構成しています。特に「ACOが途中でルールを変えたか」「スタート位置差が何mだったか」について資料間に不一致があるため、一つの説明へ無理に統合していません。公式順位はACO記録を優先し、Ford側の回顧はFord内部の認識を示す資料として区別しています。また、Fordの隊列指示がなかった場合に誰が勝ったかは観測できない反実仮想であるため、Ken Milesを「確実な本来の勝者」とは断定していません。