現実世界のCASE FILE 現実世界のCASE FILE

富士でラウダはなぜ自らレースを降りたのか豪雨の日本GPと1ポイント差の王座

富士でラウダはなぜ自らレースを降りたのか|豪雨の日本GPと1ポイント差の王座

モータースポーツ事故

1976年10月24日。

富士スピードウェイ。

ニキ・ラウダは3ポイントのリードを持って、F1世界選手権の最終戦を迎えた。

相手はマクラーレンのジェームス・ハント。

予選ではハントが2番手、ラウダが3番手。

2人の前には、ロータスのマリオ・アンドレッティしかいなかった。

ところが決勝日の富士は、タイトル決定戦を普通のレースとして成立させること自体が問題になるほどの豪雨に包まれた。

コースには水がたまり、低い雲と霧で視界も悪化した。

ドライバーたちは開催について協議した。

1976年当時のレースレポートによれば、最終的には多数が「危険すぎる」と判断したにもかかわらず、主催側はレースを実施した。

ラウダもスタートした。

しかし2周を走ったところでピットへ戻った。

Ferrari 312T2から降り、その日のレースを自ら終えた。

ハントは走り続けた。

そして3位。

最終ポイントはハント69、ラウダ68。

世界王座は1ポイント差でハントのものになった。

このため富士の決断は、しばしば

「ニュルブルクリンク事故の恐怖に負けて、ラウダが世界王座を捨てた」

と説明される。

しかし資料を追うと、それだけでは足りない。

ラウダ本人は後年、事故の後遺症ではなく、単純にコンディションが危険だったから止めたと説明している。

一方、Formula 1公式の回顧には、ニュルブルクリンクで傷ついたまぶたがまだ完全には回復しておらず、豪雨の中で視界確保がさらに難しかったという説明もある。

今回は、この二つを無理に一つへまとめない。

この記事で分かること

  • 最終戦直前、ラウダとハントは何ポイント差だったのか
  • 富士の決勝日はどれほど悪い天候だったのか
  • ラウダだけが開催反対だったのか
  • ドライバー側の協議と主催側の開催判断はどうなっていたのか
  • ラウダは何周でレースをやめたのか
  • 本人は撤退理由をどのように説明したのか
  • 「事故後のまぶたが視界を妨げた」という説明をどう扱うべきか
  • なぜハントはラウダ撤退後も簡単には王者になれなかったのか
  • 1976年世界選手権が1ポイント差で終わるまで

CASE FILE 42

ニキ・ラウダと1976年ニュルブルクリンク事故特集(全10回)

  1. ニキ・ラウダはなぜ42日後にF1へ戻れたのか|1976年ニュルブルクリンク事故の全体像
  2. 事故前のニキ・ラウダはどれほど強かったのか|1976年F1、王者が築いていたリード
  3. なぜラウダはニュルブルクリンク開催に反対したのか|22.835kmの北コースと安全問題
  4. 1976年8月1日、ラウダに何が起きたのか|事故の時系列と「原因不明」の境界
  5. 炎上したフェラーリから誰がラウダを救ったのか|4人のドライバーによる救出
  6. ラウダの負傷はなぜ命に関わったのか|火傷、煙、肺損傷と生還までの治療
  7. 42日後、なぜラウダはモンツァに戻ったのか|1976年イタリアGP、復帰戦4位
  8. 富士でラウダはなぜ自らレースを降りたのか|豪雨の日本GPと1ポイント差の王座
    【現在の記事】
  9. ラウダの事故でニュルブルクリンクからF1は消えたのか|50年後の公式資料で検証
  10. 映画『ラッシュ』は1976年をどう描き替えたのか|ニキ・ラウダとジェームス・ハント、史実と演出

先に結論|ラウダは「王座を諦めた」のではなく、「この条件では走らない」と決めた

Formula 1公式Hall of Fameは、富士でのラウダについて簡潔に記録している。

豪雨の中、ラウダはレースを続けるには危険すぎると判断し、自ら撤退した。

結果としてハントが世界王者になった。

重要なのは、ラウダがマシントラブルで止まったわけではないことである。

Formula 1公式結果では、ラウダは2周でリタイア。

その判断によって、自分が世界王座を失う可能性があることも理解していた。

FACT

ラウダは世界選手権を3ポイントリードして富士へ入った。

FACT

決勝は豪雨・低視界のコンディションで開始された。

FACT

ラウダは第2周でピットへ入り、自らレースを終了した。

したがって富士の核心は、

「世界王座を取るためなら、どこまでリスクを受け入れるのか」

という判断にある。

最終戦直前|ラウダ68点、ハント65点

ニュルブルクリンク事故後、ハントは急速にポイント差を縮めていた。

ラウダはモンツァで4位。

カナダでは8位。

アメリカ東GPでは3位。

一方ハントは、カナダとアメリカ東を連勝した。

その結果、富士へ到着した時点でポイントは、

順位 ドライバー ポイント
1 ニキ・ラウダ 68
2 ジェームス・ハント 65

わずか3ポイント差。

Formula 1公式は、ハントがタイトルを取るには3位に入る必要があるという状況として富士を回顧している。

1976年の長いシーズンは、最後の1レースへ集約された。

予選|ハント2番手、ラウダ3番手

予選最速はロータスのマリオ・アンドレッティ。

Formula 1公式記録では、

順位 ドライバー タイム
1 マリオ・アンドレッティ 1:12.770
2 ジェームス・ハント 1:12.800
3 ニキ・ラウダ 1:13.080
4 ジョン・ワトソン 1:13.290

だった。

アンドレッティとハントの差は0.030秒。

ラウダもトップから0.310秒。

少なくともドライコンディションの予選では、ラウダがニュルブルクリンク事故の影響で競争できない速度まで落ちていたわけではない。

問題は日曜日だった。

10月24日|富士は豪雨と低い雲に覆われた

予選までとは状況が一変した。

1976年当時の『Motor Sport』誌のレースレポートでは、日曜日は激しい雨と低い雲に覆われ、富士山も完全に見えなくなったと記録されている。

コース上には大量の水がたまった。

さらに霧や低い雲が断続的に現れ、視界が大幅に制限された。

問題は単に「雨で滑りやすい」ことではない。

前のF1マシンが大量の水を跳ね上げれば、後続車にはさらに大きな水煙がかかる。

高速で走りながら、前方の車両、コース、ブレーキングポイントを認識しなければならない。

1976年の富士では、そこまで含めて開催可否が問題となった。

「ラウダだけが中止したがっていた」わけではない

ここは重要である。

富士での撤退を事故の恐怖だけで説明すると、ラウダ一人だけが雨を怖がっていたように見える。

しかし当時資料は違う状況を示している。

『Motor Sport』誌の1976年レースレポートによれば、ウォームアップ後から開催の是非をめぐる議論が続いた。

雨でも速いドライバーの中には走りたい者がいた。

一方で、ハント、ラウダ、エマーソン・フィッティパルディなどは危険が大きすぎると考えていた。

つまりタイトル争いでラウダを追っていたハント自身も、最初から「何が何でも走れ」という立場だったわけではない。

後年のMcLaren関係者の回想でも、ハントとラウダの両者がレースを実施しない方向で動いていたことが語られている。

FACT

ラウダ以外にも開催へ反対・慎重だったドライバーがいた。

FACT

タイトルを追うハントも、危険なコンディションについて中止を求める側にいた。

注意

すべてのドライバーが同意していたわけではない。雨でも開催可能と考えるドライバーもいた。

ドライバー側では「危険すぎる」という判断が多数になった

当時のレースレポートでは、議論のあと追加の走行時間が設けられ、ドライバーが実際のコンディションを再確認した。

その後に行われたドライバー会議では、かなりの多数がコースを危険すぎると判断したと記録されている。

それでも、主催側はレースを行う方向へ進んだ。

ここには1970年代F1特有の構造がある。

ドライバー。

チーム。

主催者。

競技運営。

テレビ放送。

現地に集まった観客。

それぞれが別の利害を持っていた。

「ドライバーが危険と言えば自動的に中止」という現在的な単純構造ではなかった。

スタートは予定より大幅に遅れた

協議が続いたことで、スタートは当初予定から大きく遅れた。

後年のラウダの回想では、午後4時ごろ、テレビ中継や日没までの時間も背景にレース実施が告げられたとしている。

当時の『Motor Sport』誌でも、スタート予定時刻を過ぎて長時間にわたり協議が続いたことが確認できる。

最終的に車両はグリッドへ向かった。

レースが始まった。

しかし天候が十分に回復したわけではなかった。

スタート|ハントが先頭へ、巨大な水煙が上がった

スタートすると、2番手のハントが前へ出た。

『Motor Sport』誌は、車列が第1コーナーへ向かう際、マシンが巨大な水煙に包まれたと記録している。

ハントは先頭を走るため、後続車ほど前方車両のスプレーを受けない。

後ろへ行くほど視界条件は厳しくなる。

ラウダは1周目を走った。

しかし前方視界を含むコンディションを受け入れられないと判断した。

第2周|ラウダはピットへ戻った

Formula 1公式結果では、ラウダの周回数は2。

2026年のFormula 1公式回顧も、第2周にピットへ戻りリタイアしたと記録している。

機械的トラブルによって止まったわけではない。

本人が決めた。

Ferrari 312T2から降りた。

その瞬間、世界選手権はラウダ自身の手だけでは決められなくなった。

3ポイントリードで最終戦

豪雨・低視界

開催可否をドライバー間で協議

レース実施

ラウダもスタート

2周でピットへ戻る

自らリタイア

ラウダ本人は「事故の後遺症が理由ではない」と語った

富士の決断について、後世ではニュルブルクリンク事故との因果が強く語られる。

しかしラウダ本人の後年証言は明確だった。

『Motor Sport』誌が紹介する本人の回想では、事故の後遺症とは関係なく、コース状態が危険だったから止めたという趣旨を述べている。

さらに、しばらくすると雨が弱まり、そのまま走っていれば必要なポイントを取れた可能性が高かったことも認めている。

それでも、自分にとっては正しい判断だったという。

この証言を採るなら、

「ニュルブルクリンク事故の恐怖で走れなくなった」

という一文だけでは本人の説明と一致しない。

一方、Formula 1公式は「傷んだまぶた」にも触れている

ただし、ここで別の公式資料がある。

Formula 1公式のラウダ追悼記事では、富士について、ニュルブルクリンク事故で傷ついたまぶたがまだ十分に回復しておらず、豪雨の中で視界を確保しにくかったことが撤退判断の背景として説明されている。

またモンツァ復帰記事でも、事故後にまぶたの損傷が残っていたことが確認できる。

つまり資料には二つの表現が存在する。

資料 説明 扱い
ラウダ本人の後年証言 事故後遺症ではなく、条件そのものが危険だった TESTIMONY
Formula 1公式追悼記事 事故で傷ついたまぶたにより豪雨下の視界確保が難しかった OFFICIAL RETROSPECTIVE

この二つを無理にどちらか一方だけ正しいとする必要はない。

ラウダ本人が主観的な決断理由として「条件そのもの」を挙げたことと、身体的にはまぶたの傷が残っていたことは両立し得る。

ただし、

「まぶたの傷だけが原因だった」

とも、

「身体状態は一切関係なかったことが医学的に証明されている」

とも断定できない。

「怖くなったから降りた」はどこまで正しいのか

恐怖が全くなかったと証明することもできない。

ラウダはモンツァ復帰初日の雨で、事故後の恐怖を自覚したことを本人が認めている。

つまりニュルブルクリンク事故の記憶が消えていたわけではない。

しかし富士について本人は、事故の後遺症だけを撤退理由とはしていない。

さらに重要なのは、同じ雨を見てハントやフィッティパルディらも開催に反対していたことである。

そのため、

「ラウダだけが事故を怖がっていたので降りた」

という構図は資料に合わない。

他にも自らレースをやめたドライバーがいた

ラウダだけが数周で撤退したわけでもない。

Formula 1公式結果では、

  • ラリー・パーキンス:1周
  • ニキ・ラウダ:2周
  • カルロス・パーチェ:7周
  • エマーソン・フィッティパルディ:9周

などが早い段階でレースを終えている。

それぞれのリタイア理由は同一ではないため、「全員が抗議撤退した」とまとめることはできない。

ただしラウダだけが極端に異常な天候認識をしていた、という見方には注意が必要になる。

Ferrariは「故障だったことにする」と提案したのか

この話も富士の有名なエピソードである。

後年の『Motor Sport』誌によるラウダの回想では、Ferrari側が彼の立場を守るため、機械的故障を理由にしたことにしてはどうかと提案したとされる。

しかしラウダは拒否した。

条件が危険だから自分で止めた、と説明した。

これはラウダ本人の後年証言をもとにした記録であり、Formula 1公式レース結果が示す事実ではない。

したがって本記事ではTESTIMONYとして扱う。

ただ、この証言が事実なら、ラウダの判断基準を理解するうえでは興味深い。

「マシンが壊れたから仕方なく止まった」と装えば、批判を避けることはできた。

それを選ばず、自分自身で止めたと表明したことになるからである。

ラウダが降りても、ハントの王座はまだ決まっていなかった

ラウダがピットへ入った時点で、ハントが自動的に世界王者になったわけではない。

ハント自身が必要な結果を出さなければならなかった。

Formula 1公式は、ハントに必要だった順位を3位としている。

序盤、ハントはレースをリードした。

しかしその後、雨は弱まり、路面が乾き始めた。

今度はウェットタイヤをどこまで持たせるかが問題になる。

深い溝を持つ雨用タイヤは、乾いた路面で使い続ければ温度が上がり、急速に消耗する。

1976年には現在のようなチーム無線もない。

McLarenはピットボードなどを使ってタイヤを水の残る場所で冷やすよう伝えた。

ハントは走り続けた。

終盤、ハントはタイヤトラブルでピットへ入った

レース終盤、ハントのタイトルも危機に入る。

Formula 1公式の回顧では、タイヤのパンクによってピットストップを余儀なくされたとされる。

順位を落とした。

ラウダはすでにレースを終えている。

しかしハントが必要な順位まで戻れなければ、ポイント上はラウダが王者として残る可能性がある。

ハントはそこから追い上げた。

そして3位まで戻る。

優勝したのはハントではなかった

1976年日本GPの優勝者は、マリオ・アンドレッティである。

Formula 1公式結果は次のとおり。

順位 ドライバー マシン 獲得点
1 マリオ・アンドレッティ Lotus Ford 9
2 パトリック・デパイユ Tyrrell Ford 6
3 ジェームス・ハント McLaren Ford 4
4 アラン・ジョーンズ Surtees Ford 3
5 クレイ・レガツォーニ Ferrari 2

ハントは優勝しなくてもよかった。

必要な3位を取った。

これで4ポイントを追加した。

最終結果|69対68

James Hunt

69
WORLD CHAMPION

1 POINT

Niki Lauda

68
2nd

1976年世界選手権は、ジェームス・ハント69ポイント。

ニキ・ラウダ68ポイント。

差は1ポイントだった。

ニュルブルクリンク事故前にはラウダが大きく先行していたシーズンが、最後は1ポイント差まで縮まった。

「あと数十分走っていればラウダが王者だった」は結果論である

後年のラウダ本人も、レース開始後しばらくすると雨が弱まり、そのまま走っていれば必要なポイントを取ることは難しくなかったかもしれないと認めている。

結果だけを見れば、撤退は失敗した判断に見える。

しかし判断を評価する場合、その後に起きたことを判断時点へ逆輸入してはいけない。

ラウダがFerrariから降りた時点では、

  • このあと雨がどの程度弱まるか
  • 視界がどこまで改善するか
  • レースが最後まで成立するか
  • 事故なく走り切れるか

は確定していなかった。

ラウダが判断したのは、「後に晴れることが分かった路面」ではない。

その時点で目の前にあった豪雨の富士である。

ニュルブルクリンクと富士は矛盾しているのか

1976年のラウダには、一見すると矛盾する二つの行動がある。

ニュルブルクリンクでは、事故から42日後にF1へ戻った。

富士では、世界王座が懸かっているのに2周で降りた。

「怖い人」なら42日で戻らない。

「何があっても走る人」なら富士で降りない。

どちらのイメージにも完全には当てはまらない。

しかし第3回から追ってきたラウダの判断方法で見ると、一貫性がある。

場面 ラウダの判断
1976年ニュルブルクリンク開催前 北コースでF1を開催する安全性に反対
開催決定後 多数決を受け入れ、自分もレースへ出る
事故後42日 走れると判断してモンツァへ復帰
富士の豪雨 受け入れられる条件ではないと判断して自ら撤退

共通しているのは、常に安全側へ逃げたことではない。

また常に勇敢さを証明しようとしたことでもない。

自分が許容できるリスクかどうかを、自分で判断している。

それが1976年のラウダを通して見える線である。

「臆病者」という評価も実際に存在した

Formula 1公式Hall of Fameは、富士での撤退後、一部ではラウダを臆病者と批判する声が出たことを記録している。

エンツォ・フェラーリとの関係にも影響を残した。

一方でハントは、ラウダの撤退を勇気ある行動として評価したとFormula 1公式は伝えている。

同じ決断が、

「王座を捨てた臆病な行動」

にも、

「死ぬ必要のない条件で走らない勇気」

にも見えた。

どちらを採るかは価値判断を含む。

本シリーズでは、ラウダを英雄化するために後者だけを採用することもしない。

確認できるのは、彼が条件を危険と判断して撤退し、その結果として1ポイント差で世界王座を失ったことまでである。

ハントとラウダは「勇気」の意味が違っただけなのかもしれない

このレースで興味深いのは、ハントも当初は開催に反対していたことである。

それでもレースが始まると走り続けた。

ラウダは始まったあと、自分の判断で降りた。

つまり二人の違いを、

「勇敢なハント」と「怖がったラウダ」

という単純な対立にすることもできない。

スタート前には両者ともコンディションを問題視していた。

最終的に、どこまで受け入れるかの判断が分かれた。

地図|1976年タイトル決定戦の舞台、富士スピードウェイ

富士スピードウェイは静岡県小山町にある。

1976年日本GPは、日本国内で初めて開催されたF1世界選手権グランプリだった。

現在の富士スピードウェイは大規模な改修を受けており、1976年当時のレイアウトとは異なる。

現在の富士スピードウェイの位置確認用。1976年日本GP当時とはコースレイアウト、安全設備、施設構造が大きく変更されている。


Googleマップで大きく見る

1976年10月24日を時系列で整理する

段階 出来事 確度
決勝朝 富士は豪雨・低い雲・悪視界 FACT
開催前 ドライバー間で開催可否を協議 FACT
協議 ハント、ラウダらも安全性に懸念 FACT
スタート 主催側がレース実施 FACT
第2周 ラウダがピットへ入り自主リタイア FACT
撤退理由 本人は「条件が危険だった」と説明 TESTIMONY
身体状態 F1公式は事故で傷んだまぶたと視界にも言及 OFFICIAL RETROSPECTIVE
終盤 ハントがタイヤ問題でピット後、3位へ回復 FACT
結果 Andretti 1位、Hunt 3位 FACT
選手権 Hunt 69 / Lauda 68 FACT

富士での決断は、1976年のラウダを最もよく表している

ニュルブルクリンク事故は、ラウダの身体を変えた。

モンツァ復帰は、その身体でも走れることを示した。

しかし富士は別のことを示している。

走れることと、走るべきだと判断することは同じではない。

世界選手権が懸かっている。

あと一戦。

あと数十周。

それでも、自分が受け入れられない条件なら止める。

そして結果については自分で引き受ける。

ハントは走り続け、世界王者となった。

ラウダは降り、1ポイント差で敗れた。

この結果を変えることはできない。

しかし富士を「恐怖に負けたレース」とだけ表現すると、事故前から続いていたラウダの安全観や、同じ天候を問題視していた他のドライバーの存在が消えてしまう。

1976年のラウダは、危険を避け続けた人物ではない。

炎上事故から42日後にF1へ戻った人物である。

同時に、世界王座を失ってでも、自分の基準を超えた危険では走らなかった人物でもある。

次回|ラウダ事故が起きたから、F1は北コースを捨てたのか

1976年ドイツGPは、F1世界選手権がニュルブルクリンク・ノルドシュライフェで開催された最後のレースとなった。

そのため、現在でも

「ラウダの大事故を受けて、F1はニュルブルクリンク北コースを使用禁止にした」

という説明を見かける。

しかし安全問題は1976年事故より前から存在していた。

1970年にはすでにF1がニュルブルクリンクでの開催を拒否している。

1970〜71年には大規模改修も行われた。

そして1976年事故後も、「その日のうちに永久撤退が決まった」わけではない。

次回はニュルブルクリンクが2026年に公開した事故50周年公式資料を中心に、

「ラウダ事故=北コースF1終了」

という広く知られた説明を時系列から検証する。

前の記事:
42日後、なぜラウダはモンツァに戻ったのか|1976年イタリアGP、復帰戦4位

次の記事:
ラウダの事故でニュルブルクリンクからF1は消えたのか|50年後の公式資料で検証

CASE FILE 42

ニキ・ラウダと1976年ニュルブルクリンク事故特集(全10回)

  1. ニキ・ラウダはなぜ42日後にF1へ戻れたのか|1976年ニュルブルクリンク事故の全体像
  2. 事故前のニキ・ラウダはどれほど強かったのか|1976年F1、王者が築いていたリード
  3. なぜラウダはニュルブルクリンク開催に反対したのか|22.835kmの北コースと安全問題
  4. 1976年8月1日、ラウダに何が起きたのか|事故の時系列と「原因不明」の境界
  5. 炎上したフェラーリから誰がラウダを救ったのか|4人のドライバーによる救出
  6. ラウダの負傷はなぜ命に関わったのか|火傷、煙、肺損傷と生還までの治療
  7. 42日後、なぜラウダはモンツァに戻ったのか|1976年イタリアGP、復帰戦4位
  8. 富士でラウダはなぜ自らレースを降りたのか|豪雨の日本GPと1ポイント差の王座
    【現在の記事】
  9. ラウダの事故でニュルブルクリンクからF1は消えたのか|50年後の公式資料で検証
  10. 映画『ラッシュ』は1976年をどう描き替えたのか|ニキ・ラウダとジェームス・ハント、史実と演出

今回出てきた言葉

富士スピードウェイ
静岡県小山町にあるレーシングサーキット。1976年10月24日、日本初のF1世界選手権グランプリが開催され、ラウダとハントの世界王座決定戦となった。
マリオ・アンドレッティ
アメリカのレーシングドライバー。1976年日本GPでポールポジションを獲得し、決勝も優勝した。
エマーソン・フィッティパルディ
1972年・1974年F1世界王者。1976年富士ではラウダやハントとともに豪雨のコンディションへ懸念を示したドライバーの一人。
スプレー
ウェット路面を走るレーシングカーのタイヤが後方へ巻き上げる大量の水しぶき。強い雨では後続車の前方視界を著しく低下させる。
ウェットタイヤ
雨天用の溝を持つレーシングタイヤ。乾燥路面では温度が上がりやすく、溝のブロックも摩耗するため、路面が乾き始めると管理が必要になる。

出典・参考資料

  • Formula 1公式|1976 Japanese Grand Prix Race Result ― Andretti優勝、Hunt 3位、Lauda 2周リタイア
  • Formula 1公式|1976 Japanese Grand Prix Starting Grid ― Andretti、Hunt、Laudaの予選上位3台
  • Formula 1公式|1976 Drivers’ Standings ― Hunt 69点、Lauda 68点
  • Formula 1公式|1976年シーズン50周年記事 ― 富士の豪雨、開催中止を求めたドライバー、Laudaの第2周撤退、Huntの3位とタイトル獲得
  • Formula 1公式|Niki Lauda: An F1 legend remembered ― 富士での撤退、治癒途中のまぶたと視界、Huntによる評価
  • Formula 1公式|Moments in time – the Japanese Grand Prix ― Lauda 3ポイントリードからの富士決戦
  • Motor Sport Magazine|1976 Japanese Grand Prix race report ― 豪雨・低い雲、開催可否をめぐるドライバー会議、レース開始時の状況
  • Motor Sport Magazine|Hunt and Lauda at Fuji, 1976 ― HuntとLaudaの開催中止への動き、富士決戦の回顧
  • Motor Sport Magazine|1976 Japanese GP retrospective ― Lauda本人による撤退理由の後年証言

※Formula 1公式結果ではLaudaは2周でリタイアしています。後年記事には「opening lap後に撤退」など表現差もありますが、本記事では公式レース結果および2026年F1公式記事に合わせ、「第2周にピットへ入り、2周でリタイア」としました。

※撤退理由には資料差があります。Lauda本人の後年証言は「事故の後遺症ではなく条件が危険だった」としています。一方Formula 1公式追悼記事は、Nürburgring事故で傷ついたまぶたが豪雨下の視界へ影響したとも説明しています。本記事では双方を併記し、一方を消して断定していません。

※「Ferrariが機械的故障を理由にするよう提案した」という話はMotor Sport Magazineが紹介するLauda本人の後年証言を根拠としており、公式レース記録で独立確認できる事項ではありません。そのためTESTIMONYとして分離しています。

※レース開催判断については1976年当時のMotor Sport Magazineレースレポートを重要資料としています。同誌はドライバー会議でかなりの多数が危険すぎると判断したと記録していますが、これは現在のFIA公式議事録ではないため、投票人数や法的権限までは補完していません。