1915年(大正4年)12月10日夜。前日に太田家を襲ったヒグマは、まだ六線沢から離れていませんでした。
その日の朝、捜索隊は太田家の近くで大型のヒグマと遭遇し、行方不明だった阿部マユさんを発見しています。夜になると、太田家ではマユさんと蓮見幹雄さんの通夜が行われました。参列者は9人。多くの住民は「熊は獲物の近くから離れない」と警戒し、太田家へ近づくこと自体を恐れていました。
そして通夜の終わりごろ、ヒグマは再び太田家へ侵入します。参列者は逃れ、発砲によってヒグマはいったん屋外へ出ました。しかし、そこで事件は終わりませんでした。
ヒグマは太田家から500mも離れていない明景安太郎家へ向かいます。そこには明景家の家族に加え、避難してきた斉藤家の母子と、太田家の寄宿人・長松要吉がいました。大人と子どもを合わせて10人が一つの家に集まっていたのです。
木村盛武の聞き取り記録では、太田家への再侵入から明景家襲撃まで、わずか十数分。午後8時50分ごろ、家の中へヒグマが侵入し、その後約1時間にわたって救援隊は屋内へ容易に踏み込めない状況に置かれました。
第5回では、三毛別羆事件で被害が最大化した12月10日夜を、犠牲者の苦痛を再現するのではなく、人がどこに集まり、なぜそこを安全だと考え、ヒグマと救援隊がどのように動いたのかという時系列と位置関係から追います。
この記事で分かること
- なぜ太田家で通夜が行われたのか
- ヒグマはなぜ再び太田家へ現れたと考えられているのか
- 明景家には誰が、なぜ集まっていたのか
- 太田家と明景家はどの程度離れていたのか
- 「火を焚いていれば安全」という認識がどう記録されているのか
- 明景家襲撃が始まった時刻と、その確度
- なぜ50人以上の救援側がすぐ屋内へ入れなかったのか
- 12月10日深夜、なぜ六線沢から集団避難することになったのか
CASE FILE 10|三毛別羆事件特集(全9回)
この特集では、事件全体の概要、六線沢の地理と開拓生活、襲撃前の兆候、太田家と明景家で起きたこと、討伐隊の苦戦、山本兵吉による最後の追跡、ヒグマの行動分析、事件が後世へ伝わるまでを9本の記事で整理します。
12月10日夜、太田家では通夜が行われた
12月10日の昼、六線沢では翌日以降の避難を考える動きがすでに始まっていました。しかしその一方、太田家ではマユさんと幹雄さんを弔うための通夜が営まれます。木村盛武の記録によれば、参列したのは力昼から来た幹雄さんの両親と知人、六線沢や三毛別から加わった住民など、合わせて9人でした。
人数が少なかったのには理由があります。木村は、開拓民の間に「熊は獲物があるうちはその近くから離れない」という認識があり、太田家へ近づくこと自体を恐れた人が多かったと記しています。前日の襲撃に加え、この日の朝にも捜索隊が太田家から約150mの地点でヒグマと遭遇していました。
つまり12月10日夜の太田家は、「事件が終わった場所」ではありませんでした。ヒグマが周辺に残っている可能性を住民自身が意識しながら、それでも死者を弔う必要があった場所です。
夕方までヒグマを追っていた猟師の谷喜八も太田家へ立ち寄りました。木村の記録では、谷はその夜に再び熊が現れる可能性を口にしています。これを「未来を予言した」ように扱う必要はありません。むしろ、経験のある猟師が、ヒグマがまだ周辺から離れていないと考えていたことを示す証言として読む方が適切です。
通夜の終わりに、ヒグマは再び太田家へ入った
通夜が終わりに近づいたころ、大きな物音とともにヒグマが太田家へ侵入しました。木村の再構成では、寝間側の壁を破って入ったとされています。突然ランプが消え、狭い家の中は混乱状態になりました。
前日のように家の中に少人数しかいなかったわけではありません。今回は9人が集まり、近隣にも救援側の人々がいました。それでも、暗い木造家屋の中へ大型のヒグマが入れば、人間側が状況を把握するのは容易ではありません。
屋外へ逃れた中川長一が石油缶を叩き、屋内からも大声が上がったと木村は記しています。さらに堀口清作が銃を発射すると、ヒグマは家から飛び出して暗闇へ消えました。
この再侵入では通夜の参列者に新たな死亡者は出ませんでした。近くには約50人が警戒のため集まっており、騒ぎを聞いて短時間で太田家を包囲できたことも、前日の襲撃とは異なる条件でした。
しかし、ヒグマは山へ戻ったわけではありませんでした。次に向かったのは、太田家から500mも離れていない明景家でした。
明景家は「比較的安全な家」と考えられていた
木村の記録によると、明景安太郎家は六線沢の開拓家屋の中では比較的広く、地理的にも安全と思われていました。この夜は救援隊員の拠点の一つになる予定で、家では20人ほどの夜食を準備していたとされています。
家にいたのは明景家の家族6人に、斉藤石五郎家から避難してきた母子3人、さらに太田家の寄宿人だった長松要吉を加えた10人でした。主人の明景安太郎は外出中、斉藤石五郎も警察や役場側へ知らせる使者として集落を離れていました。
ここには、12月10日夜の被害が大きくなった重要な条件があります。女性や子どもが個々の家に残るのではなく、より安全と考えられた一軒へ集められていました。その結果、もしその家へヒグマが侵入した場合、一度に多数の人が危険へさらされる配置にもなっていました。
もちろん、これは結果を知った現在から見た評価です。当時の住民にとって、人が集まり、救援隊が近くにいて、比較的広い明景家へ避難する判断には合理性がありました。問題は、ヒグマが人の多さそのものを避けるとは限らず、家屋も大型個体の侵入を防ぐ強度を持っていなかったことです。
「火を絶やすな」——住民が頼った安全策
太田家で騒ぎが起きると、明景家近くにいた救援側の男性たちは現場へ向かいました。家に残ったのは、女性や子どもを中心とする人々です。
木村の聞き取り記録では、このとき明景家に残った人々が「火を絶やすな」と薪をくべ続けたとされています。熊は火を恐れる、という言い伝えが開拓民の間で信じられていたというのが木村の説明です。
ここを「迷信を信じたから被害が出た」と単純化するのは適切ではありません。1915年の六線沢には、現在のようなヒグマ対応マニュアルも、堅牢な避難施設も、無線や電話で即座に専門部隊を呼ぶ仕組みもありませんでした。目の前にある薪と火、人の数、近くにいる救援隊は、住民が利用できる数少ない防御材料でした。
さらに重要なのは、明景家にいた人々が、太田家へ向かった救援側の男性がほどなく戻ると考えていたことです。ところがヒグマは、その救援隊と入れ替わるように明景家へ接近しました。
午後8時50分ごろ、明景家への襲撃が始まった
木村の記録では、太田家への再侵入から十数分後、午後8時50分ごろに明景家から激しい物音と叫び声が上がったとされています。太田家と明景家は500m以内。時間と距離を合わせると、ヒグマが太田家から逃れた後、短時間で川下の明景家へ移動したとする再構成になります。
家の中では夜食の準備が続いていました。明景ヤヨさんが囲炉裏近くにいたとき、ヒグマが侵入し、火やランプが消えて室内は暗闇になったと木村は記しています。
以後の個々の襲撃について、『慟哭の谷』には生存者の聞き取りを基にした詳細な記述があります。本記事では、その残虐な場面を再現することはしません。時系列上押さえるべきなのは、10人がいた家の内部で複数の死傷者が生じ、逃げ出せた人と、家の中に取り残された人に分かれたことです。
| 時刻・局面 | 木村盛武の記録から整理できること |
|---|---|
| 12月10日夜 | 太田家でマユさん・幹雄さんの通夜。参列者は9人。 |
| 通夜終了ごろ | ヒグマが太田家へ再侵入。参列者は避難し、発砲後にヒグマは屋外へ出る。 |
| その直後 | 救援側の男性が太田家へ向かい、明景家には女性・子どもらが残る。 |
| 午後8時50分ごろ | 太田家から500m以内の明景家へヒグマが侵入したと再構成されている。 |
| 午後9時台 | 救援隊が明景家を包囲するが、暗い屋内に生存者がいるため容易に発砲・突入できない。 |
| その後 | ヒグマが屋外へ出た後に生存者を救出。深夜、住民の集団避難が始まる。 |
「午後8時50分」という時刻も、現在の秒単位の事件記録と同じ意味で受け取るべきではありません。三毛別事件の詳細時刻は後年の聞き取りを通じて整理されたものが多く、本シリーズでは「木村の再構成による時刻」として扱います。
50人以上いても、すぐ家の中へ入れなかった
明景家の異変に気づいた救援側は急いで戻り、木村によれば50人余りが家を二重、三重に包囲しました。人数だけを見れば、ヒグマ一頭に対して圧倒的に有利に見えます。
しかし、実際の条件は逆でした。夜の家屋内は暗く、ヒグマがどこにいるのか正確に見えません。さらに中にはまだ生存者が取り残されています。外から無差別に銃撃すれば、ヒグマだけでなく人を撃つ危険があります。
家そのものを焼く案や、内部へ一斉射撃する案まで出たと木村は記しています。しかし、生存者がいる可能性を捨てきれず、すぐには実行されませんでした。ここで救援隊が直面したのは「人数不足」ではなく、標的が見えず、人質に近い状態で住民が同じ空間にいるという射撃条件の悪さでした。
やがて救援側は、音を使ってヒグマを外へ出そうとします。ヒグマが戸口から出た際、射手には撃つ機会が生じましたが、銃の不発や、まだ屋内にいる人への危険から決定打を与えられませんでした。この銃器・配置・討伐側の問題は、第6回で詳しく検証します。
結果として、明景家への侵入からヒグマが立ち去るまで、木村の再構成ではおよそ1時間。家を包囲する側には多数の人がいながら、内部にいる人々を直ちに救出できない時間が続きました。
明景家襲撃で、事件の被害は一夜にして拡大した
ヒグマが去った後、救援隊は明景家へ入り、生存者の救出と被害確認を行いました。この襲撃では明景金蔵さん、斉藤タケさん、斉藤春義さんが家の中で亡くなり、重傷だった斉藤巌さんも避難後に死亡したと木村は記録しています。
また、ヤヨさん、梅吉さん、長松要吉が重傷を負いました。タケさんは臨月で、胎児も救命には至りませんでした。本シリーズでは、苫前町の案内に合わせて事件全体を原則「死者7人、負傷者3人」と表記し、胎児を独立して数える「8人死亡」という資料との差については第9回で整理します。
ここで注目すべきなのは、前日の太田家襲撃と同じ一頭のヒグマが、翌日の夜には人が集まる家へ再び侵入していることです。12月9日時点では一軒の家の悲劇だった事件が、12月10日夜を境に、六線沢全体の居住継続そのものを不可能にする事態へ変わりました。
住民側の対応もここで変わります。翌朝まで各戸に留まるのではなく、その夜のうちに女性と子どもを中心に下流へ退避させる判断が取られました。
深夜、六線沢から「部落おち」が始まった
木村の記録では、明景家襲撃後、住民は婦女と子どもを約3km下流の辻橋蔵家、さらに約6km下流の三毛別分教場などへ分散して避難させました。ガンピの皮を松明代わりにし、川沿いに点在する家を一軒ずつ回って住民を隊列へ加えていったとされています。
この避難は、現代の災害避難のように車両へ乗って指定避難所へ移動するものではありません。雪道を徒歩で進み、負傷者を伴いながら、ヒグマがどこにいるか分からない夜の集落を抜ける必要がありました。
各戸では、熊が火を恐れるという認識から庭先の薪に火を付けて離れたとも木村は記しています。火の列は「家を守る」ための最後の手段でしたが、住民が去った後の六線沢は事実上、無人に近い状態になります。
この段階で事件の目的は変わりました。最初は「出没するヒグマを追い払う」「行方不明者を探す」ことでしたが、12月10日深夜以降は、住民を退避させた上で、残った討伐側がヒグマを仕留めなければ生活を再開できないという状況になります。
次の第6回では、住民が去った集落を歩き回るヒグマと、警察・林野関係者・猟師・住民からなる討伐側の対峙を追います。
FACT CHECK|「通夜から明景家へ」はどこまで確定しているか
12月10日夜の細かな経過も、主に木村盛武が事件の生存者や関係者から集めた証言を基礎にしています。したがって、人物配置や時刻、会話の細部を、1915年当日に作成された逐次記録と同じ精度で扱うことはできません。
| 論点 | 本シリーズでの扱い |
|---|---|
| 12月10日夜に太田家で通夜が行われた | 木村の聞き取り記録で具体的に再構成されている主要経過 |
| 通夜中、ヒグマが太田家へ再侵入した | 主要資料で一貫する事件経過 |
| その後、明景家が襲撃された | 事件全体の基本経過として強く支持 |
| 太田家と明景家は500m以内 | 木村の記録に基づく位置関係 |
| 明景家襲撃は午後8時50分ごろ | 木村による聞き取り・再構成時刻として扱う |
| 火を焚けば熊は近づかないと住民が考えていた | 木村が当時の開拓民の認識として記録 |
| ヒグマが「通夜の遺体を奪い返す目的」で戻った | 木村らの行動解釈。ヒグマの主観を直接確認した事実ではない |
| 明景家侵入から退去まで約1時間 | 木村の時系列再構成に基づく |
特に「遺体を取り返しに来た」「女性や子どもが多い家を狙った」といった表現は、ヒグマの意図を直接確認したものではありません。行動経路と結果から説明された解釈として扱う必要があります。
まとめ|12月10日夜、六線沢は住み続けられる場所ではなくなった
12月10日夜、ヒグマは太田家の通夜へ再び現れました。参列者は逃れ、救援側が短時間で集まりましたが、ヒグマはそのまま山へ戻らず、500mも離れていない明景家へ移動したと木村盛武は再構成しています。
明景家は比較的広く、救援隊も近く、人を集めるには安全性が高いと考えられた場所でした。ところが、救援側の男性が太田家へ向かった短い時間にヒグマが侵入し、家の中にいた10人が危険へさらされます。
屋外には50人以上の救援側が集まっても、暗い家の中には生存者が残っていました。射撃すれば人を巻き込む可能性があり、突入すればヒグマと至近距離で対峙します。「人が多ければ止められる」という状況ではありませんでした。
明景家襲撃後、住民はついに六線沢からの集団避難を開始します。前日まで生活の場だった家々は無人となり、残る課題は一つになりました。ヒグマを仕留めなければ、住民は帰ることができません。
第6回では、警察、林野関係者、猟師、住民が集まった討伐体制と、無人の家々を荒らし続けるヒグマ、待ち伏せ、氷橋での遭遇、銃器上の問題を追います。
三毛別羆事件特集
- 三毛別羆事件とは?|雪の開拓地を襲った6日間
- なぜ六線沢は逃げ場を失ったのか|1915年の開拓地と冬
- 冬眠しない巨羆|11月の出没と見逃された危険
- 最初の襲撃|12月9日、太田家で何が起きたのか
- 羆は通夜の家から避難先へ向かった|12月10日、明景家襲撃【現在の記事】
- 無人の集落を荒らす羆|討伐隊はなぜ仕留められなかったのか
- 山本兵吉、雪上の追跡|12月14日、羆を撃つ
- なぜ被害は止まらなかったのか|穴持たず・手負い・ヒグマの執着
- 三毛別はどう記録されたのか|犠牲者数、『羆嵐』、事件復元地
前後の記事
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最初の襲撃|12月9日、太田家で何が起きたのか
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出典・参考資料
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木村盛武『慟哭の谷』第2章「通夜の亡霊」前編(文春オンライン)
12月10日の通夜、参列者、太田家への再侵入と当時の住民の警戒認識を確認するために使用。 -
木村盛武『慟哭の谷』第2章「通夜の亡霊」前編 2ページ目
太田家での避難、発砲、約50人の救援側が短時間で集まった経過を確認するために使用。 -
木村盛武『慟哭の谷』第2章「通夜の亡霊」前編 3ページ目
明景家にいた10人、救援隊用の夜食準備、火に対する認識、太田家との距離、午後8時50分ごろという時系列を確認するために使用。 -
木村盛武『慟哭の谷』第2章「通夜の亡霊」前編 4ページ目
明景家への侵入直後の状況、室内が暗闇となった経過、生存者・負傷者の動きを確認するために使用。 -
木村盛武『慟哭の谷』第2章「通夜の亡霊」後編 2ページ目
救援側による明景家包囲、約1時間に及ぶ膠着、屋内に生存者がいるため射撃・突入が困難だった状況を確認するために使用。 -
木村盛武『慟哭の谷』第2章「通夜の亡霊」後編 3ページ目
ヒグマ退去後の救出、明景家の被害、深夜に六線沢から集団避難を開始した経過を確認するために使用。 -
木村盛武『慟哭の谷』第2章「通夜の亡霊」後編 4ページ目
負傷者の下流への移送、三毛別分教場などへの避難、住民退去後の六線沢の状態を確認するために使用。 -
北海道苫前町「三毛別羆事件復元地」
現在の事件継承地が苫前町字三渓にあり、開拓の悲話として保存されていることを確認するために使用。
本記事は、木村盛武が生存者・関係者から収集した聞き取り記録を中心に構成しています。12月10日夜の細かな時刻、人物配置、ヒグマの行動意図には後年の再構成・解釈を含むため、直接確認できる出来事と区別しています。被害状況は事件経過の理解に必要な範囲に限定し、犠牲者の苦痛そのものを見世物化する描写は省いています。