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ケン・マイルズとは何者だったのかFord GT40を勝てる車へ変えた開発ドライバー

ケン・マイルズとは何者だったのか|Ford GT40を勝てる車へ変えた開発ドライバー

モータースポーツ事故

1966年6月19日、フランスのル・マン24時間レースで、Fordは長年目標としてきた総合優勝をついに達成した。トップ3をFord GT40 Mk IIが占め、表面上はメーカーにとって申し分のない勝利だった。

ところが、その中心でGT40を開発し、DaytonaとSebringを制し、ル・マンでも長時間トップ争いを続けたケン・マイルズは、公式記録では優勝者ではない。優勝はBruce McLaren / Chris Amon組、Ken Miles / Denny Hulme組は2位と記録されている。Automobile Club de l’Ouest(ACO)の公式資料でも、この順位は明確である。[5]

そして約2か月後の1966年8月17日、マイルズはカリフォルニア州Riverside International RacewayでFord J-carのテスト中に事故死した。47歳だった。Motorsports Hall of Fameは、彼を単なるレーサーではなく、Cobra、Ford GT40、GT40 Mk II、Mustang GT350などの開発に重要な役割を果たした人物として記録している。[1]

ケン・マイルズを理解するには、「1966年ル・マンで勝利を逃した悲運のドライバー」という一場面だけでは足りない。本当に重要なのは、速く走ることと、速く壊れずに走れる車を作ることを同じ仕事として扱った開発ドライバーだったという点にある。この第1回では、GT40計画が始まり、失敗を重ね、1966年にFordが勝ち、そしてJ-car事故へ至るまでを一つの流れとして整理する。

CASE FILE 11|ケン・マイルズとFord GT40特集(全10回)

この特集ではケン・マイルズの生涯を時系列に並べるだけではなく、Ford GT40という車がなぜ必要とされ、なぜ1964〜1965年には勝ち切れず、どのようなテストと設計変更を経て1966年の勝利へ到達したのかを追う。後半では、ル・マンのフィニッシュ判定、次世代試作車J-car、Riversideでの死亡事故、そして1967年のFord Mk IVまでを検証する。

  1. 第1回|現在の記事:ケン・マイルズとは何者だったのか|Ford GT40を勝てる車へ変えた開発ドライバー
  2. 第2回|FordはなぜFerrariへ挑んだのか|GT40計画が始まるまで
  3. 第3回|Ford GT40はなぜル・マンを勝てなかったのか|1964〜1965年の失敗とMk IIへの進化
  4. 第4回|ケン・マイルズはGT40開発で何をしたのか|テスト、空力、ブレーキ、耐久性
  5. 第5回|DaytonaとSebringを制した1966年|ケン・マイルズがル・マンへ近づいた2連勝
  6. 第6回|1966年ル・マン24時間で何が起きたのか|Ford GT40 1-2-3までの24時間
  7. 第7回|ケン・マイルズはなぜル・マンの公式勝者にならなかったのか|同時フィニッシュを検証する
  8. 第8回|Ford J-carとは何だったのか|GT40 Mk IIの先を狙った実験車
  9. 第9回|ケン・マイルズ死亡事故|1966年8月17日、RiversideのJ-car事故で何が分かっているのか
  10. 第10回|J-carからFord Mk IVへ|事故後の改良と1967年ル・マン優勝

この記事で分かること

  • ケン・マイルズがどのようなレーサー/開発ドライバーだったのか
  • Ford GT40計画が1963年に本格化した背景
  • 1964〜1965年のGT40が速くても勝ち切れなかった理由
  • マイルズがサスペンション、空力、ブレーキ、耐久性の改善へどう関わったのか
  • 1966年のDaytona、Sebring、Le Mansで何が起きたのか
  • なぜマイルズが1966年ル・マンの公式優勝者ではないのか
  • J-carが何を目指した車で、マイルズの事故後に何が続いたのか

先に結論|ケン・マイルズは「速いドライバー」だけでは説明できない

ケン・マイルズの重要性は、レース成績だけでは測りにくい。彼はFord GT40に乗って結果を出したドライバーであると同時に、テスト走行で問題を見つけ、技術者やメカニックへフィードバックし、変更後の車を再び限界まで走らせる開発側の人間でもあった。Fordの社史資料は、1965年にShelby AmericanへGT40が移された後、マイルズが失われていた初期サスペンション設定を戻し、車両性能が大きく改善したと記録している。[3]

さらにFordは、マイルズとPhil Hillらが車体、サスペンション、燃料系、ブレーキなどへ変更を積み重ね、427エンジンを搭載するMk IIを仕上げていった経緯を残している。1966年の耐久レースに向けては、マイルズがル・マンの走行条件を模したエンジン耐久試験用のダイナモメーターパターン作成にも関与した。つまり彼の仕事は「ステアリングを握る」範囲を越えていた。[4]

そのため本CASEでは、マイルズを英雄化もしなければ、企業に翻弄された犠牲者という一語にも閉じ込めない。車両開発、組織判断、レース戦略、事故という複数の系統が、一人の開発ドライバーを通してどのようにつながったのかを追う。

ケン・マイルズの基本データ

人物像を整理すると、マイルズが後年いきなりGT40へ抜擢されたわけではないことが分かる。Motorsports Hall of Fameの公式略歴では、英国でモーターサイクル競技を経験し、第二次世界大戦中は英国陸軍の戦車兵として勤務。戦後は自動車レースへ移り、1952年にカリフォルニアへ渡ってから米国のスポーツカーレースで実績を積んだとされる。[1]

項目 内容
氏名 Ken Miles(ケン・マイルズ)
生年月日 1918年11月1日
出生地 英国・Sutton Coldfield(Birmingham近郊)
主な役割 レーシングドライバー/テスト・開発ドライバー
主な関係組織 Shelby American / Ford Motor Company
主な開発関与 Shelby Cobra、Ford GT40、GT40 Mk II、Mustang GT350など
1966年の主要成績 Daytona 24 Hours優勝、Sebring 12 Hours優勝、Le Mans 24 Hours 2位
死亡 1966年8月17日、Riverside International RacewayでJ-carテスト中の事故
享年 47歳

1950年代のマイルズは、MGをはじめとする比較的小排気量のスポーツカーを自ら手を入れながら走らせた。1953年にはMG Specialで連勝を重ねたとされ、やがて車を速く走らせる能力だけでなく、セットアップや機械の状態を読み取る能力が評価されるようになる。1961年にはRootesのAlpineやDolphin Formula Juniorのテストに関わり、その仕事がCarroll Shelbyとの接点へつながった。[1]

Ford GT40計画は「Ferrariに勝つ車」を短期間で作る巨大開発だった

GT40の背景として有名なのがFordとFerrariの交渉である。ただし、「Ferrari買収に失敗したHenry Ford IIが激怒し、復讐のためだけにGT40を作った」と説明すると、企業プロジェクトとしての実態が薄くなる。Fordが公開する社史資料では、FordとFerrariの協業交渉が1963年5月に停止した後、翌月にはHigh Performance and Special Models Operation Unitが設けられ、SebringやLe Mansで勝てるGTレーシングカーを作ることが正式な任務になった。[2]

開発にはFordのRoy Lunn、Lola GTを手がけたEric Broadley、レース運営のJohn Wyer、そしてCarroll Shelbyらが関与した。GT40という名前の「40」は車高約40インチに由来することで知られるが、本質は寸法よりも、北米の大メーカーが英国側のレーシング技術と米国の大排気量エンジン開発を結び、耐久レース用の車を短期間で成立させようとした点にある。

1964年のGT40は速かった。Le Mansの予選やレース中には高い速度を示したものの、高速域の空力安定性、トランスミッション、サスペンション、長時間走行時の耐久性などが十分ではなかった。Fordの資料では、1964年Le Mansに出走した3台は24時間を走り切れず、年末までの不振を受けてプログラムの運用主導権がShelby American側へ移されている。[2]

1965年、マイルズの仕事は「GT40を一度作り直す」ところから始まった

Shelby Americanのロサンゼルス拠点へGT40が運ばれた後、マイルズは開発ドライバーとして車を検証した。Fordの社史資料によれば、初期設計時のサスペンション設定が失われていたことを見抜き、元の設定へ戻すと性能が大きく向上したという。その後はFord Aeronutronicのコンピューター解析、車体へ糸を貼って流れを見る簡易的な可視化、Dearbornの風洞などを組み合わせて空力を検証した。[3]

ここで重要なのは、「マイルズが一人でGT40を完成させた」という話ではない。Phil RemingtonをはじめとするShelby Americanの技術陣、Fordのエンジニア、Roy Lunnのチーム、ほかの開発ドライバーなど多数の人間が関わっている。マイルズの役割は、その複雑な開発組織の中で、ドライバーが感じる挙動と、技術者が変更できる具体的な部品・設定を結びつけることだったと見る方が実態に近い。

1965年には7.0Lの427エンジンを搭載するGT40Xも投入された。マイルズはDearbornのテストコースで開発車を走らせ、Ford資料では直線で210mph(約338km/h)に達したとされる。しかし1965年Le Mansでは速さが結果に変わらず、427搭載車を含むFord勢は信頼性上の問題で総合優勝へ届かなかった。[3]

1966年、DaytonaとSebringで「開発」が結果へ変わった

1966年のFordは、GT40計画をさらに組織化した。Le Mans Committeeを設け、Ford本体の複数部門、Shelby American、Holman & Moodyなどを横断して意思決定と開発を進める体制を整える。Ford資料では、マイルズとPhil Hillが車体、サスペンション、燃料系、ブレーキなどの変更を続け、427 GT40はMk IIとして仕上がっていった。[4]

2月のDaytona 24 Hoursでは、Ken Miles / Lloyd Ruby組がGT40 Mk IIで優勝し、Fordは1-2-3を占めた。Shelby American Collectionが保存するP/1015の履歴でも、同車はMiles / Ruby組によりDaytonaで優勝し、その後Le MansでMiles / Hulme組の2位車となったことが確認できる。[6]

続くSebring 12 Hoursでもマイルズは勝利した。これにより1966年のマイルズには、Daytona 24 Hours、Sebring 12 Hours、Le Mans 24 Hoursという主要耐久レースを同一年に制する可能性が生まれた。Fordの振り返りでは、このシーズンの開発過程でマイルズがLe Mansの負荷パターンを再現するダイナモメーター用の試験データづくりにも関わり、427エンジンを48時間持たせる耐久試験へ利用したとされる。[4]

1966年ル・マン|Fordは勝ったが、マイルズは公式優勝者ではない

1966年6月18日から19日にかけて行われたLe Mans 24 Hoursで、Fordは8台のワークス系車両を投入した。Shelby Americanの1号車はKen Miles / Denny Hulme、2号車はBruce McLaren / Chris Amon。序盤からFordとFerrariが競い合ったが、夜を越えるにつれてFerrari勢が脱落し、Fordは上位を固めていった。[4]

最終局面でFordは、複数のGT40を並べてゴールさせる演出を計画した。しかしレース結果は「同着」ではなく、McLaren / Amon組が優勝、Miles / Hulme組が2位となった。ACOの公式統計資料は1966年のFord Mk II優勝者をMcLaren / Amonと記載し、Miles / Hulme組とのフィニッシュ差を20mとしている。[5]

一方、なぜその順位になったのかを説明する資料にはニュアンスの差がある。Fordの社史資料は、同時フィニッシュについてACOへ確認した結果、スタート位置が後方だった2号車の方がより長い距離を走った扱いになるため勝者となる、という説明がチームへ戻った経緯を記す。ACOの2019年ヘリテージ資料は、最終1時間の時点でMiles / Hulme組が実質34秒先行していたこと、最後はドライバーが雇用者の指示に従い、競技役員が規則を適用したと整理している。[4][7]

FACT CHECK|「マイルズが1966年ル・マンで優勝した」は正確ではない

映画や二次資料の印象から、Ken Milesを「1966年Le Mansの実質的勝者」と表現することがある。しかし公式リザルト上の優勝者はBruce McLaren / Chris Amonであり、Ken Miles / Denny Hulmeは2位である。このCASEでは、公式順位と、チーム戦略・フィニッシュ演出をめぐる評価を分けて扱う。

ル・マンはどこで行われたのか|現在のCircuit de la Sarthe

1966年の物語の中心となるLe Mans 24 Hoursは、フランス西部Le Mans近郊のCircuit de la Sartheで行われる。専用サーキットだけで完結するコースではなく、公道区間を含む長い周回路を使う耐久レースであり、高速域の安定性、ブレーキ、燃費、エンジンとトランスミッションの耐久性を同時に要求する。この性格が、GT40開発で「最高速だけでは勝てない」理由になった。

下のGoogle Mapは現在のCircuit de la Sarthe周辺を示す。1966年から現在までにコース形状、安全設備、シケイン、周辺道路などは変更されているため、当時の走行経路をそのまま表す地図としては使えない。第6回では1966年のレース進行、第7回では最終フィニッシュを別に整理する。

現在のCircuit de la Sarthe周辺。1966年当時とはコース形状・道路・安全設備が異なるため、現在地確認用の地図として掲載しています。


GoogleマップでCircuit de la Sartheを大きく見る

ル・マンから約2か月後|次世代J-carのテストで事故が起きた

1966年のLe MansがGT40 Mk IIの完成点だとすれば、Ford J-carはその先を狙う試作車だった。Shelby American Collectionによれば、最初のJ-1は1966年1月に完成し、4月のLe Mansテストへ姿を見せたが、空力を中心に大規模な改修が必要となり、6月の本戦には間に合わなかった。その後J-2、J-3が製作され、風洞と実走による開発が続いた。[8]

1966年8月17日、マイルズはRiverside International RacewayでJ-2をテストしていた際にクラッシュし死亡した。Motorsports Hall of Fameの略歴は、車が突然挙動を乱し、横転してクラッシュしたと記録するが、それだけで「事故原因が一つに確定している」とは言えない。[1]

ここは映画的な因果を作りやすい部分でもある。しかし本CASEでは、後世に語られる「空力だけが原因」「車体構造だけが原因」といった単純な説明を先に採用しない。第8回でJ-carの構造と開発目的を分けて理解したうえで、第9回では当時の事故記録、車両状態、後年の技術解説を比較し、どこまでが確認できる事実かを整理する。

事故で終わらなかった|J-carの技術はFord Mk IVへ続いた

J-car計画そのものはマイルズの死で消滅しなかった。Shelby American Collectionが保存するMk IV J-7の解説では、J-carの試作と改修を経てMk IVが成立し、1967年のLe Mansへ投入されたことが確認できる。[8]

ACOの公式統計では、1967年Le Mansの総合優勝車はFord Mk IV、ドライバーはDan Gurney / A.J. Foytと記録されている。つまりCASE11の終点は「ケン・マイルズが亡くなった事故」ではなく、マイルズが関わったGT40開発の経験と、その直後に進められていたJ-car計画が、次世代車で再びLe Mansの勝利へつながるまでに置く必要がある。[5]

映画『フォードvsフェラーリ』は入口になるが、史料の代わりにはならない

2019年の映画『フォードvsフェラーリ』(原題:Ford v Ferrari)は、Carroll ShelbyとKen Milesを中心に1966年Le Mansまでを描いたことで、この時代を知る入口になった。ACO自身も映画公開に合わせて「Le Mans 66」の展示を行い、Peter Milesを招いて当時の資料と映画関連資料を併置している。[9]

ただし映画はドラマ作品であり、企業内の人物関係、会話、レース中の出来事、意思決定の順序は作品として再構成されている。この特集では映画のシーンを事実認定の根拠には使わず、Fordの社史資料、ACOの公式記録、Shelby American Collectionの車両履歴、Motorsports Hall of Fameの人物資料などを照合する。

そのうえで、映画で強く印象に残る「Ford対Ferrari」「ShelbyとMiles」「同時フィニッシュ」「J-car事故」が、実際の開発史・レース記録ではどのように見えるのかを分けていく。作品を否定するためではなく、ドラマの骨格になった現実の技術開発を、資料の側からもう一度見ることが目的である。

このCASEで追うのは、一人の人生より「人と機械の開発ループ」

ケン・マイルズには、戦前のモーターサイクル、英国でのレース、米国移住後のMGやPorsche、Shelby Cobraなど、GT40以前にも長い競技歴がある。しかし本CASEを完全な伝記にすると、Ford GT40という技術プロジェクトとの接続がぼやける。

そこで全10回では、人物の経歴を必要な範囲に絞り、GT40計画へ入ってからの「テスト→問題発見→設計変更→耐久試験→レース→再改修」という循環を中心に見る。耐久レースでは、単に最高出力を上げれば勝てるわけではない。空力で高速安定性を確保し、ブレーキを持たせ、燃料と冷却を管理し、ギアボックスとエンジンを24時間壊さず、ピット作業とドライバー交代まで含めて一つのシステムとして成立させる必要がある。

マイルズがこの物語で重要なのは、そのシステムの中でドライバーとエンジニアの境界に立っていたからである。そして、その仕事の到達点である1966年Le Mansと、その直後に起きたJ-car事故が同じ年に連続していることが、CASE11を単なるモータースポーツ史とは違う題材にしている。

まとめ|ケン・マイルズを知ると、Ford GT40の勝利が「1レース」ではなくなる

ケン・マイルズは、1966年Le Mansで公式優勝を逃したドライバーとしてだけ記憶するには狭すぎる人物である。英国で機械と競技に触れ、米国のスポーツカーレースで自ら車を仕立て、Shelby Americanで開発能力を評価され、GT40をレースで勝てる状態へ近づける作業に深く関わった。

Ford GT40の成功も、一度の天才的設計で生まれたわけではない。1964年の空力・耐久性問題、1965年の427化と失敗、サスペンションや冷却、ブレーキ、ギアボックス、エンジン耐久性の改良を積み重ね、1966年にDaytona、Sebring、Le Mansで成果が出た。その過程にマイルズはドライバーでありながら開発者として参加していた。

ただし1966年Le Mansの公式勝者はMcLaren / Amon組であり、Miles / Hulme組は2位である。またJ-car事故についても、概要段階で一つの原因へ断定するべきではない。ここを曖昧にせず、公式記録と後世の解釈を分けることが、このシリーズの前提になる。

次回はケン・マイルズ本人から一度視点を引き、そもそもFordはなぜLe Mansへ本格参戦し、Ferrariと争うGT40計画を立ち上げたのかを1963年の交渉とFord社内の開発体制から追う。

次の記事


第2回|FordはなぜFerrariへ挑んだのか|GT40計画が始まるまで

CASE FILE 11|全10回

  1. 第1回|現在の記事:ケン・マイルズとは何者だったのか|Ford GT40を勝てる車へ変えた開発ドライバー
  2. 第2回|FordはなぜFerrariへ挑んだのか|GT40計画が始まるまで
  3. 第3回|Ford GT40はなぜル・マンを勝てなかったのか|1964〜1965年の失敗とMk IIへの進化
  4. 第4回|ケン・マイルズはGT40開発で何をしたのか|テスト、空力、ブレーキ、耐久性
  5. 第5回|DaytonaとSebringを制した1966年|ケン・マイルズがル・マンへ近づいた2連勝
  6. 第6回|1966年ル・マン24時間で何が起きたのか|Ford GT40 1-2-3までの24時間
  7. 第7回|ケン・マイルズはなぜル・マンの公式勝者にならなかったのか|同時フィニッシュを検証する
  8. 第8回|Ford J-carとは何だったのか|GT40 Mk IIの先を狙った実験車
  9. 第9回|ケン・マイルズ死亡事故|1966年8月17日、RiversideのJ-car事故で何が分かっているのか
  10. 第10回|J-carからFord Mk IVへ|事故後の改良と1967年ル・マン優勝

出典・参考資料

本記事は、Ford Motor Companyの社史資料、Automobile Club de l’Ouest(ACO)の公式記録、Shelby American Collectionの車両資料、Motorsports Hall of Fameの人物資料等を照合し、確認できる事実と後世の解釈を分けて構成しています。1966年ル・マンのフィニッシュ判断やJ-car事故について資料間で説明の重点が異なる部分は、一つの物語へ単純化せず本文中に区別して記載しています。