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1966年ル・マン24時間で何が起きたのかFord GT40 1-2-3までの24時間

1966年ル・マン24時間で何が起きたのか|Ford GT40 1-2-3までの24時間

モータースポーツ事故

1966年6月18日午後4時。フランス、ル・マン。55人のドライバーがコースを横切って自分の車へ走る、当時伝統の「ル・マン式スタート」で第34回24時間レースが始まった。スタートフラッグを振ったのはHenry Ford II。Fordはこの一戦に、前年までとは比較にならない規模の車両、チーム、人員を送り込んでいた。[1][2]

しかし、Fordが最初から最後まで隊列を組んで走ったわけではない。Ken Milesは1周目にドアを閉め直すためピットへ入り、別のFordはブレーキパイプやドライブシャフトの故障で早くも遅れた。予定されていたペースより速いラップが繰り返され、雨が降り、夜になるにつれてFordもFerrariも次々に脱落した。深夜0時の時点では、Ford2台とFerrari 1台が同一周回で首位を争っていた。[1]

その均衡が崩れたのは夜中だった。2時前後、Pedro Rodríguez/Richie Ginther組のFerrari 330 P3がギアボックス故障でリタイア。朝には他の有力Ferrariも消え、今度はFordのDan Gurney/Jerry Grant組もオーバーヒートでレースを去る。残った7.0L Ford Mk IIは3台。昼を過ぎると、Fordにとって最大の敵はFerrariではなく、雨と機械故障と24時間そのものになった。[3][1]

最終的にFordは1位、2位、3位を独占する。ただし、誰が1位になったのかという問題は、この24時間の中でも別の論点を持つ。第6回ではその判定を深掘りせず、スタートからFord 1-2-3が成立するまで、コース上で何が起きたのかを時間軸に沿って再構成する。

CASE FILE 11|ケン・マイルズとFord GT40特集(全10回)

この特集では、Ken Milesという一人の開発ドライバーを軸に、Ford GT40計画の成立、失敗、1966年Le Mans、そしてJ-car事故までを追う。第6回はシリーズの中心となるレース時系列記事である。前回までに作られたMk IIが、実際の24時間でどのように走り、どの車が消え、どの3台が最後まで残ったのかを見る。

  1. 第1回|ケン・マイルズとは何者だったのか|Ford GT40を勝てる車へ変えた開発ドライバー
  2. 第2回|FordはなぜFerrariへ挑んだのか|GT40計画が始まるまで
  3. 第3回|Ford GT40はなぜル・マンを勝てなかったのか|1964〜1965年の失敗とMk IIへの進化
  4. 第4回|ケン・マイルズはGT40開発で何をしたのか|テスト、空力、ブレーキ、耐久性
  5. 第5回|DaytonaとSebringを制した1966年|ケン・マイルズがル・マンへ近づいた2連勝
  6. 第6回|現在の記事:1966年ル・マン24時間で何が起きたのか|Ford GT40 1-2-3までの24時間
  7. 第7回|ケン・マイルズはなぜル・マンの公式勝者にならなかったのか|同時フィニッシュを検証する
  8. 第8回|Ford J-carとは何だったのか|GT40 Mk IIの先を狙った実験車
  9. 第9回|ケン・マイルズ死亡事故|1966年8月17日、RiversideのJ-car事故で何が分かっているのか
  10. 第10回|J-carからFord Mk IVへ|事故後の改良と1967年ル・マン優勝

この記事で分かること

  • 1966年Le MansへFordとFerrariがどれだけの規模で参戦したのか
  • 予選でFord Mk IIが示した速度
  • Ken Milesが1周目にピットへ戻った理由
  • Fordが予定ペース以上に速く走り始めた序盤の展開
  • 深夜0時時点でFordとFerrariがどの位置にいたのか
  • Ferrariの有力車がいつ、どのように脱落したのか
  • Dan Gurney/Jerry Grant組のFordがなぜ消えたのか
  • Fordの残存Mk IIが3台へ絞られた時点
  • McLaren/Amon組が序盤の遅れからどのように戻ったのか
  • 最終30分にFordが3台を並べるまでの流れ

先に結論|1966年の勝利は「Ferrariを追い抜いた瞬間」ではなく、夜から朝に相手が消えていく耐久戦だった

映画や写真で1966年Le Mansを知ると、FordとFerrariが最後まで直接競り合い、最後にFordが3台並んで勝ったレースのように見えるかもしれない。実際の時系列は異なる。FerrariがFordと同一周回で争えていたのは、主としてレース前半である。

深夜0時にはGurney/Grant組のFord、Miles/Hulme組のFord、Rodríguez/Ginther組のFerrariが126周で並んでいた。ところが夜が深くなるとFerrariのギアボックス、ブレーキ、冷却系に問題が出始め、朝8時ごろまでにプロトタイプFerrariは事実上優勝争いから消えた。[1][3]

ただし、そこでFordの勝利が確定したわけでもない。Ford自身も大量に脱落し、朝には先頭を争っていたGurney/Grant車が水を失ってオーバーヒートしリタイアした。最終的に残ったMk IIはMcLaren/Amon、Miles/Hulme、Bucknum/Hutchersonの3台だけだった。1966年の勝敗を決めたのは、最高速度だけではなく「朝まで壊れず残った車の数」だった。

スタート前|Ford 13台、Ferrari 14台――ただし主力の構成は同じではない

ACOの集計では、1966年のスターティンググリッドにFordは13台、Ferrariは14台存在し、両メーカーだけで55台中27台を占めていた。数字だけ見るとFerrariの方が1台多い。しかしすべてが同じ性能のワークス・プロトタイプだったわけではない。[2]

Fordの中心は7.0L V8を搭載したMk IIで、Motor Sport誌の当時報告では8台がエントリーしていた。Shelby Americanが3台、Holman & Moodyが3台、Alan Mann Racingが2台を運用し、基本仕様を揃えてFord本社の強い統制下で動かしていた。さらに4.7LのGT40もプライベートチームから参加している。[1]

対するFerrariの直接的な主力は330 P3。Motor Sport誌ではワークスのクーペ2台と、North American Racing Teamに貸与されたオープン仕様1台が主要戦力として挙げられている。その後ろに275 LM、Dino、GTBなど複数のFerrariが続いていた。[1]

したがって「Ford 13対Ferrari 14」という台数だけで戦力を比較することはできない。Fordが1966年に異常なほど厚くしたのは、総台数よりも、優勝を直接狙える7.0L Mk IIを複数チームから大量投入した点だった。

予選|Dan Gurneyが3分30秒6――Fordは最初から速度で前へ出た

予選で最速だったのはDan GurneyのFord Mk IIだった。Motor Sport誌の記録では3分30秒6、平均約230.1km/h。しかもFordはGurneyだけが速かったわけではなく、上位グリッドへ複数台を並べた。FerrariはそのFord群の間へ割って入る構図になった。[1]

Fordには前年までのような「車は速いのか」という疑問はほぼ残っていなかった。最大の問題は、この速度を24時間どこまで維持できるかである。そのためFord側には3分36秒程度を一つの目安にするペース戦略があったと当時記事は伝えている。

ところが決勝が始まると、実際のラップはそれより速くなる。Milesは序盤のピットロスを取り戻そうと3分33秒台まで上げ、Gurneyらも高いペースで走った。開発で作った耐久余裕を、今度はドライバー自身がどこまで使うかという別の問題が始まった。

16時00分|Henry Ford IIがスタート旗を振る

6月18日土曜日、スタート約30分前には小雨が降り始め、各チームはタイヤ選択に悩まされた。午後4時、Henry Ford IIがフラッグを振り、ドライバーがコースを横切って車へ走る伝統のスタートが始まった。[1]

オープニングではGraham HillのFordが先頭へ出て、その後Dan Gurneyが追う。Fordの巨大な布陣が予定どおり前へ出たように見えたが、最初の1周を終えた時点で早くも複数のFordがピットへ向かった。

Ken Milesもその一人だった。#1 Mk IIのドアが正しく閉まっておらず、ごく短いピットストップで閉め直す必要があった。John WhitmoreのFordはブレーキパイプ、Paul Hawkins側の車はドライブシャフトの問題でより大きく遅れた。[1]

Milesにとっては、スタートして数分で先頭争いから一度後退する展開だった。しかし車そのものに致命的な故障があったわけではない。ここから彼は予定より速いペースで差を詰めていく。

17時ごろ|Milesが3分33秒1まで上げ、5位へ戻る

スタートから約1時間。Gurneyは先頭を大きく引き離し、Graham Hill、Ronnie BucknumらFord勢が前方を占めていた。FerrariではPedro Rodríguezが#27 P3で追い上げる。Milesは1周目のピットロスを取り戻し、5位まで上昇した。

Motor Sport誌によれば、Milesはラップレコードを3分33秒1まで更新した。Ford側が想定していた3分36秒前後より明らかに速い。24時間レースの最初の1時間としては攻撃的なペースだった。[1]

この時点の上位はFord、Ford、Ford、Ferrari、Fordという並びだった。Ferrariは速度面で完全に脱落していたわけではないが、Fordが複数台で前方を埋めるため、一台が故障しても別の車が残る構造になっていた。

第3回で見た1964年のFordは、3台のGT40がすべて消えればそれで終わりだった。1966年は、1台の問題が計画全体の失敗へ直結しにくい。大量投入は単なる物量ではなく、耐久レースにおけるリスク分散でもあった。

夕方|雨、最初の給油、ドライバー交代で隊列が動く

レース2時間目には雨が強まり、給油タイミングとタイヤ選択が重なった。Fordのピットには複数台が同時に入り、一時はスペースが足りず、Graham Hillが止まれずもう1周走る場面まで起きた。[1]

MilesからDenny Hulmeへ交代した#1は、その後も高いペースを維持した。HulmeはGurneyのパートナーJerry Grantから先頭を奪う。ここで「Milesの車」が一人の速さだけで前へ出ていたのではなく、ドライバー交代後も戦える仕様だったことが確認できる。

一方、Ford全体では故障が始まっていた。差動装置、クラッチ機構などのトラブルでMk IIが脱落・後退する。序盤に大量のFordが上位を占めていたからといって、その全てが朝まで残るわけではなかった。

深夜0時|Ford 2台とFerrari 1台が126周で並ぶ

レース開始から8時間。ここがFord対Ferrariの直接対決として最も分かりやすい時点の一つである。

深夜0時ごろ 周回 車両
Gurney / Grant 126周 Ford Mk II
Miles / Hulme 126周 Ford Mk II
Rodríguez / Ginther 126周 Ferrari 330 P3
McLaren / Amon 125周 Ford Mk II
Mairesse / Müller 122周 Ferrari
Bandini / Guichet 121周 Ferrari

Motor Sport誌はこの時点で、Gurney/Grant、Miles/Hulme、Rodríguez/Gintherがそろって126周と記録している。McLaren/Amonは1周遅れ。つまり、レースの3分の1を終えた段階ではFerrariにも十分に優勝の可能性が残っていた。[1]

McLaren/Amon組が1周遅れていた理由の一つはタイヤだった。Chris Amonが後年ACOに語った回想では、序盤にタイヤのトレッド問題が発生して時間を失い、FirestoneからGoodyearへ切り替えた。その後、2人はペースを上げて前方へ戻っていった。[4]

この1周遅れの#2が、最終的には優勝車になる。1966年の24時間は、序盤の順位だけでは結果がほとんど読めない典型的な耐久レースだった。

深夜〜2時前後|Ferrariの最有力P3がギアボックスで消える

日付が6月19日に変わるころ、両陣営で機械トラブルが増えた。FordのプライベートGT40がエンジン故障で脱落する一方、Ferrari側ではMairesse/Müller車が順位を落とし、Rodríguez/Ginther組のP3にも問題が出る。

ACOは、午前2時少し前にRodríguez/Ginther組の330 P3がギアボックス故障でリタイアし、Ford Mk IIを脅かせる最後のFerrariが消えたと整理している。[3]

これはレースの大きな転換点である。深夜0時にはFordと同一周回だったFerrariが、2時間足らずで優勝争いから離脱した。Fordが直接Ferrariを抜き去って決着したというより、24時間の機械負荷がFerrari側の駆動系を先に止めた。

ただしFerrari全車がここで消えたわけではない。別のFerrariは走り続けていたが、トップのMk IIと同じペースで勝利を争える状態ではなくなっていく。

3時30分〜夜明け|Ferrariの故障が続き、Fordが上位6台を占める

午前3時30分ごろ、Mairesse/Müller組のFerrariもギアボックス故障でピットへ戻った。さらに残るワークスFerrariにはブレーキパイプの問題が発生した。夜明けの時点で、Motor Sport誌はFordが1位から6位までを占めていたと記録している。[1]

この瞬間だけを切り取れば、Fordの勝利はほぼ決まったように見える。しかしLe Mansでは、その判断が最も危険でもある。前年までFord自身が速さを示しながら最後まで持たなかったからだ。

実際、Fordの残存台数も減っていた。エンジン、サスペンション、駆動系などさまざまなトラブルで車が消えており、「上位6台がFord」という状態は長く続かなかった。

午前8時ごろ|最後のP3が消え、Ford対Ferrariは事実上終了する

朝8時を過ぎるころ、最後まで残っていた有力P3も内部の水漏れとクラッチ問題を抱え、ついにリタイアした。Ferrari 275 LMも冷却問題などで止まり、プロトタイプ同士のFord対Ferrariという構図はここでほぼ終わる。[1]

ACOの数字では、最終的に完走したFerrariは2台。一方Fordも13台出走して完走は3台だった。つまりFordがFerrariを圧倒した結果だけを見ると忘れやすいが、Ford自身も10台がフィニッシュへ届いていない。[2]

1966年のFord 1-2-3は「壊れない車を13台並べた結果」ではない。大量の車を投入し、その中で故障しなかった主力3台が最後まで残った結果だった。

午前中|今度はGurney/Grant組のFordが壊れ始める

Ferrariが優勝争いから消えた直後、Ford側にも大きな問題が起きる。夜間から速さを見せていた#3 Gurney/Grant車が水を失い始め、オーバーヒートの兆候を示した。

Motor Sport誌では、午前中に#3がゆっくりピットへ入り、最終的にリタイアしたと記録される。当時のルールでは水や油などを補給できる間隔に制限があり、単純に水を足して走り続けることもできなかった。[1]

Gurney/Grant組はSebringでもゴール直前まで首位にいながらエンジン故障で勝利を失っている。Le Mansでも再び、速さでは優勝候補だった車が機械的な問題で消えた。

ここでFordの主力Mk IIは実質3台へ絞られた。Shelby Americanの#1 Miles/Hulme、#2 McLaren/Amon、Holman & Moodyの#5 Bucknum/Hutchersonである。奇しくも、この3台が最終結果の1〜3位になる。

FACT CHECK|Fordは8台のMk IIを投入し、全部が最後まで走ったのか

そうではない。Motor Sport誌は7.0L Mk IIが8台投入されたと記録しているが、最終的に完走して上位3位を占めたMk IIは3台だけだった。ACOによればFordブランド全体でも13台出走して完走は3台である。1966年の1-2-3は高い信頼性を示した結果ではあるが、Fordの全車がトラブルなく走ったという意味ではない。

正午|残り4時間、McLaren/Amonがわずかに前へ

正午、残り4時間。走行を続けていたのは16台まで減っていた。Motor Sport誌によれば、先頭はMcLaren/Amon組がわずかにMiles/Hulme組を上回り、Bucknum/Hutcherson組が9周遅れて3番手。その後ろにはPorsche勢がまとまって続いていた。[1]

McLaren/Amon組は序盤のタイヤ問題で一時1周遅れていた。それが夜から朝にかけて追い上げ、16時間目ごろには首位へ到達したとACOも記録している。[5]

一方、Miles/Hulme組も大きな故障なく優勝争いを続けている。DaytonaとSebringを勝ってきたMilesにとって、残り4時間で3つ目の大耐久レース勝利が現実的な位置にあった。

ただしこの段階でもFordは安心していなかった。ピットから不要な人員や報道陣を外し、残り時間の作業ミスを減らすほど慎重になっていた。前年まで何度も「勝てそうな車が止まる」経験をしていたからである。

14時ごろ|再び雨、残り2時間で速度より完走が優先される

午後2時ごろ、コースには再び雨が降り始めた。残り約2時間。乾いた路面なら数秒の差を争う局面でも、この時点でFordに必要なのはリスクを増やしてラップタイムを削ることではなかった。

路面が濡れると、7.0L V8の大きなトルクは扱いにくくなる。Mulsanneのような高速区間では水煙で視界も低下する。さらに残っている車は20時間以上走行しており、ドライバーだけでなく車体、配線、ベアリング、サスペンション、駆動系にも疲労が蓄積している。

Motor Sport誌は、この時間帯に各車が無用なミスを避けて慎重に走っていたことを伝える。ここまで来ると「Ferrariを倒す」レースではなく、「Ford自身が最後の2時間を壊さず終えられるか」というレースだった。

最終ピットストップ|Milesが前へ出て、McLarenを待つ

終盤の最後の給油ではMcLaren/Amon車が首位を失い、Miles/Hulme車が前へ出た。Motor Sport誌によれば、最後の30分に入るとMilesはMcLarenを待ち、Shelby Americanの2台が近接して周回するようになった。[1]

さらにFordは、3番手のBucknum/Hutcherson車も合わせ、3台が近い間隔で最後の周回へ入る形を作った。これは純粋なレースペースの結果ではなく、Ford初のLe Mans勝利を視覚的に象徴するフィニッシュを狙ったチーム側の判断だった。

ここから先は、第7回の主題になる。MilesとMcLarenを並べれば「同着」になるのか。スタート位置の違いはどう扱われたのか。Ford側は何を認識していたのか。そして公式記録はなぜ#2 McLaren/Amonを1位、#1 Miles/Hulmeを2位としたのか。

第6回では結果だけを固定しておく。ACOの公式記録では、1位は#2 Bruce McLaren/Chris Amon、2位は#1 Ken Miles/Denny Hulme、3位は#5 Ronnie Bucknum/Dick Hutchersonである。[6]

16時00分|Ford 1-2-3――55台のうち完走は15台

6月19日午後4時。24時間が終了した。Ford Mk IIの3台が先頭でフィニッシュし、Fordは1964年の初挑戦から3年目で初めてLe Mans総合優勝を達成した。

順位 カーナンバー ドライバー 車両
1位 #2 Bruce McLaren / Chris Amon Ford Mk II
2位 #1 Ken Miles / Denny Hulme Ford Mk II
3位 #5 Ronnie Bucknum / Dick Hutcherson Ford Mk II

ACOの記録では55台がスタートし、完走扱いは15台。Fordは13台のうち3台、Ferrariは14台のうち2台がフィニッシュした。Fordの3台はそのまま表彰台を独占した。[2][6]

この数字は、1966年Le Mansの厳しさをよく示している。勝ったMk IIだけを見ると「完成された圧倒的な車」に見えるが、同じFord陣営の多くもゴールに届いていない。Ferrariを倒したという結果と、Ford自身も大きな損耗を出したという事実は両立する。

24時間を転換点だけで整理する

細かな順位変動をすべて追うより、このレースがどこで形を変えたかを見ると理解しやすい。

時間帯 主な出来事 意味
16:00 Henry Ford IIがスタート。Milesは1周目にドア修正でピット #1が序盤に後退
17:00ごろ Milesが3分33秒1まで上げ5位へ Ford勢が予定以上の高速戦へ
夕方 雨、給油、交代。Hulmeが首位へ チーム運用と天候対応の段階へ
0:00 Ford 2台とFerrari P3が126周で並ぶ Ford対Ferrariの直接対決が継続
2:00前 Rodríguez/Ginther Ferrariがギアボックスでリタイア Ferrariの有力な優勝候補が消える
夜明け Fordが上位6台を占める 数的優位が結果へ現れ始める
8:00ごろ 最後の有力P3も脱落 Ford対Ferrariの勝敗は事実上決着
午前 Gurney/Grant Fordがオーバーヒートでリタイア Fordもまだ安全圏ではない
12:00 McLaren/Amon、Miles/Hulme、Bucknum/Hutchersonの3台がFord上位 最終表彰台の構成がほぼ形成
14:00ごろ 速度より完走優先へ
最終30分 MilesがMcLarenを待ち、Ford 3台が接近 チーム演出と順位判定の問題が発生
16:00 Ford 1-2-3 Ford初のLe Mans総合優勝

この表から分かるのは、勝敗の構図が一度ではなく何度も変わったことである。序盤はFordの物量と速度、深夜はFord対Ferrariの直接競争、早朝はFerrari脱落、午前中はFord自身の故障、午後は残存3台を壊さずゴールへ運ぶ戦いになった。

映画で省略されやすいこと|McLaren/Amon組も「突然最後に現れた」わけではない

Ken Milesを中心に描く物語では、#1が主導権を握り、#2 McLaren/Amon車が最後に並んでくるような印象になりやすい。しかし実際の#2は、序盤のタイヤ問題で一度遅れた後、長時間をかけて追い上げている。

Chris Amonの回想では、Daytonaで信頼性に不安を感じた経験から、Le Mansでは序盤を抑えて終盤に攻める考えだった。しかしタイヤのトレッド問題で予定以上に遅れ、途中でGoodyearへ切り替えた後に追撃へ転じた。ACOはMcLaren/Amon組が16時間目に首位へ立ったと整理している。[4][5]

したがって#2の勝利を「最後の判定だけで突然得た」と説明するのも不正確である。順位判定がMilesにとって決定的だったこととは別に、McLaren/Amon組も序盤の遅れを取り戻し、24時間の後半には実際に首位争いをしていた。

一方でMiles/Hulme組も、1周目のドア問題から追い上げ、夜間から朝にかけて先頭争いを続け、終盤のピット後には前へ出ていた。2台とも、それぞれ異なるトラブルを乗り越えて最終30分まで来ていたのである。

まとめ|Fordが勝ったのは「速かったから」ではなく、最後に3台を残せたから

1966年Le MansでFord Mk IIは確かに速かった。予選ではDan Gurneyが3分30秒6、レース序盤にはKen Milesが3分33秒1を記録し、Ford勢が上位を占めた。しかしレース前半だけなら、Ferrari 330 P3も同一周回で優勝争いを続けていた。

転換点は夜から朝に来た。Rodríguez/Ginther組のP3がギアボックスで脱落し、他のFerrariもブレーキ、冷却、駆動系の問題で後退した。一方Fordも8台のMk IIの多くを失い、午前中にはGurney/Grant車までオーバーヒートで消えた。

最後に残った主力Mk IIは3台だった。McLaren/Amon、Miles/Hulme、Bucknum/Hutcherson。その3台をFordは最後まで走らせ、1-2-3を達成する。前年まで「速いが最後まで持たない」車だったGT40が、少なくとも3台については24時間の最後まで競争速度を維持できたことが、Ferrariとの最大の差になった。

ただしレースの最後に、もう一つ別の問題が残った。Fordは2台のShelby車を並べてフィニッシュさせようとし、公式記録では#2 McLaren/Amonが1位、#1 Miles/Hulmeが2位になった。次回はここだけを切り離し、当時の規則、スタート位置、走行距離、Ford側の説明、ACOの公式記録を照合する。Ken Milesはなぜ1966年Le Mansの公式勝者にならなかったのかを検証する。

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第7回|ケン・マイルズはなぜル・マンの公式勝者にならなかったのか|同時フィニッシュを検証する

CASE FILE 11|全10回

  1. 第1回|ケン・マイルズとは何者だったのか|Ford GT40を勝てる車へ変えた開発ドライバー
  2. 第2回|FordはなぜFerrariへ挑んだのか|GT40計画が始まるまで
  3. 第3回|Ford GT40はなぜル・マンを勝てなかったのか|1964〜1965年の失敗とMk IIへの進化
  4. 第4回|ケン・マイルズはGT40開発で何をしたのか|テスト、空力、ブレーキ、耐久性
  5. 第5回|DaytonaとSebringを制した1966年|ケン・マイルズがル・マンへ近づいた2連勝
  6. 第6回|現在の記事:1966年ル・マン24時間で何が起きたのか|Ford GT40 1-2-3までの24時間
  7. 第7回|ケン・マイルズはなぜル・マンの公式勝者にならなかったのか|同時フィニッシュを検証する
  8. 第8回|Ford J-carとは何だったのか|GT40 Mk IIの先を狙った実験車
  9. 第9回|ケン・マイルズ死亡事故|1966年8月17日、RiversideのJ-car事故で何が分かっているのか
  10. 第10回|J-carからFord Mk IVへ|事故後の改良と1967年ル・マン優勝

出典・参考資料

本記事は、1966年当時のMotor Sport誌レース報告を時系列の主資料とし、Automobile Club de l’Ouest(ACO)の公式記録・歴史記事、Ford Motor Company、Shelby American Collectionの資料を照合して構成しています。時刻は資料で明示されるものを優先し、「午前中」「夜明け」など正確な時刻を確定できない箇所は無理に分単位へ変換していません。また、最終フィニッシュの順位判定については本記事では結果のみ示し、規則・走行距離・Ford側の認識差は第7回で分離して検証します。