THE QUESTION
なぜ米海軍はトリエステを買ったのか | PiccardからProject Nektonまでについて、この回が担う固有の論点は何か。
STORY SO FAR
前回「トリエステはどうやって約11km潜れたのか|ガソリン浮力・耐圧球・鉄バラストの仕組み」で確認した論点を受け、この回ではなぜ米海軍はトリエステを買ったのか | PiccardからProject Nektonまでについて、この回が担う固有の論点は何か。を扱う。
1958年、米海軍はイタリアで生まれたバチスカーフ「トリエステ」を取得した。
これは単純な「世界記録用の乗り物を買った」という話ではない。
トリエステは、米海軍が設計した兵器でも、最初からチャレンジャー海淵を目標に作られた国家プロジェクトの艇でもなかった。スイス人物理学者オーギュスト・ピカールが考案し、欧州の資金と造船技術で建造され、1953年から地中海で潜っていた実験的な深海研究艇だった。
それを米海軍Office of Naval Research(ONR)が評価し、科学者と海軍関係者を乗せた試験を経て取得する。
その後、San DiegoのNaval Electronics Laboratory(NEL)で運用組織を整え、耐圧球を交換し、Guamへ展開し、最終的に世界最深部を狙うProject Nektonへ発展させた。
この流れを見ると、1960年1月23日の記録潜航は、突然始まった冒険ではないことが分かる。[4]
背景にあったのは、
「深海を直接観測できる研究プラットフォームを、誰が保有し、誰が維持し、どの組織が実際に運用できるのか」
という問題だった。
ピカールはバチスカーフという機械を作ることには成功した。
しかし、それを継続的な研究装置として使うには、機体そのものとは別の巨大なインフラが必要だった。
米海軍が提供したのは、まさにその部分だった。
結論:米海軍が買ったのは「記録艇」ではなく、深海へ人間を送る研究能力だった
米海軍がトリエステに価値を見いだした理由は、単に「既存潜水艦より深く潜れるから」ではない。
1957年のONR主導の試験で、トリエステは海洋学者や水中音響の専門家を深海へ直接運び、観測させるプラットフォームとして実際に使えることを示した。
その価値を簡潔に整理すると、次の四点になる。
1. 人間と観測機器を深海へ直接運べる
海面からワイヤーで吊るすbathysphereとは異なり、バチスカーフは母船から自由に潜降・浮上できる。
2. 海軍が重要視する水中音響・海洋学研究へ使える
取得後のトリエステはNaval Electronics Laboratoryへ配属され、ソナー、水中音響、海洋学研究のためのプラットフォームになった。
3. 世界最深部まで拡張できる設計余地があった
既存の耐圧球ではチャレンジャー海淵級に足りなかったが、より強力なKrupp製耐圧球へ交換することで、約36,000ft級を目標にできた。
4. 民間・個人では維持しにくい運用インフラを海軍なら持てた
整備拠点、支援船、曳航、乗員訓練、補修、計測、通信、予算、組織管理。
トリエステを「研究装置」として使い続けるには、これらが必要だった。
つまり、米海軍が取得したのは一隻の珍しい潜航艇だけではない。
極深海へ人間とセンサーを送り込む能力そのものだった。
ピカールが作った「自由潜航型深海研究艇」
バチスカーフの出発点は、オーギュスト・ピカールの研究だった。
ピカールは成層圏気球で知られた物理学者であり、1930年代から深海へ人間を送り込む方法を考えていた。
当時すでに、深海へ人間を降ろす方法は存在した。
有名なのがbathysphereである。
鋼球をケーブルで母船から吊り下げる方式なら、深い海へ人間を降ろすことはできる。
しかし、この方式には本質的な制約がある。
母船と潜航装置がケーブルでつながっている。
深度が増すほどケーブルは長く、重くなる。
波浪や母船の動きも影響する。
ケーブル、ウインチ、吊り下げ系の故障が、そのまま乗員の安全に直結する。
ピカールは、深海研究を本格化するには、海面から吊るされる装置ではなく、自分で沈み、自分で浮上できる「自由潜航型」の研究艇が必要だと考えた。
その考えからFNRS II、FNRS IIIへつながるバチスカーフが発展し、最終的にピカール自身の艇としてトリエステが建造される。
1953年8月に進水したトリエステは、1953年から1956年にかけて地中海で22回の潜航を行ったと、1964年の米海軍関係者による回顧は記している。[1]
最深潜航は12,110ftに達した。
この時点で、バチスカーフという原理が机上の構想ではなく、実際に人間を深海へ運べることは証明されていた。
しかし、次の問題が残った。
問題は「作れるか」から「誰が運用するか」へ変わった
トリエステが成立した後、ピカール親子は別の壁に直面する。
維持費と運用組織である。
深海潜航艇は、機体だけ所有していても使えない。
海上へ運ぶ手段が必要。
曳航や揚収の設備が必要。
潜航地点を測量する船が必要。
通信や音響追跡が必要。
整備員が必要。
ガソリン、鉄粒バラスト、電池、酸素、吸収剤などの補給が必要。
故障すれば造船所・機械工場・材料技術が必要になる。
潜航する科学者だけでなく、艇を運用する専門要員も必要になる。
1964年のU.S. Naval Institute Proceedingsの記事は、この時期の問題を非常に明確に整理している。
科学者はトリエステに関心を持っていた。
しかし、艇を継続運用するだけの資金や組織を持っていなかった。
フランスのFNRS IIIでは、フランス海軍が艇の運用を担当し、科学計画を別の委員会が支える形が採られた。
これは重要な先例だった。
極端な深海へ行く乗り物は、学術研究だけでは維持しにくい。
海軍のように、
- 船
- 港
- 修理設備
- 技術者
- 操船要員
- 通信
- 海洋観測
- 長期予算
を持つ組織との組み合わせが現実的だった。
この「運用主体」の問題が、トリエステを米海軍へ近づけた。
1955年、米海軍ONRとの接点が生まれる
Naval History and Heritage Commandの艦歴によれば、1955年、米海軍Office of Naval ResearchのRobert Dietzがロンドンでオーギュスト・ピカールと会い、バチスカーフについて話し合った。
翌年、Dietzはイタリアでトリエステを見学する。
そしてピカールを米国へ招き、米国の深海研究艇としての将来について議論した。
この接触は、単なる珍しい乗り物への興味ではない。
ONRは第二次世界大戦後、海軍と大学・研究機関の基礎研究を結びつける重要な役割を担っていた。
海洋は海軍にとって作戦空間であると同時に、音響、地形、水温、密度、地質、生物など多くの科学問題が直接影響する研究対象だった。
特に水中音響では、海水の温度・圧力・塩分などによって音速や伝播経路が変わる。
ソナーを使う海軍にとって、海中環境を理解することは純粋な学術研究だけではなかった。
ただし、ここから「トリエステは対潜水艦兵器開発のためだけに買われた」と断定するのは行き過ぎである。
公的資料が示すのは、取得後のトリエステがNELのsonar and oceanographic programsを支える研究艇として配置されたこと、そして実際に音響、地質、生物など幅広い研究に使われたことである。
目的は一つではなかった。
1957年の試験が「買う価値がある」を実証した
米海軍が実際に取得へ動くうえで重要だったのが、1957年のONR支援による試験だった。
U.S. Naval Instituteの1964年回顧によれば、ONRは1957年夏、トリエステによる一連の潜航を支援した。
米国の科学者や海軍士官が参加し、ジャック・ピカールが艇を操縦し、各潜航で科学者が同乗した。
重要なのは、単純に「深く潜った」ことではない。
実際の科学者を乗せて、
- 観察
- 計測
- 水中環境の記録
- 研究者による現場判断
が可能なプラットフォームであることを示した。
これによって、トリエステは「ピカール家の実験機」から「米国の研究機関が実務に使える装置」へ評価が変わった。
NHHCの艦歴は、1957年に米国の海洋学者と水中音響専門家がトリエステを試験・調査し、米国政府による取得を推奨したとしている。
彼らはトリエステを、世界最深部の調査を目指すProject Nektonに適した艇と考えた。
ここで一つ注意が必要である。
資料によっては1957年の試験について「MediterraneanでのONR-sponsored dives」と説明するものと、特定の日付・場所を異なる形で簡略化して紹介するものがある。
本記事では、詳細な運用史を記した1964年の回顧とNHHC艦歴に沿い、ONRの評価潜航と専門家による取得勧告が1957年に行われたという点を軸にする。
1958年、米海軍がトリエステを取得する
1958年、トリエステは米海軍のものになる。
NHHCのDirector’s H-Gramでは、取得額を25万ドルとしている。
艇はSan Diegoへ運ばれ、Naval Electronics Laboratoryに配属された。
ここで米海軍は、単に艇を受け取っただけではない。
運用体制を作り始める。
U.S. Naval Instituteの回顧によれば、NELでは大きく二つの役割が分けられた。
科学計画は民間の科学者側。
運用と整備は軍側。
これは非常に合理的な分担だった。
科学者は「何を測るか」「何を観察するか」を決める。
海軍は「どう安全に艇を動かすか」「どう整備し、支援し、潜航を成立させるか」を担当する。
ただし、この時点で一つ大きな問題が残っていた。
トリエステを実際に操縦できる人間がほぼジャック・ピカールしかいなかった。
そこでピカールは米海軍との契約で米国へ同行し、運用と整備を教える役割を担った。
機械を購入しても、ノウハウが移転されなければ運用能力にはならない。
この点でも、トリエステの取得は「物品購入」ではなく、「技術移転を含む能力取得」だった。
Don Walshは、最初から「記録潜航の英雄」として選ばれたわけではない
1960年の記録潜航では、Don Walshの名前がジャック・ピカールと並ぶ。
そのため、最初から「世界最深部へ行くための代表パイロット」として配属されたように見えやすい。
しかしProject Nektonは、個人の冒険計画ではなかった。
米海軍はトリエステを継続的に運用するため、自前のパイロットと整備体制を育てる必要があった。
ジャック・ピカール一人に依存している限り、米海軍が「保有している」と言っても、実質的な運用能力は外部の専門家に依存したままである。
そこで海軍士官が訓練を受ける。
WalshやL. A. Shumakerらが、後に米海軍側のパイロットとなった。
1960年1月23日の潜航でWalshが乗った背景には、この運用能力移転の流れがある。
最深部へ「米海軍士官を乗せる」という象徴性だけではない。
艇の運用主体をピカール家から米海軍組織へ移す過程でもあった。
実際、チャレンジャー海淵潜航後にジャック・ピカールはONRとの契約を終え、スイスへ戻る。
その後のTrieste運用はWalshやShumakerらへ引き継がれた。
「研究艇を買った」だけではProject Nektonにはならない
1958年末、San Diegoで米海軍艇としての潜航が始まった。
しかし、当時のトリエステはそのままではチャレンジャー海淵へ行けない。
既存のTerni製耐圧球は、約20,000ft級を想定したものだった。
これは世界の海洋の大部分を研究するには十分な能力だったが、チャレンジャー海淵は約36,000ft級である。
つまり世界最深部を狙うなら、耐圧球を交換する必要がある。
米海軍は、ドイツのKruppで製造されたより強力な球を導入した。
第2回で扱ったように、このKrupp球は厚肉で、約36,000ft級を対象にした設計だった。
ここからProject Nektonは、単なる「既存研究艇の運用」から、世界最深部を狙う専用計画へ具体化していく。
U.S. Naval Instituteの1964年記事は、1959年春の潜航後、トリエステが「world diving record」への挑戦に向けて改修されたと説明している。
つまり時系列としては、
評価 → 取得 → 米国で運用体制構築 → 近海潜航 → 改修 → Project Nekton本格化
という流れである。
「最深部へ行くために完成済みの艇を購入した」と考えると、この段階的な発展が見えなくなる。
なぜ世界最深部を狙う必要があったのか
ここがProject Nektonを考えるうえで最も難しい部分である。
「なぜチャレンジャー海淵なのか」。
科学的に考えれば、海洋研究のすべてが最深地点でなければ成立しないわけではない。
実際、トリエステの旧耐圧球が到達可能な約20,000ftでも、世界の海洋の大部分は対象にできる。
ではなぜ、さらに強い球を作り、Guamへ送り、最深部まで潜ったのか。
理由は一つではない。
技術実証
世界最深部に耐えられるなら、少なくとも「深すぎるため行けない海域」をほぼなくせる。
これは深海研究艇として極めて強い能力証明になる。
海洋学
極深海の水温、地質、生物、堆積物、音響など、直接観察されていない環境を調べられる。
海軍研究
深海環境と水中音響は、海軍の研究対象でもある。
取得後にNELのsonar/oceanographic programへ組み込まれたことからも、その関心は明確である。
組織的・戦略的能力
1964年の記事では、海洋へ先行して進出し、他国がより深い領域で活動した場合にも対応能力を持つべきだという、冷戦期らしい考え方も示されている。
ただし、これを「Project Nektonは軍事作戦だった」と単純化するべきではない。
公開資料で確認できる計画の実態は、科学・工学・海軍研究が重なった深海研究プロジェクトである。
Project Nektonは「一回の本番潜航」ではなかった
Project Nektonという名前から、1960年1月23日の一回だけを想像しやすい。
実際には、その前に複数の潜航が行われている。
NHHCのH-Gramでは、Guam周辺で7回の試験潜航を行い、チャレンジャー海淵への挑戦に備えたと説明されている。
1959年11月15日には、Mariana Trenchで約18,600ftまで潜り、従来記録を上回る深度へ到達したとNHHC写真解説にある。[1]
これらは単なる予行演習ではない。
Krupp球、シール、浮力調整、通信、曳航、支援船との連携、深度測定、乗員手順。
すべてを実地で確認する段階だった。
第2回で触れたように、Krupp球の接合部からの漏水など、試験によって初めて表面化した問題もある。
つまりProject Nektonは、
改修した艇をいきなり最深部へ落とす計画ではなく、段階的に深度と運用経験を積み上げる試験計画
だった。
Guamを拠点にした理由
チャレンジャー海淵は、Guamの南西側、マリアナ海溝南部にある。
NHHCのH-Gramでは、潜航地点をGuamから約260海里南西としている。
そのため、Project Nektonの実施拠点としてGuamが重要になる。
トリエステ自身は大型の航洋船ではない。
長距離を高速で自航して現場へ向かう艇ではなく、支援を受けながら輸送・曳航される。
Guamから潜航地点までの移動にも支援船が必要だった。
1960年1月23日の本番では、USS Wandank がトリエステを曳航し、支援・通信中継を担当した。
USS Lewis も支援し、ソナーでトリエステの追跡に関わった。
ここでも、「トリエステ一隻が最深部へ行った」という理解では不十分である。
実際には、
- Guamの基地機能
- 支援船
- 曳航
- 通信
- ソナー追跡
- 気象判断
- 整備員
- 海軍と科学者のチーム
が一つのシステムとして必要だった。
深海探査は、潜航艇だけの性能競争ではない。
ロジスティクスの問題でもある。
公開を抑えた「地味な国家プロジェクト」
同時期の米国では、宇宙開発やミサイル計画が大きな注目を集めていた。
一方、Project Nektonはかなり違う進め方をされた。
NHHCのSamuel J. CoxによるH-Gramでは、米海軍の深海潜航計画は意図的に大きな宣伝をせず進められたとされる。
当時のChief of Naval Operations、Arleigh Burkeは計画を把握していたが、広範な事前広報は避けられた。
背景には、海軍がそれ以前に大きく宣伝したミサイル試験の失敗で批判を受けた経験があり、失敗する可能性のある技術挑戦を先に大々的に宣伝したくないという事情があったと説明されている。
この点はProject Nektonの性格をよく表している。
後世から見ると、「人類初の世界最深部到達」は国家的な大イベントに見える。
しかし当事者の運用レベルでは、華々しい記録競争より、
試験し、修理し、もう一度潜り、支援船を確保し、艇を運ぶ
という地道な技術プロジェクトだった。
成功の前日まで「中止」は現実的な選択肢だった
1960年1月23日の本番は、完全な条件下で行われたわけではない。
トリエステは潜航地点への輸送中に損傷を受けていた。
海況も良くなかった。
NHHCのH-Gramでは、WalshとPiccardが損傷を任務遂行上不可欠ではないと判断し、潜航を実施した経緯が記されている。
さらにSan Diegoから潜航中止を命じるメッセージが届いたが、Project DirectorのAndreas Rechnitzerが、その時点では潜航が進行していたという形で対応した有名なエピソードも紹介されている。
この話はドラマチックだが、重要なのは「命令を無視した英雄譚」として読むことではない。
Project Nektonが、
- 現場技術判断
- 組織指揮
- 気象
- 機体状態
- 通信の時間差
- 成功可能性と安全性
を同時に扱う実運用だったことを示している。
最終判断は、人間と組織の問題だった。
米海軍が手に入れた最大の成果は「運用ノウハウ」だった
1958年に買った時点では、トリエステはピカールの艇だった。
1960年1月23日、WalshとPiccardが最深部へ到達した。
しかし、その後の歴史を見ると、米海軍にとって重要だったのは記録そのものだけではない。
Project Nektonの後、ジャック・ピカールは契約を終え、スイスへ戻る。
それでもトリエステの運用は続いた。
WalshとShumakerがパイロットになり、NELは艇を改修し、科学者を乗せ、水中音響・地質・生物研究を進めた。
これは「技術移転が完了した」ことを意味する。
艇を買っただけではない。
運用、整備、潜航計画、支援、パイロット育成まで含めて、米海軍内部に深海潜航能力が残った。
そして1963年、その能力はUSS Thresher の捜索で実任務へ転用される。
最深部記録が一度きりのショーだったなら、ここにはつながらない。
Project Nektonは、米海軍のdeep submergence能力を構築する過程でもあった。
検証ポイント|「米海軍とトリエステ」で誤解しやすい点
1. トリエステは米海軍が設計した艇ではない
設計の中心はオーギュスト・ピカールで、欧州で建造・運用された後、1958年に米海軍が取得した。
2. 最初からChallenger Deep専用艇だったわけではない
1953年から地中海で研究潜航を行っていた。米海軍取得後にKrupp製耐圧球への交換などを行い、最深部挑戦へ対応した。
3. 米海軍が買った理由を「世界記録を取りたかったから」だけにしない
ONRの評価試験では、海洋学・水中音響研究プラットフォームとしての能力が重視された。取得後はNELのsonar/oceanographic programへ組み込まれた。
4. Project Nektonは1960年1月23日の一回だけではない
Guam周辺・Mariana Trenchで複数の試験潜航を行い、段階的に最深部へ近づいた。
5. Jacques Piccardは単なる同乗科学者ではない
トリエステの設計・運用を熟知したパイロットであり、取得後は米海軍へ運用・整備を教える役割も担った。
6. Don Walshだけで米海軍の運用移管が成立したわけではない
NELの科学者、整備員、軍人、支援船、海軍組織全体が必要だった。WalshやShumakerらの訓練は、その中のパイロット能力移転に当たる。
7. Project Nektonを単純な軍事作戦とみなさない
海軍組織が運用し、軍事的に重要な水中音響研究との接点もあったが、公開資料が示す活動は海洋学、音響、工学を横断する研究計画だった。
なぜこの取得判断が歴史的だったのか
トリエステ以前にも、深海へ挑んだ研究者はいた。
トリエステ以外にも、フランスのFNRS IIIが高い深度能力を示していた。
したがって米海軍の歴史的役割を、「世界で初めて深海艇を考えた」と説明するのは正しくない。
重要なのは別の部分にある。
既に存在していた実験技術を、継続運用できる組織能力へ変えたこと。
ピカールの発明。
欧州での建造。
ONRによる評価。
米国科学者による試験。
海軍による購入。
NELによる研究運用。
Krupp球への改修。
Guamへの展開。
支援船との統合。
米海軍パイロットの育成。
これらが連結した結果、1953年には個人研究者中心だったバチスカーフが、1960年には世界最深部へ挑める国家規模の研究システムになった。
この変化こそ、Project Nektonの前半で起きたことである。
まとめ|Project Nektonを作ったのは、艇の性能より「艇を使える組織」だった
トリエステのチャレンジャー海淵潜航は、しばしば二人の人間と一隻の奇妙な艇の物語として語られる。
それは間違いではない。
しかし、それだけでは1960年1月23日がなぜ実現したのかを説明できない。
オーギュスト・ピカールは、自由潜航型の深海研究艇という発想を形にした。
ジャック・ピカールは、その艇を実際に運用する技術を持っていた。
ONRの研究者は、トリエステを米国の海洋学・水中音響研究へ使えると評価した。
米海軍は、個人や大学だけでは維持しにくい支援船、基地、整備、予算、人員を提供した。
NELは科学計画と運用体制を組み合わせた。
Krupp製耐圧球によって、艇の限界を約36,000ft級へ引き上げた。
そしてGuamを拠点に試験潜航を繰り返し、最深部へ向かった。
この意味で、Project Nektonは「すごい潜水艇があったから成功した」のではない。
発明、技術移転、組織、ロジスティクス、試験、現場運用が接続されたから成功した。
次回は、その準備が実際の一日にどう結実したのかを見る。
1960年1月23日。
トリエステはGuam沖の支援体制から離れ、チャレンジャー海淵へ降下を始める。
約11km下までの降下中、何が起こったのか。
どの時点で異常が発生し、海底で何を見て、どう浮上したのか。
CASE059-04では、Project Nektonの頂点となった潜航を、時間軸に沿って追う。
FACT CHECK|出典・参考資料
- [1] George W. Martin, Lieutenant, U.S. Navy, “Trieste—The First Ten Years,” U.S. Naval Institute Proceedings, Vol. 90/8/738, August 1964
- [2] Naval History and Heritage Command, “Trieste I (Bathyscaphe)”
- [3] Naval History and Heritage Command, “Bathyscaphe Trieste”
- [4] Samuel J. Cox, Naval History and Heritage Command, “H-041-6: Trieste and the First Dive to Deepest Part of the Oceans, January 1960”
- [5] Naval History and Heritage Command, “Wandank II (ATA-204)”
- [6] Naval History and Heritage Command, “Lewis II (DE-535)”
- [7] U.S. Naval Undersea Museum, “Trieste II (DSV 1)”
バチスカーフ・トリエステ|人類はどうマリアナ海溝最深部へ到達したのか 第3回 全8回 全8回を見る
- 01 バチスカーフ・トリエステとは何だったのか|1960年、有人艇がチャレンジャー海淵へ到達するまで
- 02 トリエステはどうやって約11km潜れたのか|ガソリン浮力・耐圧球・鉄バラストの仕組み
- 03 なぜ米海軍はトリエステを買ったのか|PiccardからProject Nektonまで
- 04 バチスカーフ・トリエステ|1960年1月23日、最深部へどう潜ったのか|チャレンジャー海淵9時間の記録
- 05 深海で何が壊れかけたのか|トリエステの耐圧球・観測窓・圧力との戦い
- 06 トリエステは何mまで潜ったのか|37,800ftから約35,800ftへ修正された理由
- 07 記録潜航の後、トリエステは何に使われたのか|研究潜航とUSS Thresher捜索
- 08 トリエステは深海探査をどう変えたのか|2012年・2019年へ続く「最深部」の遺産