1960年1月23日、トリエステはチャレンジャー海淵へ到達した。
その記録だけを見ると、トリエステは「世界最深部へ一度だけ潜るための特殊艇」だったように見える。
しかし、米海軍にとって本当に重要だったのは、その後だった。
最深部記録を作った艇を、研究者が繰り返し使える深海観測プラットフォームへ変える。
そして1963年には、沈没した原子力潜水艦USS Thresher(SSN-593)の残骸を探す実任務へ投入する。
この変化によって、トリエステの意味は大きく変わった。
1960年のChallenger Deepでは、
「人間はどこまで深く行けるか」
が問われた。
1961年以後は、
「深海まで行ける能力を、科学研究にどう使うか」
が問われた。
1963年のThresher捜索では、さらに、
「既知の深度能力を、広い海底から具体的な対象物を探し、写真を撮り、物証を持ち帰る作業へ使えるか」
が問われた。
記録艇から研究艇へ。
研究艇から捜索艇へ。
トリエステの最初の10年間は、この変化の歴史だった。
結論:トリエステの真価は「世界記録」より、深海で仕事をしたことにあった
U.S. Naval Instituteの1964年回顧は、Thresher捜索を終えたトリエステについて、非常に象徴的な評価をしている。
世界最深潜航の記録を持つだけでなく、purely scientific craftからoperational vehicleへ変わったというのである。
ここでいうoperationalは、戦闘艇になったという意味ではない。
具体的な任務目標があり、
- 指定海域へ展開する
- 何度も潜る
- 海底を探索する
- 対象物を識別する
- 写真を撮る
- 一部を回収する
- 潜航後に海上で再補給する
- 翌日また潜る
という一連の作業を成立させたという意味である。
これは1960年のChallenger Deep潜航とは違う能力だった。
世界記録を一度作ることと、毎週あるいは数日おきに深海で作業することは、同じではない。
Jacques Piccardが去った後も、トリエステは止まらなかった
Challenger Deep潜航後、ジャック・ピカールはOffice of Naval Researchとの契約を終え、スイスへ戻った。
これで「ピカールの艇」としての時代は事実上終わる。
その後、米海軍側ではDon WalshとL. A. Shumakerがパイロットを担った。
Project NEKTON IIは1960年7月まで続き、その後の約1年間はSan Diegoで改修と再整備に使われた。
ここで重要なのは、最深部用のKrupp球を使い続けて世界記録だけを追ったのではないことだ。
科学研究用にはTerni sphereへ機器を搭載し直し、
- floatの修理
- 最近の運用経験を反映した改修
- 科学機器の搭載
- 整備員の訓練
を進めた。
世界最深部用の一回限りの構成から、日常的な研究運用へ戻す作業だった。
1961年9月14日、科学研究が本格的に再開する
U.S. Naval Instituteの回顧によれば、1961年9月14日のDive Number 81が、Navy Electronics Laboratoryでの本格的な科学潜航の再開点だった。
1961年9月から1962年10月まで、トリエステは科学者と機器を載せて潜航を重ねた。
研究分野は一つではない。
- acoustic studies
- geological investigations
- biological investigations
つまり、水中音響、地質、生物の研究である。
これはCASE059-03で扱った「NELのsonar and oceanographic programs」という取得目的が、実際の運用になった段階だ。
最深部へ潜れること自体が研究なのではない。
深海へ科学者を連れていき、その場で観察・測定できることが目的になる。
潜航は「週1回」が基本だった
この時期の運用を見ると、トリエステがどれほど手のかかる機械だったかが分かる。
1964年の回顧では、天候が許せば週1回の潜航というスケジュールだったとされる。
パイロットは交代で潜り、一方はsurface safety officerを務める。
耐圧球にはパイロットだけでなく、1人または2人のscientific observersが乗った。
そして潜航しない日は休みではない。
9人の下士官と1人の民間技術者が、
- 故障した装置を修理
- 次の観測機器を取り付け
- 配線を変更
- ライトを整備
- カメラを調整
- 推進装置を修理
する。
多くの機器はone-of-a-kind、つまり量産品ではない。
壊れたから交換品を倉庫から出す、という運用ではなかった。
一回潜るたびに手を入れ、次の一回を作る。
この地味な反復こそ、トリエステが実験機から研究設備へ変わる過程だった。
1962年10月31日、Dive 115で科学潜航シーズンを終える
1961年9月にDive 81から始まった研究シリーズは、1962年10月31日のDive 115まで続いた。
この間に、推進モーター、underwater lights、camera systemなども改善された。
重要なのは、「一度完成した機体を使い続けた」のではないことだ。
潜る。
弱点が分かる。
改良する。
次の科学者の要求に合わせて機器を積み替える。
また潜る。
この反復によって運用成熟度が上がった。
そして冬になると、さらに大きな整備へ入る。
1962年冬、耐圧球そのものを初めて大きく開いて点検した
1962年から1963年にかけての冬、トリエステはfloatのrefitとTerni sphereのoverhaulを行った。
1964年の回顧によると、この作業では球を開き、内部を詳細に点検している。
しかも当時、十分なblueprintsが手元になかったため、作業は慎重に進められた。
球は二つのhemisphereからなり、接合面の間にはO-ringがある。
点検では接合面にcorrosionが見つかり、研削して除去された。
その後、再接着・再組立される。
retaining ringsも、将来より容易に開けられるよう改修された。
第5回で扱ったように、耐圧球の安全性は「鋼が厚いか」だけでは決まらない。
接合面。
シール。
腐食。
保守性。
これらも長期運用では重要になる。
世界記録を作った機械も、3年後には「点検できる構造」「次の整備をしやすい構造」へ改善されていた。
1963年4月4日、Dive 117は成功した
オーバーホール後、1963年4月4日にDive 117が行われる。
整備したTerni sphereは正常に機能し、漏水はなかった。
次の科学潜航は1週間後、4月11日に予定されていた。
しかし、その潜航は行われなかった。
前日の4月10日、米海軍の原子力潜水艦USS Thresher(SSN-593)が大西洋で消息を絶ったからである。
トリエステの運用目的は、一日で変わった。
USS Thresher喪失|最初は「救難」、すぐに「海底捜索」へ変わった
1963年4月10日、Thresherは深海潜航試験中に失われた。
乗員・造船所関係者を含む全員が死亡した。
事故直後、米海軍の最優先は当然、救難と生存者捜索だった。
しかし時間が経つと状況は変わる。
U.S. Naval Instituteの1964年「Searching for the Thresher」によれば、最初の約20時間を過ぎると、生存者を探す通常のsearch and rescueから、
海底に沈んだ潜水艦を特定するoceanographic expedition
へ性格が変わった。
ここで問題になるのは、水深約8,400ftの海底である。
人間の目で直接確認するには、通常の潜水艦では深すぎる。
カメラ、ソナー、曳航装置を使って候補海域を絞り込み、最後に「何があるか」を確認する装置が必要だった。
その候補がトリエステだった。
捜索には最初からTriesteを投入できなかった
事故が起きたからといって、すぐトリエステを沈めればよいわけではない。
USNIのThresher事故回顧では、トリエステを投入する前に重大な制約が検討されたとする。
- 水中での移動が遅い
- 海底で活動できる時間は約4時間
- 一回に目視できるsearch widthは約100ft
- 潜航シリーズごとに点検・整備が必要
つまり、トリエステは「広い海底を高速で走査して事故艇を探す機械」ではない。
視界と速度が限られる以上、
先に別の船・ソナー・カメラで捜索範囲を可能な限り狭めなければならない。
ここが重要である。
トリエステは最も深く潜れるから、最初から万能な捜索装置だったわけではない。
深度能力は非常に高い。
しかし探索面積は狭い。
そのため、広域捜索と詳細確認を別のシステムに分担させる必要があった。
13隻から始まり、最終的には「海洋調査隊」になった
Thresher捜索は巨大な作戦だった。
「Searching for the Thresher」によれば、事故直後には最大13隻の艦艇と航空機が投入された。
その後、捜索の性格が変わるにつれて、海洋調査船、ソナー、深海カメラ、技術専門家が中心になる。
1963年4月10日から9月6日までの全体では、
- 28隻のnaval warships
- 5隻のoceanographic research / service vessels
がTask Group 89.7に関与したとされる。
つまり、トリエステ単独が海底からThresherを「見つけた」という単純な話ではない。
まず広域捜索があり、
海底写真があり、
ソナー情報があり、
候補海域が狭まり、
その上でトリエステが人間の目とカメラを持ち込んだ。
トリエステは捜索システムの最終段階に近い役割だった。
4月11日、San DiegoのTriesteに出動準備命令
Thresher喪失の翌日、4月11日にはトリエステを捜索へ投入するための準備命令が出た。
当時トリエステはSan DiegoのNavy Electronics Laboratoryにいた。
東海岸までは自力で航行できない。
そこでLSD-31 USS Point DefianceによってBostonへ運ばれた。
この移送だけでも、バチスカーフが普通の潜水艦とは違うことが分かる。
自分で大洋を横断し、現地で潜る艇ではない。
母体となる輸送・支援システムを必要とする。
Boston到着後、トリエステはThresher捜索用に準備された。
しかし、新しい課題があった。
一回潜って港へ戻る運用では間に合わない。
Challenger Deepでできなかった「海上再補給」を作る
CASE059-04で扱ったように、1960年のChallenger Deep潜航後、トリエステは現場ですぐ2回目を行えなかった。
大きな理由の一つが、海上で鉄粒バラストを再装填できなかったことだった。
Thresher捜索では、同じ問題を残すわけにはいかない。
何度も連続して潜らなければ、広い海底を確認できないからである。
1964年の回顧によれば、1963年の大西洋運用では、トリエステが浮上した直後から一晩かけて次の潜航準備をした。
補給内容は具体的である。
- storage batteriesの充電
- 9 tonsのsteel ballast補充
- maneuvering tankで消費するgasolineの補給
- oxygen補給
- carbon dioxide absorbent交換
- 捜索機器の修理
バッテリーの充電時間が、翌日の潜航開始時刻を決めた。
これは大きな運用進化だった。
最深部潜航では「一度行って戻る」ことが成功条件だった。
Thresher捜索では、
潜る → 浮上 → 海上で再生 → 翌日また潜る
というサイクルを作る必要があった。
深度記録とは違う種類の技術だった。
USS Preserverの支援が連続潜航を成立させた
この再補給・整備をトリエステの少人数チームだけで行ったわけではない。
救難艦USS Preserver(ARS-8)の乗員が、修理や再準備を支援した。
深海艇の実用運用では、母船・支援船の能力が艇そのものと同じくらい重要になる。
鉄粒9トンを毎回補充する。
電池を充電する。
酸素とCO₂吸収剤を交換する。
波のある海上で機器を修理する。
これらができなければ、トリエステが8,400ftへ潜れる性能を持っていても、捜索任務は成立しない。
1963年6月20日、最初の5回の捜索潜航が始まる
トリエステは6月20日、捜索海域へ曳航された。
最初のシリーズはDive 119からDive 123。
7日間で5回潜った。
天候は良好だった。
そのうち2回の潜航で、Thresherのものと考えられるdebrisを確認・撮影した。
これは重要な成果だった。
海底カメラで「何かがある」ことを示すだけでなく、人間を現場へ送り、観察し、写真を撮る。
トリエステの役割が、記録潜航から対象物確認へ変わった瞬間である。
最初の5回の後、一度upkeep期間に入る。
ここでbattery capacityを増やし、実際の捜索運用で分かった問題を修正した。
本番任務の途中で改修し、もう一度現場へ戻る。
Project Nektonと同じく、
運用 → 問題発見 → 改修 → 再投入
のサイクルが続いている。
8月、Dive 124〜128で再び海底へ
トリエステは8月、Thresher捜索海域へ戻った。
今度はDive 124から128。
再び5回。
合計すると、Thresher捜索で原型Triesteが行った潜航は10回になる。
このシリーズで特に重要なのがDive 126である。
U.S. Naval Instituteの回顧によれば、Dive 126でThresherのsignificant piecesが目視・撮影された。
パイロットはLieutenant Commander Donald L. Keachではなく、資料ではLieutenant Commander Reachと記される系統もあり、NHHC DANFSはCommander Donald A. Reachとして表記している。
この人名表記については公的資料の表記に従い、本記事ではDonald A. Reachを採る。
さらに、この潜航ではmanipulatorを使ってdebrisの一部を回収した。
NHHCが保存する公式写真のキャプションには、トリエステが回収したbrass pipeに、
“593 Boat”
と刻印されていたことが記録されている。
593はThresherの船体番号である。
単なる「似た金属片」ではない。
事故艇との直接的な関連を示す物証だった。
「593」と読める残骸が、捜索を事故現場の確認へ変えた
NHHCの艦歴や概要では、トリエステがThresherのsailを含む残骸を発見し、そこに船体番号「593」が明確に見えたと説明されている。
また、公式写真記録では「593 Boat」の刻印を持つbrass pipeがTriesteによって回収されたことが確認できる。
この段階で、深海底のdebris fieldがUSS Thresherのものだという同定は大きく前進した。
さらにNHHCのThresherページは、Triesteが撮影した写真によって、潜水艦が海底へ無傷のまま沈んだのではなく、break upしていたことが確認されたとしている。
つまり、トリエステが持ち込んだ価値は「場所を見つける」だけではない。
事故後の状態を、人間の観察と写真によって記録することだった。
ただし、TriesteだけでThresherを見つけたわけではない
ここは表現を慎重にする必要がある。
NHHCの概要ページでは、
「Trieste discovered debris from Thresher」
と短く説明される。
一方、全体の捜索記録を見ると、その前段階には多くの船、ソナー、海底カメラ、海洋学者、技術者の作業があった。
Triesteが闇雲に大西洋へ潜り、偶然Thresherを見つけたわけではない。
その探索幅は狭い。
移動も遅い。
だからこそ、候補海域を別の方法で絞り込んだ後に投入された。
より正確には、
広域捜索システムが候補海域を絞り、Triesteが深海で人間による詳細確認・写真撮影・一部回収を行い、wreckageの同定を確実にした。
という構図になる。
8月の捜索は、海況との戦いになった
最初の6月シリーズは天候に恵まれた。
しかし8月のDive 124〜128では、状況が悪化する。
1964年の回顧では、この5回を終えるのに12日を要し、高いsea statesと悪化する天候に妨げられたとしている。
原型Triesteは深海圧力には強い。
しかし海面では弱い。
巨大な薄肉float。
低いfreeboard。
露出したbattery boxes。
配線。
access trunk。
これらが波浪の影響を受ける。
これは一見、矛盾している。
35,000ftを超える深海へ行けるのに、海面の波で運用が止まる。
しかし理由は明確である。
耐圧球は深海用に強化されている。
一方、巨大なfloatは内外圧を均衡させるため、耐圧殻のような厚肉構造ではない。
海面で波に叩かれる機械的荷重は、深海の静水圧とは別問題なのである。
バッテリーボックスが波で壊れ、10年物のfloatが限界へ近づく
Dive 128を終えた時点で、原型Triesteの運用余力は大きく低下していた。
1964年の回顧では、
- wave-damaged battery boxes
- 10-year-old floatのmaterial condition悪化
を理由として挙げている。
これが原型Triesteにとって最後の潜航になった。
ここで皮肉なのは、世界最深部で壊れなかった艇が、実任務の繰り返しと海面波浪によって寿命を迎えたことである。
極限機械の寿命は、最大荷重一回だけでは決まらない。
曳航。
波浪。
補修。
腐食。
配線。
バッテリー。
繰り返し潜航。
これらの累積が効いてくる。
原型Triesteの最後の潜航は「世界記録」ではなく捜索任務だった
Dive 128は、原型Triesteの最後の潜航になった。
この事実は象徴的である。
最も有名な潜航は1960年1月23日。
しかし、機体としての最後は記録挑戦ではない。
USS Thresherの捜索。
つまりトリエステは、
「どこまで行けるか」を証明した艇として始まり、 「深海で何ができるか」を証明する艇として終わった。
米海軍はこの捜索活動に対し、Triesteとその指揮官へNavy Unit Commendationを授与した。
そして原型TriesteはSan Diegoへ戻され、運用を終了する。
Thresher捜索で見えた弱点がTrieste IIの要求仕様になった
原型Triesteの終了は、深海計画の終了ではなかった。
むしろ逆である。
1962年からすでにreplacement floatの設計が進められていた。
そして1963年のThresher捜索は、「次の艇で何を直すべきか」を実戦的に示した。
1964年の回顧に挙げられた主な課題は明確である。
海上運用性
原型Triesteは穏やかな海でも曳航速度が約4knotsに制約された。
より高速かつ安全に曳航できる必要がある。
乾舷
作業甲板が低く、波をかぶりやすい。
海面で乗員・整備員が安全に作業できる必要がある。
access tubeの保護
波がaccess trunkへ入り、潜航が何日も遅れることがあった。
配線・コネクター
露出した電気配線やhand spliceは、海水と曳航で信頼性を損なう。
battery / camera / sonarの保護
波浪から重要機器を守る必要がある。
水中速度・航続
対象物を探すには、単に深く潜れるだけでなく、海底でより広く動ける必要がある。
これらがTrieste IIの設計へ反映された。
つまりThresher捜索は、事故調査だけではなく、
次世代深海艇の実要求を抽出する長期フィールドテスト
にもなった。
「深く潜れる」と「探せる」は別の能力だった
トリエステの10年間から最も重要な教訓の一つがこれである。
Challenger Deepでは、目的地がほぼ決まっていた。
垂直に降下する。
海底へ着く。
浮上する。
Thresher捜索では違う。
海底のどこに対象物があるか分からない。
横へ移動する必要がある。
限られた視界で探す必要がある。
カメラや照明を長時間使う。
位置情報を維持する。
何度も潜る。
そのたびに再補給する。
悪天候でも支援しなければならない。
つまり、最大深度性能が高くても、
search rate、navigation、endurance、reliability、turnaround time
が低ければ捜索艇としては使いにくい。
原型Triesteは、1963年の実任務でその差を明確にした。
深海技術の価値は「記録」から「反復可能性」へ移った
1960年のChallenger Deep潜航は、一回の成功として歴史に残った。
しかし1961年以後の運用を見ると、海軍が求める価値は変わっている。
週に一回潜れるか。
研究者を乗せられるか。
機器を交換できるか。
一晩で再補給できるか。
翌日また潜れるか。
海底で数時間探せるか。
故障した装置を現場で直せるか。
高い波の中でも支援できるか。
これは「最大値」の世界ではない。
稼働率と再現性の世界である。
極限環境技術が実用化されるとき、評価軸は必ずここへ移る。
一回できた。
ではなく、
何回できるか。
どれだけ早く再開できるか。
誰が運用しても再現できるか。
トリエステは、その移行過程を非常に分かりやすく見せる。
FACT CHECK|USS Thresher捜索とTriesteで混同しやすい点
1. Thresher事故直後からTriesteだけで捜索したわけではない
事故直後は多数の艦艇・航空機による救難捜索だった。
その後、海洋調査船、ソナー、深海カメラなどを使う海底捜索へ移行した。
2. Triesteは広域探索に向いた艇ではない
速度が遅く、一回のsearch widthも狭い。
先に別の手段で候補海域を絞る必要があった。
3. 1963年のThresher捜索潜航は計10回
6月のDive 119〜123。
8月のDive 124〜128。
4. 連続潜航には海上再補給システムが必要だった
毎回、電池充電、約9トンの鉄バラスト、操舵用ガソリン、酸素、CO₂吸収剤などを補給した。
5. Triesteは写真だけでなく物証も回収した
Dive 126ではmanipulatorで配管の一部を回収。
NHHC公式写真には「593 Boat」と刻印されたbrass pipeが残る。
6. 「Trieste単独でThresherを発見した」と言い切らない
広域捜索チームが海域を絞り、Triesteが人間による深海詳細確認・撮影・回収を行ったと表現する方が正確。
7. 原型Triesteの最後の潜航はDive 128
その後、機体はSan Diegoへ戻され運用を終了した。
8. Thresher捜索後も「Trieste」の名前が続くため、原型艇とTrieste IIを混同しない
1964年以降に改良型Trieste IIが活動する。
本記事で扱う1963年の計10回の捜索潜航は、原型Triesteの最終運用である。
1960年と1963年を比較すると、何が変わったのか
| 項目 | Challenger Deep 1960 | Thresher search 1963 |
|---|---|---|
| 主目的 | 最深部への有人到達 | 海底残骸の捜索・識別 |
| 潜航回数 | 記録潜航中心 | 2シリーズ計10回 |
| 水平探索 | 限定的 | 任務上重要 |
| 海上再補給 | 即時反復できず | 毎潜航後に実施 |
| 観測 | 海底環境確認 | wreckageの写真・識別 |
| 回収 | 主目的でない | manipulatorで物証回収 |
| 支援要求 | 曳航・通信・潜航支援 | さらに補給・整備・連続運用 |
| 成果 | 到達可能性の実証 | 深海作業能力の実証 |
| 次世代への教訓 | 極深度設計 | seaworthiness・reliability・endurance・search capability |
この比較を見ると、1963年の方が最大深度は浅い。
しかし、システムとして要求される仕事はむしろ複雑になっている。
「より深い」が、常に「より難しい」とは限らない。
未知の対象を探し、何度も潜り、海上で整備し、証拠を残す。
これは別種類の難しさである。
まとめ|トリエステは「一度だけ最深部へ行った艇」ではなかった
トリエステの歴史を1960年1月23日で終えると、この艇の半分しか見えない。
記録潜航後、ジャック・ピカールは去った。
米海軍は自前のパイロットと整備員を育てた。
1961年から1962年にかけて、トリエステは水中音響、地質、生物研究のために週単位で潜航した。
耐圧球を開き、腐食を直し、機器を更新した。
1963年4月、次の科学潜航を目前にUSS Thresherが失われた。
トリエステはSan DiegoからBostonへ運ばれた。
そこで初めて、毎回の潜航後に海上で再補給し、短期間に繰り返し潜る運用が作られた。
6月に5回。
8月に5回。
海底で残骸を撮影し、識別し、物証を回収した。
そして、その任務の中で原型Trieste自身の弱点も露呈した。
波で傷むbattery boxes。
低いfreeboard。
弱い曳航性能。
露出した配線。
狭い探索幅。
限られた航続。
これらは失敗ではない。
実際に仕事をさせたから見えた次世代の要求仕様だった。
世界最深部への一回の潜航が、トリエステを有名にした。
しかし、深海技術史にとってより重要なのは、
その能力を反復可能な研究と捜索へ変えたこと
だった。
次回は、この10年間をさらに長い時間軸で見る。
1960年のトリエステから、2012年のDEEPSEA CHALLENGER、2019年以降のLimiting Factorへ。
何が引き継がれ、何が変わったのか。
CASE059-08では、トリエステが残した「最深部へ行ける」という記録以上の遺産を整理する。
出典・参考資料
- George W. Martin, Lieutenant, U.S. Navy, “Trieste—The First Ten Years,” U.S. Naval Institute Proceedings, Vol. 90/8/738, August 1964
https://www.usni.org/magazines/proceedings/1964/august/trieste-first-ten-years
- Frank A. Andrews, Captain, U.S. Navy, “Searching for the Thresher,” U.S. Naval Institute Proceedings, Vol. 90/5/735, May 1964
https://www.usni.org/magazines/proceedings/1964/may/searching-thresher
- Naval History and Heritage Command, “Bathyscaphe Trieste”
https://www.history.navy.mil/browse-by-topic/exploration-and-innovation/bathyscaph-trieste.html
- Naval History and Heritage Command, “Trieste I (Bathyscaphe)”
https://www.history.navy.mil/research/histories/ship-histories/danfs/t/trieste.html
- Naval History and Heritage Command, “USS Thresher (SSN-593)”
https://www.history.navy.mil/browse-by-topic/ships/submarines/uss-thresher–ssn-593-.html
- Naval History and Heritage Command, “330-PSA-191-63 (USN 711350): Wreck of USS Thresher (SSN-593), 1963”
https://www.history.navy.mil/content/history/museums/nmusn/explore/photography/ships-us/ships-usn-t/uss-thresher-ssn-593/330-psa-191-63-usn-711350.html
- U.S. Naval Institute Proceedings, “USS Thresher (SSN-593): 3 August 1961–10 April 1963,” March 1964
https://www.usni.org/magazines/proceedings/1964/march/uss-thresher-ssn-593-3-august-1961-10-april-1963
バチスカーフ・トリエステ|人類はどうマリアナ海溝最深部へ到達したのか 第7回 全8回 全8回を見る
- 01 バチスカーフ・トリエステとは何だったのか|1960年、有人艇がチャレンジャー海淵へ到達するまで
- 02 トリエステはどうやって約11km潜れたのか|ガソリン浮力・耐圧球・鉄バラストの仕組み
- 03 なぜ米海軍はトリエステを買ったのか|PiccardからProject Nektonまで
- 04 バチスカーフ・トリエステ|1960年1月23日、最深部へどう潜ったのか|チャレンジャー海淵9時間の記録
- 05 深海で何が壊れかけたのか|トリエステの耐圧球・観測窓・圧力との戦い
- 06 トリエステは何mまで潜ったのか|37,800ftから約35,800ftへ修正された理由
- 07 記録潜航の後、トリエステは何に使われたのか|研究潜航とUSS Thresher捜索
- 08 トリエステは深海探査をどう変えたのか|2012年・2019年へ続く「最深部」の遺産