THE QUESTION
1960年1月23日、最深部へどう潜ったのか | チャレンジャー海淵9時間の記録について、この回が担う固有の論点は何か。
STORY SO FAR
前回「なぜ米海軍はトリエステを買ったのか|PiccardからProject Nektonまで」で確認した論点を受け、この回では1960年1月23日、最深部へどう潜ったのか | チャレンジャー海淵9時間の記録について、この回が担う固有の論点は何か。を扱う。
1960年1月23日、バチスカーフ「トリエステ」はマリアナ海溝のチャレンジャー海淵へ潜った。
乗っていたのは、米海軍中尉ドン・ウォルシュと、スイス人技術者ジャック・ピカール。
この潜航は後に「人類初の世界最深部到達」として記録される。
しかし、成功だけを一行で見ると、この一日がどれほど不確実な条件の積み重ねだったかが見えない。
現場はGuamから約260海里南西。
海況は良くない。
トリエステは潜航地点までの移動中に損傷していた。
San Diegoからは潜航中止を指示するメッセージまで届いた。
それでも現場は実施を判断した。
潜航を開始すると、予想以上に多い温度躍層が降下を妨げた。
深度32,400ft付近では艇に衝撃と異音が走った。
それでも降下を継続した。
海底到達まで4時間47分。
海底に留まったのは約20分。
浮上には3時間15分。
米海軍史料が「nine hours submerged」と表現するのは、この一連の行程を丸めたものと考えるのが適切である。
重要なのは「9時間かかった」という数字そのものではない。
降下の途中で何を判断し、海底で何ができ、どの異常を抱えたまま戻ってきたのか。
今回は、1960年1月23日の潜航を時間軸に沿って追う。
結論:記録を作ったのは「深く潜れたこと」ではなく、異常を抱えながら帰還まで成立させたこと
チャレンジャー海淵への潜航は、大きく三つの区間に分けられる。
降下
約4時間47分。
予想外の温度躍層を通過し、浮力を調整しながら約35,800ft級の海底へ向かった。
海底滞在
約20分。
計画上は30分だったが、着底で巻き上げた堆積物によって視界が悪化し、観測を切り上げた。
浮上
約3時間15分。
鉄粒バラストを放出し、正浮力によって海面へ戻った。
合計すると8時間22分程度になる。
乗降や潜航準備などを含む記録表現では「約9時間」「nine hours submerged」とされることがあるため、このシリーズでは「降下に9時間」とは書かない。
この潜航で本当に重要だったのは、最深部へ着いた瞬間だけではない。
降下中の判断。
海底での短い観測。
バラスト放出による浮上。
そして海面へ戻った後で初めて分かった損傷。
これらを一つのミッションとして完了させたことにある。
潜航地点はGuamの約260海里南西
Project Nektonの拠点はGuamだった。
NHHCのH-041-6では、Challenger DeepをGuamから約260 nautical miles southwestと説明している。
トリエステは長距離を高速自航する艇ではない。
潜航地点までは支援船による曳航が必要だった。
1960年1月23日、補助海洋曳船USS Wandank がトリエステを曳航して潜航地点へ到着した。
Wandank は支援・通信中継を担当する。
さらに駆逐艦護衛艦USS Lewis が追加支援に入り、ソナーによる追跡などを担った。
つまり、海底へ向かったのは2人だが、潜航全体はトリエステだけで成立したものではない。
海面には支援船と運用チームが残っていた。
Google Maps|Challenger DeepとGuamの位置関係
この地図は、1960年の厳密な着底座標を断定するためではなく、現在の地理上でChallenger DeepがGuamの南西側に位置することを確認するために表示する。
Google MapsでChallenger Deepを確認する
※現在のGoogle Maps表示を、1960年1月23日の艇の厳密な着底座標そのものとして扱わない。
本番前から条件は悪かった
「歴史的潜航」という言葉からは、慎重に整えられた静かな実験を想像するかもしれない。
実際には、本番前から問題があった。
NHHCのH-041-6によれば、天候は特に良好ではなかった。
さらに、トリエステは潜航地点への移動中に損傷していた。
トリエステの浮力体は深海の圧力差を受けない代わりに、薄い構造である。
そのため、深海そのものだけでなく、海面で波を受けながら曳航される時間も機体にとって負担だった。
この弱点は、後のTrieste IIで改善対象になる。
本番前、ウォルシュとピカールは損傷状態を確認した。
そして「任務遂行上不可欠ではない」と判断した。
ここで重要なのは、損傷がなかったことではない。
損傷を認識したうえで、それが潜航を中止すべき故障かどうかを判断したことである。
極限環境の運用では、「完全な状態だけで実施する」ことが常に可能とは限らない。
必要なのは、
- 何が壊れているのか
- その故障がどの機能へ波及するのか
- 冗長性や代替手段があるのか
- 継続した場合のリスクは何か
を切り分けることである。
1960年1月23日の潜航は、その判断から始まっていた。
San Diegoからは「中止」のメッセージが届いていた
さらに組織側からも停止要因が入る。
NHHCのH-041-6には、トリエステが潜航準備を進めている最中、San Diegoから潜航中止を命じるメッセージが届いたと記されている。
Project DirectorのAndreas Rechnitzerは、そのメッセージをすぐ現場判断へ反映せず、後に「トリエステはすでに10,000ftを通過している」という趣旨で返答したという。
この逸話はしばしば、反骨的な英雄物語として語られる。
しかし運用面で見ると、もっと複雑である。
San Diego側が見ている情報と、現場が見ている機体・海況の情報は同じではない。
一方、現場判断だけで重大なリスクを無視してよいわけでもない。
ここには、
- 遠隔指揮
- 現場権限
- 通信遅延
- 機体状態
- 気象
- 実施機会
- 安全余裕
の衝突がある。
Project Nektonは技術試験であると同時に、組織運用の試験でもあった。
降下開始|最初の課題は「深さ」ではなく浮力の変化だった
潜航は日の出から数時間後に始まった。
トリエステは水バラストを取り込み、負浮力を作って降下する。
第2回で説明したように、トリエステは潜るほどガソリンが圧縮・冷却され、浮力状態が変化する。
そのため、降下中は鉄粒バラストを少しずつ放出して降下率を調整する。
1960年1月23日は、ここへもう一つの問題が加わった。
予想より多くのthermocline、温度躍層が存在した。
温度躍層では水温が急に変化する。
ガソリンの温度が変われば体積も変わり、浮力に影響する。
NHHCの説明では、各温度躍層に対して二つの選択肢があった。
一つは、AVGASが冷えるまで待つ。
もう一つは、予備のAVGASを放出して層を通過する。
待てば時間がかかる。
しかし、潜航は暗くなる前に海面へ戻る必要があった。
ウォルシュとピカールは時間を優先し、一部の予備ガソリンを使って温度躍層を抜けた。
この判断は、単純な「速く降りた」という話ではない。
予備浮力と時間を交換したことになる。
深海潜航では、時間も安全資源の一つだった。
海面から数千m下では、外は完全な暗闇になる
降下が進むと、太陽光は届かなくなる。
外界を直接見るには、艇の照明が必要になる。
艇内の2人は狭い耐圧球にいる。
視界は小さな観測窓。
外部照明、計器、音響測深、通信。
地表の乗り物であれば、周囲の地形を目で確認しながら進める。
しかしトリエステの降下では、長時間にわたり「まだ海底が見えない」状態が続く。
その中で重要なのが、海底までの距離を測るecho sounderである。
深度計が「海面からどれだけ降りたか」を示すのに対し、海底へ安全に近づくには「自分の下にあとどれだけ水があるか」を知る必要がある。
最終段階では、落下するのではなく着底しなければならない。
したがって、潜航制御は深度だけの1変数ではない。
海面基準の深度と、海底基準の高度を同時に見る必要がある。
32,400ft|衝撃と異音が走る
本番の最も緊張する場面の一つが、深度約32,400ft付近で起きた。
NHHCのH-041-6によると、トリエステにshudderとnoiseが発生した。
原因はその時点では分からない。
深度32,400ftは、すでに通常の潜水艦の運用範囲とは比較にならない。
残りは数千ft。
そこで「何かが壊れたような音」がした。
この時、ウォルシュとピカールは潜航を継続した。
後にウォルシュは、もし致命的な破壊だったなら、その時点ですでに二人とも生きていなかっただろうという趣旨で振り返っている。
これは豪胆さの美談として読むより、圧力容器の故障モードを示す言葉として読む方がよい。
耐圧球の大規模な圧壊は、ゆっくり水が入ってきて相談できる故障とは限らない。
もし主耐圧構造が破局的に壊れたなら、判断する時間そのものが存在しない可能性が高い。
一方で、音がしたからといって、その原因が分からないまま無条件に安全と判断できるわけでもない。
この時点では「異常は検知したが、致命的故障の証拠はない」という状態だった。
詳細は第5回で扱う。
4時間47分後、海底へ到達する
トリエステは降下を続けた。
そして約4時間47分後、チャレンジャー海淵の海底へ到達する。
NHHCのH-041-6は到達深度を35,797ftとする。
一方、艇内の深度計は37,800ftを示していた。
後に校正の問題が判明し、約35,800ft級へ修正される。
この数値差の詳細は第6回で扱う。
ここでは、「潜航中の乗員が見ていた数字」と「後に計算し直された数字」が異なることだけを押さえておく。
つまり、ウォルシュとピカールが海底へ到達したその瞬間に、現在知られている最終的な深度値が確定していたわけではない。
計測値は、帰還後の校正と解析を含めて初めて意味を持つ。
着底すると、自分たちで視界を悪くした
海底へ到達した瞬間、トリエステは観測プラットフォームになる。
ところが、着底には副作用があった。
海底の堆積物を巻き上げたのである。
深海底は硬い岩盤が露出した場所とは限らない。
細かな堆積物が存在する。
巨大な機体が海底近くへ降り、着底すれば、それが舞い上がる。
外部ライトがあっても、水中に大量の粒子が漂えば視界は悪化する。
NHHCによれば、計画では30分間海底に滞在する予定だった。
しかし約20分で、巻き上げた堆積物によって観測継続が難しくなった。
これが海底滞在を短縮した主因として説明されている。
よくある誤解は、「32,400ftで窓が割れたから、危険を感じて海底滞在を10分短縮した」という説明である。
NHHC H-041-6では、海底滞在短縮の直接要因はsediment cloudによる観測不能とされている。
損傷の正体も、潜航中には確定していなかった。
したがって、この二つは分けて扱う必要がある。
海底からWandankと通信できた
海底で起きたもう一つの重要な出来事が通信である。
トリエステは水中音響電話を使って海面側と通信していた。
しかし約11km下の海底から、どの程度安定して通信できるかは確実ではなかった。
NHHCの記録では、ウォルシュは海底でもWandankと通信できたことに驚いたとされる。
これは単なる記念連絡ではない。
深海システムとして重要な実証だった。
深度が増えても、海面支援船との情報経路が完全に失われなかった。
現代の感覚では通信があるのは当然に見えるが、1960年の深海で有線接続なしに約11kmの水柱を隔てて通信することは、Project Nektonの成立性に直接関わる。
人間が深海へ行く場合、艇が生きているかどうかを海面側が知れない時間を減らせる。
潜航側も、海面の状況や支援情報を受け取れる。
有人探査を「孤立したカプセル」から「支援システムの一部」にする技術である。
海底で「flatfishを見た」という報告
トリエステの潜航で最も有名な話の一つが、海底でflatfishのような魚を見たという報告である。
ウォルシュとピカールは、海底で疎らな生物を観察したと報告した。
当時、この観察は「最深部にも高等な魚類が生息する」ことを示す驚くべき発見として注目された。
しかし、現在では慎重に扱う必要がある。
NHHCのH-041-6も、このflatfish報告は科学的論争を引き起こし、一般に誤認だったと考えられていると明記している。
理由の一つは、現在知られている魚類の深度限界との不整合である。
したがって、
「1960年に乗員がflatfishと認識したものを観察した」
という歴史的事実と、
「実際にチャレンジャー海淵最深部にカレイ類がいた」
という生物学的主張は別である。
この区別は重要である。
探検史では、当事者の観察記録がそのまま後世の科学的確定になるとは限らない。
海底20分|長いのか、短いのか
20分は短い。
現在の深海科学から見れば、観測時間として十分とは言えない。
広範囲の映像撮影。
試料採取。
詳細な地形測量。
複数地点の比較。
長時間の環境測定。
こうした科学調査を行うには、20分ではほとんど足りない。
しかし1960年1月23日の目的を考えると評価は変わる。
Project Nektonの核心は、
人間を乗せた自由潜航艇が世界最深部へ到達し、そこから帰還できるか
という技術実証だった。
海底に何時間も滞在することが第一目標ではない。
しかも潜航には、浮上して明るいうちに海面作業を行うという時間制約もあった。
海底滞在を延ばせば、その分だけ浮上が遅れる。
予備資源も消費する。
したがって、20分という短さだけを見て「科学的価値が低かった」と評価するのも正確ではない。
この一回は、後の深海探査の前提条件を実証した。
1,000気圧を超える環境で、人は「ほぼ1気圧」にいた
海底でトリエステの外側には、約1,000気圧を超える圧力がかかる。
しかし耐圧球の中にいる二人は、通常の大気圧環境にいた。
このギャップこそ、有人深海艇の本質である。
深海環境に人間の身体そのものを適応させるのではない。
人間が生存できる小さな環境を球の中に維持し、その外側だけを深海へ適応させる。
二人が感じていたのは「1,000気圧に押される感覚」ではない。
狭さ。
長時間の拘束。
温度。
音。
計器。
そして、外にある巨大な圧力が球の向こうに存在するという認識だった。
耐圧球が機能している限り、内部は日常的な圧力環境である。
耐圧球が機能しなくなれば、その差は一瞬で致命的になる。
この極端な二値性が、深海耐圧構造の怖さでもある。
浮上開始|鉄粒を捨てる
約20分の海底滞在後、ウォルシュとピカールは浮上を開始する。
ここで使うのが、第2回で扱った鉄粒バラストである。
バラストを放出する。
艇が軽くなる。
正浮力が増す。
するとトリエステは上昇する。
通常潜水艦のように、深海で大量の水を高圧空気によってタンクから追い出す必要はない。
重りを捨てればよい。
NHHCによれば、浮上には3時間15分を要した。
降下4時間47分に比べると短い。
これは、降下中に温度躍層への対応や浮力調整を行ったこと、浮上時には正浮力によって比較的連続的に上昇できたことなどが関係する。
ただし、浮上中も「成功」はまだ確定していない。
潜航中に聞いた異音の正体が分からないままだからである。
海面へ戻って初めて、32,400ftの異音の正体が分かった
海面に戻った後、ウォルシュとピカールは異音の原因を知る。
NHHC H-041-6によれば、割れていたのはentrance/exit tubeのviewing portだった。
ここは非常に重要なので、表現を正確にする必要がある。
「乗員耐圧球の主観測窓が、水圧で割れた」と書くと誤解を招く。
NHHCは、亀裂が入ったビューポートはアクセス用の入口・出口チューブ側であり、このチューブは潜航中にはfree-flooded、つまり海水で満たされて周囲と圧力が均衡していたと説明している。
さらに亀裂の原因は、pressureではなくtemperature changeとされている。
したがって、32,400ftで聞いた異音を、
「深海圧力で耐圧窓が破壊寸前になった」
と単純化するのは正しくない。
ただし危険がなかったわけでもない。
海面へ戻った後、乗員が耐圧球から出るにはアクセスチューブの水を抜かなければならない。
もし亀裂の入った窓が完全に破壊され、水を抜けない状態になれば、二人はすぐ外へ出られない。
NHHCは、その場合トリエステを港まで曳航する間、二人が球内に閉じ込められる可能性があったと説明している。
つまり、
潜航中の耐圧破壊リスクではなかったが、浮上後の脱出を妨げる運用上の重大故障だった。
この違いは第5回でさらに整理する。
「世界最深部到達」の瞬間だけで終わらなかった
最深部へ到達したという記録だけなら、海底へ着いた時点で物語は終わる。
しかし工学的にはそうではない。
到達した艇が戻れなければ、有人探査システムとして成功したとは言い難い。
トリエステのミッションは、
- 潜航地点へ曳航される
- 乗員が搭乗する
- 降下を開始する
- 温度躍層を通過する
- 異音発生後も状態を判断する
- 海底へ着底する
- 観測する
- 海面と通信する
- バラストを放出する
- 浮上する
- 海面でアクセスチューブを排水する
- 乗員が艇外へ出る
ところまで成立して初めて完了する。
特に第11と第12は見落とされやすい。
海面に浮いたことと、乗員が安全に外へ出られることは同じではない。
アクセスチューブの亀裂は、この最後の段階に影響しうる故障だった。
なぜ2回目のChallenger Deep潜航をすぐ行わなかったのか
一度成功したなら、別の乗員や別の測定条件でもう一度潜ればよいように見える。
しかし、1960年にトリエステはすぐ同じ潜航を繰り返さなかった。
NHHC H-041-6は、さらに潜航する意図はあったものの、海上で鉄バラストを再装填できなかったことを指摘している。
トリエステは潜るために大量の鉄粒を必要とする。
一回潜れば、その一部を海中へ捨てる。
次の潜航には補充しなければならない。
しかし当時の支援体制では、チャレンジャー海淵の現場で必要な鉄粒を再装填し、次の極深海潜航へ即座に移ることができなかった。
これは極めて実務的な制約である。
艇が壊れたからではない。
理論上潜れなくなったからでもない。
再出撃を支える補給・整備能力が足りなかった。
ここでも、深海探査が機体性能だけでは成立しないことが分かる。
この課題は、後のTrieste運用やTrieste IIで「海上で反復潜航できる能力」へつながっていく。
その後52年間、人は戻らなかった
1960年1月23日以後、Challenger Deepへの有人潜航は長期間行われなかった。
次の有人到達は2012年、ジェームズ・キャメロンのDEEPSEA CHALLENGERだった。
つまり約52年間、人類は一度到達した場所へ人間を戻さなかった。
この空白を「技術が失われた」とだけ説明するのは不正確である。
深海研究そのものは進歩した。
無人探査機、ROV、AUV、ソナー、深海カメラなどの手段が発達し、人間を最深部へ送らなくても多くの調査ができるようになった。
有人最深部潜航は、
- 高コスト
- 高リスク
- 長い準備
- 科学的な費用対効果
を考えなければならない。
トリエステが証明したのは「行ける」ということ。
その後の海洋研究は、「人が行く必要があるか」という別の問いへ進んだ。
検証ポイント|1960年1月23日の潜航で混同しやすい点
1. 「9時間かけて降下した」わけではない
NHHC H-041-6では、降下は4時間47分、海底滞在約20分、浮上3時間15分。[1]
「9時間」は潜航全体を丸めた表現として扱う。
2. 海底深度37,800ftは最終補正値ではない
艇内深度計は37,800ftを示したが、後に校正の問題が判明し、約35,800ft級へ修正された。
詳細はCASE059-06で扱う。
3. 32,400ftで「耐圧球の主観測窓が水圧で割れた」とは確認できない
NHHC H-041-6では、浮上後にentrance/exit tube側のviewing portの亀裂が判明し、原因はpressureではなくtemperature changeと説明されている。
4. 海底滞在が20分になった直接要因は、堆積物による視界悪化
計画は30分だったが、着底で巻き上げた堆積物によって観測継続が難しくなった。
5. 海底の「flatfish」は確定した生物学的証拠ではない
当時の乗員の観察報告は存在するが、現在では誤認だった可能性が高いとされる。
6. 海底でも支援船と通信できた
水中音響電話によってWandankと通信できたことは、乗員側にも予想外だった。
7. 海面へ浮上しただけでは完全な安全確保ではない
アクセスチューブ側の亀裂により、海面での排水・退出に問題が生じる可能性があった。
8. すぐ再潜航しなかった理由にはロジスティクスがある
海上で鉄粒バラストを再装填できず、同じ現場で迅速に次の極深海潜航を行える体制ではなかった。
1960年1月23日のタイムライン
公的資料が示す時間幅を中心に整理すると、潜航は次のように理解できる。
| 段階 | 内容 |
|---|---|
| 潜航前 | WandankがTriesteを潜航地点へ曳航。荒れ気味の海況と移動中損傷を確認 |
| 潜航準備 | Walsh / Piccardが損傷を任務遂行上不可欠ではないと判断 |
| 降下開始 | 日の出から数時間後。水バラストで潜航開始 |
| 降下中 | 予想以上の温度躍層。時間確保のため予備AVGASを一部消費 |
| 約32,400ft | shudder / noise発生。原因不明のまま状態を判断し潜航継続 |
| 4時間47分後 | Challenger Deep海底へ到達。後補正で約35,800ft級 |
| 海底 | Wandankと音響通信。外部ライトで観測 |
| 約20分後 | 巻き上げた堆積物で視界悪化し、予定30分より早く観測終了 |
| 浮上開始 | 鉄粒バラスト放出 |
| 3時間15分後 | 海面へ帰還 |
| 浮上後 | access tube側viewing portの亀裂を確認。温度変化起因と説明される |
ここで「1:06 PMに着底」という時刻は複数の後年資料で広く紹介されているが、今回の本文では、より確実なNHHCの降下4時間47分/海底20分/浮上3時間15分を主軸にしている。[1]
一日の出来事を秒単位で再現することより、各段階で何が起き、どの判断が必要だったかを優先するためである。
まとめ|最深部到達は「海底に着いた瞬間」ではなく、海面へ戻るまでのシステム実証だった
1960年1月23日のトリエステ潜航は、後から見ると一つのきれいな記録に見える。[1]
35,797ft。
人類初。
Challenger Deep。
しかし実際の一日は、もっと不確実だった。
海況は悪い。
移動中に艇は損傷している。
中止指示が届く。
温度躍層が予想より多い。
32,400ftで異音がする。
深度計は後に補正が必要になる。
着底すれば堆積物で視界が悪くなる。
海底生物の観察は後世に疑問視される。
そして海面へ戻ってから、アクセスチューブのビューポート亀裂が判明する。
それでもミッションは成立した。
なぜなら、トリエステは単に深度記録を表示したのではなく、
人間を最深部へ送り、そこで観測し、海面と通信し、再び人間を戻したからである。
この一日の価値は、「地球の一番深い場所へ行った」という地理的記録だけではない。
極深海の有人潜航に必要な、
- 浮力制御
- 耐圧構造
- 深度・高度計測
- 音響通信
- 支援船連携
- 現場判断
- 非常浮上思想
- 帰還後の退出
を、一つの運用として実証したことにある。
そして、その成功の途中では実際に異常が起きていた。
次回は、その異常を切り離して見る。
32,400ftで聞こえた音は何だったのか。
どの窓が壊れたのか。
圧力による破壊だったのか。
Krupp耐圧球は本当に安全だったのか。
CASE059-05では、「最深部へ行けた」という成功の裏側にあった構造リスクと故障モードを検証する。
FACT CHECK|出典・参考資料
- [1] Samuel J. Cox, Naval History and Heritage Command, “H-041-6: Trieste and the First Dive to Deepest Part of the Oceans, January 1960”
- [2] Naval History and Heritage Command, “H-Gram 041”
- [3] Naval History and Heritage Command, “Trieste I (Bathyscaphe)”
- [4] George W. Martin, Lieutenant, U.S. Navy, “Trieste—The First Ten Years,” U.S. Naval Institute Proceedings, Vol. 90/8/738, August 1964
- [5] Naval History and Heritage Command, “Navy History Matters — Bathyscaphe Trieste Descends to Challenger Deep”
- [6] Naval History and Heritage Command, “Bathyscaphe Trieste”
バチスカーフ・トリエステ|人類はどうマリアナ海溝最深部へ到達したのか 第4回 全8回 全8回を見る
- 01 バチスカーフ・トリエステとは何だったのか|1960年、有人艇がチャレンジャー海淵へ到達するまで
- 02 トリエステはどうやって約11km潜れたのか|ガソリン浮力・耐圧球・鉄バラストの仕組み
- 03 なぜ米海軍はトリエステを買ったのか|PiccardからProject Nektonまで
- 04 バチスカーフ・トリエステ|1960年1月23日、最深部へどう潜ったのか|チャレンジャー海淵9時間の記録
- 05 深海で何が壊れかけたのか|トリエステの耐圧球・観測窓・圧力との戦い
- 06 トリエステは何mまで潜ったのか|37,800ftから約35,800ftへ修正された理由
- 07 記録潜航の後、トリエステは何に使われたのか|研究潜航とUSS Thresher捜索
- 08 トリエステは深海探査をどう変えたのか|2012年・2019年へ続く「最深部」の遺産