← 第1回|事故の全体像
| CASE FILE 33 第2回
| 第3回|安全余裕はどう失われたのか →
1984年12月3日未明、ボパールの工場から大量に放出されたイソシアン酸メチル――MIC。
事故だけを知ると、この工場は「大量の毒物を保管していた化学工場」のように見える。
しかし、工場が最終的に作っていたものはMICではない。
農業用の殺虫剤だった。
MICは、その製造工程の途中で作られ、次の反応へ送られる化学中間体だった。
そして事故を理解するうえで重要なのは、その中間体が配管の中を通過するだけではなく、工場内の大型タンクに貯蔵される工程になっていたことである。
1984年の夜、暴走反応を起こしたTank 610は、そのMIC貯蔵システムの一部だった。
今回は事故当夜から一歩戻り、
「そもそもボパール工場では何を、どのような工程で作っていたのか」
から設備を見ていく。
先に結論|MICは製品ではなく、農薬を作る途中の物質だった
ボパール工場の製造工程を大きく単純化すると、次のようになる。
ボパール工場の製造フロー【簡略図】
石油コークス+酸素
↓
一酸化炭素(CO)
+
塩素(Cl₂)
↓
ホスゲン(COCl₂)
↓
モノメチルアミン(MMA)と反応
↓
イソシアン酸メチル(MIC)
↓
MIC貯蔵タンク
↓
α-ナフトールと反応
↓
カルバリル(商品名 Sevin)
実際の化学プラントでは、この間に反応器、分離、精製、移送、排ガス処理など多数の工程が存在する。
しかし事故構造を理解するためには、まず
原料
→ MIC製造
→ MIC貯蔵
→ 農薬製造
という流れを押さえればよい。
1984年の事故が発生したのは、このうち「MIC貯蔵」の部分だった。
1969年、最初からMICを製造していたわけではなかった
ボパールのUnion Carbide工場は、最初から現在知られているような化学製造プラントだったわけではない。
Indian Council of Medical Research(ICMR)の技術報告によれば、Union Carbide Corporation(UCC)は1969年、ボパール北西部のBerasia Road沿い、約70エーカーの敷地に農薬工場を設置した。
当初の役割は比較的単純だった。
米国から輸入された農薬を混合し、包装する工場である。
つまり、完成品に近い薬剤をインド国内で製品化する拠点だった。
ところが、その後ボパール工場の役割は変わっていく。
| 時期 | ボパール工場の役割 |
|---|---|
| 1969年 | 輸入した農薬を混合・包装する製剤工場として開始 |
| 1977年末ごろ | Sevinをボパールで製造。MICなど主要原料は米国から輸入 |
| 1980年初頭ごろ | MICそのものもボパール工場内で製造する体制へ移行 |
1977年末ごろから、Union Carbide India Limited(UCIL)はボパールでSevinの製造を始めた。
この段階では、主要原料であるα-ナフトールとMICを外部から持ち込み、ボパールで最終的な農薬製造を行っていた。
MICについては、米国のUnion Carbide工場で製造されたものをステンレス製容器に入れ、ボパールへ輸送していたとICMRは記録している。
しかし1980年初頭から状況が変わる。
MICもボパール工場内で製造するようになった。
ICMRによれば、その設備には米UCCが提供した技術ノウハウと基本設計が使われていた。
作っていた農薬「Sevin」とは何か
工場で製造していた代表的な製品がSevinだった。
Sevinは商品名で、化学物質としてはカルバリル(Carbaryl)と呼ばれるカーバメート系殺虫剤である。
化学名では1-naphthyl N-methylcarbamate。
ボパールで採用されていた製造ルートでは、最終工程で
MIC + α-ナフトール → カルバリル
という反応を利用する。
つまりMICは、農薬としてそのまま容器に詰めて販売する物質ではない。
カルバリルを製造するために途中で必要となる反応性の高い中間体だった。
ここを理解すると、事故工場の構造が見えやすくなる。
工場の目的はMICを販売することではない。
MICを工場内で製造し、いったん貯蔵し、それを必要量ずつ後工程へ送り、最終製品である農薬へ変換する。
事故を起こしたTank 610は、その製造チェーンの途中に置かれていた。
MICを作るために、さらにホスゲンを作っていた
MICを工場内で製造するには、その前段階にも別の化学物質が必要になる。
ICMRが記録している主要原料は、
- モノメチルアミン(MMA)
- ホスゲン
である。
そしてホスゲンも外部から完成品として持ち込むだけではなく、ボパール工場内で製造されていた。
ホスゲンは、
一酸化炭素(CO)+塩素(Cl₂)
から作られる。
さらにICMRによれば、その一酸化炭素も、石油コークスを酸素と反応させて工場内で製造していた。
したがって1980年代のボパール工場は、単なる農薬の包装工場ではなく、
一酸化炭素
→ ホスゲン
→ MIC
→ カルバリル
という複数段階の化学製造工程を内部に持つ工場へ変わっていたことになる。
MICはなぜ扱いに注意が必要なのか
MIC――Methyl Isocyanate、イソシアン酸メチル。
分子式はCH₃NCO。
ICMRの技術報告では、常圧での沸点を約39℃としている。
つまり、極端な高温にならなければ気化しない液体ではない。
さらにMICは化学的な反応性が高い。
特に水と接触すると反応し、熱を発生する。
事故時にTank 610内部で重大だったのも、この性質である。
温度が上昇すれば反応速度が上がり、反応によってさらに熱が発生し、その熱がさらに反応を加速する。
条件次第では、
反応
→ 発熱
→ 温度上昇
→ 反応加速
→ さらに発熱
という自己加速的な状態へ進む。
これは化学プラントでいう暴走反応(runaway reaction)につながり得る。
ただし、この時点で
「MICを使用していたから事故になった」
と結論づけるのは早い。
危険な物質を使用する化学工場では、その危険性を前提に、温度管理、圧力管理、不活性ガス、除害設備など複数の安全機能を設ける。
問うべきなのは、
「危険物が存在したこと」ではなく、「危険物をどの状態で、どれだけ保有し、それをどのような防護層で管理していたのか」
である。
地下には3基のMIC貯蔵タンクがあった
ICMRの報告によれば、ボパール工場のMIC貯蔵システムには3基の横置きタンクがあった。
| タンク番号 | 用途 |
|---|---|
| Tank 610 | MIC貯蔵系統 |
| Tank 611 | MIC貯蔵系統 |
| Tank 612 | MIC貯蔵系統 |
いずれもステンレス鋼製の横型タンクで、ICMRによれば直径約8フィート、長さ約40フィートだった。
事故を起こしたのがTank 610である。
このタンクには事故当夜、約40トンのMICが存在していたとICMRは記録している。
第1回で見た「約40トン」という数字は、工場全体に薄く分散していた量ではない。
一つの貯蔵タンクに存在していた在庫だった。
これが、ボパール事故の規模を理解するうえで重要なポイントになる。
本来、MICはどのように保管する設計だったのか
MICは、単にタンクへ入れて放置する設計ではなかった。
ICMRの報告から、少なくとも次の管理機能が確認できる。
| 機能 | 設計上の役割 |
|---|---|
| ステンレス製貯蔵タンク | MICを閉じ込める |
| 高純度窒素雰囲気 | タンク内部を管理された状態に保つ |
| 冷凍設備・熱交換器 | MICを約0℃に維持する |
| 温度・圧力等の監視設備 | タンク内部の異常を検知する |
| Vent Gas Scrubber(VGS) | MIC設備や貯蔵系から出る有毒排気を中和する |
ICMRは、MICを高純度窒素の雰囲気下で加圧貯蔵し、タンク内容物を熱交換器へ循環させ、冷凍設備によって0℃に維持する設計だったと記録している。
また、MIC設備や貯蔵系から発生する有毒排気については、Vent Gas Scrubberで中和する構成だった。
ここだけを見ると、
「危険なMICを貯蔵するための設備は存在していた」
ことが分かる。
問題は、設計図上に設備が存在することと、事故当夜にその設備が十分な防護機能を発揮できることは同じではない、という点である。
その違いが第3回の中心になる。
なぜMICをタンクに貯蔵する必要があったのか
ここで一つ疑問が残る。
MICがそれほど危険なら、作った直後にすべてカルバリルへ変換し、タンクに大量に置かなければよかったのではないか。
この問いは、事故後の安全論でも重要になる。
ただし、製造設備として見ると、MIC製造工程とSevin製造工程は一つの反応器だけで完結する設備ではなかった。
工場ではMICを製造し、精製・移送したうえで貯蔵系へ送り、そこから後工程で利用する構成になっていた。
つまりMIC貯蔵タンクは、
MIC製造工程と農薬製造工程の間に位置する設備
だった。
しかし、化学プラントのリスクという観点では、ここに重要な違いが生まれる。
たとえば同じ物質を扱う場合でも、
| 方式 | 事故時に関係する在庫量 |
|---|---|
| 必要量だけ生成し、すぐ次工程で消費する | 比較的小さくできる可能性がある |
| 大量に生成してタンクへ貯蔵する | 一度の異常で関与する量が大きくなり得る |
これは「貯蔵設備が存在しただけで設計ミスだった」という意味ではない。
しかし、危険物のinventory――設備内保有量が大きくなれば、その全量または相当量が反応・漏洩した場合の最大影響も大きくなる。
1984年12月、Tank 610に存在していた約40トンという量は、その意味を持つ。
POINT|「毒性」と「事故規模」は別の問題
物質が強い毒性を持っていることだけで、大規模災害になるわけではない。
実際のリスクは、
毒性
× 保有量
× 反応性
× 封じ込め能力
× 安全設備
× 周囲の人口・環境
などの条件によって変わる。
ボパールでは、非常に反応性が高く有毒なMICが大量貯蔵され、そのすぐ外側に人口密集地域が存在していた。
「Tank 610」だけを見ても事故原因は分からない
後世から事故を見ると、どうしてもTank 610だけに視線が集中する。
しかし実際の設備は、
原料設備
↓
ホスゲン製造
↓
MIC製造
↓
MIC精製
↓
MIC貯蔵
↓
Sevin製造
↓
排ガス・廃液処理
というシステムとして動いていた。
さらに、その周囲には
- 冷凍設備
- 窒素系統
- 圧力・温度計測
- Vent Gas Scrubber
- その他の緊急・除害設備
が存在していた。
事故とは、この複数設備の中の一つだけを見るものではない。
Tank 610で反応が始まったとしても、別の防護設備が十分に機能すれば、大気への大量放出まで進まない可能性がある。
逆に、一つの異常に対して複数の防護層が同時に十分な機能を発揮できなければ、小さな異常が重大事故へ拡大する。
そのためCASE33では、
「水がTank 610へ入った。それが事故原因だった」
だけで話を終わらせない。
水の侵入は第4回で詳しく扱う。
その前に確認しなければならないのは、
暴走反応が始まる前の時点で、工場の安全設備と運転状態がどうなっていたのか
である。
1980年から1984年まで、工場は「MICを作る場所」になっていた
1969年のボパール工場と、1984年12月のボパール工場は同じではない。
1969年には輸入農薬の混合・包装から始まった。
1970年代後半にはSevinを現地生産するようになった。
1980年ごろにはMIC製造設備も加わった。
その結果、事故当時の敷地には、
- 毒性の高いホスゲンを製造する工程
- 反応性の高いMICを製造する工程
- MICを大量に貯蔵する設備
- MICから農薬を製造する工程
- それらを守る冷却・監視・排ガス処理設備
が組み合わされていた。
つまり事故の舞台は、単純な「農薬工場」という言葉から想像するよりも、はるかに複雑な化学プロセス設備だった。
そして複雑な設備ほど、安全は一つの機器だけでは成立しない。
まとめ|事故を理解する鍵は「MICがどこにあったか」
ボパール工場が最終的に作っていた代表的な製品は、Sevinと呼ばれるカルバリル系殺虫剤だった。
MICはその製造に使われる中間体であり、1980年ごろからボパール工場内でも製造されていた。
工程を簡略化すると、
一酸化炭素+塩素
↓
ホスゲン
↓
モノメチルアミンと反応
↓
MIC
↓
MIC貯蔵
↓
α-ナフトールと反応
↓
カルバリル
となる。
ここで事故史上、決定的な意味を持った設備がMIC貯蔵系だった。
3基のステンレス製タンクの一つ、Tank 610には事故当夜、約40トンのMICが存在していた。
本来、そのMICは高純度窒素雰囲気で管理され、冷凍設備を使って約0℃に保たれ、異常排気にはVent Gas Scrubberなどの防護設備が用意されていた。
設備はあった。
では、1984年12月2日の夜、その防護層は実際にどの状態だったのか。
なぜ約40トンのMICを抱えたTank 610を、異常反応から守れなかったのか。
次回は事故直前の工場へ進む。
冷却、監視、排ガス処理、保守――ボパール工場の「安全余裕」は、事故までにどのように失われていったのか。
CASE FILE 33|ボパール化学工場事故 1984(全10回)
- 第1回|ボパール化学工場事故とは?|1984年、一夜で都市を覆った有毒ガス災害
- 第2回|ボパール工場は何を作っていたのか|農薬製造工程と危険物MICの貯蔵【現在の記事】
- 第3回|事故前、工場の安全余裕はどう失われたのか|保守・安全設備・過去の漏洩を追う
- 第4回|タンクE610で何が起きたのか|水流入、暴走反応、圧力上昇とMIC放出
- 第5回|1984年12月3日未明、ガスはどう市街地へ広がったのか|漏洩発覚からボパール駅まで
- 第6回|病院は何に対処していたのか|未知の有毒曝露とボパール最初の72時間
- 第7回|ボパール事故の原因はどこまで確定しているのか|政府調査と「破壊工作説」を分ける
- 第8回|ユニオン・カーバイドの責任はどう裁かれたのか|1989年和解から2023年最高裁まで
- 第9回|ボパールの健康被害はどこまで続いたのか|ICMR長期追跡調査を読む
- 第10回|事故から40年以上、何が終わっていないのか|補償・医療・工場跡地と有害廃棄物
出典・参考資料
-
Indian Council of Medical Research (ICMR) /
Bhopal Gas Disaster Research Centre,
“Health Effects of the Toxic Gas Leak from the Union Carbide Methyl Isocyanate Plant in Bhopal” -
S. Varadarajan, L. K. Doraiswamy, N. R. Ayyangar, C. S. P. Iyer, A. A. Khan,
“Report on Scientific Studies on the Factors Related to Bhopal Toxic Gas Leakage”, 1985 -
National Library of Medicine / PubChem,
“Carbaryl” -
National Library of Medicine / PubChem,
“Methyl Isocyanate”
資料上の注意:
本記事では工場・製造工程の基本構成についてICMRの技術報告を優先した。
化学反応式は事故構造を理解するために簡略化しており、実際の工業プロセスに存在した中間反応、精製、溶媒、再循環、廃液・排ガス処理等をすべて示したものではない。
また、本記事では「どの安全設備が事故時に機能していたか」という評価までは行わず、第3回で保守・冷却・監視・除害設備の状態を個別に検証する。