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墜落16日後、雪崩が機体を埋めた8人が死亡した第二の遭難

墜落16日後、雪崩が機体を埋めた|8人が死亡した第二の遭難

航空事故

1972年10月29日。

ウルグアイ空軍571便がアンデス山中へ墜落してから16日が経っていた。

生存者たちは、壊れた胴体をシェルターへ変え、雪から水を作り、限られた防寒材を使いながら生活を続けていた。

食料についても、すでに通常なら考えられない決断を迫られていた。

事故直後の混乱とは違い、機内には少しずつ生活の仕組みができつつあった。

しかし、その避難場所そのものが一夜で危険な空間へ変わる。

山から流れ落ちた大量の雪が胴体を直撃し、内部へ流れ込んだ。

眠っていた生存者たちは雪の下へ埋まり、8人が死亡した。

それまで彼らを風と寒さから守っていた機体は、今度は雪で塞がれた閉鎖空間となった。

第6回では、墜落16日後に起きた雪崩が、なぜ「第二の遭難」と呼べるほど重大だったのかを追う。

この記事で分かること

  • 雪崩はいつ発生したのか
  • なぜ胴体の内部まで雪が入り込んだのか
  • 何人が死亡したのか
  • 雪の下に埋まった人々をどう救出したのか
  • なぜ機内の空気まで危険になったのか
  • 生存者はどのように外気を確保したのか
  • 雪崩後、なぜすぐ機外へ出られなかったのか
  • この出来事が「救助を待つ」という戦略をどう変えたのか

CASE FILE 30

ウルグアイ空軍571便アンデス遭難特集|全10回

  1. ウルグアイ空軍571便アンデス遭難とは?|45人を乗せた飛行機と16人が生還した72日間
  2. なぜ571便はアンデスに墜落したのか|飛行経路と「クリコ通過」誤認
  3. 墜落地点はどこだったのか|地図で見るアンデスの谷と捜索の死角
  4. 零下の機体でどう生き延びたのか|水・防寒・負傷者治療・役割分担
  5. 食料が尽きたとき、なぜ死者の肉を食べる決断をしたのか|飢餓と生存の選択
  6. 墜落16日後、雪崩が機体を埋めた|8人が死亡した第二の遭難 【現在の記事】
  7. 救助を待つのをやめた|尾部探索・無線の失敗・アンデス脱出への準備
  8. パラードとカネッサはどうアンデスを越えたのか|10日間の徒歩脱出
  9. 72日間の終わり|571便の16人はどう救助されたのか
  10. 『雪山の絆』はどこまで史実か|実在人物・記録・『生きてこそ』との違い

まず結論|雪崩は「生存者の家」をそのまま埋めた

571便の雪崩が致命的だった最大の理由は、生存者たちが屋外にいたからではない。

むしろ、ほぼ全員が胴体の中にいた。

それまでの16日間、この胴体は生存の中心だった。

風を防ぐ。

夜の寒さを少しでも和らげる。

負傷者を横たえる。

わずかな物資を保管する。

集団で身体を寄せ合う。

外よりは安全だと考えられる唯一の場所だった。

ところが大量の雪が機体へ流れ込むと、その利点が逆転した。

出口が限られた胴体内部は、雪から逃げる空間ではなく、雪と人間を閉じ込める容器になった。

10月29日、事故から16日目

Museo Andes 1972は、事故から16日後に雪崩が生存者全員を埋め、8人が窒息死したと記録している。

National Geographicも、この出来事を1972年10月29日の重大な転換点として整理している。

資料によって発生時間の細かな表現には差があるため、本記事では特定の時刻へ固定しない。

重要なのは、この時点ですでに事故から2週間以上が経過していたことである。

生存者たちは墜落直後の状態から、少しずつ生活を組み立てていた。

そして捜索打切りを知り、自分たちだけで長期間生きなければならない可能性も理解し始めていた。

その段階で雪崩が発生した。

現場は雪崩と無関係な平地ではなかった

第3回で見たように、571便の胴体は周囲を山に囲まれた雪上に停止していた。

現在の地形や後年の再構成では、機体の近くには急斜面から雪が集まりやすい谷筋が存在していたことが分かっている。

しかし1972年の生存者たちは、そこを雪崩危険箇所として評価するための詳細な地形図や積雪情報を持っていたわけではない。

そもそも、危険だと分かったとしても移動先がない。

テントも山小屋もなく、負傷者もいる。

機体を捨てて雪上で夜を過ごす方が、低体温症などの危険を大きくする可能性がある。

つまり、雪崩の危険が存在したとしても、

「機体から離れれば安全」という単純な選択肢はなかった。

音が聞こえた直後、胴体内部へ雪が流れ込んだ

生存者ホセ・ルイス・インチアルテは、後年の証言で、雪崩が来る直前に巨大なものが迫ってくるような音を聞いたと振り返っている。

そして立ち上がろうとした直後、機体内部が大量の雪に飲み込まれた。

その速度は、人々が順番に出口から避難できるようなものではなかった。

雪は胴体内へ入り、人間の身体の周囲へ圧縮された。

寝ていた位置によっては、身体を動かすことすらできない。

一瞬前まで同じ場所で眠っていた集団が、雪の中で互いの位置さえ分からない状態になった。

雪崩で恐ろしいのは「雪の重さ」だけではない

雪崩事故については、「大量の雪に押し潰される」というイメージが強い。

もちろん衝撃や圧力は危険である。

しかし571便では、8人の死因として特に重要だったのが窒息だった。

Museo Andes 1972も、雪崩による8人の死亡をasphyxiation、つまり窒息としている。

雪崩の雪は、軽い新雪が身体の上へふわりと積もるのとは違う。

流動した雪が停止すると、密度の高い雪塊となって身体を拘束することがある。

顔の周囲に空気の空間がなければ呼吸できない。

さらに胴体内部そのものが大量の雪で満たされたことで、機内に残る空気にも限界が生じた。

ホセ・ルイス・インチアルテは足元の空間から呼吸できた

インチアルテ自身も雪の下へ埋まった。

彼の証言では、近くにいたフィト・ストラウチの足が顔の上にあり、その周辺にわずかな空気の空間ができていた。

それによって完全に呼吸を塞がれずに済んだ。

しかし酸素は十分ではなかった。

雪の中で身体は動かせず、呼吸も難しくなる。

彼は意識が遠のくほどの状態になったという。

その後、周囲の人々がフィトを掘り出したことで空間が広がり、インチアルテも呼吸を取り戻した。

この証言からも、雪崩時の生死が、身体の周囲に偶然できた数cm単位の空気空間によって左右されたことが分かる。

ロイ・ハーレイが立っていたことが救助につながった

後年の事故再構成では、雪崩の音を聞いたロイ・ハーレイが立ち上がっていたため、ほかの人々より雪上へ近い位置に残ることができたとされている。

彼を含む動ける者が雪を掘り、まず近くの生存者を救出した。

一人が出れば、今度は二人で掘れる。

二人が三人を救えば、さらに作業する手が増える。

このように、救出できた人間が次の人間を掘り出す形で救助が進んだ。

雪崩救助で時間が重要なのは、571便でも同じだった。

ただし彼らには雪崩ビーコンも、スコップも、救助隊もない。

手や機内にある物を使って雪を掘るしかなかった。

ナンド・パラードも約30分、雪の中に閉じ込められた

ナンド・パラードも雪に埋まった一人だった。

後年の証言では、彼は身体を動かせない状態でありながら、呼吸できるだけのわずかな空間が残っていた。

救出されるまで約30分ほど雪中にいたとされる。

この段階でパラードは、墜落事故、母親と妹の死に続いて、さらに雪崩を経験したことになる。

のちにアンデス横断を実行する人物も、この夜には自分自身が救出される側だった。

8人が死亡し、残ったのは19人になった

雪崩発生時、胴体内には27人が残っていたとする生存者証言・後年資料がある。

そのうち8人が死亡した。

生き残ったのは19人だった。

45人で出発した571便は、墜落後の負傷や死亡を経て、雪崩の時点でさらに人数を減らした。

段階 人数の推移
モンテビデオ出発時 45人
墜落直後 多数が生存したが、事故・負傷により死亡者が発生
雪崩発生時 27人が胴体内にいたとする証言
雪崩による死亡 8人
雪崩後 19人
最終的な生存者 16人

最終的な16人になるまでには、この後もさらに3人が負傷や衰弱などにより死亡する。

つまり雪崩が最後の犠牲者を出した出来事ではなかった。

雪崩が止まっても「助かった」とは言えなかった

雪の中から掘り出された人々には、すぐ別の問題が発生した。

胴体そのものが雪に埋まっていたのである。

National Geographicによるナンド・パラードらの証言を基にした再構成では、胴体内部は大量の雪で満たされ、人々は立ち上がることすら難しい状態だった。

外では吹雪が続いていた。

機体から出るために雪を掘っても、その先に安全な場所があるわけではない。

しかも内部には19人がいる。

人間が呼吸すれば、酸素を消費し二酸化炭素を排出する。

胴体が雪によって密閉に近い状態になれば、次に問題になるのは空気だった。

ナンド・パラードは機体上部に穴を開けた

雪崩の直後、生存者は胴体内部へ外気を入れる必要があることに気づいた。

後年の証言では、パラードが機内の金属製の棒を利用して上方の雪を突き抜き、外気へ通じる穴を作ったとされる。

この穴は、ただ外を見るためのものではない。

閉鎖された胴体内部に、新しい空気を取り込むための換気口だった。

第4回では、機体の残骸を壁、防寒材、水づくりの設備へ変えていったことを見た。

雪崩後には、今度は機体に換気という新しい機能を作らなければならなくなった。

雪の中で数日間を過ごした

雪崩が収まっても、すぐに通常の生活へ戻ることはできなかった。

外では悪天候が続き、胴体は雪に閉じ込められている。

後年資料では、この状態が数日間続いたとされている。

資料によって「3日」「4日」など表現に差があるため、本記事では正確な日数を一つに固定しない。

確実なのは、生存者たちが雪崩直後に機体を完全に掘り出して自由に外へ出られたわけではないことである。

狭い内部に生存者と亡くなった仲間が残り、換気孔を確保しながら天候の回復を待つ必要があった。

すでに過酷だった生活環境が、さらに狭く、暗く、不衛生なものへ変化した。

それまでの「住居」が半分雪で埋まった

雪崩前の胴体内部は快適ではなかった。

それでも人が横になり、物資を置き、作業できる空間は存在していた。

雪崩後にはその有効容積が大きく失われた。

これは単なる不便ではない。

同じ人数がより小さな空間へ押し込められることになる。

水を作る作業も、負傷者の世話も、休息も難しくなる。

さらに雪を排除するには体力を使う。

食料不足で衰弱している人々にとって、雪かきそのものが大きなエネルギー消費だった。

「機体にいれば安全」という前提が崩れた

雪崩の前まで、生存者にとって胴体は最も合理的な待機場所だった。

外へ出れば寒い。

どこへ歩けば人里へ着くか分からない。

負傷者もいる。

そのため機体付近で救助を待つことには合理性があった。

しかし雪崩は、その前提へ直接的な疑問を突きつけた。

今いる場所そのものが、再び大量死を引き起こす可能性がある。

捜索はすでに打ち切られている。

上空を飛んだ航空機にも発見されなかった。

食料もない。

そしてシェルターさえ完全には安全ではない。

ここで「救助が来るまで耐える」という戦略の弱点が一気に明確になった。

雪崩は生存者集団そのものも変えた

571便の72日間では、人間関係や役割分担も固定されていたわけではない。

誰かが死亡すれば、その人が担っていた機能を別の人が引き継がなければならない。

雪崩では、一度に8人が失われた。

これは人数が減ったというだけではない。

それまで一緒に生活し、作業し、判断してきたメンバーが突然いなくなったことを意味する。

残った19人は、さらに少ない人数で水づくり、負傷者対応、機体の整理、探索などを続ける必要があった。

そして時間が経つにつれ、外へ出られる体力を持つ人間を遠征へ回す必要性も高まっていく。

雪崩後、「歩いて出る」という考えがさらに現実味を帯びる

Museo Andes 1972は、雪崩の説明に続いて、生存者たちが「生きて出ることは完全に自分たち次第だ」と理解し、複数の遠征を組織したと記している。

もちろん、自力脱出という発想が雪崩の翌日に突然生まれたわけではない。

それ以前にも周囲への探索は行われていた。

しかし雪崩によって、待機戦略の危険性がさらに大きくなった。

そこで問題は、

「救助隊がいつ来るか」

ではなく、

「自分たちがどうすれば外部へ到達できるか」

へ徐々に移っていく。

ただ歩き始めればよかったわけではない

ここで注意したいのは、雪崩の後にすぐ「みんなで山を下りればよかった」と考えないことである。

第3回で確認した通り、現場から見えるのは山と谷だった。

正確な現在位置も分からない。

登山用の地図もない。

十分な防寒着もない。

夜を山中で越すための寝袋もない。

そして全員が長距離を歩ける状態ではなかった。

したがって自力脱出には、

  • どちらへ進むか
  • 誰が行くか
  • 何日分の食料を持つか
  • 夜の寒さをどうしのぐか
  • 途中で戻る基準をどうするか

といった準備が必要になる。

この準備が、次の段階で重要になる。

雪崩は「第二の事故」ではなく、遭難の性質を変えた出来事だった

571便の出来事を時系列で見ると、10月29日の雪崩は大きな境界線になる。

雪崩以前 雪崩以後
胴体は主な避難場所 胴体そのものにも致命的危険があると判明
救助への期待が残る 捜索打切り+雪崩で待機戦略への不安が増す
27人が生存 19人まで減少
周辺探索が中心 より長距離の遠征が必要になる
既存の生活環境を維持 雪で埋まった生活空間を再構築する必要

つまり雪崩は、墜落後に偶然追加されたもう一つの災害というだけではない。

「その場で生き残り続ける」遭難から、「その場を出る方法を作らなければならない」遭難へ変える出来事だった。

後知恵で「なぜ雪崩を予想しなかったのか」と責めることはできない

現在なら、雪山へ入る前に地形、積雪、天候、雪崩危険情報を確認することができる。

しかし571便の生存者は、自分たちの意思で登山へ入った人々ではない。

航空事故によって突然そこへ置かれた。

雪崩装備もない。

地形図もない。

天気予報もない。

現在位置さえ十分には分からない。

さらに、機体から離れれば寒さと風へ直接さらされる。

負傷者を連れて安全地帯まで移動する手段もない。

したがって事故後16日間そこに留まったことを、「危険な場所に居続けた判断ミス」と単純化することはできない。

利用可能な選択肢の中では、胴体内部に留まる合理性があった。

雪崩は、その合理的だった選択にも別の重大リスクが隠れていたことを示した。

まとめ|守ってくれた胴体が、16日後には生存者を閉じ込めた

1972年10月29日、ウルグアイ空軍571便の生存者たちが暮らしていた胴体を雪崩が襲った。

事故から16日後だった。

大量の雪が内部へ流れ込み、人々は圧雪の下へ埋められた。

生き残った者たちは互いを掘り出したが、8人を救うことはできなかった。

27人いた集団は19人になった。

雪崩後も危険は続いた。

機体は大量の雪に埋まり、内部空間は狭くなり、外気を確保するために雪を突き抜いて換気孔を作らなければならなかった。

悪天候のため、すぐに機外生活へ戻ることもできなかった。

それまで胴体は、風、低温、雪から人間を守る最大の設備だった。

しかし雪崩によって、

「ここにいれば生きられる」という前提そのものが崩れた。

すでに公式捜索は打ち切られている。

食料もない。

今いる場所も安全ではない。

残された選択肢は、次第に一つへ近づいていった。

自分たちで外へ出ることである。

ただし、アンデスを歩いて越えるには準備が必要だった。

生存者たちは機体周辺を探索し、やがて離れた場所に落ちていた尾部を発見する。

そこには荷物だけでなく、航空機のバッテリーも残されていた。

もし無線を動かせれば、山を歩いて越える必要はないかもしれない。

次回は、尾部探索、無線通信の復旧失敗、寝袋の製作、そして最終遠征へ向けた準備を追う。


前の記事:

第5回|食料が尽きたとき、なぜ死者の肉を食べる決断をしたのか|飢餓と生存の選択

次の記事:

第7回|救助を待つのをやめた|尾部探索・無線の失敗・アンデス脱出への準備

特集全記事

  1. ウルグアイ空軍571便アンデス遭難とは?|45人を乗せた飛行機と16人が生還した72日間
  2. なぜ571便はアンデスに墜落したのか|飛行経路と「クリコ通過」誤認
  3. 墜落地点はどこだったのか|地図で見るアンデスの谷と捜索の死角
  4. 零下の機体でどう生き延びたのか|水・防寒・負傷者治療・役割分担
  5. 食料が尽きたとき、なぜ死者の肉を食べる決断をしたのか|飢餓と生存の選択
  6. 墜落16日後、雪崩が機体を埋めた|8人が死亡した第二の遭難 【現在の記事】
  7. 救助を待つのをやめた|尾部探索・無線の失敗・アンデス脱出への準備
  8. パラードとカネッサはどうアンデスを越えたのか|10日間の徒歩脱出
  9. 72日間の終わり|571便の16人はどう救助されたのか
  10. 『雪山の絆』はどこまで史実か|実在人物・記録・『生きてこそ』との違い

今回出てきた言葉

雪崩
斜面上の雪が大量に流下する現象。571便では10月29日に胴体を直撃し、8人が窒息死した。
圧雪
雪が圧力によって高密度になった状態。雪崩では流動した雪が停止後に身体を強く拘束し、呼吸や脱出を困難にすることがある。
エアポケット
雪などに埋没した際、顔の周囲に残る空気の空間。571便でも、生存者の証言から、偶然残った小さな空間が呼吸を可能にした例が確認できる。
ロイ・ハーレイ
571便の生存者の一人。後年の再構成では、雪崩直前に立っていたことが、雪中から生存者を掘り出す初期段階で重要だったとされる。
ホセ・ルイス・インチアルテ
571便の生存者。後年、雪崩で圧雪下に埋まり、わずかな空気空間によって呼吸できた経験を詳しく証言している。

出典・参考資料

本記事では、Museo Andes 1972と生存者本人の証言を優先し、雪崩発生の詳細を再構成しています。雪崩の発生時刻、胴体内に閉じ込められていた期間などは資料によって細かな差があるため、「16日後」「10月29日」「数日間」と、複数資料で整合する範囲を中心に記述しました。また雪崩を引き起こした具体的な気象上のトリガーについては、本記事で確認した資料だけでは一つに確定できないため断定していません。