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72日間の終わり571便の16人はどう救助されたのか

72日間の終わり|571便の16人はどう救助されたのか

航空事故

1972年12月21日。

チリ中部の山間部に、一つの知らせが入った。

約2か月前にアンデス山中で消息を絶ったウルグアイ空軍571便について、

生存者がいる。

しかも2人だけではない。

ナンド・パラードがセルヒオ・カタランへ渡した手紙には、飛行機の場所にさらに14人が残っていると書かれていた。

墜落は10月13日。

公式捜索はすでに終了している。

571便の乗員・乗客は、外の世界ではほぼ死亡したものと考えられていた。

そこへ突然、

「16人が生きている」

という情報が戻ってきた。

しかし、これで救助が終わったわけではない。

パラードとロベルト・カネッサが人間のいる場所まで到達しても、14人はまだ標高約3,700mのアンデス山中にいる。

正確な事故地点へ救助ヘリを案内し、高地で着陸し、14人を運び出さなければならない。

しかも天候は安定していなかった。

第9回では、571便の72日間が実際に終わるまでの最後の3日間を追う。

この記事で分かること

  • セルヒオ・カタランの知らせがどう救助機関へ届いたのか
  • パラードとカネッサがいつ保護されたのか
  • なぜパラード自身が救助ヘリへ乗ったのか
  • 救助に使われたヘリコプター
  • なぜ一度に14人全員を運べなかったのか
  • 12月22日に何人が救助されたのか
  • なぜ7人がもう一晩機体へ残ったのか
  • 12月23日に72日間がどう終わったのか
  • 救助後、生存者たちはどのような状態だったのか
  • 救助直後から世界中の報道が集中した理由

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ウルグアイ空軍571便アンデス遭難特集|全10回

  1. ウルグアイ空軍571便アンデス遭難とは?|45人を乗せた飛行機と16人が生還した72日間
  2. なぜ571便はアンデスに墜落したのか|飛行経路と「クリコ通過」誤認
  3. 墜落地点はどこだったのか|地図で見るアンデスの谷と捜索の死角
  4. 零下の機体でどう生き延びたのか|水・防寒・負傷者治療・役割分担
  5. 食料が尽きたとき、なぜ死者の肉を食べる決断をしたのか|飢餓と生存の選択
  6. 墜落16日後、雪崩が機体を埋めた|8人が死亡した第二の遭難
  7. 救助を待つのをやめた|尾部探索・無線の失敗・アンデス脱出への準備
  8. パラードとカネッサはどうアンデスを越えたのか|10日間の徒歩脱出
  9. 72日間の終わり|571便の16人はどう救助されたのか 【現在の記事】
  10. 『雪山の絆』はどこまで史実か|実在人物・記録・『生きてこそ』との違い

まず時系列|徒歩脱出成功から全員救助まで

日付 出来事
12月20日 パラードとカネッサがセルヒオ・カタランらを川越しに発見
12月21日 手紙で571便と14人の存在を伝える。カタランが警察へ通報
12月21日夜 パラードとカネッサがチリ側で保護される
12月22日 救助ヘリが墜落地点へ到達。14人のうち7人を救助
12月23日 残る7人を救出。16人全員の救助完了

12月23日は、10月13日の墜落から72日目だった。

12月21日|一枚の手紙が警察へ届いた

前回見たように、パラードとカネッサは12月20日にチリ人の牧畜民セルヒオ・カタランらと接触した。

しかし両者の間には川があり、水音によって会話ができなかった。

翌21日、紙と筆記具を利用して意思疎通が行われた。

パラードが書いた手紙には、自分たちが墜落した飛行機から来たこと、10日間歩いてきたこと、そして機体には14人が残されていることが記されていた。

当時、地元紙『El Guerrillero』へ送られたラジオ報道の記録にも、この手紙の内容が残っている。

そこには、

「飛行機には14人が残っている。食料がない。弱っている。早く助けに来てほしい」

という趣旨が記されていた。

この時点で、事故から約70日間途絶えていた571便と外部社会の情報線がつながった。

セルヒオ・カタランは警察へ知らせに向かった

事情を理解したセルヒオ・カタランは、その場で救助機関へ電話をかけたわけではない。

そこもまた、山間の人里離れた場所だった。

カタランは救助を求めるため移動し、最終的にチリ警察のCarabinerosへ情報を届けた。

Museo Andes 1972では、カタランが救助を求めるため約8時間移動したと説明されている。

その後、Carabinerosとチリ陸軍などが動き始めた。

当時の現地報道によれば、12月21日13時30分ごろ、カタランがPuente Negroの警察拠点へ571便の情報を伝えた。

そこから事態は一気に動く。

「失われた飛行機に生存者がいる」というニュースが広がった

571便は10月の捜索で発見できなかった。

その後、乗客の家族の一部は独自に捜索を続けていたが、社会一般では生存の可能性はほとんどないと見られていた。

そこへ約2か月ぶりに生存報告が入った。

12月21日の現地報道記録を見ると、ウルグアイだけでなくニューヨークなど国外からも問い合わせが殺到している。

報道機関もSan Fernando周辺へ集まり始めた。

事故はこの瞬間から、

「行方不明になった航空機」から「70日以上生きている遭難者の救助作戦」

へ変わった。

パラードとカネッサも12月21日に保護された

手紙を届けた時点で、パラードとカネッサ自身も限界に近かった。

約10日間にわたって高地を歩き続け、事故以来の食料不足で大幅に体重を失っている。

当時の現地報道では、12月21日夜、Carabinerosと関係者によって2人が保護されたと記録されている。

2人は食事と医療的な支援を受けた。

しかし、パラードにとって仕事はまだ終わっていなかった。

救助側は墜落地点を知らない。

地図だけでは、571便を見つけられない

これは571便で繰り返された問題だった。

事故地点は現在なら緯度経度で示せる。

1972年の救助隊には、その座標がない。

パラードとカネッサ自身も、歩いてきたルートを正確な地図上で測量していたわけではない。

さらに現場は広大な雪山である。

以前の捜索機ですら、上空を飛びながら白い胴体を発見できなかった。

そこで必要になったのが、実際に現場から歩いてきた人間だった。

ナンド・パラードである。

12月22日|救助作戦が始まった

12月22日朝、チリ側では救助のための航空作戦が準備された。

チリ国立航空宇宙博物館の記録では、この救助に使用された主な機体は、

  • Bell UH-1H H-89
  • Bell UH-1H H-91

だった。

H-89はカルロス・ガルシア、H-91はホルヘ・マッサが操縦した。

さらにH-90が予備機として用意された記録も残っている。

救助隊にはチリ空軍の乗員だけでなく、医療関係者と山岳救助要員も加わった。

国立航空宇宙博物館は、

  • 看護将校ウィルマ・コック
  • セルヒオ・ディアス
  • オスバルド・ビジェガス
  • クラウディオ・ルセロ

らの参加を記録している。

天候は、最後まで571便の救助を妨げた

ヘリコプターを飛ばせば、すぐ事故地点へ向かえるわけではなかった。

12月22日も山岳地域には雲や霧があった。

当時の現地報道では、救助ヘリは午前9時30分ごろにSan Fernando側から出発したと記録されている。

しかし山岳飛行には視界と天候の問題がある。

後年の再構成では、霧が改善するまで待った後、パラードが救助ヘリに搭乗し、事故地点へ案内したとされている。

ここには一つの皮肉がある。

571便は、自分たちの位置を誤認したことで墜落した。

その約70日後、

現場から実際に歩いて出てきたパラード自身が、今度は正しい場所へ航空機を案内した。

パラードは再びアンデスへ戻った

パラードは10日間かけて山から出てきたばかりだった。

普通なら、二度と戻りたくない場所だったはずである。

しかし残る14人を救うには、事故地点を示す必要があった。

そのためパラードはヘリコプターへ乗った。

後年の資料では、事故機の飛行用地図も利用しながら、山と谷を見て位置を確認していったとされる。

徒歩では約10日かかった道のりを、今度は上空から逆方向へ戻っていく。

ヘリの操縦士たちは、パラードとカネッサが実際に越えてきた山岳地形を目の当たりにした。

一方、機体に残った14人はラジオを聞いていた

機体側の14人は、パラードとカネッサがどうなったのか知らなかった。

彼らが成功したという連絡手段もない。

遠征開始から日数だけが過ぎていく。

しかし12月21日から22日にかけて、持っていた小型ラジオから驚くべきニュースが流れた。

571便の生存者2人がチリ側で発見された。

それがパラードとカネッサだと分かった。

つまり、

最終遠征は成功した。

約2か月間、救助のニュースを待ち続けてきた14人にとって、初めて外部から確実な「救助が来る」という情報が届いた。

遠くからヘリコプターの音が聞こえた

12月22日午後。

機体に残る生存者たちのもとへ、ヘリコプターが近づいた。

墜落直後にも、彼らは上空の捜索機を見ている。

そのときは発見されなかった。

何度手を振っても、何をしても、航空機は去っていった。

今回は違う。

ヘリコプターは自分たちを探して飛んできている。

そしてその中には、ナンド・パラードが乗っていた。

救助ヘリは普通に着陸できなかった

事故現場は空港でも平坦な雪原でもない。

急斜面と高い山に囲まれた標高約3,700mの場所である。

高地では空気密度が低くなる。

ヘリコプターにとってはローターで得られる揚力やエンジン性能に影響し、搭載できる重量にも制約が生じる。

さらに事故地点には整地された着陸場所がなかった。

後年の救助記録では、機体を完全に着陸させることができず、斜面へ片側のスキッドだけを接地するような状態で救助を行ったと説明されている。

つまり、

「ヘリが来たので14人を乗せて帰った」

という簡単な作業ではなかった。

14人全員を一度に運ぶことはできなかった

高地での性能制限と搭載重量の問題から、一度に全員を運ぶことはできなかった。

12月22日の救助では、機体に残っていた14人のうち7人が山を離れた。

残る7人は、もう一晩事故地点へ留まることになった。

状況 人数
徒歩で外部へ到達 パラード、カネッサの2人
墜落地点に残っていた人数 14人
12月22日にヘリ救助 7人
その夜も山に残留 7人
12月23日に救助 残る7人
最終生存者 16人

誰を先に乗せるかという問題

救助ヘリに人数制限がある以上、誰かがその場に残らなければならない。

72日近く同じ場所で生活してきた人々にとって、もう一晩という時間は短いように見える。

しかしこの時点では天候が再び悪化すれば、翌日の救助が予定通り行える保証はない。

それでも一部の生存者は山へ残った。

後年資料では、複数の山岳救助隊員も残留し、最後の7人と一緒に夜を過ごしたとされている。

これは重要な変化だった。

前夜まで彼らは、外部社会から完全に孤立していた。

最後の夜には、初めて救助側の人間が同じ機体の中にいた。

12月22日の夜|「最後の一晩」

7人は、また胴体で夜を越した。

しかし、それまでの夜とは意味がまったく違う。

10月13日の最初の夜には、自分たちがどこにいるのかも分からなかった。

10月29日の雪崩の夜には、機体そのものが雪に埋まった。

11月には、無線の復旧にも失敗した。

12月12日には、3人を徒歩遠征へ送り出した。

そして12月22日の夜には、

救助隊がすでに隣にいる。

問題は「助かるかどうか」から、「明日ヘリが戻ってこられるか」へ変わっていた。

12月23日|ヘリコプターが再び戻った

翌23日朝、救助ヘリが事故地点へ戻った。

残されていた7人が機体を離れる。

これによって、墜落地点に生存者はいなくなった。

10月13日から数えて72日目。

45人を乗せて出発した571便から、最終的に16人が生還した。

571便の遭難は、この時点で初めて物理的に終了した。

72日間を数字にするとどうなるか

項目 内容
墜落 1972年10月13日
搭乗者 45人
雪崩 10月29日
最終遠征出発 12月12日
カタランと接触 12月20日
パラードらの情報が警察へ届く 12月21日
第1次ヘリ救助 12月22日
最終救助 12月23日
最終生存者 16人
死亡者 29人
遭難期間 72日

救助された16人は「健康だった」わけではない

16人が生還したという結果だけを見ると、彼らが比較的元気な状態で山から戻ったように感じるかもしれない。

実際には約2か月にわたる飢餓、高所、低温、負傷によって身体は大きく消耗していた。

救助後、生存者たちは医療機関で診察を受けた。

後年の救助資料では、

  • 脱水
  • 栄養失調
  • 凍傷
  • 骨折
  • 高地環境による身体への影響
  • ビタミン不足に関係する症状

などが確認されたとされている。

ロベルト・カネッサは、救助時には事故前から体重を大幅に失っていた。

「16人が72日間生きた」という事実と、「16人が健康な状態で生きた」はまったく違う。

救助を可能にしたのはヘリコプターだけではない

救助の最後だけを見ると、チリ空軍のヘリコプターが571便の生存者を救った事件に見える。

もちろん航空救助が決定的だったことは間違いない。

しかし救助が成立するまでの情報の流れを見ると、複数の人間が接続されている。

人物・組織 役割
パラード/カネッサ 徒歩でアンデスを越え、外部へ到達
アントニオ・ビシンティン 最終遠征に参加し、食料を2人へ残して帰還
セルヒオ・カタラン 手紙を受け取り、救助機関へ情報を運ぶ
Carabineros 2人を保護し、救助情報を行政・軍へ接続
チリ陸軍・関係機関 地上支援、医療、救助準備
チリ空軍 高地へヘリを投入して14人を空輸
山岳救助隊 現場救助と残留者支援

どこか一つが欠ければ、救助は成立しなかった可能性がある。

それでも「救助された」の前に「自分たちで発見させた」がある

571便の最大の特徴は、外部の捜索隊が偶然機体を発見して救助した事件ではないという点にある。

公式捜索はすでに打ち切られていた。

無線も動かなかった。

上空を飛んだ捜索機も、白い胴体を発見できなかった。

最後に救助システムを再起動させたのは、

遭難者自身が山から歩いて外へ情報を運んだこと

だった。

パラードとカネッサが生還したから14人が救助されたのではない。

2人が14人の存在と場所を伝えたから、ヘリが山へ向かうことができた。

「奇跡」という言葉だけでは救助の過程が消える

571便は後に「アンデスの奇跡」と呼ばれるようになった。

16人が72日後に生還したという結果を見れば、そう呼びたくなるのは理解できる。

しかし全9回を通して見ると、救助までには具体的な因果関係が存在する。

胴体が完全には破壊されなかった。

機体をシェルターへ変えた。

雪を水にした。

負傷者を支えた。

食料問題へ向き合った。

雪崩から生き残った。

尾部を探索した。

無線を直そうとした。

寝袋を作った。

3人を山へ送り出した。

2人が歩き続けた。

セルヒオ・カタランが情報を運んだ。

そしてチリ側がヘリコプターによる救助を実行した。

結果は「奇跡」と呼べても、

そこへ至る過程は、多数の判断と行動の連鎖だった。

山から出た直後、別の問題が始まった

12月23日で山岳遭難は終わった。

しかし571便の出来事そのものは終わらない。

16人が生きていたことは世界的なニュースになった。

そして報道機関が次に疑問を持った。

72日間、彼らは何を食べていたのか。

事故地点へ入った救助関係者が撮影した写真などから、死者の身体を食料としていた事実が報道され始める。

生存者たちは、山の中では生き延びるための判断を迫られた。

山を出た後には、

その判断を世界へ説明する

という問題へ直面する。

571便は映画・書籍の中で何度も作り直されてきた

571便の遭難は、その後さまざまな書籍、ドキュメンタリー、映画の題材になった。

特に広く知られているのが、

  • ピアーズ・ポール・リード『Alive』
  • 1993年映画『生きてこそ(Alive)』
  • パブロ・ビエルシ『La Sociedad de la Nieve』
  • 2023年公開/2024年Netflix配信で広く知られた映画『雪山の絆(Society of the Snow)』

である。

ただし映画は史料そのものではない。

実在人物を統合したり、時間を圧縮したり、出来事の順番を変えたりすることがある。

一方で『雪山の絆』は従来の作品と異なる人物へ焦点を当て、実際の生存者や遺族との関係を重視して制作されたことでも知られている。

最終回では、

『雪山の絆』は571便の実話をどこまで忠実に描いているのか。

そして1993年の『生きてこそ』とは何が違うのかを、今回までに確認した史実と照合する。

まとめ|72日間を終わらせたのは「発見」ではなく情報の到達だった

1972年12月20日、ナンド・パラードとロベルト・カネッサはセルヒオ・カタランと接触した。

翌21日、パラードの手紙によって、571便の機体に14人が残っていることが外部へ伝わった。

同日夜にはパラードとカネッサが保護され、救助作戦が準備された。

12月22日、チリ空軍のBell UH-1Hがアンデスへ向かった。

パラード自身も機体へ乗り込み、約10日かけて歩いてきた山岳地帯を上空から戻って事故地点へ案内した。

しかし高地と地形の条件から14人全員を一度には運べず、その日は7人を救助した。

残された7人は、救助隊員とともにもう一晩胴体で過ごした。

翌12月23日。

ヘリコプターが再び飛来し、最後の7人が山を離れた。

10月13日の墜落から72日目だった。

45人の搭乗者のうち、生きて帰ったのは16人。

571便は、捜索機によって発見されたのではない。

生存者自身が山を越え、情報を人間社会へ運び、その情報を受け取った人々が警察・軍・救助隊へつないだ。

そして最後にヘリコプターが14人を山から運び出した。

だから571便の72日間の終わりは、

「救助隊が彼らを見つけた瞬間」ではなく、「遭難者が救助システムへ自分たちの位置を届けることに成功した瞬間」から始まった

と考える方が実態に近い。

次回は最終回。

50年以上後、この出来事を再び世界的に知らしめた映画『雪山の絆』を、ここまで確認した史実と照合する。


前の記事:

第8回|パラードとカネッサはどうアンデスを越えたのか|10日間の徒歩脱出

次の記事:

第10回|『雪山の絆』はどこまで史実か|実在人物・記録・『生きてこそ』との違い

特集全記事

  1. ウルグアイ空軍571便アンデス遭難とは?|45人を乗せた飛行機と16人が生還した72日間
  2. なぜ571便はアンデスに墜落したのか|飛行経路と「クリコ通過」誤認
  3. 墜落地点はどこだったのか|地図で見るアンデスの谷と捜索の死角
  4. 零下の機体でどう生き延びたのか|水・防寒・負傷者治療・役割分担
  5. 食料が尽きたとき、なぜ死者の肉を食べる決断をしたのか|飢餓と生存の選択
  6. 墜落16日後、雪崩が機体を埋めた|8人が死亡した第二の遭難
  7. 救助を待つのをやめた|尾部探索・無線の失敗・アンデス脱出への準備
  8. パラードとカネッサはどうアンデスを越えたのか|10日間の徒歩脱出
  9. 72日間の終わり|571便の16人はどう救助されたのか 【現在の記事】
  10. 『雪山の絆』はどこまで史実か|実在人物・記録・『生きてこそ』との違い

今回出てきた言葉

Bell UH-1H
チリ空軍が571便の救助へ投入したヘリコプター。チリ国立航空宇宙博物館はH-89、H-91を中心とした救助作戦を記録している。
Servicio de Búsqueda y Salvamento Aéreo
航空機事故などに対応するチリ側の航空捜索・救助機能。571便では山岳救助要員や医療関係者と連携して救助を実施した。
Carabineros de Chile
チリの国家警察組織。セルヒオ・カタランから571便の生存情報を受け、パラードとカネッサの保護およびその後の救助連絡につないだ。
カルロス・ガルシア
571便救助に参加したチリ空軍パイロット。国立航空宇宙博物館の記録ではBell UH-1H H-89の指揮を担当した。
ホルヘ・マッサ
571便救助に参加したチリ空軍パイロット。H-91を担当した。
72日間
1972年10月13日の墜落から12月23日の最終救助までの期間。最終的に45人中16人が生還した。

出典・参考資料

571便の救助人数については、墜落地点に残っていた14人を12月22日と23日の2回に分けて救助したことは複数資料で一致しています。後年資料では22日に7人、23日に残る7人とされます。チリ国立航空宇宙博物館の公式ページは救助作戦全体と機体・乗員を詳しく記録する一方、各便の搭乗人数までは明示していないため、本記事では人数内訳についてHISTORYなどの後年資料も併用しています。またヘリが「片側のスキッドのみを接地した」という詳細も後年の事故再構成に基づくため、救助の公式記録と区別して記述しています。