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『雪山の絆』はどこまで史実か|実在人物・記録・『生きてこそ』との違い

航空事故

1972年10月13日にウルグアイ空軍571便がアンデスへ墜落してから、半世紀以上が経った。

それでも、この事故は繰り返し書籍や映画の題材になっている。

1993年にはイーサン・ホーク主演の映画『生きてこそ(Alive)』が公開された。

そして2023年、J.A.バヨナ監督の『雪山の絆(Society of the Snow/La sociedad de la nieve)』が公開され、Netflixによって世界へ配信された。

どちらも同じウルグアイ空軍571便を扱っている。

墜落。

雪山での飢餓。

死者の身体を食料として利用する決断。

雪崩。

尾部探索。

ナンド・パラードとロベルト・カネッサによる徒歩脱出。

そして72日後の救助。

大きな出来事は共通している。

しかし、2本の映画を見比べると印象はかなり違う。

『生きてこそ』では、ナンド・パラードとロベルト・カネッサを中心とした「生還」の物語が前面に出る。

一方の『雪山の絆』では、生き残った16人だけでなく、山から帰ることができなかった29人も物語の中へ戻そうとしている。

その象徴が、映画の語り手となるヌマ・トゥルカッティである。

しかしヌマは実際には救助されていない。

彼は1972年12月11日に死亡した。

では、映画のどこまでが史実なのか。

最終回では、ここまで9回にわたって確認してきた571便の記録と『雪山の絆』を照合し、さらに1993年の『生きてこそ』との違いを整理する。

この記事で分かること

  • 『雪山の絆』は実話をどこまで忠実に描いているのか
  • ヌマ・トゥルカッティは実在人物なのか
  • なぜ亡くなったヌマが映画の語り手なのか
  • 墜落・食料問題・雪崩・徒歩脱出は実際に起きたのか
  • 映画の会話や人物関係もすべて史実なのか
  • 生存者と遺族は制作へ関わったのか
  • 実際の事故現場で撮影されたのか
  • 1993年『生きてこそ』とは何が違うのか
  • どちらを「史実確認用」として見るべきなのか

CASE FILE 30

ウルグアイ空軍571便アンデス遭難特集|全10回

  1. ウルグアイ空軍571便アンデス遭難とは?|45人を乗せた飛行機と16人が生還した72日間
  2. なぜ571便はアンデスに墜落したのか|飛行経路と「クリコ通過」誤認
  3. 墜落地点はどこだったのか|地図で見るアンデスの谷と捜索の死角
  4. 零下の機体でどう生き延びたのか|水・防寒・負傷者治療・役割分担
  5. 食料が尽きたとき、なぜ死者の肉を食べる決断をしたのか|飢餓と生存の選択
  6. 墜落16日後、雪崩が機体を埋めた|8人が死亡した第二の遭難
  7. 救助を待つのをやめた|尾部探索・無線の失敗・アンデス脱出への準備
  8. パラードとカネッサはどうアンデスを越えたのか|10日間の徒歩脱出
  9. 72日間の終わり|571便の16人はどう救助されたのか
  10. 『雪山の絆』はどこまで史実か|実在人物・記録・『生きてこそ』との違い 【現在の記事】

まず結論|大筋は史実。ただし「そのまま再現した記録映像」ではない

『雪山の絆』について最初に整理しておきたい。

映画で描かれる571便の主要な出来事は、これまでの記事で確認してきた史実とかなりよく一致する。

映画で描かれる出来事 史実との関係
1972年10月13日の墜落 史実
アンデス山中への孤立 史実
胴体をシェルターとして利用 史実
雪から飲料水を作る 史実
公式捜索の打切りをラジオで知る 史実
死者の身体を食料として利用 史実
10月29日の雪崩 史実
尾部の発見 史実
バッテリーと無線による救助要請の試み 史実
大型寝袋の製作 史実
パラード、カネッサ、ビシンティンの最終遠征 史実
途中でビシンティンが戻る 史実
パラードとカネッサがセルヒオ・カタランと接触 史実
12月22・23日のヘリ救助 史実

この意味では、『雪山の絆』は571便の出来事を大幅に作り替えた映画ではない。

ただし、

「出来事が実際に起きた」ことと、「映画の一場面がそのまま実際に起きた」ことは別である。

映画には人物の会話、視線、沈黙、葛藤、出来事の配置など、映像作品として再構成された部分が多数含まれる。

原作は2008年の『La sociedad de la nieve』

『雪山の絆』は、ピアーズ・ポール・リードの『Alive』を再映画化した作品ではない。

原作となったのは、ウルグアイのジャーナリスト、パブロ・ビエルシによる『La sociedad de la nieve』である。

ビエルシは生存者たちと同世代で、彼らと学校生活を共有していた人物でもある。

Netflixによれば、バヨナ監督はこの本を基礎に10年以上かけて映画化を進めた。

作品の狙いは「どうやって16人が助かったのか」だけを描くことではなかった。

生還しなかった人々を含めて、山で形成された集団そのものを描く。

それが題名の

「Society of the Snow=雪の社会」

という考え方につながっている。

なぜヌマ・トゥルカッティが主人公なのか

映画で最も大きな構成上の特徴がヌマ・トゥルカッティである。

演じるのはエンソ・ボグリンシッチ。

ヌマは実在した人物である。

しかし571便の生存者ではない。

彼は墜落直後を生き延びたものの、山中で負傷と衰弱が進み、1972年12月11日に死亡した。

最終遠征が始まる前日である。

彼は571便で最後に死亡した人物となった。

映画では、そのヌマが最初から最後まで物語を語る。

当然ながら、

これは史実ではなく映画上の構成である。

バヨナは意図的に「死者」を語り手にした

なぜ、生きて帰ったパラードやカネッサではなくヌマなのか。

バヨナ監督自身が、この選択について説明している。

生存者だけの英雄物語にすると、

「助かった人=物語の中心」

「亡くなった人=途中で退場する人物」

という構造になりやすい。

しかし実際の571便では、亡くなった人々も、生き残った人々の生活や意思決定へ影響していた。

そこで映画では、山から帰れなかったヌマに語らせる。

バヨナはヌマについて、仲間たちから非常に高く評価されながら、最後には生還できなかった人物だったことに注目している。

つまりヌマは、

「生き残った人だけが571便の主人公ではない」

という作品の立場を象徴する人物として選ばれている。

ヌマが実在するからこそ「全部史実」に見える点には注意

ここは映画を見る際に最も注意したい。

ヌマ自身は実在した。

彼が事故後も長期間生き、最終遠征前日に死亡したことも史実である。

しかし、

  • 映画全体をヌマの声で語ること
  • ヌマが見ていない出来事まで語ること
  • 死後の出来事までヌマの声が続くこと

は、映画としての表現である。

したがって『雪山の絆』では、

実在人物+史実を使いながら、語りの構造自体はフィクション

という部分が存在する。

生存者と犠牲者遺族が制作へ深く関わった

『雪山の絆』が従来作品と大きく違うのは、制作過程で生存者だけでなく犠牲者の家族とも詳細なやり取りを行ったことである。

Netflixによれば、制作陣は生存者や遺族と長期間話し合い、俳優たちも自分が演じる実在人物やその家族について直接取材した。

ロベルト・カネッサを演じたマティアス・レカルトは、実際のカネッサ本人や家族と交流し、現在医師となったカネッサの仕事場も訪れている。

カネッサ本人も、

映画の中で昔の友人たちが再びそこにいるように感じたと振り返っている。

つまり『雪山の絆』の人物造形は、公開済みの事故記録だけから作られたものではない。

生存者や家族が持つ個人的な記憶も取り入れられている。

だからといって「映画の会話=一次資料」ではない

一方で、この制作方法には記事を書く側が注意すべき点もある。

関係者への取材を行った映画だからといって、画面上の会話をそのまま史実として引用することはできない。

例えば、

「この場面で誰が最初にこの言葉を言った」

「この瞬間、誰がこの表情をした」

「この二人がこの順番で議論した」

といった細部は、映画用の脚本によって整理されている可能性がある。

複数人が別々の時期に行った会話を一つの場面へ集約することも、映画では一般的である。

したがって本シリーズでは、

映画を史料そのものとして事故史を組み立てることはしていない。

Museo Andes 1972、生存者証言、公的資料、同時代報道などを先に確認し、その後で映画と比較している。

墜落シーンは史実に沿っているのか

大筋では一致している。

571便はメンドーサを出発後、南へ迂回してアンデスを横断した。

乗員はクリコ付近へ到達したと誤認し、サンティアゴ方向へ旋回・降下した。

しかし実際にはまだアンデス山中にいた。

機体は山岳へ接触し、翼や尾部を失い、残った胴体前部が雪上を滑って停止した。

映画はこの基本的な事故構造を維持している。

もちろん、墜落中の乗客一人一人の位置、視線、会話、動きまで完全に記録されているわけではない。

そこは映像作品として再構成された部分である。

雪山での生活描写はかなり史実に近い

映画に登場する「即席の生活」は、571便の特徴を比較的正確に反映している。

これまで確認した実際の生存者証言には、

  • 胴体をシェルターとして使う
  • 荷物などで機体後部を塞ぐ
  • 座席素材を防寒へ利用する
  • 金属板などを利用して雪から水を作る
  • 機内素材から雪目対策を作る
  • 医学生が負傷者を処置する

といった行動が残されている。

『雪山の絆』が描く「機体そのものを解体しながら必要な道具を作る」という生活は、映画独自のアイデアではない。

571便で実際に重要だった生存方法の一つである。

食料をめぐる決断も事実

映画で最も衝撃的に映る部分の一つが、亡くなった人々の身体を食料として利用する場面である。

これも史実である。

周囲には現実的な食料源がなく、機内のわずかな食品も尽きた。

生存者たちは強い心理的・宗教的葛藤を経て、すでに亡くなった仲間の身体を利用するようになった。

ただし映画の価値は、「実際に食べた」という事実を再現していることだけではない。

生存者ごとに受け入れる速度が違い、集団で意味づけを作ろうとする過程を描いている点にある。

この方向性は、カネッサなど生存者が後年語ってきた内容とも整合する。

雪崩は映画的な追加事件ではない

映画中盤で、眠っている生存者たちを雪崩が襲う。

これも実際に起きた。

1972年10月29日、墜落から16日後、大量の雪が胴体へ流れ込んだ。

8人が死亡している。

雪中から互いを掘り出したこと、胴体内部が雪で塞がれたこと、その後もすぐ通常の生活へ戻れなかったことなども、生存者証言に残る。

したがって映画の雪崩は、緊張感を高めるために追加された「第二の危機」ではない。

571便の生存者数と、その後の脱出判断を大きく変えた実際の出来事である。

尾部・バッテリー・無線復旧も実際に行われた

後半で描かれる尾部探索も史実である。

生存者たちは胴体から離れた場所に落ちていた尾部を発見した。

そこには衣類、荷物、航空機の部品、バッテリーなどが残されていた。

無線を使って外部へ救助を求める試みも実際に行われている。

しかし成功しなかった。

その結果、最終的に徒歩で外へ出る方法へ収束していった。

映画では上映時間の都合上、この間に行われた複数の探索や試行錯誤が圧縮されている。

したがって、

出来事は史実でも、実際には映画より長い時間と複数の試行が存在した

と考える必要がある。

3人用の寝袋も実在した

「映画だから用意された便利な小道具」に見えるものの一つが、大型寝袋である。

これも実際に作られた。

尾部から得た断熱材料などを利用し、生存者たちが縫って作った。

目的は、最終遠征者たちがアンデスの夜を越すことである。

雪山を徒歩で脱出できた背景には、単なる精神力ではなく、

「どうすれば夜に凍死しないか」

という問題に対する具体的な準備が存在した。

最終遠征も大筋では史実どおり

1972年12月12日、

  • ナンド・パラード
  • ロベルト・カネッサ
  • アントニオ・「ティンティン」・ビシンティン

の3人が出発した。

西側の山を登ったところ、予想に反してその先にもアンデスが続いていることが分かった。

食料を長持ちさせるため、ビシンティンが途中から機体へ戻った。

パラードとカネッサが西へ進み続け、やがて雪のない谷、水、植物、家畜と、人間の生活圏へ近づく兆候を発見した。

そしてセルヒオ・カタランと接触する。

この大きな流れも史実である。

セルヒオ・カタランも実在した

徒歩脱出の最後に登場するチリ人牧畜民セルヒオ・カタランも実在人物である。

パラードとカネッサは川を挟んで彼と接触した。

水音で会話できなかったため、紙を使って事情を伝えた。

そしてカタランが外部へ情報を届けたことで、14人の救助が始まった。

つまり映画の終盤は、

「たまたま誰かを見つけて終わる」

という創作ではない。

571便の救助が再始動した実際の経路を描いている。

では『雪山の絆』のどこがフィクションなのか

大きな出来事がほぼ史実なら、

「ほとんどドキュメンタリーなのではないか」

と思うかもしれない。

しかしそうではない。

主な映画的再構成は次のような部分にある。

要素 扱い
ヌマによる全編ナレーション 映画独自の語りの仕組み
会話の一語一句 記録されていない部分を脚本で再構成
誰がどの瞬間に何を言ったか 証言を基に整理・統合された可能性がある
人物同士の視線や沈黙 演出
出来事同士の時間間隔 映画の尺に合わせて圧縮される部分あり
ヌマが物語全体を代表する構造 バヨナによる意図的な映画表現

つまり、

史実の骨格はかなり強いが、場面そのものは映画として作られている。

「本物の事故地点で撮った」も半分正しく、半分違う

『雪山の絆』については、

「実際の571便墜落地点で撮影した映画」

と紹介されることがある。

これは完全な誤りではない。

Netflixによれば、撮影は、

  • スペイン・シエラネバダ
  • ウルグアイ・モンテビデオ
  • チリ・アルゼンチンのアンデス
  • 実際の事故現場Valle de las Lágrimas

などで行われた。

しかし、映画全編を実際の事故地点で撮影したわけではない。

現場は非常に危険でアクセスも難しい。

撮影スタッフの証言では、実際のValle de las Lágrimasで行われた撮影は限定的で、ドローン映像や背景素材なども利用されている。

雪山の主要撮影地の一つはスペインのシエラネバダだった。

したがって、

「実際の事故現場も使った」

が正確である。

1993年『生きてこそ』も、でたらめな映画ではない

ここで『雪山の絆』と比較されることが多い『生きてこそ(Alive)』を見る。

1993年公開。

監督はフランク・マーシャル。

ナンド・パラードをイーサン・ホーク、ロベルト・カネッサをジョシュ・ハミルトンが演じた。

原作は、ピアーズ・ポール・リードが1974年に刊行した

『Alive: The Story of the Andes Survivors』

である。

Disneyの公式アーカイブによれば、制作には実際の生存者が協力し、ナンド・パラード自身が技術顧問として参加した。

事故機と同型のFairchild F-227も用意され、墜落シーンの再現にも力が入れられた。

つまり、

「1993年版=完全なハリウッド創作」

と切り捨てるのも正しくない。

『生きてこそ』と『雪山の絆』の最大の違い

項目 『生きてこそ』 『雪山の絆』
公開 1993年 2023年
監督 フランク・マーシャル J.A.バヨナ
原作 ピアーズ・ポール・リード『Alive』 パブロ・ビエルシ『La sociedad de la nieve』
主要言語 英語 スペイン語
中心人物 パラード、カネッサら生存者寄り ヌマを軸に生存者・死者双方
死者の扱い 一部の人物名が変更・再構成 実在人物の名前を広く使用
基本的方向 生還・冒険ドラマ 集団・死者・記憶を含む群像劇
生存者の協力 あり。パラードが技術顧問 生存者・遺族と長期間協力

違いは、事故の結末ではない。

「誰を主人公として571便を記憶するか」

である。

『生きてこそ』は「生還した者」の物語になりやすい

『生きてこそ』では、最終的に救助へつなげるパラードとカネッサが物語の大きな中心になる。

これは571便を「極限状況からの脱出」として見るなら非常に分かりやすい。

実際、

「アンデス遭難で何が起きたのか」

という出来事の大筋を理解するうえでは、現在でも価値のある映画である。

一方で、亡くなった人々は、生還者ほど細かく人物像を与えられていない。

一部では実名も変更されている。

そのため、571便を

「16人がどう助かったか」

という方向から見る映画になりやすい。

『雪山の絆』は「16人だけが社会を作った」のではないと考える

『雪山の絆』は、この視点を変える。

最終的に生還した16人だけが571便を作ったのではない。

途中で死亡した人々も、

水を作った。

負傷者を助けた。

機体を整理した。

仲間を励ました。

探索へ参加した。

そして最終的には、その身体までが残る仲間の生命を支えた。

そのため映画は、

「誰が最後まで生きたのか」

だけで人物の重要度を決めない。

この発想が『Society of the Snow』という題名そのものに表れている。

どちらの映画が「正確」なのか

単純な点数を付けるなら、『雪山の絆』の方が現在利用できる多数の証言と関係者取材を取り込み、実在人物をより広く描いている。

ただし、

「『雪山の絆』は正確、旧作は間違い」

と分けるのは適切ではない。

『生きてこそ』にも、生存者自身の協力と当時利用可能だった記録が使われている。

一方、『雪山の絆』にもナレーション、会話、時間圧縮など明確な映画的再構成がある。

したがって評価は次のように考えると分かりやすい。

確認したいこと 向いている資料
571便の大まかな物語を映像で知る 『生きてこそ』『雪山の絆』とも利用可能
実在人物をより広く知る 『雪山の絆』が有利
生還者中心の脱出ドラマを見る 『生きてこそ』
死者を含む集団全体を見る 『雪山の絆』
事故原因を正確に調べる 映画ではなく事故資料
正確な日付・人数・通信内容を調べる 公的資料・同時代資料・当事者証言

映画は「史料」ではなく、史料をもとに作った解釈である

このCASE FILE全体で映画を最後に置いた理由もここにある。

映画を先に見て、

「この場面が本当にあった」

という前提から調査を始めると、脚本上の再構成まで史実として扱ってしまう。

そこで本シリーズでは、

墜落原因。

地理。

水と防寒。

食料。

雪崩。

探索。

徒歩脱出。

救助。

を先に資料から確認した。

その上で映画を見ると、

「この映画は何を変えたか」だけではなく、「史実のどの部分を選んで強調したか」

が見えてくる。

『雪山の絆』の評価点は「再現度」だけではない

『雪山の絆』は、第96回アカデミー賞で国際長編映画賞とメイクアップ&ヘアスタイリング賞の候補となった。

後者は特に、この映画の方向性を考える上で興味深い。

571便では、時間が経つほど人々は痩せ、汚れ、負傷し、身体状態が変わっていく。

その変化を画面上で示すことによって、

「72日」

という数字を、単なる字幕ではなく身体の変化として見せている。

ただし、これも史実の完全再現ではない。

実際の生存者の身体状態を参考に、映画として視覚化したものである。

2026年、さらに「その後」を扱う作品が発表された

571便の映像化は『雪山の絆』で終わっていない。

Netflixは2026年7月、J.A.バヨナとカルロス・トーレスによる3話構成のドキュメンタリーシリーズ

『Beyond Society(Más allá de la sociedad)』

を2026年中に世界配信すると発表した。

この作品では事故そのものより、

  • 生存者
  • 亡くなった人々の家族
  • 『Alive』著者ピアーズ・ポール・リード
  • 『La sociedad de la nieve』著者パブロ・ビエルシ
  • 1993年版のフランク・マーシャル
  • J.A.バヨナ

らを通して、事故後50年間を扱うとされている。

2026年9月1日時点で、Netflixは「2026年配信」と発表しているが、公式ページ上では具体的な配信日はまだ示されていない。

つまり571便について次に問われているのは、

「どう生き残ったのか」

だけではない。

その後、生存者と遺族がこの出来事をどう抱えて生きたのか

へ移っている。

まとめ|『雪山の絆』は史実に近い。しかし「史実そのもの」ではない

『雪山の絆』で描かれる571便の主要な出来事は、確認できる史実とかなりよく一致する。

事故。

アンデスでの孤立。

水づくり。

食料問題。

雪崩。

尾部探索。

無線復旧。

寝袋。

最終遠征。

セルヒオ・カタランとの接触。

救助。

これらは映画のために作られた出来事ではない。

一方で、ヌマ・トゥルカッティが物語全体を語る構造は明確な創作である。

会話や人物同士の細かなやり取りも、証言を素材に映画として再構成されている。

だから『雪山の絆』を、

「本当にあったことをそのまま映像化した作品」

と理解するのは少し違う。

より正確には、

「実際の出来事と当事者の記憶を大量に取り込みながら、571便を“生還者だけの英雄物語”ではなく、亡くなった人を含む集団の物語として再構成した映画」

と考えるのがよい。

1993年の『生きてこそ』も、571便の重要な映像化である。

ただし中心にあるのは、より明確に「どう生き残り、どう脱出したのか」という物語だった。

30年後の『雪山の絆』は、そこから問いを変えた。

「誰が助かったのか」ではなく、

「あの山で45人は互いにとって何だったのか。」

571便が半世紀を経ても繰り返し語られる理由は、16人が生還したからだけではない。

航空事故、孤立、食料、雪崩、死、集団での意思決定、そして自力脱出。

一つ問題を解決しても、次の問題が現れる。

その72日間を追うと、

「奇跡」という一語では説明できない具体的な行動の連鎖が見えてくる。

ウルグアイ空軍571便は、

墜落事故として始まり、最後には人間がどう集団を作り直して生存したかという事件になった。

これでCASE FILE 30「ウルグアイ空軍571便アンデス遭難」全10回を終了する。


前の記事:

第9回|72日間の終わり|571便の16人はどう救助されたのか

特集トップ:

第1回|ウルグアイ空軍571便アンデス遭難とは?|45人を乗せた飛行機と16人が生還した72日間

特集全記事

  1. ウルグアイ空軍571便アンデス遭難とは?|45人を乗せた飛行機と16人が生還した72日間
  2. なぜ571便はアンデスに墜落したのか|飛行経路と「クリコ通過」誤認
  3. 墜落地点はどこだったのか|地図で見るアンデスの谷と捜索の死角
  4. 零下の機体でどう生き延びたのか|水・防寒・負傷者治療・役割分担
  5. 食料が尽きたとき、なぜ死者の肉を食べる決断をしたのか|飢餓と生存の選択
  6. 墜落16日後、雪崩が機体を埋めた|8人が死亡した第二の遭難
  7. 救助を待つのをやめた|尾部探索・無線の失敗・アンデス脱出への準備
  8. パラードとカネッサはどうアンデスを越えたのか|10日間の徒歩脱出
  9. 72日間の終わり|571便の16人はどう救助されたのか
  10. 『雪山の絆』はどこまで史実か|実在人物・記録・『生きてこそ』との違い 【現在の記事】

今回出てきた言葉

『雪山の絆(Society of the Snow)』
J.A.バヨナ監督による571便の映画。パブロ・ビエルシの『La sociedad de la nieve』を原作とし、生存者だけでなく亡くなった人々にも重点を置く。
ヌマ・トゥルカッティ
実在した571便乗客。1972年12月11日に死亡し、山で最後に死亡した人物となった。『雪山の絆』では映画全体の語り手に設定されているが、このナレーション構造は映画上の創作。
パブロ・ビエルシ
ウルグアイの作家・ジャーナリスト。『La sociedad de la nieve』の著者。571便関係者と長年交流し、生存者だけでなく亡くなった人々の視点も含めて記録した。
『生きてこそ(Alive)』
1993年公開、フランク・マーシャル監督による571便の映画。ピアーズ・ポール・リードの『Alive』を原作とし、ナンド・パラード本人も技術顧問として制作に参加した。
映画的再構成
実際の出来事や証言を基礎にしながら、映画として理解できるよう会話、時間、人物の役割、視点などを整理すること。実話映画でも避けられないため、映画そのものと史料は区別する必要がある。
Beyond Society
Netflixが2026年7月に発表した3話構成のドキュメンタリーシリーズ。生存者、遺族、ピアーズ・ポール・リード、パブロ・ビエルシ、フランク・マーシャル、J.A.バヨナらを通して事故後50年間を扱う予定。

出典・参考資料

本記事では映画『雪山の絆』『生きてこそ』を一次史料として扱わず、これまでのCASE FILE 30で確認した公的資料、生存者証言、Museo Andes 1972、同時代報道等との照合対象として使用しています。「映画で描かれた出来事が史実」という判定は出来事の存在と大まかな経過についてのものであり、台詞、表情、人物の配置、個々の会話まで実際と同一だったことを意味しません。また『Beyond Society』については2026年9月1日時点でNetflixが2026年配信予定と発表していますが、公式発表では具体的な配信日を確認できないため、日付を断定していません。

ウルグアイ空軍571便アンデス遭難とは?|45人を乗せた飛行機と16人が生還した72日間

航空事故

1972年10月13日、チリのサンティアゴへ向かっていたウルグアイ空軍の旅客機が、アンデス山脈の奥深くへ墜落した。

機体はフェアチャイルド・ヒラーFH-227D。乗っていたのは乗員を含む45人で、その多くはウルグアイのラグビークラブ「オールド・クリスチャンズ・クラブ」の選手、その友人や家族だった。

墜落地点は、アルゼンチン西部とチリの国境に近い標高約3,700mの山岳地帯だった。周囲には道路も集落もなく、雪に覆われた山々が続いている。機体を発見できないまま航空捜索は打ち切られ、生存者たちは食料、防寒具、十分な医療用品をほとんど持たない状態で取り残された。

それでも16人が生きて山を下りた。

墜落から最後の救助まで72日。途中では負傷や寒さだけでなく、食料の枯渇、雪崩、捜索打切りという状況が重なった。最後には救助を待つこと自体をやめ、ナンド・パラードとロベルト・カネッサが徒歩でアンデスを越えて助けを求めた。

この出来事は「アンデスの奇跡(Milagro de los Andes)」として知られるようになった。しかし、結果だけを見れば「奇跡」という言葉で片づけられてしまう部分も多い。実際の72日間を追うと見えてくるのは、航空事故、生存のための工夫、集団での意思決定、失敗した救助手段、そして自力で救助へ到達するまでの長い過程である。

第1回では、ウルグアイ空軍571便で何が起きたのかを、墜落から救助まで一続きで整理する。

この記事で分かること

  • ウルグアイ空軍571便はどのような飛行だったのか
  • なぜアンデス山中へ墜落したのか
  • なぜ捜索機は生存者を発見できなかったのか
  • 生存者はどうやって雪山で生活を維持したのか
  • 食料が尽きたあと、どのような決断をしたのか
  • 雪崩が生存者たちへ何をもたらしたのか
  • なぜ救助を待つのをやめ、自力脱出を始めたのか
  • 16人はどのようにして72日後の救助へたどり着いたのか

CASE FILE 30

ウルグアイ空軍571便アンデス遭難特集|全10回

1972年10月、45人を乗せた571便はアンデス山中へ墜落した。
この特集では、事故原因だけでなく、墜落地点の地理、生存環境、食料問題、雪崩、探索、徒歩脱出、救助、そして後世の映像作品までを10回に分けて追う。

  1. ウルグアイ空軍571便アンデス遭難とは?|45人を乗せた飛行機と16人が生還した72日間 【現在の記事】
  2. なぜ571便はアンデスに墜落したのか|飛行経路と「クリコ通過」誤認
  3. 墜落地点はどこだったのか|地図で見るアンデスの谷と捜索の死角
  4. 零下の機体でどう生き延びたのか|水・防寒・負傷者治療・役割分担
  5. 食料が尽きたとき、なぜ死者の肉を食べる決断をしたのか|飢餓と生存の選択
  6. 墜落16日後、雪崩が機体を埋めた|8人が死亡した第二の遭難
  7. 救助を待つのをやめた|尾部探索・無線の失敗・アンデス脱出への準備
  8. パラードとカネッサはどうアンデスを越えたのか|10日間の徒歩脱出
  9. 72日間の終わり|571便の16人はどう救助されたのか
  10. 『雪山の絆』はどこまで史実か|実在人物・記録・『生きてこそ』との違い

ウルグアイ空軍571便とは何だったのか

571便は通常の民間定期便ではない。ウルグアイ空軍が運航していたフェアチャイルド・ヒラーFH-227Dを使用したチャーター飛行だった。

ウルグアイ空軍博物館の資料によると、FH-227Dは米国製の双発ターボプロップ輸送機で、ウルグアイ空軍では1971年から運用されていた。空軍は2機を導入し、FAU 570とFAU 571の機体番号を与えている。事故機はそのうちのFAU 571だった。

乗客の中心は、モンテビデオのオールド・クリスチャンズ・クラブのラグビー関係者だった。チリで行われる試合へ向かうため、選手だけでなく友人や家族も同行していた。

事故発生日 1972年10月13日
運航者 ウルグアイ空軍
機種 Fairchild Hiller FH-227D
機体番号 FAU 571
搭乗者 45人
最終生存者 16人
死亡者 29人
目的地 チリ・サンティアゴ
事故現場 アルゼンチン・メンドーサ州アンデス山中、チリ国境付近
救助まで 72日

「ラグビーチームを乗せた飛行機」と紹介されることが多いが、45人全員が選手だったわけではない。チーム関係者、家族、友人、そして乗員を含む集団だった。

なぜアンデスを越える飛行が必要だったのか

目的地のサンティアゴは、モンテビデオから見れば南米大陸の反対側に位置する。その間には、南北に長く延びるアンデス山脈がある。

現在の大型旅客機なら高高度で山脈を越えること自体は珍しくない。しかしFH-227Dのような機体では、天候と航路を考慮しながら決められた経路を飛ぶ必要があった。

571便は1972年10月12日にウルグアイを出発したが、アンデス周辺の悪天候のためアルゼンチンのメンドーサで一夜を過ごした。翌13日、天候条件を見ながら再びサンティアゴを目指して離陸した。

問題は、その後の自機位置の判断だった。

機体は山脈を越える途中にいたにもかかわらず、乗員側ではすでにチリ側のクリコ付近まで到達したと認識され、サンティアゴへ向かうための降下が始まった。ところが実際には、機体の前方にはまだアンデスの山々が残っていた。

1973年に公表されたウルグアイ空軍調査の内容を伝える当時の資料では、事故の「推定される主原因」として人的要因が挙げられている。単に「悪天候で山にぶつかった事故」と理解するだけでは、571便で何が起きたのかを十分に説明できない。

どのような経路を飛び、どこで位置認識がずれ、なぜ降下判断につながったのかは、第2回で詳しく検証する。

墜落した場所は、救助を待つにはあまりにも遠かった

機体が停止したのは、アルゼンチンのメンドーサ州西部、チリ国境に近いアンデス山中だった。

現在の地理情報では、事故地点は標高約3,700mに位置する。Museo Andes 1972では「約4,000m」と説明しており、一般向け資料でも約3,500~4,000mの高地として表現されることが多い。

重要なのは数百m単位の標高差ではない。ここが人が普通に生活する場所から大きく離れた、高所の雪山だったということである。

現在の地図上で確認できる571便墜落地点周辺。アルゼンチン・メンドーサ州西部、チリ国境に近いアンデス山中に位置する。現在の地図は1972年当時の捜索環境や積雪状態をそのまま再現するものではない。


Googleマップで大きく見る

地図を縮小すると、現場がサンティアゴの市街地から単純な直線距離だけで理解できる場所ではないことが分かる。高い山と谷が連続し、道路も集落もない。

さらに事故当時は一面が雪に覆われていた。白い機体の胴体は、上空から見ると雪面へ溶け込んだ。捜索機は周辺を飛行したものの、生存者たちを発見できなかった。

この「見えているはずなのに見つけられない」という地理的条件は、後の72日間を決定づけることになる。

墜落しても、生存の問題は終わらなかった

571便の事故が他の航空事故と大きく異なるのは、墜落した瞬間が物語の終点ではなかったことである。

機体は山へ衝突する過程で翼や尾部を失い、残った胴体部分が雪上を滑って停止した。事故で死亡した人がいる一方、機体前部には多くの生存者が残された。

ところが、彼らの装備は雪山での長期滞在を想定したものではなかった。登山隊ではないため、本格的なテント、寝袋、十分な防寒着、長期間の食料、山岳用通信機器を持っていたわけではない。

そこで残った機体そのものが避難場所になった。

開いた胴体部分を荷物などで塞ぎ、座席のカバーや機内に残った素材を防寒へ転用する。雪から飲み水を作る方法を考え、負傷者の世話をし、限られた物資を集団で管理する。

Museo Andes 1972が残す展示・解説でも、この「手元にある物から必要な機能を作る」という行動は生存の重要な部分として扱われている。

彼らは特殊部隊でも山岳救助隊でもなかった。だからこそ571便の生存過程を見ると、「精神力」という一語では説明できない、小さな工夫の積み重ねが見えてくる。

捜索が打ち切られたことを、自分たちで知った

事故後には航空機による捜索が行われた。しかし広大なアンデス山中から、小さな白い胴体を発見することはできなかった。

生存者側から見れば、捜索機の存在は「助けが近くまで来ている」ことを意味する。しかし上空側からは、彼らの位置を特定できない。

そして事故から10日目、生存者たちは荷物の中にあった小型ラジオを通じて、自分たちの捜索が打ち切られたことを知った。

これは571便の72日間における最初の大きな転換点だった。

それまでは「生きていれば、いずれ発見される」という前提が残っていた。捜索打切りによって、その前提が消えた。待つだけでは救助されない可能性を考えなければならなくなったのである。

食料がなくなるという問題

機内にあった食料は、ごく少量だった。長期遭難を想定して積まれていた備蓄ではない。

最初は残った食品を少しずつ分けていたが、山には植物も動物もほとんどなく、新しい食料を手に入れる方法がなかった。

高所と寒さの中では、体温を維持するだけでもエネルギーを消費する。にもかかわらず、摂取できるエネルギーは減り続けた。

やがて生存者たちは、亡くなった仲間の遺体を食料とする決断をした。

この部分だけが後世の報道や映画で強く取り上げられ、571便の出来事そのものが「人肉食の遭難」として記憶されることもある。しかし、それでは決断に至る条件が抜け落ちる。

周囲には別の食料源がなく、救助がいつ来るかも分からず、すでに捜索打切りを知っていた。さらに亡くなった人々は友人や家族でもあった。生存の問題だけでなく、宗教観、死者との関係、集団内での合意を含む問題だった。

第5回では、この決断を刺激的な描写ではなく、「なぜ他の選択肢が失われていったのか」という条件から整理する。

16日後、今度は雪崩が機体を埋めた

墜落を生き延び、食料問題へ対応し始めても、危険は終わらなかった。

事故から16日後、夜間に発生した雪崩が、生存者たちの避難場所だった胴体を直撃した。

雪は機体内部へ流れ込み、人々を埋めた。Museo Andes 1972によれば、この雪崩で8人が窒息して死亡した。

つまり571便では、死亡者全員が最初の航空機事故によって亡くなったわけではない。墜落後も、負傷、寒さ、雪崩などによって犠牲者は増えていった。

雪崩はもう一つの意味でも重要だった。

「壊れた機体の中で救助を待つ」という方法そのものが安全ではないことを示したからである。

救助を待つ事件から、自分たちで山を越える遠征へ

生存者たちは早い段階から周囲を探索していた。しかし、アンデスの山々を徒歩で越えることは簡単ではない。

現在地も十分に分からず、地図もなく、登山用装備もない。高所で夜を過ごすための寝袋さえ、本来は持っていなかった。

それでも時間が経過するにつれ、「誰かが外へ出て助けを呼ぶ」ことが現実的な選択肢として大きくなっていく。

彼らは機体の尾部を探し、そこに残された荷物や物資を回収した。無線機を利用して救助を呼ぶことも試みたが、成功しなかった。

そこで最終的に、徒歩で人のいる場所へ到達する計画が準備された。

1972年12月12日、ナンド・パラード、ロベルト・カネッサ、アントニオ・ビシンティンの3人が出発する。

途中でビシンティンは食料を残して機体へ戻り、パラードとカネッサの2人が前進を続けた。

彼らは山を越えればすぐにチリの緑豊かな谷へ下れると考えていた。しかし、最初の高所から見えたのは、さらに西へ続く山々だった。

それでも戻らなかった。

この徒歩脱出は約10日間続いた。最終的に2人はチリ側で牧畜をしていたセルヒオ・カタランと接触する。カタランは状況を知ると救助当局への連絡に動いた。

救助は、上空から偶然機体を発見したことで始まったのではない。

遭難者自身がアンデスを歩いて越え、外の人間へ情報を届けたことで再開したのである。

72日後、16人が山から戻った

パラードとカネッサが生存を知らせたことで、残る14人の位置が初めて救助側へ明確に伝わった。

山岳地帯のため一度に全員を運ぶことはできず、ヘリコプターによる救助は12月22日と23日の2日間に分けて実施された。

最終的に16人が生還した。

10月13日の墜落から、最後の生存者が山を離れるまで72日間だった。

ウルグアイ政府も、この出来事を「Tragedia de los Andes(アンデスの悲劇)」と同時に「Milagro de los Andes(アンデスの奇跡)」という名で記録している。

だが、72日間の中身を見ると、「奇跡」という言葉だけでは説明しきれない。

機体をシェルターに変え、雪から水を作り、限られた物資を再利用し、負傷者を世話し、食料をめぐる極端な決断を行い、雪崩を生き延び、探索を繰り返し、最後には自分たちで山を越えた。

偶然が存在しなかったわけではない。しかし生存者たちは、救助されるまで72日間をただ待っていたわけでもなかった。

571便を「人肉食の事件」だけで理解すると見えなくなるもの

ウルグアイ空軍571便について最も強く知られている話題は、亡くなった人々の遺体を食料にしたことである。

それは事実であり、この事件から外すべき要素ではない。

しかし72日間全体を見れば、それは生存を支えた複数の判断の一つでしかない。

事故そのものには航法と位置認識の問題があり、墜落後には高所環境への適応が必要になった。救助側には広大な雪山から小さな機体を探す問題があり、生存者側には水、防寒、負傷者、食料、集団運営、雪崩、探索、通信という問題が次々に発生した。

そして最後に残った問題が、「ここで待ち続けるのか、それとも山を越えるのか」だった。

このCASE FILEでは、571便を単一の逸話としてではなく、
航空事故から始まり、72日間の生存システムと自力脱出へ変化していった一つの連続した出来事
として追っていく。

まとめ|奇跡ではなく、72日間に何が起きたのかを見る

1972年10月13日、45人を乗せたウルグアイ空軍571便は、アンデス山中へ墜落した。

事故地点は標高約3,700mの孤立した雪山だった。捜索は生存者を発見できないまま打ち切られ、機内の食料も尽きた。その後には雪崩まで発生し、さらに8人が死亡した。

それでも生存者たちは、残骸をシェルターや道具へ変え、集団で生存方法を模索した。そして最後には救助を待つことをやめ、パラードとカネッサがアンデスを徒歩で越えた。

その行動が外部との接触につながり、1972年12月23日までに16人全員の救助が完了した。

571便の核心は、「どうして16人も助かったのか」という一つの答えにあるわけではない。

墜落原因、場所、捜索の失敗、生存技術、極端な食料不足、雪崩、探索、徒歩脱出。それらが72日間の中で連続している。

次回は、その最初の問いへ戻る。

そもそも571便は、なぜまだアンデス山中にいる状態で降下を始めてしまったのか。

飛行経路と「クリコを通過した」という位置認識を追うと、事故が単純な悪天候だけでは説明できないことが見えてくる。


次の記事:

第2回|なぜ571便はアンデスに墜落したのか|飛行経路と「クリコ通過」誤認

特集全記事

  1. ウルグアイ空軍571便アンデス遭難とは?|45人を乗せた飛行機と16人が生還した72日間 【現在の記事】
  2. なぜ571便はアンデスに墜落したのか|飛行経路と「クリコ通過」誤認
  3. 墜落地点はどこだったのか|地図で見るアンデスの谷と捜索の死角
  4. 零下の機体でどう生き延びたのか|水・防寒・負傷者治療・役割分担
  5. 食料が尽きたとき、なぜ死者の肉を食べる決断をしたのか|飢餓と生存の選択
  6. 墜落16日後、雪崩が機体を埋めた|8人が死亡した第二の遭難
  7. 救助を待つのをやめた|尾部探索・無線の失敗・アンデス脱出への準備
  8. パラードとカネッサはどうアンデスを越えたのか|10日間の徒歩脱出
  9. 72日間の終わり|571便の16人はどう救助されたのか
  10. 『雪山の絆』はどこまで史実か|実在人物・記録・『生きてこそ』との違い

今回出てきた言葉

FAU 571
事故機に付けられていたウルグアイ空軍の機体番号。Fairchild Hiller FH-227D。
アンデス山脈
南米大陸西側を南北に延びる巨大な山脈。571便はアルゼンチンからチリへ越える途中で墜落した。
クリコ(Curicó)
チリ中部の都市。571便の位置判断と降下開始を理解するうえで重要な地点。第2回で詳しく扱う。
ナンド・パラード
生存者の一人。ロベルト・カネッサとともに最終的な徒歩脱出を成功させた。
ロベルト・カネッサ
生存者の一人。当時は医学生で、遭難中の負傷者対応にも関わった。パラードとともにアンデスを越えた。
セルヒオ・カタラン
山を越えたパラードとカネッサが接触したチリ人の牧畜民。救助当局へ情報を伝える重要な役割を果たした。

出典・参考資料

本記事は、公的機関・事故当事国の資料・博物館資料・報道資料等を照合し、確認できる事実と後世の解釈を分けて構成しています。資料によって標高などの表記に差がある場合は、本文中で丸め方を含めて明記しています。

なぜ571便はアンデスに墜落したのか|飛行経路と「クリコ通過」誤認

航空事故

1972年10月13日午後、ウルグアイ空軍571便はアルゼンチンのメンドーサを離陸し、チリのサンティアゴへ向かった。

目的地までの直線距離はそれほど長くない。しかし、2都市の間にはアンデス山脈が横たわっている。571便が使っていたフェアチャイルド・ヒラーFH-227Dは、山々の上を好きな場所から一直線に越えていくのではなく、比較的標高の低い峠へ迂回する航空路を飛ぶ必要があった。

そのため571便は、メンドーサからいったん南下してマラルグエへ向かい、そこから西へ進んでプランチョン峠を越え、チリ側のクリコを通過してから北へ針路を変え、サンティアゴへ降下する計画だった。

ところが機体は、まだアンデス山中にいる段階で「クリコまで到達した」と管制へ報告する。

サンティアゴ側の管制官は、その位置報告を前提として降下を許可した。571便は雲の中で高度を下げ、やがて乗客たちの目の前に山の稜線が現れた。

事故の核心は、山そのものではない。

なぜ機体が実際にはまだアンデスを越えていないのに、乗員側では「すでにクリコへ到達した」と判断されたのか。

第2回では、571便の飛行経路と航空管制、当時の航法環境をたどりながら、この位置認識のずれがどのように墜落へつながったのかを整理する。

この記事で分かること

  • なぜメンドーサからサンティアゴへ直線的に飛ばなかったのか
  • マラルグエ、プランチョン峠、クリコは航路上でどんな意味を持っていたのか
  • 571便はどこで位置を誤認したのか
  • なぜ管制官は降下を許可したのか
  • 悪天候は事故原因だったのか
  • 事故調査で「人的要因」とされた意味
  • 「単純なパイロットミス」だけでは説明しにくい理由

CASE FILE 30

ウルグアイ空軍571便アンデス遭難特集|全10回

  1. ウルグアイ空軍571便アンデス遭難とは?|45人を乗せた飛行機と16人が生還した72日間
  2. なぜ571便はアンデスに墜落したのか|飛行経路と「クリコ通過」誤認 【現在の記事】
  3. 墜落地点はどこだったのか|地図で見るアンデスの谷と捜索の死角
  4. 零下の機体でどう生き延びたのか|水・防寒・負傷者治療・役割分担
  5. 食料が尽きたとき、なぜ死者の肉を食べる決断をしたのか|飢餓と生存の選択
  6. 墜落16日後、雪崩が機体を埋めた|8人が死亡した第二の遭難
  7. 救助を待つのをやめた|尾部探索・無線の失敗・アンデス脱出への準備
  8. パラードとカネッサはどうアンデスを越えたのか|10日間の徒歩脱出
  9. 72日間の終わり|571便の16人はどう救助されたのか
  10. 『雪山の絆』はどこまで史実か|実在人物・記録・『生きてこそ』との違い

まず結論|571便は「まだ山の中にいる状態」で降下を始めた

事故原因を最も短くまとめるなら、571便は実際の位置より西へ進んでいると認識し、アンデスを越えた後に行うはずだった旋回と降下を早く始めてしまった

乗員は、チリ側にあるクリコ付近まで進んだと管制へ報告した。しかし実際の機体は、まだアンデス山脈の中にいた。

この位置報告を受けたサンティアゴの航空管制側には、その情報が誤っていると判断する手段がほとんどなかった。当時、この山岳地域を航空管制レーダーで連続的に追跡できる環境ではなく、管制官は乗員から送られてくる位置報告を基に交通を管理していたからである。

そのため、「クリコへ到達した」という前提が乗員と管制の双方で共有される。

本来なら、そこから北へ向きを変えて高度を下げれば、機体はアンデス西側からサンティアゴ方面へ進むはずだった。

実際には、その前方にも高い山が残っていた。

メンドーサとサンティアゴの間にはアンデスがある

地図だけを見ると、アルゼンチンのメンドーサとチリのサンティアゴは東西に向かい合っている。そのため「そのまま西へ飛べばよい」と考えたくなる。

しかし航空機にとって、2地点の間にある地形が問題になる。

メンドーサ北西には標高6,000mを超える山々が並び、アコンカグアは約6,960mに達する。571便のFH-227Dには高高度を飛行する能力があったものの、乗客と荷物を積んだ状態で、この山域を余裕を持って直接越える航路を選ぶわけではなかった。

そこで使われていたのが、南へ大きく回るルートだった。

区間 おおまかな進行方向 役割
メンドーサ → マラルグエ 高いアンデス山域を避けて南下
マラルグエ → プランチョン峠 西~北西 比較的低い峠からアンデスを横断
プランチョン峠 → クリコ 西 チリ側へ完全に抜ける区間
クリコ → サンティアゴ 山脈を越えた後に降下・進入

重要なのは、プランチョン峠を通っただけでは、まだ「クリコを通過した」ことにはならないという点である。

峠からクリコまでは、さらに西へ飛ばなければならない。その区間を終えて初めて、機体は山岳地帯から十分に離れ、北へ向きを変えてサンティアゴへの降下へ移れる。

571便では、この最後の区間の位置認識が崩れた。

前日、571便はアンデス越えを一度中止している

571便は10月13日にウルグアイを出発したわけではない。最初の出発は前日の10月12日だった。

しかしアンデス周辺の天候が悪く、その日のうちにサンティアゴへ向かうことは断念された。機体はアルゼンチンのメンドーサに着陸し、乗員と乗客はそこで一夜を過ごしている。

翌13日も山岳地域の天候は完全に安定したわけではなかった。571便は天候の改善を待ち、午後になってメンドーサを出発した。

この事実から、「危険な天候を無視して無理やり飛んだ」と単純化することはできない。

前日に飛行継続を断念していることからも、乗員が天候リスクを認識していたことは分かる。13日の飛行そのものも、設定された航空路を利用して山脈を越えようとしていた。

問題は、飛行を開始したことそのものより、雲によって地形を直接確認しにくい状況で、自機位置の認識を誤ったことにあった。

571便を操縦していたのは誰だったのか

事故当時の機長は、ウルグアイ空軍のフリオ・セサル・フェラーダ大佐だった。

フェラーダはアンデス横断を何度も経験していた飛行経験のある操縦士だった。一方、この区間で実際に操縦を担当していたのは副操縦士ダンテ・エクトル・ラグララで、フェラーダはその飛行を監督していたと複数の資料が伝えている。

この点は、「経験のない操縦士だけでアンデスへ入った」という理解とは異なる。

経験者が同じコックピットにいながら、位置認識の誤りを修正できなかった。

したがって事故を考えるときは、ラグララ個人の一回の操作だけを見るのではなく、コックピット全体として誤った位置情報が受け入れられ、そのまま管制へ伝えられた過程を見る必要がある。

マラルグエまでは、計画された航路を進んでいた

571便はメンドーサを出発すると、まず南へ向かった。

目的地はいったんサンティアゴから遠ざかる方向にあるマラルグエだった。そこから西へ針路を変え、プランチョン峠を通ってチリへ入る。

当時の航空路では、地上に設置された無線標識などを利用しながら、機体の進行方向と位置を判断していた。

現在の旅客機で一般的なGPSによる位置表示を想像すると、1972年の状況を誤解しやすい。

現在なら航空機の位置は衛星航法、慣性航法、地上無線施設など複数の情報を統合して高い精度で表示できる。航空管制側でも、多くの地域で機体位置を継続的に把握できる。

571便の時代は違う。

山岳地帯を雲の中で飛ぶ場合、乗員は無線航法設備、針路、速度、経過時間、風などの情報を組み合わせて現在位置を判断する必要があった。

つまり、見えている地形と航法情報をいつでも簡単に照合できるわけではなかった。

決定的な地点「クリコ」

事故を理解するうえで、最も重要な地名がチリのクリコ(Curicó)である。

クリコはアンデスの西側にある。計画通りなら、571便はプランチョン峠からさらに西へ飛び、クリコ付近へ到達した後に北へ旋回する。

つまり乗員にとって「クリコに到達した」という判断は、

「高いアンデス山脈を越え終えた」

という意味に近かった。

ところが571便は、実際にはクリコへ到達していない段階で、サンティアゴ管制へクリコ付近にいると報告した。

資料によって通信時刻の表記にはタイムゾーン上の差があるものの、一般に再構成されている経過では、プランチョン峠付近を通過した直後、ラグララはクリコ到達が間近だと報告し、その数分後にはクリコを通過したと伝えている。

しかし、通常ならプランチョン峠からクリコまでには、さらに十数分程度の飛行を要する。

この時間差は小さくない。

時速数百kmで飛行する航空機では、約10分の位置差は数十kmになる。山岳飛行でこの距離を「すでに通過した」と認識すれば、機体がいる地形そのものが変わってしまう。

なぜ「クリコまで来た」と判断したのか

ここは571便について最も注意して書く必要がある部分でもある。

一般的な解説では、「パイロットが飛行時間を計算し間違えた」「推測航法を誤った」と説明されることが多い。

しかし後年の資料では、乗員が単純に時計だけを見て位置を推測していたわけではなく、無線航法を利用していたことも指摘されている。

そのため、現存資料だけから

「時計の計算を何分間違えたため事故が起きた」

という一つの操作へ原因を限定するのは適切ではない。

確実に言えるのは、次の3点である。

  • 実際にはまだアンデス山中にいた
  • 乗員はクリコ付近へ到達したと管制へ報告した
  • その位置報告を基に北への旋回と降下が始まった

つまり事故原因を考える際に重要なのは、位置誤認の内部メカニズムを断定することではなく、誤った位置認識が訂正されないまま飛行判断へ使われたことである。

なぜサンティアゴ管制は「そこはまだ山です」と止めなかったのか

ここで、もう一つ疑問が生まれる。

乗員が位置を間違えたとしても、航空管制官が実際の位置を確認して止めることはできなかったのか。

現在の航空管制を知っている読者ほど、そう感じるかもしれない。

しかし事故当時、この区間ではサンティアゴ側の管制官が571便の位置をレーダー画面上で連続的に確認していたわけではなかった。

管制側が持っている重要な情報の一つが、航空機自身から送られてくる位置報告だった。

したがって571便から

「クリコへ到達した」

と報告されれば、管制官はその位置を前提に次の指示を出す。

本当にクリコにいるのなら、その後の北への旋回と降下は不自然ではない。

問題は、正しい場所にいる航空機へ出せば正常な指示が、誤った位置にいる571便にとって危険な指示になったことである。

これは「管制官が山へ向かって降下させた」という意味ではない。

管制官が認識していた571便と、現実の571便の位置が違っていたのである。

降下許可が事故を作ったのではない

571便はクリコを通過したと報告した後、サンティアゴへの進入に向けて降下許可を求めた。

管制側はこれを許可した。

この場面だけを切り取ると、「管制が誤って降下を許可した」と見える。

しかし管制官の認識上、571便はすでにアンデス西側へ抜けていた。

その位置からサンティアゴへ向かうなら、高度を下げていくこと自体は通常の飛行手順の一部になる。

したがって事故の因果関係は、

降下許可 → 墜落

という単純なものではない。

より正確には、

位置誤認 → 誤った位置報告 → 管制側もその位置を前提化 → 北への旋回・降下 → 山岳地帯で地形と接触

という連鎖で考える必要がある。

雲が「誤りに気づく最後の手段」を奪った

位置認識を間違えても、晴天なら周囲の地形を見て「まだ山の中にいる」と気づけた可能性がある。

571便では、その視覚的な確認も難しかった。

アンデスは雲に覆われ、乗員は眼下や前方の山岳地形を継続して確認できない状況で飛行していた。

ここで重要なのは、「雲が事故原因だった」ということではない。

雲は位置誤認を生み出した唯一の要因ではない。だが、航法上の認識と実際の地形が食い違っていることを目視で発見する防護層を失わせた。

計器上では「山を越えた」と考えている。

管制も同じ前提で動いている。

そして窓の外からは、その前提が間違っていることを確認できない。

この条件が揃ったまま、機体は高度を下げていった。

雲を抜けたとき、目の前に山があった

降下中、571便は強い乱気流に遭遇した。

やがて雲の下へ出た機内から、周囲の山が見えるようになる。

そこで初めて、乗員と乗客の目の前に高い稜線が現れた。

機体は上昇して山を越えようとした。しかし、この段階では高度も距離も不足していた。

Smithsonianの『Air & Space』に掲載された元ウルグアイ空軍技術者による事故再構成では、まず右主翼側が山へ接触して損傷し、その後、機体後部や反対側の翼も失われたとされる。

残った胴体はそのまま雪の斜面へ落下し、雪面を高速で滑った。

通常の航空機事故なら、ここで機体は完全に破壊されても不思議ではなかった。

しかし571便では、胴体前部の一部が形を保ったまま雪上を滑走し、最終的に停止した。

この偶然が、多数の人間が衝突直後に生き残った理由の一つになった。

事故調査は「人的要因」と分類している

現在ウルグアイ空軍が公開している航空事故記録では、1972年10月13日のF-H-227-571の事故について、

  • 分類:重大事故
  • 機体:修復不能
  • 場所:アンデス
  • 原因要因:FACTOR HUMANO(人的要因)

と記録されている。

したがって、この事故について「原因不明」とするのは適切ではない。

乗員側の位置判断と、それに基づく飛行操作が事故成立の中心にあったことは、公式記録とも整合する。

ただし「人的要因」という分類を、

「副操縦士が一度ミスした。それだけで墜落した」

と読み替えるのも正確ではない。

571便は一つのミスだけで墜落したのか

事故を構造として見ると、複数の条件が重なっている。

要素 571便で起きていたこと 事故への意味
位置認識 クリコへ到達したと判断 実際より西側にいる前提となった
位置報告 誤った位置を管制へ報告 管制側も同じ位置認識を共有した
管制監視 山岳区間をレーダーで直接確認できない 位置報告の誤りを外部から検出できなかった
視界 雲が山岳地形を覆っていた 実際の位置を目視で確認しにくかった
旋回・降下 アンデスを抜けた前提で実施 山岳地帯の中で高度を失った
発見 地形が見えた時点では山が至近 回避できる時間・高度が不足した

どれか一つだけを切り取るより、この連鎖を見る方が事故の実態に近い。

特に重要なのは、最初の誤った位置認識が後段で訂正されなかったことである。

航空安全では、一人が間違えないことだけに依存すると事故を防ぎにくい。

人は誤ることがある。そのため現在の航空では、位置表示、地形警報、レーダー監視、標準化された手順など、誤りがあっても次の仕組みで検出する考え方が重視される。

571便が飛んだ1972年には、現代機で使われている衛星航法や地形警報装置のような支援システムは存在していなかった。

「機体の性能不足が原因」という説明にも注意が必要

FH-227Dについては、後世の資料で「Lead Sled(鉛のそり)」という俗称が紹介されることがある。そのため「性能の低い飛行機だったから山を越えられなかった」と説明される場合もある。

しかし、この説明も事故原因としては単純すぎる。

571便は、FH-227Dの性能を前提としてプランチョン峠を通る航空路を選択していた。

つまり問題は、

「本来越えられない山へ無理に上昇した」

ことではない。

本来は安全な航空路に沿って山脈を抜けてから降下するはずだった機体が、山脈を抜けたと誤認して早く降下したことが中心である。

最後に山を発見した時点で機体の上昇性能が回避可能性を左右したことと、事故を発生させた原因とは分けて考える必要がある。

「悪天候」「パイロットミス」「管制ミス」のどれなのか

571便について一語だけで原因を表すなら、公式記録に従えば「人的要因」となる。

しかし読者が事故の仕組みを理解するためには、それだけでは情報が足りない。

悪天候だけなら、予定された航空路を正確に飛び続ければ必ず墜落するわけではない。

管制官の降下許可だけを原因とすることもできない。管制官は571便から送られてきた位置情報を前提としていた。

機体性能だけでも説明できない。本来のルートはFH-227Dでアンデスを越えるために設定されたものだった。

事故を成立させた中心は、

自機位置を実際より西側と認識し、その誤りが乗員・管制・視界のいずれによっても修正されないまま、旋回と降下へ進んだこと

だったと整理するのが妥当である。

位置の誤りは、墜落後の捜索にも影響した

この航法上の誤りには、事故後にも影響が残った。

571便が最後に管制へ伝えていた情報では、機体はクリコを通過してサンティアゴ方向へ進んでいることになっていた。

しかし実際の墜落地点は、そこから東側のアンデス山中だった。

つまり捜索側は、事故発生直後から正確な墜落地点を持っていたわけではない。

加えて現場は雪に覆われ、機体の残骸も白い雪原の中へ埋もれるように存在していた。

捜索機が上空を通過しても、生存者たちは発見されなかった。

571便の位置誤認は、飛行機を山へ向かわせただけではない。

「どこで消えたのか」という事故後の探索にも、不確実性を残した。

次の第3回では、事故地点を現在の地図と当時の飛行経路から確認する。プランチョン峠、クリコ、実際の墜落地点、サンティアゴを一つの地図上へ置くと、なぜ捜索が難しかったのかがさらに分かりやすくなる。

まとめ|山にぶつかった原因は「山が見えなかった」だけではない

ウルグアイ空軍571便は、アンデス山脈を無計画に横断していたわけではない。

メンドーサからマラルグエへ南下し、比較的低いプランチョン峠を通り、クリコへ到達してから北へ向かうという航空路が設定されていた。

事故当日も571便はそのルートを進んでいた。

しかし途中で、自機が実際より西へ進んでいると認識された。

まだアンデス山中にいる状態でクリコ到達が管制へ報告され、その情報を基に北への旋回と降下が始まった。

管制側には、この位置報告をレーダーで直接訂正する情報がなかった。さらに雲によって、乗員自身も地形から誤りを発見しにくかった。

そして雲の下へ出たときには、すでに山が目前に迫っていた。

ウルグアイ空軍の現在の事故記録は、この事故を「人的要因」に分類している。

ただし事故の理解として重要なのは、誰か一人を「間違えた人」として終わらせることではない。

最初の位置誤認が、なぜ次の段階で修正されなかったのか。

571便は、その問いを見ることで初めて事故の構造が見えてくる。

そして、その誤った位置情報は事故後にも残った。

次回は、571便が実際にはどこへ墜落したのかを地図上で追う。


前の記事:

第1回|ウルグアイ空軍571便アンデス遭難とは?|45人を乗せた飛行機と16人が生還した72日間

次の記事:

第3回|墜落地点はどこだったのか|地図で見るアンデスの谷と捜索の死角

特集全記事

  1. ウルグアイ空軍571便アンデス遭難とは?|45人を乗せた飛行機と16人が生還した72日間
  2. なぜ571便はアンデスに墜落したのか|飛行経路と「クリコ通過」誤認 【現在の記事】
  3. 墜落地点はどこだったのか|地図で見るアンデスの谷と捜索の死角
  4. 零下の機体でどう生き延びたのか|水・防寒・負傷者治療・役割分担
  5. 食料が尽きたとき、なぜ死者の肉を食べる決断をしたのか|飢餓と生存の選択
  6. 墜落16日後、雪崩が機体を埋めた|8人が死亡した第二の遭難
  7. 救助を待つのをやめた|尾部探索・無線の失敗・アンデス脱出への準備
  8. パラードとカネッサはどうアンデスを越えたのか|10日間の徒歩脱出
  9. 72日間の終わり|571便の16人はどう救助されたのか
  10. 『雪山の絆』はどこまで史実か|実在人物・記録・『生きてこそ』との違い

今回出てきた言葉

プランチョン峠(Paso del Planchón)
アルゼンチンとチリの国境を越えるアンデスの峠。571便の計画航路では、マラルグエから西へ進んでここを越え、さらにクリコへ向かうことになっていた。
クリコ(Curicó)
チリ中部の都市。571便にとって、アンデスを越えた後に北へ旋回してサンティアゴへ向かうための重要な航法地点だった。
位置報告
航空機が管制機関へ自機の位置などを知らせる通信。レーダー監視がない区間では、航空管制側が航空機の状況を把握する重要な情報になる。
FL180
Flight Level 180の略。標準気圧を基準とする飛行高度で、おおむね18,000フィートに相当する。571便のアンデス横断時の高度として資料に記録されている。
人的要因
事故原因・寄与要因のうち、人間の判断、操作、認知、情報伝達などに関係するもの。ウルグアイ空軍の事故記録ではFAU 571は「FACTOR HUMANO」に分類されている。

出典・参考資料

本記事は、ウルグアイ空軍の公式事故記録を基礎に、航空史資料・学術資料・報道資料を照合して構成しています。571便の位置誤認については資料ごとに「推測航法」「無線航法」「位置判断」と説明の粒度が異なるため、原因を特定の一操作へ限定せず、確認できる「クリコ到達の誤認と、それに続く旋回・降下」を中心に整理しています。また通信時刻は資料によってタイムゾーン表記に差があるため、本文では必要以上の秒・分単位の断定を避けています。

墜落地点はどこだったのか|地図で見るアンデスの谷と捜索の死角

航空事故

1972年10月13日、ウルグアイ空軍571便は「どこかのアンデス」に墜落したわけではない。

現在確認されている事故地点は、アルゼンチン西部・メンドーサ州の山中、チリとの国境に近い場所にある。座標はおよそ南緯34度45分54秒、西経70度17分11秒。現在は「Valle de las Lágrimas(涙の谷)」や「Glaciar de las Lágrimas」の名で知られる一帯である。

この地点を地図で見ると、571便の事故について重要なことが一つ分かる。

機体は、乗員が管制へ報告していた「クリコ付近」には到達していなかった。

それどころか、サンティアゴへ向けて降下を始めた時点でも、571便はまだアルゼンチン側のアンデス山中にいた。

そしてこの位置の食い違いは、墜落原因だけでなく、その後の捜索にも影響した。

第3回では、571便の事故地点を現在の地図上へ置き、プランチョン峠、クリコ、サンティアゴとの位置関係から、「どこで墜落したのか」「なぜ捜索機から発見されなかったのか」を整理する。

この記事で分かること

  • 571便の墜落地点は現在のどこにあるのか
  • アルゼンチンとチリのどちら側だったのか
  • プランチョン峠、クリコ、墜落地点はどのような位置関係なのか
  • 乗員が認識していた位置と実際の位置はどのように違ったのか
  • なぜ墜落地点の特定が難しかったのか
  • なぜ上空を捜索機が飛んでも機体を発見できなかったのか
  • 現場の地形が72日間の生存と自力脱出へどう影響したのか

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ウルグアイ空軍571便アンデス遭難特集|全10回

  1. ウルグアイ空軍571便アンデス遭難とは?|45人を乗せた飛行機と16人が生還した72日間
  2. なぜ571便はアンデスに墜落したのか|飛行経路と「クリコ通過」誤認
  3. 墜落地点はどこだったのか|地図で見るアンデスの谷と捜索の死角 【現在の記事】
  4. 零下の機体でどう生き延びたのか|水・防寒・負傷者治療・役割分担
  5. 食料が尽きたとき、なぜ死者の肉を食べる決断をしたのか|飢餓と生存の選択
  6. 墜落16日後、雪崩が機体を埋めた|8人が死亡した第二の遭難
  7. 救助を待つのをやめた|尾部探索・無線の失敗・アンデス脱出への準備
  8. パラードとカネッサはどうアンデスを越えたのか|10日間の徒歩脱出
  9. 72日間の終わり|571便の16人はどう救助されたのか
  10. 『雪山の絆』はどこまで史実か|実在人物・記録・『生きてこそ』との違い

まず地図で571便の墜落地点を見る

事故地点は、現在の地図ではアルゼンチン・メンドーサ州西部、アンデス山脈の奥深くに位置する。

ウルグアイ空軍571便の墜落地点周辺。現在一般に「Valle de las Lágrimas」と呼ばれるアンデス山中で、アルゼンチン・メンドーサ州のチリ国境近くに位置する。Google Mapは現在の地形・地名を表示しており、1972年当時の積雪や捜索状況そのものを再現するものではない。


Googleマップで墜落地点を大きく見る

地図を少し縮小すると、近くに都市や幹線道路がある場所ではないことが分かる。

さらに広域へ縮小すると、東にはアルゼンチン、すぐ西にはチリがあり、その間をアンデス山脈が南北に走っている。

571便の遭難を理解するには、この「国境のすぐ近くなのに、人がいる場所からは遠い」という地理が重要である。

「チリまであと少し」でも、人間には越えられない距離だった

事故地点はチリ国境の近くにある。

このため地図だけを見れば、「少し西へ歩けばチリへ出られたのではないか」と感じるかもしれない。

しかし、国境線は道路や谷に沿って引かれているわけではない。

この地域では国境そのものが高いアンデスの稜線付近を通っている。

つまり「チリが近い」ということは、「人の住む町が近い」という意味ではなかった。

事故地点から西へ向かえば、まず高い山を登らなければならない。その向こうにもさらに複数の山と谷が続いている。

食料、防寒具、登山靴、地図、コンパス、寝袋を十分に持たない遭難者にとって、地図上の数kmと実際に歩ける距離はまったく別のものだった。

571便が本来通るはずだったルート

前回の記事で見たように、571便はメンドーサからサンティアゴへ直線的に飛ぶ計画ではなかった。

本来の大まかなルートは次の通りだった。

順番 地点 意味
1 メンドーサ 10月13日の出発地
2 マラルグエ 南へ迂回する航路上の基準地点
3 プランチョン峠 アンデス横断の主要地点
4 クリコ 山脈を越えた後のチリ側の航法地点
5 サンティアゴ 目的地

文章だけでは位置関係が分かりにくいので、事故地点を加えると次のようになる。


メンドーサ
↓ 南下
マラルグエ
↓ 西へ
プランチョン峠
↓ 本来はさらに西へ進む
クリコ
↓ 北へ
サンティアゴ

しかし実際の571便は、プランチョン峠を通過した後、まだ十分に西へ進んでいない段階で「クリコ付近まで来た」と認識し、北へ旋回した。

その結果、機体はチリ側の平地ではなく、依然としてアンデスの山々が続く地域へ入った。

4地点を現在の座標で比較する

地理を把握するため、現在確認できる代表座標を並べる。

地点 おおよその座標 位置関係
571便墜落地点 34.7650°S / 70.2864°W アルゼンチン側アンデス山中
プランチョン峠 35.2058°S / 70.5206°W 墜落地点より南西
クリコ 34.9828°S / 71.2394°W 墜落地点より大きく西
サンティアゴ 約33.45°S / 70.67°W 墜落地点より北西

現在の座標同士を単純な直線距離で概算すると、墜落地点からプランチョン峠までは約54km、クリコまでは約90km、サンティアゴまでは約150kmになる。

これは道路距離や実際の飛行距離ではない。

しかし「乗員がクリコ付近にいると認識していた一方、実際の機体はまだそこから約90km東側の山岳地帯にいた」という位置関係を理解する目安にはなる。

プランチョン峠と事故地点は同じ場所ではない

571便について調べると、「プランチョン峠を越えて墜落した」という説明を見かけることがある。

ここで誤解しやすいのは、事故地点そのものがプランチョン峠だったわけではないという点である。

現在の地理情報では、プランチョン峠はおよそ南緯35度12分、西経70度31分付近にある。一方、571便の事故地点は南緯34度45分、西経70度17分付近である。

つまり事故地点は、プランチョン峠から見て北東側に位置する。

571便は峠を通過した後、本来ならさらに西へクリコ方向へ飛び続ける必要があった。

ところが北への旋回が早すぎたため、本来なら避けるはずだった山岳地帯へ再び入ってしまった。

クリコは「町」以上に重要な航法上の基準だった

現在のクリコは、チリ中部にある人口のある都市で、標高は200m前後しかない。

一方、571便の事故地点はその東側の高い山中にある。

この高低差を見ると、「クリコへ到達した」という判断がなぜ重大だったのかが分かる。

本当にクリコまで進んでいれば、機体はすでにアンデスの主要な高山域を越え、西側の低地へ出ているはずだった。

そこから北へ向きを変えてサンティアゴへ降下することには地理的な意味がある。

しかし実際には、まだ山の中だった。

同じ「北へ旋回して降下する」という操作でも、現在位置が違えば結果はまったく変わる。

なぜ墜落地点がすぐに分からなかったのか

航空機が墜落すれば、最後の通信地点から周辺を探せばよいように思える。

571便の場合、その前提自体が崩れていた。

最後の位置報告では、機体はクリコを通過してサンティアゴへ向かっていることになっていた。

ところが実際の墜落地点は、その位置から東へ離れたアルゼンチン側の山岳地帯だった。

当時、この区域では現在のように航空機の位置をGPSで記録し、それを後から即座に追跡できる環境ではない。

管制側は、乗員から送られてきた位置報告を重要な情報として扱っていた。

したがって、乗員側の位置認識が誤っていれば、事故後の捜索開始地点にも誤差が入る。

571便では、墜落原因となった位置誤認が、そのまま捜索を難しくする要因にもなった。

上空から見ても「白いものしかない」

捜索が難しかった理由は、場所の誤認だけではない。

事故当時のアンデス山中は広範囲が雪に覆われていた。

機体の胴体も明るい色で、雪原の中に小さく横たわっていた。

上空を飛ぶ航空機から見れば、捜索対象は巨大な旅客機そのものではない。

衝突によって翼と尾部を失った、比較的小さな胴体部分である。

さらに周囲には、雪面、岩、谷、影が連続している。

National Geographicが現在の現場を紹介した記事でも、事故地点はメンドーサ州のチリ国境付近にある人里離れたアンデス山中として説明されている。

生存者たちは捜索機を見ることができた。

しかし、捜索機側が彼らを見つけることはできなかった。

「上空を飛んだのに見つからなかった」は不思議ではない

ここは後世の説明で誤解されやすい。

「捜索機が近くまで来たのなら、なぜ見つけられなかったのか」という疑問から、捜索が不十分だった、あるいは別の理由で意図的に救助されなかったという話へ発展することがある。

しかし現場の条件を見ると、発見が難しかった理由はかなり具体的に説明できる。

  • 正確な墜落位置が分かっていなかった
  • 広大な山岳地帯を上空から捜索する必要があった
  • 胴体は翼や尾部を失い、本来の航空機より小さくなっていた
  • 周囲が雪に覆われていた
  • 山の斜面や影で視認条件が変化する
  • 地上側から捜索機へ確実に位置を知らせる通信手段がなかった

つまり「すぐ近くを飛んだ」ということと、「地上の数十人を発見できる」ということは同じではない。

現在の地図と1972年当時の現場は同じではない

Google Mapで事故地点を表示すると、現在は「Flight 571 Memorial」などの名称や訪問者の写真が確認できる場合がある。

しかし、これを1972年当時の環境と混同してはいけない。

現在は事故の場所が知られており、座標をGPSへ入力して現地ツアーで向かうこともできる。

1972年の生存者には、その座標そのものが分からなかった。

現在位置を示すGPSも、スマートフォンの地図も、衛星画像もない。

彼らが見られる情報は周囲の山と谷だけだった。

地図上では「チリはすぐ西」と分かっていても、当時の彼らには、どの山を越えれば何があるのか確信できなかった。

現場が「谷」だったことの意味

事故後に生存者たちが生活した場所は、周囲を高い山に囲まれた雪の谷だった。

谷には長所もあった。

胴体が雪面を滑ったことで、岩へ正面から激突するより衝撃が抑えられ、多数の人が最初の墜落を生き延びたと考えられている。

雪もまた、墜落時には衝撃を和らげる側面があった。

一方で、その同じ環境が墜落後には大きな危険となる。

寒さ、積雪、高度、周囲の急斜面、食料となる植物や動物がほぼ存在しないこと。そして後には雪崩が機体を襲う。

571便では「雪があったから助かった」と「雪があったから死者が増えた」が同時に成立する。

事故地点から西を見ると、さらに山しか見えなかった

後にナンド・パラード、ロベルト・カネッサ、アントニオ・ビシンティンが自力脱出へ向かったとき、彼らはまず西を目指した。

チリが西側にあることは理解していたからである。

しかし高い山へ登ったパラードが見たのは、期待していたチリの低地ではなかった。

その先にも、アンデスの山々が地平線まで続いていた。

National Geographicは、パラードとカネッサが最終的にアンデスを約10日間歩き、チリ人のセルヒオ・カタランと接触した経過を紹介している。

地図で見る「国境までの短い距離」と、実際に人里へ到達する距離との違いが、ここで明確になる。

地図から分かる571便遭難の本質

571便の事故地点を地図へ置くことで、事故後の72日間についてもいくつかのことが理解しやすくなる。

地理的条件 事故・遭難への影響
アルゼンチン側の山中 乗員が報告したクリコ付近とは異なる場所で墜落
チリ国境の近く 国境は近いが、その先にも高山が続く
道路・集落から隔絶 歩いてすぐ助けを求めることができない
雪で覆われた谷 墜落時の衝撃を一部吸収する一方、捜索時には機体を見つけにくくした
高所 寒さ、低酸素、移動困難、食料不足を悪化
周囲を山に囲まれる 救助待ちから徒歩脱出へ切り替える際の最大の障害となった

この事件では、墜落地点は単なる「舞台」ではない。

その場所だったこと自体が、事故原因、捜索、生存、雪崩、徒歩脱出のすべてに関係している。

現在も現場には機体の一部が残る

事故地点には現在、追悼のための十字架や記念場所があり、機体の一部も残されている。

Wikimedia Commonsには、現在の事故地点、周囲の山岳風景、現場に残る571便の部品を撮影した写真が公開されている。

こうした写真を見ると、Google Mapの平面的な地図だけでは分からない現場の特徴が見える。

特に重要なのは、周囲を見渡しても都市や道路が見えず、山の稜線だけが連続していることである。

1972年の生存者たちは、この地形の中で72日間を過ごした。

まとめ|「どこに落ちたか」が、その後のすべてを決めた

ウルグアイ空軍571便の墜落地点は、現在の座標でおよそ南緯34度45分54秒、西経70度17分11秒。

アルゼンチン・メンドーサ州のアンデス山中、チリ国境に近い場所である。

しかし、乗員が管制へ報告していたクリコは事故地点から約90km西側にある。

この位置の食い違いによって、571便はまだアンデスにいる状態で北へ旋回し、降下した。

そして事故後も、最後の位置報告と実際の墜落地点が一致していなかったことが捜索を難しくした。

さらに現場は雪に覆われた高地で、道路も集落もない。捜索機から胴体を発見することは難しく、生存者側から外部へ助けを求める手段もほとんどなかった。

地図だけなら、チリはすぐ近くに見える。

しかし実際には、その間に高い山と谷が何重にも続いていた。

571便の72日間は、単に「救助が遅れた事故」ではない。

人が簡単には入れず、外にも出られない場所へ墜落したことによって成立した山岳遭難でもあった。

次回は、その閉ざされた場所で、生存者たちが最初の数日をどう乗り切ったのかを見る。

飲料水はどこから得たのか。夜の寒さをどう防いだのか。重傷者をどう扱い、壊れた機体をどのように「生活できる場所」へ変えたのか。

墜落事故は終わっても、生き残るための問題はそこから始まっていた。


前の記事:

第2回|なぜ571便はアンデスに墜落したのか|飛行経路と「クリコ通過」誤認

次の記事:

第4回|零下の機体でどう生き延びたのか|水・防寒・負傷者治療・役割分担

特集全記事

  1. ウルグアイ空軍571便アンデス遭難とは?|45人を乗せた飛行機と16人が生還した72日間
  2. なぜ571便はアンデスに墜落したのか|飛行経路と「クリコ通過」誤認
  3. 墜落地点はどこだったのか|地図で見るアンデスの谷と捜索の死角 【現在の記事】
  4. 零下の機体でどう生き延びたのか|水・防寒・負傷者治療・役割分担
  5. 食料が尽きたとき、なぜ死者の肉を食べる決断をしたのか|飢餓と生存の選択
  6. 墜落16日後、雪崩が機体を埋めた|8人が死亡した第二の遭難
  7. 救助を待つのをやめた|尾部探索・無線の失敗・アンデス脱出への準備
  8. パラードとカネッサはどうアンデスを越えたのか|10日間の徒歩脱出
  9. 72日間の終わり|571便の16人はどう救助されたのか
  10. 『雪山の絆』はどこまで史実か|実在人物・記録・『生きてこそ』との違い

今回出てきた言葉

Valle de las Lágrimas
571便の事故地点周辺を指して現在広く使われる名称。「涙の谷」と訳される。アルゼンチン・メンドーサ州のアンデス山中にある。
プランチョン峠
571便の計画航路上にあったアンデスの峠。機体はここを越えた後、さらに西へクリコまで飛ぶ必要があった。
クリコ
チリ中部の都市。571便では「ここまで到達した」という誤った位置認識が北への旋回と降下につながった。
MapPrecision:HISTORICAL
現在の地図と事件当時の地形・施設・状況を同一視できない地点を扱う際の考え方。本記事では現在のGoogle Mapを位置把握に使い、1972年当時の積雪や捜索状態とは分けて説明している。

出典・参考資料

本記事では現在確認できる座標を用いて事故地点・プランチョン峠・クリコの位置関係を整理しています。本文中の地点間距離は現在の代表座標間を直線距離として概算したもので、1972年当時の実際の飛行距離・徒歩距離・捜索区域を示すものではありません。またGoogle Mapは現在の地形・地名・施設を表示するため、1972年当時の積雪や道路状況とは区別して読んでください。

零下の機体でどう生き延びたのか|水・防寒・負傷者治療・役割分担

航空事故

1972年10月13日、ウルグアイ空軍571便の胴体がアンデスの雪上で停止したとき、事故そのものを生き延びた人々には次の問題が待っていた。

ここで、どうやって生きるのか。

周囲は標高約3,700~4,000mの雪山である。道路も集落も見えない。乗客たちは登山隊ではなく、チリへラグビーの試合を見に行くための服装だった。十分な防寒着も、テントも、寝袋も、山岳用の調理器具もない。

飲み水さえ、そのまま手に入るわけではなかった。

さらに機内には重傷者がいる。骨折、頭部外傷、切創などを負った人々を、病院どころか本格的な医療器具もない場所で支えなければならなかった。

生存者たちは、残された機体、座席、荷物、金属板、プラスチックといった、本来は別の目的で作られた物を次々に別の用途へ転用していった。

第4回では、食料問題とはいったん分けて、「墜落した旅客機を、どうやって人間が暮らせる最低限の環境へ変えたのか」を追う。

この記事で分かること

  • 墜落直後、生存者たちが置かれた環境
  • なぜ機体の胴体がシェルターになったのか
  • 大きく開いた機体後部をどう塞いだのか
  • 雪山で飲料水をどう作ったのか
  • 座席や機体部品を何に転用したのか
  • 医療用品が乏しい中で負傷者をどう扱ったのか
  • なぜロベルト・カネッサとグスタボ・セルビーノが重要だったのか
  • 生存者の集団にどのような役割分担が生まれたのか

CASE FILE 30

ウルグアイ空軍571便アンデス遭難特集|全10回

  1. ウルグアイ空軍571便アンデス遭難とは?|45人を乗せた飛行機と16人が生還した72日間
  2. なぜ571便はアンデスに墜落したのか|飛行経路と「クリコ通過」誤認
  3. 墜落地点はどこだったのか|地図で見るアンデスの谷と捜索の死角
  4. 零下の機体でどう生き延びたのか|水・防寒・負傷者治療・役割分担 【現在の記事】
  5. 食料が尽きたとき、なぜ死者の肉を食べる決断をしたのか|飢餓と生存の選択
  6. 墜落16日後、雪崩が機体を埋めた|8人が死亡した第二の遭難
  7. 救助を待つのをやめた|尾部探索・無線の失敗・アンデス脱出への準備
  8. パラードとカネッサはどうアンデスを越えたのか|10日間の徒歩脱出
  9. 72日間の終わり|571便の16人はどう救助されたのか
  10. 『雪山の絆』はどこまで史実か|実在人物・記録・『生きてこそ』との違い

墜落は終わった。しかし「生存できる環境」は何もなかった

機体が停止した直後、まだ生きていた人々の最優先課題は、救助を探しに行くことではなかった。

まず、目の前にいる負傷者を助け、夜を越えなければならなかった。

571便は翼と尾部を失い、残ったのは主として胴体前部だった。墜落によって座席は前方へ押し重なり、機内には重傷者が残されていた。

資料では、墜落後に33人がなお生存していたとされるが、その全員が自由に動ける状態だったわけではない。骨折や頭部外傷など、深刻な負傷を負った人もいた。

そして外へ出れば、そこは雪に覆われたアンデスである。

Museo Andes 1972は、遭難地点を「約4,000m」とし、気温が氷点下30℃近くまで低下することもあったと説明している。

生存者たちは十分な食料、水、防寒着を持っていなかった。

つまり、墜落した機体から「避難する」のではなく、壊れた機体を避難所へ変える必要があった。

最初のシェルターは、壊れた胴体そのものだった

山岳遭難なら、風雪を避けられる空間を確保することが重要になる。

571便では幸い、胴体前部が完全には破壊されず残っていた。

金属製の外板は断熱材として優れているわけではない。それでも、四方から直接風を受ける雪原に比べれば、生存の可能性を大きく上げる。

問題は、機体後部だった。

尾部が失われているため、胴体は後ろ側が大きく開いた筒のような状態になっていた。そこから冷気と雪が入る。

ロベルト・カネッサは後年、残されたスーツケースを機体後部へ積み重ね、風雪が入るのを防いだと説明している。

旅行のために持ってきた荷物が、即席の壁になった。

本来の物 遭難後の用途
墜落した胴体 風雪を避けるシェルター
スーツケース 開口部を塞ぐ壁
座席カバー 毛布・防寒材
座席の金属部品 融雪などの道具
座席部品 後に雪上移動用の補助具などへ転用
機内のプラスチック 雪目対策用の簡易サングラス

ここには専用のサバイバル用品はほとんど出てこない。

必要な機能を、目の前にある物から作っている。

座席は「座るための物」ではなくなった

航空機の客室には、墜落後も大量の素材が残っていた。

座席はその代表である。

カネッサによれば、座席にはウールを含む布地が使われており、生存者たちはそれを剥がして身体を覆うために利用した。

Museo Andes 1972も、座席カバーを防寒材として使ったことを記録している。ただし、それは「暖かい寝具」を手に入れたという意味ではない。博物館自身が、そうした断熱は不十分で暫定的なものだったと説明している。

昼間に太陽が出れば雪面から強い光が反射する一方、夜になると気温は急激に下がる。

薄い衣服と即席の毛布だけで、その寒暖差を繰り返し耐えなければならなかった。

水は雪を口に入れれば済む問題ではなかった

周囲には大量の雪がある。

一見すると、水だけは不足しないように見える。

しかし、雪があることと、飲める水があることは同じではない。

大量の雪をそのまま口へ入れて溶かそうとすれば、口腔内を冷やし、身体から熱を奪う。National Geographicの取材でも、生存者にとって渇きは大きな問題で、雪を直接食べることで歯茎、舌、喉を傷めたと説明されている。

そこで必要になったのが、雪を液体の水へ変える方法だった。

カネッサは、座席後部から取り外したアルミニウム板などを利用して雪を溶かしたと証言している。

特別なアウトドア用ストーブを使ったのではない。

金属板へ雪を載せ、太陽熱などを利用しながら、得られた水を少しずつ回収する。

この仕組みによって、周囲の雪を「見るだけの水」から、実際に飲める水へ変えられるようになった。

飲料水づくりは独立した仕事になった

水を作るという作業は、一度やれば終わるものではない。

複数人が毎日飲む水を確保するには、雪を集め、溶かし、容器へ移す作業を繰り返す必要がある。

後年、571便の集団行動を分析した研究では、生存者の仕事は次第に機能ごとへ分かれ、医療、機体の整理、水づくりなどを担当する人々が生まれたと整理されている。

特に興味深いのは、体力が弱っていた人や負傷者でも比較的行える仕事として、水づくりが割り当てられたという分析である。

つまり集団の価値は、「遠くまで歩ける人」だけで決まらなかった。

移動できない人にもできる仕事を作り、限られた能力を集団全体で使った。

負傷者を診たのは、医師ではなく医学生だった

墜落直後の機内には複数の重傷者がいた。

しかし、そこに山岳救助隊や救急医は存在しない。

医療面で中心的な役割を担ったのが、当時まだ医学生だったロベルト・カネッサグスタボ・セルビーノである。

2人は正式な医師ではなく、医学教育の初期段階にいた若者だった。

それでも、集団の中では最も医学知識を持っている。

そこで彼らは負傷者の状態を確認し、限られた条件の中で治療可能性の高い人から処置する役割を担った。

カネッサは後年、骨折を固定し、脚の感染部分から膿を排出するような処置も行ったと証言している。

これは設備の整った病院で行う治療とはまったく違う。

抗菌薬、画像診断、手術室、十分な滅菌器具を使える環境ではない。できることは、身体の状態を観察し、持っている知識と利用可能な物だけで悪化を抑えることだった。

「トリアージ」に近い判断が必要だった

災害医療では、多数の負傷者に対して医療資源が不足している場合、誰をどの順序で処置するかを判断する必要がある。

一般にこれをトリアージと呼ぶ。

571便の機内でも、医療資源は極端に限定されていた。

誰もが重傷者へ付きっきりになることはできない。水を作る人、機体内部を整理する人、防寒を考える人も必要だった。

カネッサとセルビーノは負傷状態を確認し、自分たちが介入できる人を優先して対応したと複数資料で伝えられている。

これは冷淡な選別ではない。

「できることが少ない」環境で、限られた労力をどこへ使えば生存者を増やせるかという判断だった。

骨折者を動かさずに寝かせる仕組みまで作った

墜落の衝撃によって脚を骨折した人もいた。

通常なら、固定した上で病院へ搬送するべき状態である。

しかしここでは搬送先がない。

しかも機内の床は狭く、硬く、他の生存者も密集している。

カネッサは、座席などから得た材料を利用して、骨折者のための簡易的なハンモックも作ったと述べている。

負傷者を完全に治すことはできなくても、身体を安定させ、周囲の人が動く際に負傷部をさらに傷める危険を減らすことはできる。

ここでも使われているのは、本来の医療器具ではない。

必要な「固定」「支持」という機能を、別の物で代替している。

ナンド・パラードはすぐに行動できたわけではない

後にアンデスを歩いて越えることになるナンド・パラードも、墜落直後から活動していたわけではない。

彼は頭部に重大な負傷を負い、墜落後しばらく意識を失っていた。

後世の571便の物語では、パラードは自力脱出を成功させた人物として強く記憶されている。

しかし遭難初期を見ると、「強い人が最初から全員を助けた」という構図ではない。

動ける人が負傷者を助け、負傷していた人が回復すれば、その後は別の役割を担う。

72日間の集団は、同じ人がずっと同じ立場にいたわけではなかった。

雪目を防ぐため、プラスチックからサングラスを作った

アンデスでの問題は寒さだけではない。

高地の強い日射が雪面で反射すると、眼は大量の紫外線を受ける。

これによって角膜に炎症が起きる「雪目」を発症すれば、視力が一時的に大きく低下する可能性がある。

しかし生存者全員が雪山用サングラスを持っていたわけではない。

カネッサによれば、彼らは操縦席付近にあったプラスチック素材を利用して、簡易的なアイプロテクションを作った。

後には座席下部の部品を雪上移動の補助具へ転用するなど、機体そのものが徐々に「部品倉庫」のような役割を果たしていく。

571便で繰り返されたのは「代用品を作る」という発想だった

生存者たちの行動を並べると、共通する構造が見えてくる。

必要だった機能 本来なら必要な装備 571便で使った代用品
風雪を遮る テント・山小屋 航空機の胴体+スーツケース
身体を保温する 寝袋・防寒着 座席カバーなど
飲料水を得る バーナー・鍋 金属板などを利用した融雪
骨折者を支持する 医療用ベッド・固定具 機体・座席材料から作った簡易装具
眼を保護する 雪山用サングラス 機内のプラスチック素材
雪上を移動する 登山・雪上装備 機体部品を加工した補助具

これは「便利な裏技」の一覧ではない。

道具の名称ではなく、必要な機能を考え、その機能を別の材料で実現するという問題解決を繰り返している。

Museo Andes 1972が、この事件について「creativity」「adaptation to the environment」を重要な要素として掲げている理由もここにある。

寒さへの対策は「暖かくする」より「熱を失わない」ことだった

墜落地点では暖房設備を動かせない。

大量の燃料を燃やし続けることもできない。

したがって防寒の基本は、新しく熱を作ることよりも、身体が持っている熱をできるだけ外へ逃がさないことになる。

胴体で風を遮る。開口部を荷物で塞ぐ。座席の布地で身体を覆う。可能な限り人が同じ空間に集まる。

一つ一つは不完全でも、何もしない場合より熱損失を減らせる。

特に風を直接受けないことは重要だった。

同じ気温でも、強風が身体表面から熱を奪えば体感する寒さと低体温症の危険は増す。

壊れた胴体は快適なシェルターではなかったが、「外気に完全にさらされる」状態を避けられる唯一の大きな構造物だった。

標高そのものも身体を消耗させた

現場では寒さだけでなく、高度も問題になる。

標高3,000mを大きく超える場所では、海面付近より大気圧が低く、身体へ取り込める酸素も少なくなる。

健康な若者でも、頭痛、疲労、息切れ、睡眠障害などを起こしやすい。

まして571便の生存者には、負傷し、十分な栄養も取れず、寒さにさらされた人がいた。

身体を回復させる条件としては非常に悪い。

そのため、単純に「若くて体力があったから生きられた」とする説明では足りない。

休める空間、水、防寒、負傷者対応という最低条件を集団で維持できたことが重要だった。

個人のサバイバルではなく「集団のシステム」が作られていった

571便の生存談は、ナンド・パラードやロベルト・カネッサといった個人の物語として語られることが多い。

しかし初期の生存環境を見ると、一人だけで成立する作業はほとんどない。

機内を片づける。負傷者を動かす。雪を集める。水を作る。開口部を塞ぐ。防寒材を分配する。周囲の残骸を探す。

それぞれに人手が必要になる。

2024年に公表された571便の集団行動を扱う研究では、生存者たちが個々の能力に応じて役割を組み替えながら、医療、機体整備、水確保などの機能を維持したことが、集団のレジリエンスとして分析されている。

事故前の社会的な肩書きより、「今この場所で何ができるか」が重要になった。

医学を少し学んでいた人は医療を担当する。

力のある人は残骸を動かす。

大きく移動できない人でも水づくりを担う。

生き残るために必要な仕事を分解し、それを複数人で分担する仕組みが自然に作られていった。

「ラグビー経験」は生存に役立ったのか

571便ではラグビー選手が多かったことから、「ラグビーチームだったから生還できた」と説明されることがある。

これを直接的な因果関係として断定するのは難しい。

若く体力のある人が多かったことは、残骸の移動や後の遠征では有利だった可能性が高い。

また、事故以前から互いを知っている人が多く、集団として行動する経験があったことも無視できない。

しかし、それだけで水が作れるわけでも、骨折が治るわけでも、低温を克服できるわけでもない。

この事件で確認できるのは、既存の人間関係に加えて、遭難後に新しい役割分担と問題解決の仕組みを作っていったことである。

救助を待っていた最初の10日間

初期の生存者たちは、まだ外部から救助されることを期待していた。

上空には捜索機も現れた。

地上からそれを見ることができた生存者にとって、「あと少しで見つかる」という期待を持つのは自然だった。

そのため、この段階での生活設備は「ここで2か月以上暮らす」ために作られたものではない。

今夜を越える。

明日の水を作る。

負傷者を一日でも長く保たせる。

そうした短期的な課題へ対応するためのものだった。

しかし事故から10日目、生存者たちは小型ラジオを通じて捜索が打ち切られたことを知る。

そこから、同じ道具の意味が変わっていく。

「救助まで数日耐えるための設備」ではなく、いつ終わるか分からない遭難を生き延びるための生活基盤として考えなければならなくなった。

そして最大の不足が残った

シェルターは不完全ながら作れた。

水も少量ずつ確保できた。

防寒も、機内にある物を利用して改善した。

負傷者に対しても、できる範囲の処置を行った。

しかし一つだけ、機体の部品を加工して作り出すことができないものがあった。

食料である。

機内に残されていた菓子、ジャム、ワインなどは、数十人が長期間生きるための量ではなかった。

周囲は雪と岩で覆われ、植物も野生動物も期待できない。

水と防寒については「別の物を代用品にする」という方法が通用したが、エネルギー源そのものは代用品を作れない。

この問題が、やがて571便で最も知られる決断へつながる。

次回は、なぜ生存者たちが亡くなった仲間の身体を食料とするところまで追い込まれたのかを、刺激的な逸話ではなく、飢餓・環境・時間・宗教観・集団での意思決定から検証する。

まとめ|彼らが作ったのは「道具」ではなく生存システムだった

ウルグアイ空軍571便の生存者は、雪山用の十分な装備を持っていなかった。

壊れた航空機の胴体をシェルターにし、スーツケースで開口部を塞ぎ、座席の布を身体へ巻き、金属板を使って雪から水を作った。

医療では、医学生だったロベルト・カネッサやグスタボ・セルビーノが中心となり、負傷者の状態を判断し、骨折の固定や感染への処置など、可能な範囲の対応を行った。

ほかの人々も、残骸の整理、水づくり、防寒、探索といった仕事を分担した。

一つ一つを見ると、特別な技術ではないものも多い。

しかし重要なのは、専用品がないから何もできないと考えなかったことである。

必要なのが「壁」なら荷物を壁にする。

必要なのが「毛布」なら座席を解体する。

必要なのが「水」なら雪を溶かす仕組みを作る。

必要なのが「医療」なら、集団の中で最も知識を持つ人間が担当する。

そうして機体の残骸は、単なる事故現場から、生存者たちが生活を維持するためのシステムへ変わっていった。

ただし、そのシステムでも解決できない問題が残った。

食料だった。


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第3回|墜落地点はどこだったのか|地図で見るアンデスの谷と捜索の死角

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第5回|食料が尽きたとき、なぜ死者の肉を食べる決断をしたのか|飢餓と生存の選択

特集全記事

  1. ウルグアイ空軍571便アンデス遭難とは?|45人を乗せた飛行機と16人が生還した72日間
  2. なぜ571便はアンデスに墜落したのか|飛行経路と「クリコ通過」誤認
  3. 墜落地点はどこだったのか|地図で見るアンデスの谷と捜索の死角
  4. 零下の機体でどう生き延びたのか|水・防寒・負傷者治療・役割分担 【現在の記事】
  5. 食料が尽きたとき、なぜ死者の肉を食べる決断をしたのか|飢餓と生存の選択
  6. 墜落16日後、雪崩が機体を埋めた|8人が死亡した第二の遭難
  7. 救助を待つのをやめた|尾部探索・無線の失敗・アンデス脱出への準備
  8. パラードとカネッサはどうアンデスを越えたのか|10日間の徒歩脱出
  9. 72日間の終わり|571便の16人はどう救助されたのか
  10. 『雪山の絆』はどこまで史実か|実在人物・記録・『生きてこそ』との違い

今回出てきた言葉

トリアージ
多数の負傷者に対して医療資源が不足している場合、状態や治療可能性を踏まえて処置の優先順位を判断する考え方。571便では医学生だったカネッサらが、限られた条件で負傷者の状態を判断した。
ロベルト・カネッサ
当時19歳の医学生。負傷者への対応や水づくりに関わり、後にナンド・パラードとともにアンデスを徒歩で越えて救助につなげた。帰国後に医学を続け、小児心臓医となった。
グスタボ・セルビーノ
当時医学を学んでいた生存者。カネッサとともに墜落直後から負傷者への対応を担った。
雪目
雪面で反射した強い紫外線などによって角膜が炎症を起こす状態。高所の雪山では眼の保護が重要になる。
レジリエンス
重大な障害や環境変化を受けた後でも、必要な機能を維持・再構成する能力。571便では個人の精神力だけでなく、集団として仕事を分担し、生存に必要な機能を作り直した点が重要だった。

出典・参考資料

本記事はMuseo Andes 1972、生存者本人の証言、National Geographicの取材資料、後年の研究を照合して構成しています。生存者たちの役割は事故直後から固定された正式組織だったという意味ではなく、必要な仕事と各人の能力に応じて次第に分担されていったものとして記述しています。また、医療行為については当時の極端な遭難環境で行われた応急対応であり、現代の標準的な医療行為として紹介するものではありません。

食料が尽きたとき、なぜ死者の肉を食べる決断をしたのか|飢餓と生存の選択

航空事故

アンデス山中でウルグアイ空軍571便の生存者たちが直面した問題の中で、後世に最も強く知られることになったのが「食料」である。

機内に残されていたわずかな食品は、数十人が長期間生きるための備蓄ではなかった。

周囲を見渡しても、あるのは雪と岩だけだった。植物を採集することも、動物を捕まえることもできない。救助がいつ来るかも分からない。

水は雪から作ることができた。防寒材は座席や荷物から作れた。

しかし、人体が生きるために必要なエネルギーだけは、機体の部品から作ることができない。

生存者たちはやがて、墜落で亡くなった仲間たちの身体を食料として利用するという決断へ進んだ。

この部分だけを切り取れば、571便は「人肉を食べて生き延びた事件」として説明できてしまう。

だが、それではこの決断の意味をほとんど理解できない。

彼らが相手にしたのは、見知らぬ死者ではなかった。ラグビー仲間、友人、兄弟、家族だった。

しかも多くの生存者はカトリックの教育を受けていた。生きるためには食べなければならない。しかし、その行為を自分自身が受け入れられるのか。

第5回では、刺激的な描写ではなく、食料枯渇、飢餓、集団での葛藤、宗教観、死者への意識、そして救助後の社会への説明という順序で、この決断を整理する。

この記事で分かること

  • なぜ通常の食料だけでは生き延びられなかったのか
  • アンデス山中で新しい食料を確保できなかった理由
  • 生存者たちはどのような葛藤を抱えたのか
  • ロベルト・カネッサがこの決断をどう振り返っているのか
  • なぜ「死者を食べる」と「人を殺して食べる」を分ける必要があるのか
  • 生存者同士でどのような相互了解が生まれたのか
  • カトリック信仰と聖体拝領の考え方がどう関係したのか
  • 救助後、16人は世界へ何を説明したのか

CASE FILE 30

ウルグアイ空軍571便アンデス遭難特集|全10回

  1. ウルグアイ空軍571便アンデス遭難とは?|45人を乗せた飛行機と16人が生還した72日間
  2. なぜ571便はアンデスに墜落したのか|飛行経路と「クリコ通過」誤認
  3. 墜落地点はどこだったのか|地図で見るアンデスの谷と捜索の死角
  4. 零下の機体でどう生き延びたのか|水・防寒・負傷者治療・役割分担
  5. 食料が尽きたとき、なぜ死者の肉を食べる決断をしたのか|飢餓と生存の選択 【現在の記事】
  6. 墜落16日後、雪崩が機体を埋めた|8人が死亡した第二の遭難
  7. 救助を待つのをやめた|尾部探索・無線の失敗・アンデス脱出への準備
  8. パラードとカネッサはどうアンデスを越えたのか|10日間の徒歩脱出
  9. 72日間の終わり|571便の16人はどう救助されたのか
  10. 『雪山の絆』はどこまで史実か|実在人物・記録・『生きてこそ』との違い

まず結論|これは「異常な食事」ではなく、生存条件が消えていった末の判断だった

571便の生存者たちが死者の身体を食料として利用したことは事実である。

しかし重要なのは、その前にどのような選択肢が存在し、どの選択肢が失われていったのかを見ることである。

彼らは墜落直後から、その行為を当然のものとして受け入れていたわけではない。

最初は機内に残っていた食品を分け合った。

水については、前回見たように雪を溶かす仕組みを作ることができた。

しかし食料は増やせない。

周囲には食用になる植物も、簡単に捕獲できる動物も確認できなかった。

しかも標高約3,700~4,000mの寒冷な環境では、身体は体温を保つだけでもエネルギーを消費する。

食べなければ、身体は自分自身の脂肪や筋肉を消費していく。

やがて歩く力も、負傷から回復する力も、雪を溶かして水を作る力も失われる。

つまり571便の生存者にとって食料不足は、

「空腹を我慢できるか」という問題ではなく、「このまま身体機能そのものが失われるか」という問題

だった。

周囲には「何か食べられるもの」が本当にほとんどなかった

遭難現場を地図で見ると、近くに谷や山がある。

そのため「少し探せば植物や動物が見つかったのではないか」と考えることもできる。

しかし事故地点は高標高の雪山だった。

樹木のある森林帯ではない。

畑も、牧草地も、川辺の植物もない。

生存者たち自身も周囲を探索したが、現実的な食料源は見つからなかった。

Museo Andes 1972は、この場所について「食料も水も適切な衣類もない」環境だったと説明している。

水については雪という原料が存在した。

食料には、それに相当する原料がなかった。

必要なもの 代替可能性 571便での対応
シェルター 代替可能 機体胴体を利用
防寒具 部分的に代替可能 座席カバーなどを転用
飲料水 代替可能 雪を融かして確保
医療用品 一部代替可能 機内用品を利用して応急処置
食料 ほぼ代替不能 周辺に新しい食料源なし

ここが、ほかの問題との決定的な違いだった。

食べる対象は「死体」ではなく、知っている人たちだった

この決断の心理的な重さを理解するには、死者と生存者の関係を見る必要がある。

571便の乗客は、不特定多数の乗客が乗った一般の定期便とは少し違っていた。

ラグビーチームの選手、友人、兄弟、家族など、互いに強い関係を持つ人々が多かった。

つまり、生存者たちが利用しなければならなかったのは、名前も知らない人の身体ではない。

昨日まで会話していた仲間だった。

ロベルト・カネッサは後年、この点を自分にとって最大の抵抗の一つだったと振り返っている。

問題は単に「人間の肉を口にできるか」ではなく、友人の身体へ踏み込むことが、その人の尊厳を傷つけるのではないかという感覚だった。

生理的嫌悪と道徳的葛藤が同時に存在していた。

「理屈で納得すること」と「実際にできること」は別だった

カネッサはNational Geographicのインタビューで、この決断について非常に明確な区別をしている。

頭で「これ以外に生きる方法がない」と理解することと、実際に身体を口へ運ぶことはまったく別だったという。

論理だけで考えれば、選択肢は狭まっている。

食料はない。

周囲にもない。

救助時期も分からない。

すでに亡くなった人々の身体だけが、生命維持に必要な栄養を含んでいる。

しかし、人間の感情はその計算通りには動かない。

生存者たちは、その間にある大きな心理的障壁を越えなければならなかった。

「人を殺して食べた」のではない

この出来事については、言葉の選び方にも注意が必要である。

日本語では一般に「人肉食」「カニバリズム」と表現される。

一方、カネッサ本人は後年のインタビューで、この出来事についてanthropophagy(人肉を食べること)という言葉を好んで使っている。

その理由は明確で、生存者たちは食料を得るために誰かを殺したわけではないからである。

ここで重要なのは、厳密な辞書上の分類論ではない。

事実関係として、

  • 墜落やその後の負傷・雪崩などで亡くなった人々がいた
  • 生存者が食料目的で人を殺した事実はない
  • すでに死亡していた人々の身体を利用した

という区別を明確にしておくことである。

後世のセンセーショナルな表現では、この違いが失われることがある。

カネッサはなぜ受け入れられたのか

カネッサ自身は医学生だった。

そのため人体を「生物学的な身体」として見る訓練を、ほかの生存者より多少は受けていた。

彼は後年、身体には生命を維持するために必要なタンパク質や脂肪が存在するという、極めて現実的な考え方もしていたと話している。

それでも、医学知識があれば心理的抵抗がなくなるわけではない。

彼が最終的に考えたのは、立場を逆にした場合だった。

もし自分が先に死んだらどうするか。

その身体を使うことで友人が家へ帰れるなら、自分はそれを望むのではないか。

この考え方は、やがて生存者同士の相互了解へ発展した。

「自分が死んだら、ほかの人に使ってほしい」という合意

カネッサは、仲間たちの間で一種の約束が生まれたと説明している。

自分が先に亡くなった場合、その身体を残った人々の生存のために使ってよい。

この考え方には重要な意味がある。

死者の意思を直接確認することはできない。

しかし、生きている者同士が「自分なら提供する」と互いに意思を示すことで、少なくとも一方的に他者の身体を利用しているという感覚を和らげることができる。

それは法的な契約ではない。

遭難現場で形成された倫理的・心理的な合意だった。

カネッサは後年、この関係を「仲間が物理的にも精神的にも自分たちを支えた」と説明している。

カトリック信仰は、決断を止めたのか

571便の若者たちの多くは、ウルグアイのカトリック系学校で教育を受けていた。

そのため、死者の身体を食べることについて宗教的な葛藤も生まれた。

しかし、この信仰は単純に「禁止する側」へ働いたわけではなかった。

彼らはむしろ、自分たちが受けてきたキリスト教教育の中から、この行為を受け入れるための意味を探した。

後に生存者たちが繰り返し語ったのが、キリスト教の聖体拝領との類比である。

最後の晩餐でキリストが自らの身体と血を弟子たちへ与えたという考え方を、自分たちの状況へ重ねた。

もちろん、聖体拝領と遭難時の行為が宗教上まったく同じだという意味ではない。

重要なのは、生存者自身が「死者の身体を奪う」という解釈だけでなく、仲間が残された人間へ生命を与えるという意味づけを行ったことである。

宗教的な考え方は、後から作られた説明だけではない

この聖体拝領との比較は、救助後に世間を説得するためだけに突然作られたものではない。

生存者たちは遭難中から、死、自分たちの信仰、仲間の身体を利用することについて互いに話し合っていたと証言している。

また救助後にはカトリック教会関係者からも、この極限状況における行為を罪として非難しない見解が示された。

後年、ナンド・パラードも、教会側から「死者を食べたことは罪ではない」とする説明を受けたことを振り返っている。

つまり宗教は、この事件では単純な禁止規則としてではなく、行為をどう理解するかという倫理的枠組みの一つとして働いた。

全員が同じ速度で受け入れたわけではない

ここで「生存者全員が話し合ってすぐ賛成した」と考えるのも正確ではない。

心理的抵抗の大きさは人によって違った。

理屈では必要だと理解していても、口にできない人もいた。

生存者の証言から分かるのは、最初から統一された感情が存在したのではなく、それぞれが自分なりの方法で受け入れていったということである。

この点は571便全体にも共通する。

水づくり、防寒、遠征についても、集団が一つの意思を持つ生物のように一斉に動いたわけではない。

意見の違い、迷い、失敗を経ながら、実行可能な方法へ集約していった。

食料の決断は「生き残る目的」そのものではなかった

571便を紹介するとき、

「人肉を食べたから16人が助かった」

という説明になることがある。

これは完全な誤りではないが、不十分である。

摂取できるエネルギーがなければ長期間の生存は難しい。食料として利用したことは明らかに重要だった。

しかしカネッサ本人は後年、「それが最も大変な部分だったわけではない」と繰り返し述べている。

彼が生存理由として強調するのは、集団だったこと、そして最後には自分たちでアンデスから歩いて出たことである。

食べることで生命を維持しても、機体の中に留まり続ければ救助される保証はなかった。

したがってこの決断は、

生還そのものではなく、生還へ向けて行動し続けるための時間と身体機能を確保する手段

として考える方が実態に近い。

食料問題と「捜索打切り」はつながっている

事故から10日目、生存者たちはラジオで公式捜索が打ち切られたことを知った。

この知らせは、食料問題の意味も変えた。

それまでは「残っている食料を極端に節約し、数日耐えれば救助される」という期待を持つことができた。

しかし捜索が終われば、「あと数日」という前提がなくなる。

いつまで生きればよいのか分からない。

さらに最終的には、誰かが徒歩で外へ助けを求めに行く必要がある。

山を越えるには、ただ生命を維持する以上の体力が必要になる。

つまり食料は「死なないため」だけではなく、自力脱出できる身体を残すためにも必要だった。

雪崩によって、この問題はさらに重くなる

食料の問題へ向き合っていた生存者たちを、さらに大きな出来事が襲う。

墜落から16日後の雪崩である。

夜間、雪崩が胴体内部へ流れ込み、8人が死亡した。

それまで一緒に生活し、役割を担っていた仲間が、突然失われた。

この雪崩は571便の集団そのものを変えた。

同時に、彼らが避難所としている機体が絶対に安全ではないことも明確になった。

「救助されるまでここで耐える」という戦略には限界があった。

食料によって時間を作るだけでなく、その時間の中で外へ出る方法を見つける必要があった。

救助されたあと、問題は終わらなかった

1972年12月22日と23日、16人の救助が完了した。

しかし山を下りると、今度は別の問題が待っていた。

「72日間、彼らは何を食べていたのか。」

救助直後から世界中の報道機関がこの疑問へ関心を向けた。

墜落地点の写真や残された遺骨などから、何が起きていたのかについて報道と憶測が広がっていった。

生存者たちは、最終的に自分たちから説明する必要があると判断する。

1972年12月28日、モンテビデオで説明した

救助から6日後の1972年12月28日、生存者の多くがウルグアイへ帰国した。

その日、モンテビデオのStella Maris校で記者会見が開かれた。

食料について説明する役割を担ったのは、フランシスコ(パンチョ)・デルガドだった。

デルガドは、アンデスでの信仰体験と、自分たちが食料問題をどう受け止めたかを説明した。

その中心にあったのが、最後の晩餐と聖体拝領の比喩だった。

キリストが自らの身体と血を分け与えたという考えを、自分たちの置かれた状況と重ねたのである。

当時のチリ紙『La Tercera』の記録にも、この説明が残っている。

遺族のすべてが彼らを責めたわけではなかった

生存者側にとって最大の懸念の一つは、亡くなった人々の家族がどう受け止めるかだった。

自分たちが生きて帰った一方で、そのために友人や家族の身体を利用した。

それを遺族へどう説明するのか。

しかし少なくとも記録に残る一部の遺族は、生存者を公に支持した。

1972年の記者会見では、死亡した乗客の父親の一人が、生存者の行動を理解すると表明した記録が残っている。

後年カネッサも、亡くなった仲間の家族を訪ね、山で何が起きたのかを直接伝えたと話している。

彼にとって、社会一般からどう評価されるか以上に、死者の家族へ説明することが重要だった。

報道は「生存」より「人肉食」を大きく扱った

救助直後の世界的な報道を見ると、16人が72日間生き抜いたことそのものに加えて、人肉食の事実が急速に大きなニュースとなっていった。

当時の新聞には非常に直接的な見出しが並び、一部の報道では刺激的な写真や表現も使用された。

この傾向はその後の映画や書籍にも影響を与える。

571便と聞けば、

「アンデスで人肉を食べた飛行機事故」

という部分だけを知っている人が多い理由の一つである。

しかし、当事者から見ると重点は違う。

カネッサは、食べたことそのものよりも、仲間と集団を維持し、最終的に山から歩いて出たことを生存の中心として語っている。

この出来事をどう呼ぶべきか

本記事では検索性と一般的な理解を考慮し、「人肉食」「カニバリズム」という言葉も使用している。

ただし、この言葉だけでは571便で起きたことの倫理的条件を十分に示せない。

確認できる事実 571便の場合
食料確保のために人を殺したか 確認されていない。生存者は否定している
利用されたのは誰か 事故・負傷・雪崩などですでに死亡した人々
ほかに十分な食料があったか なかった
周囲で新しい食料を得られたか 現実的な食料源は確認できなかった
救助時期が分かっていたか 不明。10日目には捜索打切りを知った
生存者に葛藤がなかったか 強い心理的・宗教的葛藤があった

この条件を外して、「人が人を食べた」という一文だけにすれば、事実関係そのものは残っても、事件の意味は変わってしまう。

彼らが選んだのは「食べること」ではなく「生き続けること」だった

571便の生存者にとって、この決断自体が目的だったわけではない。

家族のもとへ帰る。

負傷した仲間を生かす。

山を越えて助けを呼ぶ。

そのためには、身体を動かし続けなければならない。

カネッサは後年、自分たちの仲間が身体そのものだけでなく、生きる意思まで残してくれたと表現している。

これは科学的説明ではない。

しかし当事者が、自分たちの行為をどう意味づけ、その後50年以上生きてきたかを理解するうえでは重要な証言である。

まとめ|この決断だけを571便の物語にしてはいけない

ウルグアイ空軍571便の生存者たちが、亡くなった仲間の身体を食料として利用したことは事実である。

それを曖昧にする必要はない。

一方で、その事実だけを切り出すことも適切ではない。

事故地点には十分な食料がなかった。

周囲にも新たな食料源はなかった。

いつ救助されるか分からず、事故から10日目には捜索打切りを知った。

そして生存者には、ただ数日耐えるだけではなく、最終的に山を越えて助けを求めるだけの身体を残す必要があった。

その状況で彼らは、自分たちが先に死んだ場合には身体を仲間のために使ってよい、という相互の了解を作っていった。

多くの生存者が受けていたカトリック教育も、この決断をどう理解するかという枠組みの一つになった。

救助後には、1972年12月28日の記者会見で自分たちから社会へ説明した。

つまりこの出来事は、

「飢えた人々が禁忌を破った」という一場面ではなく、ほかの選択肢を失った人々が、生存、死者への尊厳、信仰、仲間との関係をどう折り合わせたかという問題

だった。

そして、その決断をしたからといって環境が安全になったわけではない。

墜落から16日後、生存者たちが眠っていた胴体へ大量の雪が流れ込む。

8人が死亡した「第二の遭難」である。

次回は、この雪崩がどのように起こり、生存者たちの避難場所だった機体を一瞬で埋めたのかを追う。


前の記事:

第4回|零下の機体でどう生き延びたのか|水・防寒・負傷者治療・役割分担

次の記事:

第6回|墜落16日後、雪崩が機体を埋めた|8人が死亡した第二の遭難

特集全記事

  1. ウルグアイ空軍571便アンデス遭難とは?|45人を乗せた飛行機と16人が生還した72日間
  2. なぜ571便はアンデスに墜落したのか|飛行経路と「クリコ通過」誤認
  3. 墜落地点はどこだったのか|地図で見るアンデスの谷と捜索の死角
  4. 零下の機体でどう生き延びたのか|水・防寒・負傷者治療・役割分担
  5. 食料が尽きたとき、なぜ死者の肉を食べる決断をしたのか|飢餓と生存の選択 【現在の記事】
  6. 墜落16日後、雪崩が機体を埋めた|8人が死亡した第二の遭難
  7. 救助を待つのをやめた|尾部探索・無線の失敗・アンデス脱出への準備
  8. パラードとカネッサはどうアンデスを越えたのか|10日間の徒歩脱出
  9. 72日間の終わり|571便の16人はどう救助されたのか
  10. 『雪山の絆』はどこまで史実か|実在人物・記録・『生きてこそ』との違い

今回出てきた言葉

人肉食/anthropophagy
人間が人間の身体組織を食べること。本件では、食料を得るために人を殺したのではなく、すでに死亡していた人々の身体を生存のために利用したという事実関係を区別して扱う必要がある。
聖体拝領
キリスト教、特にカトリックにおける重要な儀式。571便の一部生存者は、最後の晩餐でキリストが自らを分け与えたという宗教的イメージを、自分たちの状況を理解するための一つの枠組みとして用いた。
ロベルト・カネッサ
事故当時19歳の医学生。負傷者対応に関わり、後にナンド・パラードとアンデスを徒歩で越えた。食料問題についても、後年詳しい証言を残している。
フランシスコ・「パンチョ」・デルガド
571便の生存者。1972年12月28日にモンテビデオで開かれた記者会見で、食料として死者の身体を利用したことと、その宗教的な意味づけについて説明した。
Stella Maris
モンテビデオの学校。生存者の多くと関係が深く、1972年12月28日の帰国後の記者会見が行われた場所でもある。

出典・参考資料

本記事では、人間の身体を食料として利用した事実を隠さず扱う一方、残虐描写や身体部位の詳細を記事の価値にはしていません。生存者が食料として利用し始めた正確な日付や個々人が受け入れた時期については資料・証言によって表現差があるため、本文では一つの日付へ固定していません。また「anthropophagy」と「cannibalism」の用語差については、ロベルト・カネッサ本人の説明を紹介したものであり、普遍的な学術定義として断定するものではありません。

墜落16日後、雪崩が機体を埋めた|8人が死亡した第二の遭難

航空事故

1972年10月29日。

ウルグアイ空軍571便がアンデス山中へ墜落してから16日が経っていた。

生存者たちは、壊れた胴体をシェルターへ変え、雪から水を作り、限られた防寒材を使いながら生活を続けていた。

食料についても、すでに通常なら考えられない決断を迫られていた。

事故直後の混乱とは違い、機内には少しずつ生活の仕組みができつつあった。

しかし、その避難場所そのものが一夜で危険な空間へ変わる。

山から流れ落ちた大量の雪が胴体を直撃し、内部へ流れ込んだ。

眠っていた生存者たちは雪の下へ埋まり、8人が死亡した。

それまで彼らを風と寒さから守っていた機体は、今度は雪で塞がれた閉鎖空間となった。

第6回では、墜落16日後に起きた雪崩が、なぜ「第二の遭難」と呼べるほど重大だったのかを追う。

この記事で分かること

  • 雪崩はいつ発生したのか
  • なぜ胴体の内部まで雪が入り込んだのか
  • 何人が死亡したのか
  • 雪の下に埋まった人々をどう救出したのか
  • なぜ機内の空気まで危険になったのか
  • 生存者はどのように外気を確保したのか
  • 雪崩後、なぜすぐ機外へ出られなかったのか
  • この出来事が「救助を待つ」という戦略をどう変えたのか

CASE FILE 30

ウルグアイ空軍571便アンデス遭難特集|全10回

  1. ウルグアイ空軍571便アンデス遭難とは?|45人を乗せた飛行機と16人が生還した72日間
  2. なぜ571便はアンデスに墜落したのか|飛行経路と「クリコ通過」誤認
  3. 墜落地点はどこだったのか|地図で見るアンデスの谷と捜索の死角
  4. 零下の機体でどう生き延びたのか|水・防寒・負傷者治療・役割分担
  5. 食料が尽きたとき、なぜ死者の肉を食べる決断をしたのか|飢餓と生存の選択
  6. 墜落16日後、雪崩が機体を埋めた|8人が死亡した第二の遭難 【現在の記事】
  7. 救助を待つのをやめた|尾部探索・無線の失敗・アンデス脱出への準備
  8. パラードとカネッサはどうアンデスを越えたのか|10日間の徒歩脱出
  9. 72日間の終わり|571便の16人はどう救助されたのか
  10. 『雪山の絆』はどこまで史実か|実在人物・記録・『生きてこそ』との違い

まず結論|雪崩は「生存者の家」をそのまま埋めた

571便の雪崩が致命的だった最大の理由は、生存者たちが屋外にいたからではない。

むしろ、ほぼ全員が胴体の中にいた。

それまでの16日間、この胴体は生存の中心だった。

風を防ぐ。

夜の寒さを少しでも和らげる。

負傷者を横たえる。

わずかな物資を保管する。

集団で身体を寄せ合う。

外よりは安全だと考えられる唯一の場所だった。

ところが大量の雪が機体へ流れ込むと、その利点が逆転した。

出口が限られた胴体内部は、雪から逃げる空間ではなく、雪と人間を閉じ込める容器になった。

10月29日、事故から16日目

Museo Andes 1972は、事故から16日後に雪崩が生存者全員を埋め、8人が窒息死したと記録している。

National Geographicも、この出来事を1972年10月29日の重大な転換点として整理している。

資料によって発生時間の細かな表現には差があるため、本記事では特定の時刻へ固定しない。

重要なのは、この時点ですでに事故から2週間以上が経過していたことである。

生存者たちは墜落直後の状態から、少しずつ生活を組み立てていた。

そして捜索打切りを知り、自分たちだけで長期間生きなければならない可能性も理解し始めていた。

その段階で雪崩が発生した。

現場は雪崩と無関係な平地ではなかった

第3回で見たように、571便の胴体は周囲を山に囲まれた雪上に停止していた。

現在の地形や後年の再構成では、機体の近くには急斜面から雪が集まりやすい谷筋が存在していたことが分かっている。

しかし1972年の生存者たちは、そこを雪崩危険箇所として評価するための詳細な地形図や積雪情報を持っていたわけではない。

そもそも、危険だと分かったとしても移動先がない。

テントも山小屋もなく、負傷者もいる。

機体を捨てて雪上で夜を過ごす方が、低体温症などの危険を大きくする可能性がある。

つまり、雪崩の危険が存在したとしても、

「機体から離れれば安全」という単純な選択肢はなかった。

音が聞こえた直後、胴体内部へ雪が流れ込んだ

生存者ホセ・ルイス・インチアルテは、後年の証言で、雪崩が来る直前に巨大なものが迫ってくるような音を聞いたと振り返っている。

そして立ち上がろうとした直後、機体内部が大量の雪に飲み込まれた。

その速度は、人々が順番に出口から避難できるようなものではなかった。

雪は胴体内へ入り、人間の身体の周囲へ圧縮された。

寝ていた位置によっては、身体を動かすことすらできない。

一瞬前まで同じ場所で眠っていた集団が、雪の中で互いの位置さえ分からない状態になった。

雪崩で恐ろしいのは「雪の重さ」だけではない

雪崩事故については、「大量の雪に押し潰される」というイメージが強い。

もちろん衝撃や圧力は危険である。

しかし571便では、8人の死因として特に重要だったのが窒息だった。

Museo Andes 1972も、雪崩による8人の死亡をasphyxiation、つまり窒息としている。

雪崩の雪は、軽い新雪が身体の上へふわりと積もるのとは違う。

流動した雪が停止すると、密度の高い雪塊となって身体を拘束することがある。

顔の周囲に空気の空間がなければ呼吸できない。

さらに胴体内部そのものが大量の雪で満たされたことで、機内に残る空気にも限界が生じた。

ホセ・ルイス・インチアルテは足元の空間から呼吸できた

インチアルテ自身も雪の下へ埋まった。

彼の証言では、近くにいたフィト・ストラウチの足が顔の上にあり、その周辺にわずかな空気の空間ができていた。

それによって完全に呼吸を塞がれずに済んだ。

しかし酸素は十分ではなかった。

雪の中で身体は動かせず、呼吸も難しくなる。

彼は意識が遠のくほどの状態になったという。

その後、周囲の人々がフィトを掘り出したことで空間が広がり、インチアルテも呼吸を取り戻した。

この証言からも、雪崩時の生死が、身体の周囲に偶然できた数cm単位の空気空間によって左右されたことが分かる。

ロイ・ハーレイが立っていたことが救助につながった

後年の事故再構成では、雪崩の音を聞いたロイ・ハーレイが立ち上がっていたため、ほかの人々より雪上へ近い位置に残ることができたとされている。

彼を含む動ける者が雪を掘り、まず近くの生存者を救出した。

一人が出れば、今度は二人で掘れる。

二人が三人を救えば、さらに作業する手が増える。

このように、救出できた人間が次の人間を掘り出す形で救助が進んだ。

雪崩救助で時間が重要なのは、571便でも同じだった。

ただし彼らには雪崩ビーコンも、スコップも、救助隊もない。

手や機内にある物を使って雪を掘るしかなかった。

ナンド・パラードも約30分、雪の中に閉じ込められた

ナンド・パラードも雪に埋まった一人だった。

後年の証言では、彼は身体を動かせない状態でありながら、呼吸できるだけのわずかな空間が残っていた。

救出されるまで約30分ほど雪中にいたとされる。

この段階でパラードは、墜落事故、母親と妹の死に続いて、さらに雪崩を経験したことになる。

のちにアンデス横断を実行する人物も、この夜には自分自身が救出される側だった。

8人が死亡し、残ったのは19人になった

雪崩発生時、胴体内には27人が残っていたとする生存者証言・後年資料がある。

そのうち8人が死亡した。

生き残ったのは19人だった。

45人で出発した571便は、墜落後の負傷や死亡を経て、雪崩の時点でさらに人数を減らした。

段階 人数の推移
モンテビデオ出発時 45人
墜落直後 多数が生存したが、事故・負傷により死亡者が発生
雪崩発生時 27人が胴体内にいたとする証言
雪崩による死亡 8人
雪崩後 19人
最終的な生存者 16人

最終的な16人になるまでには、この後もさらに3人が負傷や衰弱などにより死亡する。

つまり雪崩が最後の犠牲者を出した出来事ではなかった。

雪崩が止まっても「助かった」とは言えなかった

雪の中から掘り出された人々には、すぐ別の問題が発生した。

胴体そのものが雪に埋まっていたのである。

National Geographicによるナンド・パラードらの証言を基にした再構成では、胴体内部は大量の雪で満たされ、人々は立ち上がることすら難しい状態だった。

外では吹雪が続いていた。

機体から出るために雪を掘っても、その先に安全な場所があるわけではない。

しかも内部には19人がいる。

人間が呼吸すれば、酸素を消費し二酸化炭素を排出する。

胴体が雪によって密閉に近い状態になれば、次に問題になるのは空気だった。

ナンド・パラードは機体上部に穴を開けた

雪崩の直後、生存者は胴体内部へ外気を入れる必要があることに気づいた。

後年の証言では、パラードが機内の金属製の棒を利用して上方の雪を突き抜き、外気へ通じる穴を作ったとされる。

この穴は、ただ外を見るためのものではない。

閉鎖された胴体内部に、新しい空気を取り込むための換気口だった。

第4回では、機体の残骸を壁、防寒材、水づくりの設備へ変えていったことを見た。

雪崩後には、今度は機体に換気という新しい機能を作らなければならなくなった。

雪の中で数日間を過ごした

雪崩が収まっても、すぐに通常の生活へ戻ることはできなかった。

外では悪天候が続き、胴体は雪に閉じ込められている。

後年資料では、この状態が数日間続いたとされている。

資料によって「3日」「4日」など表現に差があるため、本記事では正確な日数を一つに固定しない。

確実なのは、生存者たちが雪崩直後に機体を完全に掘り出して自由に外へ出られたわけではないことである。

狭い内部に生存者と亡くなった仲間が残り、換気孔を確保しながら天候の回復を待つ必要があった。

すでに過酷だった生活環境が、さらに狭く、暗く、不衛生なものへ変化した。

それまでの「住居」が半分雪で埋まった

雪崩前の胴体内部は快適ではなかった。

それでも人が横になり、物資を置き、作業できる空間は存在していた。

雪崩後にはその有効容積が大きく失われた。

これは単なる不便ではない。

同じ人数がより小さな空間へ押し込められることになる。

水を作る作業も、負傷者の世話も、休息も難しくなる。

さらに雪を排除するには体力を使う。

食料不足で衰弱している人々にとって、雪かきそのものが大きなエネルギー消費だった。

「機体にいれば安全」という前提が崩れた

雪崩の前まで、生存者にとって胴体は最も合理的な待機場所だった。

外へ出れば寒い。

どこへ歩けば人里へ着くか分からない。

負傷者もいる。

そのため機体付近で救助を待つことには合理性があった。

しかし雪崩は、その前提へ直接的な疑問を突きつけた。

今いる場所そのものが、再び大量死を引き起こす可能性がある。

捜索はすでに打ち切られている。

上空を飛んだ航空機にも発見されなかった。

食料もない。

そしてシェルターさえ完全には安全ではない。

ここで「救助が来るまで耐える」という戦略の弱点が一気に明確になった。

雪崩は生存者集団そのものも変えた

571便の72日間では、人間関係や役割分担も固定されていたわけではない。

誰かが死亡すれば、その人が担っていた機能を別の人が引き継がなければならない。

雪崩では、一度に8人が失われた。

これは人数が減ったというだけではない。

それまで一緒に生活し、作業し、判断してきたメンバーが突然いなくなったことを意味する。

残った19人は、さらに少ない人数で水づくり、負傷者対応、機体の整理、探索などを続ける必要があった。

そして時間が経つにつれ、外へ出られる体力を持つ人間を遠征へ回す必要性も高まっていく。

雪崩後、「歩いて出る」という考えがさらに現実味を帯びる

Museo Andes 1972は、雪崩の説明に続いて、生存者たちが「生きて出ることは完全に自分たち次第だ」と理解し、複数の遠征を組織したと記している。

もちろん、自力脱出という発想が雪崩の翌日に突然生まれたわけではない。

それ以前にも周囲への探索は行われていた。

しかし雪崩によって、待機戦略の危険性がさらに大きくなった。

そこで問題は、

「救助隊がいつ来るか」

ではなく、

「自分たちがどうすれば外部へ到達できるか」

へ徐々に移っていく。

ただ歩き始めればよかったわけではない

ここで注意したいのは、雪崩の後にすぐ「みんなで山を下りればよかった」と考えないことである。

第3回で確認した通り、現場から見えるのは山と谷だった。

正確な現在位置も分からない。

登山用の地図もない。

十分な防寒着もない。

夜を山中で越すための寝袋もない。

そして全員が長距離を歩ける状態ではなかった。

したがって自力脱出には、

  • どちらへ進むか
  • 誰が行くか
  • 何日分の食料を持つか
  • 夜の寒さをどうしのぐか
  • 途中で戻る基準をどうするか

といった準備が必要になる。

この準備が、次の段階で重要になる。

雪崩は「第二の事故」ではなく、遭難の性質を変えた出来事だった

571便の出来事を時系列で見ると、10月29日の雪崩は大きな境界線になる。

雪崩以前 雪崩以後
胴体は主な避難場所 胴体そのものにも致命的危険があると判明
救助への期待が残る 捜索打切り+雪崩で待機戦略への不安が増す
27人が生存 19人まで減少
周辺探索が中心 より長距離の遠征が必要になる
既存の生活環境を維持 雪で埋まった生活空間を再構築する必要

つまり雪崩は、墜落後に偶然追加されたもう一つの災害というだけではない。

「その場で生き残り続ける」遭難から、「その場を出る方法を作らなければならない」遭難へ変える出来事だった。

後知恵で「なぜ雪崩を予想しなかったのか」と責めることはできない

現在なら、雪山へ入る前に地形、積雪、天候、雪崩危険情報を確認することができる。

しかし571便の生存者は、自分たちの意思で登山へ入った人々ではない。

航空事故によって突然そこへ置かれた。

雪崩装備もない。

地形図もない。

天気予報もない。

現在位置さえ十分には分からない。

さらに、機体から離れれば寒さと風へ直接さらされる。

負傷者を連れて安全地帯まで移動する手段もない。

したがって事故後16日間そこに留まったことを、「危険な場所に居続けた判断ミス」と単純化することはできない。

利用可能な選択肢の中では、胴体内部に留まる合理性があった。

雪崩は、その合理的だった選択にも別の重大リスクが隠れていたことを示した。

まとめ|守ってくれた胴体が、16日後には生存者を閉じ込めた

1972年10月29日、ウルグアイ空軍571便の生存者たちが暮らしていた胴体を雪崩が襲った。

事故から16日後だった。

大量の雪が内部へ流れ込み、人々は圧雪の下へ埋められた。

生き残った者たちは互いを掘り出したが、8人を救うことはできなかった。

27人いた集団は19人になった。

雪崩後も危険は続いた。

機体は大量の雪に埋まり、内部空間は狭くなり、外気を確保するために雪を突き抜いて換気孔を作らなければならなかった。

悪天候のため、すぐに機外生活へ戻ることもできなかった。

それまで胴体は、風、低温、雪から人間を守る最大の設備だった。

しかし雪崩によって、

「ここにいれば生きられる」という前提そのものが崩れた。

すでに公式捜索は打ち切られている。

食料もない。

今いる場所も安全ではない。

残された選択肢は、次第に一つへ近づいていった。

自分たちで外へ出ることである。

ただし、アンデスを歩いて越えるには準備が必要だった。

生存者たちは機体周辺を探索し、やがて離れた場所に落ちていた尾部を発見する。

そこには荷物だけでなく、航空機のバッテリーも残されていた。

もし無線を動かせれば、山を歩いて越える必要はないかもしれない。

次回は、尾部探索、無線通信の復旧失敗、寝袋の製作、そして最終遠征へ向けた準備を追う。


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第5回|食料が尽きたとき、なぜ死者の肉を食べる決断をしたのか|飢餓と生存の選択

次の記事:

第7回|救助を待つのをやめた|尾部探索・無線の失敗・アンデス脱出への準備

特集全記事

  1. ウルグアイ空軍571便アンデス遭難とは?|45人を乗せた飛行機と16人が生還した72日間
  2. なぜ571便はアンデスに墜落したのか|飛行経路と「クリコ通過」誤認
  3. 墜落地点はどこだったのか|地図で見るアンデスの谷と捜索の死角
  4. 零下の機体でどう生き延びたのか|水・防寒・負傷者治療・役割分担
  5. 食料が尽きたとき、なぜ死者の肉を食べる決断をしたのか|飢餓と生存の選択
  6. 墜落16日後、雪崩が機体を埋めた|8人が死亡した第二の遭難 【現在の記事】
  7. 救助を待つのをやめた|尾部探索・無線の失敗・アンデス脱出への準備
  8. パラードとカネッサはどうアンデスを越えたのか|10日間の徒歩脱出
  9. 72日間の終わり|571便の16人はどう救助されたのか
  10. 『雪山の絆』はどこまで史実か|実在人物・記録・『生きてこそ』との違い

今回出てきた言葉

雪崩
斜面上の雪が大量に流下する現象。571便では10月29日に胴体を直撃し、8人が窒息死した。
圧雪
雪が圧力によって高密度になった状態。雪崩では流動した雪が停止後に身体を強く拘束し、呼吸や脱出を困難にすることがある。
エアポケット
雪などに埋没した際、顔の周囲に残る空気の空間。571便でも、生存者の証言から、偶然残った小さな空間が呼吸を可能にした例が確認できる。
ロイ・ハーレイ
571便の生存者の一人。後年の再構成では、雪崩直前に立っていたことが、雪中から生存者を掘り出す初期段階で重要だったとされる。
ホセ・ルイス・インチアルテ
571便の生存者。後年、雪崩で圧雪下に埋まり、わずかな空気空間によって呼吸できた経験を詳しく証言している。

出典・参考資料

本記事では、Museo Andes 1972と生存者本人の証言を優先し、雪崩発生の詳細を再構成しています。雪崩の発生時刻、胴体内に閉じ込められていた期間などは資料によって細かな差があるため、「16日後」「10月29日」「数日間」と、複数資料で整合する範囲を中心に記述しました。また雪崩を引き起こした具体的な気象上のトリガーについては、本記事で確認した資料だけでは一つに確定できないため断定していません。

救助を待つのをやめた|尾部探索・無線の失敗・アンデス脱出への準備

航空事故

ウルグアイ空軍571便の生存者たちは、墜落した機体の中で救助を待ち続けていたわけではない。

事故直後から周辺への探索は行われていた。

そして10日目にはラジオで捜索打切りを知り、16日後には雪崩によって8人が死亡した。

「ここにいれば、いつか誰かが見つけてくれる」

その前提は少しずつ崩れていった。

それでも、すぐにアンデスを徒歩で越えられたわけではない。

問題は方向だけではなかった。

標高約3,700mの雪山を何日も歩くには、夜を越す方法、食料、衣類、体力が必要になる。どちらへ進めば人里へ出られるのかも確実には分からない。

そこで生存者たちは、まず周囲を探索した。

その過程で発見されたのが、墜落時に胴体から切り離され、別の場所へ落ちていた571便の尾部だった。

尾部には荷物、衣類、わずかな食料、そして航空機のバッテリーが残されていた。

もし機体の無線機を動かすことができれば、自分たちが山を越える必要はない。

生存者たちは再び救助を呼ぶ可能性へ賭けた。

しかし、その試みも失敗する。

そして最後に残ったのが、人間自身がアンデスを歩いて越える方法だった。

第7回では、尾部探索、無線復旧の失敗、寝袋の製作、最終遠征者の選定までを追う。

この記事で分かること

  • なぜ生存者たちは機体から遠くへ探索を始めたのか
  • 切り離された尾部には何が残っていたのか
  • なぜ航空機の無線を使って救助を呼ぼうとしたのか
  • なぜバッテリーを胴体まで運ばなかったのか
  • ロイ・ハーレイは無線復旧でどんな役割を担ったのか
  • なぜ無線復旧は失敗したのか
  • 徒歩脱出最大の問題が「夜」だった理由
  • 即席の大型寝袋をどう作ったのか
  • なぜ最終的にパラード、カネッサ、ビシンティンの3人が出発したのか

CASE FILE 30

ウルグアイ空軍571便アンデス遭難特集|全10回

  1. ウルグアイ空軍571便アンデス遭難とは?|45人を乗せた飛行機と16人が生還した72日間
  2. なぜ571便はアンデスに墜落したのか|飛行経路と「クリコ通過」誤認
  3. 墜落地点はどこだったのか|地図で見るアンデスの谷と捜索の死角
  4. 零下の機体でどう生き延びたのか|水・防寒・負傷者治療・役割分担
  5. 食料が尽きたとき、なぜ死者の肉を食べる決断をしたのか|飢餓と生存の選択
  6. 墜落16日後、雪崩が機体を埋めた|8人が死亡した第二の遭難
  7. 救助を待つのをやめた|尾部探索・無線の失敗・アンデス脱出への準備 【現在の記事】
  8. パラードとカネッサはどうアンデスを越えたのか|10日間の徒歩脱出
  9. 72日間の終わり|571便の16人はどう救助されたのか
  10. 『雪山の絆』はどこまで史実か|実在人物・記録・『生きてこそ』との違い

救助を待つだけでは生き残れない

571便の生存者たちが自力脱出を考える理由は、一つではなかった。

出来事 意味
墜落 道路も集落もないアンデス山中へ孤立
捜索機が発見できない 上空から見つけてもらうことが難しいと判明
10日目に捜索打切りを知る 救助を待つ前提が崩れる
食料枯渇 長期間その場へ留まるほど身体が衰弱
10月29日の雪崩 胴体そのものも絶対安全ではないと判明

Museo Andes 1972は、雪崩後について、生存者たちが「そこから生きて出られるかどうかは自分たち次第だ」と理解し、グループとして複数の遠征を組織したと記録している。

つまり「パラードとカネッサが突然山を歩き始めた」のではない。

最終的な脱出は、それまで何度も行われた探索と失敗の延長線上にある。

最初から「西へ行けばチリ」と確信していたわけではない

地理的には、チリは事故地点の西側にある。

しかし、生存者たちは自分たちの正確な位置を知らなかった。

さらに571便の乗員は墜落前、「クリコを通過した」という誤った位置認識を持っていた。

その情報を聞いていた生存者の一部は、自分たちがすでにアンデスの西端に近いと考えていた。

もしその認識が正しければ、西側の山を一つ越えればチリの低地へ出られる可能性がある。

しかし確証はない。

そこで東側や周辺への探索も行われた。

「どちらへ歩くべきか」という問題自体が、まだ解決していなかったのである。

11月中旬、切り離された尾部を発見した

11月中旬、ナンド・パラード、ロベルト・カネッサ、アントニオ・「ティンティン」・ビシンティンらが事故地点から離れて探索を行った。

パラードの回想では、11月17日の探索中、彼らは雪の向こうに571便の尾部を発見した。

墜落時、機体後部は胴体前部とは別の位置へ飛ばされていた。

そこには、彼らにとって大量の「資源」が残っていた。

スーツケース。

衣類。

タバコ。

少量の食料。

薬品類。

雑誌や漫画。

そして、航空機のバッテリー。

ABC Newsが50周年に合わせて公開した資料写真にも、尾部付近で無線復旧を試みるロイ・ハーレイ、ロベルト・カネッサ、アントニオ・ビシンティンの姿が残されている。

これは後世に作られた場面ではなく、遭難中に撮影された実際の記録である。

尾部は「物資補給所」になった

尾部発見の価値は、単に荷物が見つかったことではない。

それまで生存者たちは、胴体周辺に残った物だけで生活していた。

尾部には、墜落時に離れた別の物資群が残っていた。

尾部周辺で得られたもの 意味
衣服 防寒状態を改善
少量の食品・飲料 一時的な栄養補給
荷物 素材・道具として利用可能
機体断熱材 後の大型寝袋の材料
バッテリー 無線機復旧への期待

特に大きかったのがバッテリーだった。

それまで機首側に残った航空機の無線機は、送信できる状態ではなかった。

しかし電源が確保できれば、サンティアゴなどへ遭難を知らせられるかもしれない。

それが成功すれば、人間が山を越える必要はなくなる。

「無線が使えれば、すべて終わる」

徒歩脱出は非常に危険だった。

生存者たちはすでに、短い探索でも夜の寒さが致命的になることを経験していた。

屋外で一晩過ごせば、それだけで凍死する可能性がある。

だからこそ無線復旧は試す価値があった。

アンデスを歩いて越えるより、機体に残された通信設備を利用する方がはるかに合理的である。

問題は、バッテリーが重かったことだった。

バッテリーを胴体まで運べなかった

後年の資料では、尾部にあったバッテリーは1個あたり約24kgだったとされる。

単純な平地なら、複数人で運ぶことも考えられる重量である。

しかし現場は違う。

尾部から胴体へ戻るには、深い雪の斜面を上らなければならない。

生存者自身がすでに極端に痩せ、数週間にわたる食料不足と高地生活で消耗している。

パラードの回想では、バッテリーを簡易的なそりに載せて動かそうとしたものの、雪へ沈み、運搬は現実的ではないと判断した。

そこで発想を逆転させた。

バッテリーを無線まで運べないなら、無線をバッテリーまで持っていけばよい。

ロイ・ハーレイを連れて、再び尾部へ向かった

無線装置を扱うため、生存者の中で電気・電子機器に比較的詳しかったロイ・ハーレイが参加した。

ABC Newsが公開している遭難中の写真にも、ハーレイが尾部でカネッサ、ビシンティンとともに作業する姿が記録されている。

胴体側から無線関連機器を取り外し、尾部に残された電源へ接続する。

この試みには数日が費やされた。

もし送信できれば、

「571便の生存者がいる」

と外部へ知らせることができる。

72日間の遭難を終わらせる可能性があった。

しかし無線は動かなかった

結果として、遭難者たちは無線機を送信可能な状態へ戻すことができなかった。

後年の事故解説では、航空機の無線設備が要求する電源と尾部のバッテリー出力がそのままでは適合しなかったことなどが理由として説明されている。

ただし、この電気系統の細部については後年の二次資料による説明が多く、Museo Andes 1972の概要ページでは技術原因まで記載されていない。

重要なのは、彼ら自身が数日間試行しても送信手段を復旧できなかったという結果である。

これによって、もう一つの可能性が消えた。

救助方法 結果
上空の捜索機に発見される 失敗
公式捜索を待つ 打切りを知る
機体の無線からSOSを送る 復旧できず
その場で長期間待機する 食料不足・雪崩により危険
徒歩で人里へ到達する 残された現実的手段

「無線失敗」が徒歩脱出を現実の計画に変えた

それ以前にも、生存者たちは徒歩で助けを求める可能性を考えていた。

しかし無線が使える可能性が残っているなら、命を賭けて山へ入る理由は弱くなる。

無線復旧に失敗したことで、

「山を歩くかもしれない」

という選択肢が、

「山を歩かなければならない」

へ近づいていった。

それでも、すぐ出発することはできなかった。

最大の問題が残っていた。

徒歩遠征で最も危険だったのは「夜」だった

昼間は身体を動かしている。

太陽もある。

そのため、条件がよければ山を歩くこと自体はできる。

しかし日が沈めば状況は変わる。

気温が急激に下がり、強い風が吹く。

胴体周辺なら機体の中へ戻れる。

長距離遠征では戻れない。

テントはない。

山小屋もない。

登山用寝袋もない。

雪上で身体を停止させたまま数時間眠れば、低体温症で死亡する危険がある。

実際、尾部を発見した探索でも、屋外で夜を過ごした際に極端な寒さを経験していた。

つまり最終遠征を成立させるために必要だったのは、「歩く道具」より先に夜を生き延びる道具だった。

尾部で見つけた断熱材が答えになった

尾部探索では、航空機に使われていた断熱材も回収されていた。

本来は航空機の設備を断熱するための材料だった。

生存者たちは、それを人間の保温へ使えないかと考えた。

ナンド・パラードの回想では、この断熱材を縫い合わせ、大人3人が一緒に入れるほど大きな袋状の寝具を作る案が生まれた。

通常の登山用寝袋を再現しようとしたのではない。

狙いは単純だった。

3人の体温を同じ断熱空間へ閉じ込める。

専用品がない571便では、またしても「必要な機能を別の物から作る」という方法が使われた。

大型寝袋は一人で作ったものではなかった

寝袋の製作には複数の生存者が関わった。

ABC Newsが公開した当時の写真では、胴体上でロベルト・カネッサとパンチョ・デルガドが寝袋を縫っており、その周囲にグスタボ・セルビーノ、フィト・ストラウチ、エドゥアルド・ストラウチ、ナンド・パラード、カルリトス・パエス、ハビエル・メトルらが写っている。

つまり、最終的に山へ出るのは3人でも、その装備は残る集団によって作られた。

ここでも571便の脱出は「英雄2人だけの行動」ではない。

水づくりや負傷者対応と同じように、脱出準備も集団作業だった。

徒歩脱出者には、より多くの資源を与える必要があった

山へ向かう者には体力が必要だった。

そのため、生存者たちは遠征候補者を通常より優先して扱う必要があった。

より多くの食料。

より良い衣服。

休息。

歩くための体力。

一見すると、限られた食料を一部の人だけに多く配るのは不公平にも見える。

しかし目的は個人を優遇することではない。

遠征者が人里へ到達できれば、機体に残る全員が救われる。

集団の限られた資源を、最も救助へつながる可能性がある場所へ集中させる判断だった。

誰が山へ行くのか

最終遠征に必要なのは、単純な筋力だけではなかった。

数日間、雪山を歩く体力。

食料不足へ耐えられる身体。

判断力。

途中で簡単に諦めない意志。

そして、ほかのメンバーと行動できること。

その候補の中心になったのがナンド・パラードとロベルト・カネッサだった。

パラードは早い段階から西の山を越えることを強く主張していた。

一方のカネッサは、無線復旧を含め、より安全な方法を可能な限り試そうとしていた。

二人は常に同じ考えだったわけではない。

むしろ、その違いが何度も議論を生んだ。

しかし最終的には二人とも、山から出なければ全員が死亡する可能性が高いという点で一致する。

アントニオ・ビシンティンも最終遠征へ選ばれた

最終的な出発メンバーは2人ではなかった。

最初に山へ向かったのは、

  • ナンド・パラード
  • ロベルト・カネッサ
  • アントニオ・「ティンティン」・ビシンティン

の3人である。

National Geographicも、3人が1972年12月12日に最終遠征を開始したことを確認している。

ビシンティンは後に途中から機体へ戻ることになる。

この判断は失敗ではない。

3人分の食料を2人へ集中させれば、パラードとカネッサがさらに先へ進める。

ビシンティン自身は戻って、機体に残る仲間へ状況を伝えられる。

それは第8回で詳しく扱う。

12月11日、最後の死亡者が出た

出発前日には、ヌマ・トゥルカッティが死亡した。

事故から約2か月。

事故直後を生き延びても、負傷、感染、衰弱によって少しずつ仲間が失われていた。

トゥルカッティの死によって、最終的に山から救助される16人が残った。

これ以上待てば、その16人も同じように一人ずつ死亡していく可能性がある。

時間には明確な限界があった。

1972年12月12日、3人が機体を離れた

墜落から約2か月後の12月12日。

ナンド・パラード、ロベルト・カネッサ、アントニオ・ビシンティンが西へ向けて出発した。

本格的な登山装備はない。

地形図もない。

GPSもない。

山岳経験もない。

持っているのは、重ね着した衣服、即席の道具、限られた食料、そして仲間たちが縫った大型寝袋だった。

The Guardianのパラード本人へのインタビューでは、彼はこの出発について、機体を離れて最初の一歩を踏み出した時点で「もう戻らない」と考えていたと振り返っている。

つまり今回は、それまでの探索とは性質が違う。

途中で状況を確認して帰るための探索ではない。

人間に会うまで進むための遠征だった。

彼らは「山を一つ越えれば終わる」と考えていた

出発時点で、3人はアンデスの本当の広さを理解していなかった。

571便の乗員が「クリコを通過した」と話していたことから、自分たちはチリ側に近いと考えていた。

目の前の西側の山を登れば、その向こうには緑の谷があるのではないか。

その想定があったからこそ、最初の装備と食料も有限だった。

しかし3日間かけて山を登り、パラードが高所から西側を見たとき、その想定が間違っていたことが分かる。

目の前には平地ではなく、さらに山が続いていた。

事故時の「クリコ通過」という位置誤認は、墜落を引き起こしただけではない。

約2か月後、自力脱出する生存者の距離感にも影響を残していた。

無線復旧の失敗は「無駄」だったのか

結果だけを知っていれば、無線機に数日費やさず、早く山を越えるべきだったようにも見える。

しかしこれは後知恵である。

徒歩でアンデスへ入れば、途中で凍死する可能性がある。

方向を間違えれば戻れない。

食料にも限界がある。

それに対して、無線が作動すれば現在地を外部へ伝えるだけで済む。

生存者の立場から見れば、危険な徒歩脱出の前に通信復旧を試みることには十分な合理性があった。

重要なのは、

一つの方法が失敗するたびに、次の方法へ切り替えていったこと

である。

571便では「正解」を最初から知っていた人はいない

後から時系列を見ると、

「西へ歩けばセルヒオ・カタランに会える」

という正解が存在していたように見える。

1972年の彼らには見えていない。

西へ行けば何があるか分からない。

東へ降りれば助かる可能性も考えた。

無線が直るかもしれない。

捜索が再開されるかもしれない。

どの方法も、実行してみるまで結果は分からなかった。

だから571便の自力脱出は、一つの大胆な決断だけで成立したのではない。

探索→失敗→情報更新→別の方法を試す、という過程を何度も繰り返した末に残った方法だった。

まとめ|「歩いて助けを呼ぶ」は最後に残った方法だった

雪崩後、生存者たちは複数の探索を続けた。

11月中旬には、墜落時に切り離された尾部を発見した。

そこには衣類、少量の食料、機体の材料、そしてバッテリーが残っていた。

バッテリーを使えば、航空機の無線から救難信号を送れるかもしれない。

しかし重いバッテリーを雪の斜面から胴体へ運ぶことは難しく、逆に無線装置を尾部へ運び、ロイ・ハーレイらが復旧を試みた。

結果として通信は復旧できなかった。

救助を待つ。

捜索機に見つけてもらう。

無線で助けを呼ぶ。

一つずつ可能性が消えていった。

最後に残ったのが、徒歩だった。

ただし、アンデスの夜をそのまま越えることはできない。

そこで尾部から回収した断熱材などを利用し、3人が一緒に入れる大型の寝袋を製作した。

食料や衣服も遠征者へ優先的に与えた。

そして1972年12月12日。

ナンド・パラード、ロベルト・カネッサ、アントニオ・ビシンティンの3人が機体を離れた。

墜落から61日目だった。

彼らが目指したのは西。

目の前の山を越えればチリへ出られると考えていた。

しかし、その山頂で見えた景色は予想とはまったく違っていた。

山の向こうにあったのは平地ではない。

さらにアンデスが続いていた。

次回は、3人がどのように山を登り、なぜビシンティンを戻し、パラードとカネッサの2人だけで進み続けたのか。そしてセルヒオ・カタランへ到達するまでの約10日間を追う。


前の記事:

第6回|墜落16日後、雪崩が機体を埋めた|8人が死亡した第二の遭難

次の記事:

第8回|パラードとカネッサはどうアンデスを越えたのか|10日間の徒歩脱出

特集全記事

  1. ウルグアイ空軍571便アンデス遭難とは?|45人を乗せた飛行機と16人が生還した72日間
  2. なぜ571便はアンデスに墜落したのか|飛行経路と「クリコ通過」誤認
  3. 墜落地点はどこだったのか|地図で見るアンデスの谷と捜索の死角
  4. 零下の機体でどう生き延びたのか|水・防寒・負傷者治療・役割分担
  5. 食料が尽きたとき、なぜ死者の肉を食べる決断をしたのか|飢餓と生存の選択
  6. 墜落16日後、雪崩が機体を埋めた|8人が死亡した第二の遭難
  7. 救助を待つのをやめた|尾部探索・無線の失敗・アンデス脱出への準備 【現在の記事】
  8. パラードとカネッサはどうアンデスを越えたのか|10日間の徒歩脱出
  9. 72日間の終わり|571便の16人はどう救助されたのか
  10. 『雪山の絆』はどこまで史実か|実在人物・記録・『生きてこそ』との違い

今回出てきた言葉

尾部
墜落時に胴体前部から分離した571便の後部。11月中旬の探索で発見され、衣類、荷物、機体材料、バッテリーなど重要な資源が残されていた。
ロイ・ハーレイ
571便の生存者。電気・電子機器について比較的知識があり、尾部で行われた無線装置復旧の試みに参加した。
即席寝袋
尾部から回収された航空機の断熱材料などを利用し、生存者たちが縫い合わせて作った大型寝具。最終遠征で夜間の低温から3人を守るための重要装備となった。
アントニオ・「ティンティン」・ビシンティン
571便の生存者。パラード、カネッサとともに1972年12月12日の最終遠征へ出発した。山を越えた後、食料を2人へ残して機体へ戻った。
最終遠征
1972年12月12日に始まった自力脱出。過去の探索と異なり、外部の人間へ到達して救助を呼ぶことを目的とした遠征だった。

出典・参考資料

Museo Andes 1972の公式概要は、雪崩後に複数の遠征が行われたことまでは確認できますが、尾部発見日、無線復旧作業、寝袋の具体的製作過程までは詳述していません。そのため本記事では、これらの細部についてナンド・パラード本人の回想録、生存者インタビュー、遭難中に撮影された写真を掲載するABC Newsなどを組み合わせています。無線が作動しなかった電気的な詳細については後年資料で115V交流/24V直流の不一致という説明が広く見られますが、公式概要で技術原因を直接確認できないため、本文では「電源仕様が適合しなかったと後年資料で説明される」と範囲を限定しています。

パラードとカネッサはどうアンデスを越えたのか|10日間の徒歩脱出

航空事故

1972年12月12日。

ウルグアイ空軍571便がアンデス山中へ墜落してから61日が経っていた。

ナンド・パラード、ロベルト・カネッサ、アントニオ・「ティンティン」・ビシンティンの3人が、壊れた胴体を離れた。

目的は探索ではない。

人間のいる場所まで歩き、機体に残る仲間のために救助を呼ぶことだった。

公式捜索はすでに打ち切られている。

無線機の復旧にも失敗した。

食料はなく、雪崩によって機体の安全性さえ否定された。

残された方法は、自分たちの足でアンデスから出ることだった。

しかし3人は、これから越える山脈の本当の広さを知らなかった。

彼らは「西側の山を越えればチリの低地へ出られる」と考えていた。

その想定は、出発から数日後に崩れる。

山頂へ立ったパラードの前に広がっていたのは、緑の谷ではなかった。

その先にも、山、山、山が続いていた。

戻るのか。

それとも、先に何があるか分からないまま進むのか。

第8回では、571便の72日間を終わらせることになる徒歩脱出を、12月12日の出発からセルヒオ・カタランとの接触まで追う。

この記事で分かること

  • なぜ最終遠征は3人で始まったのか
  • 3人はどのような装備でアンデスへ入ったのか
  • 最初の山を越えるのに何日かかったのか
  • 山頂でパラードが見たもの
  • なぜアントニオ・ビシンティンを機体へ戻したのか
  • パラードとカネッサが戻らず進んだ理由
  • 雪山から植物のある谷へどう環境が変わったのか
  • セルヒオ・カタランとどのように意思疎通したのか
  • 有名な「石に結びつけた手紙」は何だったのか
  • なぜ徒歩脱出の日数に9日・10日・11日という表記差があるのか

CASE FILE 30

ウルグアイ空軍571便アンデス遭難特集|全10回

  1. ウルグアイ空軍571便アンデス遭難とは?|45人を乗せた飛行機と16人が生還した72日間
  2. なぜ571便はアンデスに墜落したのか|飛行経路と「クリコ通過」誤認
  3. 墜落地点はどこだったのか|地図で見るアンデスの谷と捜索の死角
  4. 零下の機体でどう生き延びたのか|水・防寒・負傷者治療・役割分担
  5. 食料が尽きたとき、なぜ死者の肉を食べる決断をしたのか|飢餓と生存の選択
  6. 墜落16日後、雪崩が機体を埋めた|8人が死亡した第二の遭難
  7. 救助を待つのをやめた|尾部探索・無線の失敗・アンデス脱出への準備
  8. パラードとカネッサはどうアンデスを越えたのか|10日間の徒歩脱出 【現在の記事】
  9. 72日間の終わり|571便の16人はどう救助されたのか
  10. 『雪山の絆』はどこまで史実か|実在人物・記録・『生きてこそ』との違い

12月12日|3人は「帰るための探索」ではなく「戻らない遠征」へ出た

それ以前にも、生存者たちは機体周辺から何度も遠征していた。

尾部を発見し、荷物や衣類、バッテリーを回収した。

無線の復旧も試した。

しかし12月12日の遠征は、それまでとは違う。

途中まで行って様子を確認し、機体へ戻ることを前提とした探索ではなかった。

外部の人間へ到達するまで進むことを目的としていた。

出発したのは、

  • ナンド・パラード
  • ロベルト・カネッサ
  • アントニオ・「ティンティン」・ビシンティン

の3人だった。

彼らは専門の登山家ではない。

登山靴、ピッケル、アイゼン、テント、GPS、詳細な地形図といった現代の高所登山装備も持っていなかった。

衣服を何枚も重ね、機体から作った即席の装備を使い、仲間たちが縫った大型寝袋を持って出発した。

彼らが持っていた最大の装備は「3人用の寝袋」だった

徒歩脱出で最も危険だったのは、昼間の歩行だけではない。

夜である。

日が沈むとアンデスの気温は急激に低下する。

胴体から何kmも離れてしまえば、夜になっても機体へ戻れない。

そこで生存者たちは、尾部から回収した航空機の断熱素材などを利用して、3人が一緒に入れる大型の寝袋を作った。

一人ずつ別々に寝るのではなく、3人の身体から出る熱を一つの空間へ閉じ込める。

専用装備の代用品として作られたものだった。

この寝袋がなければ、何日にもわたる徒歩遠征は成立しなかった可能性が高い。

最初に目指したのは「西」だった

生存者たちは、チリが西側にあることは知っていた。

さらに墜落前、571便の乗員は「クリコを通過した」と話していた。

そのため生存者側には、自分たちはすでにアンデスの西端に近く、

目の前にある高い山を一つ越えれば、その先にはチリの低地がある

という認識があった。

第2回で見た、事故を引き起こした「クリコ通過」の位置誤認が、約2か月後にも影響していたことになる。

実際には、571便は考えていたよりはるかにアンデスの内側に墜落していた。

3人は最初の山だけで3日を使った

パラード本人の後年の証言によれば、彼らは最初の登りを14時間程度で終えられると考えていた。

実際には約3日かかった。

出発地点は標高約3,570m。

目標となった高所は約4,600m級だったとされる。

標高差だけでも約1,000mある。

しかも通常の登山道ではない。

深い雪へ足を取られ、身体は墜落から2か月間の飢餓で衰弱している。

高所では酸素も薄い。

The Guardianのパラードへの取材では、心拍が上がり、過呼吸に近い状態や脱水にも苦しんだと説明されている。

彼らは「救助を求めて山を歩いている」というより、

まず最初の山を登るだけで、生存限界に近い負荷を受けていた。

夜、3人は一つの寝袋へ入った

日没後は移動を続けられない。

3人は雪の上で即席寝袋へ身体を入れ、夜を越した。

パラードの証言では、最初の夜には水を入れていた容器が低温によって壊れるほど寒かった。

本格的なテントもなく、風を完全に遮る壁もない。

胴体内部にいたころ以上に、環境へ直接さらされている。

それでも戻らなかった。

出発前に何週間もかけて作った寝袋が、ようやく実際の意味を持った。

山頂へ立ったパラードは、そこで墜落原因を理解した

約3日後、パラードが先に高所へ到達した。

彼が期待していたのは、西側の低地だった。

山を一つ越えれば、緑の谷やチリの平地が見える。

そう考えていた。

しかし見えたのは、さらに続くアンデスだった。

西の地平線まで山々が連続している。

その瞬間、パラードは自分たちが考えていた場所とはまったく違う場所にいることを理解した。

後年のインタビューで、パラードは「自分たちは安全圏まで5kmほどだと思っていたが、実際には80kmほど離れていた」と振り返っている。

数字は測定方法によって変わるため概算として読む必要がある。

しかし重要なのは桁の違いである。

「山を一つ越える短い脱出」ではなかった。

本格的にアンデスの複数の谷と稜線を横断しなければならなかった。

徒歩脱出ルートを地図で見る


571便墜落地点からパラードとカネッサが歩いた経路を示す地図
571便墜落地点と、ナンド・パラード/ロベルト・カネッサが徒歩で進んだ経路を示す概略図。
緑の破線が徒歩ルート、黄色印付近がFAU 571の墜落地点。
出典:Wikimedia Commons「Volcan-tinguiririca.svg」、
Createaccount、CC BY-SA 3.0。
地図は後世に作成された概略図であり、徒歩距離や1972年当時の積雪状態を厳密に再現するものではない。

地図を見ると、事故地点から西へ単純な直線を進んだのではないことが分かる。

高い稜線を越え、その後は谷を利用しながら標高を下げ、人間が生活できる地域へ近づいていった。

現在なら地図上でルートを見ることができる。

1972年の彼らには、この完成図がなかった。

「戻るか、進むか」が最大の判断になった

山頂からさらに山が続いていると分かった時点で、合理的には撤退も考えられる。

想定していたより距離が長い。

持っている食料には限界がある。

身体も疲労している。

戻れば少なくとも胴体へたどり着ける可能性がある。

しかし戻った先に、救助の見込みはなかった。

無線は動かない。

捜索は終わっている。

食料も尽きている。

仲間は一人ずつ衰弱している。

パラードは西へ進むことを選んだ。

カネッサにも、一緒に進むよう求めた。

この場面は後世、「不屈の精神」の象徴として描かれることが多い。

しかし現実的に考えると、

戻ることにも安全な未来がなかった

という事情が大きい。

なぜビシンティンを戻したのか

3人の遠征には、もう一つ問題があった。

食料である。

当初想定していた距離よりも、はるかに遠くへ進まなければならないことが分かった。

3人で食料を分け続ければ、それだけ早く尽きる。

そこでアントニオ・ビシンティンが機体へ戻り、パラードとカネッサの2人が先へ進むことになった。

National Geographicは、出発から3日後にビシンティンが帰還したと整理している。

彼の食料を残る2人へ回せば、行動可能日数を延ばせる。

さらにビシンティンが機体へ戻れば、

「パラードとカネッサは先へ進んだ」

という情報を残る仲間へ伝えることができる。

ビシンティンの帰還は、遠征から脱落したという意味ではない。

限られた食料を2人へ集中させ、最終遠征を継続するための判断だった。

ここから、パラードとカネッサだけの遠征になった

2人になったパラードとカネッサは、西側へ進んだ。

ただし、二人の身体状態は同じではない。

パラードは比較的強い歩行能力を維持していた。

一方、カネッサは何度も疲労し、進むこと自体への不安を口にしたとされる。

それでも役割は一方向ではない。

カネッサは地形や進路について判断し、パラードと議論しながら進んだ。

パラード本人も後年、カネッサについて最良の同行者だったと評価している。

571便の徒歩脱出は、

「強いパラードが弱ったカネッサを引っ張った」

という単純な構図ではない。

二人が互いに判断を補いながら進んだ遠征だった。

雪しかなかった世界が少しずつ変わっていった

高所から下り始めると、周囲の景色に変化が現れた。

長い間、生存者たちが見てきたのは雪と岩だけだった。

しかし標高を下げていくと、流れる水が現れる。

さらに植物が現れる。

カネッサは後年、この変化を強く記憶している。

雪が消え、水と草が見えたことは、彼らにとって単なる風景の変化ではなかった。

植物が生えているということは、

人間や家畜が生活できる標高へ近づいている可能性がある

ということだった。

12月18日ごろ|流れる水へ到達した

HISTORYの再構成では、12月18日ごろに2人は流れる水へ到達し、その川沿いを進み始めた。

これは重要な変化だった。

山岳地帯で方向を決める場合、川を下流へたどることは、人間の生活圏へ近づく一つの手掛かりになる。

もちろん、すべての川をたどれば必ず集落へ着くわけではない。

しかし地図を持たない2人にとって、谷と水系は実際にたどれる地形上の線だった。

それまでの「山頂を目標に歩く」移動から、「谷を下る」移動へ変わっていく。

12月19日|人間が存在する痕跡が現れ始めた

環境がさらに変化すると、人間や家畜の痕跡が現れた。

後年の資料では、

  • 捨てられた缶
  • 馬具に関係する物
  • 家畜の糞

などを発見したとされる。

この中で最も重要なのは牛だった。

野生動物ではなく家畜がいるということは、その近くに人間がいる。

墜落から2か月以上。

パラードとカネッサは初めて、「人間の生活圏が近い」と判断できる証拠を目にし始めた。

12月20日|川の向こうに人がいた

12月20日。

2人はついに人間を目撃した。

相手はチリ人の牧畜民、セルヒオ・カタラン・マルティネスだった。

ただし「人を見つけた=救助完了」ではない。

両者の間には川が流れていた。

水量と流れがあり、簡単に渡れる状態ではなかった。

大声を出しても、水音によって会話が成立しない。

72日間の遭難を終わらせる直前に、今度は川を挟んで意思疎通できないという問題が発生した。

最初の日には、十分な会話ができなかった

パラードたちは、自分たちが遭難者であることを身振りなどで伝えようとした。

しかし川の音が大きく、言葉は相手まで届かない。

カタラン側も、対岸にいる痩せた2人が何者なのか分からない。

その日は十分な情報交換ができず、翌日に改めて接触することになった。

ここでも、映画のように「人を見つけた瞬間にすべて解決した」わけではない。

石に紙を結びつけて川を越えさせた

翌日、川の両岸から意思を伝えるための方法が使われた。

カタラン側から、紙と筆記具を石に結びつけるなどして対岸へ渡した。

パラードは、その紙へ自分たちの状況を書いた。

その手紙には、

  • 山へ墜落した飛行機から来たこと
  • 自分たちがウルグアイ人であること
  • 長期間歩いてきたこと
  • 機体には14人が残っていること
  • 彼らも負傷していること
  • 食料がないこと
  • 自分たちもこれ以上歩けないこと

などが記されていた。

この紙切れによって、571便の遭難は初めて外部社会へ具体的に伝わった。

「14人がまだ飛行機にいる」

この手紙で最も重要なのは、パラードとカネッサ自身の救助だけを求めていないことである。

機体には14人が残っている。

彼らは自力では山から出られない。

食料もない。

つまり2人の任務は、

「自分たちが山から脱出すること」

では終わらない。

機体の位置を救助側へ伝え、14人を救うこと

までが目的だった。

セルヒオ・カタランは8時間馬を走らせた

Museo Andes 1972によれば、事情を理解したセルヒオ・カタランは、最寄りの警察・カラビネーロスの拠点へ知らせるため、およそ8時間にわたり馬を走らせた。

現在の感覚なら、電話を一本かければ済むように思える。

しかし彼らが接触した場所もまた、すぐ近くに都市がある場所ではない。

パラードとカネッサが人間へ到達した後も、情報そのものを救助機関まで運ぶ必要があった。

セルヒオ・カタランは、その最後の区間をつないだ人物だった。

徒歩脱出は何日間だったのか

571便の資料を見ると、最終遠征について、

  • 9日
  • 10日
  • 10日と10夜
  • 11日

など異なる数字を見ることがある。

これは必ずしも、どれか一つが完全な誤りという意味ではない。

基準にする地点が違うからである。

基準 主な日付
3人が機体を出発 12月12日
ビシンティン帰還 出発から約3日後
カタランを最初に目撃 12月20日
手紙で状況が伝わる 12月21日ごろ
救助活動開始 12月22日

National Geographicは12月12日出発、12月20日にカタランを発見したと整理する。

Museo Andes 1972は「10日間と10夜」と説明する。

パラード本人へのThe Guardianの取材でも、約10日間、37マイル以上を歩いたとされている。

したがって本シリーズでは、一般的な呼称として「10日間の徒歩脱出」を使用する。

徒歩距離は「約60km」と考えてよいのか

The Guardianは、パラードとカネッサが10日間で37マイル以上、約60kmを歩いたと伝えている。

ただし徒歩距離も、資料によって数字が異なる。

地図上の直線距離と、実際に斜面を上り下りした歩行距離は同じではない。

また、後世に作られた脱出ルート地図についても、距離の算出方法について議論がある。

そのため本記事では、

「約60km前後とする資料があるが、厳密な総歩行距離は資料によって異なる」

と扱う。

彼らが「助かった場所」は山頂ではなかった

571便の徒歩脱出を山岳冒険として見ると、最初の4,600m級の高所へ到達した場面がクライマックスに見える。

しかし救助という意味では、山頂に着いても何も解決していない。

そこから先にある山々を見ただけだった。

本当に重要だったのは、

山を越えること。

谷へ下ること。

水を見つけること。

植物を見ること。

家畜を見ること。

そして最後に人間へ会うこと。

環境の変化を一つずつたどり、人間の生活圏へ近づいていったことである。

「アンデスを越えた」の意味

Museo Andes 1972は、パラードとカネッサが「徒歩でアンデス山脈を横断した」と説明している。

これは南米大陸のアンデス全体を東から西まで完全横断したという意味ではない。

事故地点から西側の高山域を越え、チリ側の人間が生活する地域へ徒歩で脱出したという意味である。

実際の地形は一本の稜線ではなく、複数の山、谷、川から構成されていた。

そのため「一つの山を越えた」という表現でも足りない。

なぜ2人は成功できたのか

結果だけを見れば、パラードとカネッサには驚異的な体力があったように見える。

しかし成功理由を「精神力」だけにすると、このシリーズで見てきた準備が消えてしまう。

要素 徒歩脱出に与えた意味
約2か月の探索経験 雪上移動の問題を事前に経験できた
尾部発見 衣類・材料を回収できた
大型寝袋 高所で夜を越えられた
遠征者への食料集中 長期間行動する体力を確保
3人→2人への変更 限られた食料を延命
谷・川を利用 人間の生活圏へ向かう地形上の手掛かりとなった
セルヒオ・カタラン 外部社会と救助機関をつないだ

最終遠征は、12月12日に突然始まったものではない。

10月から続けてきた失敗と工夫が、最後の10日間へ集約されたものだった。

パラード自身は「知らなかったから行けた」と振り返っている

後年、パラードは登山の専門家から興味深いことを言われたと話している。

もし出発前から、これほどの山岳地帯を歩かなければならないと正確に理解していたら、そもそも出発できなかったかもしれない。

彼らは無謀さを理解していなかったからこそ、最初の一歩を踏み出せたのではないか。

これは571便で繰り返される逆説でもある。

彼らが「山一つでチリへ出られる」と誤解していたことは、危険な認識だった。

しかし、その誤解があったからこそ徒歩脱出を現実的なものとして考えられた側面もある。

山頂で真実を知ったときには、すでに戻るより進むという判断が可能な場所まで来ていた。

セルヒオ・カタランは「偶然そこにいた人」だけではない

571便の話では、セルヒオ・カタランは「最後に偶然出会った牧畜民」と短く紹介されることがある。

しかし彼の役割は、ただ2人を発見したことではない。

川を挟んだ状態で意思疎通を試みた。

紙と筆記具を渡した。

事情を理解した。

食料を与えた。

そして救助機関へ知らせるため長時間馬を走らせた。

パラードとカネッサが約2か月かけて人間社会までつないだ最後の数kmを、カタランが引き継いだ。

彼が行動しなければ、機体に残る14人の救助はさらに遅れた可能性がある。

12月21日|571便の「生存」が外の世界へ届いた

カタランを通じてチリ当局へ連絡が届く。

そこで初めて、約2か月前に墜落し、死亡したと考えられていた571便について、

まだ16人が生きている

という事実が外部へ伝わった。

パラードとカネッサは自分たちの役割を終えたわけではない。

事故地点を地図上で正確に示す必要があった。

そして救助ヘリを14人のもとへ案内しなければならない。

72日間の遭難は、ここから最後の段階へ入る。

まとめ|山を越えたからではなく、人間まで情報を届けたから救助が始まった

1972年12月12日、ナンド・パラード、ロベルト・カネッサ、アントニオ・ビシンティンの3人が571便の胴体を離れた。

彼らは、目の前の山を越えればチリの低地へ出られると考えていた。

しかし最初の高所へ到達するだけで約3日を要した。

そして山頂から見えたのは、さらに続くアンデスだった。

想定していたより遥かに遠い。

そこで3人分の食料を2人へ集中させるため、ビシンティンが機体へ戻った。

パラードとカネッサは西へ進み続けた。

高所の雪山を下り、やがて流れる水、草、家畜と、人間の生活を示す痕跡が増えていった。

12月20日、2人はチリ人のセルヒオ・カタランと接触した。

川の音によって会話できず、翌日、石に結びつけた紙を使って自分たちの状況を伝えた。

その紙には、最も重要な情報が書かれていた。

「飛行機には、まだ14人が残っている。」

セルヒオ・カタランは救助機関へ知らせるため馬を走らせた。

墜落から69日近く経って、571便の生存者の存在がついに外の世界へ届いた。

徒歩脱出を成功させたのは、パラードとカネッサだった。

しかし、その10日間を成立させたのは2人だけではない。

尾部を探した者。

無線を直そうとした者。

寝袋を縫った者。

遠征者へ食料を回した者。

途中で戻って2人へ物資を残したビシンティン。

そして最後に、外部社会へ情報を運んだセルヒオ・カタラン。

571便の脱出は、

「2人の英雄が山を越えた物語」であると同時に、残された集団が最後の2人を人間社会まで送り出した結果

でもあった。

次回は、手紙を受け取った後に何が起きたのかを見る。

チリ当局は571便の生存報告をどう受け止めたのか。

なぜ救助は12月22日と23日の2日間に分けられたのか。

そして14人は、72日間暮らした胴体をどのように離れたのか。


前の記事:

第7回|救助を待つのをやめた|尾部探索・無線の失敗・アンデス脱出への準備

次の記事:

第9回|72日間の終わり|571便の16人はどう救助されたのか

特集全記事

  1. ウルグアイ空軍571便アンデス遭難とは?|45人を乗せた飛行機と16人が生還した72日間
  2. なぜ571便はアンデスに墜落したのか|飛行経路と「クリコ通過」誤認
  3. 墜落地点はどこだったのか|地図で見るアンデスの谷と捜索の死角
  4. 零下の機体でどう生き延びたのか|水・防寒・負傷者治療・役割分担
  5. 食料が尽きたとき、なぜ死者の肉を食べる決断をしたのか|飢餓と生存の選択
  6. 墜落16日後、雪崩が機体を埋めた|8人が死亡した第二の遭難
  7. 救助を待つのをやめた|尾部探索・無線の失敗・アンデス脱出への準備
  8. パラードとカネッサはどうアンデスを越えたのか|10日間の徒歩脱出 【現在の記事】
  9. 72日間の終わり|571便の16人はどう救助されたのか
  10. 『雪山の絆』はどこまで史実か|実在人物・記録・『生きてこそ』との違い

今回出てきた言葉

最終遠征
1972年12月12日にパラード、カネッサ、ビシンティンの3人が開始した自力脱出。途中からパラードとカネッサの2人で継続した。
アントニオ・「ティンティン」・ビシンティン
最終遠征へ出発した3人の一人。想定以上に長距離の遠征が必要と判明したため、食料をパラードとカネッサへ残し機体へ戻った。
セルヒオ・カタラン・マルティネス
パラードとカネッサがチリ側で接触した牧畜民。川越しに2人の状況を知り、救助機関へ知らせるため長時間馬を走らせた。
セレル山/Mount Seler
最終遠征でパラードが到達した高所について後に使われる名称。パラードは父セレルにちなみ、その山を「Seler」と呼んだと回想している。
徒歩脱出の手紙
川を挟んでカタラン側と意思疎通するため、パラードが書いた短いメッセージ。機体に14人が残っていることなどを外部へ伝え、救助開始へ直接つながった。

出典・参考資料

最終遠征の日数と距離は資料によって表記差があります。National Geographicは12月12日出発・12月20日にセルヒオ・カタランを発見とし、Museo Andes 1972は「10日間と10夜」、The Guardianはパラード本人への取材をもとに10日間・37マイル以上としています。本記事ではこれらを踏まえ、シリーズタイトルでは一般的な「10日間の徒歩脱出」を採用しました。また掲載したWikimedia Commonsのルート地図は後世に作られた概略図であり、線の長さから徒歩総距離を直接算出する用途には使用していません。

72日間の終わり|571便の16人はどう救助されたのか

航空事故

1972年12月21日。

チリ中部の山間部に、一つの知らせが入った。

約2か月前にアンデス山中で消息を絶ったウルグアイ空軍571便について、

生存者がいる。

しかも2人だけではない。

ナンド・パラードがセルヒオ・カタランへ渡した手紙には、飛行機の場所にさらに14人が残っていると書かれていた。

墜落は10月13日。

公式捜索はすでに終了している。

571便の乗員・乗客は、外の世界ではほぼ死亡したものと考えられていた。

そこへ突然、

「16人が生きている」

という情報が戻ってきた。

しかし、これで救助が終わったわけではない。

パラードとロベルト・カネッサが人間のいる場所まで到達しても、14人はまだ標高約3,700mのアンデス山中にいる。

正確な事故地点へ救助ヘリを案内し、高地で着陸し、14人を運び出さなければならない。

しかも天候は安定していなかった。

第9回では、571便の72日間が実際に終わるまでの最後の3日間を追う。

この記事で分かること

  • セルヒオ・カタランの知らせがどう救助機関へ届いたのか
  • パラードとカネッサがいつ保護されたのか
  • なぜパラード自身が救助ヘリへ乗ったのか
  • 救助に使われたヘリコプター
  • なぜ一度に14人全員を運べなかったのか
  • 12月22日に何人が救助されたのか
  • なぜ7人がもう一晩機体へ残ったのか
  • 12月23日に72日間がどう終わったのか
  • 救助後、生存者たちはどのような状態だったのか
  • 救助直後から世界中の報道が集中した理由

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ウルグアイ空軍571便アンデス遭難特集|全10回

  1. ウルグアイ空軍571便アンデス遭難とは?|45人を乗せた飛行機と16人が生還した72日間
  2. なぜ571便はアンデスに墜落したのか|飛行経路と「クリコ通過」誤認
  3. 墜落地点はどこだったのか|地図で見るアンデスの谷と捜索の死角
  4. 零下の機体でどう生き延びたのか|水・防寒・負傷者治療・役割分担
  5. 食料が尽きたとき、なぜ死者の肉を食べる決断をしたのか|飢餓と生存の選択
  6. 墜落16日後、雪崩が機体を埋めた|8人が死亡した第二の遭難
  7. 救助を待つのをやめた|尾部探索・無線の失敗・アンデス脱出への準備
  8. パラードとカネッサはどうアンデスを越えたのか|10日間の徒歩脱出
  9. 72日間の終わり|571便の16人はどう救助されたのか 【現在の記事】
  10. 『雪山の絆』はどこまで史実か|実在人物・記録・『生きてこそ』との違い

まず時系列|徒歩脱出成功から全員救助まで

日付 出来事
12月20日 パラードとカネッサがセルヒオ・カタランらを川越しに発見
12月21日 手紙で571便と14人の存在を伝える。カタランが警察へ通報
12月21日夜 パラードとカネッサがチリ側で保護される
12月22日 救助ヘリが墜落地点へ到達。14人のうち7人を救助
12月23日 残る7人を救出。16人全員の救助完了

12月23日は、10月13日の墜落から72日目だった。

12月21日|一枚の手紙が警察へ届いた

前回見たように、パラードとカネッサは12月20日にチリ人の牧畜民セルヒオ・カタランらと接触した。

しかし両者の間には川があり、水音によって会話ができなかった。

翌21日、紙と筆記具を利用して意思疎通が行われた。

パラードが書いた手紙には、自分たちが墜落した飛行機から来たこと、10日間歩いてきたこと、そして機体には14人が残されていることが記されていた。

当時、地元紙『El Guerrillero』へ送られたラジオ報道の記録にも、この手紙の内容が残っている。

そこには、

「飛行機には14人が残っている。食料がない。弱っている。早く助けに来てほしい」

という趣旨が記されていた。

この時点で、事故から約70日間途絶えていた571便と外部社会の情報線がつながった。

セルヒオ・カタランは警察へ知らせに向かった

事情を理解したセルヒオ・カタランは、その場で救助機関へ電話をかけたわけではない。

そこもまた、山間の人里離れた場所だった。

カタランは救助を求めるため移動し、最終的にチリ警察のCarabinerosへ情報を届けた。

Museo Andes 1972では、カタランが救助を求めるため約8時間移動したと説明されている。

その後、Carabinerosとチリ陸軍などが動き始めた。

当時の現地報道によれば、12月21日13時30分ごろ、カタランがPuente Negroの警察拠点へ571便の情報を伝えた。

そこから事態は一気に動く。

「失われた飛行機に生存者がいる」というニュースが広がった

571便は10月の捜索で発見できなかった。

その後、乗客の家族の一部は独自に捜索を続けていたが、社会一般では生存の可能性はほとんどないと見られていた。

そこへ約2か月ぶりに生存報告が入った。

12月21日の現地報道記録を見ると、ウルグアイだけでなくニューヨークなど国外からも問い合わせが殺到している。

報道機関もSan Fernando周辺へ集まり始めた。

事故はこの瞬間から、

「行方不明になった航空機」から「70日以上生きている遭難者の救助作戦」

へ変わった。

パラードとカネッサも12月21日に保護された

手紙を届けた時点で、パラードとカネッサ自身も限界に近かった。

約10日間にわたって高地を歩き続け、事故以来の食料不足で大幅に体重を失っている。

当時の現地報道では、12月21日夜、Carabinerosと関係者によって2人が保護されたと記録されている。

2人は食事と医療的な支援を受けた。

しかし、パラードにとって仕事はまだ終わっていなかった。

救助側は墜落地点を知らない。

地図だけでは、571便を見つけられない

これは571便で繰り返された問題だった。

事故地点は現在なら緯度経度で示せる。

1972年の救助隊には、その座標がない。

パラードとカネッサ自身も、歩いてきたルートを正確な地図上で測量していたわけではない。

さらに現場は広大な雪山である。

以前の捜索機ですら、上空を飛びながら白い胴体を発見できなかった。

そこで必要になったのが、実際に現場から歩いてきた人間だった。

ナンド・パラードである。

12月22日|救助作戦が始まった

12月22日朝、チリ側では救助のための航空作戦が準備された。

チリ国立航空宇宙博物館の記録では、この救助に使用された主な機体は、

  • Bell UH-1H H-89
  • Bell UH-1H H-91

だった。

H-89はカルロス・ガルシア、H-91はホルヘ・マッサが操縦した。

さらにH-90が予備機として用意された記録も残っている。

救助隊にはチリ空軍の乗員だけでなく、医療関係者と山岳救助要員も加わった。

国立航空宇宙博物館は、

  • 看護将校ウィルマ・コック
  • セルヒオ・ディアス
  • オスバルド・ビジェガス
  • クラウディオ・ルセロ

らの参加を記録している。

天候は、最後まで571便の救助を妨げた

ヘリコプターを飛ばせば、すぐ事故地点へ向かえるわけではなかった。

12月22日も山岳地域には雲や霧があった。

当時の現地報道では、救助ヘリは午前9時30分ごろにSan Fernando側から出発したと記録されている。

しかし山岳飛行には視界と天候の問題がある。

後年の再構成では、霧が改善するまで待った後、パラードが救助ヘリに搭乗し、事故地点へ案内したとされている。

ここには一つの皮肉がある。

571便は、自分たちの位置を誤認したことで墜落した。

その約70日後、

現場から実際に歩いて出てきたパラード自身が、今度は正しい場所へ航空機を案内した。

パラードは再びアンデスへ戻った

パラードは10日間かけて山から出てきたばかりだった。

普通なら、二度と戻りたくない場所だったはずである。

しかし残る14人を救うには、事故地点を示す必要があった。

そのためパラードはヘリコプターへ乗った。

後年の資料では、事故機の飛行用地図も利用しながら、山と谷を見て位置を確認していったとされる。

徒歩では約10日かかった道のりを、今度は上空から逆方向へ戻っていく。

ヘリの操縦士たちは、パラードとカネッサが実際に越えてきた山岳地形を目の当たりにした。

一方、機体に残った14人はラジオを聞いていた

機体側の14人は、パラードとカネッサがどうなったのか知らなかった。

彼らが成功したという連絡手段もない。

遠征開始から日数だけが過ぎていく。

しかし12月21日から22日にかけて、持っていた小型ラジオから驚くべきニュースが流れた。

571便の生存者2人がチリ側で発見された。

それがパラードとカネッサだと分かった。

つまり、

最終遠征は成功した。

約2か月間、救助のニュースを待ち続けてきた14人にとって、初めて外部から確実な「救助が来る」という情報が届いた。

遠くからヘリコプターの音が聞こえた

12月22日午後。

機体に残る生存者たちのもとへ、ヘリコプターが近づいた。

墜落直後にも、彼らは上空の捜索機を見ている。

そのときは発見されなかった。

何度手を振っても、何をしても、航空機は去っていった。

今回は違う。

ヘリコプターは自分たちを探して飛んできている。

そしてその中には、ナンド・パラードが乗っていた。

救助ヘリは普通に着陸できなかった

事故現場は空港でも平坦な雪原でもない。

急斜面と高い山に囲まれた標高約3,700mの場所である。

高地では空気密度が低くなる。

ヘリコプターにとってはローターで得られる揚力やエンジン性能に影響し、搭載できる重量にも制約が生じる。

さらに事故地点には整地された着陸場所がなかった。

後年の救助記録では、機体を完全に着陸させることができず、斜面へ片側のスキッドだけを接地するような状態で救助を行ったと説明されている。

つまり、

「ヘリが来たので14人を乗せて帰った」

という簡単な作業ではなかった。

14人全員を一度に運ぶことはできなかった

高地での性能制限と搭載重量の問題から、一度に全員を運ぶことはできなかった。

12月22日の救助では、機体に残っていた14人のうち7人が山を離れた。

残る7人は、もう一晩事故地点へ留まることになった。

状況 人数
徒歩で外部へ到達 パラード、カネッサの2人
墜落地点に残っていた人数 14人
12月22日にヘリ救助 7人
その夜も山に残留 7人
12月23日に救助 残る7人
最終生存者 16人

誰を先に乗せるかという問題

救助ヘリに人数制限がある以上、誰かがその場に残らなければならない。

72日近く同じ場所で生活してきた人々にとって、もう一晩という時間は短いように見える。

しかしこの時点では天候が再び悪化すれば、翌日の救助が予定通り行える保証はない。

それでも一部の生存者は山へ残った。

後年資料では、複数の山岳救助隊員も残留し、最後の7人と一緒に夜を過ごしたとされている。

これは重要な変化だった。

前夜まで彼らは、外部社会から完全に孤立していた。

最後の夜には、初めて救助側の人間が同じ機体の中にいた。

12月22日の夜|「最後の一晩」

7人は、また胴体で夜を越した。

しかし、それまでの夜とは意味がまったく違う。

10月13日の最初の夜には、自分たちがどこにいるのかも分からなかった。

10月29日の雪崩の夜には、機体そのものが雪に埋まった。

11月には、無線の復旧にも失敗した。

12月12日には、3人を徒歩遠征へ送り出した。

そして12月22日の夜には、

救助隊がすでに隣にいる。

問題は「助かるかどうか」から、「明日ヘリが戻ってこられるか」へ変わっていた。

12月23日|ヘリコプターが再び戻った

翌23日朝、救助ヘリが事故地点へ戻った。

残されていた7人が機体を離れる。

これによって、墜落地点に生存者はいなくなった。

10月13日から数えて72日目。

45人を乗せて出発した571便から、最終的に16人が生還した。

571便の遭難は、この時点で初めて物理的に終了した。

72日間を数字にするとどうなるか

項目 内容
墜落 1972年10月13日
搭乗者 45人
雪崩 10月29日
最終遠征出発 12月12日
カタランと接触 12月20日
パラードらの情報が警察へ届く 12月21日
第1次ヘリ救助 12月22日
最終救助 12月23日
最終生存者 16人
死亡者 29人
遭難期間 72日

救助された16人は「健康だった」わけではない

16人が生還したという結果だけを見ると、彼らが比較的元気な状態で山から戻ったように感じるかもしれない。

実際には約2か月にわたる飢餓、高所、低温、負傷によって身体は大きく消耗していた。

救助後、生存者たちは医療機関で診察を受けた。

後年の救助資料では、

  • 脱水
  • 栄養失調
  • 凍傷
  • 骨折
  • 高地環境による身体への影響
  • ビタミン不足に関係する症状

などが確認されたとされている。

ロベルト・カネッサは、救助時には事故前から体重を大幅に失っていた。

「16人が72日間生きた」という事実と、「16人が健康な状態で生きた」はまったく違う。

救助を可能にしたのはヘリコプターだけではない

救助の最後だけを見ると、チリ空軍のヘリコプターが571便の生存者を救った事件に見える。

もちろん航空救助が決定的だったことは間違いない。

しかし救助が成立するまでの情報の流れを見ると、複数の人間が接続されている。

人物・組織 役割
パラード/カネッサ 徒歩でアンデスを越え、外部へ到達
アントニオ・ビシンティン 最終遠征に参加し、食料を2人へ残して帰還
セルヒオ・カタラン 手紙を受け取り、救助機関へ情報を運ぶ
Carabineros 2人を保護し、救助情報を行政・軍へ接続
チリ陸軍・関係機関 地上支援、医療、救助準備
チリ空軍 高地へヘリを投入して14人を空輸
山岳救助隊 現場救助と残留者支援

どこか一つが欠ければ、救助は成立しなかった可能性がある。

それでも「救助された」の前に「自分たちで発見させた」がある

571便の最大の特徴は、外部の捜索隊が偶然機体を発見して救助した事件ではないという点にある。

公式捜索はすでに打ち切られていた。

無線も動かなかった。

上空を飛んだ捜索機も、白い胴体を発見できなかった。

最後に救助システムを再起動させたのは、

遭難者自身が山から歩いて外へ情報を運んだこと

だった。

パラードとカネッサが生還したから14人が救助されたのではない。

2人が14人の存在と場所を伝えたから、ヘリが山へ向かうことができた。

「奇跡」という言葉だけでは救助の過程が消える

571便は後に「アンデスの奇跡」と呼ばれるようになった。

16人が72日後に生還したという結果を見れば、そう呼びたくなるのは理解できる。

しかし全9回を通して見ると、救助までには具体的な因果関係が存在する。

胴体が完全には破壊されなかった。

機体をシェルターへ変えた。

雪を水にした。

負傷者を支えた。

食料問題へ向き合った。

雪崩から生き残った。

尾部を探索した。

無線を直そうとした。

寝袋を作った。

3人を山へ送り出した。

2人が歩き続けた。

セルヒオ・カタランが情報を運んだ。

そしてチリ側がヘリコプターによる救助を実行した。

結果は「奇跡」と呼べても、

そこへ至る過程は、多数の判断と行動の連鎖だった。

山から出た直後、別の問題が始まった

12月23日で山岳遭難は終わった。

しかし571便の出来事そのものは終わらない。

16人が生きていたことは世界的なニュースになった。

そして報道機関が次に疑問を持った。

72日間、彼らは何を食べていたのか。

事故地点へ入った救助関係者が撮影した写真などから、死者の身体を食料としていた事実が報道され始める。

生存者たちは、山の中では生き延びるための判断を迫られた。

山を出た後には、

その判断を世界へ説明する

という問題へ直面する。

571便は映画・書籍の中で何度も作り直されてきた

571便の遭難は、その後さまざまな書籍、ドキュメンタリー、映画の題材になった。

特に広く知られているのが、

  • ピアーズ・ポール・リード『Alive』
  • 1993年映画『生きてこそ(Alive)』
  • パブロ・ビエルシ『La Sociedad de la Nieve』
  • 2023年公開/2024年Netflix配信で広く知られた映画『雪山の絆(Society of the Snow)』

である。

ただし映画は史料そのものではない。

実在人物を統合したり、時間を圧縮したり、出来事の順番を変えたりすることがある。

一方で『雪山の絆』は従来の作品と異なる人物へ焦点を当て、実際の生存者や遺族との関係を重視して制作されたことでも知られている。

最終回では、

『雪山の絆』は571便の実話をどこまで忠実に描いているのか。

そして1993年の『生きてこそ』とは何が違うのかを、今回までに確認した史実と照合する。

まとめ|72日間を終わらせたのは「発見」ではなく情報の到達だった

1972年12月20日、ナンド・パラードとロベルト・カネッサはセルヒオ・カタランと接触した。

翌21日、パラードの手紙によって、571便の機体に14人が残っていることが外部へ伝わった。

同日夜にはパラードとカネッサが保護され、救助作戦が準備された。

12月22日、チリ空軍のBell UH-1Hがアンデスへ向かった。

パラード自身も機体へ乗り込み、約10日かけて歩いてきた山岳地帯を上空から戻って事故地点へ案内した。

しかし高地と地形の条件から14人全員を一度には運べず、その日は7人を救助した。

残された7人は、救助隊員とともにもう一晩胴体で過ごした。

翌12月23日。

ヘリコプターが再び飛来し、最後の7人が山を離れた。

10月13日の墜落から72日目だった。

45人の搭乗者のうち、生きて帰ったのは16人。

571便は、捜索機によって発見されたのではない。

生存者自身が山を越え、情報を人間社会へ運び、その情報を受け取った人々が警察・軍・救助隊へつないだ。

そして最後にヘリコプターが14人を山から運び出した。

だから571便の72日間の終わりは、

「救助隊が彼らを見つけた瞬間」ではなく、「遭難者が救助システムへ自分たちの位置を届けることに成功した瞬間」から始まった

と考える方が実態に近い。

次回は最終回。

50年以上後、この出来事を再び世界的に知らしめた映画『雪山の絆』を、ここまで確認した史実と照合する。


前の記事:

第8回|パラードとカネッサはどうアンデスを越えたのか|10日間の徒歩脱出

次の記事:

第10回|『雪山の絆』はどこまで史実か|実在人物・記録・『生きてこそ』との違い

特集全記事

  1. ウルグアイ空軍571便アンデス遭難とは?|45人を乗せた飛行機と16人が生還した72日間
  2. なぜ571便はアンデスに墜落したのか|飛行経路と「クリコ通過」誤認
  3. 墜落地点はどこだったのか|地図で見るアンデスの谷と捜索の死角
  4. 零下の機体でどう生き延びたのか|水・防寒・負傷者治療・役割分担
  5. 食料が尽きたとき、なぜ死者の肉を食べる決断をしたのか|飢餓と生存の選択
  6. 墜落16日後、雪崩が機体を埋めた|8人が死亡した第二の遭難
  7. 救助を待つのをやめた|尾部探索・無線の失敗・アンデス脱出への準備
  8. パラードとカネッサはどうアンデスを越えたのか|10日間の徒歩脱出
  9. 72日間の終わり|571便の16人はどう救助されたのか 【現在の記事】
  10. 『雪山の絆』はどこまで史実か|実在人物・記録・『生きてこそ』との違い

今回出てきた言葉

Bell UH-1H
チリ空軍が571便の救助へ投入したヘリコプター。チリ国立航空宇宙博物館はH-89、H-91を中心とした救助作戦を記録している。
Servicio de Búsqueda y Salvamento Aéreo
航空機事故などに対応するチリ側の航空捜索・救助機能。571便では山岳救助要員や医療関係者と連携して救助を実施した。
Carabineros de Chile
チリの国家警察組織。セルヒオ・カタランから571便の生存情報を受け、パラードとカネッサの保護およびその後の救助連絡につないだ。
カルロス・ガルシア
571便救助に参加したチリ空軍パイロット。国立航空宇宙博物館の記録ではBell UH-1H H-89の指揮を担当した。
ホルヘ・マッサ
571便救助に参加したチリ空軍パイロット。H-91を担当した。
72日間
1972年10月13日の墜落から12月23日の最終救助までの期間。最終的に45人中16人が生還した。

出典・参考資料

571便の救助人数については、墜落地点に残っていた14人を12月22日と23日の2回に分けて救助したことは複数資料で一致しています。後年資料では22日に7人、23日に残る7人とされます。チリ国立航空宇宙博物館の公式ページは救助作戦全体と機体・乗員を詳しく記録する一方、各便の搭乗人数までは明示していないため、本記事では人数内訳についてHISTORYなどの後年資料も併用しています。またヘリが「片側のスキッドのみを接地した」という詳細も後年の事故再構成に基づくため、救助の公式記録と区別して記述しています。