THE QUESTION
ケネディはなぜ空爆ではなく「海上隔離」を選んだのか? | ExCommの6日間
STORY SO FAR
前回「米国はどうソ連ミサイルを発見したのか?|U-2偵察写真と10月14〜16日の情報分析」で確認した論点を受け、この回ではケネディはなぜ空爆ではなく「海上隔離」を選んだのか? | ExCommの6日間を扱う。
1962年10月16日朝、ジョン・F・ケネディ大統領は、キューバにソ連の中距離弾道ミサイル基地が建設されていることを知らされた。
問題は、発見したことでは終わらなかった。
むしろ、本当に難しい問題はそこから始まった。
ミサイル基地をすぐ空爆するのか。
キューバへ侵攻するのか。
ソ連へ撤去を要求して待つのか。
追加兵器の搬入を海上で止めるのか。
何もしないという選択肢を受け入れるのか。
どれにも重大な欠点があった。
空爆なら、建設中の基地を早期に破壊できる可能性がある。しかし、すべてのミサイルを確実に破壊できる保証はない。ソ連兵を大量に殺せば、モスクワがベルリンなど別の場所で報復する可能性もある。
侵攻なら、キューバのミサイル問題そのものを軍事的に排除できるかもしれない。しかし、それは米ソ両軍の直接戦闘を意味し、戦争の規模を制御できる保証はさらに小さくなる。
外交だけなら、戦争の危険は低い。しかし交渉している間にもミサイルサイトの建設は進み、運用可能な兵器が増える。
海上隔離なら、追加搬入を止めながらソ連へ圧力をかけ、次の判断まで時間を稼げる。しかし、すでにキューバにあるミサイルを直接破壊することはできない。
ケネディ政権が直面したのは、「正しい選択肢」と「間違った選択肢」の比較ではない。
異なる種類の失敗可能性を持つ複数の危険な選択肢のうち、どれならエスカレーションを最も管理しやすいかという問題だった。
結果としてケネディは、即時空爆ではなく海上隔離を最初の行動に選んだ。
その理由を「平和主義だったから」と説明するのは正確ではない。
米軍は空爆と侵攻の準備を続けた。Kennedy自身も、隔離で解決しなければ空爆に移る可能性を残していた。
海上隔離が選ばれた本質は、武力を使いながらも、その一回の行動で次の段階まで自動的に決めてしまわないことにあった。
この第4回では、10月16日の最初の会議から10月22日の公表まで、約6日間の意思決定過程を追う。[1]
なお、危機対応グループは一般にExCommと呼ばれるが、「Executive
Committee of the National Security
Council」が正式に設置されたのは10月22日のNSAM
196である。それ以前の16〜21日の会議も、後世の説明ではExCommの審議としてまとめて呼ばれることが多い。本記事では、この慣用に従いながら、正式設置日との違いを区別する。
先に結論――海上隔離は「弱い案」ではなく、選択肢を残す案だった
ケネディが海上隔離を選んだ理由は、一つではない。
大きく整理すると、五つある。
第一に、空爆ではミサイルを100%破壊できない。
第二に、奇襲空爆は多数のソ連兵を殺し、ソ連の軍事的報復を誘発する可能性が高い。
第三に、空爆を始めると侵攻へ連鎖する可能性が高い。
第四に、隔離ならソ連側に「止まる」「引き返す」「交渉する」という選択肢を残せる。
第五に、隔離を始めても、その後に空爆や侵攻へ移る軍事的選択肢は残る。
この五つの中で特に重要なのは最後の二つである。
隔離は、ミサイル問題をただちに解決しない。
だから軍事的には不完全だった。
しかし、その「不完全さ」が危機管理上の利点でもあった。
一度の奇襲空爆で米ソ関係を戦争状態へ押し込むのではなく、相手の反応を観察し、その後の行動を選べる。
Dean
Ruskは10月19日の会議で、ある行動の後に「pause」を置き、両大国が崖際から一歩下がって次を考えられるようにすべきだという趣旨を述べた。
これが海上隔離の設計思想をよく表している。
10月16日11時50分――最初から「空爆か隔離か」ではなかった
10月16日8時45分、McGeorge
Bundyからミサイル発見の報告を受けたKennedyは、主要顧問を招集した。[1]
最初の重要会議は11時50分ごろ始まった。
この時点で選択肢はまだ整理されていない。
Dean Rusk国務長官は、大きく二つの方向を示した。
一つは、突然の迅速な軍事攻撃。
もう一つは、同盟国やKhrushchevへ危機の重大性を知らせ、ソ連側へ撤去を迫る方法だった。
Robert McNamara国防長官は、軍事面からより細かく考えた。
限定的な空爆。
より広範な空爆。
海上での追加兵器搬入阻止。
Guantánamo基地の増強。
必要なら侵攻。
つまり初日の会議では、まだ「最終案」が存在していない。
複数の軍事・外交措置をどの順番で組み合わせるかを検討していた。
ここで一つ重要なのは、会議参加者の多くが「何もしない」ことを実質的に受け入れがたいと考えていたことである。
Kennedyは9月4日、攻撃用兵器がキューバへ導入された場合には重大な問題になると公に警告していた。
その直後に、本当にソ連の弾道ミサイルが見つかった。
何も行動しなければ、Kennedy政権の信頼性だけでなく、NATOやラテンアメリカに対する米国の抑止力そのものが疑われる。
したがって議論は、「行動するかどうか」よりも「どの行動なら結果を制御できるか」へ移っていった。
空爆案が強かった理由
現在から見ると、海上隔離が合理的だったように感じやすい。
しかし10月16〜19日の会議では、空爆案は非常に強力な候補だった。
理由は明快である。
時間がたつほどミサイルサイトが完成する。
移動式発射機が分散・偽装されれば、破壊が難しくなる。
核弾頭がサイトへ配備され、発射準備が進めば、空爆そのものの危険も増える。
つまり軍事的には、
「攻撃するなら今しかない」
という論理が成立する。
統合参謀本部議長Maxwell
Taylorをはじめとする軍側は、この点を繰り返し強調した。
10月19日の会議ではTaylorは、空爆を実施できる時間はあと数日しかなく、それを過ぎればミサイルが運用可能になり、見つけにくくなると主張した。
McGeorge BundyやDean Acheson、Douglas Dillon、CIA長官John
McConeも時期によって空爆に強く傾いた。
空爆派の議論を単に「軍部の強硬論」と片付けるべきではない。
彼らが見ていた問題は合理的だった。
海上隔離では、すでに島内にあるミサイルを破壊できない。
その間にも建設は続く。
交渉が失敗すれば、数日後には今より危険な条件で攻撃しなければならなくなる。
つまり隔離には、
時間を稼ぐと同時に、相手にも時間を与える
という明確な欠点があった。
「外科手術的空爆」は本当に可能だったのか
空爆案の魅力は、問題を短時間で物理的に解決できるように見えることだった。
ミサイル基地だけを破壊する。
ソ連の核攻撃能力を除去する。
その後、追加搬入を封鎖する。
このイメージは「surgical air
strike」、外科手術的空爆という表現で語られることがある。
しかし実際の軍事計画を詰めるほど、「基地だけを正確に破壊する」という単純な作戦では済まなくなる。
ミサイルサイトを攻撃する航空機を守るためには、キューバのSAM防空網を無力化する必要がある。
MiG戦闘機基地も脅威になる。
爆撃機や他の軍事施設を残すべきかという問題も出る。
空爆対象は拡大する。
10月20日のNSC会議でMcNamaraは、統合参謀本部が計画する空爆は約800
sortiesに達し、数千人のソ連兵を死亡させ、キューバ国内に混乱を起こすと指摘した。
さらに重要なのは、攻撃しても全ミサイルを破壊できないことだった。
同じ10月20日の会議でMcNamaraは、最善でも破壊できるのはおよそ3分の2で、残ったミサイルは未破壊の移動式発射機から撃てる可能性があると警告した。
「空爆すれば脅威が消える」という前提そのものが不確実だった。
もし一部を撃ち漏らし、その直後に残存ミサイルが発射されたらどうするのか。
空爆は、敵の核攻撃能力を減らす一方で、残った兵器を実際に使わせる誘因になる可能性もあった。
空爆の次に何が起きるのか
George Ballが強く警戒したのは、空爆そのものより「その後」だった。
奇襲空爆でサイトを破壊しても、Castro政権は残る。
ソ連も残る。
アメリカは今後、再配備をどう防ぐのか。
ソ連が報復したらどうするのか。
キューバで反政府蜂起が起きた場合、アメリカは介入するのか。
そしてソ連兵を殺した以上、Khrushchevは何もせず受け入れられるのか。
Ballは10月16日の議論で、真珠湾攻撃を連想させる奇襲攻撃への恐れを述べた。
彼の問題意識は道徳的イメージだけではない。
「ミサイルを破壊したところで終わりではなく、そこから次の行動が始まる」という点だった。
Robert Kennedyも同じ問題を意識していた。
空爆後、6か月後にソ連が再びミサイルを持ち込んだらどうするのか。
結局、再配備を防ぐためには海上阻止が必要になる。
つまり、
空爆を選んでも封鎖の問題は消えない。
逆に隔離を先に選べば、その後必要なら空爆へ進める。
この順序の違いは大きい。
侵攻は「確実な解決」に見えて、最大のエスカレーションだった
空爆で問題が解決しないなら、キューバへ侵攻してミサイル基地を地上から制圧する案が出てくる。
軍事的には、最も徹底した方法である。
Castro政権を打倒し、ソ連軍施設を占領すれば、キューバからのミサイル脅威は取り除ける。
しかし侵攻は、危機を「ミサイル撤去問題」から「米ソ直接戦争」へ変える。
当時キューバには数千人規模のソ連軍人がいることが米側にも分かっていた。
彼らと米軍が地上戦を行えば、ソ連兵が大量に死亡する。
モスクワが報復しないと考える方が難しい。
報復場所として最も懸念されたのがBerlinだった。
西ベルリンは東ドイツ領内にあり、西側の地上アクセスはソ連圏を通る。
キューバでアメリカが軍事的既成事実を作れば、ソ連はBerlinで圧力をかける可能性がある。
Kennedyはこの連鎖を強く意識していた。
「キューバだけ」を見れば侵攻が合理的でも、世界全体では別の戦争を誘発する。
このため侵攻は準備されながらも、第一手には選ばれなかった。
10月17〜18日――外交案はなぜ第一選択にならなかったのか
Charles
Bohlenなどは、軍事行動の前にKhrushchevへ直接警告し、撤去の機会を与えることを強く主張した。
これは合理的に見える。
ソ連へ、
「ミサイルを発見した。撤去しなければ行動する」
と通知する。
相手が引けば戦争を避けられる。
しかしこの案にも問題があった。
第一に、警告すれば奇襲の利点がなくなる。
ソ連とキューバはSAMを警戒態勢にし、ミサイルを移動・偽装し、核弾頭を配備する時間を得る。
第二に、Khrushchevが拒否した場合、アメリカは自ら公表した最後通牒を実行しなければならなくなる。
第三に、交渉中もサイト建設は進む。
McNamaraやTaylorは特にこの時間的問題を懸念した。
外交は「リスクが低い案」ではなく、時間を相手へ渡す案でもあった。
そのため、外交だけを先に行う案は主流にならなかった。
ただし、外交そのものが捨てられたわけではない。
海上隔離は、軍事圧力と交渉時間を同時に作る案として、外交と軍事の中間に位置づけられていく。
10月18日――Gromykoとの奇妙な会談
10月18日、ソ連外相Andrei Gromykoが予定どおりWhite Houseを訪れた。
Kennedyはすでにミサイル基地を知っていた。
しかし、それをGromykoへ明かさなかった。
会談でGromykoは、ソ連のキューバ援助は防御的なものであるという従来の説明を続けた。
Kennedyは、9月4日に出した公開警告を読み上げた。
攻撃用兵器が導入されれば「最も重大な結果」を招くという内容である。
この会談は、危機の特殊さを示している。
Kennedyは相手が事実と異なる説明をしていることを知っている。
しかし、まだカードを見せない。
なぜか。
アメリカ側自身が、まだどの行動を取るか決めていなかったからである。
証拠を公表した瞬間、秘密の準備期間は終わる。
ソ連船も軍も行動を変える。
同盟国、議会、メディアも即時対応を要求する。
したがって情報公開そのものが、一つの軍事・外交行動だった。
10月19日――議論は「空爆か隔離か」へ収束する
10月19日、主要顧問は長時間の会議を行った。
ここで選択肢はかなり整理される。
実質的に中心となったのは、
air strike route
と
blockade route
だった。
ただし意見は割れていた。
Bundyは、一晩考えた後、隔離だけではミサイルを除去できず、時間がかかり、国連での交渉圧力を受けると指摘して空爆を支持した。
Achesonも、これは米ソの意志の対決であり、早く決着すべきだとして空爆を主張した。
Taylorも「今しかない」と考えた。
一方McNamaraは空爆を支持せず、隔離を選んだ。
Robert Kennedyは、奇襲空爆がPearl
Harborを連想させること、多数のキューバ人とソ連人を警告なしに殺すことを問題視し、ソ連に後退できる余地を与えるべきだと主張した。
この日の重要な進展は、意見の対立を曖昧にしたまま一つの妥協案へまとめなかったことである。
会議は二つの作業グループに分かれた。
一方が隔離案。
もう一方が空爆案。
それぞれが、実行手順、政治的説明、ソ連への通知、予想される反応まで含めたシナリオを作成した。
これは意思決定として重要である。
「どちらが好きか」を議論するのではなく、
各案を実際に実行した場合、次に何が起こるか
まで比較できる形にした。
海上隔離にも「武力行使」が含まれていた
「隔離」という言葉には、空爆より穏健な印象がある。
しかし実際には明確な武力行使である。
船を停止させる。
積荷を検査する。
禁止された攻撃用兵器があれば通さない。
船が停止命令を拒否したらどうするのか。
警告する。
進路を妨害する。
必要なら射撃する。
つまり海上隔離は、ソ連船との直接的な軍事接触を予定した作戦だった。
10月16日の会議でも、McNamaraらは「船を止める以上、従わなければ撃つ必要がある」という問題を認識していた。
だから隔離は「非軍事的解決」ではない。
空爆との違いは、最初に殺傷を前提とするかどうか、そして一つ一つの接触ごとに判断を挟めるかどうかにあった。
George Ballが指摘したように、隔離は「一連の個別の行為」になる。
最初からキューバ全土を攻撃するのではなく、接近する一隻の船に対して、一回ずつ決定する。
この構造がエスカレーション管理上の最大の特徴だった。
「quarantine」という名称は法律だけの問題ではなかった
10月19日には、国際法上の正当化も検討された。
blockadeは伝統的に戦争行為との結びつきが強い。
しかもキューバはアメリカを武力攻撃したわけではない。
そのため、国連憲章上の自衛権だけでどこまで正当化できるかは簡単ではなかった。
アメリカ側は、米州相互援助条約、Rio
Treatyと米州機構OASの枠組みを使い、地域的集団措置として法的・政治的基盤を作る方向を検討した。
ここから「blockade」ではなく「quarantine」という名称が使われる。
名称を変えただけで法律問題が消えるわけではない。
しかし「全面的な戦争封鎖」ではなく、「攻撃用兵器の追加搬入を対象とする限定措置」と定義することで、行動目的を絞ることができる。
これは同盟国やラテンアメリカ諸国の支持を得る上でも重要だった。
10月20日――二つの案がKennedyへ出される
10月20日14時30分、国家安全保障会議が開かれた。
ここが決定過程の重要な節目になる。
McNamaraは「blockade route」を説明した。
彼は隔離の欠点を隠していない。
ミサイル撤去まで時間がかかる。
国内政治上の問題になる。
アメリカが弱く見える可能性がある。
一方で利点として、
同盟国との摩擦が小さい。
奇襲空爆を避けられる。
西側の指導国としての立場と両立しやすい。
突然の攻撃でソ連の報復を誘発し、一般戦争へエスカレートする危険を減らせる。
と整理した。
これは「隔離は良い案」という説明ではない。
悪い点を受け入れても、空爆より制御可能だ
という比較だった。
軍側の反論――待つほど危険になる
Taylorは反対した。
待てばサイトが完成する。
ミサイルが隠される。
将来攻撃しても破壊できなくなる。
10月20日の情報説明では、16基のSS-4がすでに運用可能と評価され、発射決定から約18時間で発射可能と報告されていた。[1]
Kennedy自身も、時間がたつほど脅威が悪化することを認めた。
隔離案が持つ最大の弱点はここにある。
危機管理のために時間を稼ぐことが、そのまま敵の軍事能力完成の時間になる。
Kennedyはこのリスクを承知した上で隔離を選んだ。
だから「海上隔離は安全だから選ばれた」という説明は間違いである。
むしろ、
ミサイル完成というリスクを引き受ける代わりに、米ソ直接戦争へ即時突入するリスクを下げた
というトレードオフだった。
空爆が「第一手」から外れた決定的な理由
10月20日の議事録で最も重要な部分の一つが、McNamaraの空爆評価である。
空爆しても、最善で破壊できるのはミサイルのおよそ3分の2。
統合参謀本部案では約800 sorties。
数千人のソ連兵が死亡する。
キューバ国内は混乱する。
Castro政権打倒への動きが生まれる。
その結果、侵攻へ進む可能性が高い。
そしてソ連が何らかの大規模な報復をする可能性がある。
Kennedyも、空爆ならBerlin封鎖のような重大なソ連反応を招くだろうと考えた。
ここで意思決定の基準が見えてくる。
空爆の問題は、
「強すぎるから」
ではない。
空爆後に起こる次の行動をアメリカが選べなくなる可能性が高いから
だった。
一度ソ連兵を数千人規模で殺せば、相手の反応を待ってから冷静に次を選ぶ状況ではなくなる。
報復。
再報復。
Berlin。
NATO。
戦略核部隊の警戒。
こうした別の系統が連動し始める。
隔離は、その連鎖をまだ始めないという意味で選ばれた。
Pearl
Harborの記憶はどこまで重要だったのか
Kennedy政権内では、事前警告なしの空爆をPearl
Harborと比較する発言が複数出ている。
Robert KennedyやGeorge Ballは特に、このイメージを問題視した。
アメリカが、日本の1941年の奇襲攻撃を非難してきた国でありながら、警告なしにキューバを攻撃する。
その政治的・道徳的コストは大きい。
ただし、海上隔離選択を「Pearl
Harborのイメージが嫌だったから」とだけ説明するのも不十分である。
奇襲性の問題は、
国際的正当性。
同盟国の支持。
ソ連の報復可能性。
空爆後の侵攻。
核エスカレーション。
と結びついていた。
道徳問題と戦略問題は分離していない。
「どのように見えるか」は冷戦の同盟政治では軍事力そのものに影響した。
10月20日の決定――隔離を選び、空爆を捨てない
会議の終盤、Kennedyは海上隔離を進める準備を指示した。
同時に、空爆と侵攻の準備も続けさせた。
ここが重要である。
決定は、
「空爆をやめて隔離に変更」
ではない。
より正確には、
第一手を隔離にし、空爆・侵攻を第二段階として保持する
だった。
Kennedyは、隔離後にソ連の反応を見て、ミサイル建設が続けば空爆へ移る可能性を残した。
軍には、数日以内に攻撃できる準備を維持させた。
これは段階的エスカレーションである。
最初の行動を限定する。
相手の反応を見る。
次の行動を再評価する。
この方式なら、危機の各段階に政治判断を挟める。
後から見ると当然に見えるが、核危機では極めて重要だった。
10月21日――隔離の「実装」を詰める
20日に方向が決まっても、実施方法はまだ完成していない。
21日のNSCでは、どの船を止めるのか、どの貨物を対象にするのか、どこに隔離線を置くのか、警告射撃や強制停止をどう扱うのか、航空偵察をどう続けるのかといった具体的問題が詰められた。
隔離を狭く設計するか。
石油まで対象にするか。
食料・医薬品は除外するか。
どの程度ソ連経済ではなく「攻撃用兵器」に焦点を絞るか。
対象を広げるほど圧力は強くなる。
しかし、それだけ戦争封鎖に近づき、Castro政権打倒が目的だと受け取られやすくなる。
Ruskは、当初POL、石油製品を含めない方向を支持した。
目的を「攻撃用ミサイル能力の排除」に限定し、Castro政権打倒とは区別するためである。
この限定性も、エスカレーション管理の一部だった。
10月22日――「秘密の選択」が公開政策になる
10月22日、KennedyはNSAM 196に署名し、Executive Committee of the
National Security Councilを正式に設置した。
同日夜、テレビ演説で国民へミサイル発見を公表する。
そして、攻撃用軍事物資のキューバへの搬入を阻止する「quarantine」を発表した。
この瞬間まで、危機対応は徹底して秘密に進められていた。
公表後は状況が変わる。
アメリカ世論。
議会。
NATO諸国。
ラテンアメリカ。
国連。
そしてソ連。
すべてが危機を知る。
ここから意思決定の問題は、
「何を選ぶか」
から、
「選んだ隔離を現実の海上でどう実行し、ソ連がどう反応するか」
へ変わる。
それがARTICLE05の主題になる。
なぜ「空爆ではなく隔離」が合理的だったのか
最終的に比較すると、四つの主要案には次の特徴があった。
何もしない
軍事リスクは最小。
しかし、ソ連の戦略ミサイル配備を既成事実として受け入れる。
Kennedyの公開警告と米国の同盟信頼性に重大な影響。
政治的にほぼ受け入れ不能。
外交警告を先行
即時の軍事衝突を避けられる。
しかし、ソ連へサイト完成・偽装・分散の時間を与える。
最後通牒が拒否された場合、米国側の選択肢を逆に狭める。
空爆
短時間で多数のサイトを破壊できる。
しかし完全破壊の保証がない。
ソ連兵を大量に殺害する。
侵攻へ連鎖する可能性が高い。
Berlinなど別戦域で報復を招く危険。
奇襲攻撃として国際的正当性が弱い。
海上隔離
すでにあるミサイルを除去できない。
サイト完成まで時間を与える。
国内では弱腰と批判される可能性がある。
しかし追加搬入を抑えられる。
同盟国・OASの支持を得やすい。
ソ連船一隻ごとに判断できる。
相手に撤退・停止・交渉の時間を与える。
必要なら後から空爆・侵攻へ移行できる。
この比較でKennedyが重視したのは、単純な「軍事的確実性」ではなかった。
次の判断権を自分たちに残せるか
だった。
事実確認
| 論点 | 判定 | 補足 |
|---|---|---|
| ミサイル発見直後から海上隔離案で合意していた | FALSE | 10月16〜19日は空爆・外交・隔離・侵攻を含む複数案を検討 |
| 統合参謀本部は空爆を強く支持した | FACT | Taylorらは時間経過で攻撃機会を失うと主張 |
| McNamaraは10月20日時点で空爆なら全ミサイルを破壊できると評価した | FALSE | 最善でも約3分の2との評価を示した |
| 海上隔離は非軍事的な外交措置だった | FALSE | 船舶停止・捜索・必要時の武力使用を伴う軍事措置 |
| 空爆案ではソ連兵の死傷が重大な懸念だった | FACT | 約800 sorties・数千人のソ連兵死亡の可能性が議論された |
| Kennedyは隔離を選んだ時点で空爆案を完全に放棄した | FALSE | 攻撃・侵攻準備を継続し、第二段階として保持 |
| Pearl Harborとの比較は会議で実際に出た | FACT | Robert Kennedy、George Ballらが奇襲攻撃の含意を問題視 |
| 「ExComm」は10月16日に正式設置された | FALSE | NSAM 196による正式設置は10月22日 |
| blockadeではなくquarantineという語を使ったのは単なる広報上の言い換え | MISLEADING | 国際法、OAS、目的限定の政治的意味があった |
| Kennedyは隔離を安全だから選んだ | FALSE | ミサイル完成リスクを承知しつつ、即時の米ソ軍事衝突を避けるため選択 |
まとめ――Kennedyが選んだのは「弱い手」ではなく「戻れる手」だった
10月16日、Kennedy政権はソ連のミサイルを発見した。
軍事的な問いだけなら、答えは比較的単純だった。
敵のミサイル基地を、運用可能になる前に破壊する。
しかし実際の問いは違った。
破壊できなかったミサイルはどうするのか。
殺されたソ連兵にKhrushchevはどう反応するのか。
Berlinで報復されたらどうするのか。
空爆後にCastro政権が残ったらどうするのか。
侵攻へ進んだら戦争をどこで止めるのか。
海上隔離にも重大な欠点があった。
すでに島内にあるミサイルを消せない。
建設時間を与える。
ソ連船と直接対峙する。
突破されれば、結局撃つ必要がある。
それでも隔離には、空爆にはない特徴があった。
一回の決定で戦争の次の段階まで自動的に決めないこと。
船が来る。
停止を求める。
相手の反応を見る。
交渉する。
必要ならさらに圧力を強める。
それでも解決しなければ空爆を選ぶ。
判断と判断の間に「pause」を入れられる。
キューバ危機における海上隔離の意味は、ここにある。
Kennedyは軍事力を使わない道を選んだのではない。
軍事力を使う順番を変えた。
最初から最大の攻撃を行わず、限定された武力行使から始め、次の選択肢を残した。
この段階的な構造が、少なくとも10月22日の時点では、米ソ双方に後退する余地を残した。
しかし、計画上の「余地」が現実に機能するかどうかは、まだ分からない。
次回ARTICLE05では、海上隔離が実際の海でどう運用されたのかを見る。
隔離線はどこに置かれ、米海軍はソ連船をどう止め、相手が拒否した場合にはどこまで武力を使うつもりだったのか。
10月22日の演説から26日まで、作戦計画が実際の船舶接触へ変わる過程を追う。
FACT CHECK|出典・参考資料
- [1] Foreign Relations of the United States, 1961–1963, Volume XI, Document 18, “Transcript of a Meeting at the White House,” October 16, 1962
- [2] Foreign Relations of the United States, 1961–1963, Volume XI, Document 21, “Off the Record Meeting on Cuba,” October 16, 1962
- [3] Foreign Relations of the United States, 1961–1963, Volume XI, Document 22, “Memorandum of Meeting,” October 17, 1962
- [4] Foreign Relations of the United States, 1961–1963, Volume XI, Document 28, “Memorandum for the File,” October 19, 1962
- [5] Foreign Relations of the United States, 1961–1963, Volume XI, Document 31, “Record of Meeting,” October 19, 1962
- [6] Foreign Relations of the United States, 1961–1963, Volume XI, Document 34, “Minutes of the 505th Meeting of the National Security Council,” October 20, 1962
- [7] Foreign Relations of the United States, 1961–1963, Volume XI, Document 38, “Minutes of the 506th Meeting of the National Security Council,” October 21, 1962
- [8] Foreign Relations of the United States, 1961–1963, Volume XI, Document 42, National Security Action Memorandum 196, October 22, 1962
- [9] John F. Kennedy Presidential Library and Museum, “Off the Record Meeting on Cuba,” October 16, 1962
- [10] John F. Kennedy Presidential Library and Museum, “Minutes of the 505th Meeting of the National Security Council,” October 20, 1962
- [11] John F. Kennedy Presidential Library and Museum, “October 22, 1962”
- [12] U.S. National Archives, “One Step from Nuclear War: The Cuban Missile Crisis at 50”
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