THE QUESTION
キューバ危機はどう終わったのか? | フルシチョフ二通の書簡と秘密のジュピター撤去
STORY SO FAR
前回「1962年10月27日「ブラック・サタデー」に何が起きたのか?|U-2撃墜、B-59、誤算の連鎖」で確認した論点を受け、この回ではキューバ危機はどう終わったのか? | フルシチョフ二通の書簡と秘密のジュピター撤去を扱う。
1962年10月27日。
キューバ上空ではU-2が撃墜され、Rudolf Anderson少佐が死亡した。
別のU-2は北極圏でソ連領空へ迷入した。
大西洋では、核魚雷を搭載したソ連潜水艦B-59が米海軍の追跡を受けていた。
そしてWashingtonでは、Nikita
Khrushchevから届いた二つの異なる提案を前に、Kennedy政権が「どの条件なら戦争を避けられるか」を決めようとしていた。
危機は軍事的には悪化している。
それなのに、同じ日、政治的には出口が作られ始めていた。
10月26日にKhrushchevから届いた長い書簡は、ソ連がキューバのミサイル問題を処理する代わりに、アメリカがキューバへ侵攻しないという方向を示していた。
ところが27日には、別の書簡が届く。
そこでは条件が変わる。
キューバからソ連のミサイルを撤去するなら、アメリカもトルコに配備したJupiterミサイルを撤去すべきだという要求が明確に加わった。
Kennedy政権は難しい問題に直面する。
Jupiterを公然と交換条件にすれば、NATO同盟国トルコの頭越しに核戦力を取引したように見える。
拒否すれば、軍事的価値が低下していたJupiterを守るために、キューバで核戦争の危険を冒す構図になる。
最終的にKennedy側は、公開上は10月26日の比較的穏健な提案に答え、10月27日のトルコ要求を無視したように見せた。[3]
しかし同じ夜、Robert Kennedy司法長官はソ連大使Anatoly
Dobryninと秘密会談し、Jupiter問題について非公開の了解を伝える。
翌28日、Khrushchevはキューバの攻撃用兵器を解体・撤去すると公表した。
ここだけを見ると、
「アメリカが強硬姿勢を貫き、ソ連が折れた」
ように見える。
だが実際の決着は、もっと複雑だった。
公開された合意と、公開されなかった了解が同時に存在した。
この第7回では、
10月26日の第一書簡。
10月27日の第二書簡。
Kennedy側の公開回答。
Robert Kennedy–Dobrynin秘密会談。
トルコのJupiter撤去。
を分離して整理し、「キューバ危機はどのような取引で終わったのか」を検証する。
先に結論――危機終結には「公開合意」と「秘密了解」の二層があった
危機終結を最も簡潔に整理すると、二層構造になる。
公開された合意
ソ連は、キューバに配備した攻撃用ミサイルを解体・撤去する。
アメリカは海上隔離を解除する方向へ進む。
アメリカは、キューバへの侵攻を行わないという保証を示す。
撤去については国連などを通じた確認・検証が想定される。
公開されなかった了解
アメリカは、トルコのJupiterミサイルを一定期間内に撤去する。
ただし、その撤去を「キューバのミサイルとの公的な交換条件」として発表しない。
この秘密性が決定的だった。
Kennedy政権は、Jupiterそのものに強い軍事的価値を見いだしていたわけではない。
危機前から撤去が検討されていた。
しかし、ソ連の圧力を受けてNATO配備兵器を交換する形にすれば、
トルコ。
NATO。
西欧同盟国。
アメリカの同盟保証。
すべてに影響する。
したがってKennedyは、
「撤去すること」は受け入れられるが、「交換条件として公表すること」は受け入れられない
という立場を取った。
ここが危機終結の核心である。
10月26日――Khrushchevから届いた長い書簡
10月26日、Moscowの米大使館へKhrushchevから長い書簡が届けられた。
FRUSによれば、書簡は16時43分Moscow時間に大使館へ到着し、その翻訳がWashingtonへ送られた。
この書簡は後世に「Friday letter」と呼ばれることがある。
内容は長く、感情的で、戦争の危険について繰り返し語っている。
有名なのが「戦争の結び目」の比喩である。
両者がロープの両端を引っ張れば結び目はさらに固くなり、最後には切らなければならなくなる。
その「切る」という行為が何を意味するかは説明する必要がない。
Khrushchevは、核戦争へ向かう前に双方が力を緩めるべきだと訴えた。
この書簡の重要部分は、最後の提案にある。
ソ連側は、キューバへ向かう船に兵器を積まない。
アメリカ側は、キューバへ侵攻しないと宣言し、侵攻を意図する勢力も支援しない。
そうなれば、キューバの軍備をめぐる問題は変わる。
この時点では、トルコのJupiter撤去は明確な交換条件として書かれていない。
Washington側から見れば、
ミサイル撤去と不侵攻保証を軸にした取引の可能性
が初めて明確に見えた。
JFK
Libraryも、10月26日の書簡を「ミサイル撤去と引き換えに隔離解除・不侵攻保証を求める提案」と整理している。
しかし第一書簡も単純な「正式提案」ではなかった
10月26日の書簡を、完成された外交協定案として読むのも正確ではない。
文章は長く、Khrushchev自身の歴史観や戦争観、キューバ防衛の正当化が大量に含まれている。
法律文書のように、
第1条。
第2条。
期限。
検証手順。
と整理されているわけではない。
さらに、同じ10月26日にはABC NewsのJohn Scaliとソ連大使館のAleksandr
Fomin、実際にはKGB関係者Alexander
Feklisovとの非公式接触もあり、似た方向の解決案が伝えられていた。
Washingtonは、
「これはKhrushchev本人の本当の出口なのか」
「ソ連内部で合意された提案なのか」
「時間稼ぎではないのか」
を見極める必要があった。
それでも、26日夜には「取引可能な枠組み」が存在するという認識が強まる。
キューバのソ連ミサイル撤去。
アメリカの不侵攻保証。
この二つを交換する。
これなら、双方が最低限の成果を国内外へ説明できる。
10月27日――第二の書簡で条件が変わる
翌27日、状況が一気に複雑になる。
Khrushchevから新たなメッセージが届いた。
この書簡は、10月26日のものより明確に「相互性」を主張する。
アメリカはキューバのソ連ミサイルを脅威と考える。
しかしアメリカ自身は、ソ連近隣のトルコにJupiterミサイルを配置している。
それなら、
ソ連がキューバからミサイルを撤去する。
アメリカもトルコから同種の兵器を撤去する。
という交換が公平ではないか。
Khrushchevはこの論理を正面から提示した。
FRUSの10月27日書簡では、
ソ連はキューバからアメリカが「攻撃用」と呼ぶ兵器を撤去する意思がある。
その代わり、アメリカもトルコから類似の兵器を撤去すると宣言する。
そして国連の代表者が双方の履行を確認する。
という提案が明記されている。
26日の「不侵攻保証」中心の提案から、
27日は「トルコJupiterとの交換」へ条件が具体化したように見えた。
なぜWashingtonは混乱したのか
Kennedy政権から見れば、一晩でKhrushchevの要求が変わったように見えた。
そのためExCommでは、
誰がMoscowで決定しているのか。
Khrushchevは軍部やPresidiumから圧力を受けたのか。
第一書簡と第二書簡のどちらが本当の交渉条件なのか。
という疑問が生まれた。
後から見れば、二つの書簡は完全に矛盾しているわけではない。
Khrushchevは以前から、アメリカがソ連周辺に核兵器を置いていることを強く問題視していた。
ARTICLE02で見た通り、トルコJupiterは危機以前からソ連側の不満の一つだった。
しかしWashingtonで重要だったのは、
第二書簡をそのまま受け入れた場合の同盟政治上のコスト
である。
トルコに配備されたJupiterはNATO戦略の一部だった。
アメリカ大統領がソ連の圧力を受けて、
「キューバを撤去するならトルコも撤去する」
と公言すれば、トルコ政府は何を感じるか。
西ドイツは。
イタリアは。
他のNATO諸国は。
「ソ連が圧力をかければ、アメリカは同盟国の安全保障を交渉材料にする」
という印象を与えかねない。
問題はミサイル15基前後の軍事価値だけではなかった。
同盟の信頼性だった。
Jupiterは本当に重要な兵器だったのか
ここで奇妙な事実がある。
Kennedy政権自身、Jupiterの軍事的価値を高く評価していなかった。
10月27日のExComm記録ではKennedyが、アメリカは1年以上前からトルコのJupiterを撤去したがっていたと述べている。
理由は、旧式で脆弱だからである。
固定式。
液体燃料。
発射準備に時間がかかる。
敵の先制攻撃に弱い。
より生存性の高いPolaris潜水艦発射弾道ミサイルが登場している。
軍事的には、Jupiterを撤去してもアメリカの核抑止力全体が大きく失われるわけではない。
Kennedyは、
「軍事的価値の低いトルコのミサイルを守るために、キューバやBerlinで戦争の危険を冒すのか」
という問題を認識していた。
だから単純に「Jupiter撤去は受け入れられない」と考えていたわけではない。
受け入れられないのは、
ソ連との公的な交換として実行すること
だった。
「第二書簡を無視して第一書簡へ答える」という戦術
10月27日のExCommで生まれた重要なアイデアがある。
第二書簡のトルコ要求には正面から答えない。
代わりに、10月26日の第一書簡で示された比較的穏健な条件へ返答する。
FRUSの後年の編集要約では、この方法はLlewellyn Thompson、Theodore
Sorensen、Robert Kennedyらの提案を受けて採用されたと整理されている。
つまりKennedyは、
「あなたが昨日示した提案を受け入れる」
という形で返す。
これによって公開交渉の軸を、
ソ連のキューバミサイル撤去。
アメリカの不侵攻保証。
へ戻すことができる。
10月27日20時05分に送られたKennedyの公開回答は、Khrushchevの10月26日書簡を明示的に参照した。[1]
まずキューバの攻撃用ミサイル基地建設を停止する。
攻撃用兵器を運用不能にする。
国連の有効な取り決めの下で処理する。
それが迅速に行われるなら、26日の書簡に沿ってキューバ問題の恒久的解決を進める。
この公開回答には、
「トルコJupiterを撤去する」
とは書かれていない。
外から見れば、アメリカは第二書簡の要求を拒否したように見える。
しかし実際には、その裏側で別の交渉が進む。
公開回答だけでは危機は終わらない
ここで、危機終結を「Kennedyが第二書簡を無視したらKhrushchevが折れた」と説明してはいけない。
公開回答とほぼ同時に、秘密のバックチャネルが使われている。
10月27日夜、Robert Kennedy司法長官はSoviet Ambassador Anatoly
Dobryninを司法省へ呼び出した。
RFK自身が10月30日に作成したmemorandumによれば、19時15分ごろDobryninへ電話し、19時45分に会談した。[10]
議題は切迫していた。
U-2が撃墜された。
基地建設は続いている。
アメリカ国内では軍事行動の圧力が強まっている。
時間がない。
Robert
Kennedyは、ソ連がミサイル基地を撤去しなければ、アメリカがそれを除去することになると強く警告した。
そしてDobryninは、トルコのJupiterを持ち出した。
ここからが、後年まで論争になった部分である。
RFKの記録では「取引ではない」
Robert Kennedyが10月30日にSecretary of State Dean
Ruskへ提出したmemorandumでは、彼はDobryninに対し、
「トルコについてquid pro quo、交換取引はできない」
という趣旨を伝えたと記している。
NATOの問題であり、ソ連の脅威下で同盟国に撤去を迫ることはできない。
ただし、危機が解決した後、一定期間がたてばJupiter問題は処理できるだろうという含みを与えた。
この記録だけを見ると、
「Jupiterは危機解決とは別問題で、たまたま後から撤去された」
ようにも読める。
長い間、アメリカ側の公的イメージはこの方向に近かった。
しかし、後にソ連側の記録が公開される。
Dobryninが会談直後にMoscowへ送った電報である。
Dobryninの電報では、より明確な了解が記録されている
Dobryninの10月27日付電報は、Robert
Kennedyとの会談をかなり詳しく報告している。
そこではRFKが、
もしトルコ問題が解決の唯一の障害なら、President
Kennedyはそれを乗り越えられない問題とは考えていない。
Jupiter撤去には4〜5か月必要だろう。
ただしPresidentはトルコについて公に何も言えない。
この話は極秘である。
という趣旨を述べたと記録されている。
つまりソ連側は、
「キューバの問題を解決すれば、アメリカは数か月以内にトルコのJupiterを撤去する」
という具体的な了解を受け取っていた。
これは単なる一般論ではない。
期限の目安まで含む。
だから危機終結を正確に理解するには、RFKの米側memoとDobryninのソ連側telegramの両方を読む必要がある。
二つの記録は矛盾しているのか
表面的には矛盾して見える。
RFK:
「quid pro quoではない」
Dobrynin:
「Jupiterは4〜5か月で撤去されると伝えられた」
しかし、両立しないわけではない。
Kennedy政権が拒否したのは、
公的・正式・同時交換としてのquid pro quo
だった。
一方、秘密の了解として、
危機が解決されればJupiter撤去を進める。
そのことをソ連側に伝える。
ただし公表しない。
という行動は実際に取った。
つまり、
「取引ではない」
という言葉は、
「何も約束していない」
と同義ではない。
より正確には、
「公開される交換協定にはしないが、非公開では撤去の見通しを保証する」
という構造だった。
この違いが、危機終結を長く見えにくくした。
なぜ秘密でなければならなかったのか
秘密性には複数の理由がある。
第一に、トルコ政府の面子と安全保障。
アメリカがMoscowとの直接取引でトルコ配備兵器を撤去すると発表すれば、同盟国内で重大な反発を招く。
第二に、NATO全体。
アメリカの核保証は、
「同盟国を守る」
という信用で成立する。
ソ連の圧力によって同盟国の兵器を取り下げたと見られれば、その信用が損なわれる。
第三に、Kennedyの国内政治。
ソ連がキューバからミサイルを撤去する代わりに、アメリカもトルコから撤去したと発表すれば、
「KennedyはKhrushchevの要求を飲んだ」
と攻撃される可能性がある。
第四に、危機中の交渉力。
公開交換を認めれば、ソ連がさらに別の要求を加える可能性もある。
このためKennedy側は、
Jupiter撤去を実行可能にしながら、
危機の公開決着から切り離す必要があった。
それは「Kennedyの勝利」だったのか
危機直後のアメリカでは、Kennedyが強硬姿勢を保ち、Khrushchevを後退させたという理解が広がった。
その見方に根拠がないわけではない。
ソ連は、秘密配備した弾道ミサイルを撤去した。
アメリカはキューバから自国兵器を撤去する必要がなかった。
海上隔離は機能した。
軍事攻撃なしに危機を収束させた。
この意味ではKennedy政権は大きな成果を得た。
しかし、「ソ連だけが譲歩した」とすると不正確になる。
アメリカはキューバ不侵攻の保証を示した。
さらに、非公開でトルコJupiter撤去の見通しを伝えた。
つまり双方が何らかの譲歩を行った。
ただし譲歩は対称ではない。
公開されたもの。
秘密にされたもの。
即時に行われるもの。
数か月後に実施されるもの。
同盟国との調整を必要とするもの。
が混在している。
この非対称性こそ、危機終結を可能にした。
「Jupiterはもともと撤去予定だったから取引ではない」は正しいか
半分は正しい。
半分は不十分である。
Kennedy政権が危機前からJupiterの軍事的価値を低く評価し、撤去を検討していたことは事実である。
だから、
「危機がなければ絶対に撤去しなかった兵器を、ソ連に強制されて突然撤去した」
という説明は正しくない。
しかし、これを理由に、
「Jupiterは危機終結と無関係だった」
とするのも正しくない。
10月27日のDobrynin電報では、撤去期限の目安まで含む秘密了解がMoscowへ伝えられている。
そして危機後、実際に撤去が進む。
National Security
Archiveが公開した1963年の米軍資料では、Jupiter撤去計画は“minimum of
publicity”で実施されるよう設計されている。
Turkeyでの撤去作業は4月15日に始まり、McNamaraは4月25日にKennedyへ、
最後のJupiterが前日に撤去された
と報告している。
つまり、
危機前から撤去構想があったこと
と、
危機終結時にその撤去を秘密の了解としてソ連へ伝えたこと
は両方成立する。
10月28日――Khrushchevが撤去を公表する
10月28日、Moscow RadioがKhrushchevの回答を放送した。
KhrushchevはKennedyの10月27日メッセージを受け入れ、ソ連政府が、
攻撃用とアメリカが呼ぶ兵器の建設を停止し、
それらを解体し、
梱包し、
ソ連へ戻す
よう新たな命令を出したと表明した。
これによって、13日間の最も危険な政治局面は大きく収束する。
JFK
Libraryも10月28日を、危機の最も危険な13日間が終わった日としている。
重要なのは、Khrushchevの公開回答に
「アメリカがTurkeyのJupiterを撤去すると約束したから受け入れる」
とは書かれていないことである。
公開上の決着は、
ソ連のキューバ兵器撤去。
アメリカのキューバ不侵攻保証。
という構図になった。
秘密了解は秘密のまま残った。
これによってKennedyはNATOへの公的ダメージを抑え、KhrushchevはMoscow内部でJupiter問題の成果を説明できる余地を持った。
しかし10月28日で「完全終了」ではない
ここはARTICLE01でも触れた重要点である。
Khrushchevが撤去を公表しても、危機処理は続く。
本当にミサイルを撤去するのか。
どう検証するのか。
キューバ政府が国連現地査察を受け入れない場合どうするのか。
IL-28爆撃機をどう扱うのか。
海上隔離をいつ解除するのか。
これらは11月まで残る。
さらにJupiter撤去は、公開決着とは別に1963年春まで続く。
だから10月28日は、
危機の政治的転換点
ではあるが、
全ての履行が完了した日
ではない。
この区別はARTICLE09で詳しく扱う。
Fidel
Castroは決着に参加していたのか
危機終結を米ソの交換だけで書くと、キューバ自身が消えてしまう。
しかしCastro政府は、自国領土の問題について独自の立場を持っていた。
10月26日にはCastroがKhrushchevへ、アメリカ侵攻が迫っていると強く警告している。
危機の最終局面で、Soviet
UnionはWashingtonとの直接交渉を優先した。
Khrushchevが28日にミサイル撤去を公表した際、Castroがその決定を事前に十分共有していたとは言い難い。
さらに、米ソは撤去確認に国連査察を想定したが、キューバ政府は自国主権の問題として外部査察へ強く抵抗した。
この点は、
「ソ連がキューバの安全保障を守るためにミサイルを置いた」
というARTICLE02の論理と、
「危機終結時にはソ連がキューバの意思とは別に撤去を決定した」
という現実の間の緊張を示している。
米ソが核戦争を避けるために合意しても、キューバの利害が完全に満たされたわけではない。
秘密了解はなぜ長く歴史像を変えたのか
危機直後の一般的な物語は分かりやすかった。
Khrushchevがキューバにミサイルを置く。
Kennedyが発見する。
海上隔離を行う。
Khrushchevが撤去する。
アメリカは勝つ。
この物語では、TurkeyのJupiterは脇役になる。
しかし外交史料とソ連側文書が公開されるにつれ、
危機終結はもっと取引的だったことが明確になる。
ここで重要なのは、
「実はKennedyは負けていた」
と逆転させることではない。
歴史を勝敗の二択から外すことである。
Kennedyは、ソ連のキューバミサイルを撤去させた。
Khrushchevは、キューバへの米軍侵攻を防ぐ保証を得た。
そして非公開では、Moscowが以前から問題視していたTurkeyのJupiter撤去も実現する見通しを得た。
双方が、
完全な勝利ではない。
しかし相手に完全敗北を認めさせる必要もない。
という出口を作った。
核危機で重要なのは、まさにこの点だった。
なぜ「相手の顔を立てる」ことが危機管理になるのか
通常の政治では、相手から最大限の譲歩を引き出すことが成功とされることがある。
しかし核危機では事情が違う。
相手が後退できないほど追い詰めれば、軍事行動を選ぶ可能性が高まる。
Kennedy政権が直面した問題は、
「Khrushchevに勝つ」
ことではない。
Khrushchevが撤退を選んでも、Moscowで完全屈服と見なされない形を作る
ことでもあった。
不侵攻保証は一つの成果になる。
Jupiter秘密了解ももう一つの成果になる。
一方アメリカ側は、
ソ連ミサイルがキューバから撤去される
という明確な成果を公に示せる。
双方が異なる成果を持ち帰る。
これが、危機終結の政治技術だった。
公開と秘密を分けたことには副作用もあった
秘密了解は危機を終わらせる上では有効だった。
しかし、歴史認識には長く影響した。
アメリカ国民や同盟国の多くは、危機直後にJupiter了解の全容を知らない。
そのためKennedyの「強硬な勝利」というイメージが強まる。
一方、後年秘密了解が知られると、
「実は完全な取引だった」
「KennedyはJupiterを交換した」
という反動的な説明も生まれる。
実際には、その中間が正確である。
Jupiterは危機前から撤去対象だった。
正式な公開交換協定にはされなかった。
しかしソ連側には撤去の具体的見通しが秘密裏に伝えられた。
危機解決において無関係ではない。
この複雑さを残すことが重要である。
事実確認
| 論点 | 判定 | 補足 |
|---|---|---|
| 10月26日のKhrushchev書簡は不侵攻保証を軸とする出口を示した | FACT | 米国がCubaを侵攻しないことを提案の中核に置く |
| 10月26日の書簡でTurkeyのJupiter撤去が明確な条件になっていた | FALSE | 明示的なTurkey交換条件は27日の第二書簡で前面化 |
| 10月27日の第二書簡はCuba撤去とTurkey撤去の相互交換を提案した | FACT | FRUS本文に明記 |
| Kennedy政権は第二書簡へそのまま公開回答した | FALSE | 26日の第一書簡を軸に回答 |
| 10月27日の公開回答にJupiter撤去約束が書かれていた | FALSE | 公開文面ではTurkeyを扱わない |
| Robert KennedyとDobryninは10月27日夜に秘密会談した | FACT | RFK memo / Dobrynin cable双方で確認 |
| RFKはDobryninへ「Jupiterは絶対に撤去しない」と伝えた | FALSE | 公的quid pro quoは拒否したが、秘密裏に撤去見通しを伝えた |
| Dobrynin電報ではJupiter撤去に4〜5か月必要との説明が記録されている | FACT | ソ連側当夜記録 |
| Jupiter撤去は危機以前には全く検討されていなかった | FALSE | 米側は以前から旧式・脆弱として撤去を検討 |
| だからJupiterは危機終結と完全に無関係だった | FALSE | 秘密了解で撤去見通しが直接伝えられた |
| Khrushchevは10月28日にキューバの攻撃用兵器解体・撤去を公表した | FACT | Radio Moscowを通じて発表 |
| TurkeyのJupiterは1962年10月28日に即日撤去された | FALSE | 実際の撤去は1963年春 |
| Turkeyで最後のJupiterが撤去されたのは1963年4月 | FACT | McNamaraは4月25日、最後の1基が前日に撤去されたと報告 |
まとめ――危機を終わらせたのは「相手を完全に負かさない取引」だった
10月27日、軍事的には危機が最悪の水準へ近づいた。
U-2が撃墜された。
侵攻準備が進む。
ミサイルサイトは運用可能になっていく。
その一方で、政治的な出口も同じ日に形成された。
Khrushchevの10月26日書簡には、不侵攻保証を軸とする出口があった。
27日の第二書簡ではTurkeyのJupiter撤去が要求された。
Kennedy政権は、公開上は第一書簡へ答えた。
しかし秘密裏にはRobert Kennedyを通じてDobryninへ、
Jupiter撤去は数か月以内に可能。
ただし公表できない。
という見通しを伝えた。
翌28日、Khrushchevはキューバのミサイル撤去を公表する。
この決着を、
「Kennedyが勝ち、Khrushchevが負けた」
だけで説明すると、秘密交渉が消える。
逆に、
「実は完全なミサイル交換だった」
だけで説明すると、不侵攻保証、NATO政治、Jupiterの事前撤去構想、公開・秘密チャネルの違いが消える。
実際には、
公開合意と秘密了解を組み合わせ、双方が国内・同盟内で受け入れ可能な別々の説明を持てる形を作った
ことが危機終結の核心だった。
核戦争を避けるには、相手を追い詰めるだけでは足りない。
相手が引き返せる出口を作る必要がある。
そして時には、その出口の一部を公表しないことさえ必要になる。
ただし10月28日で全てが終わったわけではない。
ソ連が実際に何を撤去したのか。
アメリカは何を把握していなかったのか。
キューバにはどの核兵器が残っていたのか。
次回ARTICLE08では、冷戦後に公開されたソ連側資料を使い、
1962年当時のアメリカが知らなかった戦術核兵器の実態
を検証する。
危機当時にWashingtonが見ていた「核戦力」と、後年になって判明した「実際の核戦力」の差を分けて見る。
FACT CHECK|出典・参考資料
- [1] Foreign Relations of the United States, 1961–1963, Volume XI, Document 84, Khrushchev letter of October 26, 1962
- [2] Foreign Relations of the United States, 1961–1963, Volume XI, Document 91, Khrushchev message of October 27, 1962
- [3] Foreign Relations of the United States, 1961–1963, Volume VI, Document 67, Kennedy reply of October 27, 1962
- [4] Foreign Relations of the United States, 1961–1963, Volume XI, Document 96, Robert Kennedy memorandum on meeting with Anatoly Dobrynin
- [5] Foreign Relations of the United States, 1961–1963, Volume XI, Document 90, Summary Record of the Seventh Meeting of the Executive Committee
- [6] John F. Kennedy Presidential Library and Museum, “October 26, 1962”
- [7] John F. Kennedy Presidential Library and Museum, “October 27, 1962”
- [8] John F. Kennedy Presidential Library and Museum, “October 28, 1962”
- [9] National Security Archive, “Soviet Embassy Telegram to the Soviet Foreign Ministry from Ambassador Dobrynin reporting on Meeting with Robert Kennedy,” October 27, 1962
- [10] National Security Archive, “Justice Department Memorandum from the Attorney General to the Secretary of State,” October 30, 1962
- [11] National Security Archive, “The Jupiter Missiles and the Cuban Missile Crisis Endgame”
- [12] National Security Archive, Note from Secretary of Defense McNamara to President Kennedy, April 25, 1963
キューバ危機|核戦争を避けた13日間はどう進んだのか 第7回 全9回 全9回を見る
- 01 キューバ危機とは何だったのか?|「13日間」で核戦争寸前まで進んだ1962年10月
- 02 キューバ危機|なぜソ連はキューバに核ミサイルを置いたのか?|ピッグス湾、アナディル作戦、トルコのジュピター
- 03 キューバ危機|米国はどうソ連ミサイルを発見したのか?|U-2偵察写真と10月14〜16日の情報分析
- 04 キューバ危機|ケネディはなぜ空爆ではなく「海上隔離」を選んだのか?|ExCommの6日間
- 05 キューバ危機|「海上隔離」はどう機能したのか?|10月22〜26日の米海軍とソ連船
- 06 キューバ危機|1962年10月27日「ブラック・サタデー」に何が起きたのか?|U-2撃墜、B-59、誤算の連鎖
- 07 キューバ危機はどう終わったのか?|フルシチョフ二通の書簡と秘密のジュピター撤去
- 08 キューバ危機|米国が知らなかった戦術核はどこまで配備されていたのか?|後年のソ連・キューバ資料で見直す危機
- 09 キューバ危機は本当に「13日間」で終わったのか?|11月の撤去確認からホットライン・核実験禁止へ