1996年5月10日のエベレストでは、ひとつの登山隊だけが山頂を目指していたわけではない。
ネパール側の南東稜には、ロブ・ホール率いるAdventure Consultants、スコット・フィッシャー率いるMountain Madness、マカルー・ガウ率いる台湾隊など、複数の遠征隊が入っていた。さらにベースキャンプ周辺には、デイヴィッド・ブリーシアーズ率いるIMAX撮影隊をはじめ、別の遠征隊も活動していた。
その中で事故の中心となった2つの隊には、共通点があった。
どちらも、プロの登山家が料金を支払った顧客をエベレストへ案内する「商業ガイド登山」の隊だった。
では、1996年当時の商業登山とはどのようなものだったのか。
顧客はどこまで自分で登り、ガイドはどこまで安全を保証できたのか。
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1996年エベレスト大量遭難特集(全10回)
1996年春のエベレストで起きた大量遭難を、商業登山隊の構成、南東稜の地形、
5月10日の登頂行動、下降中の悪天候、救助、Hall隊・Fischer隊それぞれの最終局面、
北側で起きた遭難、事故後の原因論争まで順番に追います。
CASE FILE 24|全10回
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第1回 1996年エベレスト大量遭難とは?|5月10〜11日、世界最高峰で何が起きたのか
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第2回 1996年のエベレストに誰がいたのか|Adventure Consultants、Mountain Madnessと商業登山の時代
[現在の記事] -
第3回 エベレスト南東稜はどんなルートだったのか|サウス・コル、デスゾーン、補助酸素と山頂への道
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第4回 5月10日、登頂隊はなぜ遅れたのか|深夜の出発からヒラリー・ステップ、山頂到達まで
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第5回 山頂からの下降中、何が起きたのか|吹雪、視界喪失、酸素とサウス・コルへの迷走
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第6回 吹雪のサウス・コルで誰が救われたのか|アナトリ・ブクレーエフの救助とベック・ウェザーズの生還
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第7回 ロブ・ホールに何が起きたのか|ダグ・ハンセン、アンディ・ハリスと南峰での最後の交信
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第8回 スコット・フィッシャーとMountain Madnessに何が起きたのか|ブクレーエフをめぐる評価も検証する
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第9回 北側ルートでも3人が死亡していた|ITBP隊と1996年5月10日のエベレスト北東稜
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第10回 1996年エベレスト大量遭難はなぜ起きたのか|天候・判断・渋滞・酸素・商業登山を分解する
先に結論|1996年には「エベレストを案内する会社」がすでに成立していた
1996年のエベレスト大量遭難を理解するうえで、まず押さえておきたいのは、
商業登山がこの年に突然始まったわけではないということである。
エベレスト登頂は1953年の初登頂以降、長い間、国家隊や山岳会、大規模遠征隊を中心に行われてきた。
しかし1980年代から1990年代にかけて、高所登山の経験を持つプロが、
料金を支払った登山者を8000m峰へ案内するガイド会社が発達していった。
Adventure Consultantsはその代表的な会社のひとつだった。
ロブ・ホールとゲイリー・ボールは1991年に会社を設立し、
翌1992年には顧客を募集してエベレスト遠征を実施している。
同社はこの1992年遠征を、自社史の中で最初の本格的な商業ガイド付きエベレスト遠征と位置づけている。
一方のMountain Madnessは、スコット・フィッシャーらが1980年代から育ててきた登山・冒険旅行会社だった。
フィッシャー自身はK2やエベレストなどの高峰を登った経験を持つ登山家で、
1996年には自らエベレスト商業隊を率いた。
つまり1996年の事故は、
「素人が突然エベレストへ押し寄せた事故」ではない。
経験豊富なプロガイド、一定の登山歴を持つ顧客、高所作業を担うシェルパ、
複数の商業・非商業遠征隊が同じルートで活動するという、
1990年代に成立しつつあったエベレスト登山の新しい形の中で起きた事故だった。
ロブ・ホールは「登山家」から「高所ガイド」へ進んだ
ロブ・ホールはニュージーランド出身の登山家だった。
1990年にはゲイリー・ボールとともに、
7大陸最高峰を7か月で登る「Seven Summits in Seven Months」を達成する。
エベレスト山頂から衛星電話を使ってニュージーランドのテレビへ連絡したこともあり、
2人は母国で広く知られる存在となった。
翌1991年、2人は「Hall and Ball Adventure Consultants」を設立した。
彼らが売ろうとしたものは、単なる旅行ではない。
高所遠征の計画、許可、物資輸送、キャンプ設営、高所シェルパ、
補助酸素、ルート上の安全管理、登頂日の判断といった、
個人だけでは準備が難しい要素を一つの遠征として組み立て、
プロガイドが顧客とともに山へ入る仕組みだった。
Adventure Consultantsによれば、
1992年のエベレスト遠征では10人の顧客を選抜し、
ホール、ボール、ガイ・コッターらとともに登山を行った。
そのうち6人の顧客と4人のシェルパが山頂へ到達した。
この成功は、ホールの会社に大きな実績を与えた。
以後、Adventure Consultantsはエベレストだけでなく、
世界各地の高峰へ顧客を案内する会社へ成長していく。
1996年のAdventure Consultantsには3人の主要ガイドがいた
1996年、ロブ・ホールは再びエベレストへ戻った。
この年、Adventure Consultantsの高所ガイドを務めた主要メンバーは、
ホール自身のほか、マイケル・グルームとアンディ・ハリスだった。
| 人物 | 役割 | 1996年時点の位置づけ |
|---|---|---|
| ロブ・ホール | 隊長・ガイド | Adventure Consultants創設者。複数回のエベレスト経験を持つ高所ガイド。 |
| マイケル・グルーム | ガイド | 1993年に無酸素でエベレスト登頂経験を持つオーストラリア人登山家。 |
| アンディ・ハリス | ガイド | ニュージーランド人ガイド。1996年にHall隊の高所ガイドとして参加。 |
このほか、アング・ドルジェ・シェルパをはじめとするシェルパスタッフ、
ベースキャンプ・マネージャー、医師などが遠征を支えていた。
エベレスト遠征は「ガイド1人と顧客数人」が歩いて登るだけの活動ではない。
数週間にわたる高度順応、食料・燃料・酸素の配置、
複数の高所キャンプの維持、ルート工作、無線連絡、医療、
荷揚げなど、多数の人間によって運用される。
山頂へ向かう最後の数時間だけを見ると個人競技のように見えるが、
そこへ到達するまでには遠征隊という組織が必要だった。
顧客は「山に登ったことのない観光客」ではなかった
1996年事故について後年よく語られるのが、
「裕福な素人をプロが無理にエベレストへ連れていった」というイメージである。
しかし、実際の顧客の経歴を見ると、この説明は単純すぎる。
Adventure Consultantsのベック・ウェザーズは、
1996年までに各大陸最高峰を6座登っており、
エベレストがSeven Summits最後の山になる予定だった。
難波康子も同様に、エベレスト登頂によって7大陸最高峰を完成させることを目指していた。
実際に5月10日に登頂し、日本人女性として2人目のSeven Summits達成者となった。
ルー・カシシュケをはじめ、ほかの顧客にも長い登山経験を持つ者がいた。
Mountain Madness側でも、シャーロット・フォックスはプロのスキーパトロール隊員で救急医療の経験を持ち、
すでに複数の8000m峰へ登っていた。
つまり「顧客」という言葉は、
「登山経験がない」という意味ではない。
彼らは料金を支払ってガイドサービスを利用する立場ではあったが、
高所登山の経験を積んでエベレストへ来た者も少なくなかった。
FACT CHECK|「商業隊の顧客=初心者」ではない
1996年事故を説明する際、「金持ちの素人がエベレストへ連れていかれた」と表現されることがある。
しかしPBS FRONTLINEに残されたAdventure Consultants隊員ジョン・タスケの証言では、
同隊の顧客には相応の登山歴があり、
単純に経験のない富裕層として扱う報道に反論している。
ベック・ウェザーズや難波康子はSeven Summitsを進めており、
Mountain Madnessのシャーロット・フォックスにも高度登山経験があった。
一方で、8000m級の極限環境では経験差や体力差が重大な意味を持つ。
「初心者ではなかった」ことと「全員が自立してエベレストを登れる能力を持っていた」ことは同じではない。
スコット・フィッシャーのMountain Madnessは、Hall隊とは少し違う会社だった
もう一つの主要商業隊を率いたのが、アメリカ人登山家スコット・フィッシャーだった。
フィッシャーは1980年代からMountain Madnessを育ててきた。
会社名の通り、活動はエベレストだけではなく、
アフリカ、ヒマラヤ、岩壁、スキーなど幅広い冒険旅行を扱っていた。
フィッシャー自身は高所登山家としても高い実績を持っていた。
K2、エベレスト、ローツェなどを登り、
エベレストについては1996年が初登頂ではなかった。
Mountain Madnessの社史では、
フィッシャーは人々を山へ連れていき、冒険そのものを共有することを会社の中心に置いていたと説明されている。
1996年春、その会社が本格的なエベレスト商業遠征を実施した。
Mountain Madnessにはフィッシャー、ベイドルマン、ブクレーエフがいた
Mountain Madness隊の主要ガイドは、
スコット・フィッシャー、ニール・ベイドルマン、アナトリ・ブクレーエフだった。
| 人物 | 役割 | 特徴 |
|---|---|---|
| スコット・フィッシャー | 隊長・ガイド | K2、エベレストなどの高所登山経験を持つMountain Madness創設者。 |
| ニール・ベイドルマン | ガイド | 1994年にマカルー登頂経験。1996年が初めてのエベレスト登頂挑戦。 |
| アナトリ・ブクレーエフ | ガイド | カザフスタン出身の著名な高所登山家。8000m峰で豊富な経験を持っていた。 |
顧客には、サンディ・ヒル、ティム・マドセン、シャーロット・フォックス、
レネ・ガメルガード、マーティン・アダムズ、クレフ・ショーニングらが参加していた。
ここでも重要なのは、
「プロの3人が全顧客のすぐ横を常に歩く」という運用ではなかったことである。
登山者は高度順応を重ねながら山を上下し、
登頂日には長い隊列へ分散する。
ルート上ではシェルパスタッフも重要な役割を担う。
Mountain Madnessではロプサン・ジャンブー・シェルパをはじめ、
高所スタッフが物資輸送や登攀支援を行っていた。
「ガイドがいる」と「安全が保証される」はまったく違う
一般的な旅行では、ガイドがいれば利用者は案内に従うことで大部分の危険を回避できる。
しかし標高8,000mを超える場所では、その関係が成立しにくくなる。
ガイド自身も低酸素、疲労、寒さにさらされる。
顧客が動けなくなったとしても、人ひとりを背負って安全地帯まで下ろすことは容易ではない。
PBS FRONTLINEでガイ・コッターは、
高所ガイドには自分自身の安全だけでなく、
顧客をどこまで進ませるかという判断責任があると語っている。
ニール・ベイドルマンも、
極限高度ではガイド自身が生き延びるだけでも困難であり、
そこへ顧客に対する責任が加わることの難しさを振り返っている。
つまり商業登山で購入できるのは、
「登頂保証」ではない。
経験のあるガイド、遠征計画、ルート情報、補助酸素、
シェルパ支援、キャンプ、通信などを含んだ登頂の機会である。
最終的には顧客自身が歩かなければならず、
高所で完全に動けなくなれば、ガイドにもできることには限界がある。
ガイドと顧客の間には、難しい判断問題があった
それでも商業登山には、個人遠征とは異なる問題がある。
顧客はエベレストへ登るために長期間準備し、
会社へ料金を支払い、仕事や家庭を離れ、ネパールまで来ている。
目の前に山頂が見えている状況で、
ガイドから「ここで引き返す」と言われれば、
簡単に納得できるとは限らない。
一方でガイドの役割は、
顧客の希望をかなえることだけではない。
登頂できる体力が残っているか。
酸素は十分か。
時間は遅すぎないか。
天候は悪化していないか。
下降まで含めて生還できるか。
それを判断して、ときには山頂直前でも顧客を引き返させなければならない。
ここに商業高所登山特有の緊張関係がある。
「山頂へ連れていくサービス」と、
「山頂を諦めさせる安全判断」が、
同じガイドの役割に含まれているのである。
ただし「客を登頂させたかったから事故が起きた」とは断定できない
1996年の事故後、
Adventure ConsultantsとMountain Madnessの間に競争意識があったのではないか、
商業的な成功を求める圧力が登頂判断へ影響したのではないか、
という議論が起きた。
この論点は現在でも事故を語る際によく使われる。
しかし、慎重に分ける必要がある。
商業登山という構造が存在したことは事実である。
顧客が料金を支払い、プロガイドが登頂を支援していたことも事実である。
一方で、
ロブ・ホールやスコット・フィッシャーが「会社の評判や料金のために危険を承知で登頂を続けさせた」と断定できる直接資料はない。
特に2人とも事故で死亡しているため、
5月10日に個々の判断を下した際の内心を完全に確認することはできない。
商業登山は事故を考える重要な背景ではあるが、
それ自体を即座に事故原因とすることはできない。
1996年春、ネパール側にはHall隊とFischer隊以外にも多数の遠征隊がいた
Himalayan Databaseで1996年春のエベレスト遠征を検索すると、
ネパール側だけでも14の遠征隊が記録されている。
その中には、
Adventure Consultants、Mountain Madness、台湾隊だけでなく、
デイヴィッド・ブリーシアーズ率いるIMAX撮影隊、
南アフリカ隊、イギリス隊、スウェーデンのヨーラン・クロップ、
ピーター・アサンス率いるアメリカ隊などが含まれていた。
全員が5月10日に同じ場所へ集中したわけではない。
しかし、エベレストという限られたルートに、
国籍も目的も異なる複数の登山隊が同時期に存在していたことは重要である。
ルート工作や固定ロープ、
高所キャンプ、天候情報、
救助活動は、完全に一隊だけで完結するとは限らない。
実際、5月10日の事故後には、
直接遭難した2つの商業隊以外の登山家やシェルパも救助に加わった。
IMAX隊は、事故の「外側」にいた重要な存在だった
1996年春のエベレストには、
映画監督・登山家デイヴィッド・ブリーシアーズが率いるIMAX撮影隊もいた。
彼らの目的は商業ガイドではなく、
大型映像作品の撮影を行いながらエベレストへ登ることだった。
IMAX隊はHall隊やFischer隊とは別の日程を組んでおり、
5月10日の大量遭難そのものには巻き込まれなかった。
しかし事故が起きると登頂計画を中断し、
隊員や酸素などの資源を救助活動へ振り向けた。
Adventure Consultantsも後年、
1996年の事故では競合する商業会社や別隊が自分たちの登山計画を止め、
救助へ協力したことを重要な出来事として記録している。
エベレスト上では会社同士が別々の遠征を行っていても、
重大事故が起これば、完全な競争関係だけではいられなかった。
シェルパは「荷物を運ぶ補助員」だけではない
商業登山を説明するとき、もう一つ見落としやすいのがシェルパスタッフの存在である。
エベレスト遠征では、
大量の食料、燃料、テント、補助酸素などを高所へ運ぶ必要がある。
さらにルート工作、高所キャンプの設営、
顧客の支援、酸素ボンベの配置など、
登頂活動そのものを成立させる仕事を担っていた。
Adventure Consultantsではアング・ドルジェ・シェルパがクライミング・サーダーとして参加し、
Mountain Madnessではロプサン・ジャンブー・シェルパらが高所活動を支えた。
1996年の事故をHall、Fischer、Krakauer、Boukreevといった著名な登山家だけの物語として見ると、
遠征を実際に動かしていた組織の半分が見えなくなる。
商業エベレスト登山とは、
「顧客+欧米人ガイド」だけではなく、
多数のネパール人高所スタッフを含む遠征システムだった。
商業化によって、エベレストは「簡単な山」になったのか
答えは明確に、そうではない。
商業ガイド会社によって、
個人では準備が困難だったエベレスト遠征へ参加する道は広がった。
ルート、キャンプ、酸素、食料、現地輸送、シェルパ、
高所ガイドといった要素を会社側が組織することで、
登山者は自ら巨大な遠征隊を作らなくても山頂を目指せるようになった。
しかし、それは標高8,849m級の環境そのものを安全にしたわけではない。
低酸素、寒さ、強風、雪崩、転落、急変する天候、
高所脳浮腫や高所肺水腫といったリスクは残る。
さらに高所では、
ガイドが近くにいても顧客を物理的に救出できない場合がある。
商業化によって「参加するための障壁」は下がった。
だが、
「山で生き残るための物理的条件」が変わったわけではなかった。
1996年5月10日、3つの隊が同じ登頂サイクルへ入った
5月6日、Adventure Consultants、Mountain Madness、台湾隊は、
ベースキャンプから最終登頂行動を開始した。
高度順応を終えた登山者たちはCamp II、Camp IIIへ進み、
サウス・コルのCamp IVを経て、
5月10日に山頂を目指す予定だった。
ここから、事故の物語は「会社や人物の背景」から、
実際の山の上へ移っていく。
同じ山頂を目指していても、
登山者の体力、速度、酸素消費量は同じではない。
標高が上がれば隊列は伸びる。
ガイドと顧客の距離も開く。
狭い通過点では待ち時間が生じる。
そして最終キャンプから山頂までは、
一般の登山では考えにくいほど低酸素の環境で、
十数時間に及ぶ行動になることがある。
次に理解しなければならないのは、
この人々が「どこを登っていたのか」である。
商業登山を知ると、1996年事故の見え方が変わる
1996年エベレスト大量遭難は、
単に「経験不足の人々が悪天候に巻き込まれた事故」ではない。
ロブ・ホールは何度もエベレストへ入っていた。
スコット・フィッシャーも世界有数の高所登山家だった。
マイケル・グルームやアナトリ・ブクレーエフにも豊富な経験があった。
顧客側にも、Seven Summitsや8000m峰を経験した登山者がいた。
そしてその背後には、
高所シェルパ、ベースキャンプスタッフ、医師、他の遠征隊がいた。
それでも、5月10日には状況を制御できなくなった。
だから重要なのは、
「誰が未熟だったのか」という一人の責任へ縮小することではない。
経験のある人間を集め、
ガイド、顧客、シェルパ、酸素、キャンプ、ルートというシステムを整えても、
標高8,000mを超える場所では安全の余裕が非常に小さい。
そこへ時間の遅れと悪天候が加わったとき、
遠征全体がどのように崩れていったのか。
それが1996年事故の中心にある。
次回は人物からいったん離れ、
事故現場そのものを見る。
ベースキャンプからクンブ・アイスフォール、西部クーム、ローツェ・フェイス、
サウス・コル、バルコニー、南峰、ヒラリー・ステップ、山頂へ。
1996年5月10日、登山者たちはどのようなルートを登り、
なぜ標高8,000mより上で一度の遅れが重大な意味を持ったのかを整理する。
CASE FILE 24|1996年エベレスト大量遭難特集
- 第1回 1996年エベレスト大量遭難とは?|5月10〜11日、世界最高峰で何が起きたのか
- 第2回 1996年のエベレストに誰がいたのか|Adventure Consultants、Mountain Madnessと商業登山の時代 [現在の記事]
- 第3回 エベレスト南東稜はどんなルートだったのか|サウス・コル、デスゾーン、補助酸素と山頂への道
- 第4回 5月10日、登頂隊はなぜ遅れたのか|深夜の出発からヒラリー・ステップ、山頂到達まで
- 第5回 山頂からの下降中、何が起きたのか|吹雪、視界喪失、酸素とサウス・コルへの迷走
- 第6回 吹雪のサウス・コルで誰が救われたのか|アナトリ・ブクレーエフの救助とベック・ウェザーズの生還
- 第7回 ロブ・ホールに何が起きたのか|ダグ・ハンセン、アンディ・ハリスと南峰での最後の交信
- 第8回 スコット・フィッシャーとMountain Madnessに何が起きたのか|ブクレーエフをめぐる評価も検証する
- 第9回 北側ルートでも3人が死亡していた|ITBP隊と1996年5月10日のエベレスト北東稜
- 第10回 1996年エベレスト大量遭難はなぜ起きたのか|天候・判断・渋滞・酸素・商業登山を分解する
出典・参考資料
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Adventure Consultants — History
ロブ・ホールとゲイリー・ボールによる会社設立、
1992年エベレスト商業ガイド遠征、1996年隊のガイド構成、
事故後の高所ガイド業界について確認。
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Mountain Madness — Our History
Mountain Madnessの成立、スコット・フィッシャーの登山歴、
会社の活動思想と1996年エベレスト遠征について確認。
-
PBS FRONTLINE — Storm Over Everest / Facts & Statistics
1996年5月10〜11日に南東稜で活動していたAdventure Consultants、
Mountain Madness各隊のガイド・顧客・シェルパ構成を確認。
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PBS FRONTLINE — How The Media Covered It
「商業隊の顧客=未経験者」という単純化に対する当事者証言、
顧客登山者の経験に関する確認に使用。
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PBS FRONTLINE — Leadership And Responsibility On The Mountain
商業高所登山におけるガイドの判断責任、
顧客とガイドの関係についてGuy Cotter、Neal Beidlemanらの証言を参照。
-
The Himalayan Database — Online Guide
1996年春のネパール側エベレスト遠征一覧、
Mountain Madness、Adventure Consultants、IMAX隊など
同時期に活動した遠征隊の確認に使用。
-
PBS FRONTLINE — The Hour-By-Hour Unfolding Disaster
Adventure Consultants、Mountain Madness、台湾隊が5月6日から
最終登頂サイクルへ入った経過を確認。
本記事では、「商業登山だったから事故が起きた」という単一原因化を避けています。
商業ガイド会社、顧客、高所ガイド、シェルパによる遠征構造は資料から確認できますが、
その商業的関係がロブ・ホールやスコット・フィッシャー個人の5月10日の判断へ
どの程度影響したかについては、直接確認できない部分があります。
また「顧客=初心者」という表現も、参加者の実際の登山歴と一致しないため使用していません。