1996年5月10日の午後。
エベレスト山頂へ到達した登山者たちは、次々に下降を始めた。
ここからCamp IVまでは、登ってきた道を戻ればよい。
ヒラリー・ステップを下り、南峰を越え、バルコニーを通過し、
標高約8,000mのサウス・コルまで戻る。
ルートは分かっていた。
それでも、その夜にはCamp IVのすぐ近くまで下降しながら、
テントを見つけることができない登山者が現れた。
視界が消えた。
酸素が減った。
身体が動かなくなった。
そして広いサウス・コルの雪原を、
複数の登山者がCamp IVを探してさまようことになる。
第4回で積み上がった「時間の遅れ」が、
ここから実際の遭難へ変わっていく。
CASE FILE 24
1996年エベレスト大量遭難特集(全10回)
1996年春のエベレストで起きた大量遭難を、商業登山隊の構成、南東稜の地形、
5月10日の登頂行動、下降中の悪天候、サウス・コルでの救助、
Hall隊とFischer隊それぞれの最終局面、北側の遭難、事故後の原因論争まで順番に追います。
CASE FILE 24|全10回
- 第1回 1996年エベレスト大量遭難とは?|5月10〜11日、世界最高峰で何が起きたのか
- 第2回 1996年のエベレストに誰がいたのか|Adventure Consultants、Mountain Madnessと商業登山の時代
- 第3回 エベレスト南東稜はどんなルートだったのか|サウス・コル、デスゾーン、補助酸素と山頂への道
- 第4回 5月10日、登頂隊はなぜ遅れたのか|深夜の出発からヒラリー・ステップ、山頂到達まで
- 第5回 山頂からの下降中、何が起きたのか|吹雪、視界喪失、酸素とサウス・コルへの迷走 [現在の記事]
- 第6回 吹雪のサウス・コルで誰が救われたのか|アナトリ・ブクレーエフの救助とベック・ウェザーズの生還
- 第7回 ロブ・ホールに何が起きたのか|ダグ・ハンセン、アンディ・ハリスと南峰での最後の交信
- 第8回 スコット・フィッシャーとMountain Madnessに何が起きたのか|ブクレーエフをめぐる評価も検証する
- 第9回 北側ルートでも3人が死亡していた|ITBP隊と1996年5月10日のエベレスト北東稜
- 第10回 1996年エベレスト大量遭難はなぜ起きたのか|天候・判断・渋滞・酸素・商業登山を分解する
先に結論|登山者は「ルートを知らなかった」のではない
5月10日夜の大量遭難を、
「吹雪で道に迷った」とだけ説明すると重要な部分が抜け落ちる。
下降していた登山者の中には、
エベレスト経験を持つガイドや高所登山経験者がいた。
南峰からバルコニー、サウス・コルへ続くルートも、
その日の朝に自分たちが登ってきた道だった。
問題は、その道を認識し続けるために必要な条件が失われたことである。
夕方から雪と風が強くなる。
暗くなる。
固定ロープや足跡が雪に埋もれる。
身体は十数時間の行動で消耗している。
補助酸素も残り少ない、あるいは使い切った登山者がいる。
低酸素と低体温によって、判断力と歩行能力も低下する。
この状態で視界が数mまで落ちれば、
知っている場所でも方向を維持することは難しい。
1996年5月10日の夜、
こうした要素が同時に重なった。
午後|先に登頂した者から下降を始めた
午後2時前後から、
Adventure ConsultantsとMountain Madnessの登頂者たちは順次山頂を離れた。
先に下降した中には、
アナトリ・ブクレーエフ、ジョン・クラカワー、マーティン・アダムズらがいた。
一方、山頂付近にはまだ登ってくる者がいた。
ロブ・ホールとダグ・ハンセン。
スコット・フィッシャーとロプサン・ジャンブー・シェルパ。
登頂者全体が一つの集団として下降していたわけではない。
先頭と最後尾の間には、
大きな時間差が生まれていた。
このため午後以降の事故は、
一つの場所で全員に同じことが起きたわけではない。
山頂付近、南峰、バルコニー、サウス・コル。
異なる地点で、
別々の危機が同時進行していく。
ここで、山頂からSouth Colまでの大きな位置関係を確認しておく。
出典:Wikimedia Commons「Lage des Mount Everest.PNG」、Kino、CC BY-SA 3.0。
2007年に作成された概略図であり、1996年5月10日の固定ロープ、Camp IVのテント配置、登山者ごとの正確な位置、吹雪の中での迷走経路を再現するものではない。
この図で確認するのは、山頂、南峰、South Colの大きな位置関係までである。1996年5月10日夜の遭難者の正確な位置や、Camp IVのテント配置は示していない。
下降でもヒラリー・ステップがボトルネックになった
山頂を離れれば、
最初の大きな難所は再びヒラリー・ステップだった。
問題は、
まだ登頂を目指して上がってくる登山者がいたことである。
狭い岩場で使用できる固定ロープは限られる。
下降者は、
上ってくる人が通過するまで待つことになる。
Charlotte Foxは後の記録で、
下降時にもHillary Stepで登頂者との行き違いがあり、
混雑が続いていたことを記している。
登りで生じた遅れは、
山頂へ着いた瞬間にリセットされなかった。
同じボトルネックを逆向きに通ることで、
下降でも時間を失った。
天候は、ゆっくり悪くなったのではなかった
生存者の証言で特徴的なのは、
天候の変化が非常に急だったという点である。
Adventure ConsultantsのLou Kasischkeは、
直前まで下方のCamp IVが見えていたのに、
短時間で見えなくなったと振り返っている。
John Taskeも、
比較的良好だった状況が数分程度で
非常に激しい条件へ変わったと証言している。
山の上では、
遠くから雲が近づいてくる様子を長時間観察できたとは限らない。
一部の登山者が下降している最中に、
雪と風が急速に強まった。
明るいうちなら見えていた地形が、
短時間で白い雪と雲の中へ消えていった。
Michael Groomは、下降途中でBeck Weathersを見つけた
Adventure ConsultantsのガイドMichael Groomが下降していると、
雪の中に人影が現れた。
Beck Weathersだった。
Weathersは早朝に視覚障害を起こし、
登頂を中止していた。
ロブ・ホールの指示に従い、
登頂隊が戻ってくるのを長時間待っていた。
Groomが見つけた時には、
身体に雪が積もっていた。
Weathersはほとんど見ることができない状態だった。
GroomはWeathersを短いロープで自分につなぎ、
下降を始める。
視覚を失ったWeathersは、
Groomの動きについていくしかなかった。
足を置いた場所に地面がないような危険な場面もあったと、
後に本人が証言している。
さらに下で、難波康子も動けなくなっていた
GroomがWeathersを連れて下降している途中、
今度は難波康子を発見した。
難波は5月10日にエベレスト山頂へ到達していた。
しかし下降中には極度に疲労し、
雪上で座り込むほど動けなくなっていた。
Groomはすでに視覚障害を抱えたWeathersを支えていた。
そこへ、自力歩行が難しい難波が加わる。
一人のガイドが、
同時に二人の顧客を安全に下降させることは極めて難しい。
Mountain MadnessのガイドNeal Beidlemanが状況に気付き、
難波を支援した。
この時点では、
どの会社の顧客かという区別はほとんど意味を失っていた。
生きて下へ戻れる人間が、
動けない人間を支える。
事故はすでに、
「Adventure Consultants」と「Mountain Madness」という
別々の遠征隊の問題ではなくなっていた。
South Colまで下りれば安全だったのか
ここで、地理上の重要な点がある。
South Colは、
Camp IVそのものの名前ではない。
エベレストとローツェの間に広がる大きな鞍部の名前である。
その広い雪原の一角に、
複数の遠征隊のテントが設置されていた。
つまりSouth Colへ下降できても、
Camp IVのテントまで到達したことにはならない。
晴れていれば、
テントや登山者の足跡を見つけられる。
しかし完全に視界が失われれば、
広い白い雪原のどこに自分がいるのか判断しにくくなる。
その違いが、
5月10日夜の生死を分けた。
テントは近くにあった。それでも見つからなかった
Neal Beidlemanらが率いる下降グループは、
South Colまで高度を下げた。
本来なら、Camp IVはもう遠くない。
しかし吹雪で視界が失われていた。
テントの灯りも見えない。
方向を示す明確な地形も見えない。
Beidlemanは後年、
自分たちが選んだ方向が偶然Camp IVへ近づいていたから助かったのであり、
わずかに方向が違えば、
テントを通り過ぎてSouth Col上を歩き続けていたかもしれないと振り返っている。
距離が短いことは、
視界がない状況では安全を意味しない。
歩き続けること自体が危険になった
一行はCamp IVを探して進んだ。
しかしSouth Colの東側には、
カンシュン側へ落ち込む危険な地形がある。
Charlotte Foxの記録では、
暗闇の中で足元の氷が突然なくなるような場所に近づいた。
Beidlemanも危険を察知し、
全員にその場から下がるよう指示した。
視界がない状態で進み続ければ、
Camp IVを見つけるどころか、
地形から転落する可能性があった。
ここで一行は、
テントを探して歩き続けることを断念した。
吹雪が弱まり、
方向を確認できるようになるまで待つ。
標高約8,000mの屋外で、
その判断をすることになった。
South Colの雪上で、一行は固まって夜を耐えた
動けなくなった登山者たちは、
一か所へ集まった。
風を完全に避ける壁はない。
テントもない。
暖房もない。
残っている体温を少しでも維持するため、
互いに身体を寄せた。
Mountain MadnessのCharlotte Foxは、
気温は約−40度、風速は70mph前後に達したと当時の状況を記している。
これは後から示された推定値であり、
その場所で正確に気象観測された値として扱うべきではない。
しかし、その夜が人間の生存限界に近い環境だったことに疑いはない。
彼らは前夜からほとんど眠っていない。
十分な食事も水分も取れていない。
山頂まで往復する長時間行動を終えたばかりだった。
そして補助酸素にも余裕がなかった。
「止まれば凍る。しかし歩けば崖へ行くかもしれない」
ここには、高所遭難特有の矛盾がある。
低体温を防ぐには身体を動かした方がよい。
しかし視界がない状態で歩けば、
Camp IVとは逆方向へ進むかもしれない。
South Colの端から危険な斜面へ出る可能性もある。
だから一行は、
その場で身体を動かしながら耐えるしかなかった。
Tim MadsenやKlev Schoeningらは、
周囲に声を掛け、
手足を動かし続けるよう促した。
しかし時間が経つほど、
反応は弱くなっていった。
Charlotte Fox自身も、
次第に身体を動かす力を失っていったと記録している。
FACT CHECK|「ホワイトアウト」と「吹雪」は同じ意味ではない
1996年事故では「ホワイトアウトになった」と説明されることが多い。
ホワイトアウトは、
雪面、空、地平線などの境界が失われ、
距離や方向、傾斜を視覚的に判断しにくくなる状態を指す。
必ずしも強風を伴うとは限らない。
一方、5月10日夜のSouth Colでは、
強風、降雪、暗闇、雪煙が重なって視界が極端に低下していた。
本記事では、この複合的な視界喪失を説明する際、
単に「ホワイトアウト」という一語だけではなく、
吹雪・暗闇・雪による視認性低下として整理している。
補助酸素がなくなると、何が変わるのか
この時点で一部の登山者は、
補助酸素をほぼ使い切っていた。
Charlotte Foxも、
South Colで夜を耐えた時点では
自分たちに酸素が残っていなかったと記している。
補助酸素がなくなったから、
その瞬間に呼吸できなくなるわけではない。
しかし標高約8,000mでは、
もともと人間が長時間活動できる余裕は極めて小さい。
追加の酸素がなくなれば、
歩行能力、判断力、体温維持などにさらに不利な条件が加わる。
しかも一行は、
すでに十数時間以上活動していた。
「酸素が切れた」という一つの問題ではなく、
低酸素、疲労、脱水、寒冷、睡眠不足が
同時に人体へ作用していた。
高所では「判断する力」そのものも失われる
低酸素の影響は、
脚が動きにくくなることだけではない。
集中力や判断能力も低下する。
Charlotte Foxは、
極端な高度では時間や空間の感覚そのものが影響を受け、
同じ出来事でも人によって認識が異なることを事故後に強調している。
この点は1996年事故の証言を読むうえでも重要である。
誰が何時にどこへいたのか。
誰と一緒だったのか。
どの程度吹雪いていたのか。
証言が完全には一致しないのは、
誰かが意図的に虚偽を述べたからとは限らない。
極限高度で疲労し、
暗闇と吹雪の中にいた人々の記憶だからである。
一方、Camp IVまで先に戻っていた登山者もいた
全員がSouth Colで迷っていたわけではない。
より早く山頂を離れた登山者の一部は、
天候が完全に悪化する前にCamp IVへ到達していた。
Mountain MadnessのガイドAnatoli Boukreevも、
仲間より数時間早くCamp IVへ戻っていた。
Boukreevは山頂で補助酸素を使用せず、
早い段階で下降していた。
この行動は事故後、
大きな論争になる。
「顧客と一緒に下降すべきだった」という批判と、
「Camp IVで回復し、後から救助できる状態にしておくためだった」
というBoukreev側の説明が対立したからである。
ただし5月10日夜に実際に起きたことだけを見るなら、
Camp IVに戻っていたBoukreevが、
その後の救助活動を行うことになる。
その評価は第8回で改めて検証する。
上方では、別の遭難が同時進行していた
South Colで複数の登山者がテントを探しているころ、
さらに高い場所にも人が残っていた。
Rob HallとDoug Hansenは、
South Summit付近まで戻りながら下降できない状態になっていた。
Andy Harrisは酸素と水を持って上方へ向かい、
その後行方が分からなくなった。
さらにMountain MadnessのScott Fischerは、
下降途中のBalcony付近で衰弱していた。
台湾隊のMakalu Gauも、
高所で行動不能に近い状態となっていた。
つまり5月10日夜のエベレストでは、
少なくとも二つの大きな危機が別々の高度で起きていた。
上部では、
自力下降できないHall、Hansen、Fischerら。
下部では、
Camp IVを目前にしながら見つけられない登山者たち。
一つの救助隊でまとめて対応できる状況ではなかった。
深夜近く|一瞬だけ空が開いた
South Colで耐えていた一行にとって、
転機になったのは天候の一時的な変化だった。
何時間か経過したあと、
吹雪が一時的に弱まった。
星が見えた。
周囲の山の形が現れた。
Klev Schoeningらは、
自分たちの位置とCamp IVがある方向を判断できるようになった。
ここで、動ける者がCamp IVへ向かうことになった。
全員を一度に連れていくことはできない。
歩ける人間が先にキャンプへ行き、
救助を呼ぶ。
そうするしかなかった。
一部はCamp IVへ向かった。しかし全員は動けなかった
Neal Beidleman、Michael Groom、Klev Schoening、Lene Gammelgaardら、
まだ歩く力を残していたメンバーはCamp IV方向へ進んだ。
残された側には、
Charlotte Fox、Tim Madsen、Sandy Hill、
難波康子、Beck Weathersらがいた。
FoxやHillは、
立って歩く力そのものを失いつつあった。
Madsenは比較的動ける状態だったが、
Foxらを置いていかず、その場に残った。
難波も著しく衰弱していた。
Weathersも、
長時間の寒冷曝露と視覚障害によって危険な状態にあった。
Camp IVは遠くない。
しかし数百メートルを歩く力が残っていなければ、
距離は意味を持たない。
Camp IVへ着いた者も、すぐには救助へ戻れなかった
Camp IVへ到達した登山者たちも、
安全な状態ではなかった。
何時間も吹雪の中を歩き、
極度の低酸素と疲労にさらされていた。
テントへ入ったことで、
ようやく風を避けることができたにすぎない。
救助へ戻ろうにも、
多くの登山者には再び吹雪へ出る体力が残っていなかった。
そこにいたBoukreevへ、
South Colにまだ人が残されていることが伝えられた。
しかし位置を正確に示すことは難しかった。
吹雪の中で迷っていた一行自身が、
GPS座標で現在地を把握していたわけではない。
「テントからこの方向へ、このくらいの距離」
という情報を頼りに探すしかなかった。
Boukreevは吹雪の中へ戻った
Anatoli Boukreevは、
温かい飲み物や酸素などを用意してCamp IVの外へ出た。
しかし最初の捜索では、
遭難者を発見できなかった。
近くまで行っていたとしても、
視界がなければ人間を見つけることは難しい。
BoukreevはいったんCamp IVへ戻り、
生還したBeidlemanやSchoeningらから
もう一度位置関係を聞いた。
そして再び外へ出た。
その後、
South Colに残されていた人々を発見する。
救助できる人と、できないと判断された人がいた
Boukreevが発見した時、
Mountain MadnessのSandy Hill、Charlotte Fox、Tim Madsenは
まだ反応し、救助を受けられる状態だった。
Boukreevは複数回に分けて、
3人をCamp IVへ戻した。
一方で、難波康子はほとんど反応がない状態だった。
Beck Weathersについても、
救命できないほど状態が悪いと判断された。
この判断を、
安全な場所から現在の救急医療の感覚だけで評価することは難しい。
救助側も標高約8,000mにいる。
一人を担架へ載せて運ぶことはできない。
自分で歩くことのできない人間を、
一人の救助者がCamp IVまで運ぶことも現実的ではない。
救助者自身も死ぬ可能性がある。
その環境では、
「生きているか」だけではなく、
「自力または補助を受けて歩けるか」が
救助可能性を大きく左右した。
FACT CHECK|Boukreevが「自分の隊員だけを救助した」と単純化できるか
Boukreevは最終的にMountain Madnessの
Charlotte Fox、Sandy Hill、Tim MadsenをCamp IVへ戻した。
そのため結果だけを見ると、
「自分の会社の顧客だけを救助した」ようにも見える。
しかし当時の資料では、
難波康子とBeck Weathersについては
すでに死亡している、または救命できない状態と判断されたことが記録されている。
Adventure Consultants自身の事故史でも、
BoukreevがMountain Madnessの3人を救助した一方、
Weathersと難波については死亡したと判断した経過が記されている。
このため「所属によって意図的に救助対象を選別した」と断定する根拠にはならない。
難波康子は、その夜を越えられなかった
難波康子は5月10日、
エベレスト山頂へ到達していた。
7大陸最高峰をすべて登った日本人女性として、
大きな目標を達成した直後だった。
しかし下降中に極度に消耗し、
South Colで吹雪に捕まった。
翌朝までに死亡した。
同じ山頂へ到達し、
同じルートを下り、
Camp IVの近くまで戻っていながら、
最後の数百メートルを越えられなかった。
1996年事故が示した最も厳しい現実の一つである。
Beck Weathersは「死亡」と判断された
Weathersもまた、
生存の可能性が極めて低いと判断された。
一晩近く寒冷環境へさらされ、
視覚障害もあり、
重度の凍傷と低体温状態にあった。
翌朝、捜索に出たStuart Hutchisonらも、
Weathersと難波について
救命できない状態と判断した。
救助の重点は、
まだ生存が確認でき、
下山可能な人々へ移っていった。
ところが、その判断のあとに
予想外のことが起きる。
Weathersは意識を取り戻した。
そして自力で立ち上がり、
Camp IV方向へ歩き始める。
この経過は次回、
Boukreevによる夜間救助とあわせて詳しく追う。
なぜCamp IVのすぐ近くで大量遭難になったのか
結果だけを見ると、不思議に思える。
彼らは山頂から何kmも離れた未知の谷へ迷い込んだわけではない。
多くはSouth Colまで戻っていた。
Camp IVは近くにあった。
しかし事故では、
距離だけを見てはいけない。
標高は約8,000m。
登山開始から20時間前後が経過している者もいた。
補助酸素は乏しい。
食料と水分も十分ではない。
外は暗い。
風と雪で視界がない。
身体を止めれば低体温が進む。
歩けば方向を失う。
転落地形へ近づく可能性もある。
その条件では、
Camp IVまでの数百メートルは
低地の数百メートルとは全く違う。
この夜の遭難は「山頂から始まった」のではない
5月10日の危機は、
吹雪が始まった瞬間に突然ゼロから発生したわけではない。
深夜からの長い登頂行動。
固定ロープ設置による待ち時間。
山頂到達の遅れ。
登山者の分散。
午後遅くまで上部に残った人々。
下降中の再渋滞。
補助酸素の消費。
そこへ、
急激な天候悪化が加わった。
ひとつの条件だけなら、
大量遭難にはならなかった可能性がある。
しかし複数の安全余裕が同時に失われたことで、
Camp IVへ戻る最後の区間までが
生死を分ける場所になった。
「下降」は登山の後半ではなく、登頂行動そのものだった
エベレスト登頂を外から見ると、
山頂へ向かう過程が中心に見える。
写真に残るのも山頂である。
記録になるのも登頂時刻である。
しかし1996年5月10日に死亡した南側の5人は、
山頂へ向かう途中で全員死亡したわけではない。
問題の中心は下降にあった。
山頂へ立つ能力と、
そこから安全に戻る能力は同じではない。
登頂時刻が遅くなれば、
下山時に使える明るさ、体力、酸素、時間という余裕が減る。
その余裕がほとんど残っていない状態へ吹雪が重なった。
1996年事故を理解するうえで、
「登頂成功」という言葉だけを見ることが危険なのはこのためである。
そして救助する側にも、ほとんど余裕は残っていなかった
South Colで倒れた登山者を救うために、
外部から救助隊がすぐ飛んでくることはできない。
標高約8,000m。
当時のヘリコプターが直接Camp IVへ着陸することは現実的ではない。
救助できるのは、
同じ山にいる登山者たちだった。
しかし彼らも、
数日間の高所行動で疲労している。
補助酸素にも限りがある。
吹雪の外へ出れば、
救助者自身が帰れなくなる可能性がある。
つまり1996年の救助では、
「助けに行く人がいるか」という問題だけではない。
助けに行ける体力を残した人間が、
その時点で何人いるかが重要だった。
その数は極端に少なかった。
5月10日夜、状況は3つに分かれた
| 場所 | 主な状況 | 中心人物 |
|---|---|---|
| South Summit付近 | 高所に取り残され、自力下降困難 | Rob Hall、Doug Hansen、Andy Harris |
| Balcony付近 | 下降中に衰弱し行動不能 | Scott Fischer、Makalu Gau、Lopsang Jangbuら |
| South Col | Camp IVを見失い、吹雪の中で集団遭難 | Neal Beidleman、Michael Groom、Beck Weathers、難波康子、Mountain Madnessの顧客ら |
同じ「1996年エベレスト大量遭難」と呼ばれているが、
実際には場所も状況も異なる複数の遭難が、
一晩のうちに同時進行していた。
第5回で見えてくること
午後、登山者たちは山頂から下り始めた。
まだ山頂へ向かう人がいて、
下降は遅れた。
疲労した登山者が増えた。
視覚障害を抱えたWeathersが加わった。
難波康子が歩けなくなった。
そして天候が急変した。
South Colまで戻った。
しかしCamp IVが見つからない。
歩き続ければ危険な斜面へ出る。
止まれば身体が冷える。
一行は雪上で夜を耐えることを選んだ。
深夜、一瞬の晴れ間からCamp IVの方向が分かった。
歩ける者は救助を求めてキャンプへ向かった。
歩けない者は残された。
その中には、
すでに死亡したと思われた人々もいた。
しかし、ここで事故は終わらない。
Camp IVから吹雪の中へ、
Anatoli Boukreevが何度も戻っていく。
そして翌日、
死亡したと判断されたBeck Weathersが
自力でCamp IVへ現れる。
次回は、この救助と生還に焦点を当てる。
CASE FILE 24|1996年エベレスト大量遭難特集
- 第1回 1996年エベレスト大量遭難とは?|5月10〜11日、世界最高峰で何が起きたのか
- 第2回 1996年のエベレストに誰がいたのか|Adventure Consultants、Mountain Madnessと商業登山の時代
- 第3回 エベレスト南東稜はどんなルートだったのか|サウス・コル、デスゾーン、補助酸素と山頂への道
- 第4回 5月10日、登頂隊はなぜ遅れたのか|深夜の出発からヒラリー・ステップ、山頂到達まで
- 第5回 山頂からの下降中、何が起きたのか|吹雪、視界喪失、酸素とサウス・コルへの迷走 [現在の記事]
- 第6回 吹雪のサウス・コルで誰が救われたのか|アナトリ・ブクレーエフの救助とベック・ウェザーズの生還
- 第7回 ロブ・ホールに何が起きたのか|ダグ・ハンセン、アンディ・ハリスと南峰での最後の交信
- 第8回 スコット・フィッシャーとMountain Madnessに何が起きたのか|ブクレーエフをめぐる評価も検証する
- 第9回 北側ルートでも3人が死亡していた|ITBP隊と1996年5月10日のエベレスト北東稜
- 第10回 1996年エベレスト大量遭難はなぜ起きたのか|天候・判断・渋滞・酸素・商業登山を分解する
出典・参考資料
-
PBS FRONTLINE — Storm Over Everest / Transcript
天候急変、Michael GroomによるBeck Weathers・難波康子の発見、
Neal Beidlemanによる下降支援、South ColでCamp IVを見失った経過、
一時的な視界回復とBoukreevの救助について、生存者インタビューを確認。
-
American Alpine Journal 1997 — Charlotte Fox, A Time To Live, A Time To Die
South Colでの集団遭難、視界喪失、危険な地形への接近、
吹雪の中で夜を耐えた状況、一時的な晴れ間、
歩行不能になった登山者と救助について当事者記録を参照。
-
Adventure Consultants — History / Everest Tragedy
South ColでHall隊・Fischer隊の登山者がテントを発見できなかった経過、
Boukreevによる夜間救助、Beck Weathersと難波康子に対する当時の判断、
翌日のWeathers生還について確認。
-
PBS FRONTLINE — Facts & Statistics
Adventure Consultants、Mountain Madnessの隊員構成と
南東稜側の死亡者確認に使用。
-
PBS FRONTLINE — Life After Everest
Beck Weathers本人による翌朝の意識回復と生還体験について参照。
詳細は第6回で扱う。
本記事では、South Colでの夜についてPBS FRONTLINEの複数生存者証言と、
Charlotte FoxによるAmerican Alpine Journalの当事者記録を優先して再構成しています。
極端な低酸素・疲労・吹雪の中での出来事であり、
人物の正確な位置、時刻、誰がどの瞬間に誰と行動していたかには資料差があります。
そのため、分単位の時刻や距離を確定情報として過度に固定していません。
またFoxが記した約−40度、約70mphの風は当夜の状況を示す推定値として扱い、
South Colでの公式実測値とはしていません。