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調査は何を突き止めたのかタワー委員会と1987年議会公聴会

調査は何を突き止めたのか|タワー委員会と1987年議会公聴会

政治スキャンダル・秘密工作

1987年2月26日。

ホワイトハウスに、一冊の分厚い報告書が届けられた。

提出したのは、元上院議員ジョン・タワー、元国務長官エドマンド・マスキー、元国家安全保障担当大統領補佐官ブレント・スコウクロフト。

1986年11月にレーガン大統領自身が設置した「大統領特別調査委員会」――通称タワー委員会の3人だった。

イランへの秘密武器取引。
レバノンの人質問題。
コントラへの資金流用。
NSCスタッフによる秘密工作。

事件発覚から約3か月。
ホワイトハウス内部で何が起きていたのかについて、最初の大規模な公式検証がまとめられた。

しかし、調査はこれで終わらない。

約2か月後の1987年5月5日。
今度は連邦議会で、テレビ中継を伴う大規模な公聴会が始まった。

ロバート・マクファーレン。
リチャード・セコード。
オリバー・ノース。
ジョン・ポインデクスター。
エドウィン・ミース。
ジョージ・シュルツ。
キャスパー・ワインバーガー。

秘密活動に関わった政府高官や民間人が次々と証言台へ呼ばれた。

同じイラン・コントラ事件を調べていた二つの調査。

しかし、目的は同じではなかった。

第8回では、タワー委員会と1987年議会調査が、それぞれ何を調べ、どこまで事実を突き止め、何を確定できなかったのかを整理する。

まず整理したい――事件を調べた機関は一つではない

イラン・コントラ事件について「調査委員会が調べた」と書かれることがある。

実際には、複数の調査が並行していた。

調査 主な役割
タワー委員会 大統領が設置。NSCの運用と政策実施過程を中心に検証
連邦議会調査 秘密活動、議会統制、政府説明、関係者の政治的責任を広く検証
ウォルシュ独立検察官 刑事犯罪を立証できるかを捜査

この三つを混同してはいけない。

タワー委員会が「問題だった」と評価した行為が、そのまま刑事犯罪になるわけではない。

議会が政治的責任を認定したことと、刑事裁判で有罪を立証することも別である。

事件を理解するには、

行政上の失敗
議会・憲法上の問題
刑事責任

を分ける必要がある。

タワー委員会は「NSCがなぜこうなったのか」を調べた

レーガン大統領が特別調査委員会の設置を発表したのは、資金流用が公表された1986年11月25日だった。

翌26日、委員としてジョン・タワー、エドマンド・マスキー、ブレント・スコウクロフトの3人が指名された。

正式名称はPresident’s Special Review Board

委員長となったタワーの名から「Tower Board」「Tower Commission」と呼ばれるようになった。

調査対象は、単に

「誰がイランへ武器を売ったのか」

ではなかった。

大統領から与えられた中心的な問いは、

  • NSCスタッフは外交・国家安全保障政策で本来どのような役割を持つべきか
  • NSCスタッフが秘密の外交・軍事・情報活動を実際に運用してよいのか
  • 大統領の政策がNSC内部でどのように実行されたのか
  • 他の政府機関との調整・監督は機能していたのか

というものだった。

つまり、第6回で見た「NSCの実働化」そのものが調査対象だった。

タワー委員会が描いたのは「一人の暴走」ではなかった

調査の結果、タワー委員会はNSC運用に重大な問題があったと判断した。

特に、国家安全保障担当大統領補佐官ロバート・マクファーレン、その後任ジョン・ポインデクスター、そしてNSCスタッフのオリバー・ノースの運用が問題視された。

ノースが広範囲の秘密活動へ関与していたことは確かだった。

しかし、ノース一人が勝手に作戦を始め、それを上司全員が知らなかったという構図ではなかった。

マクファーレンはノースへコントラ維持の任務を与えていた。

ポインデクスターもノースの活動を監督し、少なくとも資金流用については後に自ら承認したと証言する。

CIA長官ウィリアム・ケーシーも対イラン活動やコントラ政策に深く関与していた。

タワー委員会が見たのは、

少人数へ権限が集中し、その活動を通常の省庁・法律・監督ルートが十分にチェックできなくなった構造

だった。

最も大きかったのは「政策調整」と「作戦実行」の混同

NSCスタッフは本来、大統領の下で国務省、国防総省、CIAなどの政策を調整する立場にある。

ところがイラン・コントラ事件では、ノースらが、

  • 外国政府との秘密交渉
  • コントラへの資金調達
  • 武器の調達
  • 航空補給
  • 民間ネットワークの管理
  • 秘密銀行口座との連絡
  • イランへの武器供給

まで扱うようになった。

政策を「調整する」組織が、政策を自ら「実施する」組織へ変わっていた。

しかもNSCには、CIAのように秘密工作を恒常的に実施することを前提とした会計、監察、法律審査、議会報告の制度が備わっていなかった。

その結果、作戦は迅速に動かせても、誰が何を承認し、誰が監督し、誰が責任を持つのかが不明瞭になった。

シュルツとワインバーガーの反対は十分に政策へ反映されなかった

事件を「ホワイトハウス全体が同じ考えだった」と見るのも間違いである。

国務長官ジョージ・シュルツと国防長官キャスパー・ワインバーガーは、イランへの武器供給へ繰り返し反対していた。

理由の一つは、アメリカが公に掲げていた対テロ政策と矛盾すること。

もう一つは、武器と人質解放が結びつけば、結果として「人質のための武器取引」に見えることだった。

しかし秘密活動は継続された。

しかも活動の一部は、反対していた閣僚へ十分に共有されないまま進められた。

タワー委員会は、通常なら重要政策について意見を出すべき閣僚とNSCスタッフとの情報共有・政策調整が機能しなかったことを問題視した。

レーガン大統領について、タワー委員会は何を認定したのか

最大の焦点は当然、ロナルド・レーガン大統領だった。

ここで二つの問題を分ける必要がある。

第一は、イランへの武器供給を知っていたか。

第二は、イラン武器売却収益のコントラへの流用を知っていたか。

前者について、レーガンが対イラン秘密イニシアチブと武器移転を承認していたこと自体は否定できない。

1986年1月17日の大統領Findingにも署名しており、1986年のCIAを介した武器供給は大統領の承認下で行われていた。

一方、タワー委員会はレーガンがコントラへの資金流用を知っていたことを示す証拠を確認できなかった

この区別はその後の議会調査でも重要になる。

FACT CHECK|タワー委員会は「レーガンは完全に無関係」と結論づけたのか

違う。

委員会は、レーガン大統領が資金流用を知っていたことを示す証拠を確認できなかった。

しかし、大統領の対イラン政策、政策決定過程、NSCスタッフへの監督、政府内の情報共有には重大な問題があったと評価した。

したがって「資金流用を知らなかった」という一点と、「政権運営上の責任がなかった」という評価は同じではない。

タワー報告後、レーガン自身が「arms for hostages」を認めた

タワー報告提出から約1週間後の1987年3月4日、レーガンは全米向けテレビ演説を行った。

ここで大きな説明の修正があった。

1986年11月時点でレーガンは、人質を取り戻すために武器を交換したのではないという立場を強く示していた。

しかし3月4日の演説では、当初はイランとの戦略的接触として始めた政策が、実際の運用では武器と人質の交換へ変質したことを認めた。

さらに、資金流用については知らなかったとしながらも、大統領として責任から逃れることはできないという立場を示した。

そしてNSCの運用改革を受け入れ、

  • NSC意思決定過程の見直し
  • NSC法律顧問ポストの設置
  • 議会監督手続の強化
  • スタッフによる独自行動の抑制

を進めることになる。

それでもタワー委員会だけでは資金流用を解明できなかった

タワー委員会には限界もあった。

最大の一つが、イラン武器売却収益の流用である。

誰が資金を管理し、正確にいくらがコントラへ流れ、どの口座から何へ支払われたのか。

この金融部分について、タワー委員会は全容を確定できなかった。

さらに刑事責任を決めることも、委員会の役割ではない。

そのため資金の詳細はウォルシュ独立検察官へ、政治・議会上の責任は連邦議会調査へ引き継がれることになる。

1987年5月5日――今度は議会公聴会が始まる

1987年5月5日、連邦議会のイラン・コントラ公聴会が始まった。

上院ではダニエル・イノウエを委員長とする特別委員会。

下院ではリー・ハミルトンを委員長とする特別委員会。

両院は合同で公開公聴会を行い、その模様はテレビを通じて全米へ伝えられた。

公聴会は8月3日まで続いた。

ウォーターゲート事件以来ともいえる規模で、ホワイトハウスの秘密活動が公の場で解剖されていった。

議会が調べた範囲はタワー委員会より広かった

議会側の中心的な関心は、NSCの組織改革だけではなかった。

調査対象には、

  • コントラへの秘密軍事支援
  • ボランド修正と行政府の解釈
  • 外国政府からの資金調達
  • イランへの秘密武器販売
  • 議会への秘密活動通知
  • イラン武器代金の資金流用
  • Enterpriseの活動
  • 政府高官による議会への説明
  • 文書破棄・改変
  • 大統領・副大統領・NSC・CIAなどの認識

が含まれた。

つまり議会が問うたのは、

「NSC運用はなぜ失敗したのか」

だけではなく、

「行政府は議会が制限した政策を政府外の仕組みで実行し、議会へその実態を隠したのではないか」

という問題だった。

公聴会には一つの重大な副作用があった――免責証言

議会には政治的事実を明らかにする必要があった。

しかし刑事捜査を進めていたウォルシュ独立検察官には、別の事情があった。

議会は主要人物から証言を得るため、

  • オリバー・ノース
  • ジョン・ポインデクスター
  • アルバート・ハキム

らに免責を与えた。

これによって本人は、一定の範囲で自己に不利な証言を理由に黙秘することが難しくなる。

一方、刑事裁判では検察側が、その免責証言や、そこから派生した情報を被告人に不利に使用していないことを示さなければならなくなる。

ウォルシュは早い段階から、この問題を強く懸念していた。

実際、後にノースとポインデクスターの有罪判決が覆される最大の理由の一つになる。

つまり、議会が真相を公開する必要と、検察が汚染されていない証拠で刑事事件を立証する必要が衝突した。

オリバー・ノースの証言が事件の象徴になった

1987年7月。

オリバー・ノースが議会公聴会へ姿を現した。

軍服姿の海兵隊中佐がテレビカメラの前で長時間証言する場面は、イラン・コントラ事件を象徴する映像となった。

ノースはコントラ支援への関与を認めた。

秘密資金調達。
セコードとの協力。
軍事支援。
イラン武器取引。
資金流用。
文書破棄。

それまで断片的にしか分からなかった実務の多くが、中心人物本人の証言として語られた。

同時にノースは、自分たちの活動がレーガン政権の政策目的に沿うものだと考えていたことも強調した。

この証言によって「一人のNSCスタッフが秘密裏に暴走した」という単純な構図はさらに崩れる。

ノースは議会への虚偽説明も認めた

議会にとって特に重大だったのが、自分たちへの過去の説明だった。

1985年から1986年にかけて、議会はNSCスタッフがコントラの軍事支援へ関与していないか繰り返し質問していた。

マクファーレンやノースらからは、軍事支援の調整や資金調達への関与を否定する説明が行われていた。

しかし公聴会では、実際にはノースが武器調達、資金、軍事的助言、補給などへ深く関与していたことが明らかになった。

秘密活動を行っていたことだけでなく、

その活動について議会が直接質問した際にも、正確な情報が渡されなかった

ことが問題となった。

ポインデクスターは「資金流用を承認した」と証言した

さらに重要だったのが、ジョン・ポインデクスターの証言である。

ノースは自分一人で資金流用を決めたわけではないと説明していた。

そしてポインデクスター自身も、ノースから資金流用案を知らされ、自分が承認したと証言した。

一方で、レーガン大統領には知らせなかったと述べた。

理由については、大統領を政治的危険から隔離する意図があったという趣旨の説明をした。

これによって少なくとも、

「ノースがポインデクスターにも秘密で、完全な独断で資金を流用した」

という可能性は大きく後退した。

FACT CHECK|議会調査は「レーガンが資金流用を命令した」と認定したのか

認定していない。

ポインデクスターは、レーガン大統領へ資金流用を知らせなかったと証言した。
ノースも、大統領へ直接知らせたとは証言していない。

議会調査でも、レーガン大統領自身が資金流用を事前に知っていたことを確定する証拠は得られなかった。

一方、議会多数派報告は「大統領が知らなかったなら責任がない」とも結論づけていない。
大統領の政策、部下への監督、議会との関係を含めた政治的責任を別に論じている。

議会報告が最も強く批判したのは「秘密」そのものではない

1987年11月、上下両院の調査委員会は最終報告をまとめた。

多数派報告が事件を説明する際に繰り返したのは、

秘密活動そのものではなく、「説明責任のない秘密活動」

という問題だった。

アメリカ政府には秘密工作を実施する制度が存在する。

ただし通常は、

  • 大統領による正式な承認
  • 政府機関による管理
  • 政府資金の会計
  • 議会への所定の通知

が求められる。

ところがコントラ秘密支援では、ノースと民間ネットワークが外国政府・私人から資金を集め、秘密口座で処理し、議会へ通知されないまま軍事支援を実施していた。

議会多数派は、この状態を議会が持つ予算統制権を迂回するものとして厳しく批判した。

多数派報告は「North did not act alone」と結論づけた

議会報告で中心人物として位置づけられたのは、やはりオリバー・ノースだった。

秘密活動の実務を最も広く調整していたからである。

しかし報告は同時に、

North did not act alone.

という趣旨を明確にした。

ポインデクスターはノースの活動を明示的に承認していた。

マクファーレンも少なくともコントラ秘密支援についてノースへ任務を与え、活動の相当部分を認識していた。

CIA長官ケーシーについても、ノースを励まし、方向づけ、政府外秘密組織の構想を促進したと多数派は評価した。

つまり議会多数派が認定したのは、

秘密作戦を一人の部下へ押しつけることのできない組織的問題

だった。

そして議会は大統領の「政治的責任」に踏み込んだ

議会多数派報告は、レーガン大統領が資金流用を知っていたと認定しなかった。

しかし、大統領の責任については厳しい評価を示した。

大統領が部下の行動を知らなかったとしても、国家安全保障担当補佐官やNSCスタッフが何をしているのか把握できるよう指揮・監督する責任がある、という考え方である。

さらに、

  • イランへの秘密武器供給を進めた政策
  • コントラを存続させるという強い政策方針

そのものは大統領の政策だった。

NSCスタッフは、自分たちが大統領の望む目的を実現していると信じていた。

議会多数派は、その環境を作りながら部下の具体的行動を十分に監督できなかったことについて、最終的な政治的責任は大統領にあるという立場を取った。

ただし、議会報告は一枚岩ではない

ここも重要である。

「1987年議会報告」といっても、すべての議員が多数派報告の評価に同意したわけではない。

最終報告には多数派の本文だけでなく、少数派意見、追加意見などが付されている。

共和党議員を中心とする少数派側では、

  • 多数派が大統領の責任を過度に政治化している
  • 外交・安全保障における大統領権限の評価が弱い
  • ボランド修正の法的適用範囲には議論がある
  • 資金流用を大統領が知らなかったという証拠をより重く見るべき

といった反論が示された。

したがって、「議会がレーガンの違法行為を認定した」と一括するのは正確ではない。

多数派が示した政治・憲法上の評価と、少数派の反論を分けて読む必要がある。

調査で分かったこと、分からなかったこと

1987年末までに、事件の主要構造はかなり明確になった。

論点 1987年調査での到達点
イランへの武器供給 レーガン政権の承認下で実施されたことは確定
人質との関係 実施過程で武器供給と人質解放が結びついたことを確認
コントラ秘密支援 ノースらが外国政府・私人・Enterpriseを使って継続していたことを確認
資金流用 イラン武器売却収益の一部がコントラへ使われたことを確認
ポインデクスターの認識 本人が資金流用を承認したと証言
レーガンの資金流用認識 事前に知っていたことを確定する証拠は得られず
議会への説明 秘密支援に関する過去の政府説明と実態に重大な食い違いを確認
文書処理 ノース、ポインデクスターらによる削除・破棄・改変を確認

それでも「全貌」は確定しなかった

これだけの調査を行っても、すべての事実が判明したわけではない。

理由はいくつかある。

第一に、文書が破棄されていた。

ノースとポインデクスターは事件発覚期に大量の電子メッセージを削除し、紙文書も廃棄した。
大統領が署名した1985年のFinding原本も失われた。

第二に、CIA長官ウィリアム・ケーシーが証言できなくなった。

ケーシーは1986年末に体調を崩し、脳腫瘍の手術を受け、その後1987年5月に死去した。

事件の重要人物だったケーシー本人から、公の場で完全な証言を得ることはできなかった。

第三に、当事者の証言が一致しなかった。

誰がいつ何を承認したのか。
誰が大統領へ何を報告したのか。
資金流用のアイデアを最初に出したのは誰か。

文書で確認できる部分と、本人の記憶・主張に依存する部分が残った。

議会報告も「すべての事実を知った」とは言わなかった

議会多数派報告は、大統領の資金流用認識について決定的な証拠が得られなかったことを認めている。

ポインデクスターは「大統領へ知らせなかった」と証言した。

ノースは大統領も知っていると思っていたが、直接報告したとはしていない。

セコードはノースから「大統領と話した」と聞いたと証言したが、ノース自身はセコードを安心させるためにその話を作ったと説明した。

そして重要文書の破棄とケーシーの死によって、証拠記録には穴が残った。

このため「レーガンが絶対に知らなかったことが証明された」と言うことも、「資金流用を秘密裏に命令していたことが証明された」と言うこともできない。

FACT CHECK|「公聴会で真相が完全に解明された」のか

主要構造は解明されたが、完全ではない。

武器取引、コントラ秘密支援、資金流用、ノースとポインデクスターの関係、議会への説明、文書破棄などは大量の記録と証言によって再構成された。

一方、大統領が資金流用をどこまで認識していたか、ケーシーが全活動をどこまで指揮していたかなど、証拠不足で最終確定できなかった部分が残った。

タワー委員会と議会調査の最大の違い

二つの調査を最後に比較すると、役割の違いが見える。

タワー委員会 議会調査
設置主体 レーガン大統領 連邦議会
中心テーマ NSC運用と政策実施 秘密活動全体と議会統制
重点 行政・組織管理 政治・憲法・監督責任
大統領について 管理・監督上の問題を指摘 多数派は最終的政治責任にも踏み込む
刑事責任 決定しない 決定しない
刑事捜査 ウォルシュ独立検察官が別に担当

タワー委員会は、事件を「NSCの運用がなぜ失敗したか」という行政管理の問題として強く見た。

議会はさらに一歩踏み込み、「議会が資金を制限した政策を行政府が政府外の仕組みで継続し、議会へ十分な情報を与えなかった」という統治構造の問題として見た。

同じ証拠を見ても、問うていた責任の種類が違ったのである。

調査の結果、制度は実際に変更された

イラン・コントラ事件の調査は、報告書を書いて終わったわけではない。

1987年3月、レーガン政権はタワー委員会の勧告を受け、NSC制度の改革を進めた。

NSCスタッフ自身が秘密工作を実施することは禁止され、秘密活動について法的審査・政府内部の調整・議会との協議を強化する方向へ改められた。

レーガンも、NSCスタッフの個人による「freelancing」を許さないという方針を表明した。

つまり事件調査が示した問題は、

「悪い人物を取り除けば終わる」

とは考えられなかった。

同じことを再び起こさないためには、秘密活動を誰が実施し、誰が法的に審査し、誰が議会へ報告するのかという制度を修正する必要があった。

しかし刑事責任の問題は、まだ何も終わっていなかった

1987年11月までに、政治的な調査はほぼ全体像を描いていた。

それでも残る問いがある。

ノースは犯罪を犯したのか。

ポインデクスターはどうなのか。

マクファーレン。
セコード。
ハキム。
CIA関係者。
国務省関係者。
国防総省関係者。

政治的責任ではなく、刑法に照らして誰を起訴できるのか。

その仕事を進めていたのがローレンス・ウォルシュ独立検察官だった。

ところが、議会が真相を明らかにするためノースとポインデクスターへ免責を与えたことで、刑事捜査は極めて難しい問題を抱えることになる。

テレビで全米に放送された証言を、その後の陪審員や証人が一切知らなかったことを、検察側が証明しなければならないからである。

そして実際に、

ノースは有罪になる。

ポインデクスターも有罪になる。

だが、両者の有罪判決は最終的に残らない。

さらに事件終盤には、大統領恩赦が捜査そのものを終わらせていく。

まとめ|1987年の調査が明らかにしたもの

タワー委員会と連邦議会調査によって、イラン・コントラ事件の基本構造はほぼ公の記録になった。

イランへの武器供給は、政権の承認下で行われていた。

コントラへの秘密支援は、ノースらが外国政府、民間人、秘密銀行口座、Enterpriseを利用して継続していた。

イラン武器売却収益の一部はコントラ支援へ流用された。

ポインデクスターは、その流用を承認したと証言した。

議会がNSCの関与を問い合わせた際には、実態と一致しない説明が行われていた。

事件発覚時には文書の破棄・改変も行われた。

そして、政策を調整するはずのNSCスタッフが秘密作戦を実施する側へ回ったことで、通常の政府機関による監督・法律審査・会計・議会監督が弱くなっていた。

一方で、

レーガン大統領が資金流用を事前に知っていたことは確定されなかった。

大量の文書が失われ、CIA長官ケーシーが証言できないまま死亡し、当事者の証言にも食い違いが残った。

したがって1987年の調査は、

「事件の主要構造を明らかにした」

一方で、

「全員の認識と刑事責任を確定した」

わけではなかった。

次回は、政治の世界から法廷へ移る。

ウォルシュ独立検察官は誰を起訴し、ノースとポインデクスターはなぜ有罪になりながら判決を覆され、最後にはジョージ・H・W・ブッシュ大統領の恩赦が事件をどのように終わらせたのか。

前の記事:

第7回 イラン・コントラ事件はどう発覚したのか|1986年11月、秘密工作が表に出るまで

次の記事:

第9回 刑事責任はどう裁かれたのか|ウォルシュ独立検察官、逆転判決、そして恩赦

CASE FILE 43|全記事

  1. 第1回 イラン・コントラ事件とは?|武器売却とコントラ支援が結びついた秘密工作の全貌
  2. 第2回 なぜイランへ武器を売ったのか|レバノン人質問題と「イラン・イニシアチブ」
  3. 第3回 武器はどうイランへ渡ったのか|イスラエル経由から米国直接取引まで
  4. 第4回 なぜコントラ支援は秘密化したのか|ボランド修正と議会統制
  5. 第5回 武器代金はどうコントラへ流れたのか|資金流用と「Enterprise」の仕組み
  6. 第6回 誰が秘密作戦を動かしたのか|オリバー・ノース、ポインデクスターとNSCの実働化
  7. 第7回 イラン・コントラ事件はどう発覚したのか|1986年11月、秘密工作が表に出るまで
  8. 第8回 調査は何を突き止めたのか|タワー委員会と1987年議会公聴会[現在の記事]
  9. 第9回 刑事責任はどう裁かれたのか|ウォルシュ独立検察官、逆転判決、そして恩赦
  10. 第10回 レーガンはどこまで知っていたのか|確定事実・争点・イラン・コントラ事件が残したもの

出典・参考資料

本記事では、大統領が設置したタワー委員会と連邦議会による調査を別の制度として扱っています。タワー委員会は主にNSCの運用・行政管理を検証し、議会調査は秘密活動、議会統制、政府説明、政治的責任まで広く検証しました。また1987年議会報告には多数派報告だけでなく少数派・追加意見が存在するため、多数派による大統領責任の評価を「議会全体が違法行為を認定した」とは表現していません。刑事責任については両調査ではなく、ウォルシュ独立検察官の捜査・裁判で扱われます。