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調査は何を突き止めたのか|タワー委員会と1987年議会公聴会

政治スキャンダル・秘密工作

1987年2月26日。

ホワイトハウスに、一冊の分厚い報告書が届けられた。

提出したのは、元上院議員ジョン・タワー、元国務長官エドマンド・マスキー、元国家安全保障担当大統領補佐官ブレント・スコウクロフト。

1986年11月にレーガン大統領自身が設置した「大統領特別調査委員会」――通称タワー委員会の3人だった。

イランへの秘密武器取引。
レバノンの人質問題。
コントラへの資金流用。
NSCスタッフによる秘密工作。

事件発覚から約3か月。
ホワイトハウス内部で何が起きていたのかについて、最初の大規模な公式検証がまとめられた。

しかし、調査はこれで終わらない。

約2か月後の1987年5月5日。
今度は連邦議会で、テレビ中継を伴う大規模な公聴会が始まった。

ロバート・マクファーレン。
リチャード・セコード。
オリバー・ノース。
ジョン・ポインデクスター。
エドウィン・ミース。
ジョージ・シュルツ。
キャスパー・ワインバーガー。

秘密活動に関わった政府高官や民間人が次々と証言台へ呼ばれた。

同じイラン・コントラ事件を調べていた二つの調査。

しかし、目的は同じではなかった。

第8回では、タワー委員会と1987年議会調査が、それぞれ何を調べ、どこまで事実を突き止め、何を確定できなかったのかを整理する。

まず整理したい――事件を調べた機関は一つではない

イラン・コントラ事件について「調査委員会が調べた」と書かれることがある。

実際には、複数の調査が並行していた。

調査 主な役割
タワー委員会 大統領が設置。NSCの運用と政策実施過程を中心に検証
連邦議会調査 秘密活動、議会統制、政府説明、関係者の政治的責任を広く検証
ウォルシュ独立検察官 刑事犯罪を立証できるかを捜査

この三つを混同してはいけない。

タワー委員会が「問題だった」と評価した行為が、そのまま刑事犯罪になるわけではない。

議会が政治的責任を認定したことと、刑事裁判で有罪を立証することも別である。

事件を理解するには、

行政上の失敗
議会・憲法上の問題
刑事責任

を分ける必要がある。

タワー委員会は「NSCがなぜこうなったのか」を調べた

レーガン大統領が特別調査委員会の設置を発表したのは、資金流用が公表された1986年11月25日だった。

翌26日、委員としてジョン・タワー、エドマンド・マスキー、ブレント・スコウクロフトの3人が指名された。

正式名称はPresident’s Special Review Board

委員長となったタワーの名から「Tower Board」「Tower Commission」と呼ばれるようになった。

調査対象は、単に

「誰がイランへ武器を売ったのか」

ではなかった。

大統領から与えられた中心的な問いは、

  • NSCスタッフは外交・国家安全保障政策で本来どのような役割を持つべきか
  • NSCスタッフが秘密の外交・軍事・情報活動を実際に運用してよいのか
  • 大統領の政策がNSC内部でどのように実行されたのか
  • 他の政府機関との調整・監督は機能していたのか

というものだった。

つまり、第6回で見た「NSCの実働化」そのものが調査対象だった。

タワー委員会が描いたのは「一人の暴走」ではなかった

調査の結果、タワー委員会はNSC運用に重大な問題があったと判断した。

特に、国家安全保障担当大統領補佐官ロバート・マクファーレン、その後任ジョン・ポインデクスター、そしてNSCスタッフのオリバー・ノースの運用が問題視された。

ノースが広範囲の秘密活動へ関与していたことは確かだった。

しかし、ノース一人が勝手に作戦を始め、それを上司全員が知らなかったという構図ではなかった。

マクファーレンはノースへコントラ維持の任務を与えていた。

ポインデクスターもノースの活動を監督し、少なくとも資金流用については後に自ら承認したと証言する。

CIA長官ウィリアム・ケーシーも対イラン活動やコントラ政策に深く関与していた。

タワー委員会が見たのは、

少人数へ権限が集中し、その活動を通常の省庁・法律・監督ルートが十分にチェックできなくなった構造

だった。

最も大きかったのは「政策調整」と「作戦実行」の混同

NSCスタッフは本来、大統領の下で国務省、国防総省、CIAなどの政策を調整する立場にある。

ところがイラン・コントラ事件では、ノースらが、

  • 外国政府との秘密交渉
  • コントラへの資金調達
  • 武器の調達
  • 航空補給
  • 民間ネットワークの管理
  • 秘密銀行口座との連絡
  • イランへの武器供給

まで扱うようになった。

政策を「調整する」組織が、政策を自ら「実施する」組織へ変わっていた。

しかもNSCには、CIAのように秘密工作を恒常的に実施することを前提とした会計、監察、法律審査、議会報告の制度が備わっていなかった。

その結果、作戦は迅速に動かせても、誰が何を承認し、誰が監督し、誰が責任を持つのかが不明瞭になった。

シュルツとワインバーガーの反対は十分に政策へ反映されなかった

事件を「ホワイトハウス全体が同じ考えだった」と見るのも間違いである。

国務長官ジョージ・シュルツと国防長官キャスパー・ワインバーガーは、イランへの武器供給へ繰り返し反対していた。

理由の一つは、アメリカが公に掲げていた対テロ政策と矛盾すること。

もう一つは、武器と人質解放が結びつけば、結果として「人質のための武器取引」に見えることだった。

しかし秘密活動は継続された。

しかも活動の一部は、反対していた閣僚へ十分に共有されないまま進められた。

タワー委員会は、通常なら重要政策について意見を出すべき閣僚とNSCスタッフとの情報共有・政策調整が機能しなかったことを問題視した。

レーガン大統領について、タワー委員会は何を認定したのか

最大の焦点は当然、ロナルド・レーガン大統領だった。

ここで二つの問題を分ける必要がある。

第一は、イランへの武器供給を知っていたか。

第二は、イラン武器売却収益のコントラへの流用を知っていたか。

前者について、レーガンが対イラン秘密イニシアチブと武器移転を承認していたこと自体は否定できない。

1986年1月17日の大統領Findingにも署名しており、1986年のCIAを介した武器供給は大統領の承認下で行われていた。

一方、タワー委員会はレーガンがコントラへの資金流用を知っていたことを示す証拠を確認できなかった

この区別はその後の議会調査でも重要になる。

FACT CHECK|タワー委員会は「レーガンは完全に無関係」と結論づけたのか

違う。

委員会は、レーガン大統領が資金流用を知っていたことを示す証拠を確認できなかった。

しかし、大統領の対イラン政策、政策決定過程、NSCスタッフへの監督、政府内の情報共有には重大な問題があったと評価した。

したがって「資金流用を知らなかった」という一点と、「政権運営上の責任がなかった」という評価は同じではない。

タワー報告後、レーガン自身が「arms for hostages」を認めた

タワー報告提出から約1週間後の1987年3月4日、レーガンは全米向けテレビ演説を行った。

ここで大きな説明の修正があった。

1986年11月時点でレーガンは、人質を取り戻すために武器を交換したのではないという立場を強く示していた。

しかし3月4日の演説では、当初はイランとの戦略的接触として始めた政策が、実際の運用では武器と人質の交換へ変質したことを認めた。

さらに、資金流用については知らなかったとしながらも、大統領として責任から逃れることはできないという立場を示した。

そしてNSCの運用改革を受け入れ、

  • NSC意思決定過程の見直し
  • NSC法律顧問ポストの設置
  • 議会監督手続の強化
  • スタッフによる独自行動の抑制

を進めることになる。

それでもタワー委員会だけでは資金流用を解明できなかった

タワー委員会には限界もあった。

最大の一つが、イラン武器売却収益の流用である。

誰が資金を管理し、正確にいくらがコントラへ流れ、どの口座から何へ支払われたのか。

この金融部分について、タワー委員会は全容を確定できなかった。

さらに刑事責任を決めることも、委員会の役割ではない。

そのため資金の詳細はウォルシュ独立検察官へ、政治・議会上の責任は連邦議会調査へ引き継がれることになる。

1987年5月5日――今度は議会公聴会が始まる

1987年5月5日、連邦議会のイラン・コントラ公聴会が始まった。

上院ではダニエル・イノウエを委員長とする特別委員会。

下院ではリー・ハミルトンを委員長とする特別委員会。

両院は合同で公開公聴会を行い、その模様はテレビを通じて全米へ伝えられた。

公聴会は8月3日まで続いた。

ウォーターゲート事件以来ともいえる規模で、ホワイトハウスの秘密活動が公の場で解剖されていった。

議会が調べた範囲はタワー委員会より広かった

議会側の中心的な関心は、NSCの組織改革だけではなかった。

調査対象には、

  • コントラへの秘密軍事支援
  • ボランド修正と行政府の解釈
  • 外国政府からの資金調達
  • イランへの秘密武器販売
  • 議会への秘密活動通知
  • イラン武器代金の資金流用
  • Enterpriseの活動
  • 政府高官による議会への説明
  • 文書破棄・改変
  • 大統領・副大統領・NSC・CIAなどの認識

が含まれた。

つまり議会が問うたのは、

「NSC運用はなぜ失敗したのか」

だけではなく、

「行政府は議会が制限した政策を政府外の仕組みで実行し、議会へその実態を隠したのではないか」

という問題だった。

公聴会には一つの重大な副作用があった――免責証言

議会には政治的事実を明らかにする必要があった。

しかし刑事捜査を進めていたウォルシュ独立検察官には、別の事情があった。

議会は主要人物から証言を得るため、

  • オリバー・ノース
  • ジョン・ポインデクスター
  • アルバート・ハキム

らに免責を与えた。

これによって本人は、一定の範囲で自己に不利な証言を理由に黙秘することが難しくなる。

一方、刑事裁判では検察側が、その免責証言や、そこから派生した情報を被告人に不利に使用していないことを示さなければならなくなる。

ウォルシュは早い段階から、この問題を強く懸念していた。

実際、後にノースとポインデクスターの有罪判決が覆される最大の理由の一つになる。

つまり、議会が真相を公開する必要と、検察が汚染されていない証拠で刑事事件を立証する必要が衝突した。

オリバー・ノースの証言が事件の象徴になった

1987年7月。

オリバー・ノースが議会公聴会へ姿を現した。

軍服姿の海兵隊中佐がテレビカメラの前で長時間証言する場面は、イラン・コントラ事件を象徴する映像となった。

ノースはコントラ支援への関与を認めた。

秘密資金調達。
セコードとの協力。
軍事支援。
イラン武器取引。
資金流用。
文書破棄。

それまで断片的にしか分からなかった実務の多くが、中心人物本人の証言として語られた。

同時にノースは、自分たちの活動がレーガン政権の政策目的に沿うものだと考えていたことも強調した。

この証言によって「一人のNSCスタッフが秘密裏に暴走した」という単純な構図はさらに崩れる。

ノースは議会への虚偽説明も認めた

議会にとって特に重大だったのが、自分たちへの過去の説明だった。

1985年から1986年にかけて、議会はNSCスタッフがコントラの軍事支援へ関与していないか繰り返し質問していた。

マクファーレンやノースらからは、軍事支援の調整や資金調達への関与を否定する説明が行われていた。

しかし公聴会では、実際にはノースが武器調達、資金、軍事的助言、補給などへ深く関与していたことが明らかになった。

秘密活動を行っていたことだけでなく、

その活動について議会が直接質問した際にも、正確な情報が渡されなかった

ことが問題となった。

ポインデクスターは「資金流用を承認した」と証言した

さらに重要だったのが、ジョン・ポインデクスターの証言である。

ノースは自分一人で資金流用を決めたわけではないと説明していた。

そしてポインデクスター自身も、ノースから資金流用案を知らされ、自分が承認したと証言した。

一方で、レーガン大統領には知らせなかったと述べた。

理由については、大統領を政治的危険から隔離する意図があったという趣旨の説明をした。

これによって少なくとも、

「ノースがポインデクスターにも秘密で、完全な独断で資金を流用した」

という可能性は大きく後退した。

FACT CHECK|議会調査は「レーガンが資金流用を命令した」と認定したのか

認定していない。

ポインデクスターは、レーガン大統領へ資金流用を知らせなかったと証言した。
ノースも、大統領へ直接知らせたとは証言していない。

議会調査でも、レーガン大統領自身が資金流用を事前に知っていたことを確定する証拠は得られなかった。

一方、議会多数派報告は「大統領が知らなかったなら責任がない」とも結論づけていない。
大統領の政策、部下への監督、議会との関係を含めた政治的責任を別に論じている。

議会報告が最も強く批判したのは「秘密」そのものではない

1987年11月、上下両院の調査委員会は最終報告をまとめた。

多数派報告が事件を説明する際に繰り返したのは、

秘密活動そのものではなく、「説明責任のない秘密活動」

という問題だった。

アメリカ政府には秘密工作を実施する制度が存在する。

ただし通常は、

  • 大統領による正式な承認
  • 政府機関による管理
  • 政府資金の会計
  • 議会への所定の通知

が求められる。

ところがコントラ秘密支援では、ノースと民間ネットワークが外国政府・私人から資金を集め、秘密口座で処理し、議会へ通知されないまま軍事支援を実施していた。

議会多数派は、この状態を議会が持つ予算統制権を迂回するものとして厳しく批判した。

多数派報告は「North did not act alone」と結論づけた

議会報告で中心人物として位置づけられたのは、やはりオリバー・ノースだった。

秘密活動の実務を最も広く調整していたからである。

しかし報告は同時に、

North did not act alone.

という趣旨を明確にした。

ポインデクスターはノースの活動を明示的に承認していた。

マクファーレンも少なくともコントラ秘密支援についてノースへ任務を与え、活動の相当部分を認識していた。

CIA長官ケーシーについても、ノースを励まし、方向づけ、政府外秘密組織の構想を促進したと多数派は評価した。

つまり議会多数派が認定したのは、

秘密作戦を一人の部下へ押しつけることのできない組織的問題

だった。

そして議会は大統領の「政治的責任」に踏み込んだ

議会多数派報告は、レーガン大統領が資金流用を知っていたと認定しなかった。

しかし、大統領の責任については厳しい評価を示した。

大統領が部下の行動を知らなかったとしても、国家安全保障担当補佐官やNSCスタッフが何をしているのか把握できるよう指揮・監督する責任がある、という考え方である。

さらに、

  • イランへの秘密武器供給を進めた政策
  • コントラを存続させるという強い政策方針

そのものは大統領の政策だった。

NSCスタッフは、自分たちが大統領の望む目的を実現していると信じていた。

議会多数派は、その環境を作りながら部下の具体的行動を十分に監督できなかったことについて、最終的な政治的責任は大統領にあるという立場を取った。

ただし、議会報告は一枚岩ではない

ここも重要である。

「1987年議会報告」といっても、すべての議員が多数派報告の評価に同意したわけではない。

最終報告には多数派の本文だけでなく、少数派意見、追加意見などが付されている。

共和党議員を中心とする少数派側では、

  • 多数派が大統領の責任を過度に政治化している
  • 外交・安全保障における大統領権限の評価が弱い
  • ボランド修正の法的適用範囲には議論がある
  • 資金流用を大統領が知らなかったという証拠をより重く見るべき

といった反論が示された。

したがって、「議会がレーガンの違法行為を認定した」と一括するのは正確ではない。

多数派が示した政治・憲法上の評価と、少数派の反論を分けて読む必要がある。

調査で分かったこと、分からなかったこと

1987年末までに、事件の主要構造はかなり明確になった。

論点 1987年調査での到達点
イランへの武器供給 レーガン政権の承認下で実施されたことは確定
人質との関係 実施過程で武器供給と人質解放が結びついたことを確認
コントラ秘密支援 ノースらが外国政府・私人・Enterpriseを使って継続していたことを確認
資金流用 イラン武器売却収益の一部がコントラへ使われたことを確認
ポインデクスターの認識 本人が資金流用を承認したと証言
レーガンの資金流用認識 事前に知っていたことを確定する証拠は得られず
議会への説明 秘密支援に関する過去の政府説明と実態に重大な食い違いを確認
文書処理 ノース、ポインデクスターらによる削除・破棄・改変を確認

それでも「全貌」は確定しなかった

これだけの調査を行っても、すべての事実が判明したわけではない。

理由はいくつかある。

第一に、文書が破棄されていた。

ノースとポインデクスターは事件発覚期に大量の電子メッセージを削除し、紙文書も廃棄した。
大統領が署名した1985年のFinding原本も失われた。

第二に、CIA長官ウィリアム・ケーシーが証言できなくなった。

ケーシーは1986年末に体調を崩し、脳腫瘍の手術を受け、その後1987年5月に死去した。

事件の重要人物だったケーシー本人から、公の場で完全な証言を得ることはできなかった。

第三に、当事者の証言が一致しなかった。

誰がいつ何を承認したのか。
誰が大統領へ何を報告したのか。
資金流用のアイデアを最初に出したのは誰か。

文書で確認できる部分と、本人の記憶・主張に依存する部分が残った。

議会報告も「すべての事実を知った」とは言わなかった

議会多数派報告は、大統領の資金流用認識について決定的な証拠が得られなかったことを認めている。

ポインデクスターは「大統領へ知らせなかった」と証言した。

ノースは大統領も知っていると思っていたが、直接報告したとはしていない。

セコードはノースから「大統領と話した」と聞いたと証言したが、ノース自身はセコードを安心させるためにその話を作ったと説明した。

そして重要文書の破棄とケーシーの死によって、証拠記録には穴が残った。

このため「レーガンが絶対に知らなかったことが証明された」と言うことも、「資金流用を秘密裏に命令していたことが証明された」と言うこともできない。

FACT CHECK|「公聴会で真相が完全に解明された」のか

主要構造は解明されたが、完全ではない。

武器取引、コントラ秘密支援、資金流用、ノースとポインデクスターの関係、議会への説明、文書破棄などは大量の記録と証言によって再構成された。

一方、大統領が資金流用をどこまで認識していたか、ケーシーが全活動をどこまで指揮していたかなど、証拠不足で最終確定できなかった部分が残った。

タワー委員会と議会調査の最大の違い

二つの調査を最後に比較すると、役割の違いが見える。

タワー委員会 議会調査
設置主体 レーガン大統領 連邦議会
中心テーマ NSC運用と政策実施 秘密活動全体と議会統制
重点 行政・組織管理 政治・憲法・監督責任
大統領について 管理・監督上の問題を指摘 多数派は最終的政治責任にも踏み込む
刑事責任 決定しない 決定しない
刑事捜査 ウォルシュ独立検察官が別に担当

タワー委員会は、事件を「NSCの運用がなぜ失敗したか」という行政管理の問題として強く見た。

議会はさらに一歩踏み込み、「議会が資金を制限した政策を行政府が政府外の仕組みで継続し、議会へ十分な情報を与えなかった」という統治構造の問題として見た。

同じ証拠を見ても、問うていた責任の種類が違ったのである。

調査の結果、制度は実際に変更された

イラン・コントラ事件の調査は、報告書を書いて終わったわけではない。

1987年3月、レーガン政権はタワー委員会の勧告を受け、NSC制度の改革を進めた。

NSCスタッフ自身が秘密工作を実施することは禁止され、秘密活動について法的審査・政府内部の調整・議会との協議を強化する方向へ改められた。

レーガンも、NSCスタッフの個人による「freelancing」を許さないという方針を表明した。

つまり事件調査が示した問題は、

「悪い人物を取り除けば終わる」

とは考えられなかった。

同じことを再び起こさないためには、秘密活動を誰が実施し、誰が法的に審査し、誰が議会へ報告するのかという制度を修正する必要があった。

しかし刑事責任の問題は、まだ何も終わっていなかった

1987年11月までに、政治的な調査はほぼ全体像を描いていた。

それでも残る問いがある。

ノースは犯罪を犯したのか。

ポインデクスターはどうなのか。

マクファーレン。
セコード。
ハキム。
CIA関係者。
国務省関係者。
国防総省関係者。

政治的責任ではなく、刑法に照らして誰を起訴できるのか。

その仕事を進めていたのがローレンス・ウォルシュ独立検察官だった。

ところが、議会が真相を明らかにするためノースとポインデクスターへ免責を与えたことで、刑事捜査は極めて難しい問題を抱えることになる。

テレビで全米に放送された証言を、その後の陪審員や証人が一切知らなかったことを、検察側が証明しなければならないからである。

そして実際に、

ノースは有罪になる。

ポインデクスターも有罪になる。

だが、両者の有罪判決は最終的に残らない。

さらに事件終盤には、大統領恩赦が捜査そのものを終わらせていく。

まとめ|1987年の調査が明らかにしたもの

タワー委員会と連邦議会調査によって、イラン・コントラ事件の基本構造はほぼ公の記録になった。

イランへの武器供給は、政権の承認下で行われていた。

コントラへの秘密支援は、ノースらが外国政府、民間人、秘密銀行口座、Enterpriseを利用して継続していた。

イラン武器売却収益の一部はコントラ支援へ流用された。

ポインデクスターは、その流用を承認したと証言した。

議会がNSCの関与を問い合わせた際には、実態と一致しない説明が行われていた。

事件発覚時には文書の破棄・改変も行われた。

そして、政策を調整するはずのNSCスタッフが秘密作戦を実施する側へ回ったことで、通常の政府機関による監督・法律審査・会計・議会監督が弱くなっていた。

一方で、

レーガン大統領が資金流用を事前に知っていたことは確定されなかった。

大量の文書が失われ、CIA長官ケーシーが証言できないまま死亡し、当事者の証言にも食い違いが残った。

したがって1987年の調査は、

「事件の主要構造を明らかにした」

一方で、

「全員の認識と刑事責任を確定した」

わけではなかった。

次回は、政治の世界から法廷へ移る。

ウォルシュ独立検察官は誰を起訴し、ノースとポインデクスターはなぜ有罪になりながら判決を覆され、最後にはジョージ・H・W・ブッシュ大統領の恩赦が事件をどのように終わらせたのか。

前の記事:

第7回 イラン・コントラ事件はどう発覚したのか|1986年11月、秘密工作が表に出るまで

次の記事:

第9回 刑事責任はどう裁かれたのか|ウォルシュ独立検察官、逆転判決、そして恩赦

CASE FILE 43|全記事

  1. 第1回 イラン・コントラ事件とは?|武器売却とコントラ支援が結びついた秘密工作の全貌
  2. 第2回 なぜイランへ武器を売ったのか|レバノン人質問題と「イラン・イニシアチブ」
  3. 第3回 武器はどうイランへ渡ったのか|イスラエル経由から米国直接取引まで
  4. 第4回 なぜコントラ支援は秘密化したのか|ボランド修正と議会統制
  5. 第5回 武器代金はどうコントラへ流れたのか|資金流用と「Enterprise」の仕組み
  6. 第6回 誰が秘密作戦を動かしたのか|オリバー・ノース、ポインデクスターとNSCの実働化
  7. 第7回 イラン・コントラ事件はどう発覚したのか|1986年11月、秘密工作が表に出るまで
  8. 第8回 調査は何を突き止めたのか|タワー委員会と1987年議会公聴会[現在の記事]
  9. 第9回 刑事責任はどう裁かれたのか|ウォルシュ独立検察官、逆転判決、そして恩赦
  10. 第10回 レーガンはどこまで知っていたのか|確定事実・争点・イラン・コントラ事件が残したもの

出典・参考資料

本記事では、大統領が設置したタワー委員会と連邦議会による調査を別の制度として扱っています。タワー委員会は主にNSCの運用・行政管理を検証し、議会調査は秘密活動、議会統制、政府説明、政治的責任まで広く検証しました。また1987年議会報告には多数派報告だけでなく少数派・追加意見が存在するため、多数派による大統領責任の評価を「議会全体が違法行為を認定した」とは表現していません。刑事責任については両調査ではなく、ウォルシュ独立検察官の捜査・裁判で扱われます。

刑事責任はどう裁かれたのか|ウォルシュ独立検察官、逆転判決、そして恩赦

政治スキャンダル・秘密工作

1989年5月4日、ワシントンの連邦地裁。

オリバー・ノースに対する評決が読み上げられた。

有罪、3件。

議会調査の妨害を幇助したこと。
公文書を破棄・変更したこと。
そして、秘密作戦を支えたリチャード・セコードから不法な利益供与を受けたこと。

テレビ中継された1987年の議会公聴会で、イラン・コントラ事件の象徴となった元NSCスタッフに、刑事裁判でも有罪評決が出た。

翌1990年には、ノースの上司だったジョン・ポインデクスターも5件すべてで有罪となる。

これで事件の中心人物に刑事責任が確定した――ように見えた。

しかし、最終的には違った。

ノースの3件の有罪判決は取り消される。
ポインデクスターの5件もすべて取り消される。

その理由は「事件が存在しなかったから」ではない。

1987年、真相を明らかにするために連邦議会が二人へ与えた免責付き証言が、その後の刑事裁判に影響した可能性を検察側が完全に排除できなかったからである。

さらに1992年12月24日。

ジョージ・H・W・ブッシュ大統領は、元国防長官キャスパー・ワインバーガーらイラン・コントラ関係者6人に全面恩赦を与えた。

裁判を待っていた2人は、法廷へ立つ前に訴追から解放された。

第9回では、ローレンス・ウォルシュ独立検察官の約7年間に及ぶ捜査を追いながら、

誰が起訴され、誰が有罪となり、なぜ一部の判決は消え、最後に大統領恩赦が何を終わらせたのか

を整理する。

1986年12月19日――独立検察官ローレンス・ウォルシュ

イラン・コントラ事件が公になった翌日の1986年11月26日、司法長官エドウィン・ミースはFBIへ捜査開始を命じた。

しかし事件の対象には、ホワイトハウス、NSC、CIA、国務省、国防総省など、レーガン政権の中枢が含まれていた。

通常の司法省が政権高官を捜査すれば、捜査の独立性そのものが疑われかねない。

そこで12月19日、元連邦判事で元司法副長官のローレンス・E・ウォルシュが独立検察官に任命された。

ウォルシュの捜査は巨大だった。

ワシントン、ニューヨーク、オクラホマシティに拠点が置かれ、FBI、税務当局、税関などからも要員が集められた。

捜査チームも、

  • ホワイトハウス・NSC・司法省
  • CIA・国務省
  • 資金の流れ・国防総省

などに分かれた。

目的は「事件の政治的責任を評価すること」ではない。

証拠を集め、連邦刑法違反を合理的疑いを超えて立証できる人物を起訴することだった。

最初から大きな障害があった――議会の免責

独立検察官が捜査を始めた時点で、連邦議会も同じ事件を調べようとしていた。

しかし両者の目的は異なる。

議会は、できるだけ早く関係者から証言を引き出し、何が起きたのかを国民の前で明らかにしたい。

検察は、証言を公開する前に独立した証拠を集め、刑事裁判で使える形にしておきたい。

ここで対立したのが免責だった。

ノースやポインデクスターは、自らを刑事訴追へ結びつける証言について憲法上の自己負罪拒否特権を主張できる。

そこで議会は1987年、一定の免責を与えたうえで証言を求めた。

ノース、ポインデクスター、アルバート・ハキムらが対象となった。

これにより、議会は事件の内部事情を詳しく聞くことができた。

一方、検察側には極めて厳しい制限が生まれた。

「免責」は犯罪を許す制度ではない

ここは大きな誤解が生まれやすい。

議会から免責を与えられたからといって、

「それ以前に行った犯罪について刑事責任を問えなくなる」

という意味ではない。

問題は、免責付きで強制された証言を、検察が本人の刑事裁判に使用できないことである。

さらに、その証言から派生した証拠も使えない。

例えば、ノースがテレビ公聴会で、

「Aという人物に指示した」

と証言したとする。

それを見た検察官が初めてAを捜し出し、Aから証言を得れば、その証言は免責証言から派生した証拠になる可能性がある。

さらに問題は、検察が公聴会を直接利用していなくても、裁判へ呼ぶ証人がテレビでノースの証言を見ていた場合だった。

その証人の記憶や表現が、公聴会から影響を受けていないことまで確認する必要が生じる。

全米に中継された証言だけに、この問題は非常に大きかった。

FACT CHECK|議会の免責は「恩赦」と同じなのか

まったく違う。

免責付き証言は、強制された本人の証言やそこから派生した証拠を刑事訴追に使用することを制限する制度である。
独立して入手した証拠があれば、訴追そのものは可能だった。

一方、大統領恩赦は大統領が憲法上の権限によって連邦犯罪に対する刑事責任を免除する行為である。

ノースとポインデクスターは議会から免責を受けたが、大統領恩赦を受けたわけではない。

1988年3月16日――事件中枢の4人が起訴される

1988年3月16日、連邦大陪審は23件からなる起訴状を提出した。

中心となった被告は、

  • ジョン・ポインデクスター
  • オリバー・ノース
  • リチャード・セコード
  • アルバート・ハキム

の4人だった。

当初は4人を一つの事件として扱う予定だったが、機密情報の扱いや免責証言の影響などから、裁判は分離されることになる。

さらに中心的な共謀罪についても、機密情報を法廷でどこまで開示できるかという問題が生じ、当初想定された形のまま審理することはできなかった。

国家安全保障上の秘密を守りながら、公開の刑事裁判を行う。

この矛盾も、イラン・コントラ事件の刑事訴追を難しくした要因だった。

ノースは16件で起訴され、12件が裁判になった

ノースには、1988年3月の起訴状で16件の重罪が課された。

その後の整理を経て、1989年の裁判では12件が審理された。

論点には、

  • 議会調査の妨害
  • 虚偽説明
  • 公文書の破棄・改変
  • 不法な利益供与
  • 政府資産・資金をめぐる問題

などが含まれていた。

裁判は1989年初めに始まり、5月4日に評決が出る。

ノース――12件中3件で有罪

陪審はノースについて、12件すべてを有罪とはしなかった。

最終的に有罪となったのは3件だった。

  1. 議会調査妨害を幇助したこと
  2. 公文書を破棄したこと
  3. セコードから不法な利益供与を受けたこと

1989年7月5日、連邦地裁はノースへ、

  • 禁錮3年・執行猶予
  • 保護観察2年
  • 罰金15万ドル
  • 社会奉仕1,200時間

を言い渡した。

この時点では、事件を象徴する人物に刑事有罪判決が成立していた。

しかし1990年、ノースの有罪判決は取り消された

ノース側は控訴した。

そして1990年7月20日、連邦控訴裁判所は3件の有罪判決を取り消し、事件を地裁へ差し戻した。

理由は事件の事実そのものを否定したことではない。

問題となったのは1987年の議会公聴会だった。

ノースは免責付きで長時間証言し、その内容は全米へテレビ放送されていた。

検察側が裁判で使った証人の証言に、ノースの免責証言が直接・間接に影響していないことを十分に証明できていたのか。

控訴裁判所は、地裁による審査では不十分だと判断した。

各証人について、免責証言から影響を受けていないかをより厳格に調べる必要があるとしたのである。

FACT CHECK|ノースは「無実だから逆転無罪になった」のか

その表現は正確ではない。

控訴審は、陪審が認定した事実について「ノースは何もしていなかった」と判断したわけではない。

議会で強制された免責証言が、刑事裁判の証人へ影響していた可能性を検察側が憲法上要求される水準で排除できたかが問題となり、有罪判決が取り消された。

したがって、「無罪が証明された」ことと「有罪判決を法的に維持できなかった」ことは区別する必要がある。

1991年、ノース事件は再審されず終了した

独立検察官側は控訴審判断についてさらに争ったが、連邦最高裁は事件の審理を引き受けなかった。

その後、差戻し先の地裁では、免責証言が証人へどの程度影響したのかについて改めて審理が行われた。

しかし、全米放送されたノースの議会証言から証人が完全に独立していたことを、必要な水準で立証するのは極めて困難だった。

ウォルシュ独立検察官は最終的に再審を断念する。

1991年9月16日、独立検察官の申立てによってノースに対する事件は棄却された。

結果として、1989年に出された3件の有罪評決は最終的な有罪判決として残らなかった。

ポインデクスターは5件すべてで有罪となった

ノースに続いて裁判へ進んだのが、元国家安全保障担当大統領補佐官ジョン・ポインデクスターだった。

ポインデクスターには1988年3月、7件の重罪が起訴された。

最終的に5件が裁判となる。

内容は、

  • 議会・政府調査を妨害するための共謀
  • 議会妨害2件
  • 虚偽説明2件

だった。

1990年4月7日。

陪審は5件すべてについて有罪と評決した。

同年6月11日、各罪について禁錮6か月、同時執行という判決が言い渡された。

ポインデクスターの5件も、翌年すべて覆った

しかしポインデクスターも控訴する。

そして1991年11月15日、連邦控訴裁判所は5件の有罪判決をすべて覆した。

中心的な理由は、ノース事件と同じだった。

ポインデクスターも1987年の議会公聴会で免責付き証言を行っていた。

その証言を見聞きした証人が刑事裁判で証言しており、免責証言による影響を完全に排除できたかが問題になった。

連邦最高裁は1992年12月7日、この控訴審判断を再審理しなかった。

その後1993年、独立検察官の申立てで起訴自体が棄却された。

なぜ「全米中継」が刑事裁判を難しくしたのか

ここには、イラン・コントラ事件特有の矛盾がある。

議会公聴会は真相解明という点では大きな成果を上げた。

ノースとポインデクスター本人から、

  • コントラ秘密支援
  • 資金流用
  • NSCの活動
  • 文書処理

などについて直接証言を得られた。

しかし、その証言を全国放送したことで、後の刑事裁判へ呼ばれる可能性のある証人たちも内容を知ってしまった。

検察が免責証言を一切見なくても、証人の側が見ていれば問題になり得る。

結果として、

政治的事実を早く明らかにすること

と、

刑事裁判で汚染されていない証拠だけを使うこと

が衝突した。

ウォルシュは議会が免責を与えると分かった段階で捜査スタッフを増員し、免責証言が公開される前に可能な限り多くの独立証拠を確保しようとしていた。

それでも完全には防げなかった。

ノースとポインデクスターだけが起訴されたわけではない

イラン・コントラ事件の刑事責任を二人だけで理解するのも正確ではない。

ウォルシュ独立検察官は最終的に14人を刑事事件で訴追した。

その結果を大きく整理すると、

結果 人数・内容
刑事訴追された人物 14人
有罪となった人物 11人
後に有罪判決が覆った人物 2人(ノース、ポインデクスター)
裁判前に恩赦された人物 2人
機密情報問題で事件が棄却された人物 1人

「11人が有罪」という数字には、陪審による有罪評決だけでなく、有罪答弁を行った人物も含まれる。

マクファーレン――議会への情報 withholding で有罪答弁

元国家安全保障担当大統領補佐官ロバート・マクファーレンは、1988年3月11日に4件の軽罪について有罪を認めた。

内容は、コントラ秘密支援に関して連邦議会へ情報を十分に提供しなかったことだった。

1989年3月、裁判所は、

  • 保護観察2年
  • 罰金2万ドル
  • 社会奉仕200時間

を言い渡した。

マクファーレンの有罪は、ノースやポインデクスターのように控訴審で取り消されたわけではない。

しかし後にブッシュ大統領の恩赦対象となる。

セコードとハキムも有罪答弁した

Enterpriseを運営していたリチャード・セコードは、複数の重罪で起訴された。

最終的に1989年11月、議会へ虚偽説明を行った1件の重罪について有罪を認めた。

1990年1月に保護観察2年の判決を受けている。

アルバート・ハキムも1989年11月に有罪答弁した。

罪は、オリバー・ノースの給与を不法に補填したことに関する軽罪だった。

さらにハキムが主要株主だったLake Resources Inc.は、イラン武器売却収益をコントラ支援などへ流用したことについて、政府財産窃取の法人重罪を認めた。

Lake Resourcesは最終的に解散を命じられた。

「誰も刑務所へ行かなかった」わけでもない

イラン・コントラ事件について、

「結局、全員が無罪や恩赦になった」

と説明されることもある。

これも正確ではない。

Enterpriseに関係した元CIA職員トーマス・クラインズは、海外口座や所得を税務申告で正しく申告しなかった4件の重罪で1990年に有罪となった。

裁判所は禁錮16か月、罰金4万ドルを言い渡した。

控訴審でも有罪判決は維持され、クラインズは実際に服役した。

また民間のコントラ資金集めに関係したカール・チャネル、リチャード・ミラーも、アメリカ政府を欺く共謀罪で有罪答弁している。

CIA高官にも捜査が及んだ

ノースとポインデクスターの裁判が終わった後、ウォルシュの捜査は上位の政府関係者へ広がった。

CIAでは、

  • アラン・ファイアーズ
  • クレア・ジョージ
  • デュアン・クラリッジ
  • ジョセフ・フェルナンデス

らが刑事事件の対象となった。

焦点の多くは、秘密作戦そのものよりも、事件発覚後の議会・大陪審・調査機関への説明だった。

アラン・ファイアーズ――議会へ情報を隠したことを認める

CIA中米タスクフォース責任者だったアラン・ファイアーズは、1991年7月、議会へコントラ秘密支援に関する情報を隠した2件の軽罪について有罪を認めた。

1992年1月、

  • 保護観察1年
  • 社会奉仕100時間

の判決を受ける。

ファイアーズの協力は、他の政府関係者がノースの秘密補給網についてどこまで知っていたかを調べる際にも重要になった。

エリオット・エイブラムズ――国務省側にも有罪答弁

国務省で中南米政策を担当していたエリオット・エイブラムズも捜査対象となった。

1991年10月、エイブラムズは2件の軽罪について有罪を認めた。

内容は、コントラへの秘密政府支援と、第三国からの支援資金について連邦議会へ重要情報を十分に提供しなかったことだった。

裁判所は、

  • 保護観察2年
  • 社会奉仕100時間

を言い渡した。

彼も後にブッシュ大統領から恩赦を受ける。

クレア・ジョージ――CIA幹部に重罪有罪評決

CIA作戦担当副長官を務めたクレア・ジョージは、1991年に偽証、虚偽説明、妨害などで起訴された。

最初の裁判は1992年8月に評決不一致となり、無効審理となる。

しかし再び裁判が行われ、1992年12月9日、陪審はジョージについて、

  • 議会への虚偽説明
  • 議会での偽証

の2件の重罪で有罪とした。

量刑は1993年2月に予定されていた。

ところが有罪評決からわずか15日後、状況は大きく変わる。

ワインバーガーの手書きメモが捜査を変えた

捜査終盤の最重要人物の一人が、元国防長官キャスパー・ワインバーガーだった。

ワインバーガーは1985年当時、イランへの武器供給へ強く反対していた人物でもある。

ところが捜査が進むと、彼が閣僚会議や電話の内容を詳細に記録した大量の手書きメモを残していたことが判明した。

そこには、イラン武器取引についてレーガン政権高官がいつ、何を話していたかを確認できる重要な同時代記録が含まれていた。

ウォルシュ独立検察官は、それ以前のワインバーガーによる議会や捜査機関への説明と、このメモの内容との食い違いを問題視した。

1992年6月16日、ワインバーガーは偽証、虚偽説明など複数の罪で起訴された。

裁判開始日は1993年1月5日。

事件発覚から6年以上たって、元国防長官が法廷へ立とうとしていた。

ジョセフ・フェルナンデス事件は「機密情報」で止まった

ウォルシュ捜査には、免責とは別の障害もあった。

元CIAコスタリカ支局長ジョセフ・フェルナンデスは、タワー委員会への妨害や政府機関への虚偽説明などで起訴された。

しかし弁護側は、自己防御のため特定の機密情報が必要だと主張した。

裁判所も、その一部が防御に必要だと判断した。

当時の司法長官リチャード・ソーンバーグは、国家安全保障上の理由からその情報の開示を認めなかった。

結果として1989年、事件は棄却された。

つまりここでは、

被告人に公正な裁判を保障するため必要な情報

と、

国家が守ろうとする機密情報

が衝突し、訴追を続けること自体ができなくなった。

1992年12月24日――ブッシュ大統領が6人を恩赦

1992年12月24日、クリスマス・イブ。

任期終了まで1か月を切っていたジョージ・H・W・ブッシュ大統領は、イラン・コントラ関係者6人へ全面的かつ無条件の恩赦を与えた。

対象は、

  • キャスパー・ワインバーガー
  • ロバート・マクファーレン
  • エリオット・エイブラムズ
  • アラン・ファイアーズ
  • クレア・ジョージ
  • デュアン・クラリッジ

だった。

6人の状況は同じではない。

人物 恩赦時点
マクファーレン 有罪答弁・量刑済み
エイブラムズ 有罪答弁・量刑済み
ファイアーズ 有罪答弁・量刑済み
クレア・ジョージ 重罪2件で有罪評決済み・量刑前
ワインバーガー 起訴済み・裁判開始12日前
クラリッジ 起訴済み・裁判前

したがって「ブッシュが6人の有罪判決を消した」という説明も正確ではない。

すでに有罪となっていた人物と、まだ裁判すら始まっていなかった人物が同時に恩赦されたのである。

ブッシュはなぜ恩赦したのか

ブッシュ大統領は恩赦声明で、自らの理由を明確に説明した。

6年以上にわたりイラン・コントラ事件は徹底的に調査された。
タワー委員会、議会、独立検察官が膨大な資料と証言を検討した。

そのうえでブッシュは、これらの訴追を政策上の相違を刑事事件化する「criminalization of policy differences」だと批判した。

また恩赦対象者について、

  • 愛国的動機から行動した
  • 私的利益を目的としていなかった
  • 長年国家に奉仕してきた
  • すでに職業・家庭・経済面で大きな代償を払った

と説明した。

ブッシュの立場では、これ以上刑事裁判を続けるより、事件を政治の領域へ戻し、国として前へ進むべきだという判断だった。

FACT CHECK|ブッシュの恩赦は違法だったのか

恩赦そのものは、合衆国憲法が大統領へ与えている権限に基づく。

議論となったのは、大統領に恩赦権が存在するかではなく、その権限をこの時点で行使したことで、まだ予定されていた裁判や事実解明が停止したことだった。

ブッシュは「十分に調査されたため事件を終わらせるべきだ」と説明した。
一方ウォルシュ独立検察官は、特にワインバーガー裁判が中止されたことで、事件終盤に得られた証拠を法廷で検証する機会が失われたと批判した。

ウォルシュにとって、ワインバーガー恩赦は特に重大だった

ウォルシュ独立検察官にとって、6人の中でもワインバーガーの恩赦には特別な意味があった。

裁判開始まで12日しか残っていなかったからである。

しかもワインバーガーの手書きメモには、レーガン政権上層部で行われたイラン武器取引の協議が同時代記録として残されていた。

さらに裁判では、当時副大統領だったブッシュ自身が証人として呼ばれる可能性もあった。

ウォルシュは最終報告で、ブッシュが事件について重要な事実を知る証人になり得たと評価している。

一方、恩赦が事実解明を妨害する目的だったと刑事的に証明されたわけではない。

ウォルシュ自身も、恩赦が腐敗した取引によって得られたという証拠がない以上、この問題を大陪審へ持ち込まなかった。

したがって、

「恩赦によってワインバーガー裁判とクラリッジ裁判が行われなくなった」

ことは事実だが、

「ブッシュが真相隠蔽の犯罪として恩赦したことが立証された」

わけではない。

ブッシュ自身の記録も捜査終盤に問題になった

恩赦直前の1992年12月、もう一つの問題が浮上していた。

ブッシュが副大統領時代などに記していた日記の一部が、以前から独立検察官に求められていたにもかかわらず提出されていなかったことが判明した。

ホワイトハウスが独立検察官へその事実を伝えたのは12月11日だった。

ウォルシュは一度ほぼ終了していた捜査を再開し、日記を確認した。

最終的に、その日記自体はブッシュに対する新たな刑事捜査を正当化する内容ではないと判断された。

またウォルシュは、ブッシュがイラン武器売却収益のコントラへの流用を知っていたという証拠も得ていない。

この点は、事件の最終評価で重要になる。

1993年8月4日――約7年の捜査が最終報告へ

1993年8月4日、ウォルシュは独立検察官最終報告を提出した。

事件発覚から約6年9か月。
任命から数えれば約6年半に及ぶ捜査だった。

国立公文書館がまとめる公式記録では、

  • 14人が刑事訴追された
  • 11人が有罪となった
  • ノースとポインデクスターの有罪判決は控訴審で覆った
  • 2人は裁判前に大統領恩赦を受けた
  • 1人の事件は機密情報をめぐって棄却された

という結果になった。

さらに6人の関係者が1992年12月24日にブッシュ大統領から恩赦されている。

最終的な結果を人物別に整理する

人物 主な結果
オリバー・ノース 3件有罪 → 控訴審で取消 → 事件棄却
ジョン・ポインデクスター 5件有罪 → 控訴審で取消 → 事件棄却
ロバート・マクファーレン 4件の軽罪で有罪答弁 → 量刑 → 1992年恩赦
リチャード・セコード 議会への虚偽説明1件の重罪で有罪答弁
アルバート・ハキム 軽罪で有罪答弁。Lake Resourcesも法人重罪を認め解散
トーマス・クラインズ 税務関連4件の重罪で有罪、禁錮16か月を服役
アラン・ファイアーズ 2件の軽罪で有罪答弁 → 1992年恩赦
エリオット・エイブラムズ 2件の軽罪で有罪答弁 → 1992年恩赦
クレア・ジョージ 2件の重罪で有罪 → 量刑前に1992年恩赦
デュアン・クラリッジ 起訴 → 裁判前に1992年恩赦
キャスパー・ワインバーガー 起訴 → 裁判12日前に1992年恩赦
ジョセフ・フェルナンデス 機密情報開示問題により事件棄却

「有罪判決が消えた」ことと「調査で確認された事実」は別である

イラン・コントラ事件の司法結果が分かりにくい最大の理由がここにある。

刑事裁判には非常に高い立証基準がある。

さらに、

  • 免責付き証言
  • 機密情報
  • 文書破棄
  • 証人の記憶
  • 大統領恩赦

という特殊な問題も重なった。

そのため、

ある人物に最終的な有罪判決が残らなかった

ことと、

その人物が秘密作戦に関与したこと自体が確認されていない

ことは同じではない。

例えばノースがコントラ秘密支援やイラン武器取引へ関与していたことは、本人の議会証言、政府文書、銀行記録、他の証人の証言などによって確認されている。

問題となったのは、それらのうち刑事裁判で使用された証拠が、免責証言から完全に独立していたことを検察が立証できるかだった。

FACT CHECK|「イラン・コントラ事件では結局誰も有罪にならなかった」のか

違う。

ウォルシュ独立検察官の捜査では14人が刑事訴追され、11人が一度は有罪となった。

そのうちノースとポインデクスターの有罪判決は後に覆ったが、セコード、ハキム、クラインズ、チャネル、ミラーなど別の人物の有罪はそれとは異なる結果をたどった。

またマクファーレン、エイブラムズ、ファイアーズ、クレア・ジョージらは有罪となった後に大統領恩赦を受けている。

したがって「全員無罪」でも「中心人物全員が刑務所へ入った」でもない。

司法制度は、政治責任とは違う問いをしていた

1987年の議会調査は、

「行政府は議会の統制をどのように扱ったのか」

という問題を追った。

タワー委員会は、

「NSCの運営はなぜ失敗したのか」

を調べた。

ウォルシュ独立検察官が問うたのは、さらに狭く厳格だった。

「特定の人物について、特定の刑事犯罪を、適法に取得した証拠だけで合理的疑いを超えて立証できるか」

である。

そのため、三つの調査で同じ人物に対する評価が異なることは矛盾ではない。

刑事事件として成立しなくても、行政上・政治上の責任が存在する場合がある。

逆に政策判断が政治的に支持されていても、議会への偽証や文書破棄など別の刑事行為が許されるわけでもない。

恩赦は事件を「無かったこと」にしたわけではない

大統領恩赦についても同じである。

恩赦は、歴史的事実を削除する制度ではない。

マクファーレンが議会への情報 withholding について有罪答弁したこと。
エイブラムズとファイアーズが有罪答弁したこと。
クレア・ジョージが陪審から有罪評決を受けたこと。

これらの司法記録そのものが存在しなくなるわけではない。

一方、ワインバーガーとクラリッジについては裁判前に恩赦されたため、起訴内容が法廷で有罪・無罪どちらかに確定される機会そのものがなくなった。

この違いも重要である。

まとめ|司法は事件を完全には「終わらせられなかった」

イラン・コントラ事件の刑事捜査は、1986年12月から1993年まで続いた。

ローレンス・ウォルシュ独立検察官は14人を刑事訴追した。

11人が有罪となった。

しかし事件の中心人物だったノースとポインデクスターについては、議会の免責付き証言が刑事裁判の証人へ影響した可能性を排除できず、有罪判決を維持できなかった。

別のCIA・国務省・NSC関係者には有罪答弁や有罪評決が残った。

トーマス・クラインズのように実際に服役した人物もいる。

その一方で、国家機密を守るため必要な証拠を法廷で使えず、フェルナンデス事件は棄却された。

そして1992年12月24日。

ブッシュ大統領はワインバーガー、クラリッジ、ジョージ、ファイアーズ、エイブラムズ、マクファーレンの6人を恩赦した。

ブッシュは、6年以上の調査で事件は十分に検証され、これ以上の訴追は政策上の対立を刑事事件化するものだと説明した。

ウォルシュは逆に、特にワインバーガー裁判が中止されたことで、捜査終盤に得られた証拠を法廷で検証する機会が失われたと考えた。

どちらの評価を採るにしても、確定していることがある。

司法手続だけでは、

「誰が最終的に何を知っていたのか」

という事件最大の問いに、完全な答えは出なかった。

そして残る最大の人物が、ロナルド・レーガン大統領である。

レーガンはイランへの武器供給を知っていた。
コントラ支援を強く支持していた。

では、その二つを結びつけた資金流用は知っていたのか。

ノースの秘密補給網をどこまで理解していたのか。

事件発覚後に行われた政府内の説明や文書処理について、どこまで把握していたのか。

そして、膨大な調査を終えた現在、「レーガンは知らなかった」「すべて知っていた」のどちらまで証拠で言えるのか。

最終回では、タワー委員会、議会報告、ウォルシュ独立検察官最終報告を照合し、確定事実・証言・未確定事項を分けて、この事件最大の問いを検証する。

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第8回 調査は何を突き止めたのか|タワー委員会と1987年議会公聴会

次の記事:

第10回 レーガンはどこまで知っていたのか|確定事実・争点・イラン・コントラ事件が残したもの

CASE FILE 43|全記事

  1. 第1回 イラン・コントラ事件とは?|武器売却とコントラ支援が結びついた秘密工作の全貌
  2. 第2回 なぜイランへ武器を売ったのか|レバノン人質問題と「イラン・イニシアチブ」
  3. 第3回 武器はどうイランへ渡ったのか|イスラエル経由から米国直接取引まで
  4. 第4回 なぜコントラ支援は秘密化したのか|ボランド修正と議会統制
  5. 第5回 武器代金はどうコントラへ流れたのか|資金流用と「Enterprise」の仕組み
  6. 第6回 誰が秘密作戦を動かしたのか|オリバー・ノース、ポインデクスターとNSCの実働化
  7. 第7回 イラン・コントラ事件はどう発覚したのか|1986年11月、秘密工作が表に出るまで
  8. 第8回 調査は何を突き止めたのか|タワー委員会と1987年議会公聴会
  9. 第9回 刑事責任はどう裁かれたのか|ウォルシュ独立検察官、逆転判決、そして恩赦[現在の記事]
  10. 第10回 レーガンはどこまで知っていたのか|確定事実・争点・イラン・コントラ事件が残したもの

出典・参考資料

本記事では、刑事裁判上の「有罪」「判決取消」「事件棄却」「有罪答弁」「大統領恩赦」を区別しています。特にノースとポインデクスターについては、控訴審が事件への関与そのものを否定したのではなく、議会での免責付き証言が刑事裁判の証人へ影響した可能性を排除できなかったため有罪判決を維持できなかった点を重視しています。また1992年12月24日のブッシュ大統領恩赦については、大統領自身の公式な理由と、ウォルシュ独立検察官側の批判を分けて記述しています。

レーガンはどこまで知っていたのか|確定事実・争点・イラン・コントラ事件が残したもの

政治スキャンダル・秘密工作

「レーガン大統領は知っていたのか」。

イラン・コントラ事件について、最後まで残った最大の問いである。

だが、この問いをそのまま投げても、正確な答えは出ない。

何を知っていたのか。

イランとの秘密外交か。
武器の供給か。
コントラへの秘密支援か。
オリバー・ノースが作った民間補給網か。
イランへの武器売却で生じた利益か。
その利益をコントラへ回した「資金流用」か。

これらはすべて別の問題である。

調査記録を追うと、レーガンが明確に知っていたこともある。
本人が承認していた政策もある。

一方、膨大な調査を経ても「知っていた」と立証できなかった部分も残った。

1993年、ローレンス・ウォルシュ独立検察官は約7年に及ぶ捜査を終え、レーガンについて刑事訴追できるだけの証拠は得られなかったと結論した。

しかし同時に、事件を「部下だけが勝手に起こしたもの」とも評価しなかった。

最終回では、

確定していること
証言・記録から強く確認できること
最後まで確定できなかったこと

を分けながら、「レーガンはどこまで知っていたのか」を整理する。

最初に結論――「知っていた/知らなかった」の二択ではない

公式調査から確認できるレーガン大統領の認識を、最初に整理する。

論点 確認できる範囲
イランとの秘密外交 知っていた・承認していた
イランへの武器供給 知っていた・承認していた
コントラを存続させる政策 強く支持していた
外国政府からのコントラ支援資金 一部を認識・奨励していた
ノースがコントラ問題を担当していたこと 知っていた
ノースが大規模な秘密軍事補給網を運営していたこと 具体的に知っていたことは立証されず
イラン武器売却による余剰利益 事前に認識していたことは立証されず
イラン武器代金のコントラへの資金流用 事前に知り、承認したことを示す直接証拠なし

つまり、

「レーガンは何も知らなかった」

は間違いである。

一方、

「レーガンがイラン・コントラ事件の全仕組みを設計し、資金流用まで命令した」

と断定できる証拠もない。

事件の実像は、その中間にある。

確定事実1|イランとの秘密外交はレーガン自身の政策だった

まず、イランとの秘密接触については曖昧ではない。

レーガン自身が政策を承認していた。

1985年、レーガン政権内部では革命後に断絶していたイランとの関係を秘密裏に再構築する構想が進められた。

背景には、

  • レバノンで拘束されたアメリカ人人質の解放
  • 将来のイラン指導部との関係構築
  • ソ連の影響力拡大への懸念

などがあった。

レーガンはこの秘密外交そのものを知り、支持していた。

1986年1月17日には、CIAを利用した対イラン秘密活動を正式に認める大統領Findingにも署名している。

したがって、

「部下がレーガンに秘密で勝手にイランと交渉した」

という説明は成立しない。

確定事実2|イランへの武器供給も承認していた

さらに重要なのが武器供給である。

1985年夏、イスラエルは自国の在庫から米国製TOW対戦車ミサイルをイランへ供給し、アメリカが後からイスラエルへ兵器を補充する方式を提案した。

ウォルシュ独立検察官が後年得た証拠では、レーガンは1985年のイスラエルからイランへのTOW・HAWK移転を承認していたと整理されている。

1986年には、さらに明確になる。

1月17日の大統領FindingによってCIAが米政府の兵器を取得し、秘密裏にイランへ供給する活動が正式に承認された。

つまり、

「アメリカ製兵器がイランへ渡っていたこと自体を大統領は知らなかった」

とは言えない。

では「arms for hostages」は知っていたのか

ここから少し複雑になる。

レーガン政権は当初、対イラン政策を単純な「武器と人質の交換」とは説明していなかった。

政府側の構想では、イランとの戦略的関係改善を進め、その過程でイラン側がレバノンの武装勢力へ影響力を行使し、人質解放へつなげるというものだった。

しかし実際の秘密交渉では、

武器を送る。

人質が解放される。

次の武器供給について交渉する。

という関係が繰り返された。

1987年3月4日、タワー委員会報告を受けたレーガンはテレビ演説で、それまでの自分の説明を修正する。

自分の意図では「人質との武器交換」ではなかったが、事実と証拠を見る限り、政策は実施過程でその形へ変質したと認めた。

つまり最終的な公式認識として、

「対イラン戦略は、実際の運用ではarms for hostagesになった」

ことをレーガン本人も受け入れた。

FACT CHECK|レーガンは最後まで「武器と人質の交換ではない」と否定したのか

否定を修正している。

1986年11月には、人質を取り戻すために武器を交換したのではないと説明していた。

しかし1987年3月4日の演説では、当初の戦略的な対イラン接近が、実際の運用では武器と人質の交換へ変質したことを認めた。

したがって、事件発覚直後の説明だけをレーガンの最終的立場として扱うことはできない。

確定事実3|レーガンはコントラを強く支持していた

ニカラグア側についても、大統領の政策方針は明確だった。

レーガンはサンディニスタ政権に反対し、コントラを「自由の戦士」と位置づけていた。

1984年、議会による軍事支援制限が強まった後も、コントラを組織として存続させることを望んでいた。

マクファーレンらの証言では、大統領からコントラを「body and soul」――組織として生き残らせるよう求められたという説明が残っている。

レーガン自身も、第三国からコントラへの支援を得る構想や民間支援の存在を認識していた。

またオリバー・ノースがNSCでニカラグア・コントラ問題を担当する人物であることも知っていた。

したがって、

「レーガンはコントラへの支援活動そのものを知らなかった」

という説明も広すぎる。

しかし「ノースの秘密補給網を知っていたか」は別問題

レーガンがコントラ支援を望んでいたことと、ノースが実際に作った秘密軍事補給システムの細部を知っていたことは同じではない。

ノースとセコードらは、

  • 外国政府からの資金
  • 民間募金
  • 秘密銀行口座
  • 武器調達
  • 航空機
  • イロパンゴ空軍基地
  • コントラへの空中補給

を組み合わせた事実上の秘密補給網を作っていた。

ウォルシュ独立検察官は、この大規模な秘密補給網をレーガンが具体的に承認し、その運用範囲を認識していたことを示す説得力ある証拠は得られなかったとしている。

レーガン自身も後の質問への回答で、ノースがコントラの軍事・準軍事作戦や兵站を計画・指揮していたとは知らなかったと説明した。

ここには、

政策目的を知っていた

ことと、

政策を実行する秘密システムの詳細を知っていた

ことの差がある。

そして最大の問い――資金流用を知っていたのか

イラン・コントラ事件最大の争点がここである。

イラン向け武器取引で生じた余剰を、コントラ秘密支援へ回す。

この「diversion」を、レーガンは知っていたのか。

確認された証拠からは、

事前に知っていたとは立証されていない。

レーガンは一貫して、資金流用を初めて知ったのは1986年11月24日、ミース司法長官から報告された時だったと説明した。

ポインデクスターも、自分は資金流用を知り承認したが、大統領には知らせなかったと証言した。

ノースも、大統領へ資金流用を直接説明したという証拠を示せなかった。

1986年11月23日の司法省によるノース聴取記録でも、資金流用を知っていた人物として限定された範囲の政府関係者が挙げられていた。

ミースと大統領首席補佐官ドナルド・リーガンは、11月24日に報告を受けたレーガンが驚いた様子だったと証言している。

FACT CHECK|公式調査は「レーガンが資金流用を知らなかった」と証明したのか

「知らなかったことを数学的に証明した」という意味ではない。

より正確には、タワー委員会、議会調査、ウォルシュ独立検察官のいずれも、レーガンが資金流用を事前に知り、承認したことを示す十分な証拠を得られなかった。

ウォルシュは最終報告で、大統領が流用を承認した、または認識していたという信頼できる直接証拠を得られなかったとしている。

したがって本記事でも、「知らなかったと確定」ではなく、「知っていたことを立証する証拠は確認されなかった」と表現する。

ポインデクスターが大統領へ知らせなかった理由

1987年の議会公聴会で、ポインデクスターは資金流用について重要な証言をした。

ノースから流用案を知らされ、自分が承認した。

しかしレーガンには報告しなかった。

その理由として、大統領を政治的危険から隔離したかったという趣旨の説明をした。

もしこの証言どおりなら、レーガンの政策を実現するために部下が重要な決定を行いながら、その決定を大統領本人には知らせないという構造になる。

一方、ノースは周囲に対して、自分の活動が大統領の意向と一致しているという印象を与えていた。

セコードらも、大統領が作戦を支持していると理解して活動していた。

つまり、

上には詳細を伝えず、下には大統領の権威を利用する

という危険な状態が成立していた。

ノース自身も「大統領は知っていたと思った」だけだった

ノースは、大統領が自分の活動を支持していると繰り返し考えていた。

しかしウォルシュ独立検察官は、ノースがその認識を裏付ける直接証拠を示せなかったことを指摘している。

ノースとレーガンの間には通常、国家安全保障担当大統領補佐官であるマクファーレン、後にはポインデクスターがいた。

ノースが「大統領も承認している」と理解した根拠が、

  • 大統領の一般的なコントラ支持
  • 上司から与えられた任務
  • ケーシーらの支持

だったのか、それとも具体的な承認が別に存在したのか。

後者を立証する記録は確認されなかった。

記録が残っていないこと自体が問題を難しくした

資金流用について最終的な断定を難しくした最大の理由の一つが、記録の欠落だった。

1986年11月、事件が発覚すると、

  • ノースによる大量の紙文書の破棄
  • NSC電子メッセージの削除
  • ポインデクスターによる1985年Finding原本の破棄

が行われた。

電子メッセージの一部はバックアップから復元されたが、すべての記録が回収できたわけではない。

さらにCIA長官ウィリアム・ケーシーは1986年末に重い病気となり、1987年5月に死亡した。

対イラン政策とコントラ支援の双方に深く関わっていた最重要人物の一人から、公開公聴会やその後の刑事捜査で完全な証言を得ることはできなかった。

このため「証拠がない」という状態には、

本当に知らなかった可能性だけでなく、

本来存在したかもしれない記録や証言が失われた

という限界も含まれる。

1985年の武器供給では、レーガン自身の記憶も揺れた

資金流用とは別に、調査を難しくしたのがレーガン本人の記憶だった。

1985年8~9月のイスラエルによるTOW輸送や、11月のHAWK輸送について、大統領がいつ何を承認したのかをめぐって、政権内部の説明は事件発覚後に変化した。

マクファーレンは、レーガンが事前に承認していたと証言した。

一方、ホワイトハウス側では一時、大統領が事前には知らなかったという説明が作られた。

タワー委員会の聴取でも、レーガン自身の記憶は一定しなかった。

ウォルシュ捜査が後年入手した同時代メモなどを照合した結果、独立検察官は1985年のイスラエルによる武器移転についてレーガンの事前承認があったと判断している。

つまり、本人の後年の記憶だけではなく、同時代資料との照合が必要だった。

1990年、レーガン自身が法廷証言を行った

大統領退任後の1990年、レーガンはポインデクスター刑事裁判の証人となった。

元大統領がイラン・コントラ事件について法廷証言する唯一の機会だった。

2月16日と17日、ロサンゼルスの連邦裁判所で約7時間のビデオ撮影による証言が行われ、後に陪審へ上映された。

レーガンは多くの具体的な会話や日付について「記憶していない」と答えた。

一方、対イラン秘密活動そのものについては、自分の意向で実施された秘密活動であることを否定しなかった。

つまり1990年の証言でも、

政策レベルでの大統領承認

は確認できる一方、

個別の作戦詳細について本人の記憶から再構成すること

には大きな限界があった。

もう一つの争点――1986年11月の「説明」をどこまで知っていたのか

資金流用とは別に、ウォルシュ独立検察官が強く問題視したのが事件発覚後のホワイトハウスの対応だった。

1986年11月3日、『Al-Shiraa』報道によってイラン武器取引が表面化すると、政権内部では過去の取引をどう説明するか協議が始まった。

そこで一時作られたのが、

「アメリカ政府の本格的な関与は1986年1月の大統領Findingから始まり、1985年のイスラエルによる武器移転には事前に関与していなかった」

という説明だった。

しかし後の資料は、レーガン自身を含む複数の高官が1985年の武器供給について知っていたことを示した。

ウォルシュは、1986年11月に政権上層部がこの不正確な説明を議会や国民へ広めることを許したと厳しく評価している。

ただし、

レーガン本人が刑事犯罪として虚偽説明を故意に行ったことを合理的疑いを超えて立証できた

とは結論していない。

FACT CHECK|ウォルシュはレーガンを「犯罪者」と結論づけたのか

結論づけていない。

ウォルシュ独立検察官はレーガンの行動と認識を詳細に捜査したが、レーガンが刑事法規に違反したことを示す信頼できる証拠は得られなかったとした。

また、犯罪となる基礎事実をレーガン自身が知っていたことや、刑事的に訴追可能な虚偽説明を故意に行ったことも、必要な立証水準には達しなかった。

一方でウォルシュは、レーガンの秘密政策と監督不足が、部下による違法行為を可能にする環境を作ったと厳しく評価している。

「刑事犯罪を立証できなかった」と「事件運営について責任がなかった」は別である。

タワー委員会の答え――「知らなかったとしても、管理は失敗した」

1987年2月のタワー委員会は、レーガンが資金流用を知っていた証拠を確認できなかった。

ノースによるコントラ秘密活動についても、大統領が具体的な作戦を認識していた証拠を把握できなかった。

しかし委員会が問題なしとしたわけではない。

むしろ、

  • 大統領が政策の実施状況を十分に監視しなかった
  • NSCスタッフへ過度に実務が集中した
  • シュルツ、ワインバーガーら閣僚の反対意見が十分に統合されなかった
  • 秘密活動に必要な法律・監督・記録制度が機能しなかった

という行政運営の失敗を指摘した。

レーガン自身も3月4日の演説で、詳細を十分に確認しなかった責任を認め、タワー委員会のNSC改革案を受け入れた。

議会多数派の答え――「知らなかったなら、知るべきだった」

1987年11月の議会多数派報告は、さらに厳しい表現を使った。

議会側もレーガンが資金流用を知っていたと確定できなかった。

ポインデクスターは大統領へ知らせなかったと証言した。

ノースも直接報告していない。

文書は破棄され、ケーシーも死亡していた。

そのため記録は不完全だった。

それでも多数派は、

大統領が部下の活動を知らなかったのなら、それ自体が監督上の問題であるという立場を示した。

イランへ秘密に武器を売る政策。
コントラを存続させる政策。

その二つはノースが勝手に発明したものではなく、大統領自身の政策だった。

部下たちは、その政策目的を実現しているという認識で行動していた。

したがって議会多数派は、最終的な政治的責任は大統領にあると評価した。

ただし、これも「議会全体の全会一致結論」ではない

第8回で確認したように、1987年の議会報告には多数派意見と少数派意見が存在する。

少数派側では、

  • 大統領が資金流用を知らなかったことをより重く評価すべき
  • 外交政策をめぐる行政府と議会の権限対立を犯罪的行為と混同すべきでない
  • ボランド修正の適用範囲には法的な議論が存在した

などの反論が示された。

したがって、

「米議会がレーガンの違法行為を公式認定した」

と書くのは正確ではない。

多数派が政治・憲法上の責任を厳しく評価し、それに少数派が反論したというのが実際の構図である。

ウォルシュ最終報告の答え――刑事犯罪は立証できない

1993年8月、ウォルシュ独立検察官は最終報告を提出した。

レーガンについての刑事捜査上の結論は明確だった。

刑事訴追できる犯罪は立証できなかった。

独立検察官は、

  • レーガンが資金流用を承認したこと
  • 資金流用を事前に知っていたこと
  • ノースによる秘密コントラ補給網の詳細を認識していたこと
  • 犯罪となる虚偽説明を故意に行ったこと

を、刑事裁判に必要な水準で立証できなかった。

この意味では、

「資金流用についてレーガンの刑事関与は確認されなかった」

というのが最も正確な結論になる。

それでもウォルシュはレーガンを厳しく評価した

一方で、ウォルシュの最終報告は政治的・行政的意味まで無視してはいない。

ウォルシュは、

レーガンが公表されたアメリカの対イラン政策から秘密裏に逸脱して武器供給を進め、同時に議会が軍事支援を制限していた時期にもコントラを維持することを強く求めたと指摘した。

さらに、極度の秘密性の中で政策を進めながら、その実施を監視する十分な説明責任・管理制度を構築しなかったことが、ノース、ポインデクスターらによる違法行為を可能にする条件になったと評価している。

ここで重要なのは、

これは刑事有罪判決ではなく、独立検察官による事件全体への評価である

ということだ。

三つの調査機関の結論を並べる

調査 レーガンの資金流用認識 大統領責任について
タワー委員会 知っていた証拠なし NSC・政策管理と監督の失敗を批判
1987年議会多数派 知っていたとは確定できず 知らなかったとしても最終的政治責任は大統領にあると評価
ウォルシュ独立検察官 認識・承認を立証できる信頼できる証拠なし 刑事訴追可能な犯罪は立証できず。ただし政策と監督のあり方を厳しく批判

三者に共通しているのは、

資金流用を大統領が事前に知っていたという証拠は確定しなかった

という点である。

違うのは、その事実から導く「責任」の意味だった。

イラン・コントラ事件が残したもの1|「大統領が知らない」ことは免責にならない

事件が突きつけた第一の問題は、組織の最上位者と責任の関係である。

巨大組織では、最高責任者が実務のすべてを把握することはできない。

一方、大統領の政策として極秘作戦を進め、その部下が武器、銀行口座、外国政府、反政府軍事組織を扱っている場合、

「細部を知らなかった」

だけで統治上の責任まで消えるのか。

タワー委員会と議会多数派は、そこを問題にした。

秘密性が高い活動ほど、内部の監督機構を強くしなければならない。

そうしなければ秘密が「監督から自由であること」に変わってしまう。

残したもの2|NSCは政策を調整する組織へ戻された

事件後、レーガン政権はNSCの運用を変更した。

1987年3月31日の国家安全保障決定指令NSDD-266では、NSCスタッフ自身が秘密工作を実施することを禁止した。

さらに、

  • NSC法律顧問機能の強化
  • 秘密活動の法的審査
  • 各省庁との政策調整
  • 議会監督への対応

を強化する方向へ制度が修正された。

事件の教訓は、

「秘密外交をしてはいけない」

ではない。

政策を調整する組織と、秘密作戦を実施する組織を分け、秘密であっても内部の責任経路を消してはならない

というものだった。

残したもの3|議会の予算権を政府外資金で迂回できるのか

コントラ側では、さらに根本的な問題が残った。

議会が政府予算による軍事支援を制限する。

そのとき行政府が、

  • 外国政府
  • 民間寄付
  • 秘密武器取引の収益
  • 政府外銀行口座

を利用して同じ政策を続けたらどうなるのか。

形式上「議会が認めなかった政府予算」を使っていなくても、現職政府職員が資金を集め、軍事支援を調整していれば、議会による予算統制の実質的意味が失われる。

この問題が、イラン・コントラ事件を単なる外交スキャンダルではなく、行政府と議会の権限に関する事件にした。

残したもの4|真相解明と刑事裁判は両立しないことがある

事件は議会調査と刑事捜査の関係にも大きな問題を残した。

議会は1987年、ノースとポインデクスターへ免責を与えて証言させた。

その結果、国民は秘密活動の内部事情を早期に知ることができた。

一方、その証言が全国へテレビ放送されたことで、後の刑事裁判では証人が免責証言から影響を受けていないことを証明する必要が生じた。

結果として二人の有罪判決は維持されなかった。

政治的な真相解明を優先すると、刑事訴追を難しくする場合がある。

これもイラン・コントラ事件が残した制度上の教訓だった。

残したもの5|刑事裁判の結果だけでは歴史は判断できない

ノースの有罪判決は取り消された。

ポインデクスターの有罪判決も取り消された。

ワインバーガーとクラリッジは裁判前に大統領恩赦を受けた。

この司法結果だけを見れば、

「結局、何も証明されなかった事件」

のようにも見える。

しかし実際には、

  • イランへの秘密武器供給
  • コントラへの政府外秘密支援
  • スイス銀行口座
  • 武器代金の流用
  • NSCスタッフによる実働
  • 文書破棄
  • 議会への不正確な説明

など、事件の主要構造は大量の公文書、銀行記録、証言によって確認されている。

刑事裁判で誰にどの罪を立証できるかという問題と、歴史的に何が起きたのかという問題は一致しない。

では最終的に、レーガンをどう評価すればいいのか

証拠から最も無理のない結論は次のようになる。

レーガンは、

  • イランとの秘密外交を承認していた
  • イランへの武器供給を承認していた
  • コントラを存続させる政策を強く支持していた
  • 外国政府・私人によるコントラ支援をある程度認識していた
  • ノースがコントラ問題の担当者であることを知っていた

一方、

  • ノースとセコードによる秘密補給網の具体的規模
  • 武器取引で巨額の余剰が生じていたこと
  • その余剰をコントラへ流用する計画

について、事前に知り、承認していたことは立証されなかった。

したがって、

「全部知っていた」

でも、

「何も知らなかった」

でもない。

より正確には、

レーガン自身が二つの秘密政策の大きな方向を作り、その実施を少人数のNSCスタッフへ委ねたが、そこで形成された具体的な秘密作戦・資金流用まで認識していたことは証拠で確認されていない

という位置になる。

「知らなかった」理由こそ、この事件の核心だった

もしレーガンが本当に資金流用を知らなかったのだとすれば、そこで事件は終わらない。

むしろ別の問いが残る。

なぜ国家安全保障担当大統領補佐官が、数百万ドル規模の政府外資金を別の秘密作戦へ回しながら、大統領へ報告しなくても作戦を続けられたのか。

なぜNSCスタッフが武器調達、航空輸送、海外口座まで管理できたのか。

なぜCIA、国務省、国防総省、ホワイトハウスのそれぞれが活動の一部分しか把握していなかったのか。

なぜ議会から質問を受けても、全体像が正確に伝えられなかったのか。

この問いに答えると、

イラン・コントラ事件は「大統領が秘密裏に違法行為を命令した事件」よりも複雑な姿を見せる。

大統領が強い政策目的を示し、その実施を極度に秘密化し、通常の組織的監督から外れた少人数へ大きな裁量を与えた結果、誰も全体を統制しない秘密システムが生まれた事件

として見えてくる。

イラン・コントラ事件は「陰謀論」ではなく、公文書で追える秘密工作になった

事件には、大統領、CIA、NSC、秘密口座、外国政府、武器商人、反政府武装勢力が登場する。

表面だけを見れば、典型的な「巨大陰謀」の物語にも見える。

しかしイラン・コントラ事件の重要な特徴は、後に大量の公文書が残ったことである。

議会公聴会。
タワー委員会。
独立検察官。
刑事裁判。
銀行記録。
NSC電子メッセージ。
レーガン政権高官の日記やメモ。

これらによって、秘密活動の大部分は後から再構成された。

その結果、

「CIAがすべてを操っていた」

「レーガンが全て命令していた」

「逆に大統領は完全に無関係だった」

という単純な物語はいずれも成立しにくい。

残ったのは、誰か一人の「黒幕」よりも、秘密政策を管理する統治システムそのものの問題だった。

CASE FILE 43 最終整理

問い シリーズで確認した答え
なぜイランへ武器を売ったのか 対イラン関係改善とレバノン人質問題が接続し、実施過程で武器と人質の交換へ変質した
武器はどう渡ったのか 1985年はイスラエル経由、1986年はCIAと民間ネットワークを使う米政府主体の方式へ拡大した
なぜコントラ支援が秘密化したのか 議会による軍事支援制限下でもコントラを存続させる政策が維持され、政府外資金・民間網へ移った
二つの作戦はどう結びついたのか イラン武器売却で生じた余剰がEnterprise内に残り、その一部がコントラ支援へ使われた
誰が実務を動かしたのか ノースを中心に、ポインデクスター、マクファーレン、ケーシー、セコード、ハキムらが異なる役割で関与した
どう発覚したのか コントラ補給機撃墜、Al-Shiraa報道、司法省内部調査が重なり、1986年11月25日に資金流用が公表された
調査は何を確定したのか 武器取引、秘密補給、資金流用、NSC実働化、議会への不正確な説明など主要構造を確認した
刑事責任はどうなったのか 14人が訴追され11人が一度は有罪。免責証言、機密情報、大統領恩赦などにより結果は複雑化した
レーガンは資金流用を知っていたのか 事前の認識・承認を示す十分な証拠は確認されなかった

まとめ|一番重要なのは「誰が黒幕だったか」ではない

イラン・コントラ事件を最後まで追うと、最も簡単な答えほど使えなくなる。

レーガンがすべてを命令していた、とは証拠から言えない。

レーガンが何も知らず、部下だけが暴走した、とも言えない。

レーガン自身がイランへの秘密武器供給を承認した。

レーガン自身がコントラを存続させる政策を強く支持した。

その二つの政策を実行するため、NSCスタッフへ大きな裁量が与えられた。

その周囲にCIA関係者、外国政府、民間人、秘密銀行口座、航空輸送網が接続した。

そして最終的に、イラン武器売却の資金とコントラ秘密支援が同じネットワークの中で結びついた。

その具体的な資金流用について、大統領が事前に知っていたことは立証されなかった。

しかし「大統領が知らなかった」という事実だけでは、なぜそのような活動が可能になったのかを説明できない。

秘密政策を実行する部下が、大統領へ重要事項を報告せず、それでも「大統領の政策」を根拠として外国政府、情報機関、民間人を動かせる環境が形成されていた。

そこにイラン・コントラ事件の最も重要な構造がある。

秘密工作には秘密が必要である。

だが秘密であることと、監督されないことは同じではない。

政策を公開できなくても、

誰が承認したのか。
誰が実施するのか。
誰が資金を管理するのか。
誰が法的に確認するのか。
誰が最終的に責任を取るのか。

その経路まで消してしまえば、秘密活動は国家の統制から離れていく。

イラン・コントラ事件が残したものは、「1980年代にアメリカがイランへ武器を売った」というスキャンダルだけではない。

民主国家は、国民に見せられない活動をどのように統制するのか。

その問いを、公文書、議会証言、刑事裁判という形で残した事件だった。

前の記事:

第9回 刑事責任はどう裁かれたのか|ウォルシュ独立検察官、逆転判決、そして恩赦

CASE FILE 43 最初の記事:

第1回 イラン・コントラ事件とは?|武器売却とコントラ支援が結びついた秘密工作の全貌

CASE FILE 43|全記事

  1. 第1回 イラン・コントラ事件とは?|武器売却とコントラ支援が結びついた秘密工作の全貌
  2. 第2回 なぜイランへ武器を売ったのか|レバノン人質問題と「イラン・イニシアチブ」
  3. 第3回 武器はどうイランへ渡ったのか|イスラエル経由から米国直接取引まで
  4. 第4回 なぜコントラ支援は秘密化したのか|ボランド修正と議会統制
  5. 第5回 武器代金はどうコントラへ流れたのか|資金流用と「Enterprise」の仕組み
  6. 第6回 誰が秘密作戦を動かしたのか|オリバー・ノース、ポインデクスターとNSCの実働化
  7. 第7回 イラン・コントラ事件はどう発覚したのか|1986年11月、秘密工作が表に出るまで
  8. 第8回 調査は何を突き止めたのか|タワー委員会と1987年議会公聴会
  9. 第9回 刑事責任はどう裁かれたのか|ウォルシュ独立検察官、逆転判決、そして恩赦
  10. 第10回 レーガンはどこまで知っていたのか|確定事実・争点・イラン・コントラ事件が残したもの[現在の記事]

出典・参考資料

本記事では「レーガンは知っていたのか」という問いを、イラン秘密外交、武器供給、コントラ支持、秘密補給網、イラン武器取引の利益、コントラへの資金流用、事件発覚後の説明に分解しています。タワー委員会、1987年議会調査、ウォルシュ独立検察官はいずれも、レーガンがイラン武器売却益のコントラへの流用を事前に知り、承認したことを示す十分な証拠を確認していません。一方、イランへの武器供給とコントラを存続させる政策についてはレーガン自身の政策・承認であったことが確認されています。「刑事犯罪を立証できなかったこと」と「行政的・政治的責任が存在しなかったこと」を同一視せず構成しています。

イラン・コントラ事件とは?|武器売却とコントラ支援が結びついた秘密工作の全貌

政治スキャンダル・秘密工作

1986年11月25日、ホワイトハウスで記者会見したエドウィン・ミース司法長官は、それまで別々に見えていた二つの秘密活動を結びつける事実を公表した。

アメリカが秘密裏にイランへ武器を供給していた。そして、その取引で生じた資金の一部が、ニカラグアの反政府勢力「コントラ」を支援するために流用されていた。

これが、後に「イラン・コントラ事件(Iran-Contra Affair)」と呼ばれる政治スキャンダルの核心である。

ただし、この事件を「イランへ武器を売り、その金をコントラへ渡した事件」とだけ理解すると、重要な部分を見落とす。
もともとイランへの秘密接触とコントラへの秘密支援は、目的も地域も異なる二つの政策だった。
それぞれが通常の外交・議会監督の枠から外れて進められ、やがて国家安全保障会議(NSC)スタッフと民間の仲介ネットワークを通じて接続されたところに、この事件の本質がある。

CASE FILE 43では、誰か一人を「黒幕」として描くのではなく、武器、資金、秘密命令、NSC、議会統制、調査記録を追いながら、アメリカ政府の内部で何が起きていたのかを再構成する。

CASE FILE 43

イラン・コントラ事件 1985–1987|全10回

レバノンの人質問題を背景に始まった対イラン秘密接触。
議会による制限下で続けられたニカラグア・コントラ支援。
本来は別々だった二つの活動は、なぜ同じ秘密ネットワークの中で結びついたのか。

  1. 第1回 イラン・コントラ事件とは?|武器売却とコントラ支援が結びついた秘密工作の全貌[現在の記事]

  2. 第2回 なぜイランへ武器を売ったのか|レバノン人質問題と「イラン・イニシアチブ」

  3. 第3回 武器はどうイランへ渡ったのか|イスラエル経由から米国直接取引まで

  4. 第4回 なぜコントラ支援は秘密化したのか|ボランド修正と議会統制

  5. 第5回 武器代金はどうコントラへ流れたのか|資金流用と「Enterprise」の仕組み

  6. 第6回 誰が秘密作戦を動かしたのか|オリバー・ノース、ポインデクスターとNSCの実働化

  7. 第7回 イラン・コントラ事件はどう発覚したのか|1986年11月、秘密工作が表に出るまで

  8. 第8回 調査は何を突き止めたのか|タワー委員会と1987年議会公聴会

  9. 第9回 刑事責任はどう裁かれたのか|ウォルシュ独立検察官、逆転判決、そして恩赦

  10. 第10回 レーガンはどこまで知っていたのか|確定事実・争点・イラン・コントラ事件が残したもの

イラン・コントラ事件とは何だったのか

最初に結論を整理すると、イラン・コントラ事件は一つの秘密作戦が暴露された事件ではない
1980年代半ばのレーガン政権下で進んでいた二つの秘密活動が、NSCスタッフや民間の仲介者を介して重なり、その過程と隠蔽をめぐる問題が一体となって表面化した事件である。

一つ目は、アメリカ人がレバノンで人質となっていた状況などを背景に、イランとの秘密接触を進め、その一環としてアメリカ製兵器をイランへ供給した「イラン側」の活動だった。

もう一つは、ニカラグアの左派政権サンディニスタと戦っていた反政府勢力「コントラ」を、アメリカ政府が支援し続けようとした「コントラ側」の活動である。
こちらでは議会が軍事支援に制限を設けたため、通常の政府予算やCIAによる支援とは異なる資金・補給経路が構築されていった。

そして1986年、イラン向け武器取引で生じた資金の一部がコントラ支援へ回されていたことが明らかになった。
これによって、それまで別々に進められていた二つの問題が「Iran-Contra」という一つの巨大な政治事件として結びついた。

CASE FILE 43|基本情報

事件名 イラン・コントラ事件
英語名 Iran-Contra Affair
中心時期 1985~1987年
主な関係地域 アメリカ、イラン、イスラエル、レバノン、ニカラグアなど
中心となった問題 対イラン秘密武器取引、コントラ秘密支援、資金流用、議会統制、情報隠蔽
主な政府組織 ホワイトハウス、国家安全保障会議(NSC)、CIA、国務省、国防総省、司法省
主要調査 タワー委員会、上下両院イラン・コントラ調査委員会、ウォルシュ独立検察官

第一の流れ――なぜアメリカはイランへ武器を渡したのか

1980年代半ば、アメリカとイランの関係は良好とは程遠かった。
1979年のイラン革命と在テヘラン米大使館人質事件を経て両国関係は断絶し、レーガン政権はイランへの武器供給を公には認めていなかった。
さらに当時、イランはイラクとの長期戦争を続けていた。

それにもかかわらず、レーガン政権内部では1985年ごろからイランとの秘密接触が進められた。
その背景の一つが、レバノンで武装組織に拘束されていたアメリカ人人質の問題である。
政権内には、イラン側の人物との関係を構築することで、中東での米国人人質解放にも影響を与えられるのではないかという期待があった。

当初はイスラエルを介する形でアメリカ製兵器がイランへ渡り、その後はアメリカ政府がより直接的に取引へ関与していった。
取引にはTOW対戦車ミサイルやHAWK地対空ミサイル関連の装備が含まれていた。

重要なのは、レーガン政権自身が当初、この政策を単純な「人質との武器交換」と説明していなかったことである。
1986年11月13日のテレビ演説でレーガン大統領は、イランとの秘密外交イニシアチブが存在したことと武器移転を認めながらも、目的はイランとの関係改善やテロへの影響力確保などであり、人質を買い戻すための取引ではないと説明した。

しかし、1987年3月になるとレーガン自身も、当初の構想が実際の運用過程で「arms for hostages(人質のための武器)」という形へ変質していったことを認めることになる。

つまり問題は、「イランと秘密外交をした」ことだけではない。
公に掲げていた対イラン政策と秘密裏の武器供給との整合、武器輸出に関する法的問題、議会への通知、そして人質解放との関係が重なっていた。

第二の流れ――ニカラグアでは別の秘密支援が動いていた

同じころ、約1万km離れた中米ニカラグアでは、まったく別の問題が進行していた。

1979年、サンディニスタ民族解放戦線がソモサ政権を倒して政権を握った。
冷戦下のレーガン政権はこの政権をソ連・キューバ側へ接近する勢力とみなし、それに対抗していた反政府武装勢力――一般に「コントラ(Contras)」と呼ばれる勢力を支援した。

しかし、この政策はアメリカ国内で強い政治的対立を生んだ。
議会は1980年代前半から複数の「ボランド修正(Boland Amendments)」によって、コントラの軍事・準軍事活動に対する米政府の支援へ制限をかけていく。

問題は、ここでコントラ支援そのものが終わらなかったことである。

ウォルシュ独立検察官の最終報告によれば、レーガン政権はコントラを存続させる政策を維持し、NSCスタッフのオリバー・ノースらは外国政府、民間支援者、秘密口座、民間の輸送・調達ネットワークなどを利用して支援を続けた。

本来、NSCは大統領を補佐し、各政府機関の国家安全保障政策を調整するための組織である。
ところがイラン・コントラ事件では、そのスタッフが資金調達、武器取引、補給の調整など、実際の秘密活動へ深く関与するようになった。

後に設置されたタワー委員会が特に問題視したのも、この部分だった。
国家安全保障政策を「調整する側」であるはずのNSCスタッフが、国務省、国防総省、CIAといった通常の政府機関を迂回し、自ら作戦を運用するようになっていたのである。

二つの秘密活動はどこでつながったのか

ここまでは、イランとニカラグアの間に直接の関係はない。

イラン側では中東外交と人質問題を背景とした武器取引が進み、ニカラグア側では議会による制限下でコントラ支援を継続する方法が模索されていた。

両者を接続したのが、武器取引から生じた資金だった。

武器をイランへ供給する取引では、イラン側から支払われる金額と、アメリカ政府が武器に設定していた価格との間に差額が生じた。
取引の実務には、オリバー・ノースのほか、退役空軍少将リチャード・セコード、実業家アルバート・ハキムらが関係し、複数の企業やスイスの銀行口座を利用する秘密の資金ネットワークが形成された。
後のウォルシュ報告では、この民間ネットワークを「Enterprise」と呼んでいる。

その資金の一部が、コントラ支援に使われた。

これが一般に「diversion(資金流用)」と呼ばれる部分である。
イランへ武器を供給するために構築された秘密取引の仕組みと、コントラを支援するために構築された秘密補給の仕組みが、同じ人物・企業・口座を通じて接続された。

だからこそ、この事件は「イラン事件」と「コントラ事件」という二つの無関係な不祥事ではなくなった。

FACT CHECK|最初から「イランの武器代金でコントラを支援する計画」だったのか

そう単純には整理できない。

イランへの秘密武器取引とコントラ支援は、それぞれ別の政策目的から始まっている。
独立検察官ウォルシュの最終報告も、「Iran operation」と「contra operations」を分けて記述したうえで、武器売却収入の流用によって両者が結合したと整理している。

したがって「レーガン政権が最初からイランへ武器を売り、その利益をコントラへ渡す一体計画を立てた」と説明すると、事件の成立過程を単純化しすぎる。

秘密は二方向から崩れ始めた

秘密活動が表に出るきっかけも、一つではなかった。

まず1986年10月5日、ニカラグア政府軍がコントラへの補給物資を運んでいた航空機を撃墜した。
乗員の一人だったアメリカ人ユージン・ハーゼンファスが生存して拘束され、コントラへの秘密補給活動にアメリカ人が関わっていたことが注目されるようになった。

その約1か月後の11月3日、レバノンの雑誌『Al-Shiraa(アル・シラー)』が、アメリカによるイランへの秘密武器取引を報道した。

地理的にはまったく離れた二つの出来事だった。
一方はニカラグア上空で撃墜された補給機、もう一方は中東で報じられた秘密外交である。

11月13日、レーガン大統領はテレビ演説でイランとの秘密外交と武器移転を認めた。
ただし、その時点でもコントラ支援への資金流用は公表されていなかった。

転換点は11月25日だった。
司法長官エドウィン・ミースが行った内部調査の結果として、イラン向け武器取引から生じた資金の一部がコントラへ流れていたことが公表された。

ここで初めて、世間から見れば別々だった二つの秘密活動が一本につながった。
イラン・コントラ事件が本格的な政治スキャンダルとなった瞬間である。

なぜこれほど大きな問題になったのか

イラン・コントラ事件の重要性は、単に「政府が秘密活動をしていた」ことにはない。
外交や情報活動では、性質上すべてを公開できない作戦も存在する。

問題は、その秘密活動が法律、議会による予算統制、政府組織の正式な意思決定、記録保存、議会への説明責任とどのような関係にあったかである。

事件では、複数の防護線が同時に問題となった。

  • 議会が制限していたコントラ支援をどこまで継続できるのか
  • イランへの武器移転は当時の米政府方針や武器輸出制度と整合していたのか
  • 秘密活動を議会へどこまで通知する必要があったのか
  • NSCスタッフが実際の作戦運用を担ってよかったのか
  • 民間人、外国政府、秘密銀行口座を経由する資金を誰が管理していたのか
  • 事件発覚後、議会や捜査機関へ正確な情報が提供されたのか

このためイラン・コントラ事件は、単なる外交政策の失敗でも、単なる不正会計事件でもない。

大統領の外交・安全保障上の権限、議会の予算・監督権限、秘密工作を実行する政府機関、そして法執行機関が交差した「統治システムの事件」だった。

中心にいたオリバー・ノースとは何者だったのか

テレビで行われた1987年の議会公聴会によって、イラン・コントラ事件を象徴する人物となったのが、海兵隊中佐オリバー・ノースだった。

ノースはNSCスタッフの一員であり、政権の閣僚でもCIA長官でもなかった。
それにもかかわらず、コントラ支援の補給ネットワーク、民間資金調達、イラン武器取引など複数の秘密活動に深く関わった。

しかし、「ノースが一人で政府を動かしていた」と理解するのも正確ではない。

彼の上には国家安全保障担当大統領補佐官ロバート・マクファーレン、後任のジョン・ポインデクスターがおり、CIA長官ウィリアム・ケーシーなど政府高官もイラン政策やコントラ政策に関与していた。
また武器取引や資金移動にはセコード、ハキムら民間側の人物も加わっていた。

事件を理解するには、ノース個人よりも、なぜ一人のNSCスタッフがこれほど広範囲な実務を担える仕組みになったのかを見る必要がある。

それこそが、後にタワー委員会がNSCの運営を調査した理由でもあった。

発覚後、三つの大規模調査が始まった

1986年11月に事件が表面化すると、ワシントンでは複数の調査が並行して始まった。
これらは同じ「イラン・コントラ調査」と一括されることが多いが、目的が異なる。

1.タワー委員会

レーガン大統領は1986年11月、元上院議員ジョン・タワー、元国務長官エドマンド・マスキー、元国家安全保障担当大統領補佐官ブレント・スコウクロフトの3人からなる特別調査委員会を設置した。
一般にタワー委員会(Tower Commission / Tower Board)と呼ばれる。

中心的な任務は、NSCとそのスタッフが外交・国家安全保障政策の中で果たすべき役割を検証することだった。
1987年2月に提出された報告は、イラン秘密工作の運用過程、NSCスタッフの実働化、政府内の監督・意思決定の欠陥を詳細に検討した。

2.上下両院のイラン・コントラ調査

連邦議会でも上下両院に特別委員会が設けられ、1987年5月からテレビ中継を伴う大規模な公聴会が始まった。

オリバー・ノースやジョン・ポインデクスターらの証言は全米で注目されたが、調査の意味はテレビ映えする証言だけではない。
委員会は大量の政府文書、電話記録、銀行記録、証言を集め、イラン武器取引、コントラ支援、資金流用、議会への説明、隠蔽の問題を再構成した。

最終報告は1987年11月にまとめられた。

3.ウォルシュ独立検察官

政治・行政上の責任を調べるタワー委員会や議会調査とは別に、刑事責任を追ったのが独立検察官ローレンス・ウォルシュだった。

ウォルシュは1986年12月19日に任命され、NSC、CIA、国務省、国防総省、ホワイトハウス、民間資金ネットワークなどを長期間にわたって捜査した。

その捜査はレーガン政権終了後も続き、最終報告が提出されたのは1993年8月4日である。

つまり、一般に「1985~1987年の事件」と呼ばれるイラン・コントラ事件の司法的検証は、秘密活動が露見してから約7年間続いたことになる。

「レーガンは知っていたのか」という問いは一つにまとめられない

この事件について最も有名な疑問は、「レーガン大統領は知っていたのか」である。

だが、この問いは、そのままでは曖昧すぎる。

少なくとも次の問題は別々に考える必要がある。

  • イランとの秘密接触を知っていたのか
  • イランへの武器移転を知り、承認していたのか
  • コントラを支援し続ける方針を知っていたのか
  • 秘密の補給ネットワークの具体的活動を知っていたのか
  • イラン武器取引の収益をコントラへ流用したことを知っていたのか
  • 事件発覚後の説明や文書処理をどこまで把握していたのか

これらに同じ答えを当てはめることはできない。

ウォルシュ独立検察官は、レーガンがイランへの武器売却を承認し、コントラを存続させる政策を推進していたことを問題視した一方、レーガン自身が資金流用を承認した、あるいは知っていたことを立証できる証拠は得られなかったとしている。
また、レーガン本人が刑事法規に違反したことを示す信頼できる証拠も得られなかったと結論づけた。

この区別は重要である。

「大統領が何も知らなかった」とするのも、「すべてを命令していた」とするのも、公式調査が示した複雑な証拠関係を単純化してしまう。
この問題はシリーズ最終回で、タワー委員会、議会報告、ウォルシュ報告、当時の記録を分けて詳しく検証する。

FACT CHECK|「CIAが単独で行った秘密作戦」だったのか

この説明も正確ではない。

CIA関係者は事件の複数局面に関与しているが、イラン・コントラ事件の特徴はむしろ、NSCスタッフが通常の政策調整機能を越えて作戦運用へ入り込み、そこへCIA関係者、外国政府、民間人、秘密資金ネットワークが接続したことにある。

タワー委員会もウォルシュ独立検察官も、事件を単純な「CIAの独走」として整理していない。

刑事裁判だけを見ても事件の結末は分からない

独立検察官の捜査では、複数の政府高官や関係者が起訴された。
オリバー・ノース、ジョン・ポインデクスター、ロバート・マクファーレン、リチャード・セコード、アルバート・ハキム、エリオット・エイブラムズ、CIA関係者らが刑事手続の対象となった。

しかし、その結末は単純な「有罪者一覧」では整理できない。

ノースは1989年に3件で有罪評決を受け、ポインデクスターも1990年に5件で有罪評決を受けた。
ところが両者の有罪判決は後に控訴審で覆された。

大きな理由となったのが、1987年の議会公聴会で与えられた免責付き証言だった。
議会調査を進めるために証言を引き出したことが、その後の刑事裁判で証言や証人へ影響した可能性を生み、検察側に難しい問題をもたらしたのである。

さらに1992年12月24日には、退任直前のジョージ・H・W・ブッシュ大統領がキャスパー・ワインバーガー元国防長官ら6人を恩赦した。

このため事件の「司法的な結末」と「歴史的に確認された事実」は一致しない。
有罪判決が取り消されたからといって、その人物が関与したすべての行為が存在しなかったことになるわけではなく、反対に政治的責任が指摘されたからといって、それがそのまま刑事犯罪の立証を意味するわけでもない。

この事件から見えるのは「暴走した一人」ではなく、壊れた統制だった

イラン・コントラ事件を理解するとき、「誰が一番悪かったのか」だけを探すと全体像を見失いやすい。

確かにノースやポインデクスターは中心人物だった。
しかし事件を成立させた条件は、それより広い。

政策を決める大統領と高官、政策を調整するNSC、秘密活動を実施する情報機関、予算を統制する議会、外交を担う国務省、武器を管理する国防総省、そして政府組織の外側に置かれた民間の資金・輸送ネットワーク。

本来はそれぞれ役割が異なり、相互に確認・監督することで一つの組織へ権限が集中しすぎないようになっている。

ところがイラン・コントラ事件では、その境界が曖昧になった。

通常の政府機関を通せば残るはずの記録や監督を避け、NSCスタッフと民間人が実務へ入り、外国政府や秘密口座を経由する資金が使われた。
事件発覚後には、文書の破棄・改変や議会への不正確な説明も捜査対象となった。

その意味で、イラン・コントラ事件は「秘密作戦が失敗した事件」というよりも、国家が秘密活動を行うとき、それを制御する仕組みがどこまで機能するのかを問う事件だった。

イラン・コントラ事件を一度整理する

ここまでの流れを短く整理すると、事件の骨格は次のようになる。

流れ 何が起きていたか
イラン側 米国人人質問題などを背景に秘密接触が進み、アメリカ製兵器がイランへ供給された
ニカラグア側 議会による支援制限下でも、コントラを支える秘密の資金・補給ネットワークが維持された
接続 イラン向け武器取引から生じた資金の一部が、コントラ支援へ流用された
発覚 1986年10~11月、ニカラグアの補給機撃墜とイラン武器取引報道から秘密活動が表面化した
調査 タワー委員会、連邦議会、ウォルシュ独立検察官がそれぞれ行政・政治・刑事面から調査した
核心 秘密外交だけでなく、議会統制、NSCの役割、資金管理、情報開示、法の支配が問題となった

それでも分かっていないことは残っている

イラン・コントラ事件は、未解決事件ではない。
膨大な公文書、議会証言、銀行記録、捜査記録、裁判記録が残り、主要な活動の多くは再構成されている。

一方で「すべてが完全に判明した事件」とするのも正確ではない。

ウォルシュ独立検察官は、後年まで提出されなかった同時代のメモや日記が存在したことを報告している。
レーガン大統領図書館のイラン・コントラ関連資料にも、2026年時点でFOIA上の制限や国家安全保障上の理由などにより非公開部分が残る資料群がある。

また「誰が何を知っていたか」という問題では、当事者の証言、同時代の記録、後年発見された文書が一致しない部分もある。

だからこのシリーズでは、後世の陰謀論で空白を埋めない。

公文書で確認できること、調査機関が認定したこと、当事者が主張したこと、証拠が不足して確定できないことを分けながら追っていく。

まとめ|「武器と人質」の事件だけではなかった

イラン・コントラ事件は、1980年代のレーガン政権で進められた二つの秘密活動から始まった。

一方では、イランとの秘密接触と武器供給。
もう一方では、議会の制限下で続けられたニカラグア・コントラ支援。

二つはもともと別の政策だったが、NSCスタッフと民間ネットワークを通じ、イラン向け武器取引の資金がコントラ支援へ流用されたことで接続した。

そして事件が露見すると、問題はさらに広がった。

誰が政策を承認したのか。
誰が実務を動かしたのか。
議会の制限をどう解釈していたのか。
なぜ通常の政府機関を外れた仕組みが作られたのか。
誰が資金流用を知っていたのか。
そして発覚後、政府は議会と国民へ何を説明したのか。

これらを一つずつ分けなければ、イラン・コントラ事件の実像は見えてこない。

次回は、その最初の入口となった中東側へ進む。
敵対関係にあったはずのアメリカとイランの間で、なぜ秘密接触が始まり、武器まで動くことになったのか。
レバノンの米国人人質問題と「イラン・イニシアチブ」の成立過程を追う。

次の記事:

第2回 なぜイランへ武器を売ったのか|レバノン人質問題と「イラン・イニシアチブ」

CASE FILE 43|全記事

  1. 第1回 イラン・コントラ事件とは?|武器売却とコントラ支援が結びついた秘密工作の全貌[現在の記事]
  2. 第2回 なぜイランへ武器を売ったのか|レバノン人質問題と「イラン・イニシアチブ」
  3. 第3回 武器はどうイランへ渡ったのか|イスラエル経由から米国直接取引まで
  4. 第4回 なぜコントラ支援は秘密化したのか|ボランド修正と議会統制
  5. 第5回 武器代金はどうコントラへ流れたのか|資金流用と「Enterprise」の仕組み
  6. 第6回 誰が秘密作戦を動かしたのか|オリバー・ノース、ポインデクスターとNSCの実働化
  7. 第7回 イラン・コントラ事件はどう発覚したのか|1986年11月、秘密工作が表に出るまで
  8. 第8回 調査は何を突き止めたのか|タワー委員会と1987年議会公聴会
  9. 第9回 刑事責任はどう裁かれたのか|ウォルシュ独立検察官、逆転判決、そして恩赦
  10. 第10回 レーガンはどこまで知っていたのか|確定事実・争点・イラン・コントラ事件が残したもの

出典・参考資料

本記事は、米国国立公文書記録管理局、レーガン大統領図書館、連邦議会調査報告、ウォルシュ独立検察官最終報告などを照合し、確認できる事実、調査機関の判断、当事者の主張を分けて構成しています。イラン・コントラ事件では資料公開時期や証言によって認識の差があるため、人物の関与や認識について一つの資料だけから断定していません。

なぜイランへ武器を売ったのか|レバノン人質問題と「イラン・イニシアチブ」

政治スキャンダル・秘密工作

1985年6月18日、ロナルド・レーガン大統領は記者会見で、テロリストに譲歩すればさらなるテロを招くとして、アメリカは人質を取る者たちに譲歩しないという立場を改めて表明した。

ところが、そのわずか数週間後。
ホワイトハウス内部では、アメリカ製の対戦車ミサイルをイランへ渡し、その見返りとしてレバノンで拘束されているアメリカ人人質の解放につなげる構想が具体的に検討され始めていた。

なぜ、1979年のイラン革命と米大使館人質事件以来、敵対関係にあったアメリカとイランの間で、このような秘密交渉が始まったのか。

後に「イラン・コントラ事件」と呼ばれる秘密活動の出発点には、単純な一つの理由ではなく、いくつかの問題が重なっていた。
レバノンで増え続けるアメリカ人人質、革命後のイランとの断絶、イランに対するソ連の影響力への懸念、そしてイラン国内に西側との関係改善を望む勢力が存在するのではないかという期待である。

第2回では、まだ「コントラ」も資金流用も登場しない。
1985年、レーガン政権がなぜイランとの秘密外交へ踏み出し、そこへ武器と人質が入り込んでいったのかを追う。

1985年、レバノンでアメリカ人人質が増えていた

イランへの秘密接触を理解するには、まず1980年代半ばのレバノンを見る必要がある。

当時のレバノンでは内戦が続き、複数の武装組織が活動していた。
その中でアメリカ人を標的とした誘拐が相次ぎ、レーガン政権にとって重大な外交・安全保障問題になっていた。

1984年には長老派牧師ベンジャミン・ウィアと、CIAベイルート支局長ウィリアム・バックリーが拘束された。
1985年1月にはカトリック救援組織Catholic Relief Servicesのローレンス・ジェンコ、3月にはAP通信の中東特派員テリー・アンダーソンが拉致された。

さらに5月28日にはベイルート・アメリカン大学病院のデービッド・ジェイコブセン、6月9日には同大学農学部長トーマス・サザーランドが拘束された。

1985年夏までに、複数のアメリカ人がレバノンで行方を奪われた状態となっていた。

レーガン自身も、人質問題への関心が非常に強かった。
後のイラン・コントラ調査では、この「人質を生きて帰したい」という大統領の強い意向が、イランとの秘密交渉を継続する重要な要因の一つだったことが繰り返し確認されている。

なぜ「イラン」が人質解放につながると考えられたのか

ここで注意したいのは、アメリカ人人質を直接拘束していたのがイラン政府だった、という意味ではないことである。

人質事件の舞台はレバノンだった。
しかしアメリカ側では、イランがレバノンのシーア派武装勢力に影響力を持っており、その影響力を使えば人質解放を促すことができるのではないかと考えられた。

したがって、構想は大まかに次のようなものだった。

主体 期待された役割
アメリカ イランとの関係改善へ何らかの「善意」を示す
イラン側の接触相手 西側との関係改善を進める
イラン側 レバノンの武装勢力へ影響力を行使する
武装勢力 アメリカ人人質を解放する

ただし、この構図には最初から大きな不確実性があった。

イラン政府が人質拘束組織を完全に指揮していたわけではない。
さらにアメリカ側が接触していた人物が、本当にイラン政府内部の有力者へどこまでアクセスできるのかも明確ではなかった。

それでも、他に有効な手段が見つからない状況で「イランを通じて人質解放に働きかける」という案は、ホワイトハウス内部で検討されるようになった。

人質だけが理由ではなかった――対イラン戦略の見直し

後から事件を見ると、イランへの接触は「人質を取り戻すために武器を渡した」と説明したくなる。
しかし、1985年春の政策議論にはもう一つの軸があった。

それが、革命後のイランを完全に西側から孤立させ続けることへの安全保障上の懸念だった。

1979年のイラン革命によって親米的だったパフラヴィー朝は崩壊し、米イラン関係は急速に悪化した。
一方、冷戦はまだ続いていた。
アメリカ政府の一部には、イランが西側との関係を失うことでソ連の影響を受けやすくなるのではないかという懸念があった。

1985年5月、CIA長官ウィリアム・ケーシーの要請で作成された特別国家情報評価(Special National Intelligence Estimate=SNIE)は、この問題を検討した。
ウォルシュ独立検察官の最終報告によれば、そこでは西側諸国とイランの関係改善を進める新しい方法が必要だとされ、選択肢の一つとして対イラン武器販売制限の見直しまで示されていた。

6月になると、NSCスタッフは国家安全保障担当大統領補佐官ロバート・マクファーレン向けに「U.S. Policy Toward Iran」と題する国家安全保障決定指令(NSDD)の草案を作成した。

構想の中心は、イランとの貿易や政治関係を徐々に改善し、西側との関係を再構築することだった。
選択的な軍事装備の供給も、その手段の一つとして検討された。

つまり最初の政策論には、

  • レバノンのアメリカ人人質を解放したい
  • イランとの完全な敵対関係を将来的に修正したい
  • ソ連がイランへ影響力を広げることを防ぎたい

という複数の目的が存在していた。

この点は後の「arms for hostages」という評価を理解するうえで重要になる。
出発点の政策構想と、実際に運用された取引の形は完全には同じではなかった。

政府内部でも武器供与には反対があった

対イラン政策の見直しが、レーガン政権内部で一致して支持されていたわけではない。

マクファーレンは1985年6月17日、対イラン政策案をジョージ・シュルツ国務長官、キャスパー・ワインバーガー国防長官、ウィリアム・ケーシーCIA長官らへ回覧した。

シュルツとワインバーガーは、この方針に反対した。
一方、ケーシーは支持した。

特に問題となったのは、関係改善の手段として武器を用いることだった。

当時アメリカは、テロ支援に関係する国家への武器供給を抑制し、他国にもイランへの武器移転を避けるよう求める政策を取っていた。
その状況で自ら秘密裏にアメリカ製兵器を渡せば、公表している政策との矛盾が生じる。

また、もし人質の解放と兵器供給が直接結びつけば、「テロリストに譲歩しない」というレーガン政権自身の原則とも衝突する。

実際、6月18日の記者会見でレーガンは、人質を取った者へ譲歩することはさらなるテロを招くという立場を公に示していた。

それにもかかわらず、秘密交渉では人質と武器が徐々に同じテーブルへ載ることになる。

イスラエルから持ち込まれた「イランとの秘密ルート」

政策議論を具体的な秘密交渉へ変えた重要な役割を担ったのがイスラエルだった。

1985年5月初め、NSCの非常勤コンサルタントだったマイケル・リディーンは、マクファーレンの了承を得てイスラエルを訪れ、首相シモン・ペレスとイラン情勢について話し合った。

この接触を起点として、イスラエル側から「イラン国内には西側との関係改善を望む人物がいる」という情報がアメリカ側へ伝えられていった。

7月3日、イスラエル外務省のデービッド・キムヒがホワイトハウスでマクファーレンと会談した。

キムヒの説明によれば、イスラエルと接触しているイラン人たちはアメリカとの政治的対話を望んでおり、その意思を示すため、レバノンの武装勢力に働きかけてアメリカ人人質を解放させることができるという。

ただし、イラン側も見返りを求めていた。

それが軍事装備だった。

この時点から、抽象的だった「イランとの関係改善」と、具体的な「人質解放」、さらに「武器供給」という三つの問題が、一つの交渉経路の中へ入り始める。

マンウチェル・ゴルバニファル――信用できない仲介者

この秘密ルートで中心的な仲介者となった人物が、イラン人実業家マンウチェル・ゴルバニファル(Manucher Ghorbanifar)だった。

1985年7月、イスラエル側はゴルバニファルがイラン国内の「西側との関係改善を望むグループ」と接触しているとアメリカ側へ説明した。
ゴルバニファルによれば、そのグループは人質解放へ働きかけることができ、その代わりにアメリカ製TOW対戦車ミサイル100発を必要としていた。

ただし、ここには極めて大きな問題があった。

CIAはゴルバニファルを信頼していなかった。

独立検察官ウォルシュの最終報告によれば、CIAは過去の接触から彼の情報を信用できないと判断し、1984年7月には米政府機関が彼との取引を避けるよう事実上勧告する「burn notice」を出していた。

それにもかかわらず、ゴルバニファルはその後約1年間、アメリカ、イスラエル、イランをつなぐ最初の主要ルート――後に「First Channel」と呼ばれる経路の中心人物となった。

FACT CHECK|「イランの穏健派」は確認された組織だったのか

この表現は慎重に扱う必要がある。

当時の交渉では、イスラエル側やゴルバニファルから「アメリカとの関係改善を望むイラン人」「穏健派」といった説明が繰り返し持ち込まれた。
しかし、アメリカ側はその人物たちの実際の権限や影響力を十分に確認できていなかった。

したがって、「イラン政府内に明確な親米穏健派組織が存在し、米国がそれと公式交渉した」と理解するのは正確ではない。
このシリーズでは、当時の米側資料で用いられた構想・主張として扱い、実在の影響力が確認された事実とは分ける。

レーガンはいつ武器供与を認めたのか

ここも、単純な日付を一つ置くだけでは説明できない。

1985年7月18日ごろ、癌手術後にベセスダ海軍病院で療養していたレーガン大統領をマクファーレンと首席補佐官ドナルド・リーガンが訪れ、イスラエル側からの提案を説明した。

ウォルシュ報告によれば、この時レーガンはイランとの対話をさらに探ることには前向きだったが、武器供与まで明確に承認したとは確認されていない。

その後、7月末にはリディーンがゴルバニファルらと接触。
8月2日にはキムヒが再びマクファーレンと会い、問題をより具体化した。

論点は、

  • アメリカ自身がイランへ武器を売るのか
  • イスラエルによる米国製兵器の売却を認めるのか
  • イスラエルが供給した分をアメリカが補充するのか

という実際の武器移転方法へ移っていた。

8月初めにはレーガン、ジョージ・H・W・ブッシュ副大統領、シュルツ、ワインバーガー、ケーシーらもこの提案について説明を受けた。
シュルツとワインバーガーは依然として武器販売に反対した。

独立検察官報告では、レーガンが最終的にイスラエルによる武器移転を認めた正確な日付は確定できないとしている。
ただし、遅くとも1985年8月23日までには、イスラエルがイランへ渡したミサイルをアメリカが補充する方針を承認していたと整理されている。

重要なのは、ここでも政府高官の記憶や認識が完全には一致していないことである。

最初の96発――しかし人質は解放されなかった

政策検討は、1985年8月に実際の武器移転へ変わった。

8月20日、イスラエルが手配した最初の96発のTOW対戦車ミサイルがイランへ到着した。

ところが、期待された人質解放は起きなかった。

ゴルバニファルは、武器が想定していた相手とは違うところへ渡ったと説明し、さらに武器を送れば人質解放につながる可能性があると主張した。

ここで秘密交渉を停止することも可能だった。

しかし実際には、9月上旬にパリで追加交渉が行われた。
ゴルバニファルは今度は、一人の人質を解放させるためにさらに400発程度のTOWが必要だと主張した。

そして9月14日、イスラエルがチャーターした航空機によって408発のTOWミサイルがイランへ届けられた。

翌9月15日、レバノンで拘束されていたベンジャミン・ウィア牧師が解放された。

武器供給の直後に人質が一人帰還したことは、交渉を続けたい側にとって強い材料になった。

一方、アメリカ側が特に解放を求めていたCIAベイルート支局長ウィリアム・バックリーは戻らなかった。
後に判明したところでは、バックリーはすでに死亡していた。

「戦略的接触」が「武器と人質」に近づいていく

1985年春の構想と、9月までに起きたことを比べると変化が見える。

段階 中心となった考え
1985年5~6月 イランを完全に孤立させず、西側との関係改善を模索する
7月 イラン側とされる人物が人質解放へ影響力を持つという情報が入る
7~8月 善意の証明として米国製軍事装備を求める提案が具体化する
8月 イスラエル経由でTOWミサイル96発が実際にイランへ渡る
9月 さらに408発を供給した翌日に、米国人人質1人が解放される

この流れを見ると、当初の「イランとの戦略的関係改善」という広い政策構想に、レバノン人質問題が入り、その人質問題を動かすための手段として武器供与が具体化していったことが分かる。

さらに一度人質が解放されたことで、「武器を送れば次の人質も解放されるかもしれない」という構造から抜けにくくなった。

これは後年、レーガン自身が事件を振り返った際の説明とも関係する。
1987年3月4日のテレビ演説でレーガンは、当初はイランへの「戦略的な接近」として始まったものが、実施過程では武器と人質の交換へ変質したことを認めている。

FACT CHECK|最初から「arms for hostages」が正式政策だったのか

少なくとも政策文書上は、そう整理できない。

1985年春~夏の政策検討では、対イラン関係改善、ソ連の影響力抑制、人質問題など複数の目的が存在していた。
レーガン政権は事件発覚後も、承認した政策は「戦略的な対イラン接近」であり、単純な人質との武器交換ではなかったと説明した。

しかし実際の交渉では、武器供給と人質解放が明確に結びつく取引が繰り返された。
1987年3月、レーガン自身も、事実と証拠を見れば実施された政策が武器と人質の交換へ変質したことを認めている。

したがって、「最初から武器と人質の交換だけを目的としていた」とするのも、「武器と人質は関係なかった」とするのも、どちらも実態を十分に表していない。

なぜ止まらなかったのか

1985年夏の時点ですでに、この秘密交渉には複数の危険信号があった。

シュルツ国務長官とワインバーガー国防長官は武器供与に反対していた。
主要仲介者のゴルバニファルはCIA自身が信用できないと評価していた。
最初の96発を送っても人質は解放されなかった。
そしてアメリカ政府の公的な「テロリストへ譲歩しない」という立場とも緊張関係にあった。

それでも政策は続いた。

理由の一つは、9月15日にベンジャミン・ウィアが実際に解放されたことだった。
秘密ルートがまったく機能しないわけではないという印象を与えたからである。

もう一つは、レーガン政権内部に「イランとの将来的な関係改善」という戦略的期待が残っていたことだった。

さらに、人質が危険にさらされている状況では交渉を打ち切ること自体にも政治的・人道的な重さがあった。
この構造は1985年末まで続き、武器の種類、数量、取引方法を変えながら秘密活動を拡大させていく。

1985年末には、最初の構想から遠く離れていた

9月以降も交渉は続き、イラン側はTOWだけでなくHAWK地対空ミサイルなどを要求するようになった。

交渉の中では、「人質を一人解放すれば武器を渡す」「武器を送ればさらに人質解放へ働きかける」といった具体的な交換条件が持ち込まれていく。

マクファーレン自身も、こうした状況に次第に懐疑的になった。
1985年12月にロンドンでゴルバニファルらと会談した後、彼はこのルートが広い政治対話ではなく、武器と人質の取引から抜け出せなくなっていると判断した。

しかし、秘密活動そのものは終わらなかった。

むしろ1986年には、イスラエル経由だけではなく、CIAを利用したアメリカ側からの直接的な武器供給へ仕組みが変わっていく。

そして、この取引を実務面で動かす役割を急速に拡大していく人物がいた。

NSCスタッフ、オリバー・ノースである。

まとめ|「人質を救いたい」から始まっただけではない

アメリカが1985年にイランとの秘密接触へ踏み出した背景には、複数の目的があった。

レバノンで増え続けるアメリカ人人質を解放したい。
革命後に断絶したイランとの関係に新しい入口を作りたい。
そして冷戦下で、イランがソ連側へさらに接近する可能性を抑えたい。

その政策構想に、イスラエルから「イラン国内に西側との関係改善を望む人々がいる」という情報が持ち込まれた。
さらに彼らはレバノンの人質解放に影響を与えられると説明された。

だが、その「善意の証明」として要求されたのがアメリカ製兵器だった。

1985年8月20日に96発のTOWミサイルがイランへ渡る。
人質は解放されない。
9月14日にはさらに408発が送られ、翌日にベンジャミン・ウィアが解放された。

こうして、「イランとの戦略的関係改善」という政策と、「レバノンの人質を取り戻す」という目的と、「武器を供給する」という手段が切り離せなくなっていった。

次回は、その武器が実際にどのような経路で動いたのかを見る。
イスラエルが米国製TOWをイランへ送り、アメリカがイスラエルへ補充する仕組みから、1986年の米国直接取引まで。

そして、その取引の価格差が後にコントラ支援へ流れる資金の源になっていく。

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第1回 イラン・コントラ事件とは?|武器売却とコントラ支援が結びついた秘密工作の全貌

次の記事:

第3回 武器はどうイランへ渡ったのか|イスラエル経由から米国直接取引まで

CASE FILE 43|全記事

  1. 第1回 イラン・コントラ事件とは?|武器売却とコントラ支援が結びついた秘密工作の全貌
  2. 第2回 なぜイランへ武器を売ったのか|レバノン人質問題と「イラン・イニシアチブ」[現在の記事]
  3. 第3回 武器はどうイランへ渡ったのか|イスラエル経由から米国直接取引まで
  4. 第4回 なぜコントラ支援は秘密化したのか|ボランド修正と議会統制
  5. 第5回 武器代金はどうコントラへ流れたのか|資金流用と「Enterprise」の仕組み
  6. 第6回 誰が秘密作戦を動かしたのか|オリバー・ノース、ポインデクスターとNSCの実働化
  7. 第7回 イラン・コントラ事件はどう発覚したのか|1986年11月、秘密工作が表に出るまで
  8. 第8回 調査は何を突き止めたのか|タワー委員会と1987年議会公聴会
  9. 第9回 刑事責任はどう裁かれたのか|ウォルシュ独立検察官、逆転判決、そして恩赦
  10. 第10回 レーガンはどこまで知っていたのか|確定事実・争点・イラン・コントラ事件が残したもの

出典・参考資料

  • Lawrence E. Walsh, Final Report of the Independent Counsel for Iran/Contra Matters, Part I: Iran/Contra — The Underlying Facts.

    1985年の対イラン政策論議、レバノン人質、リディーンとイスラエル側の接触、ゴルバニファル、TOW移転、ウィア解放などの主要時系列確認に使用。
  • Lawrence E. Walsh, Final Report of the Independent Counsel for Iran/Contra Matters, Chapter 1: United States v. Robert C. McFarlane.

    マクファーレン、ケーシー、ノースらの対イラン秘密活動への関与と、人質解放・武器供給の関係確認に使用。
  • U.S. Department of State, Office of the Historian, Foreign Relations of the United States, 1981–1988, Volume I.

    1986年11月13日および1987年3月4日のレーガン大統領演説など、事件発覚後の米政府による公式説明の確認に使用。
  • Ronald Reagan Presidential Library — Robert C. “Bud” McFarlane Files / Iran-Contra archival collections.

    国家安全保障会議とマクファーレンの役割、対イラン秘密外交に関する公文書所在の確認に使用。
  • President’s Special Review Board, Report of the President’s Special Review Board (Tower Commission), 1987.

    イラン・イニシアチブの政策目的と、戦略的接触が実施段階で武器と人質を結びつける取引へ変質した過程の検証に使用。

本記事は、ウォルシュ独立検察官最終報告、米国務省Foreign Relations of the United States、レーガン大統領図書館、タワー委員会資料等を照合して構成しています。「イランの穏健派」の存在や影響力など、当時の仲介者・当事者が主張した内容については、公的に確認された事実と区別しています。

武器はどうイランへ渡ったのか|イスラエル経由から米国直接取引まで

政治スキャンダル・秘密工作

1985年8月20日、96発のアメリカ製TOW対戦車ミサイルがイランへ到着した。

だが、この最初の武器はアメリカ軍の倉庫から直接テヘランへ送られたわけではない。
イランへ渡したのはイスラエルだった。
イスラエルが保有していたアメリカ製兵器をイランへ移し、後からアメリカがイスラエルの在庫を補充する――これが最初の仕組みだった。

そのわずか数か月後にはHAWK地対空ミサイルの輸送へCIAまで関与し、1986年になると仕組みそのものが変更される。
今度はアメリカ政府が大統領の秘密活動承認を根拠として兵器を調達し、CIAと民間の仲介ネットワークを使ってイランへ送る形になった。

つまり、「アメリカがイランへ武器を売った」という一文の裏側では、1985年と1986年でまったく同じ取引が行われていたわけではない。

第3回では、TOWミサイルとHAWK関連装備がどのような経路を通ってイランへ渡ったのかを、1985年8月の最初の96発から1986年秋まで時系列で追う。

最初は「アメリカからイランへ直接」ではなかった

1985年の最初の武器取引を理解するとき、最も重要なのは兵器の所有関係である。

イランへ送られたTOWはアメリカ製だったが、最初に送り出したのはイスラエルだった。
イスラエルが自国の在庫からTOWをイランへ渡し、アメリカは減ったイスラエルの在庫を後から補充することを了承する。

構造を単純化すると、次のようになる。

段階 動き
1 イラン側との秘密交渉で米国製兵器の供給が要求される
2 イスラエルが保有する米国製兵器をイランへ移す
3 アメリカ政府がイスラエルへの補充を了承する
4 イラン側は仲介者を通じて代金を支払う

この方法には、アメリカとイランが表面上は直接取引しなくて済むという利点があった。

しかし、イスラエルがアメリカから取得した兵器を第三国へ再移転する以上、アメリカ政府の承認という問題から完全に切り離せるわけではない。
後の独立検察官調査では、レーガン大統領が1985年のイスラエルによる武器移転について事前に説明を受け、承認していたことが検討されている。

1985年8月20日――最初の96発

最初の実際の輸送は1985年8月20日に行われた。

イスラエルから96発のTOW対戦車ミサイルがイランへ到着した。
TOWは有線誘導式の対戦車ミサイルで、当時イランはイラクとの戦争を続けており、軍事装備を必要としていた。

ただし、この取引で重要なのはTOWの性能ではない。

アメリカ政府が公にはイランへの武器供給を認めていない一方で、イスラエルの在庫を利用して米国製兵器がイランへ渡り、その不足分を後からアメリカが埋めるという秘密の経路が成立した点にある。

そして最初の96発が到着しても、期待されていたアメリカ人人質の解放は起きなかった。

仲介者マンウチェル・ゴルバニファルは、兵器が想定していた相手とは違う勢力へ渡ったなどと説明し、さらに多くのTOWを送れば人質解放につながる可能性があると主張した。

この段階で取引は終わらず、追加輸送へ進んだ。

9月14日――さらに408発のTOW

9月上旬、パリでイスラエル側、ゴルバニファル、NSCコンサルタントのマイケル・リディーンらによる交渉が行われた。

そこでゴルバニファルは、人質を解放させるためにはさらに約400発のTOWが必要だと説明した。

9月14日、イスラエルがチャーターした航空機によって408発のTOWがイランへ届けられた。

8月の96発と合わせると、1985年夏にイスラエルからイランへ渡ったTOWは504発になる。

翌9月15日、レバノンで拘束されていたアメリカ人牧師ベンジャミン・ウィアが解放された。

この出来事は、秘密交渉を継続する側にとって大きな意味を持った。
最初の輸送では何も起こらなかったが、追加輸送の直後には実際に一人の人質が戻ってきたからである。

ただし、この時間的な接近だけをもって、408発そのものがウィア解放の唯一の直接原因だったと単純化することはできない。
重要なのは、アメリカ政府内部で「この経路には人質を解放させる可能性がある」という認識が強まったことである。

代金を誰が立て替えたのか――カショギという金融仲介者

武器を運ぶには、輸送だけでなく決済の問題もあった。

イラン側は兵器を受け取る前に全額を支払いたくない。
一方、イスラエル側も支払いを確認しないまま武器を送りたくない。

この時間差を埋めるために登場したのが、サウジアラビア出身の実業家・国際金融家アドナン・カショギ(Adnan Khashoggi)だった。

ウォルシュ独立検察官の調査によれば、カショギはゴルバニファルに対して資金を融通し、イラン側から代金が入るまでの「つなぎ融資」を提供した。

つまり兵器の流れだけを見れば、

イスラエル → イラン

だが、資金の流れにはゴルバニファル、カショギ、イスラエル側関係者など複数の仲介者が存在した。

この複雑な取引構造は、翌1986年にさらに重要になる。
武器そのものだけでなく、売値と政府側の調達価格との差額が大きくなり、その一部がコントラ支援へ利用されるからである。

11月――今度はHAWKミサイルを送ろうとした

1985年秋になると、イラン側の要求はTOWだけではなくなった。

次に問題となったのがHAWK地対空ミサイルだった。
航空機を迎撃するための防空システムであり、イラン側はイラクとの戦争で使用するため関連装備を求めていた。

11月15日、イスラエル国防相イツハク・ラビンは、アメリカ側にイスラエルからイランへの武器供給を引き続き認めるか確認した。
国家安全保障担当大統領補佐官ロバート・マクファーレンは、レーガン大統領の承認が継続していると伝えた。

計画では、イスラエルから80発のHAWKを輸送する予定だった。

しかし、この輸送はTOW以上に混乱した。

イスラエル機をそのままテヘランへ飛ばせない

最大の問題の一つは輸送経路だった。

イスラエルとイランは敵対関係にある。
イスラエルの航空機が兵器を積んだまま直接イランへ飛び込むわけにはいかなかった。

当初の計画では、イスラエルの航空機でHAWKを第三国まで運び、そこで別の航空機へ積み替えてイランへ送ることが想定された。

しかし必要な着陸許可や上空通過許可を確保できず、輸送は行き詰まった。

ここでオリバー・ノースがCIAへ助力を求めた。

CIAのデュアン・クラリッジらが飛行許可の確保に関与し、CIAと関係する航空機まで輸送に使用されることになった。

これは重要な転換点だった。

それまで「イスラエルによる武器移転」という形を取っていた活動に、アメリカの情報機関が輸送実務で直接関与してしまったからである。

80発の予定が、届いたのは18発

度重なる輸送上の問題の末、1985年11月24日夜から25日にかけて航空機がテヘランへ到着した。

だが、積まれていたHAWKは予定されていた80発のうち18発だけだった。

さらに問題が起きた。

イラン側が期待していた仕様と、届いたHAWKが一致していなかったのである。
ウォルシュ報告によれば、イラン側はより能力の高い「I-HAWK」と理解していたが、実際に届いた兵器はその期待に合わなかった。
さらに兵器にはイスラエルを示すマーキングも残っていた。

イラン側は受け入れを拒み、残る輸送は中止された。

人質も解放されなかった。

8~9月のTOW取引では少なくとも一人の人質解放という成果があったのに対し、11月のHAWK輸送は、兵器、輸送、政治的説明のすべてで問題を残した。

FACT CHECK|1985年11月に80発のHAWKがイランへ渡ったのか

渡っていない。

計画された輸送量は80発だったが、実際にイランへ到着したのは18発だった。
イラン側が兵器の仕様に不満を示したため残りの輸送は中止され、届けられた兵器も問題となった。

「80発を売却した」という計画値と、「18発が実際に届いた」という実績値を混同しない必要がある。

HAWK輸送がCIAに別の問題を生んだ

11月の失敗にはもう一つ重大な意味があった。

CIAが輸送許可の取得や航空機の手配に関与したことで、「CIAによる秘密活動」として正式な大統領承認が必要ではないかという問題が生じたのである。

アメリカの情報機関が秘密活動を行う場合、大統領がその活動を承認する「Finding」と呼ばれる文書が重要になる。

CIA内部では、11月のHAWK輸送への関与がこの手続を必要とすると判断された。

1985年12月5日、レーガン大統領はイラン秘密活動に関するFindingへ署名した。

しかし、この文書には問題があった。
すでに行われたCIAの活動を事後的に承認する性格があり、さらに武器と人質の関係をかなり直接的に記述していた。

翌1986年になると、秘密活動を続けるための仕組みは改めて作り直されることになる。

1986年1月17日――取引方式そのものが変わる

1986年1月17日、レーガン大統領は新たなFindingへ署名した。

ここから取引は第二段階へ入る。

1985年は基本的に、

イスラエルの兵器 → イラン
アメリカ → イスラエルへ補充

という構造だった。

1986年には、

米国防総省 → CIA → CIAの代理人 → イラン側

という構造が採用された。

Findingでは、対イラン秘密活動の目的として、イラン内部でより穏健な政府形成を促すこと、イラン側から情報を得ること、そしてベイルートのアメリカ人人質解放を促すことなどが挙げられていた。

実務ではCIAが国防総省から兵器を取得し、退役空軍少将リチャード・セコードがCIAの代理人として取引に参加した。

ここで「アメリカからの直接取引」と表現しているのは、必ずしも米軍輸送機がワシントンからテヘランまで一直線に飛んだという意味ではない。

兵器を供給する主体がイスラエル在庫ではなく米政府となり、CIAが調達・決済・輸送体制へ正式に組み込まれたという意味である。

なぜセコードという民間人を間に置いたのか

アメリカ政府が自ら兵器を供給するなら、CIAがそのままイラン側へ渡せばよさそうにも見える。

しかし、実際にはセコードが間に置かれた。

ウォルシュ報告によれば、CIAが国防総省から兵器を購入し、セコードをCIAの代理人として利用する仕組みが作られた。
セコードは輸送、銀行口座、民間企業などを使って実際の取引を処理した。

その背景には、政府の直接関与を見えにくくする狙いがあった。

そしてこのセコードを中心とする民間ネットワークこそ、後に「Enterprise」と呼ばれる仕組みである。

当初は武器取引を実行するための仲介構造だったが、政府の正式な会計系統から外側に置かれたことによって、取引価格と政府への支払額の差額を別用途へ回す余地も生まれた。

この点が第5回で扱う「資金流用」の核心につながる。

1986年2月――今度はアメリカ政府のTOWが動く

新しい仕組みで最初に実行されたのが、1986年2月のTOW輸送だった。

2月18日、500発のTOWがイランへ届けられた。
さらに同月27日までにもう500発が送られ、2月だけで合計1,000発となった。

資金と兵器の流れは、以前より複雑だった。

段階 役割
イラン側 ゴルバニファルらを通じて代金を用意
セコード側 スイスの管理口座で代金を受領
セコード側 → CIA 米政府が設定した兵器代金をCIA側へ支払う
CIA 米陸軍からTOWを取得
民間航空輸送 米国からイスラエルなどを経由して輸送
イラン TOWを受領

最初の500発では、セコードがSouthern Air Transportを手配し、兵器をアメリカからイスラエルへ運ばせた。
その後、別の航空機によってイランへ送られた。

このため物流だけを見るとイスラエルを経由している。
しかし1985年とは異なり、兵器そのものはアメリカ政府の管理下からCIAを通じて供給された。

この違いは大きい。

FACT CHECK|1986年もイスラエルが武器を売っていたのか

1985年と1986年では仕組みが異なる。

1985年夏の504発のTOWはイスラエル所有の米国製兵器だった。
一方、1986年1月17日の大統領Finding以降は、CIAが国防総省から兵器を取得し、セコードらを利用してイランへ送る方式へ移った。

物流上イスラエルを経由することはあったが、「イスラエル自身の在庫を売る取引」と「米政府が供給主体となる取引」は分けて考える必要がある。

5月――HAWK部品とともにアメリカ代表団がテヘランへ入った

1986年春、イラン側は再びHAWK関連装備を求めた。

今度は完成したミサイルだけでなく、HAWK防空システムを維持するためのスペアパーツだった。
交渉では約240種類の部品が対象となった。

そして5月、秘密武器取引はさらに異例の段階へ進む。

前国家安全保障担当大統領補佐官ロバート・マクファーレン自身が、オリバー・ノース、元CIA職員ジョージ・ケイブ、NSCスタッフのハワード・タイカーらとともにイランへ向かったのである。

一行は1986年5月25日にテヘランへ到着した。

航空機にはHAWKのスペアパーツの一部が積まれていた。
残りはイスラエルに置かれ、人質が解放されれば追加輸送する計画だった。

ところが交渉は想定どおり進まなかった。

アメリカ側が期待していた高位のイラン政府関係者との政治対話は実現せず、人質も解放されない。
イラン側はさらに多くのHAWK部品を求めた。

追加部品を積んだ航空機は一度イスラエルを出発したものの、人質解放が行われないことから途中で引き返した。

マクファーレン一行は5月28日にイランを離れた。

対イラン関係を大きく転換するはずだった秘密訪問は、ほとんど成果を得られずに終わった。

兵器の「価格」が次の問題になった

1986年の取引には、1985年とは別の重大な問題があった。

イラン側が支払う金額と、アメリカ政府が兵器に設定した価格が大きく異なっていたのである。

例えばHAWKスペアパーツについて、イラン側からセコード側へ支払われた額は、政府側の取得価格を大幅に上回っていた。

その差額は単なる輸送費だけではなかった。

ウォルシュ独立検察官は、1986年のイラン向け武器取引で、イラン側から民間ネットワークへ支払われた金額と、CIA経由で国防総省へ支払われた金額との間に大きな余剰が生じたことを確認している。

そしてオリバー・ノースらは、その余剰の一部をニカラグアのコントラ支援へ回していた。

ここで初めて、

イランへの武器売却

と、

ニカラグアのコントラ支援

が資金面で直接接続する。

ただし、この資金構造そのものは次回以降の中心論点なので、本記事では「武器を運ぶシステムの中に価格差が存在した」という点にとどめる。

8月――残されていたHAWK部品もイランへ

5月のテヘラン交渉が失敗した後も、秘密取引は終わらなかった。

7月24日、レバノンで拘束されていたローレンス・ジェンコ神父が解放された。

その後、ゴルバニファルらは、まだイスラエルに残されていたHAWKスペアパーツをイランへ送るよう要求した。

ノースはポインデクスターを通じて輸送許可を求め、レーガン大統領が承認。
残っていた部品は8月3日から4日にかけてイランへ送られた。

これで5月に途中で止められたHAWK部品取引も、最終的には実行された。

しかしそのころには別の問題が起きていた。

イラン側がアメリカ国防総省の価格情報を入手し、自分たちが兵器・部品に対して非常に高い金額を支払っていることに気づき始めていたのである。

秘密外交は、人質問題だけでなく「なぜこれほど高いのか」という価格交渉にも行き詰まっていった。

10月28日――最後の500発のTOW

1986年後半には、それまでのゴルバニファル経由とは別の接触経路も模索された。

その中で10月28日、さらに500発のTOWがイランへ届けられた。

この500発は、アメリカが同年5月にイスラエルへ送っていたTOWを利用したものだった。
その後アメリカは11月7日と8日に、イスラエルへ新しいTOWを補充している。

11月2日にはレバノンで拘束されていたデービッド・ジェイコブセンが解放された。

しかし翌11月3日、レバノンの雑誌『Al-Shiraa』がマクファーレンのテヘラン訪問を報じる。

約15か月続いた秘密の武器ルートは、ここで公の問題へ変わり始めた。

武器の流れを時系列で整理する

1985年8月から1986年秋までの主要な移転を並べると、取引方式が途中で変わったことが分かる。

時期 内容 基本的な供給構造
1985年8月20日 TOW 96発 イスラエル在庫 → イラン
1985年9月14日 TOW 408発 イスラエル在庫 → イラン
1985年11月24~25日 HAWK 18発 イスラエル在庫 → CIAの輸送支援 → イラン
1986年2月18~27日 TOW 1,000発 米政府 → CIA → セコード側 → イラン
1986年5月 HAWKスペアパーツの一部 米政府 → CIA・民間経路 → テヘラン
1986年8月3~4日 残りのHAWKスペアパーツ 米政府 → CIA・民間経路 → イラン
1986年10月28日 TOW 500発 米政府から補充されたイスラエル在庫 → イラン

TOWだけを合計すると、1985~1986年にイランへ渡った主要な取引分は2,004発となる。

しかし、数字以上に重要なのは、取引の主体が変化したことだ。

1985年にはイスラエルを前面に置くことでアメリカの直接性を薄めていた。
ところがHAWK輸送の混乱を契機にCIAが実務へ入り、1986年には大統領FindingのもとでCIAが政府兵器を取得する仕組みに変わった。

秘密活動は小さくなるどころか、政府、情報機関、NSCスタッフ、外国政府、民間人、航空会社、海外銀行口座をまたぐシステムへ拡大していったのである。

なぜこんな複雑な仕組みにしたのか

一見すると、非常に非効率な方法である。

兵器をイスラエルへ渡し、別の航空機へ積み替え、仲介者の口座を通して代金を処理し、CIAと民間人が役割を分担する。
通常の政府間武器取引と比べれば、関係者も経路も多い。

だが、この複雑さそのものに意味があった。

通常の政府機関を通して公然とイランへ武器を輸出すれば、アメリカが公に掲げていた対イラン政策との矛盾が表面化する。
また議会への通知や武器輸出制度の問題も生じる。

そこで、イスラエル、CIA、NSCスタッフ、セコードらの民間ネットワークを組み合わせ、政府の関与を外部から見えにくくする仕組みが形成された。

しかしその代償として、通常なら政府内部で確認されるはずの

  • 誰が最終的な責任者なのか
  • 誰が価格を決めるのか
  • 誰が銀行口座を管理するのか
  • どこまでが政府資金なのか
  • 利益や余剰金は誰のものなのか
  • 議会へ何を報告するのか

という境界が曖昧になっていった。

これこそが、単なる「秘密兵器輸送」がイラン・コントラ事件へ発展した重要な理由の一つだった。

まとめ|「イスラエル経由」からCIAを組み込んだ仕組みへ

イランへの武器供給は、一つの固定されたルートで続いたわけではない。

1985年8~9月、最初の504発のTOWはイスラエルの在庫からイランへ送られ、アメリカがイスラエルへの補充を認める方式だった。

11月には80発のHAWK輸送が計画されたが、輸送許可の問題からCIAが介入し、実際に届いた18発もイラン側が求めていた仕様と合わず失敗した。

その失敗によってCIAの秘密活動を正式に承認する必要性が問題となり、1986年1月17日には新たな大統領Findingが署名された。

以後はCIAが米政府から兵器を取得し、リチャード・セコードを代理人として利用する方式へ変わる。
2月には1,000発のTOW、5~8月にはHAWK関連部品、10月にはさらに500発のTOWがイランへ渡った。

こうして秘密外交は、単なる外交交渉ではなく巨大な物流・金融システムになった。

そして、そのシステムにはもう一つの特徴があった。

イラン側が支払った金額のすべてが、アメリカ政府へ武器代金として入っていたわけではない。
仲介ネットワークには大きな余剰金が残っていた。

その金は、なぜ存在したのか。
そしてなぜニカラグアへ向かったのか。

その前に次回は、イランとは約1万km離れた中米ニカラグアへ視点を移す。
議会が軍事支援を制限した後も、なぜレーガン政権はコントラを支えようとし、NSCスタッフが秘密の補給網を構築することになったのかを追う。

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第2回 なぜイランへ武器を売ったのか|レバノン人質問題と「イラン・イニシアチブ」

次の記事:

第4回 なぜコントラ支援は秘密化したのか|ボランド修正と議会統制

CASE FILE 43|全記事

  1. 第1回 イラン・コントラ事件とは?|武器売却とコントラ支援が結びついた秘密工作の全貌
  2. 第2回 なぜイランへ武器を売ったのか|レバノン人質問題と「イラン・イニシアチブ」
  3. 第3回 武器はどうイランへ渡ったのか|イスラエル経由から米国直接取引まで[現在の記事]
  4. 第4回 なぜコントラ支援は秘密化したのか|ボランド修正と議会統制
  5. 第5回 武器代金はどうコントラへ流れたのか|資金流用と「Enterprise」の仕組み
  6. 第6回 誰が秘密作戦を動かしたのか|オリバー・ノース、ポインデクスターとNSCの実働化
  7. 第7回 イラン・コントラ事件はどう発覚したのか|1986年11月、秘密工作が表に出るまで
  8. 第8回 調査は何を突き止めたのか|タワー委員会と1987年議会公聴会
  9. 第9回 刑事責任はどう裁かれたのか|ウォルシュ独立検察官、逆転判決、そして恩赦
  10. 第10回 レーガンはどこまで知っていたのか|確定事実・争点・イラン・コントラ事件が残したもの

出典・参考資料

本記事は、ウォルシュ独立検察官最終報告、1987年連邦議会調査、タワー委員会関係資料を中心に、計画された輸送量と実際に輸送された数量、イスラエル所有兵器と米政府供給兵器、政策承認と物流実務を分けて構成しています。「アメリカからの直接取引」は米政府が供給主体となったことを指し、すべての兵器が米国からイランへ直行便で輸送されたという意味ではありません。

なぜコントラ支援は秘密化したのか|ボランド修正と議会統制

政治スキャンダル・秘密工作

1984年10月、アメリカ議会はニカラグアの反政府勢力「コントラ」への軍事支援に、それまで以上に強い制限をかけた。

CIA、国防総省、そして「情報活動に関与するその他の米政府機関・組織」が、ニカラグアでの軍事・準軍事活動を直接・間接に支援するために政府資金を使うことを禁じる内容だった。

通常なら、ここでCIAによる秘密支援作戦は縮小する。

実際、CIAがそれまで行ってきたコントラへの軍事支援には大きな制約がかかった。
しかし、レーガン政権が掲げていた「コントラを存続させる」という政策そのものは消えなかった。

代わりに拡大していったのが、外国政府からの資金、民間募金、退役軍人や民間企業、秘密銀行口座、航空輸送、そして国家安全保障会議(NSC)スタッフを組み合わせた、政府の通常予算とは別の支援経路だった。

後にイラン・コントラ事件の中心人物となるオリバー・ノースは、その中で単なる「連絡役」を超える役割を担うようになる。

第4回では、そもそも議会は何を禁止していたのか、そしてその制限の下で、なぜコントラ支援が秘密のネットワークへ移っていったのかを追う。

そもそも「コントラ」とは何だったのか

コントラ問題の出発点は、1979年のニカラグア革命にある。

同年、サンディニスタ民族解放戦線(FSLN)が、長期独裁を続けていたソモサ政権を倒した。
その後成立したサンディニスタ政権はキューバやソ連との関係を強め、レーガン政権は中米で共産圏の影響力が拡大することを強く警戒した。

1981年以降、CIAはサンディニスタ政権に対抗する武装勢力への秘密支援を本格化させる。
その反政府勢力が、一般に「コントラ(Contras)」と呼ばれた。

コントラには、旧ソモサ政権の国家警備隊出身者だけでなく、サンディニスタ政権に反発したさまざまな勢力が加わっていた。
主な拠点は隣国ホンジュラスなどに置かれ、ニカラグア国内への軍事作戦を行った。

レーガン政権にとってコントラは、サンディニスタ政権へ圧力を加える冷戦政策の重要な手段だった。

しかし議会では、この秘密戦争に対する疑問が強まっていく。

1982年――最初の「ボランド修正」

「ボランド修正(Boland Amendment)」という名称から、一つの法律が数年間ずっと存在したように見える。

実際にはそうではない。

マサチューセッツ州選出の民主党下院議員エドワード・ボランドを中心として成立した、一連の歳出・情報関連法上の制限を総称して「ボランド修正」と呼んでいる。
内容も適用範囲も時期によって異なる。

最初の条項は1982年末に成立した。

この時点では、CIAなどが「ニカラグア政府を転覆させる目的」で資金を使用することを禁止する内容だった。

重要なのは、「コントラに一切関与してはならない」という包括的な禁止ではなかったことである。

レーガン政権側は、コントラ支援の目的は単純な政権転覆ではなく、ニカラグアからエルサルバドルなど周辺国の武装勢力への武器供給を阻止することなどにあると主張し、支援を継続した。

ここから、議会と行政府の間で「コントラ政策をどこまで認めるのか」という綱引きが続くことになる。

1983年――議会は支援額に上限を設けた

1983年末、議会とレーガン政権の間ではひとまず妥協が成立した。

1984会計年度のコントラ支援資金は2,400万ドルに制限された。
政権が求めていた額より少なく、追加資金が必要なら再び議会の承認を得る必要があった。

この上限は翌年、大きな問題になる。

コントラの軍事活動を続ければ資金は減っていく。
CIAやホワイトハウス側が活動を維持したくても、自由に追加予算を投入することはできない。

そこで1984年初めには、国家安全保障担当大統領補佐官ロバート・マクファーレンらの間で、アメリカ政府以外の国から資金を集めるという案が検討され始めた。

この発想が、後の秘密支援網へつながる最初の重要な変化だった。

1984年――CIAのニカラグア港湾機雷敷設が議会との対立を悪化させた

議会の警戒を決定的に強めた出来事の一つが、CIAによるニカラグア港湾への機雷敷設だった。

1984年春、この秘密作戦が報道などを通じて明らかになる。

アメリカの情報機関が外国の港に機雷を設置していたことは、議会に強い反発を引き起こした。
それまで議会内に存在していた追加資金への支持も弱まり、コントラ支援の上限を緩和することは難しくなった。

ウォルシュ独立検察官の最終報告では、この時期にレーガン大統領がマクファーレンへ、コントラを「body and soul」――組織として生き残らせるよう求めたとの証言が記録されている。

つまり、議会側では支援を縮小する方向へ進み、ホワイトハウス側ではコントラを存続させる政策を維持するという、正反対の圧力が強くなっていた。

政府予算が使えないなら、外国政府に出してもらえるのか

ここでレーガン政権内部が注目したのが、第三国からの資金だった。

マクファーレンは1984年2月ごろには、外国政府へコントラ支援を働きかける案を検討していた。
CIA長官ウィリアム・ケーシーも、この案を支持した。

同年5月までに、マクファーレンはサウジアラビアからコントラ支援のため月100万ドルの拠出を得ることに成功していた。

その資金をコントラ側へ移す実務を任されたのが、NSCスタッフのオリバー・ノースだった。
ノースは秘密銀行口座の準備などに関与するようになる。

しかし、外国政府へ資金提供を求めること自体に問題がないのかは、政権内部でも疑問視されていた。

1984年6月25日に開かれた国家安全保障計画グループの会合では、国務長官ジョージ・シュルツが第三国への働きかけについて重大な法的・政治的懸念を示し、司法長官の見解を得るべきだと主張した。

翌日の協議では、外国政府が自国の資金を使用し、後でアメリカ政府から補填されないのであれば、第三国との協議は許容され得るという司法長官側の見解が示された。

ここには一つの境界線があった。

議会が止めたのは「米政府資金」である。
ならば、外国政府自身の資金まで同じように禁止されるのか。

この解釈上の余地が、政府予算の外側に支援源を求める方向を後押しした。

FACT CHECK|ボランド修正は「世界中の誰もコントラを支援してはいけない」という法律だったのか

違う。

ボランド修正はアメリカの歳出・情報活動を制限する法律であり、外国政府や米国内の純粋な私人が自己資金で行う行為すべてを直接禁止する法律ではなかった。

だからこそ問題は複雑になった。
外国政府や私人自身による支援と、米政府高官が職務上その資金を集め、移動させ、軍事作戦を調整する行為との境界が問われたのである。

1984年10月――「全面的な資金停止」に近い制限へ

大きな転換点となったのが1984年10月だった。

1985会計年度の歳出法に盛り込まれたボランド条項では、CIA、国防総省、そして情報活動に関与するその他の米政府機関・組織が、ニカラグア国内の軍事・準軍事作戦を直接または間接に支援するために資金を使用することを禁じた。

最初の1982年版が「ニカラグア政府を転覆する目的」を問題にしていたのに対し、1984年版はより広い軍事支援を対象としていた。

時期 主な内容
1982年末 ニカラグア政府転覆を目的とするCIA等の資金使用を制限
1983年末 1984年度のコントラ支援を2,400万ドルに制限
1984年10月 情報活動に関与する米政府機関・組織の資金を、ニカラグアでの軍事・準軍事活動支援へ使用することを広く制限
1985~1986年 制限を維持しつつ、人道支援・通信関連など一部の限定的支援を議会が別途認める

ウォルシュ独立検察官がコントラ側の捜査で特に注目したのは、1984年10月から1986年10月までのこの時期だった。

それでも「コントラを生き残らせる」方針は変わらなかった

政府資金による軍事支援を止められても、レーガン政権の対ニカラグア政策そのものが変わったわけではなかった。

レーガンはコントラを強く支持しており、1985年の一般教書演説でも彼らを「自由の戦士」と位置づけた。

マクファーレンの証言によれば、大統領からの基本的な指示は、議会で再び支援を認めさせられるまでコントラを存続させることだった。

NSC内では、政治・議会工作を担当する者と、コントラ側との連絡を担当する者に役割が分けられた。

ノースは後者だった。

当初は「政権がコントラを見捨てていないことを示す連絡役」という性格だったが、その役割は急速に広がっていく。

ノースの仕事は「連絡役」から軍事支援の調整へ広がった

ウォルシュ報告によれば、1984年夏以降、ノースはCIA関係者やコントラ指導者、退役軍人、資金提供者をつなぐ中心に近づいていった。

CIA長官ケーシーの紹介を受け、ノースは退役空軍少将リチャード・セコードに接触する。

セコードはコントラ側からの依頼を受け、国際市場で武器を購入する仲介役になった。

またロバート・オーウェンは、ノースとコントラ指導部の間を行き来し、現地の要求を伝え、資金や情報を届ける役割を担った。

1985年になると、ノースはさらに深く関与していた。

CIAから得た情報をコントラの軍事指揮官へ渡し、資金源を探し、武器購入を調整し、コントラ側の作戦や補給について報告を受ける。

ここまで来ると、「私人が勝手にコントラへ寄付した」という話とは性格が異なる。

現職のNSCスタッフが、外国政府、民間人、元CIA・軍関係者、コントラ指導部を接続する位置にいたからである。

サウジ資金は月100万ドルから月200万ドルへ

外国政府からの支援も続いた。

1984年に始まったサウジアラビアからの拠出は、1985年2月には月200万ドルへ倍増した。

ノースはその資金をコントラ側へ移す手配に関わった。

さらに民間からの募金活動にも関与するようになる。
1985年春にはカール・チャネルとリチャード・ミラーらによるコントラ支援募金を助け、潜在的な寄付者への説明、講演者の手配、ホワイトハウスでの写真撮影や大統領との短い接触などを調整した。

形式上は「民間の寄付」であっても、現職NSCスタッフが職務上の立場やホワイトハウスへのアクセスを使って募金を後押ししていたことが、後の調査で問題になった。

資金の出所が政府予算でなければ、それだけで議会統制の問題が消えるわけではなかった。

1985年夏――秘密補給網は「作戦」へ変わる

1985年半ばになると、支援網は単発の寄付や武器購入の寄せ集めから、より組織化された物流システムへ変わっていった。

ウォルシュ独立検察官は、その転換点の一つを1985年6月28日にマイアミで開かれた会合としている。

ノース、セコードらは、コントラへの継続的な軍事補給を行うための体制を整えていった。

必要だったのは、単に武器を買うことだけではない。

  • 資金を集める
  • 武器・弾薬を購入する
  • 航空機を確保する
  • パイロットや整備要員を用意する
  • 中米に基地を確保する
  • コントラ側の要求を把握する
  • 補給地点を決める
  • 秘密銀行口座で支払いを処理する

という一連の機能だった。

このネットワークが、後に「Enterprise」と呼ばれる仕組みへ発展する。

エルサルバドルのイロパンゴ空軍基地

秘密補給網の重要拠点となったのが、エルサルバドルのイロパンゴ空軍基地だった。

1985年9月、ノースは元CIA関係者フェリックス・ロドリゲスに、コントラ補給活動のため同基地を利用できるよう協力を求めた。

後にセコード側の航空機・要員がイロパンゴを拠点として、ニカラグア周辺のコントラ部隊への補給飛行を行うようになる。

1986年10月5日、その補給活動に使用されていたC-123輸送機がニカラグア政府軍に撃墜される。
生存したアメリカ人ユージン・ハーゼンファスが拘束されたことで、秘密補給網の存在が外部から見える最初の大きな証拠の一つとなる。

この事件については第7回で詳しく扱う。

では議会は「人道支援」まで禁止していたのか

ここも誤解しやすい。

議会はコントラへのあらゆる支援を永久に拒否していたわけではない。

1985年、議会は2,700万ドルの人道支援を認めた。
ただし軍事支援ではなく、食料、衣服、医薬品など非軍事用途を想定した援助だった。

そして、その支援をCIAや国防総省に扱わせなかった。

国務省内にニカラグア人道支援局(Nicaraguan Humanitarian Assistance Office:NHAO)が設置され、ここが援助を管理することになった。

つまり1985年の状態は、

「コントラへの支援がすべて禁止」

ではなく、

「軍事支援には強い制限がある一方、議会が認めた非軍事・人道支援は正式な政府制度の中で実施可能」

というものだった。

合法な人道支援と秘密の軍事補給が並行した

ここから状況はさらに複雑になる。

表側では、国務省のNHAOが議会の承認した人道支援を実施していた。

一方、その外側ではノースとセコードらの民間ネットワークが、武器や弾薬を含む秘密補給を続けていた。

しかも両者は完全に無関係ではなかった。

ウォルシュ報告によれば、ノースは自らの秘密補給網で活動していた人物をNHAO側へ紹介し、合法な人道支援の物流と秘密補給網の要員・設備が接近する場面もあった。

この状態は、後の調査で「政府活動」と「民間活動」の境界をさらに不明瞭にすることになる。

最大の法的争点――NSCもボランド修正の対象だったのか

イラン・コントラ事件を扱ううえで、最も慎重に書かなければならない論点の一つがこれである。

1984年10月以降のボランド条項は、CIA、国防総省に加え、

「情報活動に関与するその他の米政府機関または組織」

にも適用されると規定していた。

では、ホワイトハウスのNSCスタッフはこれに含まれるのか。

後の議会調査では、NSCも対象になるという見解が示された。
議会審議の記録にも、NSCを含めるという理解を示す発言が存在する。

一方、レーガン政権側や事件関係者には、NSCスタッフは法文が想定する「情報機関」ではないため適用対象ではない、という解釈も存在した。

ウォルシュ独立検察官は最終報告で、この問題には法的議論の余地があったことを認めている。

そして独立検察官が検討した共謀事件では、NSCだけが関係していたわけではなく、明確にボランド条項の対象となるCIA職員も秘密支援活動へ関与していたため、「NSC単独で条項の対象だったか」という問題だけで事件全体を決める必要はないと整理した。

FACT CHECK|「ノースはボランド修正違反で有罪になった」のか

この説明は正確ではない。

ボランド修正は歳出法上の制限であり、それ自体に単純な刑事罰を設けた法律ではなかった。
またNSCスタッフが各時期の条項に直接含まれるかについても法的議論があった。

イラン・コントラ事件の刑事事件では、議会への虚偽説明、文書処理、妨害、詐欺・税務関連など、別の刑事法上の問題が中心となった。

したがって「ボランド修正に違反したからノースがその罪名で有罪になった」と理解するのは避ける必要がある。

議会は1985年夏にはノースの活動を疑っていた

秘密活動は1986年11月まで完全に誰にも気づかれなかったわけではない。

1985年夏には、ノースがコントラの資金調達や軍事活動へ深く関与しているという報道が出始めていた。

8月16日には下院外交委員会のマイケル・バーンズ議員がマクファーレンへ質問状を送り、NSCスタッフがコントラの軍事作戦へ影響を与えていないか、資金提供者を仲介していないか、反政府勢力を組織・調整していないかを問いただした。

下院情報特別委員長リー・ハミルトンも同様の照会を行った。

つまり議会は、NSCスタッフが本来の政策調整の範囲を超えているのではないかと疑い始めていた。

ここから問題は「秘密支援を行っていたか」だけではなくなる。

議会から具体的な質問を受けたとき、政府側が何と答えたのかが重要になる。

マクファーレン名義の回答は、実態と一致しなかった

議会から問い合わせを受けると、マクファーレンはNSC内部で関連文書の調査を命じた。

その過程で、ノースが資金調達、軍事的助言、コントラへの支援に関与していたことをうかがわせる文書が見つかった。

それでも1985年9~10月、マクファーレン名義で議会へ送られた回答では、NSCスタッフがボランド条項の趣旨に反する軍事支援活動へ関与しているとの疑いが否定された。

後のウォルシュ捜査は、これらの回答を実態と一致しないものとして重大視した。

ここがイラン・コントラ事件を単なる「法律の解釈争い」だけでは説明できない理由である。

仮にある行為について法適用に議論の余地があったとしても、議会がまさにその活動について質問していたとき、実際の関与を正確に説明したかどうかは別の問題だからである。

1985年12月――ボランド制限は続いた

1985年12月には、1986会計年度に対応する新しい制限が成立した。

CIA、国防総省、情報活動に関与する政府組織がコントラの軍事・準軍事作戦へ支援を提供することについて、引き続き強い制約が設けられた。

ただし限定された通信機器や通信訓練など、議会が特に認めた支援は存在した。

つまり制度は「禁止か自由か」の二択ではなかった。

議会は支援内容を細かく区分し、認めるものと認めないものを予算権を通じて管理しようとしていた。

その一方でノースらの秘密補給網では、武器・弾薬を含む軍事物資の調達と輸送が続いた。

1986年、議会は再び軍事支援を承認する

ここまで読むと、議会が最後までコントラ軍事支援を拒絶したように見えるかもしれない。

しかし政策状況は再び変化する。

レーガン政権は1986年を通じて議会にコントラ支援再開を強く働きかけた。

6月25日、下院はコントラ支援を含む案を可決。
その後上院も承認し、最終的に1億ドル規模の支援が成立した。

レーガン大統領が1986年10月18日に署名した法律によって、コントラへの公的支援は新しい段階へ入る。
そのうち大部分は軍事支援として使用可能だった。

つまり、ウォルシュ独立検察官が特に問題とした「軍事支援禁止期間」は、1984年10月から1986年10月までだった。

秘密補給網は、議会が軍事支援を再承認するまでコントラを維持するための「橋渡し」として機能した面がある。

では、何が本当の問題だったのか

政治的立場によって、コントラ支援そのものへの評価は大きく異なる。

レーガン政権から見れば、サンディニスタ政権へ圧力を加え、中米でソ連・キューバの影響拡大を防ぐための政策だった。

反対側から見れば、議会が制限した外国の内戦への介入を、行政府が別の経路で継続したものだった。

しかしイラン・コントラ事件を事件構造として見るなら、より重要なのは別の部分にある。

アメリカ憲法上、議会は政府予算を承認する強い権限を持つ。
行政府が望む外交政策であっても、必要な資金を議会が認めなければ、通常はその規模で実行することが難しくなる。

そこで1984~1986年に形成された仕組みでは、

  • 外国政府の資金
  • 民間寄付
  • 政府外の銀行口座
  • 民間の武器商人
  • 民間航空機
  • 退役軍人や元CIA関係者
  • NSCスタッフによる調整

が組み合わされた。

このため、形式上は通常の米政府予算を使わずに、政府が望んでいた外交・軍事政策を支える仕組みが成立した。

「議会が資金を認めないなら、政府の外から資金を集めて政策を続けられるのか」。

これがイラン・コントラ事件の制度的な核心の一つである。

そしてイラン武器取引の「余剰金」が見つかった

1985年まで、コントラ秘密支援の資金源は主として外国政府や民間寄付だった。

しかし1986年になると、まったく別の場所から大きな資金源が現れる。

イランへの秘密武器取引である。

第3回で見たように、1986年のイラン向け取引では、イラン側が支払う金額と、CIAが国防総省へ支払う兵器価格との間に差があった。

その金はアメリカ政府の通常会計へそのまま入らず、セコードらが管理する秘密ネットワーク側に残った。

ノースは、この余剰をコントラ支援へ利用する。

ここで、

「議会によって軍事支援を制限されたニカラグア政策」

と、

「人質問題を背景に進められていたイランへの秘密武器取引」

が初めて資金面で直接つながる。

次回は、この金の流れを追う。

イランはいくら支払い、アメリカ政府はいくら受け取り、その差額はどの銀行口座へ入り、誰がコントラ支援へ回すことを決めたのか。

イラン・コントラ事件の名前を成立させた「diversion――資金流用」の仕組みを分解する。

まとめ|支援は禁止されたから消えたのではなく、政府の外側へ移った

ボランド修正は、一つの単純な「コントラ禁止法」ではなかった。

1982年から複数の条項が成立し、対象、期間、認められる支援の範囲は変化している。

特に1984年10月から1986年10月まで、議会はCIAなどによるコントラの軍事・準軍事活動への資金支援を強く制限した。

その一方でレーガン政権は、コントラを軍事組織として存続させる政策を維持した。

その結果、支援は通常のCIA予算から、外国政府の拠出、民間募金、秘密口座、セコードらによる武器調達、民間航空輸送へ移っていった。

その中心で複数の人物と組織をつないだのが、NSCスタッフのオリバー・ノースだった。

ここで重要なのは、「ボランド修正違反だった」の一言で終わらせないことだ。
NSCが各条項の適用対象だったかには法的議論があり、ボランド条項自体も単純な刑事罰規定ではなかった。

一方で、議会がまさにNSCの関与について質問していた時期に、秘密の資金調達や軍事補給が続き、その実態と一致しない説明が議会へ行われていたことも、後の捜査で明らかになる。

そして1986年、秘密支援網は新しい資金源を得た。

イランへの武器売却代金である。

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第3回 武器はどうイランへ渡ったのか|イスラエル経由から米国直接取引まで

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第5回 武器代金はどうコントラへ流れたのか|資金流用と「Enterprise」の仕組み

CASE FILE 43|全記事

  1. 第1回 イラン・コントラ事件とは?|武器売却とコントラ支援が結びついた秘密工作の全貌
  2. 第2回 なぜイランへ武器を売ったのか|レバノン人質問題と「イラン・イニシアチブ」
  3. 第3回 武器はどうイランへ渡ったのか|イスラエル経由から米国直接取引まで
  4. 第4回 なぜコントラ支援は秘密化したのか|ボランド修正と議会統制[現在の記事]
  5. 第5回 武器代金はどうコントラへ流れたのか|資金流用と「Enterprise」の仕組み
  6. 第6回 誰が秘密作戦を動かしたのか|オリバー・ノース、ポインデクスターとNSCの実働化
  7. 第7回 イラン・コントラ事件はどう発覚したのか|1986年11月、秘密工作が表に出るまで
  8. 第8回 調査は何を突き止めたのか|タワー委員会と1987年議会公聴会
  9. 第9回 刑事責任はどう裁かれたのか|ウォルシュ独立検察官、逆転判決、そして恩赦
  10. 第10回 レーガンはどこまで知っていたのか|確定事実・争点・イラン・コントラ事件が残したもの

出典・参考資料

  • Lawrence E. Walsh, Final Report of the Independent Counsel for Iran/Contra Matters, Part I: Iran/Contra — The Underlying Facts.

    ボランド修正、1983年の2,400万ドル上限、サウジアラビアからの資金、ノースのコントラ支援活動、NHAO、議会照会などの主要事実確認に使用。
  • Lawrence E. Walsh, Final Report of the Independent Counsel for Iran/Contra Matters, Part III: The Operational Conspiracy — A Legal Analysis.

    1984~1986年のボランド条項、NSCへの適用をめぐる法的論点、秘密補給網と議会への説明について確認。
  • Lawrence E. Walsh, Final Report, Chapter 1: United States v. Robert C. McFarlane.

    レーガン政権の「コントラを存続させる」政策、マクファーレンとノースの役割、議会への回答について確認。
  • U.S. Department of State, Office of the Historian, Central America, 1981–1993.

    サンディニスタ政権、CIAによるコントラ支援、最初のボランド修正、1985年の2,700万ドル人道支援、1986年の1億ドル支援再開について確認。
  • U.S. Congress, Report of the Congressional Committees Investigating the Iran-Contra Affair, 1987.

    議会の予算統制、NSCスタッフの活動、ボランド修正の適用と秘密コントラ支援に関する議会側の調査・評価を参照。

本記事では「ボランド修正」を単一の法律として扱わず、1982~1986年に成立した複数の歳出・情報関連条項を区別しています。また、NSCスタッフへの適用範囲には当時から法的論争があったため、「ノースがボランド修正そのものの罪で有罪になった」といった単純化はしていません。議会による資金制限、政府外資金による支援、NSC・CIA関係者の実際の活動、議会への説明をそれぞれ分けて記述しています。

武器代金はどうコントラへ流れたのか|資金流用と「Enterprise」の仕組み

政治スキャンダル・秘密工作

1986年2月、イランへの秘密武器取引に1,000発のTOW対戦車ミサイルが用意された。

イラン側との合意価格は、1発あたり1万ドル。
1,000発なら1,000万ドルになる。

ところが、アメリカ国防総省が設定した価格は1発3,700ドルだった。
CIAを経由して米政府へ支払われた兵器代は370万ドル。
輸送などの直接経費を差し引いても、取引を仲介した秘密ネットワークには約560万ドルもの余剰が残った。

通常の政府間武器売却であれば、政府所有の兵器を高く売ったことで生じた金の行方は公的な会計の中で処理される。

しかし、この取引ではそうならなかった。

イラン側からの支払いは、退役空軍少将リチャード・セコードと実業家アルバート・ハキムらが管理するスイスの銀行口座へ入った。
そこからCIAへ兵器代が支払われ、残った金は同じ秘密ネットワークの中に留まった。

しかも、その口座にはイラン武器取引の金だけが入っていたわけではない。
外国政府からのコントラ支援金、民間寄付、コントラへの武器販売代金なども混ざっていた。

そして、その資金から再びコントラ用の武器、航空機、輸送費、秘密補給作戦の費用が支払われていった。

これがイラン・コントラ事件の名前を文字どおり一つにつないだ「資金流用(diversion)」である。

「Enterprise」とは会社1社の名前ではない

イラン・コントラ事件の資金を追うと、公式調査報告に何度も「Enterprise」という言葉が出てくる。

ここでいうEnterpriseは、一つの会社の正式名称ではない。

セコードとハキムを中心に形成された、企業、銀行口座、武器調達、航空輸送、人員などを組み合わせた秘密の事業ネットワーク全体を、後の捜査でこう呼んでいる。

二人は1983年にStanford Technology Trading Group International(STTGI)を設立していた。
ハキムが会長、セコードが社長を務め、スイスを中心に複数の法人や銀行口座が形成されていく。

ただし、このネットワークが最初からイラン武器取引のために作られたわけではない。

先に関わっていたのは、コントラへの武器供給だった。

1984年秋、オリバー・ノースはセコードをコントラ指導者アドルフォ・カレロへ紹介する。
サウジアラビアなどから提供された資金を使い、政府の通常経路とは別に武器を調達するためだった。

Enterpriseはまずコントラ用兵器を販売するネットワークとして拡大し、その後1986年の対イラン武器取引にも組み込まれたのである。

コントラへの武器販売でも利益を取っていた

Enterpriseは慈善的な補給組織ではなかった。

1984年末から1985年にかけて行われたコントラ向け武器販売では、仕入価格に上乗せした金額で兵器を販売し、利益がセコード、ハキム、元CIA職員トーマス・クラインズらへ分配されていた。

ウォルシュ独立検察官の最終報告によれば、最初の武器取引ではコントラ側が約230万ドルを支払い、約72万ドルの利益が発生した。

次の取引では利益は約150万ドルに達した。
セコードとハキムにそれぞれ40%、クラインズに20%という形で利益が配分された。

つまりイラン武器取引以前から、

資金を集める → 武器を安く仕入れる → 上乗せしてコントラ側へ売る → 差額をネットワーク内で分配する

という商取引的な仕組みが存在していた。

この仕組みに1986年、はるかに大きな金額を扱うイラン向け米国製兵器の取引が入ってくる。

なぜスイスの銀行口座が使われたのか

Enterpriseの金融管理の中心はスイスに置かれていた。

ハキムと長く取引していた米国人税務弁護士ウィラード・ザッカーが、ジュネーブのCompagnie de Services Fiduciaire(CSF)を通じて資金管理を担当した。

CSFは単なる銀行ではない。

口座間の送金、現金支払い、会社設立、資金運用、為替取引、帳簿管理などを行い、Enterpriseの金融面を実質的に支えていた。

さらに、セコードとハキムは複数の法人と銀行口座を使用した。

代表的な受入口座には、

  • Energy Resources International
  • Lake Resources
  • Hyde Park Square Corporation

などがあった。

ウォルシュ報告によれば、イランとコントラの活動からEnterpriseのスイス口座へ流入した総額は4,760万ドルを超える

このうちLake Resourcesだけで約3,150万ドルを受け入れている。

問題は、口座ごとに「イラン用」「コントラ用」と完全に分離されていなかったことだった。

Lake Resources――二つの作戦の金が混ざった口座

Lake Resourcesは1985年夏に作られた。

それまでコントラ向け武器取引の金を受け取っていたEnergy Resourcesから資金を移し、以後はさまざまな入金をLake Resourcesへ集めるようになる。

ウォルシュ独立検察官は、この状態を「commingled」――資金が混合されていたと説明している。

例えばLake Resourcesには、

  • 外国政府や民間からのコントラ支援資金
  • コントラ向け兵器取引の代金
  • イラン向け武器売却の代金
  • イスラエルへの兵器補充に伴う支払い

などが入った。

そこから、

  • 米政府への武器代金
  • コントラ用兵器購入
  • 航空補給作戦
  • 船舶・航空機の購入や運用
  • セコードやハキムらへの利益分配

が支払われる。

その結果、「この1ドルはイラン武器売却から来た」「この1ドルはサウジの寄付から来た」と完全に追跡することが難しくなった。

この資金混合こそ、後に独立検察官が「イランからコントラへ正確にいくら流れたのか」を算定する際の最大の障害になった。

1986年2月――1,000発のTOWで1,000万ドルが入った

金の流れが大きく変わったのは、1986年にアメリカ政府が供給主体となってからだった。

1月、ノースとセコードはイラン側との交渉で、TOW対戦車ミサイルを1発1万ドルで販売する条件を設定した。

計画では4,000発を総額4,000万ドルで売却する。
まず1,000発を1,000万ドルで送り、成功すれば残り3,000発を3,000万ドルで売る構想だった。

一方、国防総省からCIAへ販売する政府側価格は、1発3,700ドルと設定された。

つまり最初の1,000発では、

項目 金額
イラン側との契約額 1,000万ドル
米政府へ支払った兵器代 370万ドル
輸送などの直接経費 約71万6,000ドル
Enterprise側に残った余剰 約560万ドル

という大きな価格差が生じた。

2月7日から18日にかけて、アドナン・カショギらが用意した1,000万ドルがLake Resourcesへ入金された。
そのうち370万ドルがCIAの口座へ送られ、米政府の兵器代として処理された。

残りはEnterprise側に残った。

FACT CHECK|「アメリカ政府がTOWを1万ドルでイランへ売った」のか

厳密には違う。

イラン側との取引価格を1発1万ドルに設定したのは、秘密取引を運用していたノースとセコード側だった。
一方、国防総省がCIAを介して設定した政府側価格は1発3,700ドルだった。

したがって、1万ドル全額がアメリカ財務省へ入ったわけではない。
その価格差がEnterprise側に大きな余剰を発生させた。

ノースはCIAと国防総省へ違う価格を伝えていた

この取引では、価格差が偶然生まれたわけではない。

ウォルシュ報告によれば、ノースは国防総省やCIAに対し、セコード側がTOWを1発6,000ドル、計600万ドルで販売すると説明していた。

実際にイラン側との間で設定されていた価格は1発1万ドル、計1,000万ドルだった。

つまり政府機関側へ伝えられた数字と、実際の取引価格の間にも400万ドルの差があったことになる。

さらに、ゴルバニファルら仲介者がイラン側へ独自の手数料を加える場合もあり、最終的にイラン側が負担した額がEnterpriseの設定価格より高くなることもあった。

秘密取引の参加者ごとに異なる価格が存在していたため、政府内部から取引全体の利益を把握することは難しかった。

もし4,000発すべてを売っていたら

最初の1,000発で約560万ドルの余剰が生じた。

当初の計画どおり残る3,000発も同じ条件で販売されていれば、Enterprise側に残る余剰はさらに巨大になっていた。

ウォルシュ独立検察官は、4,000発すべてが同条件で売却されていた場合、輸送などの経費を差し引いた後でも約2,200万ドルがEnterprise側へ残る計算だったと指摘している。

実際には残り3,000発の計画は実現しなかった。

しかし最初の取引だけでも、コントラ秘密支援を継続するには十分大きな資金がネットワーク内へ入った。

5月のHAWK部品ではさらに大きな価格差が生じた

1986年春、ノースはイラン向けHAWK地対空ミサイルのスペアパーツ取引を進めた。
同時に、1985年にイスラエルがイランへ送ったTOWを補充するため、イスラエル向け508発のTOW取引も行われた。

これら二つの取引に関連して、イラン側とイスラエル側からLake Resourcesへ入金された額は合計1,668万5,000ドルだった。

ところが、そのうちアメリカ政府へ支払われたのは約650万ドル。
輸送などの経費は約100万ドルだった。

差し引くと、Enterprise側には約920万ドルの余剰が残った。

特にHAWK部品では価格差が大きかった。

CIA側が設定した価格は約433万7,000ドルだったが、ノースはゴルバニファルへ提示する金額をその約3.7倍に設定していた。

6月、イラン側がアメリカ政府の実際の価格表を入手すると、自分たちが非常に高い価格を提示されていたことに気づき、追加支払いを拒否する。

秘密外交が価格問題でも行き詰まった理由の一つだった。

では、その余剰は誰の金だったのか

ここが資金問題の核心である。

Enterprise側は、自分たちが秘密取引を実行する代理人であり、価格差には輸送、危険負担、手数料などが含まれるという考え方を取っていた。

しかしウォルシュ独立検察官は、1986年の米国製兵器取引について別の見方を示した。

Enterpriseは自ら所有する兵器を仕入れて転売していたのではない。

兵器の所有者はアメリカ政府だった。
Enterpriseは大統領が承認した秘密活動を実行するための代理人・フロントとして行動していた、と独立検察官は整理した。

この前提に立てば、政府所有物を売却して発生した巨額の差額を、代理人側が自由な「利益」として保持できるのかという問題が生じる。

ウォルシュ報告は、ここを単なる高額な仲介手数料ではなく、米政府に帰属すべき資金の不正な流用として強く問題視している。

資金はコントラへどう流れたのか

「イラン側が送金した翌日に、その同じ札束をノースがコントラへ渡した」という単純な流れではない。

Lake Resourcesなどの口座では複数の資金源が混ざっていた。

その口座から、コントラ関連では、

  • 武器・弾薬購入
  • 航空機の取得
  • 航空機の運航・整備
  • パイロットや要員の費用
  • エルサルバドル・イロパンゴを拠点とした秘密補給
  • 船舶による武器輸送
  • その他のコントラ関連経費

が支払われていた。

1986年2月以降、Enterpriseが支出したコントラ関連費用を独立検察官が保守的に積算すると約670万ドルだった。

一方、同じ期間に「コントラのため」と明確に指定してEnterpriseへ入った資金は約310万ドルだった。

差額は360万ドル。

この部分について独立検察官は、イラン武器売却収入からコントラへ流用されたことを裁判で立証可能な額として算定した。

「360万ドル」が公式に確認された流用額

したがって、イランからコントラへ流れた資金について最も慎重な表現をするなら、

少なくとも360万ドル

となる。

ただし独立検察官自身が、実際の流用額はそれより多かった可能性が高いとしている。

360万ドルの計算には、裁判で十分な立証が難しかった一部の支出を含めていない。

例としてウォルシュ報告は、

  • コントラ関係者の移動用に取得された約20万ドルのJetStar航空機
  • 武器商人モンゼル・アル=カサールからの約50万ドルの武器購入
  • 貨物船Erriaの取得・運航・保険など約53万5,000ドル

などを挙げている。

これらを含めれば、流用額はさらに少なくとも約110万ドル増える可能性があると独立検察官は判断した。

つまり、

区分 金額
裁判で立証可能と算定された流用 360万ドル
追加でコントラ関連とみられた支出 少なくとも約110万ドル
実際の流用額 正確な確定は困難

FACT CHECK|「イラン武器代金1,600万ドルがコントラへ流れた」のか

違う。この二つの数字は分ける必要がある。

ウォルシュ独立検察官が裁判で立証可能とした「イラン武器売却収入からコントラへ流れた額」は360万ドルだった。
実際にはそれより多かった可能性があるとしているが、正確な額は資金混合のため確定できなかった。

一方の約1,600万ドルは、1986年のイラン向け武器販売とイスラエルへの補充取引について、Enterpriseが米政府へ支払わず自らの用途に保持・流用したと独立検察官が算定した、より広い金額である。

その1,600万ドルすべてがコントラへ渡ったわけではない。
Enterprise自身の支出や関係者への利益・投資なども含まれるため、両者を同じ「コントラ流用額」として扱うのは誤りである。

約1,600万ドル――もう一つの巨大な資金問題

では、なぜ1,600万ドルという数字が出てくるのか。

ウォルシュ独立検察官は、1986年に行われた米国製兵器のイラン販売とイスラエルへの補充取引をまとめて分析した。

その計算では、

項目 金額
イラン・イスラエル側へ請求した米国製兵器関連額 約3,030万ドル
米政府へ実際に支払われた額 約1,220万ドル
Enterprise側の直接経費 約210万ドル
米政府に帰属すべきと独立検察官が算定した残額 約1,600万ドル

ウォルシュ報告は、この約1,600万ドルについて、Enterpriseが政府資産の売却から生じた資金を自らの用途へ違法に流用したと結論づけた。

しかし繰り返しになるが、その全額がコントラへ使われたわけではない。

コントラへの武器・輸送費以外にも、Enterprise関係者への利益分配、事業投資、現金支払いなどに資金が使われていた。

セコードとハキム自身も利益を得ていた

Enterpriseの問題を「国家目的のためにすべての資金を使った秘密組織」と考えるのも正確ではない。

ウォルシュ独立検察官は、セコードとハキム自身が1985~1986年に相当額の経済的利益を得ていたことを確認している。

コントラ向け武器販売の利益配分だけでも、両者はそれぞれ約156万ドルを受け取ったと算定された。

さらにEnterprise資金は、二人が関与する別の事業投資や個人的な現金引き出しにも使用された。

セコードについては1985~1986年に約200万ドルの直接的利益と100万ドルを超える現金支払い、ハキムについても約206万ドルの直接的利益と55万ドルを超える現金支払いが記録されている。

このすべてがイラン武器取引の利益だったという意味ではない。
コントラ武器販売など複数の資金源が混ざっている。

だからこそ、Enterpriseを単なる「政府の秘密作戦部門」とみなすこともできない。

公的政策、秘密工作、民間事業、個人的利益が、同じ金融ネットワークの中に存在していた。

利益を見えにくくするための「Defex S.A.」

資金の流れを追うと、意図的に利益を分かりにくくする仕組みも見つかる。

コントラ用兵器の実際の仕入先の一つに、ポルトガルの武器会社Defexがあった。

ところが1985年、セコードとハキム側はリベリア法人Defex S.A.を別に設立した。

名前がよく似ているが、ポルトガルの実在の武器供給会社とは別組織である。

目的の一つは、Enterpriseがコントラへ兵器を高く販売して得ていた差額を見えにくくすることだった。

帳簿上では「Defexへの支払い」が並ぶため、外から見れば武器会社への仕入代金のように見える。

実際には、その一部がEnterprise側の利益を移すための口座だった。

ウォルシュ捜査では、この仕組みを説明する当時の内部メモも発見されている。

秘密性が必要だったのは作戦内容だけではない。
利益そのものも見えにくくされていたのである。

10月の500発でも約146万ドルが残った

1986年10月、イランへ最後の主要なTOW取引が行われた。

今度は500発。

アメリカ政府側の価格は1発3,469ドルに輸送費等を加えた額だった。

一方、Enterpriseはイラン側へ1発7,200ドルで販売した。

イラン側が支払った額は360万ドル。
この金は10月29日、Hyde Park Square Corporation名義のEnterprise口座へ入った。

そこからCIAへ支払われた兵器代は約203万7,000ドル。
Enterpriseの直接経費は20万ドル未満だった。

結果として約146万3,000ドルの余剰が残った。

秘密武器取引が1986年秋まで、大きな現金を生み出す仕組みとして機能していたことが分かる。

なぜ正確な「イラン→コントラ」の送金記録がないのか

イラン・コントラ事件という名称から、

イラン → 専用口座 → コントラ

という一本の銀行送金記録が存在するように思えるかもしれない。

実際は違う。

Enterpriseでは複数の資金源をLake Resourcesなどへまとめて入れ、同じ口座からさまざまな支出を行っていた。

例えるなら、

10万円のイラン資金、5万円の外国政府資金、3万円の民間寄付を同じ財布へ入れ、そこから8万円分のコントラ用物資を購入するような状態である。

支払った8万円のうち「何円が最初の10万円だったのか」を、紙幣単位で区別することはできない。

そのため独立検察官は、入金元と支出先を総額で比較して流用額を算定した。

コントラ関連支出が670万ドル。
コントラ用として明確に入金された資金が310万ドル。

不足する360万ドルは、同じ口座に存在していたイラン武器取引収入から補われたと立証できる――という方法である。

誰が「流用」を考えたのか

資金流用のアイデアが、いつ、誰によって最初に提案されたのかについては、証言が完全には一致していない。

ノースは後の証言で、イスラエル側のアミラム・ニールとゴルバニファルから資金流用案が出たと説明した。
その時期についても1985年12月、1986年1月、あるいは2月と一定していない。

一方、イスラエル側の記録では、1985年12月6日にニューヨークで行われた会合で、ノースが武器売却資金をコントラへ回す意向を話していたとされる。

セコードは捜査に対し、ノースからイラン側活動の資金をコントラ側へ送るよう強く求められたと説明した。

ただしセコード自身は、それを「diversion=流用」とは考えず、自分が運営する一つの活動から別の活動へ金を移しただけだという趣旨の説明をしている。

つまり、

資金が実際にコントラ支援へ使われたこと

と、

最初に誰がその発想を出したのか

は証拠の強さが異なる。

FACT CHECK|レーガン大統領は資金流用を承認したのか

承認したことを立証する証拠は確認されていない。

レーガン大統領がイランへの武器売却を承認していたことと、コントラ支援を政治的に強く支持していたことは別の資料から確認できる。

しかし「イラン武器取引の利益をコントラへ回す」という具体的な資金流用について、大統領自身が事前に知り、承認したことを独立検察官が立証したわけではない。

この「政策そのものの承認」と「資金流用の認識」は分けて考える必要がある。
大統領の認識については第10回で資料ごとに詳しく検証する。

なぜ資金流用がこれほど重大だったのか

360万ドルという金額だけを見れば、冷戦期のアメリカ政府予算全体からすると巨大とはいえない。

しかし問題の本質は金額ではない。

議会はコントラへの軍事支援に予算上の制限を設けていた。

その一方で大統領の秘密外交によって政府所有の武器をイランへ売却し、通常の政府会計へ入らない価格差を作り、その一部を議会が制限していた別の政策へ使用した。

これが事実なら、議会の「予算を認める・認めない」という権限を、政府外の金融システムによって迂回できることになる。

さらにEnterpriseには外国政府、私人、政府職員、CIA関係者、秘密口座が同時に関わっていた。

誰が公務員で、誰が民間人なのか。
誰の金で、誰の兵器なのか。
利益は政府のものなのか、仲介者のものなのか。
誰が誰に報告するのか。

その境界が曖昧になっていた。

イラン・コントラ事件が単なる「秘密の武器売買事件」で終わらなかった理由はここにある。

1986年11月、資金の流れが発見される

1986年11月初め、『Al-Shiraa』報道によってイランへの秘密武器取引が公になる。

しかし、その時点ではコントラへの資金流用はまだ公表されていなかった。

ホワイトハウス内でエドウィン・ミース司法長官らが事実関係を調査する中、ノースのNSCファイルから資金流用を示す文書が見つかる。

11月25日、ミースは記者会見を開いた。

イランへの武器売却代金の一部が、コントラ支援へ流されていた。

この発表によって、それまで「イランへの秘密武器取引」として報じられていた問題が、初めてIran-Contraへ変わった。

同じ日、ジョン・ポインデクスター国家安全保障担当大統領補佐官は辞任し、オリバー・ノースはNSCスタッフから解任された。

秘密だった金融ネットワークは、その後議会、司法省、独立検察官によって解体されながら調べられていく。

事件発覚後、スイス口座には約780万ドル残っていた

1986年末、アメリカ政府の要請を受けてスイス当局はEnterprise関係口座を凍結した。

ウォルシュ報告によれば、21の企業・投資口座のうち16口座に、合計約781万ドルが残っていた。

それ以外の金はすでに、

  • 米政府への兵器代
  • コントラ支援
  • 武器購入
  • 航空・海上輸送
  • 関係者への利益配分
  • その他の投資・支出

などへ動いていた。

捜査は銀行記録、企業帳簿、送金記録、当事者証言を照合しながら、この資金を逆方向へたどる作業になった。

数字で見る「Enterprise」の全体像

ウォルシュ独立検察官が再構成した数字をまとめると、この秘密ネットワークの規模が見えやすい。

項目 確認された概算額
イラン・コントラ活動からEnterpriseスイス口座へ流入 4,760万ドル超
CIA口座へ送り、米国防総省の兵器代となった額 約1,220万ドル
コントラ武器・関連経費への支出 約1,760万ドル
裁判で立証可能とされたイラン収益→コントラ流用 少なくとも360万ドル
米政府に帰属すべきと独立検察官が算定した額 約1,600万ドル
1986年末の口座凍結時残高 約781万ドル

これを見ると、「イランから360万ドルを受け取ってコントラへ渡した」だけの事件ではないことが分かる。

数千万ドル規模の資金が、政府外の法人と銀行口座を通過し、複数の国家政策、武器取引、民間事業、個人利益の間で動いていた。

まとめ|二つの秘密作戦をつないだのは「同じ財布」だった

イランへの武器売却とニカラグアのコントラ支援は、最初から一つの作戦だったわけではない。

しかし1986年、両者は同じ金融ネットワークへ入った。

イラン側は米国製兵器に高い価格を支払う。
その金はLake ResourcesなどEnterpriseのスイス口座へ入る。
そこからCIAへ政府側の兵器価格が支払われる。

残った巨額の余剰は、政府の通常会計へ入らずEnterprise内に残った。

そして同じ口座から、コントラ用武器、航空輸送、補給作戦などの費用が支払われた。

資金が混合されていたため正確な額は確定できないが、ウォルシュ独立検察官は少なくとも360万ドルについて、イラン武器売却収入からコントラへ流れたことを裁判で立証可能と算定した。

重要なのは、その360万ドルだけではない。

政府所有の兵器を秘密裏に販売し、政府へ戻す価格と最終販売価格の間に意図的な余剰を作り、その金を政府外の金融ネットワークが管理できる構造そのものだった。

こうして議会の通常予算から切り離された、独自の資金・兵器・航空輸送網が成立した。

では、誰がこのシステムを実際に動かしていたのか。

次回はオリバー・ノースとジョン・ポインデクスターを中心に、本来は政策を調整するはずのNSCスタッフが、なぜ武器、銀行口座、人質交渉、コントラ補給まで扱う「実働組織」に近づいていったのかを追う。

前の記事:

第4回 なぜコントラ支援は秘密化したのか|ボランド修正と議会統制

次の記事:

第6回 誰が秘密作戦を動かしたのか|オリバー・ノース、ポインデクスターとNSCの実働化

CASE FILE 43|全記事

  1. 第1回 イラン・コントラ事件とは?|武器売却とコントラ支援が結びついた秘密工作の全貌
  2. 第2回 なぜイランへ武器を売ったのか|レバノン人質問題と「イラン・イニシアチブ」
  3. 第3回 武器はどうイランへ渡ったのか|イスラエル経由から米国直接取引まで
  4. 第4回 なぜコントラ支援は秘密化したのか|ボランド修正と議会統制
  5. 第5回 武器代金はどうコントラへ流れたのか|資金流用と「Enterprise」の仕組み[現在の記事]
  6. 第6回 誰が秘密作戦を動かしたのか|オリバー・ノース、ポインデクスターとNSCの実働化
  7. 第7回 イラン・コントラ事件はどう発覚したのか|1986年11月、秘密工作が表に出るまで
  8. 第8回 調査は何を突き止めたのか|タワー委員会と1987年議会公聴会
  9. 第9回 刑事責任はどう裁かれたのか|ウォルシュ独立検察官、逆転判決、そして恩赦
  10. 第10回 レーガンはどこまで知っていたのか|確定事実・争点・イラン・コントラ事件が残したもの

出典・参考資料

本記事では、ウォルシュ独立検察官最終報告を中心に、イラン向け兵器の販売額、米政府へ支払われた額、Enterpriseに残った余剰、コントラ関連支出を区別しています。特に「360万ドル」は裁判で立証可能と算定されたコントラへの最低流用額であり、「約1,600万ドル」は独立検察官が米政府に帰属すべきと判断したより広い資金額です。両者を同じ「コントラ流用額」として扱っていません。

誰が秘密作戦を動かしたのか|オリバー・ノース、ポインデクスターとNSCの実働化

政治スキャンダル・秘密工作

1986年2月18日、500発のTOW対戦車ミサイルがイランへ向けて動き始めた。

兵器はアメリカ陸軍からCIAへ渡され、そこから退役空軍少将リチャード・セコードのネットワークへ移された。
輸送には民間航空会社が使われ、代金はスイスの秘密口座で処理された。

その仕組みの中心にいたのは、CIA長官でも国務長官でも国防長官でもなかった。

ホワイトハウスの国家安全保障会議(NSC)スタッフ、海兵隊中佐オリバー・ノースだった。

ノースはイランとの武器取引を調整しながら、同時にニカラグアのコントラへの資金調達、武器購入、航空補給、外国政府との連絡にも関与していた。

なぜ一人のNSCスタッフが、外交交渉から兵器輸送、秘密銀行口座、反政府武装勢力への補給まで扱うことができたのか。

第6回では人物の善悪ではなく、本来は政策を調整する組織だったNSCが、なぜ秘密作戦を実際に動かす場所へ変わったのかを追う。

NSCは本来「秘密作戦部隊」ではない

国家安全保障会議(National Security Council:NSC)は、外交・防衛・情報など国家安全保障に関する政策を大統領の下で調整するための仕組みである。

大統領、国務長官、国防長官などが参加する国家安全保障会議そのものと、それを支えるホワイトハウスのNSCスタッフは区別する必要がある。

NSCスタッフの重要な役割は、大統領へ政策案を提示し、国務省、国防総省、CIAなど複数の政府機関の間を調整することだった。

つまり、

政策を調整するNSC

と、

外交を実施する国務省、軍事を担う国防総省、秘密工作を実施するCIA

は、本来同じ役割ではない。

イラン・コントラ事件では、この境界が崩れた。

NSCスタッフ自身が、武器、資金、輸送、外国政府、民間人、人質交渉を結ぶ実務の中心へ入っていったからである。

オリバー・ノースはNSCで何をしていたのか

オリバー・ノースは海兵隊中佐で、1981年からNSCスタッフに勤務していた。

事件当時の肩書は、NSCスタッフの政治・軍事問題担当副部長(Deputy Director of Political-Military Affairs)
大統領直属の閣僚ではなく、ホワイトハウス内部で国家安全保障政策を扱うスタッフの一人だった。

しかし1984年以降、その仕事は通常の政策スタッフの範囲から大きく広がる。

コントラへのCIA支援が議会のボランド修正によって制約されると、ノースはコントラを存続させるための政府外支援ルートへ深く関わるようになった。

後の刑事裁判でノースは、自分に与えられた任務について、CIAが行っていた活動を自分が代わって行うものだと理解していた、と証言している。

そしてその活動を周囲に知られないよう、非常に秘密に扱うよう指示されたとも述べた。

ウォルシュ独立検察官は、ノースを

コントラへの秘密支援、イランへの武器販売、イラン武器売却収益のコントラへの流用に最も直接関与したホワイトハウス職員

と位置づけている。

ノースの上司――ロバート・マクファーレン

ノースが独断で国家安全保障政策を動かしていたわけではない。

1983年10月から1985年12月まで国家安全保障担当大統領補佐官を務めたのがロバート・“バド”・マクファーレンだった。

マクファーレンは大統領とNSCスタッフを結ぶ位置にあり、ノースの上司だった。

第4回で見たように、議会がコントラへの政府資金を制限すると、マクファーレンは外国政府から資金を集める方法を検討した。

サウジアラビアからの資金提供が実現すると、その資金を実際にコントラ側へ移す作業をノースへ担当させた。

また1985年の対イラン秘密接触でも、マクファーレンはイスラエル側との接触を進め、レーガン大統領へ提案を伝えた主要人物だった。

つまりノースが扱うことになる二つの問題、

  • コントラを政府予算外の資金で支える
  • イランとの秘密接触を進める

は、どちらも上司であるマクファーレンの政策活動と接続していた。

1985年末、ポインデクスターが上司になる

1985年12月、マクファーレンが国家安全保障担当大統領補佐官を辞任した。

後任となったのが海軍中将ジョン・ポインデクスターだった。

ポインデクスターはそれ以前からマクファーレンの副官を務めており、ノースの活動を知らない新任者が突然入ってきたわけではない。

国家安全保障担当大統領補佐官に就任すると、ポインデクスターはノースの直属上司として1986年のイラン・コントラ活動を監督する位置についた。

ウォルシュ独立検察官は後に、マクファーレンとポインデクスターによってノースへ与えられた権限が異例に大きかったことを、この事件を成立させた重要な条件の一つとして挙げている。

指揮関係を整理するとどうなるのか

イラン・コントラ事件を理解するとき、「ノースが誰の命令で動いていたのか」という問いは簡単ではない。

形式的なNSCの指揮系統を単純化すると、

時期 主な指揮関係
1985年 レーガン大統領 → マクファーレン → ノース
1986年 レーガン大統領 → ポインデクスター → ノース

となる。

しかし実際の活動では、これだけでは説明できない。

ノースはCIA長官ウィリアム・ケーシーとも直接接触していた。

ノース自身は後の証言で、自分の活動の多くについてマクファーレンまたはポインデクスターの許可を得ており、可能な場合にはケーシーの同意も得ていたと説明した。

さらにノースは、ケーシーから直接指示や助言を受けることがあったとも証言している。

したがって実際のネットワークは、

一本の垂直な指揮命令系統ではなく、NSCとCIA上層部、民間協力者が横方向にもつながる構造

だった。

FACT CHECK|ノースはレーガン大統領から直接命令を受けていたのか

それを一般化できる証拠はない。

ノースは、大統領が自分の活動を知り、支持していると考えていたと証言している。
しかしウォルシュ独立検察官は、ノースが大統領による具体的な承認を直接証明できなかったことも指摘している。

通常、ノースと大統領の間にはマクファーレンまたはポインデクスターがいた。
また両国家安全保障担当補佐官は、一部の実務詳細について意図的に大統領へ伝えなかった、あるいは知らなかったと説明している。

したがって「レーガンがノースへ直接すべてを命令した」とするのも、「ノースが完全に独断で動いた」とするのも、どちらも証拠関係を単純化しすぎる。

CIA長官ケーシーはどこにいたのか

ウィリアム・ケーシーCIA長官は、イラン・コントラ事件の構造を理解するうえで重要な人物である。

CIAはボランド修正によってコントラへの軍事支援を制限されていた。
それでもケーシー自身はコントラ支援政策を強く支持していた。

ノースの後の証言によれば、1984年にケーシーは彼を中米のCIA幹部らへ紹介し、外国から集めたコントラ支援資金を管理する秘密口座を作ることも勧めた。

さらに1986年のイラン武器取引では、ケーシーとCIA法律顧問スタンリー・スポーキンが1月17日の大統領Finding作成に関わった。

その仕組みでは、

米陸軍 → CIA → セコード → イラン側

という兵器移転経路が作られた。

セコードは大統領Finding上では表に名前を出さない第三者として使われ、実際の輸送・金融を担った。

ただし、ここでも「CIAが全部の作戦を指揮していた」と理解すると違う。

1986年の対イラン活動では、ノースがセコードらの民間ネットワークを直接管理する場面が多く、CIAは兵器調達や一部の輸送・支援を担当する位置にあった。

セコードとハキム――政府の外側に作られた実働部門

ノース一人で武器を購入し、航空機を飛ばし、銀行口座を管理することはできない。

その実働部分を担ったのが、リチャード・セコードとアルバート・ハキムを中心とするEnterpriseだった。

第5回で見たように、Enterpriseは複数の法人、スイス銀行口座、航空機、船舶、武器調達先を管理していた。

コントラ側では、

  • 武器・弾薬の調達
  • 航空機の取得
  • イロパンゴ空軍基地からの補給飛行
  • 航空要員の手配
  • 資金管理

を行った。

イラン側では、

  • イラン側からの代金受領
  • CIAへの兵器代支払い
  • 航空輸送
  • HAWK関連部品の処理
  • 仲介者との決済

を担った。

ノースはこのネットワークとホワイトハウスを結ぶ位置にいた。

「政府の外にCIAの代用品を作る」

この仕組みについて、ノースは後の裁判で非常に象徴的な説明をしている。

彼によれば、CIAによるコントラ支援が止められた後、ノースとセコードらは政府の外側に、以前CIAが行っていた活動と似た機能を持つネットワークを構築した。

その意味を機能で比較すると分かりやすい。

必要な機能 通常の秘密工作 秘密支援ネットワーク
政策指示 大統領・NSC ホワイトハウス/NSC
実務調整 CIA ノース
武器調達 CIA等の政府経路 セコードら民間ネットワーク
資金 議会承認済み政府予算 外国政府・民間寄付・秘密武器取引収益
銀行管理 政府会計 スイスの民間口座
輸送 政府・契約航空網 民間航空機・秘密拠点
議会監督 情報委員会等 通常経路から大きく外れる

実際にはCIA職員も複数の局面で関与していたため、完全に政府から独立した民間活動だったわけではない。

むしろ問題は、政府活動と民間活動の境界そのものが曖昧だったことにある。

なぜNSCで秘密作戦を動かすことが問題だったのか

秘密作戦そのものが異常だったわけではない。

アメリカ政府は歴史的に、国家安全保障上必要と判断した秘密活動をCIAなどを通じて実施してきた。

重要なのは、そのために制度が存在することである。

CIAであれば、

  • 指揮命令系統
  • 法律顧問
  • 財務・会計
  • 作戦記録
  • 監察
  • 議会の情報委員会への報告

など、秘密活動を実施することを前提とした制度がある。

NSCスタッフには同じ仕組みがなかった。

ウォルシュ独立検察官は、NSCから秘密作戦を実施するという判断について、そこには作戦実施のための制度的枠組みも、十分な説明責任・監督の仕組みもなかったことを重大な問題として挙げている。

つまり「ホワイトハウスだから秘密作戦をしてはいけない」という単純な組織論ではない。

作戦を実行する組織として設計されていない場所へ、武器・資金・外交・情報活動を集中させたことで、通常のチェック機能も同時に外れていったことが問題だった。

ポインデクスターとノースだけが使う通信経路

秘密性は組織構造だけでなく、情報の流れにも表れていた。

NSCではコンピューター通信システムPROFSが使用されており、ポインデクスターとノースは電子メッセージで頻繁に連絡していた。

ポインデクスターはコンピューターに詳しく、二人の間には「Private Blank Check」と呼ばれる特別な通信チャンネルが設けられていた。

通常のルートでは、NSCスタッフ内の他の担当者が文書やメッセージを確認する場合がある。

Private Blank Checkでは、そのような通常の回覧を避けて、ポインデクスターとノースが直接メッセージをやり取りできた。

秘密作戦では情報を限定する必要がある。

しかし同時に、情報が少人数だけに集中すると、法律顧問、政策担当者、他省庁などが問題を発見する機会も減る。

NSC法律顧問さえ全体を把握していなかった

当時NSCで法律顧問を兼務していたのが海軍中佐ポール・トンプソンだった。

トンプソンはマクファーレン、後にはポインデクスターへ法的助言を提供する立場だった。
また国家安全保障担当補佐官へ向かう文書の多くも彼の周辺を通っていた。

それでも、ノースの秘密活動すべてがNSC法律顧問へ系統的に審査されていたわけではない。

イラン・コントラ事件では、重要な活動について他の政府機関の法律顧問が後から関与したり、秘密活動がすでに進行した後に法的根拠が検討されたりする場面が繰り返された。

1985年11月のHAWK輸送後に、大統領Findingを事後的に作成する問題が生じたことは、その代表例である。

機密性と「知る必要のある者だけ」の原則

国家安全保障上の秘密活動では、情報へのアクセスを「知る必要のある者」に限定すること自体は通常の手法である。

しかしイラン・コントラ事件では、その原則が別の効果も生んだ。

国務長官ジョージ・シュルツや国防長官キャスパー・ワインバーガーが政策へ反対していても、作戦の具体的な実施状況を必ずしも継続的に共有されない。

CIA内部でも、対イラン活動やコントラ支援の全体をすべての幹部が同じ程度把握していたわけではない。

NSC内部でも、ノースの活動内容を十分に知らないスタッフが存在した。

その結果、誰かが個別の問題に気づいても、二つの秘密活動を一つのシステムとして把握することが難しくなった。

1986年、内部からもノースの活動を懸念する声が出る

秘密性が高かったとはいえ、ノースの活動がまったく疑われなかったわけではない。

1986年になると、CIAからNSCへ出向し、米政府の秘密活動を監視する立場にあったビンセント・カニストラロらも、ノースの実働的な活動を懸念するようになった。

1986年6月、議会でコントラへの1億ドル支援再開が議論される中、報道ではノースと民間コントラ支援網との関係が再び取り上げられた。

カニストラロはポインデクスターへ、新しいコントラ支援は通常の秘密工作制度の中へ戻し、自分の担当下で正式に管理すべきだという趣旨の提案を送っている。

つまり政権内部にも、

このままNSCスタッフと民間ネットワークで運用するより、正規の政府システムへ戻すべきだ

という認識が生まれていた。

「大統領も知っている」という認識がネットワークを動かした

秘密組織を動かすには、金と武器だけでは足りない。

参加者が、

「これは本当にアメリカ政府の政策なのか」

と信じられる必要がある。

ノースと周辺関係者の活動では、大統領がコントラ支援や対イラン秘密接触を強く支持しているという認識が大きな力を持った。

外国政府、民間の協力者、CIA関係者、セコードらにとって、ホワイトハウスNSCスタッフから依頼が来ること自体が、活動に権威を与えた。

ウォルシュ独立検察官も、ノースとその協力者が「自分たちの活動は大統領に知られ、承認されている」という認識を広めたことで、周囲が協力しやすくなり、活動を疑問視しにくくなったことを事件成立の要因として挙げている。

しかし、

「大統領の政策目的と一致している」

ことと、

「具体的な一つ一つの秘密活動を大統領が承認している」

ことは同じではない。

この曖昧さが、後に「誰がどこまで知っていたのか」という巨大な争点になる。

ポインデクスターは大統領を「守る」ため詳細を知らせなかったと証言した

資金流用について特に重要なのが、ポインデクスターの説明である。

ポインデクスターは1987年の議会証言で、イラン武器売却収益をコントラへ回す計画について自分は知っており、承認したと証言した。

一方でレーガン大統領には知らせなかったと述べた。

その理由として、大統領を政治的な危険から隔離する意図があったという説明をしている。

仮にこの説明どおりなら、奇妙な構造になる。

大統領の政策を実現するために部下が活動する。
しかし、その活動の重要な詳細を大統領本人には知らせない。
その一方で外部の協力者には「大統領の政策として行っている」という権威が作用する。

この状態では、最終的に誰が責任を取るのかが極めて不明瞭になる。

FACT CHECK|ポインデクスターは資金流用を知らなかったのか

本人は知っており、承認したと証言している。

ポインデクスターは議会で、イラン向け武器売却収益をコントラへ回す考えについてノースから説明を受け、自分が承認したと述べた。

ただし、大統領へは報告しなかったと証言した。

したがって「ノースがポインデクスターにも秘密で独断流用した」という説明とは一致しない。一方で、大統領まで承認していたことがその証言によって証明されたわけでもない。

1986年11月――秘密作戦が崩れ始める

1986年11月3日、『Al-Shiraa』がアメリカとイランの秘密武器取引を報道すると、それまで少人数の中で動いていた活動を維持することが難しくなった。

議会、報道、政府内部から、誰が武器取引を承認し、いつCIAが関与したのかという質問が集中する。

この時期、ポインデクスターは政権側の説明をまとめる中心人物となった。

しかし、1985年のイスラエル経由のHAWK輸送などについて、実際の経緯と一致しない説明が議会へ行われたことが後の刑事事件で問題となる。

同時にノースとポインデクスターは、NSCコンピューター上の大量のメッセージを削除した。

ウォルシュ報告によれば、1986年11月22~29日にノースは736件、ポインデクスターは5,012件のメッセージを削除している。

しかし、ホワイトハウスの通信システムは事故によるデータ消失に備えてバックアップを保存していた。

11月15日以降のバックアップテープが保全されたため、捜査側は削除前に存在していた多数のメッセージを復元することができた。

秘密性を高めるために使われたコンピューター通信が、後には活動を再構成する重要な証拠となったのである。

文書の破棄と改変

問題は電子データだけではなかった。

事件が表面化した1986年11月、ノースとその秘書フォーン・ホールらは、イラン・コントラ活動に関する文書の廃棄、変更、持ち出しを行った。

NSCスタッフのロバート・アールも文書廃棄に関与し、後に捜査協力と引き換えに免責を受けて証言している。

ポインデクスターも、1985年11月のCIAによるHAWK輸送を事後的に承認する目的で作られた大統領Findingの署名済み原本を破棄した。

このため事件の調査は、秘密作戦そのものに加え、

発覚後に証拠をどのように扱ったのか

という別の問題へ広がった。

なぜ「ノースの暴走」で終わらせてはいけないのか

事件発覚後、ノースは最も目立つ人物となった。

1987年のテレビ中継された議会公聴会でも長時間証言し、イラン・コントラ事件を象徴する人物になった。

しかし、組織事故として見るなら「一人の中佐が勝手に暴走した」とする説明では不十分である。

ノースの活動が成立するには、

  • コントラを存続させるという大統領の政策
  • マクファーレンからの任務付与
  • ポインデクスターによる監督と承認
  • ケーシーらCIA上層部との連絡
  • セコード、ハキムら民間実働部門
  • 外国政府からの資金
  • 政府外銀行口座
  • 通常の政府組織を通さない秘密性

が必要だった。

一人の人物の能力だけでは、この規模の活動は成立しない。

タワー委員会が調べたのも「NSCの役割」だった

1986年11月25日、資金流用が公表されたその日、レーガン大統領は国家安全保障会議の運用を調査する特別調査委員会の設置を発表した。

後にジョン・タワー元上院議員を委員長とするタワー委員会となる。

この委員会の主題は、単に「ノースが何をしたか」ではなかった。

大統領令で与えられた任務には、

  • NSCスタッフの将来の役割
  • 外交・国家安全保障政策の調整方法
  • 極めて機密性の高い外交・軍事・情報作戦でNSCスタッフがどこまで実務を行うべきか
  • 大統領が定めた政策がNSCを通じてどのように実施されたか

の検証が含まれていた。

つまりホワイトハウス自身が、事件の原因を個人だけではなく、NSCというシステムの運用問題として調べる必要があると判断したのである。

事件後、NSCスタッフによる秘密工作は禁止された

タワー委員会は1987年2月26日に報告書を提出した。

その後レーガン政権はNSCの運用を改める。

1987年3月31日に出された国家安全保障決定指令NSDD-266では、事件後の改革内容が明文化された。

その中には、

NSCスタッフ自身が秘密工作を実施することを禁止する

という措置が含まれていた。

さらに秘密活動の法的・政策的審査、議会との協議、NSC内部の管理体制も見直された。

興味深いのは、タワー委員会が「NSC制度そのものを作り替えなければならない」と結論づけたわけではない点である。

レーガンは議会への報告で、問題は既存の制度構造そのものというより、適切に作られていた仕組みが適切に使われなかったことにあったと説明している。

つまり事故後の結論は、

「NSCという組織が不要だった」

ではなく、

「政策調整組織を秘密作戦の実働部隊として使うべきではない」

という方向だった。

組織図で見ると、なぜ統制が弱くなったのか

事件の構造を単純化すると、通常期待される形と実際の形の違いが見える。

通常想定される流れ イラン・コントラで形成された流れ
大統領が政策決定 大統領が政策目的を示す
NSCが各省庁を調整 NSC上層部からノースへ大きな裁量
担当省庁・CIAが実施 ノースがCIA・民間人・外国政府を横断して調整
政府予算・会計を利用 外国資金・民間資金・スイス口座を利用
省庁の法律・監察部門が確認 関与する政府組織ごとに把握範囲が分断
議会へ所定の監督情報を提供 秘密性と法解釈により議会との情報格差が拡大

一つ一つの要素だけを見れば、秘密外交、外国政府との接触、CIAの利用、民間業者との契約そのものが直ちに異常というわけではない。

問題は、それらを通常の組織境界を越えて一人のNSCスタッフ周辺へ集中させたことにあった。

FACT CHECK|「NSCがCIAを完全に乗っ取って秘密作戦をした」のか

そこまで単純ではない。

ノースとEnterpriseは、コントラ支援では従来CIAが行っていた機能の一部を政府外で代替した。
一方、CIA関係者も輸送、情報提供、イラン向け兵器調達など複数の局面で実際に関与している。

したがって「NSCだけの作戦」でも「CIAだけの作戦」でもない。
NSC、CIA、外国政府、民間ネットワークの間で通常の担当境界が崩れたことこそが、この事件の特徴だった。

まとめ|「誰が動かしたのか」の答えは一人ではない

イラン・コントラ事件で最も直接的に実務を動かした人物を一人挙げるなら、オリバー・ノースである。

コントラ資金調達。
武器購入。
秘密補給。
イランへの兵器販売。
人質交渉。
セコードら民間ネットワークとの連絡。
資金流用。

通常なら複数の政府組織へ分かれる仕事が、ノースの周辺へ集まった。

しかしそれを「一中佐の暴走」とだけ説明することもできない。

ノースの上にはマクファーレン、後にはポインデクスターがおり、CIA長官ケーシーとも直接連絡していた。
作戦の実働にはセコード、ハキム、外国政府、CIA関係者らが必要だった。

彼らを動かす背景には、レーガン政権の「コントラを存続させる」「イランとの秘密接触を継続する」という政策目的があった。

一方、具体的な資金流用や個別作戦の細部まで、どの上位者がどこまで知っていたのかは同じではない。

その曖昧さを可能にしたのが、NSCスタッフへ実務を集中させ、政府外ネットワークを利用し、情報共有を少人数へ限定した運用だった。

1987年の改革でNSCスタッフ自身による秘密工作が明確に禁止されたことは、この事件の組織的な問題がどこにあったと認識されたのかを象徴している。

そして1986年11月、この秘密システムは外側から突然崩れたわけではない。

ニカラグアではコントラ補給機が撃墜され、生存したアメリカ人が拘束された。
レバノンでは新聞報道によってマクファーレンのテヘラン訪問が暴露された。
ワシントンでは議会が説明を求め始めた。

それまで別々に見えていた断片が、急速につながり始める。

次回は1986年10~11月へ進む。

秘密だったイラン武器取引とコントラ補給網は、どのように外部から発見され、わずか数週間でホワイトハウスを揺るがす政治事件へ変わったのか。

前の記事:

第5回 武器代金はどうコントラへ流れたのか|資金流用と「Enterprise」の仕組み

次の記事:

第7回 イラン・コントラ事件はどう発覚したのか|1986年11月、秘密工作が表に出るまで

CASE FILE 43|全記事

  1. 第1回 イラン・コントラ事件とは?|武器売却とコントラ支援が結びついた秘密工作の全貌
  2. 第2回 なぜイランへ武器を売ったのか|レバノン人質問題と「イラン・イニシアチブ」
  3. 第3回 武器はどうイランへ渡ったのか|イスラエル経由から米国直接取引まで
  4. 第4回 なぜコントラ支援は秘密化したのか|ボランド修正と議会統制
  5. 第5回 武器代金はどうコントラへ流れたのか|資金流用と「Enterprise」の仕組み
  6. 第6回 誰が秘密作戦を動かしたのか|オリバー・ノース、ポインデクスターとNSCの実働化[現在の記事]
  7. 第7回 イラン・コントラ事件はどう発覚したのか|1986年11月、秘密工作が表に出るまで
  8. 第8回 調査は何を突き止めたのか|タワー委員会と1987年議会公聴会
  9. 第9回 刑事責任はどう裁かれたのか|ウォルシュ独立検察官、逆転判決、そして恩赦
  10. 第10回 レーガンはどこまで知っていたのか|確定事実・争点・イラン・コントラ事件が残したもの

出典・参考資料

本記事では、オリバー・ノースを「単独で暴走した人物」として描かず、ウォルシュ独立検察官報告、タワー委員会関係資料、事件後のNSC改革資料をもとに、マクファーレン、ポインデクスター、ケーシー、セコードらとの指揮・協力関係を分けて構成しています。ノースが大統領による承認を信じていたことと、レーガン大統領が個々の秘密活動・資金流用を具体的に認識していたことは同一視していません。

イラン・コントラ事件はどう発覚したのか|1986年11月、秘密工作が表に出るまで

政治スキャンダル・秘密工作

1986年10月5日、ニカラグア南部の上空で1機のC-123K輸送機が撃墜された。

機内には、ニカラグアの反政府勢力「コントラ」へ投下するための武器や軍需物資が積まれていた。
乗員のうち、アメリカ人ユージン・ハーゼンファスが生存し、ニカラグア政府軍に拘束された。

レーガン政権は、それまでコントラへの秘密軍事支援に政府が関与していることを否定していた。

ところが、撃墜された航空機を調べると、民間人だけの偶発的な支援では説明しにくい補給ネットワークの存在が見え始める。

その約1か月後。

今度は地球の反対側に近いレバノンで、別の秘密が報じられた。

1986年11月3日、ベイルートの週刊誌『Al-Shiraa(アル・シラー)』が、アメリカ政府関係者によるイランとの秘密交渉と武器取引を報道した。

一方はニカラグアへの秘密補給。
もう一方はイランへの秘密武器供給。

この時点では、二つはまだ別々の問題に見えた。

しかし11月22日、司法省の調査担当者がオリバー・ノースのNSCファイルから一枚の文書を発見する。
そこには、イラン向け武器取引から生じる資金をコントラ支援へ回す計画が記されていた。

3日後の11月25日。

ホワイトハウスは、二つの秘密活動が資金によってつながっていたことを公表する。

この日、「イランへの武器売却問題」は、世界的な政治スキャンダル「イラン・コントラ事件」へ変わった。

秘密は1986年11月に突然崩れたわけではない

イラン・コントラ事件の発覚は、11月3日の新聞報道だけから始まったわけではない。

その前から、コントラ秘密補給網には外部から見える亀裂が生じていた。

ウォルシュ独立検察官の最終報告によれば、1986年8~9月、セコードらのEnterpriseはコントラへの航空補給を加速させていた。
ニカラグア北部・南部へ物資を投下する飛行回数が増え、日中の飛行も行われていた。

9月25日には、コスタリカ政府関係者が同国北部に存在していた秘密滑走路の存在を公表し、その施設とコントラ補給活動、Enterprise系のペーパーカンパニーとの関係が報じられた。

ノースはポインデクスターに対し、アメリカ政府の痕跡を残さないよう対応していることを報告していた。

つまり10月の撃墜以前から、秘密補給網は完全には隠れなくなっていた。

10月5日――C-123Kが撃墜される

決定的な出来事が1986年10月5日に起きた。

コントラへ武器・物資を運んでいたEnterpriseのC-123K輸送機が、ニカラグア政府軍の攻撃によって撃墜された。

航空機はエルサルバドルのイロパンゴを拠点とする秘密補給網の一部だった。

乗員のアメリカ人ユージン・ハーゼンファスが生存し、ニカラグア側に拘束された。

それまで航空機によるコントラ補給は、海上輸送や秘密銀行口座と同じように外部から全体像を把握しにくい活動だった。

しかし航空機そのものが敵対地域で墜落し、アメリカ人乗員が生きたまま拘束されたことで、秘密作戦は物証を伴う事件へ変わった。

ハーゼンファスは「CIA」を口にした

拘束後、ハーゼンファスは記者会見などで、自分が参加した補給活動とCIAとの関係を示唆する発言をした。

この発言は国際的に大きく報道された。

一方、アメリカ政府は航空機やハーゼンファスの活動が米政府機関の指揮下にあることを否定した。

レーガン大統領自身も、ポインデクスターから「この補給作戦は米政府とは関係がない」と説明を受けていた。

しかし後のウォルシュ捜査で明らかになった実態は、それほど単純ではなかった。

撃墜された航空機はセコードらEnterpriseの補給作戦に属し、その活動をホワイトハウスのNSCスタッフであるオリバー・ノースが深く調整していた。
さらにCIA関係者など他の政府職員も、情報や運用の一部に関与していた。

FACT CHECK|ハーゼンファスはCIA職員だったのか

「CIA職員だった」と単純に書くのは適切ではない。

ハーゼンファスは拘束後、補給活動とCIAの関係を示唆する発言を行った。
一方、彼がCIAの正規職員として同機に搭乗していた、という意味ではない。

後の調査で重要になったのは、ハーゼンファス個人の雇用形態よりも、撃墜された航空機がノース、セコードらのコントラ秘密補給ネットワークに属し、そのネットワークへ複数の米政府関係者が関与していたことだった。

ホワイトハウス内部では「ノースの飛行機」と認識されていた

撃墜直後の内部記録を見ると、公の説明とは別の情報がホワイトハウスへ入っていたことが分かる。

秘密補給網に参加していたフェリックス・ロドリゲスは、撃墜翌日の10月6日、ジョージ・H・W・ブッシュ副大統領の国家安全保障担当補佐官サミュエル・ワトソンへ連絡した。

ウォルシュ報告が引用するワトソンのメモには、墜落したC-123についてノースの作戦に属する航空機であることを示す記録が残っている。

ブッシュ副大統領の国家安全保障担当だったドナルド・グレッグも、ロドリゲスから情報を受け、航空機が以前説明を受けていた秘密補給活動の一部だと理解した。

外部では「民間の支援活動」と説明されている一方、政府内部にはノースとの関係を示す情報が存在していた。

この食い違いは、後の調査で重要な論点になる。

それでもハーゼンファス事件だけでは全体像は出なかった

C-123撃墜によって、コントラへの秘密補給網は疑われるようになった。

しかし、この事件だけではイラン・コントラ事件にはならない。

ハーゼンファス事件が示したのは、

「議会による軍事支援制限期にも、アメリカ人を含む民間ネットワークがコントラへ武器を送っていた」

という事実だった。

その資金の一部がイラン武器取引から来ていたことまでは、まだ外部から見えていなかった。

そこへ、まったく別方向から第二の秘密が表面化する。

11月3日――レバノンの『Al-Shiraa』が秘密交渉を報じた

1986年11月3日、レバノンの週刊誌『Al-Shiraa』が、アメリカとイランの秘密接触を報道した。

報道の中心には、元国家安全保障担当大統領補佐官ロバート・マクファーレンら米国代表団が、同年5月に秘密裏にテヘランを訪問していた事実があった。

この訪問は第3回で扱ったHAWKスペアパーツ取引と結びついていた。

レバノンでの報道によって、1985年以来続いていた秘密外交が突然公の問題になった。

しかもアメリカはそれまで、テロ支援国に譲歩せず、イランへの武器供給を抑制する立場を公に示していた。

「敵対しているイランへアメリカ製兵器を渡していたのではないか」。

ワシントンでは、この問いへの説明を迫られることになる。

11月6日――否定から始まった

ウォルシュ独立検察官の公開時系列では、11月6日、レーガン大統領はイランへの武器販売を否定したと整理されている。

しかし、その後報道と政府内部の情報が積み重なるにつれ、全面否定を維持することは難しくなる。

問題は「イランと接触していたか」だけではなかった。

イスラエル経由の1985年のTOW・HAWK移転。
1986年の大統領Finding。
CIAが取得した兵器。
マクファーレンのテヘラン訪問。
レバノンの人質解放。

すでに多数の人物と組織が関与していたため、秘密外交そのものを存在しなかったことにはできなかった。

11月13日――レーガンが秘密外交と武器移転を認める

11月13日午後8時すぎ、レーガン大統領は大統領執務室から全米へ向けてテレビ演説を行った。

ここでレーガンは、約18か月にわたりイランとの秘密外交イニシアチブを進めていたことを正式に認めた。

目的として挙げたのは、

  • イランとの関係を再構築すること
  • イラン・イラク戦争の終結を促すこと
  • テロや破壊活動への影響を減らすこと
  • レバノンの人質を安全に帰還させること

などだった。

さらにレーガンは、秘密外交の一環として少量の防御用兵器と部品をイランへ移転したことも認めた。

ただし、武器と人質を交換したという説明は否定した。

この時点でホワイトハウスの公式説明は、

「秘密武器取引は存在しない」

から、

「武器移転は存在したが、より広い戦略的外交の一部であり、人質を買うための取引ではない」

へ変わった。

しかし1985年の武器移転をどう説明するかが残った

問題は1986年のCIA経由取引だけではなかった。

その前年、1985年8~9月にはイスラエルからイランへ504発のTOWが渡り、11月にはHAWKも輸送されていた。

これらにアメリカ政府がどこまで関与し、レーガン大統領がいつ承認したのか。

11月中旬、ホワイトハウスの説明ではこの部分が繰り返し問題になる。

11月12日に議会指導部へ行われた説明では、ポインデクスターは主に1986年1月17日の大統領Finding以降の活動を説明し、1985年のイスラエル経由取引の重要部分を十分に説明しなかった。

11月19日の記者会見でも、レーガンは米政府が1986年1月以前の武器移転へ直接関与していたという説明を否定した。

しかし後の調査では、1985年のイスラエルによる武器移転についても、大統領やNSC高官が事前に認識・承認していたことを示す記録や証言が検討されることになる。

事件が拡大した理由の一つは、秘密活動そのものだけでなく、発覚後に示された説明と内部記録が一致しない部分が次々と現れたことだった。

11月20日――議会説明を作る過程でも問題が起きた

議会への説明を準備する中で、さらに危険な動きが起きていた。

11月20日、CIA長官ウィリアム・ケーシーやポインデクスターが議会証言に備えるため、ホワイトハウスで会合が開かれた。

その中で1985年11月のHAWK輸送について、CIAは当時積荷が武器だと知らず「石油掘削部品」だと考えていた、という説明を含む時系列案が使われた。

後のウォルシュ捜査は、この説明が事実と一致していなかったことを問題視している。

ノース自身も後の刑事裁判で、この段階ではその説明が正しくないと理解していたと証言した。

秘密取引の発覚は、次第に「何が起きたのか」という問題から、「政府は発覚後、議会へ何を説明しようとしていたのか」という問題へ移り始めていた。

11月21日――ミース司法長官の内部調査が始まる

11月21日、レーガン大統領は司法長官エドウィン・ミースに対し、イラン武器取引について短期間で事実関係を調べるよう指示した。

ミースと司法省スタッフは、マクファーレン、シュルツ、ワインバーガー、ノース、ポインデクスター、ケーシーら関係者への聞き取りとNSC文書の確認を始めた。

当初の大きな焦点は、1985年11月のHAWK輸送だった。

CIAが秘密作戦として関与していたのに、その時点で有効な大統領Findingが存在していなかったのではないか。
そして大統領はその輸送を事前に知っていたのか。

ところが調査開始直後、事態はさらに大きくなる。

調査が始まったその日に、文書が破棄されていた

11月21日、ミースがNSC関連文書の提出を求めた後、ポインデクスターは1985年12月に署名された大統領Findingの原本を破棄した。

このFindingは、すでに実施されていたHAWK輸送へのCIA関与を事後的に承認する性格を持ち、内容も武器と人質の交換関係を強く示すものだった。

同じ日の夕方、ノースは自分の執務室で大量の文書やメッセージをシュレッダーにかけ始めた。

秘書フォーン・ホールもその作業を手伝った。
後の証言によれば、通常の日常的な文書廃棄とは比較にならない量だった。

さらに一部の公式文書については内容を書き換え、元の文書と差し替える作業も行われた。

つまり司法省が事実関係を調べ始めた時点で、調査対象となるはずの文書そのものが失われ始めていた。

FACT CHECK|文書破棄は事件発覚後の噂なのか

後の刑事捜査・裁判で確認された事実である。

ウォルシュ独立検察官の捜査では、ノース、フォーン・ホール、ポインデクスターらによる文書の破棄・変更・持ち出しが具体的に調べられた。

ただし「ホワイトハウスの全記録が破棄された」という意味ではない。
NSCの電子通信にはバックアップも存在し、後の捜査では多数の削除済みメッセージが復元された。

11月22日――シュレッダーを逃れた一枚のメモ

翌11月22日、司法省スタッフはノースのオフィスに残っていた文書を確認していた。

そこで、極めて重要な文書が見つかる。

1986年4月ごろにノースが作成したとみられるメモだった。

その文書には、イランへの武器売却から生じる資金のうち1,200万ドルを、ニカラグアのコントラへ回す構想が記されていた。

ここで注意が必要なのは、この1,200万ドルを「実際にコントラへ送金された確定額」と解釈しないことである。

第5回で確認したように、ウォルシュ独立検察官が後に裁判で立証可能と算定した実際の最低流用額は少なくとも360万ドルだった。

11月22日に発見された1,200万ドルという数字は、流用計画を記した文書上の数字だった。

それでも、このメモの意味は決定的だった。

それまで、

「イランへ武器を売った問題」

と、

「コントラへの秘密支援問題」

は政治的には並行して存在していた。

この文書は、二つを同じ資金計画の中で直接結びつけていた。

11月23日――ノースが資金流用を認める

翌11月23日、ミース司法長官はノース本人から事情を聴いた。

当初ノースは、1985年11月のHAWK輸送について不正確な説明を続けた。

しかしミースが前日に発見された資金流用メモを示すと、ノースはイラン武器取引からコントラへの資金流用が実際に行われたことを認めた。

ノースは、その仕組みをイスラエル側が作ったという趣旨の説明をした。

一方、ポインデクスターも資金流用について概括的な認識があったことを認めた。

ここで司法長官の調査は、単なる「イランへ武器を送った際の法的手続」の確認から、巨大な政治問題へ変わった。

11月24日――レーガン大統領へ資金流用が報告される

11月24日、ミースはレーガン大統領とドナルド・リーガン大統領首席補佐官へ、週末調査で判明した資金流用について報告した。

ホワイトハウスでは対応方針が検討された。

この段階で、翌日には事実を公表することが避けられなくなっていた。

同時に、ポインデクスターの辞任とノースの処分も検討される。

問題はもはや「報道がどこまで正しいか」ではない。

司法長官自身の内部調査で、イラン武器売却とコントラ支援が同じ資金ネットワークで接続していたことが確認されたからである。

11月25日――「Iran-Contra」が公になった日

1986年11月25日、レーガン大統領はホワイトハウスで声明を発表した。

大統領は、イラン政策の実施について自分が完全な事実を知らされていなかった活動が存在したと説明した。

そして、

  • ジョン・ポインデクスターが国家安全保障担当大統領補佐官を退任すること
  • オリバー・ノースをNSCスタッフから解任したこと
  • 司法省が事実関係をさらに調査すること
  • NSCの役割と運用を検証する特別調査委員会を設置すること

を発表した。

続いてミース司法長官が記者会見を行い、イランへの武器売却で生じた資金の一部がコントラ側へ流れていたことを公表した。

この時点で初めて、一般社会にも二つの秘密作戦が一つの事件として示された。

10月5日にニカラグアで見つかった秘密補給網。

11月3日にレバノンから表面化したイラン武器取引。

二つをつなぐものが、スイスの秘密口座と資金流用だった。

11月25日の説明も、後から見ると完全ではなかった

ただし、11月25日にすべての事実が正確に公表されたわけではない。

ミースは当時、資金流用を知っていた米政府関係者としてノース、ポインデクスター、マクファーレンの3人を挙げた。

後の捜査では、この説明だけでは関係者の認識を完全には表していなかったことが分かる。

また1985年11月のHAWK輸送について、大統領が事前に知らなかったとする当時の説明も、後に発見された記録や証言との間で重大な問題が生じた。

ウォルシュ独立検察官は、事件発覚直後に形成された「NSCスタッフだけによる暴走」という説明を、そのまま最終的な事実認定とはしていない。

NSCスタッフが最も直接的に関与していたことは確かだが、CIA、国務省、国防総省など他機関の職員も、秘密活動のさまざまな局面を知り、あるいは支援していた。

FACT CHECK|11月25日に「真相」がすべて判明したのか

判明したのは事件の基本構造だけだった。

11月25日の最大の発見は、イラン武器取引とコントラ支援が資金流用によって接続していたことだった。

しかし、誰がいつ何を知ったのか、1985年の武器移転を誰が承認したのか、資金はいくら流れたのか、議会への説明にどのような虚偽があったのか、文書がどこまで破棄されたのかといった問題は、この段階では未解明だった。

その解明には、その後のタワー委員会、議会調査、そして1993年まで続くウォルシュ独立検察官の捜査が必要になる。

翌11月26日、刑事捜査が始まった

11月25日の公表によって、問題は政治的な説明だけでは終わらなくなった。

翌11月26日、ミース司法長官はFBIにイラン・コントラ問題の捜査を命じた。

当初は司法省による捜査だったが、政権高官自身が捜査対象となる可能性が高い。

そのため12月4日、ミースは独立検察官の任命を要請。

12月19日、元連邦判事・元司法副長官のローレンス・ウォルシュが独立検察官に任命された。

ここから事件は、

政治スキャンダル

だけでなく、

刑事事件

としても本格的に調べられることになる。

なぜ秘密は一気に崩れたのか

イラン・コントラ事件の発覚過程を見ると、一つの内部告発者が全資料を持ち出した事件ではないことが分かる。

複数の独立した出来事が同時期に起きた。

日付 出来事 露見したもの
1986年9月25日 コスタリカの秘密滑走路が公になる コントラ補給網の一部
10月5日 C-123K輸送機撃墜、ハーゼンファス拘束 民間航空機による武器補給
11月3日 『Al-Shiraa』報道 対イラン秘密交渉と武器取引
11月13日 レーガン大統領テレビ演説 秘密外交・武器移転を政府が公式に認める
11月21日 司法長官による内部調査開始 政府内部記録の確認開始
11月22日 ノースの資金流用メモ発見 イラン側とコントラ側の接続
11月23日 ノースへの聴取 資金流用が実際に存在したことを確認
11月25日 ホワイトハウスが資金流用を公表 「Iran-Contra」として事件化

秘密活動は、それぞれ単独なら隠し続けられた可能性がある。

しかしコントラ補給網では実物の航空機が撃墜され、イラン側では秘密交渉が報道され、その後政府内部の調査で二つをつなぐ文書が発見された。

異なる場所で起きた三つの出来事が同時期に重なったことで、情報を分断して維持していた秘密システムが急速に崩壊したのである。

発覚を早めたのは「秘密活動の大規模化」だった

もう一つ見逃せないのは、秘密作戦そのものが大きくなりすぎていたことだ。

1984年ごろのコントラ支援は、外国政府からの資金や限定的な武器調達から始まっていた。

1986年には、

  • 複数の航空機
  • 中米の秘密滑走路
  • イロパンゴの補給基地
  • 航空乗員
  • 武器・弾薬
  • スイス銀行口座
  • 多数のダミー企業

を持つ補給システムになっていた。

イラン側も同じである。

最初はイスラエル経由の少数のTOWから始まり、最終的にはCIA、国防総省、民間航空会社、スイス口座、複数の仲介者、テヘランへの米代表団訪問まで関係者が増えていた。

秘密活動に参加する人物、組織、輸送、文書、送金が増えるほど、痕跡も増える。

イラン・コントラ事件は、秘密を守る仕組みが突然機能しなくなったというよりも、作戦が巨大化し、隠し切れる規模を超えていった事件でもあった。

発覚後に行われた文書破棄が、さらに疑惑を深めた

もし11月25日にすべての文書が保全され、関係者が直ちに同じ事実関係を説明していれば、調査はより単純だったかもしれない。

実際には逆だった。

ノースらによる文書破棄や改変、ポインデクスターによるFinding原本の破棄、NSC電子メッセージの削除が発見された。

さらに初期の議会説明や政府発表にも、後から内部記録と一致しない内容が見つかった。

その結果、調査機関は秘密活動そのものだけでなく、

「誰が何を隠そうとしたのか」

まで追う必要が生じた。

ここからイラン・コントラ事件は、政策判断を検証する行政調査、議会の監督調査、刑事捜査という三つの方向へ分かれていく。

まとめ|二つの秘密は、別々の場所から露見した

イラン・コントラ事件は、一つのスクープによって全貌が暴露された事件ではない。

最初に亀裂が入ったのはコントラ側だった。

1986年10月5日、秘密補給に使われていたC-123Kがニカラグアで撃墜され、生存したアメリカ人ユージン・ハーゼンファスが拘束された。

約1か月後の11月3日。
今度はレバノンの『Al-Shiraa』が、アメリカとイランとの秘密武器取引を報じた。

この段階では二つの秘密はまだ別々だった。

レーガン政権は11月13日、イランとの秘密外交と武器移転を認めながらも、人質との単純な武器交換という説明を否定した。

しかし1985年のHAWK輸送などをめぐって政府説明と内部情報の食い違いが拡大し、11月21日に司法長官ミースによる内部調査が始まる。

翌22日、ノースのファイルからイラン武器売却収益をコントラへ回す計画を記した文書が見つかった。

23日、ノース本人が資金流用の存在を認める。

そして11月25日、ホワイトハウスがその事実を公表した。

この日、ニカラグアとイランで別々に進んでいた秘密活動は、「イラン・コントラ事件」という一つの事件になった。

しかし、発覚したのは入口にすぎなかった。

誰が武器取引を承認したのか。
NSCはなぜ実働組織になったのか。
大統領へ何が報告されていたのか。
議会へ虚偽の説明は行われたのか。
資金流用を誰が知っていたのか。

これを調べるため、事件直後から複数の調査機関が動き始める。

次回は1987年へ進む。

大統領が設置したタワー委員会と、テレビ中継された連邦議会のイラン・コントラ公聴会は、同じ事件を調べながら何が違ったのか。
そして大量の証言と文書から、何を突き止めたのかを追う。

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第6回 誰が秘密作戦を動かしたのか|オリバー・ノース、ポインデクスターとNSCの実働化

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第8回 調査は何を突き止めたのか|タワー委員会と1987年議会公聴会

CASE FILE 43|全記事

  1. 第1回 イラン・コントラ事件とは?|武器売却とコントラ支援が結びついた秘密工作の全貌
  2. 第2回 なぜイランへ武器を売ったのか|レバノン人質問題と「イラン・イニシアチブ」
  3. 第3回 武器はどうイランへ渡ったのか|イスラエル経由から米国直接取引まで
  4. 第4回 なぜコントラ支援は秘密化したのか|ボランド修正と議会統制
  5. 第5回 武器代金はどうコントラへ流れたのか|資金流用と「Enterprise」の仕組み
  6. 第6回 誰が秘密作戦を動かしたのか|オリバー・ノース、ポインデクスターとNSCの実働化
  7. 第7回 イラン・コントラ事件はどう発覚したのか|1986年11月、秘密工作が表に出るまで[現在の記事]
  8. 第8回 調査は何を突き止めたのか|タワー委員会と1987年議会公聴会
  9. 第9回 刑事責任はどう裁かれたのか|ウォルシュ独立検察官、逆転判決、そして恩赦
  10. 第10回 レーガンはどこまで知っていたのか|確定事実・争点・イラン・コントラ事件が残したもの

出典・参考資料

本記事では、「発覚」を単一の報道による暴露として扱わず、1986年10月のコントラ補給機撃墜、11月のAl-Shiraa報道、ホワイトハウス内部の説明、司法省調査、資金流用文書の発見という複数の経路を分けて構成しています。また、11月22日に発見された文書上の「1,200万ドル」は流用計画額であり、後に独立検察官が立証可能と算定した実際の最低流用額360万ドルとは区別しています。