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1872年11月25日まで何が記録されていたのかニューヨーク出航から最後の航海日誌

1872年11月25日まで何が記録されていたのか|ニューヨーク出航から最後の航海日誌

海難・失踪ミステリー

1872年11月25日午前8時。

メアリー・セレスト号の記録板には、アゾレス諸島サンタマリア島の東端が南南西、約6マイルに見えることが記された。

これが、船上から残された最後の確実な位置記録である。

その後、ベンジャミン・ブリッグス船長も、妻サラも、2歳の娘ソフィアも、7人の乗組員も、一行の記録を残していない。

約9日後。
メアリー・セレスト号は数百マイル東の大西洋上で発見される。

船はそこにあった。
人間だけがいなかった。

では、ニューヨークを出てから記録が途絶えるまで、何が起きていたのか。

今回は失踪原因を推理しない。
まず、メアリー・セレスト号自身が残した記録と、後の海事審問で保存された情報から、1872年11月25日午前8時までを時間順に再構成する。

この記事で分かること

  • メアリー・セレスト号が実際にニューヨークを離れた経緯
  • 大西洋横断中の航海は最初から異常だったのか
  • 11月24~25日に船がどこにいたのか
  • 正式な航海日誌とログ・スレートの違い
  • 11月25日午前8時に残された最後の位置記録
  • 「11月25日に全員が船を捨てた」と断定できるのか
CASE FILE 39|メアリー・セレスト号 1872

← 第2回|最後の航海に乗っていたのは誰か|ブリッグス船長一家と7人の乗組員

第3回|1872年11月25日まで何が記録されていたのか|ニューヨーク出航から最後の航海日誌【現在の記事】

→ 第4回|発見時のメアリー・セレスト号はどんな状態だったのか|Dei Gratia乗組員が見た無人船

11月4日、最後の航海の準備が整った

1872年11月初旬、メアリー・セレスト号はニューヨークで大西洋横断航海の準備を進めていた。

目的地はイタリアのジェノヴァ。

積荷は1,701樽の工業用アルコールだった。
船長は37歳のベンジャミン・スプーナー・ブリッグス。
妻サラ、2歳の娘ソフィア、そして7人の乗組員を合わせて10人が乗船する。

11月4日には乗組員との契約手続きなどが行われ、出航準備はほぼ完了した。

ただし、「11月4日にニューヨークを出港した」「11月5日」「11月7日」と、資料によって出航日の記述が異なることがある。

これは必ずしも単純な誤記ではない。

船が岸壁を離れた日と、港外へ向けて本格的な航海を開始した日を分ける必要がある。

いったん港を出たが、すぐ大西洋へは向かわなかった

ブリッグスの妻サラが航海直前に家族へ送った手紙が残っている。

それによれば、船はいったんニューヨークの岸壁を離れたものの、強い向かい風と悪い空模様のため、そのまま外洋へ進まず、スタテン島付近で錨泊した。

ブリッグスは、無理に風に逆らって進むより天候を待った。

結果として、本格的にニューヨークを離れたのは11月7日だった。

これは小さな出来事だが、船長の人物像を考えるうえでは興味深い。

少なくとも出航時のブリッグスは、

悪条件でも予定を優先して強行出航する船長ではなかった。

海況を見て、一度待つという判断をしている。

もっとも、この行動だけから後の判断まで推測することはできない。

ここで確認できるのは、1872年11月7日朝、風が比較的好転したところでメアリー・セレスト号が大西洋へ向かったという事実である。

出航時、船内に深刻な異常は記録されていない

サラの最後の手紙には、乗組員についても触れられている。

彼女は、新しい乗組員について概ね穏やかな一団に見えるという趣旨を書き残している。
一方で、まだ航海が始まったばかりであり、能力については分からないともしていた。

これは前回扱った「出航前から船員が反乱寸前だった」というイメージと一致しない。

もちろん、航海開始時に問題がなかったことは、その後も問題が起こらなかった証明にはならない。

しかし少なくとも、

ニューヨークを離れる段階で重大な船内対立が記録されているわけではない。

大西洋横断は順調一辺倒ではなかった

メアリー・セレスト号はニューヨークから東へ進み、大西洋を横断した。

航海にはおよそ2週間を要し、その間、船は強風や荒天にさらされた。

帆船にとって悪天候そのものは異常事態ではない。
19世紀の大西洋横断では、風向と風力によって速度も航路も大きく変化する。

したがって、

「航海中に嵐に遭った」

というだけで失踪原因を説明することはできない。

重要なのは、最後の数日間に船の状態と船長の認識がどう変化したかである。

失われた「オリジナルの航海日誌」

ここで資料上の問題が一つある。

メアリー・セレスト号の1872年航海について、現在われわれが船長の航海日誌そのものを最初から最後まで読めるわけではない。

発見後、船内には航海日誌が残されていた。
ジブラルタルでの海事審問でも内容が調べられた。

しかし、その原本は後に失われたとされている。

それでも最後の航海状況をある程度追えるのは、ジブラルタル司法長官フレデリック・ソリー=フラッドが審問のために末尾部分を書き写していたからである。

後世の研究は、この転記や審問証言、発見時に残っていたログ・スレートなどを組み合わせて航跡を再構成している。

資料上の重要な区別|航海日誌とログ・スレート

メアリー・セレスト号には正式なlog book(航海日誌)と、当直中の情報を一時的に記録するlog slate(ログ・スレート/記録板)があった。

後世の記事では両方をまとめて「航海日誌」と呼ぶことがあるが、厳密には別物である。

正式な航海日誌は11月24日まで記録されていたとされ、11月25日朝の最後の位置情報はスレート側に残されていた。

11月24日、アゾレス諸島へ接近していた

11月24日の正式な航海記録では、メアリー・セレスト号は、

北緯36度56分、西経27度20分付近

にいると記録されていた。

大西洋中央部、アゾレス諸島へ接近した位置である。

この日の船は強い西風に遭い、夜にかけて風はさらに強まり、雨を伴う荒れた海況になったと後世の資料から再構成されている。

ただし、ここでも「暴風に遭ったから船を捨てた」と結論づけることはできない。

翌朝、船はサンタマリア島を確認している。

つまり、少なくともその時点まで航海そのものは続いていた。

11月25日午前5時ごろ、サンタマリア島を確認

1872年11月25日の早朝。

メアリー・セレスト号から陸地が確認された。

アゾレス諸島東端に位置するサンタマリア島である。

午前5時ごろ、島を視認したことが記録された。

そして午前8時。

ログ・スレートには、サンタマリア島東端について、

「南南西、6マイル」

という位置関係が記された。

船から見てサンタマリア島東端が南南西方向、およそ6海里にあったという意味である。

この記録から推定すると、メアリー・セレスト号はサンタマリア島の北東側を通過し、東へ向かっていた。

1872年11月25日 08:00

確認地点:アゾレス諸島 サンタマリア島付近
記録:島の東端が南南西方向、約6海里

これが現在確認できるメアリー・セレスト号最後の船上位置記録となる。

Google Map|最後の記録地点となったサンタマリア島

サンタマリア島は、ポルトガル領アゾレス諸島でもっとも東側に位置する島である。

ニューヨークから東へ大西洋を横断してきたメアリー・セレスト号にとって、ヨーロッパへ向かう途中で接近した陸地だった。

Google Mapでサンタマリア島を確認する

この「陸地が近かった」という条件は、後に退船仮説を考える際に重要になる。

仮にブリッグスが船の沈没を懸念していたなら、陸地が視認できる場所で救命艇へ移ろうと考えること自体は、完全に理解不能な行動ではないからである。

ただし、それはまだ仮説である。

午前8時以降、記録は突然途絶える

午前8時のサンタマリア島に関する記載より後、乗船者自身が残した確実な航海記録は確認されていない。

ここからメアリー・セレスト号事件の「空白」が始まる。

重要なのは、

記録が途絶えた時刻と、人々が船を離れた時刻は同じとは限らない

ということである。

午前8時に最後の記録を書いた直後に退船した可能性はある。

数時間後かもしれない。

あるいは、それより後まで人が船に残っていた可能性も完全には排除できない。

「最後の記録=失踪時刻」として扱ってしまうと、存在しない時刻証拠を作ることになる。

「11月25日に全員が退船した」はFACTではない

多くの解説では、

「1872年11月25日、メアリー・セレスト号の全員が船を放棄した」

と書かれている。

これは状況から考えて十分あり得る。
しかし、厳密には確定していない。

確認できるのは、

  • 11月25日午前8時まで人が記録を付けていた
  • 後に船は無人で発見された
  • 救命艇がなくなっていた

という3点である。

ここから、

「11月25日前後に退船した可能性が高い」

とは評価できる。

しかし、

「11月25日午前8時直後に全員が救命艇へ移った」

とまでは記録から証明できない。

FACT / LIKELY / THEORY

FACT 11月7日、メアリー・セレスト号はニューヨークを離れてジェノヴァへ向かった
FACT 大西洋横断中に荒天を経験した
FACT 11月25日朝、サンタマリア島を視認した
FACT 午前8時、島の東端を南南西約6海里と記録した
FACT これ以降、乗船者自身による確実な記録は確認されていない
LIKELY 11月25日前後に乗船者が本船を離れた
THEORY 陸地が近い時点で船長が意図的な一時退船を決断した

現代の再検証では「船位の誤認」も指摘されている

後世の研究では、メアリー・セレスト号の航海記録と当時の風向・海況データを照合する試みも行われている。

その一つでは、ブリッグスが推測していた船位と実際の位置との間にかなりの誤差が生じていた可能性が指摘された。

19世紀の航海では、緯度は天体観測から比較的求めやすかった一方、経度の算出には正確な時刻を維持するクロノメーターが重要だった。

もし時刻計測に誤差があれば、船長が認識する位置もずれる。

現代の再検証では、ブリッグスが想定していたより船が西側にいた可能性まで提示されている。

ただし、これは1872年の記録そのものではない。

後世の海洋・気象データを用いた再構成仮説である。

そのため本記事では「ブリッグスのクロノメーターが故障していた」と確定しない。
この問題は、第6回の航法・ポンプ・浸水判断編で詳しく検討する。

最後の記録に「異常事態」は書かれていない

メアリー・セレスト号事件でもっとも奇妙な点の一つがここにある。

最後に残された記録は、

「爆発した」

「船が沈む」

「反乱が起きた」

「救命艇へ移る」

といった内容ではない。

サンタマリア島との位置関係を記した、通常の航海上の情報で終わっている。

海事審問を担当したソリー=フラッドも、航海の末期まで特に異常な記述がないことに注目していた。

つまり、

記録上では通常航海から失踪へ至る明確な境界線が見つからない。

午前8時までは航海が記録されている。
その後、記録だけが途切れる。

何かが起きたとしても、それを書き残す余裕がなかったのか。

書く必要がないと思う程度の一時的な対応だったのか。

あるいは午前8時から相当時間が経過してから状況が変化したのか。

記録だけでは判別できない。

11月25日から発見までの間に何が起きたのか

午前8時の記録後、メアリー・セレスト号は歴史資料の上からいったん姿を消す。

次に確認されるのは、デイ・グラティア号から発見された時である。

その場所はサンタマリア島から数百マイル東側だった。

後世の海流・風向データを使った研究では、無人状態でもメアリー・セレスト号がその方面へ移動すること自体は可能だったとする再構成がある。

つまり、

「船がサンタマリア島付近から発見地点まで移動した」

という事実だけを理由に、

「11月25日の時点ではまだ乗員が操船していた」

とも、

「11月25日直後から完全に無人だった」

とも断定できない。

この期間こそが、事件最大の記録空白である。

航海記録から分かる「最後の正常」

メアリー・セレスト号の記録を追うと、事件を「突然人間が消えた幽霊船」と表現することが適切ではないことが分かる。

少なくとも11月25日朝までは、人間が船を運航していた。

島を確認し、その位置を記録し、航海を続けていた。

したがって本当に探すべきなのは、

ニューヨークから何が起きたのか

ではない。

もっと範囲を狭められる。

1872年11月25日午前8時以降、船を放棄するまでの間に何が変わったのか。

これが事件原因を考えるうえで重要な時間帯になる。

時系列で整理する

日付 確認できる内容 確度
11月4日 乗組員契約など出航準備 FACT
11月5日前後 岸壁を離れるが、悪条件のためスタテン島付近で待機 FACT
11月7日 ニューヨークを離れジェノヴァへ向け本格出航 FACT
11月上~中旬 大西洋を東進。荒天を経験 FACT
11月24日 北緯36度56分・西経27度20分付近を記録。アゾレスへ接近 FACT / 転記資料
11月25日 早朝 サンタマリア島を視認 FACT
11月25日 08:00 島の東端が南南西約6海里とログ・スレートに記録 FACT
08:00以降 乗船者による確実な記録が途絶える UNKNOWN

まとめ

メアリー・セレスト号は1872年11月7日、ニューヨークからジェノヴァへ向けて本格的な航海を開始した。

大西洋横断中には荒天を経験したものの、航海記録から「最初から船に重大な異常があった」と判断できる材料はない。

11月24日、船はアゾレス諸島に接近していた。

翌25日早朝にはサンタマリア島を確認し、午前8時には島の東端が南南西約6海里にあることをログ・スレートへ記録した。

そして、そこで記録は途絶える。

この時点で船を捨てたのか。

数時間後だったのか。

それとも、さらに時間が経過してからだったのか。

現在の資料だけでは確定できない。

分かっているのは、午前8時までは人間がメアリー・セレスト号を運航していたということだけである。

そして次に船を目撃した者が見たとき、10人全員がいなくなっていた。

次回は、その発見の瞬間へ進む。

デイ・グラティア号の乗組員がメアリー・セレスト号へ乗り移ったとき、帆、索具、船倉、ポンプ、救命艇、航海計器、乗組員の私物はどのような状態だったのか。

「完全な状態の船から人間だけが消えていた」という有名なイメージを一度解体し、1872年の発見者証言から実際の船内状況を再構成する。

CASE FILE 39|全記事

  1. メアリー・セレスト号とは?|航行可能な船から10人が消えた1872年の未解決事件
  2. 最後の航海に乗っていたのは誰か|ブリッグス船長一家と7人の乗組員
  3. 1872年11月25日まで何が記録されていたのか|ニューヨーク出航から最後の航海日誌
  4. 発見時のメアリー・セレスト号はどんな状態だったのか|Dei Gratia乗組員が見た無人船
  5. ジブラルタルの海事審問は何を疑ったのか|殺人・反乱・詐欺説と「証拠」の検証
  6. なぜブリッグス船長は船を離れた可能性があるのか|ポンプ・浸水判断・天候・航法を検証
  7. 1,701樽のアルコールは原因だったのか|漏洩・蒸気・爆発恐怖説を検証
  8. 海賊・反乱・海震・海上竜巻説はどこまで成立するのか|主要仮説を証拠で比較
  9. 「幽霊船メアリー・セレスト」はどう作られたのか|コナン・ドイルと後世の脚色
  10. 10人はどこへ消えたのか|確認事実・最有力仮説・未解決部分を最終整理

出典・参考資料

  • Royal Museums Greenwich「The mystery of the Mary Celeste」― 1872年11月7日の出航、11月25日朝のログ・スレート、サンタマリア島付近の最終記録を確認。
  • Smithsonian Magazine「Abandoned Ship: The Mary Celeste」― 大西洋横断中の荒天、11月25日午前5時の記録、サンタマリア島から約6マイルの位置、ソリー=フラッドによる末期航海記録の転記、後世の航跡再構成を参照。
  • Charles Edey Fay / Peabody Museum系史料研究― 11月24日の航海日誌位置、11月25日のログ・スレート記録、正式ログとスレートの区別を確認。
  • New Bedford Whaling Museum / Old Dartmouth Historical Sketches― サラ・ブリッグスがスタテン島沖から送った最後の手紙、出航延期と11月7日の航海開始、出航時の乗組員に関する記述を参照。

本記事では、正式な航海日誌とログ・スレートを区別しています。後世の一般資料では11月25日の記録を単に「最後の航海日誌」と呼ぶ場合がありますが、史料研究では正式なログブックは11月24日まで、11月25日朝の最終位置はログ・スレートに残された記録として扱われています。また、11月25日午前8時が「退船時刻」であることを示す直接証拠はないため、本記事では最後の記録時刻と失踪・退船時刻を同一視していません。