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ジブラルタルの海事審問は何を疑ったのか|殺人・反乱・詐欺説と「証拠」の検証

海難・失踪ミステリー

1872年12月13日。

無人のメアリー・セレスト号は、デイ・グラティア号から派遣された3人によってジブラルタルへ到着した。

船を発見し、安全な港まで運んだ側には、通常ならサルベージ報酬を受け取る権利がある。

そこで始まったのが、ジブラルタル副海事裁判所での審理だった。

本来の中心的な問題は、

「デイ・グラティア側にいくら救助報酬を支払うべきか」

だった。

ところが審理は、次第に別の方向へ進んでいく。

なぜ航行できる船から10人全員が消えたのか。

甲板の赤褐色の染みは血ではないのか。

船首の傷は斧などで意図的につけられたものではないか。

船長室に残されていた剣は、殺人に使われたのではないか。

乗組員が反乱を起こしたのか。

あるいは、発見者であるデイ・グラティア側が何かを隠しているのか。

ジブラルタル司法長官フレデリック・ソリー=フラッドは、
メアリー・セレスト号の放棄には何らかの犯罪が関係している
という疑いを強めていった。

しかし、審理が進むにつれて、その疑いを支えるはずだった物証は次々に弱くなっていく。

今回追うのは「殺人説があった」という話ではない。

何が殺人の証拠だと疑われ、検査すると何が残ったのか。

1872~73年の審問そのものを、証拠の強さに沿って見ていく。

この記事で分かること

  • なぜメアリー・セレスト号でサルベージ審問が行われたのか
  • 司法長官ソリー=フラッドが何を疑ったのか
  • 「血痕」「血の付いた剣」は本当に血だったのか
  • 船首の傷は意図的につけられたものだったのか
  • 乗組員反乱説にはどんな根拠があったのか
  • デイ・グラティア側の共謀・サルベージ詐欺は立証されたのか
  • 裁判所が最終的に何を認定できなかったのか
CASE FILE 39|メアリー・セレスト号 1872

← 第4回|発見時のメアリー・セレスト号はどんな状態だったのか|Dei Gratia乗組員が見た無人船

第5回|ジブラルタルの海事審問は何を疑ったのか|殺人・反乱・詐欺説と「証拠」の検証【現在の記事】

→ 第6回|なぜブリッグス船長は船を離れた可能性があるのか|ポンプ・浸水判断・天候・航法を検証

そもそも「殺人裁判」ではなかった

メアリー・セレスト号がジブラルタルへ運ばれた理由は、殺人事件を捜査するためではない。

海上で発見した放棄船を港へ持ち込んだデイ・グラティア側が、サルベージ報酬を請求するためだった。

海難船を救助した場合、その行為によって守られた船体や積荷の価値、救助作業の危険度などを基準に報酬が決められる。

1872年12月17日、ジブラルタルの副海事裁判所で審理が始まった。

ところが今回の船には、通常の海難救助と大きく違う点があった。

船は残っている。

積荷もほぼ残っている。

食料もある。

明白な沈没寸前の損傷もない。

それなのに10人全員がいない。

このため、「なぜ放棄されたのか」を確認しなければ、サルベージ請求自体も簡単には処理できなかった。

フレデリック・ソリー=フラッドは犯罪を疑った

審理で大きな影響を与えた人物が、ジブラルタル司法長官フレデリック・ソリー=フラッドだった。

フラッドは、単純な事故による退船という説明に強い疑いを持った。

彼が問題視したのは、

  • 船がまだ航行可能だったこと
  • 10人全員が消えていること
  • 救命艇がなくなっていること
  • 積荷が大量のアルコールだったこと
  • 船体や船内に不自然にも見える傷・染みがあったこと

だった。

これらを組み合わせれば、

船内で暴力事件が起き、その後犯人たちが救命艇で逃げた

という筋書きは一応成立する。

問題は、筋書きが成立することと、それを証明する証拠があることは別だという点である。

第一の疑惑|乗組員が反乱を起こしたのではないか

フラッドが強く疑ったシナリオの一つが、乗組員による反乱だった。

メアリー・セレスト号には1,701樽のアルコールが積まれていた。

そこで、

船員が積荷のアルコールに手を出す


酔って暴力事件が起きる


ブリッグス船長と家族、船内の一部の人間が殺される


犯人が証拠を隠そうとする


救命艇で逃走する

という説明が考えられた。

一見すると、無人船と消えた救命艇を同時に説明できる。

しかし、この説には複数の問題があった。

まず、ブリッグス一家や乗組員の遺体がなかった。

さらに、発見者のデヴォーらは最初の乗船時、船内に明白な大規模暴力の痕跡を確認していない。

積荷の大半も残っていた。

そして、第2回で確認したように、出航前の段階で乗組員が問題を起こしていたことを示す確実な資料もない。

反乱説を成立させるには、さらに直接的な物証が必要だった。

「血痕」が見つかった

そこで注目されたのが、甲板や船体に見つかった赤褐色の染みだった。

ソリー=フラッドは船をより詳しく調査させた。

甲板や手すりなどには、血のようにも見える褐色の痕跡があった。

もしこれが人間の血液であれば、状況は大きく変わる。

「誰もいない船」

から、

「暴力事件の痕跡がある無人船」

になるからである。

さらに船長室から見つかった剣にも、赤褐色の染みがあった。

これも血ではないかと疑われた。

こうして、

血痕+剣+消えた10人

という非常に犯罪事件らしい構図が作られていった。

しかし、検査すると「血」ではなかった

重要なのはここからである。

染みは見た目だけで血液と決められたわけではない。

ジブラルタルの医師J・パトロンが試料を調べた。

船上から採取された赤褐色の物質と、剣に付着していた染みについて、当時利用できた化学試験や顕微鏡観察が行われた。

結果は、

血液を確認できない

というものだった。

剣の染みからは鉄由来とみられる物質などが確認され、血球は検出されなかった。

甲板上の染みについても、血液だと認定できる結果は得られなかった。

パトロン医師は最終的に、当時の科学的知識に基づけば、

船上または剣の染みに血液は存在しない

と結論している。

FACT CHECK|「血まみれの剣」はあったのか

FACT:ブリッグス船長の船室から剣が発見された。

FACT:剣には赤褐色に見える染みがあり、血液の可能性が疑われた。

FACT:医師による検査では血液を確認できなかった。

したがって、後世に語られることがある「血の付いた剣が発見された」という表現は正確ではない。

第二の疑惑|船首の傷は斧で作られたのか

もう一つソリー=フラッドが注目したのが、船首周辺の傷だった。

調査員は、船首の両側などに鋭利な道具で切られたように見える跡を確認した。

さらに手すりには、斧のような鋭い道具による打撃にも見える深い傷があった。

もし人為的につけられたものなら、

船上で暴力が行われた

あるいは、

事故に見せかけるため船体を意図的に傷つけた

という可能性が出てくる。

実際、ソリー=フラッドはこうした傷を犯罪説の重要な材料として扱った。

傷についても専門家の見解は割れた

しかし、船首の傷についても「人為的な傷」と確定したわけではない。

ジブラルタルでの初期調査では、鋭利な道具によるものではないかという意見が出た。

一方、米国領事ホレイショ・スプレイグは、当時ジブラルタルにいたアメリカ海軍のロバート・W・シューフェルト艦長にも船を調べさせた。

シューフェルトは異なる見解を示した。

船首の傷は、海上で船体の木材が長期間動き続けることによって生じた通常の損傷で説明できると判断した。

つまり、

「斧で人為的につけた傷」だという評価そのものが確定しなかった。

この時点で、犯罪説を支える主要な物証はさらに弱くなった。

「証拠」と「証拠に見えたもの」を分ける

疑われたもの 当初の解釈 検証後
甲板・手すりの赤褐色の染み 血痕の可能性 血液とは確認されなかった
船長室の剣の染み 血液の可能性 血液とは確認されなかった
船首の切れたような傷 鋭利な道具で意図的に作った可能性 自然な船体損傷とする専門家意見あり。人為的損傷と確定せず
消えた救命艇 犯人が逃走した可能性 通常の退船でも同じ状態になる
アルコール積荷 飲酒・反乱の可能性 それ自体は反乱の証拠ではない

ここが、この審問を理解するうえで重要である。

殺人説は、まったく何もないところから作られたわけではない。

一見すると不自然に見える傷や染みがあった。

しかし、「不自然に見える」ことと「犯罪によるものだと証明できる」ことの間には大きな差がある。

デイ・グラティア側も疑われた

疑いは、消えたメアリー・セレスト号の乗組員だけに向けられたわけではない。

発見者であるデイ・グラティア側にも及んだ。

理由はサルベージ報酬だった。

無人船を発見し港まで運べば、船体と積荷の価値に応じた報酬を得られる。

そこで、

「デイ・グラティア側がメアリー・セレスト号の人々を殺し、その後“無人船を偶然発見した”ことにしたのではないか」

という疑いも生まれた。

これが成立するなら、サルベージ請求そのものが犯罪によって作られたことになる。

しかし、この説にも大きな問題があった。

両船はニューヨークを異なる日に出航している。

デイ・グラティアはメアリー・セレスト号より後発だった。

実際の航路や速度を考えれば、どこで追いつき、どのように10人を処理し、その後事故を偽装したのかを説明する必要がある。

さらに、暴力事件を裏付ける血液や遺体も発見されていない。

共謀を示す直接的な通信、契約、証言も確認されなかった。

したがって、

「サルベージを目的とした殺人」というシナリオも立証されなかった。

ブリッグス船長自身が共謀していた説

さらに後世には、ブリッグス船長とモアハウス船長があらかじめ共謀し、船を放棄して保険金やサルベージ報酬を得ようとしたのではないかという説まで語られた。

しかし、これも確認された事実ではない。

第2回で触れたように、ブリッグスとモアハウスが非常に親しい友人だったという有名な話自体、同時代資料による裏付けは強くない。

さらにブリッグスはメアリー・セレスト号の持分を所有していた。

正常にジェノヴァまで航海を終えた方が、自分と家族の安全も船の価値も維持できる。

その人物が、

  • 2歳の娘
  • 7人の乗組員

を巻き込みながら、大西洋上で小艇へ移る危険な保険詐欺を計画したと考えるには、相応の証拠が必要になる。

その証拠は見つかっていない。

船主ジェームズ・ウィンチェスターも疑われた

メアリー・セレスト号の主要所有者の一人だったジェームズ・ウィンチェスターも、審理の中で疑いから無縁ではなかった。

ウィンチェスターはジブラルタルへ赴き、ブリッグス船長の人物について証言した。

ブリッグスは信用できる経験ある船長であり、よほどの危機がなければ船を捨てる人物ではないという趣旨だった。

これは反乱・詐欺説よりも、

ブリッグスが何らかの実際の危険を認識したため退船した

という方向につながる証言だった。

ただし、それでも「何を危険と判断したか」は分からなかった。

犯罪説はなぜ魅力的だったのか

ソリー=フラッドが犯罪にこだわった理由を、単に「偏った捜査官だった」で終わらせると重要な部分を見失う。

1872年当時の状況だけを見れば、犯罪を疑うこと自体には理由があった。

航行可能な船から10人が消えている。

救命艇もない。

赤褐色の染みがある。

剣もある。

船首には人為的にも見える傷がある。

積荷は大量のアルコール。

さらに発見者は、船を持ち込むことで多額のサルベージ報酬を得る立場にある。

これだけを並べれば、

「何か犯罪があったのではないか」

と疑うのは不自然ではない。

問題は、その後である。

検査によって血痕説が崩れても、別の証拠が犯罪を立証したわけではなかった。

船首の損傷についても専門家の判断が一致しなかった。

遺体もない。

暴力事件を直接見た証人もいない。

犯行を示す文書もない。

ここから先、疑いを維持するには推測を積み重ねる必要があった。

裁判所は犯罪を立証できなかった

審理と調査は1873年まで続いた。

メアリー・セレスト号は2月25日に裁判所の拘束から解放され、その後本来の目的地ジェノヴァへ向かった。

そして最終的な司法判断でも、

殺人、反乱、デイ・グラティア側による犯罪を証明する証拠は認定されなかった。

ジブラルタル政府の現在の歴史資料も、ソリー=フラッドが犯罪を証明しようとしたものの、証拠は彼の殺人・共謀説を支持しなかったと整理している。

Royal Museums Greenwichも同様に、調査が進むほどフラッドの解釈に不利な材料が増えたとしている。

つまり、

「当時の当局が殺人を疑った」ことはFACT。

「殺人があった」ことはFACTではない。

この二つを混同してはいけない。

それでも疑惑だけは残った

犯罪が立証されなかったにもかかわらず、事件から疑惑は消えなかった。

むしろ審問そのものが新聞報道を通じて広まり、

  • 血の付いた剣
  • 斧で破壊された船体
  • 酔った船員の反乱
  • 船長一家の殺害
  • 発見者によるサルベージ詐欺

といった要素が一人歩きしていった。

「最初は血液と思われたが、検査では血液ではなかった」

という説明より、

「謎の無人船から血の付いた剣が発見された」

という話の方が、はるかに印象に残る。

こうして否定された疑惑まで、事件の伝説を構成する部品になっていった。

これは後の第9回「幽霊船神話」の成立にもつながっていく。

Evidence Ledger|ジブラルタル審問

区分 内容
FACT 1872年12月17日、ジブラルタルでサルベージ審理が始まった
FACT 司法長官ソリー=フラッドは犯罪関与を強く疑った
FACT 甲板・手すり・剣の赤褐色の染みが血液ではないかと調査された
FACT 医師による検査では血液を確認できなかった
FACT 船首の傷について人為的損傷とする意見が出た
FACT 一方で、海の作用による通常損傷とする専門家意見も出た
CLAIM / THEORY 乗組員がアルコールを飲み、反乱・殺人を起こした
CLAIM / THEORY デイ・グラティア側がサルベージ報酬目的で犯罪に関与した
CLAIM / THEORY ブリッグスや船主を含む保険・サルベージ詐欺が計画されていた
FACT 最終的に犯罪関与を立証できる証拠は得られなかった

審問から見えてくる、もう一つの重要な事実

ジブラルタル審問は、メアリー・セレスト号の謎を解決しなかった。

しかし、無意味だったわけでもない。

殺人や反乱を疑って船が詳細に調べられた結果、

明白な犯罪物証が見つからなかった

という情報が残った。

これは消去法として重要である。

もし10人が船上で殺されたという直接証拠がないのであれば、

救命艇が消えていること、
航海計器と書類の一部がなくなっていること、
最後の記録時に陸地が比較的近かったこと、
ポンプが分解されていたこと、
船内に浸水があったこと、

を改めて組み合わせて考える必要がある。

ここから事件の焦点は、

「誰が10人を殺したのか」

から、

「なぜ10人は自分たちで船を離れた可能性があるのか」

へ移っていく。

問題は「実際の船の状態」ではなく「船長から見えた状態」だった可能性

後から調べれば、メアリー・セレスト号はジブラルタルまで航行できた。

つまり、結果的には船を捨てなくても沈まなかった可能性が高い。

しかし、ブリッグス船長が最後に船上にいた時点では、それを知ることはできない。

彼が見ていたのは、

  • 長期間の荒天
  • 船内への浸水
  • 正常に使えなかった可能性があるポンプ
  • 船倉の状態を確認しにくい積荷配置
  • 航法上の不確実性
  • サンタマリア島という近い陸地

だった可能性がある。

もし「船内への水の流入量が分からない」「ポンプで排水できない」「このまま沈むかもしれない」と判断したなら、話は変わってくる。

そして、

本船を完全に捨てるのではなく、ロープで救命艇をつないだまま一時的に船外へ避難しようとした

のであれば、さらに別のシナリオが成立する。

次回は、犯罪説からいったん離れる。

ポンプ、浸水、荒天、航法、船位認識。

ブリッグス船長が実際には航行可能だった船を「危険」と判断する条件が、本当に成立し得たのかを技術面から検証する。

まとめ

1872年12月17日、メアリー・セレスト号をめぐるサルベージ審理がジブラルタルで始まった。

司法長官フレデリック・ソリー=フラッドは、船がまだ航行可能だったことや乗船者10人全員が消えていることから、早い段階で犯罪の可能性を強く疑った。

乗組員による反乱。

ブリッグス一家の殺害。

デイ・グラティア側によるサルベージ目的の共謀。

さまざまな可能性が調べられた。

船上の赤褐色の染みや船長室の剣も、血液ではないかと疑われた。

だが、医師による検査では血液は確認されなかった。

船首の傷も人為的につけられた可能性が指摘された一方、海上での通常の船体運動による損傷とする専門家意見が出た。

結局、

殺人、反乱、詐欺、デイ・グラティア側の犯罪関与のいずれも立証されなかった。

ここで非常に重要なのは、

「当時、本気で殺人が疑われた」

という事実と、

「殺人が起きた」

という結論を分けることである。

ジブラルタル審問が残したのは殺人事件の証明ではない。

むしろ、

犯罪を疑って徹底的に調べても、それを裏付ける決定的証拠を見つけられなかった

という記録だった。

そうなると、次に検討すべきなのは船そのものになる。

ブリッグス船長が、実際には沈まなかった船を沈没寸前だと判断するだけの条件はあったのか。

次回はポンプ、浸水、天候、航法の4点から、退船判断の技術的な成立可能性を検証する。

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CASE FILE 39|全記事

  1. メアリー・セレスト号とは?|航行可能な船から10人が消えた1872年の未解決事件
  2. 最後の航海に乗っていたのは誰か|ブリッグス船長一家と7人の乗組員
  3. 1872年11月25日まで何が記録されていたのか|ニューヨーク出航から最後の航海日誌
  4. 発見時のメアリー・セレスト号はどんな状態だったのか|Dei Gratia乗組員が見た無人船
  5. ジブラルタルの海事審問は何を疑ったのか|殺人・反乱・詐欺説と「証拠」の検証
  6. なぜブリッグス船長は船を離れた可能性があるのか|ポンプ・浸水判断・天候・航法を検証
  7. 1,701樽のアルコールは原因だったのか|漏洩・蒸気・爆発恐怖説を検証
  8. 海賊・反乱・海震・海上竜巻説はどこまで成立するのか|主要仮説を証拠で比較
  9. 「幽霊船メアリー・セレスト」はどう作られたのか|コナン・ドイルと後世の脚色
  10. 10人はどこへ消えたのか|確認事実・最有力仮説・未解決部分を最終整理

出典・参考資料

  • Government of Gibraltar / Ministry for Heritage「Courthouse」― 1872年12月17日のサルベージ審理開始、ソリー=フラッドによる犯罪説の捜査、赤褐色の染み・船体損傷、犯罪を立証できなかった経緯を確認。
  • Royal Museums Greenwich「The mystery of the Mary Celeste」― ジブラルタル到着、サルベージ審理、ソリー=フラッドが反乱・殺人を疑ったこと、調査が進むにつれて犯罪説を支持する材料が弱くなったことを確認。
  • Dr. J. Patron examination report― メアリー・セレスト号甲板および船長室の剣から採取された赤褐色の染みに対する化学・顕微鏡検査。血液を確認できなかったことを確認。
  • Old Dartmouth Historical Sketches / New Bedford Whaling Museum― パトロン医師による検査結果、デヴォーの再証言、ジブラルタル審問における血痕説の検証を参照。
  • U.S. Consul Horatio J. Sprague関連記録 / Capt. Robert W. Shufeldt report― 船首の傷について、人為的損傷ではなく海上での木材の動きによるものとする反対意見を参照。
  • Smithsonian Magazine「Abandoned Ship: The Mary Celeste」― サルベージ審問が通常の報酬決定から犯罪疑惑の調査へ拡大した経緯と、最終的に犯罪証拠が得られなかったことを確認。

本記事では「ソリー=フラッドが殺人・反乱・共謀を疑った」という当時の捜査上の主張と、「それらが証明された」という事実を明確に分離しています。特に船上・剣の赤褐色の染みは当初血液の可能性が疑われましたが、医師による検査では血液と確認されませんでした。また船首の傷についても専門家間で評価が一致しておらず、犯罪の物証として確定していません。したがって、本特集では「血の付いた剣」「船員が船長一家を殺害した」「発見者がサルベージ目的で殺害した」といった表現を確定事実として使用しません。

なぜブリッグス船長は船を離れた可能性があるのか|ポンプ・浸水判断・天候・航法を検証

海難・失踪ミステリー

メアリー・セレスト号は沈まなかった。

1872年12月に発見されたあと、オリバー・デヴォーとわずか2人の船員によってジブラルタルまで約600海里を航行した。

結果だけを見れば、

「船を捨てる必要などなかった」

ように思える。

では、経験あるベンジャミン・ブリッグス船長は、なぜ妻と2歳の娘を含む10人を本船から救命艇へ移す可能性がある判断をしたのか。

ここで一つ、事故を考えるうえで重要な原則がある。

後から分かった「実際の状態」と、その瞬間に船長が認識していた「見えている状態」は同じとは限らない。

船は実際には沈まなかった。

しかしブリッグスには、それを未来から確認することはできなかった。

彼が知ることができたのは、荒天を抜けた船に水が入り、その量を調べるためにポンプ周辺を確認し、予定より遅れてようやく陸地を発見したという、その時点までの情報だけだった可能性がある。

今回は、

  • ポンプ
  • 測深
  • 浸水
  • 積荷
  • 荒天
  • 船位認識
  • サンタマリア島

を分けて検証する。

目的は「この説が真相だ」と決めることではない。

ブリッグスが合理的に退船を判断する条件が、少なくとも成立し得たのか。

そこまでを確認する。

この記事で分かること

  • 発見されたポンプは本当に故障していたのか
  • 測深棒は何を調べるために使われたのか
  • 「3.5フィートの水」は何を意味するのか
  • 積荷1,701樽が浸水確認を難しくした可能性
  • 最後の夜の荒天はどの程度重要なのか
  • ブリッグスが船位を誤認していたという現代仮説
  • なぜサンタマリア島付近で一時退船するシナリオが考えられるのか
  • この仮説でも説明できない最後の問題
CASE FILE 39|メアリー・セレスト号 1872

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第6回|なぜブリッグス船長は船を離れた可能性があるのか|ポンプ・浸水判断・天候・航法を検証【現在の記事】

→ 第7回|1,701樽のアルコールは原因だったのか|漏洩・蒸気・爆発恐怖説を検証

まず、「沈まなかったから退船は不合理」は成立しない

メアリー・セレスト号事件では、結果を知っている現在からブリッグスの判断を評価しないことが重要になる。

12月4日にデイ・グラティア側が発見した船は、損傷と浸水こそあったものの、ジブラルタルまで航海できた。

だから現在の私たちは、

「船は沈まなかった」

と知っている。

しかし、11月25日前後のブリッグスには分からない。

船長に必要だったのは、

現在どれだけ水が入っているか

だけではない。

水位が増えているのか。

その増加をポンプで抑えられるのか。

船体のどこから水が入っているのか。

今後さらに増えるのか。

を判断することだった。

つまり、安全性の評価に必要なのは水位そのものより、

浸水量 × 流入速度 × 排水能力

である。

この三つのうち一つでも把握できなければ、船長の判断には大きな不確実性が生じる。

発見時、約3.5フィートの水が測定された

デイ・グラティアの第一航海士オリバー・デヴォーは、メアリー・セレスト号へ乗り込んだ後、ポンプを調べた。

その証言では、約3.5フィートの水が測定された。

メートル換算では約1.1メートルである。

ただし、この数字には注意が必要になる。

一般向けの記事ではしばしば、

「船倉に1.1メートルの水がたまっていた」

と表現される。

しかしデヴォーの証言は、より厳密にはポンプ/測深箇所で3.5フィートの水を測ったという内容である。

船倉全体に均一に1.1メートルの水が広がっていた、とそのまま解釈するべきではない。

さらに、この数値だけでは浸水速度も分からない。

昨日から急速に増えた3.5フィートなのか。

数日かけて蓄積したものなのか。

一時的に荒天から入り込んだ水なのか。

発見時の測定だけでは判断できない。

技術的注意|「3.5フィート」をそのまま浸水量にしない

水位は「深さ」であり、船内に存在する水の総量ではない。

水がどこに集まっているか、船体形状、積荷配置、船の傾きによって同じ水量でも測定値は変化する。

さらに事故判断で重要なのは、単発の水位より時間当たりの増加量排水能力である。

ポンプは「壊れていた」のか

ここはメアリー・セレスト号で非常に誤解されやすい部分である。

発見時、船にあった2基のポンプのうち1基が部分的に分解された状態だった。

このため、

「ポンプが故障していた」

「排水不能になったため船を捨てた」

と説明されることがある。

しかし、1872年のデヴォー証言を見ると、そこまで単純ではない。

デヴォーはポンプ機構について良好な状態だったという趣旨を証言している。

そして1基が外されていた理由について、

測深棒を下ろすためだった

と説明している。

小型船では独立した測深管を設けず、ポンプの一部を外してそこから水位を測る構造が存在した。

つまり、

「ポンプが分解されていた」というFACTから、「故障して使えなかった」というFACTを作ることはできない。

ここは明確に分離する必要がある。

では、なぜ「ポンプ故障説」が出てきたのか

後世の再検証で重要な仮説を提示したのが、海事史研究者アン・マグレガーらによる再構成だった。

マグレガーは、メアリー・セレスト号が直前の航海で石炭を運んでいたこと、さらに船が改修を受けていたことに注目した。

そこから、

  • 石炭粉
  • 船体改修時の木片・ごみ

などがビルジ周辺へ入り、

ポンプの吸込みや水路を阻害した可能性

を提唱した。

もしこれが起きていたなら、

「ポンプ本体が壊れている」

のではなく、

「機械自体は動くが、期待した排水能力を得られない」

という状態も考えられる。

これは機械設備でも同じである。

モーターが回る。

ポンプ機構も動く。

しかし吸込み側が詰まっていれば、必要流量は得られない。

ただし、重要なのは、

これが1872年の調査で確認された事実ではない

ということである。

石炭粉や改修ごみによるポンプ能力低下は、後世の合理的な再構成仮説である。

測深棒がポンプのそばに残されていた

発見時、ポンプの近くには測深棒が残されていた。

測深棒は、船底部にたまった水の深さを確認するために使用する。

これは失踪直前の行動を考えるうえで興味深い。

少なくとも、

誰かが船内の水量を気にして測定した可能性

とは整合するからである。

ただし、

「測深棒が出ていた」

から、

「測定直後にパニックになって退船した」

まで一気に進めることはできない。

船内の水位確認は通常の船舶管理でも行われる。

測深棒が残っていたことは、

水位測定が行われた可能性を示す状況証拠

までである。

1,701樽の積荷が「見る」ことを難しくしていた可能性

メアリー・セレスト号の船倉には1,701樽ものアルコールが積み込まれていた。

船倉は貨物で大きく占有されていた。

そのため、船倉底部を直接目視して、

「どこから水が入っているか」

「どれだけ水がたまっているか」

を簡単に確認できる状態ではなかった可能性がある。

ここでポンプや測深系統に問題が加わると、船長の認識はさらに不確実になる。

例えば、

測深値が増えている。

しかし船底は直接見えない。

排水しても思うように減らない。

原因も確認できない。

そうなれば、

実際以上に重大な浸水が進行している

と判断する可能性が生まれる。

重要なのは、これが「船長がパニックを起こした」という説明ではないことだ。

限られたセンサーしかないシステムで、危険側に判断する可能性を検討している。

最後の夜には荒天があった

第3回で確認したように、メアリー・セレスト号は大西洋横断中、荒天を経験していた。

特に最後の航海記録直前の夜について、後世の気象データを用いた再構成では、風速35ノットを超える強風があった可能性が示されている。

35ノットは約18メートル毎秒である。

帆船にとって航海不能な数字そのものではない。

しかし、

  • 荒天が続いている
  • 船内へ水が入っている
  • 船の水位把握に不確実性がある
  • 排水能力に疑問がある

という条件が重なるなら、単独の35ノットとは意味が変わる。

事故は、一つの異常だけで成立するとは限らない。

複数の小さな不確実性が同時に存在すると、判断は急速に難しくなる。

もう一つの問題|自分がどこにいるか

船長が退船を判断するとき、船体状態だけでなく現在位置も重要になる。

何百海里も陸地から離れているなら、小艇へ移ることは極めて危険である。

一方、陸地が見えているなら評価は変わる。

メアリー・セレスト号最後の記録は、アゾレス諸島サンタマリア島付近だった。

午前8時、島の東端が南南西約6海里にあると記録されている。

およそ11キロメートル。

視認できる距離に陸地があった。

もし船長が、

「本船が沈む可能性がある」

と判断していたなら、

陸地が近いうちに小艇へ移る

という選択肢は、外洋中央部で退船するよりは合理性を持つ。

もちろん、実際にサンタマリア島へ向かったことを示す記録はない。

ここでも、

退船するならそのタイミングを選ぶ理由が成立する

というところまでである。

ブリッグスは自分の位置を120マイル誤っていたのか

さらに興味深いのが、後世の航跡再構成である。

アン・マグレガーと気象学者フィル・リチャードソンは、ソリー=フラッドが残した最後の数日間の航海記録と、歴史的な海洋・気象データを照合した。

その結果、彼らは、

ブリッグスが実際の位置より約120マイル東側にいると考えていた可能性

を提示した。

言い換えれば、実際の船はブリッグスが考えていた位置より約120マイル西にいたという再構成である。

原因候補として挙げられたのが、クロノメーターの誤差だった。

19世紀の航海では、正確な経度を求めるために正確な時刻が重要になる。

クロノメーターに誤差があれば、経度の計算にも誤差が入る。

マグレガーらの再構成では、ブリッグスの計算上なら、実際にサンタマリア島を目撃するより数日前に陸地を確認していてもおかしくない位置関係になっていたという。

そのためブリッグスにとって、

「予定していた時期になっても陸地が見えない」

という追加の不安材料が存在した可能性がある。

ただし「クロノメーター故障」は確定事実ではない

この120マイルという数字は非常に具体的であるため、確定事実のように見える。

しかしそうではない。

これは、

  • 失われた原本の代わりとなるソリー=フラッドの転記
  • 当時の海況データ
  • 航跡
  • 推定速度

を組み合わせた現代の再構成である。

ブリッグス本人が、

「クロノメーターが故障している」

と書き残した記録が存在するわけではない。

したがって、

「船位誤差が存在した可能性」=THEORY

「クロノメーター故障が原因だった」=さらに一段仮説

とするのが適切である。

条件を一つずつではなく、重ねてみる

ここまでの条件を並べる。

条件 確度 判断への影響
荒天を経験していた FACT 船体・索具・浸水への警戒
船内に水が入っていた FACT 浸水量と増加速度の把握が必要
水位確認が行われた形跡 FACT / 強い状況証拠 船内の水が意識されていた可能性
1基のポンプが外されていた FACT 測深のためだったとの証言あり
ポンプ能力が石炭粉等で低下 THEORY 排水能力への不信につながり得る
船位に大きな誤差があった THEORY 航海判断の不確実性を増加
サンタマリア島を視認 FACT 退船するなら陸地が近い機会

一つだけなら、退船を説明できない。

荒天だけなら航海を続ける。

多少の浸水だけでも、排水できれば航海を続ける。

位置誤差だけでも船を捨てない。

しかし、

荒天


浸水


水量把握への不安


排水能力への疑念


航法上の不確実性


近くに見える陸地

が同時に存在したなら、

「今のうちに船を離れる」

という判断が生まれる条件は成立し得る。

完全退船ではなく「一時退避」だった可能性

ここで重要になるのが、

ブリッグスは最初からメアリー・セレスト号を永久に捨てるつもりだったのか

という問題である。

救命艇へ移るというと、

本船を完全に放棄し、小艇だけで陸へ向かった姿を想像しやすい。

しかし別のシナリオも考えられる。

本船と救命艇を長いロープでつなぎ、

危険が収まるまで一時的に船外へ避難する。

船が沈まなければ戻る。

もし沈めば小艇で近くの島へ向かう。

この方法なら、

「航行可能な本船をなぜ完全に捨てたのか」

という問題は少し変わる。

船長は「捨てた」のではなく、

戻るつもりで一時的に離れた

可能性があるからである。

切れたロープがすべてを変えたのか

発見時のメアリー・セレスト号には、船尾付近からロープが海中へ伸びていたとする証言・記録がある。

後世には、

これが救命艇と本船を結んでいた曳航索だったのではないか、

という説が提唱されている。

もし一時退避中に、

  • 強風
  • 本船と小艇の速度差
  • ロープの破断

が起きればどうなるか。

小型艇の乗員から見れば、メアリー・セレスト号は帆を一部残したまま急速に離れていく。

小艇だけでは追いつけない。

本船は無人のまま大西洋へ流れていく。

そして10人は小さな艇に取り残される。

このシナリオなら、

  • 船が航行可能な状態で残った
  • 救命艇がなくなった
  • 10人全員がいなくなった
  • 航海計器や書類が持ち出された
  • 遺体や暴力痕跡が船内にない

という複数の事実を比較的少ない仮定で説明できる。

ただし、

ロープが実際に救命艇をつないでいたことを証明する直接証拠はない。

これも合理的なTHEORYである。

この説が説明できないこと

技術的退船説には一定の強みがある。

しかし「有力に見える」ことと「解決した」は別である。

いくつか大きな空白が残る。

1|退船を決定させた直接の出来事が分からない

ポンプなのか。

浸水なのか。

アルコール蒸気なのか。

荒天なのか。

複数の条件なのか。

ブリッグス本人の記録がないため、決定要因は確認できない。

2|いつ船を離れたか分からない

11月25日午前8時は最後の記録であって、退船時刻ではない。

その直後だったのか、数時間後だったのかは不明である。

3|救命艇そのものが発見されていない

艇も10人もその後確認されていない。

したがって、ロープ破断後に何が起きたかを物証から追うことができない。

4|ポンプ能力低下は実証されていない

発見者デヴォーの証言ではポンプ機構は良好だった。

石炭粉・改修ごみによる閉塞は後世の仮説であり、1872年に閉塞物そのものが記録されたわけではない。

5|船位誤差も再構成である

約120マイルの誤差という説も、現代のデータ分析から導かれたものだ。

クロノメーター故障を直接示す史料はない。

では、現時点でどこまで評価できるのか

命題 評価
船内には浸水があった FACT
乗員が水位を測定していた可能性がある LIKELY
1基のポンプが測深のため外されていた FACT
ポンプそのものが壊れていた 未確認
石炭粉等によって排水能力が低下していた THEORY
最後の夜に荒天があった FACT / 後世データによる補強
ブリッグスの認識位置に約120マイルの誤差があった THEORY
サンタマリア島付近で退船した LIKELY / THEORY
本船と救命艇をロープでつないだ一時退避だった THEORY
ロープが切れて本船へ戻れなくなった THEORY

「判断ミス」より「情報不足」と見る方が適切かもしれない

この仮説が興味深いのは、ブリッグスを無能な船長として扱わなくても成立する点にある。

事故後に分かった情報を使えば、

「船は沈まなかったのだから残ればよかった」

と言える。

しかし当時の船上では、

水量を正確に把握できない。

排水能力にも不安がある。

荒天が続く。

船位にも自信を失っている可能性がある。

そこへ陸地が見える。

という条件だった可能性がある。

安全設計の考え方でいえば、

「沈没することが確定してから退船する」では遅い。

沈没確率が無視できないと判断した段階で、退避を検討する必要がある。

問題は、ブリッグスがその確率を正しく評価できるだけの情報を持っていたかどうかである。

その答えは残っていない。

それでも、まだ一つ大きな要素が残っている

ポンプ、浸水、荒天、航法だけでも一時退船の条件はある程度説明できる。

しかしメアリー・セレスト号には、もう一つ無視できない要素があった。

船倉を埋めていた1,701樽の工業用アルコールである。

後の荷下ろしでは、そのうち9樽が空になっていた。

もしアルコールが漏れ、船倉へ蒸気がたまっていたとすればどうなるのか。

実際に爆発が起きたのか。

爆発しなくても、船長が爆発を恐れるだけで退船理由になり得るのか。

そして、

なぜ発見された船には焼損や大爆発の跡がなかったのか。

次回は、メアリー・セレスト号でもっとも有名な合理的仮説の一つ、

アルコール蒸気・爆発恐怖説

を、積荷と樽の構造から検証する。

まとめ

メアリー・セレスト号が後にジブラルタルまで航行できたからといって、ブリッグス船長の退船判断が最初から非合理だったとは断定できない。

発見時には船内へ水が入り、約3.5フィートの水位が測定されている。

ポンプの一つは部分的に外され、その近くには測深棒が残されていた。

ただし、これは「ポンプが故障していた」という直接証拠ではない。

デヴォーはポンプ機構を良好と証言し、1基が外されていたのは水位を測るためだったとしている。

一方、後世の再検証では、直前の石炭輸送や船体改修による粉じん・ごみがポンプ能力を低下させた可能性が提唱された。

さらに最後の夜には荒天があり、現代の航跡再構成ではブリッグスが自船の位置を大きく誤認していた可能性も指摘されている。

そこへ、サンタマリア島という陸地が現れた。

これらを重ねれば、

「船が沈むかもしれない。陸地が近いうちに、一時的に救命艇へ移ろう」

という判断が成立する余地はある。

そして本船と小艇を結ぶ索が失われたなら、航行可能なメアリー・セレスト号だけが大西洋へ走り去り、10人が小艇に取り残されたという結果も説明できる。

しかし、これは一貫したシナリオであって、証明された真相ではない。

ポンプ閉塞も、船位誤差も、一時退船も、索の破断も、決定的な直接証拠を欠いている。

現在言えるのは、

経験ある船長が退船を考えるだけの複数の不確実要因は存在し得た

というところまでである。

次回は、その判断をさらに切迫させた可能性がある1,701樽のアルコールを検証する。

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第7回|1,701樽のアルコールは原因だったのか|漏洩・蒸気・爆発恐怖説を検証

CASE FILE 39|全記事

  1. メアリー・セレスト号とは?|航行可能な船から10人が消えた1872年の未解決事件
  2. 最後の航海に乗っていたのは誰か|ブリッグス船長一家と7人の乗組員
  3. 1872年11月25日まで何が記録されていたのか|ニューヨーク出航から最後の航海日誌
  4. 発見時のメアリー・セレスト号はどんな状態だったのか|Dei Gratia乗組員が見た無人船
  5. ジブラルタルの海事審問は何を疑ったのか|殺人・反乱・詐欺説と「証拠」の検証
  6. なぜブリッグス船長は船を離れた可能性があるのか|ポンプ・浸水判断・天候・航法を検証
  7. 1,701樽のアルコールは原因だったのか|漏洩・蒸気・爆発恐怖説を検証
  8. 海賊・反乱・海震・海上竜巻説はどこまで成立するのか|主要仮説を証拠で比較
  9. 「幽霊船メアリー・セレスト」はどう作られたのか|コナン・ドイルと後世の脚色
  10. 10人はどこへ消えたのか|確認事実・最有力仮説・未解決部分を最終整理

出典・参考資料

  • Royal Museums Greenwich「The mystery of the Mary Celeste」― 1基のポンプが部分的に外されていたこと、測深棒が付近に残されていたこと、救命艇・航海計器等の発見状況を確認。
  • Gibraltar Vice-Admiralty Court / Oliver Deveau testimony― 約3.5フィートの水の測定、ポンプ機構の状態、1基を測深棒挿入のため外していたことに関する発見者証言を参照。
  • Peabody Essex Museum, Phillips Library「Benjamin Spooner Briggs Papers」― ジブラルタル副海事裁判所での証言・調査記録の保存所在を確認。
  • Smithsonian Magazine「Abandoned Ship: The Mary Celeste」― Anne MacGregor / Phil Richardsonによる航跡・気象再構成、約120マイルの船位誤差仮説、荒天、石炭粉・改修残渣によるポンプ能力低下仮説を参照。
  • Smithsonian Magazine「An Abandoned Merchant Ship Was Discovered Floating in the Atlantic in 1872」― ポンプ閉塞・浸水判断を中心とする現代的退船仮説が、確定した解決ではないことを確認。

本記事では、1872年の発見記録と後世の再構成仮説を分離しています。「ポンプが故障していた」「クロノメーターが故障していた」「サンタマリア島付近で一時退船した」「本船と救命艇を結ぶ索が切れた」は、いずれも直接確認された事実ではありません。また、一般に「船倉に約3.5フィートの水」と要約される数値についても、デヴォーの証言ではポンプ/測深箇所での水位として記録されているため、船倉全体に均一な約1.1メートルの浸水があったという意味には使用していません。

1,701樽のアルコールは原因だったのか|漏洩・蒸気・爆発恐怖説を検証

海難・失踪ミステリー

メアリー・セレスト号の船倉には、1,701樽ものアルコールが積まれていた。

そして、船が無人で発見されたあと、積荷を調べると、そのうち9樽が空になっていた。

この二つの事実は、150年以上にわたって一つの説を生み続けてきた。

アルコールが漏れ、船倉に可燃性の蒸気がたまり、爆発または爆発への恐怖によって10人が船を離れたのではないか。

この説には大きな利点がある。

殺人も海賊も必要ない。

経験あるブリッグス船長が、妻と2歳の娘を含む全員を救命艇へ移す理由も作れる。

さらに、実際には沈まなかった船を、なぜ一時的にでも離れたのかという問題にも答えられる可能性がある。

しかし、一つ大きな反論がある。

メアリー・セレスト号には、

大規模な火災や爆発による明白な焼損がなかった。

それなら、本当にアルコールが原因だったと言えるのか。

今回は、

  • 何を積んでいたのか
  • 9樽が空だったことは何を意味するのか
  • アルコール蒸気は船倉にたまり得るのか
  • 火災痕がなくても爆発は成立するのか
  • 実際に爆発した証拠はあるのか
  • 爆発しなくても「爆発すると思った」だけで退船理由になるのか

を分けて検証する。

この記事で分かること

  • 1,701樽のアルコールはどのような積荷だったのか
  • 9樽が空だったことは確認事実なのか
  • 「船員が酒を飲んだ」という反乱説が弱い理由
  • 赤オーク製の樽が漏れやすかったという現代的解釈
  • アルコール蒸気爆発は物理的に成立し得るのか
  • なぜ明白な焼損がなくても爆発説が残るのか
  • 2026年の模型実験が何を示し、何を証明していないのか
  • アルコール説を最終的にどのEvidence Classへ置くべきか
CASE FILE 39|メアリー・セレスト号 1872

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第7回|1,701樽のアルコールは原因だったのか|漏洩・蒸気・爆発恐怖説を検証【現在の記事】

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積荷は約1,700樽のアルコールだった

1872年11月、メアリー・セレスト号はニューヨークからイタリアのジェノヴァへ向かった。

その船倉を埋めていた主な積荷がアルコールだった。

Royal Museums Greenwichは約1,700樽、後世の詳細な史料整理では1,701樽と記録している。

これは乗組員が航海中に飲むための酒ではない。

商業用の貨物として輸送されていた高濃度のアルコールだった。

イタリアではワインの酒精強化などにも利用できる商品である。

したがって、第5回で扱った古い反乱説のように、

「船員が酒樽を開けて酔い、船長一家を殺した」

と単純に考えることには問題がある。

積荷としてアルコールが存在したことはFACT。

船員がそれを飲んだことは確認されていない。

1,701樽のうち、9樽が空だった

事件を考えるうえでもっとも重要なのが9樽である。

後の積荷確認では、1,701樽のうち9樽が空になっていたことが判明した。

1,701樽中9樽。

割合にすると約0.53%である。

圧倒的大多数の樽には中身が残っていた。

このため、

「船倉のアルコールが大量に消失していた」

と表現するのは適切ではない。

一方で、9樽が空だったこと自体は無視できない。

中身はどこへ行ったのか。

漏れたのか。

誰かが開けたのか。

そして漏れたアルコールが蒸発していれば、船倉の気相環境に影響した可能性はある。

9樽は「飲まれた」のか

19世紀の犯罪説では、空の樽が乗組員による飲酒と結び付けられることがあった。

しかし、この説明には直接証拠がない。

樽を意図的に開けた記録はない。

船内から大量飲酒を示す物証も確認されていない。

さらに、後世の再検証では別の説明が提示された。

空になった9樽だけが、残りの多数とは異なる木材で作られていた可能性である。

赤オーク製の9樽

海事史研究者アン・マグレガーによる現代的再検証では、空になった9樽はred oak(赤オーク)製だったとされている。

他の多くの樽にはwhite oak(ホワイトオーク)が使われていた。

この違いは単なる色ではない。

木材の組織構造が異なる。

一般にホワイトオークは液体保持性に優れ、樽材として広く使用される。

一方、赤オークは導管構造の関係から液体を通しやすい。

そのためマグレガーは、

9樽が空になったのは、誰かが酒を飲んだからではなく、樽から自然に漏洩したためではないか

と考えた。

この説明なら、

「なぜ1,701樽のうち特定の少数だけが空になったのか」

にも一定の説明がつく。

Evidence上の注意|赤オーク説

FACT:後の積荷確認で9樽が空だった。

現代の史料再検証:空の9樽は赤オーク製だったと報告されている。

THEORY:赤オークの透過性によってアルコールが徐々に漏洩した。

したがって「9樽から漏洩したことが1872年の審問で原因として確定した」という意味ではない。

漏れたアルコールはどこへ行くのか

仮に樽からアルコールが漏れたとする。

液体のまま船底へ流れるだけではない。

アルコールには揮発性があるため、一部は蒸発して気体となる。

密閉または換気の悪い空間なら、蒸気濃度が上昇する可能性がある。

一定濃度の可燃性蒸気と空気が混ざり、そこへ着火源が加われば燃焼が起きる。

着火源としては、

  • 裸火
  • ランプ
  • 喫煙
  • 金属同士の接触による火花

などが理論上考えられる。

つまり、

アルコール漏洩 → 蒸気発生 → 可燃性混合気形成 → 着火

という現象そのものは物理的に理解できる。

問題は、それがメアリー・セレスト号で実際に起きたかである。

最初の大きな反論|発見者は強い蒸気臭を報告していない

アルコール蒸気説には、史料上の弱点がある。

12月4日に船へ乗り込んだデイ・グラティア側の乗組員は、

強烈なアルコール蒸気の臭い

を重要な異常として報告していない。

さらに、アン・マグレガーの再検証では、発見時の主ハッチが閉じられていたことも指摘されている。

もし大規模な漏洩によって船倉全体が危険な濃度のアルコール蒸気で満たされ続けていたのなら、

約9日後に乗船した人々が何も気付かなかったのはなぜか。

これはアルコール説が説明しなければならない問題になる。

もっとも、失踪から発見までには時間がある。

その間に換気された、温度が変化した、蒸気が拡散した可能性もある。

したがって、

発見時に臭わなかった=11月25日前後にも蒸気が存在しなかった

とは断定できない。

しかし、積極的な裏付けがないことは確かである。

第二の大きな反論|爆発の跡がない

さらに分かりやすい問題がある。

発見されたメアリー・セレスト号には、

大規模な火災による焼失跡がなかった。

船倉が爆発したのであれば、

  • 焦げた木材
  • 焼けたハッチ
  • 大規模な船体変形
  • 火災の痕跡

が残っていてもよさそうに思える。

そのため長い間、

「爆発していたなら痕跡があるはずだ」

という点がアルコール蒸気説への強い反論になってきた。

しかし、この部分については21世紀になって興味深い実験が行われている。

2006年、燃焼痕を残さない爆発は可能か

2006年、University College Londonの化学者アンドレア・セラは、メアリー・セレスト号のアルコール蒸気仮説を検討するため、模型を用いた実験に関わった。

この初期実験では、実際のエタノールそのものではなく、ブタンなどを利用して急速な気相燃焼を再現した。

そこで示されたのは、

可燃性蒸気の急速な燃焼が、長時間燃え続ける火災とは異なる現象になり得る

ということだった。

瞬間的な圧力波と炎が生じても、その後燃料供給が続かなければ、船全体が火災になるとは限らない。

ただし、この2006年実験には限界がある。

実船とはサイズも構造も違う。

実際の積荷条件も完全には再現していない。

そして何より、

「その現象が起こり得る」ことを示す実験と、「1872年に起きた」ことの証明は別である。

2026年、木製模型とエタノールで再び検証された

そして2026年、この仮説についてさらに実船条件へ近づけた模型実験が行われた。

マンチェスター大学の化学者ジャック・ロウボサムとフランク・メアは、メアリー・セレスト号を模した1/18スケールの木製模型を使用した。

今回はブタンではなく、実際の積荷に対応するエタノールを使った。

まず、ニューヨーク出航時の冬季に近い低温条件では、模型船倉内へエタノールを噴霧して火花を発生させても爆発しなかった。

次に、アゾレス諸島付近のより暖かい環境を想定して、模型とエタノールを加温した。

そこで着火すると、

急速な蒸気爆発が発生した。

ハッチは吹き飛び、甲板には変形が生じた。

しかし、木製模型に明確な焦げや持続的な火災痕はほとんど残らなかった。

つまり実験は、

「アルコール蒸気爆発が起きたなら必ず船内が黒焦げになる」

という前提が必ずしも正しくないことを示した。

2026年模型実験が示したこと

エタノール蒸気

十分な温度

空気との適切な混合

着火源

短時間の急速な燃焼・圧力上昇は成立し得る

その後、持続火災や明白な炭化痕をほとんど残さない条件も模型では再現できた。

ただし、2026年実験も「事件解決」ではない

ここは非常に重要である。

模型で現象を再現できたからといって、

メアリー・セレスト号で同じことが起きたことにはならない。

実験によって確認できるのは、

「物理的に不可能ではない」

ということだけである。

1872年の船内で、

  • どれだけアルコールが漏れたのか
  • 蒸気濃度がどこまで上昇したのか
  • 船倉の温度はいくつだったのか
  • 換気状態はどうだったのか
  • 着火源が存在したのか
  • 実際に圧力波が発生したのか

を直接測定したデータは存在しない。

さらに2026年の実験は、歴史的事故を完全再現した査定試験ではなく、テレビ・科学コミュニケーションの文脈で行われた模型実験である。

したがって、

「2026年に真相が解明された」

と表現するのは行き過ぎである。

実際に爆発していなくても退船は説明できる

ここで、アルコール説にはもう一つ別の形がある。

実際には爆発しなかった。

しかしブリッグスが、

「爆発するかもしれない」

と判断したというシナリオである。

これなら、船内に爆発痕がないことは問題にならない。

例えば、

  • 船倉から異臭がする
  • 一部の樽から漏洩している
  • 荒天によって樽が動いた可能性がある
  • ハッチ周辺に圧力・異常を感じる

といった兆候があれば、船長は予防的に船倉から距離を取ろうとする可能性がある。

特に妻と幼児を乗せている。

そこで、

本船と救命艇をロープでつなぐ


全員を一時的に艇へ移す


船倉を換気する


危険がなくなれば戻る

という運用なら、

「航行可能な船を永久に捨てた」

よりは理解しやすい。

問題は、これを示す直接記録がないことである。

アルコール説とポンプ説は競合するとは限らない

第6回では、

  • 荒天
  • 浸水
  • 水位測定
  • ポンプ能力への不安
  • 船位認識の不確実性
  • サンタマリア島の視認

を検討した。

今回のアルコール説は、それとは別の完全独立原因とは限らない。

実際の船上判断では、

複数の異常が同時に存在した

可能性がある。

例えば、

長期間の荒天


船内への浸水


排水状態が分かりにくい


積荷からアルコール漏洩の疑い


船倉を開けて確認


蒸気・臭気への警戒


近くにサンタマリア島を発見


今なら一時退船できる

という複合シナリオも成立する。

事故原因を一つに固定するより、実際にはこちらの方が人間の意思決定として自然な場合がある。

ハッチの状態は爆発説と矛盾するのか

爆発説では、

「船倉内の圧力でハッチが吹き飛んだ」

という描写が使われることがある。

しかし、発見時の記録を見ると慎重になる必要がある。

Royal Museums Greenwichは、前後の貨物ハッチが開かれ、そのカバーが甲板に置かれていたことを記している。

一方、現代のマグレガーによる再検証では、主ハッチの状態から、単純な「巨大爆発でハッチが吹き飛んだ」という説明には疑問を呈している。

つまり発見状況から、

大規模な船倉爆発が確実に起きた

とは言えない。

2026年実験で「爆発は可能」と分かっても、この史料上の問題は消えない。

9樽だけで危険濃度になるのか

ここも簡単には答えられない。

「9樽が空」

という情報だけでは、

9樽分すべてが一度に船倉へ流出したのか、

長期間かけて少しずつ漏れたのか、

途中で蒸発・換気されたのか、

分からない。

もし航海期間を通じて少しずつ木材を透過したなら、一時点で大量の液体が船底へ流れ込んだとは限らない。

逆に、荒天や樽の移動によって漏洩が急増した可能性も理論上はある。

したがって、

「9樽が空だった」だけから船倉内の蒸気濃度を計算することはできない。

必要な初期条件が足りないからである。

アルコール説が説明しやすいもの

確認事実 アルコール説との整合
1,701樽のアルコールを積載 原因物質となり得る貨物が実在
9樽が空 漏洩が起きた可能性と整合
10人全員が退船した可能性 船全体に関わる危険認識なら説明しやすい
船体は沈没しなかった 「実害」より「危険認識」で退船したなら整合
明白な殺人痕跡なし 犯罪を仮定する必要がない
救命艇・航海計器がない 計画的な一時退船とも整合

アルコール説が説明しにくいもの

問題 残る不確実性
大火災・明白な焼損がない 短時間の気相燃焼なら可能との実験はあるが、実船で起きた証拠ではない
発見者が強烈なアルコール蒸気を報告していない 失踪から約9日あり、当時の濃度を復元できない
爆発を記録した航海日誌がない 最後の記録後に発生した可能性はあるが直接証拠なし
ハッチ状態が決定的ではない 巨大爆発説を直接支持する物証ではない
9樽の漏洩量・漏洩速度不明 危険濃度へ達したか計算不能

Evidence Ledger|アルコール説

区分 内容
FACT メアリー・セレスト号は約1,700樽、詳細記録では1,701樽のアルコールを積載していた
FACT 後の積荷確認で9樽が空だった
MODERN FINDING 空の9樽が赤オーク製だったとする史料再検証がある
THEORY 赤オーク製樽からアルコールが自然漏洩した
SCIENTIFICALLY PLAUSIBLE 一定条件下でエタノール蒸気と空気の混合気は急速燃焼・爆発的圧力上昇を起こし得る
EXPERIMENT 2026年の木製模型実験では、エタノール蒸気の急速燃焼と、顕著な炭化痕をほぼ残さない状態が再現された
THEORY メアリー・セレスト号でも実際に蒸気爆発が発生した
THEORY 実際の爆発ではなく、爆発を恐れて一時退船した
UNSUPPORTED 船員が9樽のアルコールを飲み、酔って反乱を起こした

現時点では「爆発説」より「危険認識説」の方が説明負荷が小さい

アルコールを原因候補として考える場合、二つのシナリオを分ける必要がある。

A|実際に蒸気爆発が発生した

漏洩したアルコールから蒸気が発生。

着火。

瞬間的な燃焼または圧力上昇。

驚いた乗船者が救命艇へ避難。

という説明である。

2026年の模型実験によって、明白な焼損をほとんど残さない急速燃焼が物理的に成立する可能性は補強された。

しかし、実船で爆発が発生した直接証拠がない。

B|爆発すると思って一時退船した

アルコール漏洩または臭気を認識。

船倉内での火災・爆発を警戒。

ハッチを開ける、換気する。

その間、家族を含む全員を救命艇へ移す。

本船とは索でつないでおく。

という説明である。

こちらなら、実際の爆発痕を必要としない。

したがって現時点では、

「実際に巨大爆発が起きた」より、「船長が積荷に何らかの危険を認識し、一時的な退避を選んだ」シナリオの方が、追加仮定は少ない。

ただし、後者にも直接証拠はない。

アルコールだけを「唯一の原因」にする必要はない

事故を一つの原因だけで説明しようとすると、無理が生じることがある。

メアリー・セレスト号の場合も同じである。

アルコールだけで考えるより、

第6回までに確認した船の状態と合わせた方が自然かもしれない。

例えば、

荒天


浸水


水位・排水能力への不安


積荷からの漏洩または異臭


船体状態を実際以上に危険と判断


近くにサンタマリア島を確認


救命艇へ一時退避

という複数要因の連鎖である。

そしてその後、

本船と救命艇をつないでいた何らかの接続が失われる。

これなら、

なぜ船が残り、
なぜ人だけがいなくなり、
なぜ救命艇がなく、
なぜ航海計器まで持ち出され、
なぜ船内に殺人痕跡がないのか、

を一つの連鎖で説明できる。

しかし、「説明できる」ことは「起きた」ことではない。

では、アルコール説はどの程度有力なのか

証拠だけから評価すると、

アルコールが積まれていたことは確実。

9樽が空だったことも確認されている。

アルコール蒸気の急速燃焼が物理的に成立し得ることも分かっている。

ここまでは比較的強い。

しかし、

1872年11月25日前後に危険濃度の蒸気が存在した。

爆発した。

ブリッグスがその危険を理由に退船した。

となると、証拠はない。

したがってアルコール説は、

荒唐無稽な説ではない。

しかし、

「現在もっとも科学的だから真相」と確定できる説でもない。

という位置になる。

まとめ

メアリー・セレスト号には1,701樽のアルコールが積まれていた。

後の積荷確認では9樽が空になっていた。

これはアルコール漏洩・蒸気説を考えるための実在する証拠である。

一方、9樽が空だったからといって、乗組員が酒を飲んだ証拠にはならない。

現代の史料再検証では、空の9樽がより液体を通しやすい赤オーク製だったとされ、自然漏洩の可能性が指摘されている。

漏れたアルコールから可燃性蒸気が生じれば、条件次第で急速な燃焼が起こること自体は化学的に成立する。

2026年には、木製1/18模型と実際のエタノールを使用した実験でも、短時間の蒸気爆発と、明白な炭化痕をほとんど残さない状態が再現された。

したがって、

「船が黒焦げになっていないからアルコール蒸気爆発は絶対にあり得ない」

とまでは言えない。

しかし、模型実験は1872年の出来事を証明しない。

メアリー・セレスト号で実際に爆発が起きたことを示す直接的な物証や航海記録は存在しない。

現時点でもっとも慎重な評価は、

積荷のアルコールは、乗船者が船を危険と判断した要因になり得る。しかし、それが実際の退船原因だったことは証明されていない。

となる。

そしてメアリー・セレスト号には、アルコール以外にも多くの説が存在する。

海賊。

反乱。

サルベージ詐欺。

海震。

巨大波。

海上竜巻。

次回は、それらを一つずつ紹介するのではなく、

同じ証拠、同じ評価基準にかけて比較する。

どの説が確認事実とよく整合し、どの説が説明のために追加仮定を大量に必要とするのか。

CASE39全体の仮説比較へ進む。

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第8回|海賊・反乱・海震・海上竜巻説はどこまで成立するのか|主要仮説を証拠で比較

CASE FILE 39|全記事

  1. メアリー・セレスト号とは?|航行可能な船から10人が消えた1872年の未解決事件
  2. 最後の航海に乗っていたのは誰か|ブリッグス船長一家と7人の乗組員
  3. 1872年11月25日まで何が記録されていたのか|ニューヨーク出航から最後の航海日誌
  4. 発見時のメアリー・セレスト号はどんな状態だったのか|Dei Gratia乗組員が見た無人船
  5. ジブラルタルの海事審問は何を疑ったのか|殺人・反乱・詐欺説と「証拠」の検証
  6. なぜブリッグス船長は船を離れた可能性があるのか|ポンプ・浸水判断・天候・航法を検証
  7. 1,701樽のアルコールは原因だったのか|漏洩・蒸気・爆発恐怖説を検証
  8. 海賊・反乱・海震・海上竜巻説はどこまで成立するのか|主要仮説を証拠で比較
  9. 「幽霊船メアリー・セレスト」はどう作られたのか|コナン・ドイルと後世の脚色
  10. 10人はどこへ消えたのか|確認事実・最有力仮説・未解決部分を最終整理

出典・参考資料

  • Royal Museums Greenwich「The mystery of the Mary Celeste」― 約1,700樽のアルコール積荷、船内・ハッチの発見状況、アルコール蒸気爆発説が後世の主要仮説の一つであることを確認。
  • Smithsonian Magazine「Abandoned Ship: The Mary Celeste」― 1,701樽中9樽が空だったこと、空の9樽が赤オーク製だったというAnne MacGregorの史料再検証、赤オークの透過性、発見者が強い蒸気臭を報告していないことを参照。
  • Chemistry World「Chemists think they know what happened on board the Mary Celeste」(2026)― Jack Rowbotham / Frank Mairによる1/18木製模型とエタノールを用いた蒸気爆発再現実験、温度条件、急速燃焼後に顕著な炭化痕が残らなかった結果を参照。
  • Andrea Sella / 2006年模型実験― 気相燃焼が持続的な船内火災とは異なる形を取り得るという先行実験。2026年実験との比較資料として使用。

本記事では、「1,701樽を積載」「9樽が空だった」という確認情報と、「樽から漏れた」「船倉に危険濃度の蒸気が形成された」「実際に爆発した」「ブリッグスが爆発を恐れて退船した」という仮説を分離しています。2026年の模型実験は、木製模型とエタノールを用いて、顕著な炭化痕を残さない短時間の蒸気燃焼が物理的に成立し得ることを示したものですが、1872年のメアリー・セレスト号で同じ現象が発生したことを証明するものではありません。また、赤オーク製9樽についても現代の史料再検証に基づくため、1872年当時に「赤オークからの漏洩が事故原因」と認定されたものではありません。

海賊・反乱・海震・海上竜巻説はどこまで成立するのか|主要仮説を証拠で比較

海難・失踪ミステリー

海賊に襲われた。

乗組員が反乱を起こした。

船長と発見者が保険金目当てで共謀した。

海震が船を襲った。

海上竜巻に巻き込まれた。

巨大生物が人間だけをさらった。

そして、船倉のアルコールが爆発した。

1872年に無人で発見されたメアリー・セレスト号には、150年以上にわたって無数の説明が提案されてきた。

説が多いと、それだけ事件に多くの証拠があるように感じる。

しかし実際には逆である。

決定的な記録がないから、数多くのシナリオを排除し切れない。

そこで今回は、「こんなこともあり得る」という発想から一度離れる。

各説を同じ条件にかける。

  • 航行可能だった本船を説明できるか
  • 救命艇がなくなった理由を説明できるか
  • 10人全員が船を離れた理由を説明できるか
  • 明白な暴力痕跡がないことと整合するか
  • 積荷の大部分が残っていたことと整合するか
  • 重要書類・航海計器が持ち出されたことを説明できるか
  • 船へ戻れなかった理由を説明できるか
  • 1872~73年の記録による直接的な裏付けがあるか

そして、

もっとも刺激的な説ではなく、もっとも少ない追加仮定で確認事実を説明できる説

を探す。

この記事で分かること

  • 海賊説がなぜ有名なのに支持しにくいのか
  • 乗組員反乱説にはどの程度の証拠があるのか
  • デイ・グラティア側のサルベージ詐欺説は成立するのか
  • 海震説には史料上の裏付けがあるのか
  • 海上竜巻・巨大波説は発見状況と整合するのか
  • アルコール説と浸水・ポンプ説の強みと弱み
  • 現時点でもっとも追加仮定が少ないシナリオは何か
  • それでも「解決」と言えない理由
CASE FILE 39|メアリー・セレスト号 1872

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まず、説明しなければならない「8つの事実」

仮説を比較する前に、少なくとも説明対象となる事実を固定する。

No. 説明すべき事実
1 船長一家3人と乗組員7人、計10人全員がいなくなった
2 救命艇がなくなっていた
3 船の重要書類とブリッグスの一部航海計器もなくなっていた
4 船内に明白な大量殺人の証拠は確認されなかった
5 積荷の大部分と乗員の私物が残っていた
6 船には損傷と浸水があったが、後に再び航行できた
7 最後の記録はサンタマリア島付近だった
8 10人も救命艇も、その後確実には発見されていない

強い仮説は、この8点をなるべく一つの連鎖で説明できる。

弱い仮説は、一つを説明するために別の事実と矛盾したり、証拠のない出来事をいくつも追加しなければならない。

仮説1|海賊に襲われた

もっとも分かりやすい説明の一つが海賊説である。

19世紀の大西洋を航海中、

別の船に襲われ、

10人が殺害または拉致された。

その後、メアリー・セレスト号だけが放置された。

というシナリオだ。

人が全員いなくなったこと自体は説明できる。

しかし問題は、船内に残されたものにある。

メアリー・セレスト号そのものが残っている。

約1,700樽の積荷も大部分が残っている。

乗組員の私物も概ね残っている。

そして最初に乗船したデヴォーらは、明白な暴力の跡を確認していない。

海賊が経済的利益のために襲ったのであれば、

価値のある船と積荷を残し、人間10人だけを消す理由

を追加で説明しなければならない。

さらに、なぜ救命艇と航海計器までなくなったのかも問題になる。

海賊説|評価

10人不在:○
救命艇不在:△
積荷残存:×
私物残存:×
暴力痕跡なし:×
直接証拠:×

総合:低

海賊説を完全に論理上排除することはできない。

しかし、現在残っている物証から積極的に海賊を導く材料はない。

仮説2|乗組員が反乱を起こした

反乱説は1872年当時から実際に疑われた。

ジブラルタル司法長官フレデリック・ソリー=フラッドも、

乗組員が積荷のアルコールを飲み、

ブリッグス船長一家を殺害したのではないかと考えた。

この説には、一見して説明力がある。

暴力事件


船長一家死亡


反乱者が救命艇で逃亡

とすれば、人と艇が消えたことを説明できる。

しかし第5回で確認したように、物証が続かなかった。

血液と疑われた染みは血液とは確認されなかった。

剣の染みも血液ではなかった。

船首の傷についても人為的損傷とは確定しなかった。

遺体もない。

そして、船長一家だけでなく反乱を起こしたはずの船員自身まで全員消えている。

反乱者が船を奪うことが目的なら、なぜ使用可能なメアリー・セレスト号を捨てて小型艇に移るのかという問題も残る。

反乱説|評価

10人不在:△
救命艇不在:△
暴力痕跡:×
船を捨てた理由:×
積荷残存:△
当時の公的検討:○
犯罪を裏付ける証拠:×

総合:低

反乱説は「当時の捜査仮説」として重要だが、現在のEvidenceでは強い説とは言いにくい。

仮説3|デイ・グラティア側が殺害し、サルベージ報酬を狙った

これもジブラルタル審問に起源を持つ。

無人船を港まで運べば、デイ・グラティア側にはサルベージ報酬が支払われる。

そこで、

デイ・グラティアがメアリー・セレスト号を捕捉


10人を殺害


無人船に見せかける


「偶然発見した」と申告


報酬を得る

という筋書きである。

だが、この説にも大きな問題がある。

デイ・グラティアはメアリー・セレスト号より後にニューヨークを出航している。

そのうえ、犯罪を示す直接証拠は見つからなかった。

殺害場所も、遺体処理も、共謀を示す記録もない。

サルベージ報酬を得るために10人を殺害するという非常に大きな犯罪を仮定しながら、それを支える物証が存在しない。

つまり、

説明するために必要な追加仮定が多すぎる。

仮説4|ブリッグスとモアハウスが最初から共謀した

殺人ではなく、両船長が最初から計画していたという説もある。

メアリー・セレスト号を意図的に放棄し、
デイ・グラティアが発見、
サルベージ報酬を分ける。

しかし、この説はさらに難しい。

ブリッグスは妻と2歳の娘を乗せている。

大西洋上で幼児を含む10人を小型艇へ移す行為自体が生命を危険にさらす。

しかも、その後10人全員が実際に行方不明になっている。

共謀計画だったなら、

安全に上陸して身を隠す場所、回収船、通信方法などが必要になる。

それらを裏付ける資料はない。

また、後世に広まった「ブリッグスとモアハウスは親友だった」という話も、同時代記録による強い裏付けがない。

成立させるには、

証拠のない巨大な計画を丸ごと追加する必要がある。

したがって説明力は低い。

仮説5|海震が発生した

自然現象の中では、海震説も提案されてきた。

海震とは、海底地震などによって船体に強い振動や衝撃が伝わる現象である。

もしメアリー・セレスト号付近で強い海震が起きたなら、

  • 船体が激しく振動する
  • 積荷の樽が動く
  • アルコールが漏れる
  • 船体が損傷したと思わせる
  • 乗員が沈没を恐れる

といった連鎖を想定できる。

海震説には、興味深い実例もある。

1885年には、別の船が激しい海震を経験し、乗組員が船を放棄した事例が報告されている。

つまり、

「海震に驚いた船員が航行可能な船を離れる」という行動そのものは、船員行動として不可能ではない。

問題はメアリー・セレスト号である。

1872年11月25日前後に、同船付近で退船を引き起こす規模の地震・海震が起きたことを示す確実な記録は確認されていない。

後世、アゾレス側の気象機関へ照会された記録でも、該当する地震記録はないと回答されたとする史料研究がある。

したがって、

物理的には成立するが、この事件へ適用する直接証拠がない。

海震説|評価

突然の退船:○
船が残る:○
10人全員の退避:○
救命艇不在:○
航海計器持出し:△
1872年の該当現象記録:×

総合:低~中/物理的可能性はあるが事件固有の証拠が弱い

仮説6|海上竜巻・ウォータースパウト

海上竜巻、いわゆるwaterspoutも古くから候補に挙がってきた。

強い海上竜巻に遭遇すれば、

  • 急激な風
  • 大きな波
  • 大量の海水
  • 帆・索具の損傷

が発生し得る。

メアリー・セレスト号には実際に、

帆・索具の損傷と浸水があった。

その意味では、一部の発見状況と整合する。

しかし問題は、退船行動である。

激しいウォータースパウトの最中に、

船長が妻と2歳の娘を含む10人全員を大型本船から小型艇へ移すことが、本当に安全側の判断になるのか。

通常、暴風と高波そのものが主な脅威なら、小艇の方が危険になりやすい。

そのため海上竜巻説だけで、

「なぜ全員が救命艇へ移ったのか」

まで説明するには追加条件が必要になる。

例えば、

竜巻によって船体が致命的に損傷したと思い込んだ、

あるいは大量浸水が起きた、

という別の判断要因を加える必要がある。

さらに、メアリー・セレスト号を実際にウォータースパウトが襲ったことを示す直接記録もない。

仮説7|巨大波・異常波

巨大波や突然の異常波が甲板を襲ったという説もある。

これなら、

  • 浸水
  • 索具損傷
  • ハッチ周辺の異常

をある程度説明できる。

しかし、

一波で10人全員が海へ流された

という説明には救命艇の欠落が合わない。

航海計器と重要書類まで同時になくなることも説明しにくい。

逆に、

大波によって危険を感じ、その後計画的に救命艇へ移った

とすれば説明できるが、それは結局、

「自然現象によって船長が沈没を恐れ、退船した」

というより広い退船仮説の一部になる。

仮説8|10人全員が海へ落ちた

最も単純に見える説が、

大波などによって10人全員が一度に海へ落ちた、

というものだ。

しかし発見状況とは合いにくい。

救命艇がない。

船の重要書類もない。

ブリッグスの航海計器もない。

偶然全員が転落すると同時に、それらの物まで都合よく消える説明は難しい。

したがって、

少なくとも「全員が偶然一斉に流された」より、意図的な退船の方が物証との整合性が高い。

仮説9|アルコール蒸気・爆発

前回詳しく扱った説である。

1,701樽のアルコール。

そのうち9樽が空。

漏洩したアルコールから蒸気が発生。

着火または爆発への恐怖。

そのため全員が小艇へ避難した。

というシナリオである。

この説は他の多くの説より強い。

原因候補となる物質が実際に船内に存在したからである。

そして9樽が空だったという物証もある。

一方で、

実際に爆発したことを示す直接記録はない。

発見時に大規模な焼損も確認されていない。

したがって、

「巨大爆発が起きた」

より、

「積荷に危険を感じ、予防的に退避した」

とする方が少ない仮定で成立しやすい。

仮説10|浸水・ポンプ・航法の複合要因

現代的な再検証でもっとも重視されるのが、第6回で扱った複合シナリオである。

これは、

「一つの異常が突然すべてを起こした」

とは考えない。

複数の小さな不確実性が重なったとする。

例えば、

長期間の荒天


船内へ水が入る


水位を測定する


排水能力または浸水量に不安を持つ


船倉は1,701樽の貨物で確認しにくい


船位にも不確実性


ようやくサンタマリア島を視認


「まだ陸地が近い今のうちに一時退船する」

という連鎖である。

この説の強みは、

  • 浸水が実際にあった
  • 水位確認に使う測深棒が出ていた
  • ポンプの一つが外されていた
  • 荒天を経験していた
  • 最後の記録では陸地が近かった
  • 救命艇がなくなった
  • 航海計器・書類もなくなった

という実在する状況証拠を比較的多く利用できることである。

ただし弱点もある。

ポンプが実際に能力低下していたことは確認されていない。

船位誤差も現代の再構成である。

そしてブリッグス本人が、

「沈没すると考えた」

という記録を残していない。

したがって、この説もTHEORYである。

仮説11|一時退船後に本船と離れてしまった

ここまでの中で、もっとも重要なのが「永久放棄ではなかった」という考え方である。

ブリッグスは、

メアリー・セレスト号を完全に捨てたのではなく、

危険が収まるまで救命艇へ一時的に移った

可能性がある。

本船と艇を索でつなぐ。

危険が収まれば戻る。

本当に沈み始めれば、艇でサンタマリア島を目指す。

この運用であれば、

経験ある船長が航行可能な船を離れた問題をある程度説明できる。

その後、

強風や波などによって索が失われた。

帆を一部残した本船だけが風を受けて離れていく。

救命艇では追いつけない。

10人が外洋に取り残される。

そしてメアリー・セレスト号だけが無人で航海を続ける。

このシナリオなら、

  • 船が航行可能だった
  • 人が全員いない
  • 救命艇もない
  • 航海計器も持ち出された
  • 船内に殺人痕跡がない
  • 積荷も残っている

という主要事実を一つの流れで説明できる。

問題は、

実際に艇を本船へつないでいたことを証明する直接証拠がない

ことである。

主要仮説を同じ評価軸で比較する

仮説 全員不在 救命艇 積荷残存 暴力痕なし 計器持出し 直接証拠 総合
海賊 × × ×
反乱・殺人 × ×
サルベージ詐欺 ×
海震 × 低~中
海上竜巻・異常波 × 低~中
アルコール危険認識
浸水・ポンプ・航法複合 中~高
一時退船+本船との離別 中~高

この表の「中~高」は、

真相である確率を数値化したものではない。

確認できる事実との整合性と、必要となる追加仮定の少なさを比較した相対評価である。

では、現在もっとも合理的な再構成は何か

ここまでのEvidenceだけで考えると、

海賊。

反乱。

殺人。

詐欺。

といった犯罪説より、

乗船者自身が何らかの危険を認識し、救命艇へ移った

という説明の方が物証と整合する。

さらに、

「船を永久に捨てた」

より、

「一時的な退避だったが、本船へ戻れなくなった」

とした方が、経験あるブリッグス船長の行動を説明しやすい。

その判断を引き起こした原因については、

  • 浸水
  • ポンプ・水位把握への不安
  • 荒天
  • 航法上の不確実性
  • アルコール積荷への懸念

のいずれか一つ、または複数が候補になる。

現時点で、

一つだけを選ぶ必要はない。

むしろ事故として考えれば、複数要因が同時に判断へ影響した可能性の方が自然である。

それでも「最有力説=真相」ではない

ここでCASE39のルールへ戻る。

合理的に再構成できることと、史実として確認できることは違う。

われわれは、

ブリッグスが救命艇へ乗る瞬間を見ていない。

退船命令を書いた文書もない。

救命艇も見つかっていない。

生存者もいない。

したがって、

「浸水とポンプが原因だった」

「アルコールが原因だった」

「索が切れた」

のどれも、現在はTHEORYを越えない。

事件は依然として未解決である。

超常現象説はどう扱うべきか

メアリー・セレスト号には、

  • 巨大イカ
  • 海の怪物
  • 宇宙人
  • 異次元
  • 超常現象

まで持ち出されてきた。

しかし、これらは他の自然・事故仮説とはEvidence Classが異なる。

海震や海上竜巻には少なくとも実在する自然現象という基盤がある。

アルコール蒸気には実在する積荷がある。

浸水には実際の測定がある。

一方、巨大生物や超常現象がメアリー・セレスト号を襲ったことを示す物証は何もない。

したがって、

「排除できない説」の一つとして同列に扱うべきではない。

Evidence Class

犯罪説:THEORY / 当時検討されたが未立証
海震・海上竜巻:THEORY / 実在現象だが事件固有の証拠なし
アルコール危険説:THEORY / 実在する積荷・空樽という状況証拠あり
浸水・ポンプ・一時退船:THEORY / 発見状況との整合性が比較的高い
怪物・宇宙人等:RUMOR / FICTION

「謎」を大きくしたのは、証拠だけではなかった

こうして主要説を比較すると、奇妙なことに気づく。

もっとも有名な説が、もっとも証拠の強い説とは限らない。

血の付いた剣。

酔った反乱者。

海賊。

巨大生物。

食卓に残された温かい食事。

これらは印象に残る。

一方、

浸水量の評価。

ポンプ能力。

測深。

クロノメーター。

船長のリスク判断。

一時退避。

といった説明は地味である。

しかし、現実の事故は後者のような小さな条件の積み重ねで成立することが多い。

それでも現在のメアリー・セレスト号は、

「食事の途中で人間だけが消えた幽霊船」

として記憶されている。

なぜそうなったのか。

その原因は1872年の大西洋だけにはない。

事件の12年後、一人の若い作家が発表した短編小説が大きな役割を果たす。

その人物は、

アーサー・コナン・ドイル。

後のシャーロック・ホームズの作者である。

次回は、実際のメアリー・セレスト号から一度離れる。

1872年の海難事件が、どのようにして世界でもっとも有名な「幽霊船」へ変わったのか。

事実ではなかった細部が、なぜ150年後まで史実のように語られているのかを追う。

まとめ

メアリー・セレスト号には、海賊、反乱、殺人、サルベージ詐欺、海震、海上竜巻、アルコール爆発など、数多くの説が提案されてきた。

しかし、同じ証拠で比較すると強弱が見えてくる。

海賊説は、価値のある船と積荷が残されたことを説明しにくい。

反乱・殺人説は当時の司法当局が実際に検討したが、血痕や殺人を示す決定的な物証は得られなかった。

詐欺・共謀説も、それを示す文書、証言、資金関係は確認されていない。

海震や海上竜巻は実在する自然現象だが、メアリー・セレスト号を実際に襲ったことを示す直接証拠がない。

アルコール説には、実在する積荷と9個の空樽という状況証拠がある。

そして浸水・ポンプ・荒天・航法の複合説は、発見時の複数の物証を比較的少ない仮定で説明できる。

そこへ、

「永久放棄ではなく、一時退避したあと本船へ戻れなくなった」

というシナリオを加えると、船だけが航行可能な状態で残った理由も説明しやすくなる。

したがって現時点では、

何らかの船上の危険を認識したブリッグス船長が全員を救命艇へ一時退避させ、その後本船と離別した

という系統の仮説が、もっとも確認事実との整合性が高い。

しかし、その危険が何だったのか。

本当に一時退船だったのか。

どうして本船と離れたのか。

その後10人に何が起きたのか。

直接証拠は残っていない。

だからメアリー・セレスト号は、現在も未解決である。

そして、その証拠の空白には、やがて物語が入り込んでいった。

次回は「幽霊船メアリー・セレスト」が作られていく過程を検証する。

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CASE FILE 39|全記事

  1. メアリー・セレスト号とは?|航行可能な船から10人が消えた1872年の未解決事件
  2. 最後の航海に乗っていたのは誰か|ブリッグス船長一家と7人の乗組員
  3. 1872年11月25日まで何が記録されていたのか|ニューヨーク出航から最後の航海日誌
  4. 発見時のメアリー・セレスト号はどんな状態だったのか|Dei Gratia乗組員が見た無人船
  5. ジブラルタルの海事審問は何を疑ったのか|殺人・反乱・詐欺説と「証拠」の検証
  6. なぜブリッグス船長は船を離れた可能性があるのか|ポンプ・浸水判断・天候・航法を検証
  7. 1,701樽のアルコールは原因だったのか|漏洩・蒸気・爆発恐怖説を検証
  8. 海賊・反乱・海震・海上竜巻説はどこまで成立するのか|主要仮説を証拠で比較
  9. 「幽霊船メアリー・セレスト」はどう作られたのか|コナン・ドイルと後世の脚色
  10. 10人はどこへ消えたのか|確認事実・最有力仮説・未解決部分を最終整理

出典・参考資料

  • Royal Museums Greenwich「The mystery of the Mary Celeste」― 海賊・反乱・詐欺・アルコール蒸気など主要仮説、発見時の船体・救命艇・書類・航海計器の状態、現在も未解決であることを確認。
  • Smithsonian Magazine「Abandoned Ship: The Mary Celeste」― 海賊説・反乱説の問題点、Anne MacGregorによる浸水・ポンプ・航法を組み合わせた現代的再構成を参照。
  • Smithsonian Magazine「An Abandoned Merchant Ship Was Discovered Floating in the Atlantic in 1872」― ポンプ・荒天・船長による退船判断を軸とする再構成が、あくまで未確定の仮説であることを確認。
  • Gibraltar Vice-Admiralty Court関連記録― 反乱・殺人・サルベージ共謀が当時実際に検討された一方、犯罪を立証する証拠が確立されなかったことを基礎資料とした。
  • Charles Edey Fay以降のMary Celeste史料研究― 海震説など後世の自然現象説の成立過程を参照。1872年11月25日前後の地震・海震について確実な同時代記録が確認されていないため、事件固有のEvidenceとしては採用していない。

本記事の「総合評価」は、各仮説が真相である確率を数値化したものではありません。発見時の物証、ジブラルタル審問、航海記録との整合性、説明に必要な追加仮定の数を比較した相対評価です。特に海震・海上竜巻・異常波は実在する自然現象ですが、1872年11月25日前後にメアリー・セレスト号を実際に襲ったことを示す直接証拠は確認されていません。また「浸水・ポンプ・一時退船」も現時点で比較的整合性が高い再構成という位置づけであり、確定した真相とはしていません。

「幽霊船メアリー・セレスト」はどう作られたのか|コナン・ドイルと後世の脚色

海難・失踪ミステリー

1872年、大西洋で無人の商船が発見された。

10人がいない。

救命艇もない。

船には損傷と浸水があったが、その後ジブラルタルまで航行できた。

これが、メアリー・セレスト号事件の基本的な姿だった。

ところが現在、この船について語られる場面は少し違う。

食卓には食事が残っていた。

人間だけが一瞬で消えた。

船内は完全な状態だった。

血の付いた武器が発見された。

そして船名は時に、

「Marie Celeste」

と書かれる。

1872年の記録にはない要素が、いつの間にか事件そのものと混ざっている。

その過程を考えるうえで、無視できない人物がいる。

後にシャーロック・ホームズを生み出す、

アーサー・コナン・ドイル。

事件から12年後の1884年。

25歳だったドイルは、メアリー・セレスト号を題材にした短編小説を発表した。

作品名は、

『J. Habakuk Jephson’s Statement』

――「J・ハバクク・ジェフソンの証言」。

これは調査報告書ではない。

最初からフィクションだった。

しかし、その物語はあまりに事件らしい形式で書かれていた。

そして一部の創作設定は、150年後の現在まで「メアリー・セレスト号の事実」として残ることになる。

この記事で分かること

  • コナン・ドイルがいつメアリー・セレスト号を小説化したのか
  • 『J. Habakuk Jephson’s Statement』とはどんな作品なのか
  • 実際の事件から何が変更されたのか
  • なぜ「Mary」ではなく「Marie Celeste」が広まったのか
  • フィクションを事実だと思った読者がいたのはなぜか
  • 現在の「幽霊船」像のどこまでをドイル作品に帰せるのか
  • ドイル以後、新聞・書籍・映画によって謎がどう増殖したのか
  • 1872年の事件と後世の物語をどう分離すべきか
CASE FILE 39|メアリー・セレスト号 1872

← 第8回|海賊・反乱・海震・海上竜巻説はどこまで成立するのか|主要仮説を証拠で比較

第9回|「幽霊船メアリー・セレスト」はどう作られたのか|コナン・ドイルと後世の脚色【現在の記事】

→ 第10回|10人はどこへ消えたのか|確認事実・最有力仮説・未解決部分を最終整理

1884年1月、コナン・ドイルが短編を発表した

メアリー・セレスト号が無人で発見されてから約12年。

1884年1月号のイギリスの文芸誌『The Cornhill Magazine』に、一つの短編小説が掲載された。

タイトルは、

J. Habakuk Jephson’s Statement

だった。

作者はアーサー・コナン・ドイル。

ただし掲載時には、作者名は明記されなかった。

匿名作品である。

ドイルがシャーロック・ホームズ第1作『緋色の研究』を発表するのは1887年。

つまりこの作品は、「世界的な推理作家コナン・ドイル」が完成する以前の初期作品だった。

それでも『J. Habakuk Jephson’s Statement』は、ドイル初期の重要な成功作の一つとなった。

作品は「唯一の生存者による証言」という形式だった

この物語が特徴的なのは、

単なる海洋冒険小説として始まらないことである。

題名そのものが、

「ジェフソンの証言」

となっている。

語り手のJ・ハバクク・ジェフソン博士は、

「メアリー・セレスト号事件に実際に乗っていた生存者」

という設定で登場する。

そして、

世間では長年解けなかった事件について、

「私は真相を知っている」

という形式で語り始める。

現代で言えば、

架空の証言録、

フェイクドキュメンタリー、

あるいはモキュメンタリーに近い構造である。

この形式が、現実とフィクションの境界を曖昧にした。

小説の船名は「Mary」ではなかった

もっとも分かりやすい違いが船名である。

実在した船は、

Mary Celeste

である。

ところがドイルは作品内で、

Marie Celeste

と書いた。

MaryがMarieへ変わっている。

Royal Museums Greenwichは、この誤った綴りがドイル作品によって広まり、現在でも事実と混同される代表例だとしている。

つまり、

「Marie Celeste」

という表記を古い資料で見つけても、

「当時は両方の船名が正式に使われていた」

という意味ではない。

後世のフィクションから広まった表記である。

FACT CHECK|船名

実際の船:Mary Celeste
ドイル作品:Marie Celeste

現在でも「Marie Celeste」と表記されることがあるが、実船の正式名ではない。

年代まで1年変えられている

違うのは船名だけではない。

ドイル作品の冒頭では、

無人船が発見された事件を1873年としている。

実際の発見は、

1872年12月4日

である。

つまり作品は史実をそのまま再現しようとしていない。

最初から現実の事件を材料として組み替えている。

ニューヨーク→ジェノヴァが、ボストン→リスボンになった

実際のメアリー・セレスト号は、

1872年11月7日、

ニューヨークからイタリアのジェノヴァへ向けて出航した。

しかしドイル作品では、

船はボストンからリスボンへ向かったことになっている。

出航地も目的地も変更されている。

これだけでも、

『J. Habakuk Jephson’s Statement』を1872年事件の史料として使用できないことは明らかである。

10人だった乗船者が14人になった

実在事件の乗船者は10人。

  • ベンジャミン・ブリッグス船長
  • 妻サラ
  • 2歳の娘ソフィア
  • 7人の乗組員

だった。

乗客はいない。

ところがドイル作品では、船長の名前はJ・W・ティブスへ変更される。

さらに架空の乗客が追加され、

乗船者は14人になる。

その中の一人が、物語の語り手ジェフソン博士である。

したがって、

「メアリー・セレスト号には乗客がいた」

という情報をドイル作品から史実へ逆輸入することはできない。

実在事件とドイル作品を並べる

項目 1872年の実在事件 1884年ドイル作品
船名 Mary Celeste Marie Celeste
事件年 1872年 1873年
出航地 ニューヨーク ボストン
目的地 ジェノヴァ リスボン
船長 Benjamin Briggs J. W. Tibbs
乗船者 10人 14人
一般乗客 なし 架空の乗客を追加
事件原因 未解決 物語上の「真相」を設定

比較すると、ドイル作品が

「メアリー・セレスト号事件を忠実に小説化したもの」

ではないことが分かる。

実在事件から基本アイデアを借りた、

大幅なフィクション

である。

ドイルは事件に「答え」を作った

実際のメアリー・セレスト号には、現在も確定した答えがない。

だからこそ物語を書く側には大きな空白が存在した。

ドイルはそこへ、完全なフィクションによる解決を入れた。

作品では架空の乗客セプティミウス・ゴーリングを中心とする犯罪的陰謀が事件原因として描かれる。

ジェフソン博士だけが生存し、後に「真相」を語る。

この筋書きは1872年の調査結果とは関係がない。

また、その人物描写や事件設定には、19世紀英国文学に見られる人種的偏見や植民地主義的ステレオタイプが強く含まれている。

現在、これを歴史的説明として採用する理由はない。

重要なのは内容そのものより、

未解決事件に、読者が納得できる「犯人」と「唯一の生存者」と「告白」を与えた

ことだった。

なぜフィクションを事実だと思う人が出たのか

原因の一つは、作品の形式にある。

ドイルは、

「これは私が考えた架空のMary Celeste物語です」

という形では始めなかった。

架空のジェフソン博士本人が、

長年語られなかった証言を公表する、

という形式を採用した。

さらに作品冒頭では、

  • Gibraltar Gazette
  • 電報
  • 船の記録
  • 過去の報道

のような、実際の資料を思わせる要素を組み込んでいる。

もちろん、それらも物語上の装置を含んでいる。

しかし、読者から見ると、

新聞記事+公文書+生存者証言

のような構成に見える。

しかも掲載時には作者名が出ていなかった。

この組み合わせによって、現実の報告だと受け取った人がいたとされている。

翌1885年にはアメリカでも再掲載された

物語はイギリスだけに留まらなかった。

1885年4月3日、アメリカの『Boston Herald』にも再掲載された。

その際には、

「Marie Celesteの驚くべき航海」

「消えた乗組員に何が起きたのか」

といった意味の、新聞記事を思わせる見出しが付けられた。

さらに、

「長年の謎が解明された」

という趣旨まで前面に出された。

フィクションが、実録記事のような体裁でさらに流通していったのである。

「Marie Celeste」は創作が史実へ逆流した代表例

ドイル作品の影響をもっとも分かりやすく確認できるのが、

Marie Celeste

という船名である。

これは作品上の改変だった。

ところが作品が有名になるにつれ、逆にこちらが実際の船名だと考えられるようになった。

現在でも、

「Mary Celeste(別名Marie Celeste)」

のような説明を見ることがある。

しかし実際には、

正式名Mary Celeste


ドイルがMarie Celesteと創作


作品が広まる


後世の資料がMarieを再利用

という流れである。

これは、メアリー・セレスト号事件で起きた

「フィクションから史実への逆輸入」

を象徴している。

ただし「有名な誤情報すべて」をドイルのせいにはできない

ここで一つ注意が必要になる。

現在語られるメアリー・セレスト号伝説のすべてを、

「コナン・ドイルが作った」

とするのも正確ではない。

例えば、

  • 食卓に温かい食事が残っていた
  • コーヒーがまだ温かかった
  • 人が食事の途中で突然消えた
  • 船内が完全に無傷だった

といった有名な細部は、長年の新聞、書籍、映画、雑誌記事などによって増幅・変形されてきた。

ドイル作品が、

「実在事件を自由に再構成してよい物語素材」

として広く定着させる大きな契機になったことは確かである。

しかし、後世に発生したすべての誤情報の直接的な発生源が一作品だったわけではない。

重要|「ドイル由来」と「後世の伝説」を分ける

要素 評価
Marie Celesteという表記 ドイル作品による代表的改変
架空の生存者Jephson ドイルによる創作
架空の乗客・犯人 ドイルによる創作
ボストン→リスボン航路 ドイルによる改変
温かい食事が残っていた 1872年の確定事実ではない。後世の伝説として扱う
人間だけが一瞬で消えた 実際の記録からは確認不能

新聞報道も「謎」を成長させた

ドイル以前にも、メアリー・セレスト号は新聞の注目を集めていた。

ジブラルタル審問が長引いたことも大きかった。

殺人。

反乱。

サルベージ詐欺。

当時の司法長官ソリー=フラッド自身が犯罪を強く疑ったため、新聞にとって扱いやすい題材になった。

しかし第5回で確認した通り、

血液だと思われた染みは血液と確認されなかった。

殺人も反乱も立証されなかった。

ところが、

「殺人説が否定された」

より、

「無人船から謎の染みと剣が発見された」

という方が物語として残りやすい。

こうして、

一度疑われただけの情報が、後世では「事件で起きた事実」に変換される

現象が生まれた。

1935年には映画になった

20世紀に入ると、メアリー・セレスト号はさらにフィクションの題材になった。

1935年には、この事件を題材にした映画が制作され、ベラ・ルゴシも出演した。

作品では乗組員の失踪に殺人を組み込むなど、実際の事件には存在しないドラマが加えられた。

映画に限らない。

雑誌。

怪奇本。

海洋ミステリー集。

テレビ番組。

インターネット記事。

新しい媒体へ移るたびに、事件には「分かりやすい異常」が追加されていった。

なぜ「完全な船から人だけ消えた」に変わったのか

実際のメアリー・セレスト号を説明すると少し複雑である。

帆と索具には損傷がある。

船には水が入っている。

ポンプの一つは測深のため外されている。

救命艇がない。

航海書類や計器もない。

積荷の一部には漏洩の可能性がある。

これは、

「何らかの理由で計画的に退船した可能性」

を感じさせる状況である。

しかし物語としては、

「船は完璧だった」

「食事もそのままだった」

「人間だけが突然消えた」

の方が圧倒的に強い。

謎が一文で伝わるからである。

その代わり、史実からは離れる。

「幽霊船」という言葉も事件を変える

メアリー・セレスト号は現在、

「世界でもっとも有名な幽霊船」

の一つとして紹介される。

しかし、「幽霊船」という表現自体にも注意が必要になる。

幽霊船には本来、

幽霊が乗っている船、

永遠に海を漂う呪われた船、

という超常的な印象がある。

メアリー・セレスト号で確認されているのは、

人がいない状態で発見された実在の商船

である。

幽霊が確認されたわけではない。

超常現象が確認されたわけでもない。

しかも船は発見後も使用され続けた。

「幽霊船」は事件分類ではなく、

後世が与えた文化的な呼称

として理解する方が正確である。

実際のメアリー・セレスト号はその後も航海した

伝説だけを見ると、

1872年にメアリー・セレスト号そのものも消えたような印象を受けるかもしれない。

実際には違う。

船はジブラルタルでの審問後に解放された。

そして本来の目的地ジェノヴァへ向かった。

その後も所有者を変えながら商船として使用された。

つまり1872年に消えたのは、

船ではない。

ブリッグス一家と7人の乗組員である。

この違いも、「幽霊船」というイメージの中では見えにくくなっている。

伝説化の構造を整理する

1872年
航行可能な無人船が発見される

1872~73年
ジブラルタル審問で殺人・反乱・詐欺まで疑われる

犯罪は立証されない

新聞報道
疑惑そのものが広く知られる

1884年
コナン・ドイルが架空の「真相」を描く

Marie Celeste、架空の生存者など創作要素が広まる

20世紀
映画・怪奇本・雑誌・テレビがさらに再構成

現在
1872年のFACTと150年間のフィクションが混在

なぜメアリー・セレスト号は特に伝説化しやすかったのか

理由は、事件に「答えがない」からである。

タイタニック号なら沈没したことが分かる。

事故原因も大量の証言と調査資料から検証できる。

しかしメアリー・セレスト号には、

最後の判断を語る人間が一人も残っていない。

11月25日朝までは記録がある。

12月4日には無人船として発見される。

その間だけが空白になっている。

この空白は、どんな物語でも入れられる。

海賊。

反乱。

自然現象。

巨大生物。

宇宙人。

アルコール爆発。

読者が望む「答え」を挿入できる構造になっている。

そして、答えが見つからない限り、新しい説は完全には止まらない。

史実と物語を分けると、事件はむしろ面白くなる

後世の脚色を取り除くと、

メアリー・セレスト号は地味になるように思える。

しかし実際には逆である。

温かい料理もいらない。

幽霊もいらない。

巨大生物もいらない。

確認できる事実だけでも、

経験ある船長が、

妻と2歳の娘を連れ、

7人の船員とともに、

まだ浮いている船から離れた可能性が高い。

救命艇も航海計器も一緒になくなった。

そして二度と誰も確認されなかった。

船だけは無人のまま大西洋を進み続けた。

これだけで十分に不可解である。

むしろ脚色を外した方が、

「経験ある船員がなぜその判断をしたのか」

という現実の謎がはっきり見えてくる。

Evidence Ledger|伝説と史実

区分 内容
FACT 1884年1月、コナン・ドイルが『J. Habakuk Jephson’s Statement』を匿名発表した
FACT 作品は実在したMary Celeste事件を題材にしている
FICTION 船名をMarie Celesteへ変更した
FICTION 船長・乗組員・乗客構成、航路、事件年などを変更した
FICTION 唯一の生存者ジェフソンと事件の「真相」を創作した
FACT Marie Celesteという表記は後世にも広まり、現在でも誤って使用されることがある
LATER LEGEND 温かい食事、食事途中での瞬間消失などは1872年の確認事実ではない
CULTURAL LABEL 「幽霊船」は後世の文化的呼称であり、超常現象が確認されたという意味ではない

「Mary Celeste事件」と「Mary Celeste伝説」は別物である

ここまでCASE39では、

1872年の航海記録、

発見者証言、

ジブラルタル審問、

船体・ポンプ・積荷、

主要仮説、

を追ってきた。

そこから浮かぶメアリー・セレスト号は、

「何の異常もない船から人間だけが瞬間的に消えた幽霊船」

ではない。

損傷もあった。

浸水もあった。

救命艇もなくなっていた。

航海書類や計器も一部なくなっていた。

つまり、

何らかの人為的な退船行動があった可能性を示す物証は存在する。

分からないのは、

なぜそれを行ったのか。

そして、その後どうなったのか。

この二点である。

次回、伝説をすべて外して最後に残るものを見る

CASE39は次回で最終回となる。

ここまで、

人物。

航海記録。

発見状況。

海事審問。

ポンプ。

浸水。

アルコール。

各種仮説。

そして伝説化。

を分離してきた。

最後に行うのは、

「何が分かったのか」をもう一度積み上げること

である。

もっとも可能性の高い再構成はどこまで言えるのか。

それをFACTと呼んでよいのか。

どの部分から先は永遠に分からない可能性があるのか。

そして、

10人は結局どこへ消えたのか。

次回、CASE39のEvidence Ledgerを統合し、最終評価を行う。

まとめ

1884年1月、アーサー・コナン・ドイルは『The Cornhill Magazine』に『J. Habakuk Jephson’s Statement』を匿名で発表した。

作品は1872年のメアリー・セレスト号事件を題材としていたが、史実を忠実に再現したものではない。

船名はMary CelesteからMarie Celesteへ変更された。

事件年、航路、船長名、乗船者数も変更された。

さらに架空の生存者と事件原因が創作された。

しかし作品は「生存者本人の証言」のような形式で書かれ、匿名で発表されたため、一部では現実の事件報告のように受け取られた。

特にMarie Celesteという誤った船名は、現在まで残るほど広まった。

その後も新聞、書籍、映画、テレビなどによって物語化は続いた。

ただし、

現在知られるすべてのメアリー・セレスト号伝説を、コナン・ドイル一人が作ったわけではない。

温かい食事や「人間だけが瞬間的に消えた」といった細部は、さらに後世の再話の中で増殖していった。

結果として、

1872年のMary Celeste事件

と、

150年間かけて作られた「幽霊船Mary Celeste」伝説

は別のものになった。

そして伝説をすべて取り除いても、事件の核心は残る。

救命艇はない。

10人もいない。

船は残った。

その理由だけが記録されていない。

次回、確認できるすべての証拠を最後に一つへまとめる。

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CASE FILE 39|全記事

  1. メアリー・セレスト号とは?|航行可能な船から10人が消えた1872年の未解決事件
  2. 最後の航海に乗っていたのは誰か|ブリッグス船長一家と7人の乗組員
  3. 1872年11月25日まで何が記録されていたのか|ニューヨーク出航から最後の航海日誌
  4. 発見時のメアリー・セレスト号はどんな状態だったのか|Dei Gratia乗組員が見た無人船
  5. ジブラルタルの海事審問は何を疑ったのか|殺人・反乱・詐欺説と「証拠」の検証
  6. なぜブリッグス船長は船を離れた可能性があるのか|ポンプ・浸水判断・天候・航法を検証
  7. 1,701樽のアルコールは原因だったのか|漏洩・蒸気・爆発恐怖説を検証
  8. 海賊・反乱・海震・海上竜巻説はどこまで成立するのか|主要仮説を証拠で比較
  9. 「幽霊船メアリー・セレスト」はどう作られたのか|コナン・ドイルと後世の脚色
  10. 10人はどこへ消えたのか|確認事実・最有力仮説・未解決部分を最終整理

出典・参考資料

  • Royal Museums Greenwich「The mystery of the Mary Celeste」― コナン・ドイル作品がメアリー・セレスト号の大衆イメージへ与えた影響、Marie Celesteという誤表記、創作要素が現在も事実として語られる場合があることを確認。
  • The Cornhill Magazine, January 1884「J. Habakuk Jephson’s Statement」― ドイル作品原文。Marie Celesteという船名、1873年設定、Boston→Lisbon航路、架空の乗船者・事件原因等を原文から確認。
  • The Arthur Conan Doyle Encyclopedia「J. Habakuk Jephson’s Statement」― 1884年1月に匿名で初出したこと、William Smallによる6点の挿絵、後世に創作設定が実際の事件と混同されたこと、1885年のBoston Herald再掲載を確認。
  • Smithsonian Magazine「Abandoned Ship: The Mary Celeste」― 1884年のドイル作品が事件を広く定着させたこと、その後の映画・大衆文化による再構成を確認。
  • Wikimedia Commons「J. Habakuk Jephson’s Statement」関連資料― 1884年『Cornhill Magazine』掲載時のWilliam Smallによる挿絵およびPublic Domain状態を確認。

本記事では、Arthur Conan Doyleの『J. Habakuk Jephson’s Statement』を歴史資料としてではなく、メアリー・セレスト号事件が後世にどのように物語化されたかを検証する文化史資料として使用しています。特にMarie Celeste、架空の生存者Jephson、船長Tibbs、Boston→Lisbon航路、14人の乗船者、作品内の事件原因はすべて実在事件のFACTとして採用していません。また「温かい食事」等の有名な伝説についても、すべてをドイル作品直接由来とはせず、長期的な新聞・書籍・映像作品等による脚色の累積として扱っています。

10人はどこへ消えたのか|確認事実・最有力仮説・未解決部分を最終整理

海難・失踪ミステリー

1872年11月25日午前。

メアリー・セレスト号は、アゾレス諸島サンタマリア島付近を航行していた。

船にはベンジャミン・ブリッグス船長、妻サラ、2歳の娘ソフィア、そして7人の乗組員がいた。

合計10人。

午前8時ごろ、サンタマリア島東端との位置関係が記録された。

それを最後に、彼ら自身が残した確実な記録は途絶える。

約9日後。

大西洋を航行していたデイ・グラティア号がメアリー・セレスト号を発見した。

帆船はまだ浮いていた。

積荷も残っていた。

食料と水もあった。

損傷と浸水はあったが、船はその後ジブラルタルまで航行できた。

しかし、

10人全員がいなかった。

そして救命艇もなくなっていた。

1872年から150年以上。

殺人、反乱、海賊、詐欺、海震、海上竜巻、アルコール爆発。

さらに後世には、巨大生物や超常現象まで加わった。

それでも、現在まで10人がどこへ消えたのかを直接示す証拠は見つかっていない。

ではCASE FILE 39を最後に整理すると、

どこまでなら言えるのか。

そして、

どこから先は言えないのか。

最終回では、これまで扱ってきた人物、航海記録、発見状況、海事審問、船体、ポンプ、積荷、主要仮説を一つのEvidence Ledgerへ戻す。

この記事で分かること

  • 10人の失踪について現在確定している事実
  • 10人が救命艇へ移った可能性はどの程度高いのか
  • いつ船を離れた可能性が高いのか
  • なぜ航行可能な船を離れたのか
  • ポンプ・浸水・アルコール説をどう統合すべきか
  • 2026年の蒸気爆発実験で何が変わったのか
  • 犯罪説を現在どこまで評価できるのか
  • もっとも少ない仮定で説明できる最終シナリオ
  • それでも事件を「解決済み」と呼べない理由
CASE FILE 39|メアリー・セレスト号 1872

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第10回|10人はどこへ消えたのか|確認事実・最有力仮説・未解決部分を最終整理【現在の記事】

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まず、確定しているところだけを並べる

事件を考えるため、後世の仮説をいったんすべて外す。

1872年の記録と発見状況から確認できる骨格は、それほど複雑ではない。

1872年11月7日

メアリー・セレスト号はニューヨークを離れ、イタリアのジェノヴァへ向かった。

乗船者は10人。

  • ベンジャミン・スプーナー・ブリッグス船長
  • 妻サラ・ブリッグス
  • 2歳の娘ソフィア・ブリッグス
  • 第一航海士アルバート・リチャードソン
  • 第二航海士アンドリュー・ギリング
  • 給仕・料理人エドワード・ウィリアム・ヘッド
  • 4人の船員

積荷は1,701樽の工業用アルコールだった。

11月25日

船はアゾレス諸島サンタマリア島付近へ到達していた。

最後の船上記録では、島の東端が比較的近距離に確認されている。

この記録より後、10人が残した確実な記録は確認されていない。

12月4日

デイ・グラティア号が、大西洋上でメアリー・セレスト号を発見した。

10人全員がいなかった。

救命艇もなかった。

船の重要書類とブリッグスの航海計器の一部もなくなっていた。

一方、

  • 乗組員の私物
  • 食料と水
  • 船体
  • 積荷の大部分

は残されていた。

船には帆・索具の損傷があり、水も入っていた。

ポンプの一つは外された状態になっていた。

しかし船は沈まなかった。

その後、デイ・グラティアから移った少人数によってジブラルタルまで航行している。

最重要事実は「救命艇がない」こと

メアリー・セレスト号を超常現象から切り離して考えるとき、もっとも重要なのが救命艇である。

船に備えられていた艇が、発見時にはなくなっていた。

これだけなら、

「荒天で流された」

可能性も理論上は残る。

しかし他の状況を重ねる。

  • 10人全員がいない
  • 救命艇もない
  • 航海書類の一部がない
  • 船長の航海計器もない
  • 船内に10人の遺体はない

こうなると、

10人が自ら救命艇へ移った

と考える方が、はるかに少ない仮定で説明できる。

CASE39全体でまず最初に置けるLIKELYはここである。

最終評価①

10人が「船上から超常的に消えた」可能性を考える必要はない。

救命艇、航海書類、航海計器の欠落から、乗船者自身が救命艇へ移った可能性が高い。

いつ船を離れたのか

ここから確度が一段下がる。

最後の記録は11月25日午前8時ごろ。

しかし、

最後の記録時刻=退船時刻

ではない。

記録直後に船を離れたかもしれない。

数時間後かもしれない。

さらに時間が経ってからかもしれない。

ただし、サンタマリア島が比較的近くに見えていたことは重要である。

もし船長が船の安全性に重大な疑問を感じたなら、

外洋中央部より、

陸地が近いと認識できる時点で退船を判断する

方が理解しやすい。

したがって、

11月25日前後、サンタマリア島付近で退船した可能性

は比較的高い。

しかし、これも正確な時刻と地点を証明するものではない。

なぜ航行可能な船を離れたのか

ここが150年間解けていない核心である。

デイ・グラティア側が後から確認すると、メアリー・セレスト号は航行可能だった。

だから、

「経験ある船長がそんな船を捨てるはずがない」

という疑問が生まれた。

しかし第6回で確認したように、

結果として船が沈まなかったことと、退船時点で船長が沈まないと判断できたことは別である。

事故原因を考えるときに見るべきなのは、

ブリッグスが実際に持っていた情報である。

ブリッグスが直面していた可能性がある条件

船は大西洋横断中に荒天を経験していた。

発見時には水が入っていた。

水位確認に関係する測深棒が出ていた。

ポンプの一つも外されていた。

大量の樽が船倉を占有しており、船底の状態を直接確認しにくかった可能性もある。

さらに現代の航跡再構成では、ブリッグスが自船位置を正確に認識できていなかった可能性も指摘されている。

ここから想定できるのは、

「船内にどれだけ水があるのか、今後増えるのか、排水できるのかを確信できない」

という状況である。

船長に必要なのは、

「現在船が浮いている」

という情報だけではない。

数時間後も浮いているのかを判断しなければならない。

「ポンプ故障」が確定しているわけではない

ここは最終回でも区別しておく必要がある。

有力説では、

前航海の石炭粉や改修時の残渣によってポンプ系統が詰まり、排水状態を把握できなかった可能性が提案されている。

しかし、1872年の発見証言では、ポンプ機構そのものが完全に破損していたとは確認されていない。

したがって、

「ポンプ故障が原因だった」

はFACTではない。

より慎重に言えば、

浸水量・排水状態の把握に不確実性が生じ、それが船長の危険認識へ影響した可能性がある。

となる。

1,701樽のアルコールはどう評価するのか

第7回では、積荷のアルコールを独立して検証した。

確認できることは明確である。

1,701樽を積んでいた。

後に9樽が空だった。

ここまでは事実である。

そこから、

アルコールが漏れた。

蒸気が船倉にたまった。

爆発した。

ブリッグスが爆発を恐れて退船した。

と進むほど、仮説が増える。

2026年の模型実験で何が変わったのか

2026年には、マンチェスター大学の化学者らが1/18スケールの木製模型とエタノールを使用し、メアリー・セレスト号の蒸気爆発説を再現する実験を行った。

温度条件を上げた状態でエタノール蒸気へ着火すると、急速な爆発的燃焼が起こり、ハッチが飛び、甲板が変形した。

一方で、木製模型には目立つ焦げや持続的火災痕がほとんど残らなかった。

これにより、

「爆発したなら船内に必ず大きな焼損が残る」

という反論は弱くなった。

しかし、事件が解決したわけではない。

模型実験が証明したのは、

そうした現象が物理的に成立し得ること

である。

1872年11月25日にメアリー・セレスト号で実際に爆発したことを示す記録ではない。

したがって2026年時点でも、

アルコール蒸気爆発=THEORY

のままである。

むしろ「実際に爆発した」必要すらない

アルコールが事件に関与したと考える場合、

もっと説明負荷の小さいシナリオがある。

実際には爆発しなかった。

しかしブリッグスが、

「積荷に異常があり、このまま船内に残るのは危険かもしれない」

と判断したというものだ。

これなら発見時に大規模な爆発痕がないこととも矛盾しない。

ただし、アルコール臭を認識したという本人の記録も存在しない。

したがってこれもTHEORYである。

犯罪説はどこまで残るのか

ジブラルタル司法長官フレデリック・ソリー=フラッドは、

殺人、

反乱、

デイ・グラティア側の共謀、

サルベージ詐欺、

を強く疑った。

しかし調査が進むと、

血痕だと疑われた染みは血液と確認されなかった。

船長室の剣の染みも血液とは確認されなかった。

船首の傷についても、人為的な損傷であるとの判断は確定しなかった。

遺体もなかった。

共謀を示す文書もない。

最終的にジブラルタルの裁判所は、犯罪を立証する証拠を認定できなかった。

したがって、

「犯罪が完全に論理上不可能」

とは言えない。

しかし、

現在の証拠から積極的に犯罪を選ぶ理由もない。

海賊・海震・海上竜巻はどうなるのか

第8回で比較した他の主要仮説も同じである。

海賊

船、積荷、私物の大部分が残っている。

明白な暴力痕跡も確認されていない。

価値あるものを残して10人だけを消す理由を追加で作る必要がある。

評価:説明力は低い。

海震

海震によって乗船者が退船すること自体は物理的にあり得る。

しかし、メアリー・セレスト号付近で該当する現象が起きたことを示す事件固有の証拠がない。

評価:成立可能性はあるが裏付けが弱い。

海上竜巻・異常波

帆・索具損傷や浸水を説明できる可能性はある。

一方、暴風の最中に大型本船から幼児を含む全員を小型艇へ移す理由は、それだけでは説明しにくい。

評価:単独原因としては弱い。

最も重要な考え方|原因と結果を分ける

ここまでの各説を整理すると、

実は二つの問題が混ざっていたことが分かる。

問題A|なぜ船を離れたのか

候補は、

  • 浸水への不安
  • ポンプ・測深への不確実性
  • 荒天
  • 航法上の不安
  • 積荷アルコールへの危険認識
  • 複数要因の組み合わせ

である。

問題B|なぜ戻れなかったのか

こちらは別問題である。

救命艇へ一時的に移っただけなら、危険が去れば本船へ戻ればよい。

しかし実際には戻っていない。

そこで必要になるのが、

本船と救命艇が離れてしまった

という第二段階である。

この二段階に分けると、事件はかなり理解しやすくなる。

「永久放棄」ではなく「一時退船」だった可能性

ブリッグス船長は、本船を完全に捨てるつもりではなかった可能性がある。

船内に重大な危険を感じる。

しかし船が実際に沈むかは分からない。

そこで、

救命艇へ全員を移す。

本船との距離を保つ。

危険が収まれば戻る。

船が本当に沈めば、近くのサンタマリア島を目指す。

という行動なら、航行可能な船から退船した問題を比較的自然に説明できる。

特に妻と2歳の娘を連れているブリッグスにとって、

本船を無条件に捨てるより、

安全確認のため一時的に距離を取る

方が理解しやすい。

そして本船との接続が失われた

ここからが現在もっとも整合性の高いシナリオの第二段階になる。

救命艇とメアリー・セレスト号の間に距離が生じる。

仮に索でつながれていたなら、その索が外れる、切れる、または保持できなくなる。

帆を一部残したメアリー・セレスト号は、風を受けて進み続ける。

小型艇は追いつけない。

10人は本船を失う。

そして、

船だけが無人のまま大西洋を進む。

この説明なら、

  • 船体が残った
  • 積荷が残った
  • 私物が残った
  • 救命艇がない
  • 10人全員がいない
  • 航海計器が持ち出された
  • 殺人痕跡がない

という主要事実を、犯罪や超常現象を追加せずに説明できる。

では「索が切れた」はFACTなのか

違う。

ここが最終評価でもっとも重要である。

救命艇を本船へつないでいた索が存在したこと自体、決定的な物証として証明されているわけではない。

したがって、

一時退船+索の喪失

は、

多くの事実と整合する有力なTHEORYではあるが、

FACTではない。

説明力が高いことと、証明されたことは違う。

その後10人に何が起きたのか

仮に救命艇へ移り、本船を失ったとする。

その先はさらに証拠が少なくなる。

小型艇には大型帆船ほどの耐航性はない。

大西洋上で、

  • 強風
  • 高波
  • 転覆
  • 浸水
  • 漂流
  • 水・食料不足

のいずれかが起きれば、生存可能性は急速に下がる。

もっとも単純な再構成は、

10人は救命艇に取り残され、その後大西洋で遭難した

というものになる。

しかし救命艇そのものが確実に発見されたわけではない。

遺体も見つかっていない。

生存者からの証言もない。

したがって、

「10人は海上で死亡した可能性が非常に高い」

とは言えても、

どの地点で、いつ、どのように亡くなったかを確定することはできない。

CASE39 最終Evidence Ledger

区分 最終評価
FACT 1872年11月7日、10人を乗せてニューヨークからジェノヴァへ出航した
FACT 11月25日朝、サンタマリア島付近にいたことを示す最後の船上記録がある
FACT 後にメアリー・セレスト号は無人で発見された
FACT 救命艇がなくなっていた
FACT 船の重要書類とブリッグスの一部航海計器もなかった
FACT 乗組員の私物、食料、水、積荷の大部分は残っていた
FACT 船には損傷と浸水があったが、その後ジブラルタルまで航行できた
FACT 1,701樽のアルコール中、後に9樽が空と確認された
FACT ジブラルタルで殺人・反乱・共謀が調べられたが、犯罪は立証されなかった
FACT 失踪した10人がその後生存確認された記録はない
LIKELY 10人は失われた救命艇へ自ら移った
LIKELY 11月25日前後、サンタマリア島周辺またはその後の比較的早い時点で退船した
THEORY 浸水、水位把握、排水能力、荒天、航法上の不確実性が退船判断へ影響した
THEORY アルコール漏洩・蒸気・爆発または爆発への恐怖が判断へ影響した
THEORY 本船を永久放棄するつもりではなく、一時的な退避だった
THEORY 救命艇と本船が離れ、乗船者が戻れなくなった
LIKELY / THEORY 10人はその後、小型艇で海難に遭い死亡した
RUMOR / FICTION 海の怪物、宇宙人、超常現象などが10人を消した

最も少ない仮定で再構成するなら

ここまでを一つの流れにする。

ただし、以下は確認事実から構成した最有力クラスのシナリオであり、史実として確定した文章ではない。

最終再構成

1872年11月下旬、メアリー・セレスト号は長期間の荒天を経てアゾレス諸島へ到達する。

船内には水が入り、乗組員は水位・排水状態を確認していた可能性がある。

積荷を満載した船内では状況を完全に把握することが難しく、アルコール積荷への懸念も存在した可能性がある。

11月25日、サンタマリア島を視認できる位置に到達する。

ブリッグス船長は、船が沈む、または船内に残ることが危険になる可能性を無視できないと判断する。

しかし本船を完全に捨てるのではなく、危険確認のため一時的に10人全員を救命艇へ移す。航海書類や計器も持ち出す。

その後、何らかの理由で本船と救命艇が離れる。

帆を一部残したメアリー・セレスト号は無人のまま東へ進む。

小型艇の10人は本船へ戻ることができない。

その後、荒れた大西洋上で遭難する。

約9日後、メアリー・セレスト号だけがデイ・グラティアによって発見される。

この再構成の強いところ

このシナリオには、

海賊も必要ない。

殺人も必要ない。

秘密の共謀も必要ない。

超常現象も必要ない。

そして、

  • 救命艇がない
  • 人が全員いない
  • 航海計器が持ち出されている
  • 私物が残っている
  • 積荷が残っている
  • 殺人痕跡がない
  • 船が航行可能な状態で残っている

という発見状況を、一つの連鎖で比較的自然に説明できる。

その意味では、現在考えられるシナリオの中でも説明効率が高い。

しかし、この再構成にも大きな穴がある

問題は、

もっとも重要な瞬間を証明するものが何もない

ことである。

ブリッグスが何を危険と判断したのか分からない。

退船命令を出したのかも直接確認できない。

救命艇を本船につないだのかも分からない。

その接続が切れたのかも分からない。

10人がどこまで航行したのかも分からない。

救命艇が転覆したのかも分からない。

遺体もない。

つまり、

事件の「前」と「後」はかなり分かっているのに、その間だけが完全に欠けている。

これがメアリー・セレスト号事件の本質である。

2026年になっても「解決」ではない

2026年のエタノール蒸気模型実験は重要だった。

焼損をほとんど残さない急速な蒸気燃焼が、木製模型でも成立し得ることを示したからである。

これにより、アルコール説の物理的可能性は以前より具体的に示された。

しかし、

科学的に可能な現象を示すことと、歴史上その現象が実際に発生したことを証明することは別である。

2026年現在も、

メアリー・セレスト号で蒸気爆発が起きたことを直接示す1872年の証拠はない。

したがって、

「150年の謎がついに解決」

とするのは行き過ぎである。

「合理的に説明できる」は「解決した」ではない

未解決事件では、この二つが頻繁に混同される。

例えば現在の証拠だけでも、

乗船者が自主退船した可能性。

一時退船だった可能性。

本船と離れてしまった可能性。

その後小艇で遭難した可能性。

は十分に説明できる。

だから、

「超常現象でなければ説明できない」

事件ではない。

しかし、

どの要因が最初の退船判断を生んだのか。

どのように本船と離れたのか。

どこで10人が死亡したのか。

そこを示す証拠がない。

したがって、

合理的なシナリオはある。

だが、

事件は解決していない。

この二つを同時に成立させるのが、現在もっとも正確な評価になる。

では、10人はどこへ消えたのか

CASE FILE 39の最後に、タイトルへ戻る。

「どこへ消えたのか」

という表現自体が、少し正確ではないのかもしれない。

彼らは船上から突然消滅したのではない可能性が高い。

救命艇へ移った。

そしてメアリー・セレスト号から離れた。

そこまでは発見状況から比較的自然に推定できる。

その先で、

10人は記録から消えた。

おそらく大西洋上で遭難した。

しかし、

どこで、どのように、最後を迎えたのかは分からない。

それを語った人間が一人も戻らなかったからである。

メアリー・セレスト号の本当の謎

150年間の伝説をすべて外す。

温かい食事を外す。

血の付いた剣を外す。

海の怪物を外す。

宇宙人を外す。

完全無傷の幽霊船というイメージも外す。

最後に残るのは、

経験ある37歳の船長。

その妻。

2歳の娘。

7人の船員。

損傷と浸水のある帆船。

近くに見えた島。

なくなった救命艇。

そして、

「船を離れる」と判断した可能性が高い瞬間の記録だけがない。

それが、メアリー・セレスト号の本当の謎である。

CASE FILE 39|最終結論

確認できること
メアリー・セレスト号は10人を乗せて出航し、その後無人で発見された。救命艇、重要書類、航海計器の一部もなかった。船には損傷と浸水があったが、航行能力は残っていた。犯罪は調査されたが立証されなかった。10人はその後確認されていない。

もっとも合理的な再構成
乗船者は何らかの船上危険を認識して、自ら救命艇へ移った可能性が高い。その退船は永久放棄ではなく、一時的な退避だった可能性がある。その後、本船との接続または距離保持に失敗し、10人が小型艇に取り残され、海上で遭難したというシナリオは、多くの確認事実と整合する。

確認できないこと
退船の直接原因、正確な退船時刻、アルコールが関与したか、ポンプ能力が実際に低下していたか、本船と救命艇がどのように離れたか、そして10人の最期。

CASE39最終判定:未解決

まとめ

メアリー・セレスト号事件は、150年以上たった現在も未解決である。

しかし「何も分かっていない事件」ではない。

10人が乗っていた。

11月25日朝までは航海していた。

後に船だけが発見された。

救命艇も、船の重要書類も、航海計器の一部もなくなっていた。

船内には私物と積荷の大部分が残されていた。

犯罪の可能性も徹底的に調べられたが、立証されなかった。

これらを合わせれば、

10人が自ら救命艇へ移った可能性は高い。

そして、

浸水、

水位把握・排水への不安、

荒天、

航法上の不確実性、

アルコール積荷への危険認識、

といった条件の一部または複数が、退船判断へ影響した可能性がある。

さらに、

本船を永久に捨てたのではなく、一時的に救命艇へ避難しただけだったと考えれば、経験あるブリッグス船長の行動も理解しやすくなる。

その後、本船と艇が離れた。

メアリー・セレスト号だけが進み続けた。

10人は海上に残された。

そして二度と確認されなかった。

これは現在の証拠から組み立てられる、比較的整合性の高いシナリオである。

だが、

それを証明する最後の一片がない。

救命艇もない。

生存者もいない。

最後の記録もない。

だから、

「合理的に説明できるシナリオがある」ことと、「事件が解決した」ことは同じではない。

メアリー・セレスト号が今なお未解決事件である理由は、そこにある。

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第9回|「幽霊船メアリー・セレスト」はどう作られたのか|コナン・ドイルと後世の脚色

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第1回|メアリー・セレスト号とは?|航行可能な船から10人が消えた1872年の未解決事件

CASE FILE 39|全記事

  1. メアリー・セレスト号とは?|航行可能な船から10人が消えた1872年の未解決事件
  2. 最後の航海に乗っていたのは誰か|ブリッグス船長一家と7人の乗組員
  3. 1872年11月25日まで何が記録されていたのか|ニューヨーク出航から最後の航海日誌
  4. 発見時のメアリー・セレスト号はどんな状態だったのか|Dei Gratia乗組員が見た無人船
  5. ジブラルタルの海事審問は何を疑ったのか|殺人・反乱・詐欺説と「証拠」の検証
  6. なぜブリッグス船長は船を離れた可能性があるのか|ポンプ・浸水判断・天候・航法を検証
  7. 1,701樽のアルコールは原因だったのか|漏洩・蒸気・爆発恐怖説を検証
  8. 海賊・反乱・海震・海上竜巻説はどこまで成立するのか|主要仮説を証拠で比較
  9. 「幽霊船メアリー・セレスト」はどう作られたのか|コナン・ドイルと後世の脚色
  10. 10人はどこへ消えたのか|確認事実・最有力仮説・未解決部分を最終整理

出典・参考資料

  • Royal Museums Greenwich「The mystery of the Mary Celeste」― 乗船者、発見状況、救命艇、帆・索具、ポンプ・測深棒、ジブラルタル審問、主要仮説、現在も未解決であることを総合確認。
  • Government of Gibraltar / Ministry for Heritage「Courthouse」― ソリー=フラッドによる犯罪捜査、殺人・共謀を立証できなかったこと、1873年3月の最終判断を確認。
  • Smithsonian Magazine「Abandoned Ship: The Mary Celeste」― 1,701樽の積荷、9樽の空樽、荒天、ポンプ・航法・船位認識を組み合わせたAnne MacGregorらの再構成、事件が未解決であることを参照。
  • Smithsonian Magazine「An Abandoned Merchant Ship Was Discovered Floating in the Atlantic in 1872. The Mystery of Its Missing Crew Was Never Solved」(2024)― 10人がその後確認されていないこと、現在も失踪理由とその後の運命が未解決であるとの最新の歴史整理を確認。
  • Chemistry World「Chemists think they know what happened on board the Mary Celeste」(2026)― 1/18木製模型とエタノールを用いたJack Rowbotham / Frank Mairの模型実験を参照。顕著な焦げを残さない短時間の蒸気爆発が成立し得ることを示した一方、実際の1872年事件を証明したものではないためTHEORYの補強資料として使用。

本記事はCASE FILE 39全10記事の最終整理です。「10人が救命艇へ移った」は救命艇・航海書類・航海計器の欠落と10人全員の不在から導かれる可能性の高い再構成ですが、その瞬間を直接示す記録はありません。また「浸水・ポンプ・荒天・航法」「アルコール蒸気」「一時退船」「本船との離別」「その後の海難」は、確認された事実との整合性を比較したTHEORYです。2026年の模型実験を含め、現在も事件を確定的に解決する直接証拠は確認されていないため、CASE39の最終StatusLabelは「未解決」とします。

メアリー・セレスト号とは?|航行可能な船から10人が消えた1872年の未解決事件

海難・失踪ミステリー

1872年12月4日、大西洋のアゾレス諸島東方を航行していた帆船「デイ・グラティア(Dei Gratia)」は、奇妙な動きをする1隻の帆船を発見した。
呼びかけても返答はなく、船は明らかに正常な操船をされていなかった。

接近した乗組員がその船へ移ると、そこに人の姿はなかった。
船名は「メアリー・セレスト(Mary Celeste)」。
ニューヨークからイタリアのジェノヴァへ向かっていた商船だった。

船長ベンジャミン・ブリッグス、その妻サラ、2歳の娘ソフィア、そして7人の乗組員。
出航時に乗っていた10人全員が消えていた。
一方で、船そのものは沈没寸前の残骸ではなかった。
航行を続けられる状態にあり、積荷の大部分も残されていた。

唯一の救命艇はなくなっていた。
それは、10人が何らかの理由で自ら船を離れた可能性を強く示している。
しかし、なぜ外洋で帆船を捨てなければならなかったのか。
そして救命艇へ移ったのだとすれば、その後10人に何が起きたのか。

150年以上を経た現在も、その答えを確定できる証拠は見つかっていない。
メアリー・セレスト号は「幽霊船」として有名になったが、この事件で本当に不可解なのは超常現象ではない。
経験ある船長を含む10人が、まだ航行できる船から一斉に離れた理由が分からないことである。

この記事で分かること

  • メアリー・セレスト号で何が起きたのか
  • 失踪した10人は誰だったのか
  • 発見された船がどのような状態だったのか
  • なぜ「幽霊船」と呼ばれるようになったのか
  • どこまでが確認された事実で、どこからが仮説なのか
  • 現在も解明されていない核心部分は何か
CASE FILE 39|メアリー・セレスト号 1872
全10回

1872年、大西洋で無人のまま発見されたメアリー・セレスト号。
本特集では「幽霊船伝説」から一度離れ、航海記録、発見時の船内状況、ジブラルタルでの海事審問、船体・ポンプ・積荷、主要仮説を順番に検証します。

確認された事実、合理的な推定、後世の創作を分離し、10人が船を離れた理由をどこまで再構成できるのかを追います。

CASE FILE 39|全10記事

  1. 第1回|メアリー・セレスト号とは?|航行可能な船から10人が消えた1872年の未解決事件【現在の記事】
  2. 第2回|最後の航海に乗っていたのは誰か|ブリッグス船長一家と7人の乗組員
  3. 第3回|1872年11月25日まで何が記録されていたのか|ニューヨーク出航から最後の航海日誌
  4. 第4回|発見時のメアリー・セレスト号はどんな状態だったのか|Dei Gratia乗組員が見た無人船
  5. 第5回|ジブラルタルの海事審問は何を疑ったのか|殺人・反乱・詐欺説と「証拠」の検証
  6. 第6回|なぜブリッグス船長は船を離れた可能性があるのか|ポンプ・浸水判断・天候・航法を検証
  7. 第7回|1,701樽のアルコールは原因だったのか|漏洩・蒸気・爆発恐怖説を検証
  8. 第8回|海賊・反乱・海震・海上竜巻説はどこまで成立するのか|主要仮説を証拠で比較
  9. 第9回|「幽霊船メアリー・セレスト」はどう作られたのか|コナン・ドイルと後世の脚色
  10. 第10回|10人はどこへ消えたのか|確認事実・最有力仮説・未解決部分を最終整理

メアリー・セレスト号とは何だったのか

メアリー・セレスト号は、怪談のために存在した船ではない。
北米とヨーロッパを結ぶ大西洋航路で貨物を運んでいた商船である。
もともとは1861年にカナダのノバスコシアで「Amazon」の名で建造され、のちにアメリカ側の所有となって「Mary Celeste」へ改名された。

1872年の航海では、船長を務めていたのがベンジャミン・スプーナー・ブリッグスだった。
ブリッグスは妻サラと幼い娘ソフィアを伴い、7人の乗組員とともにニューヨークからイタリアのジェノヴァを目指していた。
合計10人である。

積荷は1,701樽の工業用アルコールだった。
このアルコールは後に数多くの「失踪原因説」を生むことになる。
しかし、積荷としてアルコールが存在したことと、それが10人の失踪を引き起こしたことは別の話である。
前者は確認された事実だが、後者は現在も仮説の域を出ない。

船名 Mary Celeste(メアリー・セレスト)
船種 ブリガンティン型帆船
航海 ニューヨーク → ジェノヴァ
出航 1872年11月7日
乗船者 10人(船長一家3人+乗組員7人)
主な積荷 工業用アルコール1,701樽
最後の航海記録 1872年11月25日、アゾレス諸島サンタマリア島付近
発見 1872年12月4日、大西洋上
状態 無人。救命艇なし。船は航行可能な状態
結末 10人の行方・退船理由とも未確定

11月7日、10人を乗せてニューヨークを出た

1872年11月7日、メアリー・セレスト号はニューヨークを出発した。
目的地は地中海の港湾都市ジェノヴァだった。
大西洋を東へ横断し、ジブラルタル海峡を通って地中海へ入る航海である。

その後、船は悪天候を経験しながら大西洋を横断していった。
航海記録が最後に残されているのは11月25日。
船はアゾレス諸島の東端に位置するサンタマリア島付近まで進んでいた。

ここまでは航海記録によって追うことができる。
問題は、その先である。

11月25日以降、メアリー・セレスト号の10人が残した確実な記録は途絶える。
救難信号や「船を捨てる」と記した文章も確認されていない。
そのため、彼らがいつ、どの地点で、どのような状況から船を離れたのかは確定できない。

約9日後、船だけが再び歴史上に姿を現す。

12月4日、デイ・グラティアが無人船を発見した

1872年12月4日、帆船デイ・グラティアは大西洋上で不規則な動きをする船を見つけた。
近づいても応答がない。
船長デヴィッド・モアハウスは乗組員を送り、船内を確認させた。

そこで確認されたのがメアリー・セレスト号だった。

人はいなかった。
ブリッグス船長も、その妻と娘も、7人の乗組員も見つからない。
10人全員が船から消えていた。

一方で、船そのものが完全に破壊されていたわけではなかった。
帆や索具には損傷があり、船内には浸水も確認されたが、直ちに沈没するような状態ではなかった。
実際、デイ・グラティア側の少人数の乗組員は、その後メアリー・セレスト号を操船してジブラルタルまで到達している。

この一点が、事件を難しくしている。

船は捨てられていた。しかし、発見時点ではまだ海を渡れる船だった。

なくなっていた救命艇

発見時の状況でもっとも重要なのが、船に備えられていた小艇がなくなっていたことである。
通常は船上に置かれていた艇が存在しなかった。

このため、現在の資料から最も自然に導けるのは、乗船していた10人が何らかの理由で小艇へ移ったという可能性である。
誰かが船上で10人全員を殺害して遺体まで完全に処分した、と考えなくても、人がいなくなった状態そのものは説明できる。

しかし、それは事件を解決する答えではない。

船員にとって外洋で本船を離れ、小さな艇へ移ること自体が非常に大きな危険を伴う。
船が浮いている限り、一般に大型の本船に残る方が生存可能性は高い。
経験あるブリッグス船長が家族まで伴って退船したのであれば、少なくともその時点で、船上に残る方が危険だと判断するだけの理由があったはずである。

その「理由」が分からない。
ここがメアリー・セレスト号事件の中心にある。

船内には何が残っていたのか

メアリー・セレスト号については、発見時の船内を描写する有名な話が数多く存在する。
「温かい食事がテーブルに残っていた」「湯気の立つ紅茶があった」「時計が動いたままだった」といった話を見かけることもある。

しかし、この種の細部には後世の創作や誇張が混じっている。
1872年の海事審問記録を基準にすると、少なくとも「食事の途中で突然人間だけが消えた」という映画的な場面を事実として扱うことはできない。

確実性が比較的高いのは別の部分だ。
救命艇はなく、航海に必要な一部の書類や計器も見つからなかった。
一方で、乗組員の私物や船内の物資、積荷の大部分は残されていた。
船内には浸水があり、ポンプの一つは分解された状態だった。
帆や索具にも損傷が確認されている。

この組み合わせは、「人々が何の準備もなく瞬間的に消滅した」という印象とは少し違う。
航海用の道具と救命艇がなくなっていることは、むしろ人間が意図的に船外へ移動した可能性と整合する。

FACT CHECK|有名な「幽霊船」の描写

メアリー・セレスト号には、後世に追加された細部が非常に多い。
特に「食卓にはまだ温かい食事が並んでいた」「飲みかけの飲み物が残っていた」といった描写は、1872年の審問記録に基づく確定事実として扱うべきではない。

本特集では、発見者の証言、海事審問、同時代資料で確認できる情報と、後世のフィクション・伝説を分離する。

1,701樽のアルコールは何を意味するのか

メアリー・セレスト号には1,701樽の工業用アルコールが積まれていた。
発見後、一部の樽が空になっていたことも確認されている。

この事実から、アルコールをめぐるさまざまな説が生まれた。
乗組員が酒を飲んで反乱を起こしたという説、アルコール蒸気が船倉へ充満したという説、爆発を恐れて一時的に退船したという説などである。

だが、ここでは注意が必要になる。

「アルコールを積載していた」「一部の樽から中身が失われていた」という事実と、「アルコールが原因で退船した」という説明の間には大きな隔たりがある。
何らかのメカニズムを示さなければ、原因とは呼べない。

本シリーズでは第7回で、樽の材質、漏洩、蒸気、爆発への恐怖という複数の論点を分けて検討する。

ジブラルタルでは殺人まで疑われた

メアリー・セレスト号は、デイ・グラティアの乗組員によってジブラルタルへ運ばれた。
そこでは放棄船を救助した側への報酬を決めるため、海事上のサルベージ審問が行われた。

ところが審問は単純な報酬額の決定では終わらなかった。
ジブラルタルの司法当局は、人が全員消えている状況を重大視した。
特に司法長官フレデリック・ソリー=フラッドは、船内で殺人や反乱などの犯罪が起きた可能性を強く疑った。

船体の傷や船内の染みなども調べられた。
一時は血痕や暴力の証拠ではないかと疑われたものもあった。

しかし、調査を進めても10人が殺害されたと証明できる証拠は得られなかった。
ジブラルタル政府の現在の歴史資料でも、最終的に不正行為を立証することはできず、裁判所は犯罪を裏付ける証拠を認定しなかったと整理されている。

つまり「殺人説が存在する」ということと、「殺人が起きた」ということは全く異なる。
当時の捜査当局自身が疑った説であっても、立証されなかった以上、本特集ではCLAIMまたはTHEORYとして扱う。

なぜ船を離れたのか――合理的な説明は存在する

犯罪が証明されなかったからといって、残る選択肢が超常現象になるわけではない。
メアリー・セレスト号には、船長が船の安全性を誤って低く評価する条件が複数存在した可能性がある。

例えば、発見時には船内に一定量の水が入り、ポンプの一つが分解されていた。
長期間の悪天候を経験していたことも分かっている。
さらに、当時の帆船では現在のような電子計器によって船位や船体状態を即座に把握できない。

もし船長が「実際の浸水量が分からない」「船が沈み始めているかもしれない」「近くに陸地がある」と考えたなら、一時的に小艇へ移る判断が成立する可能性はある。

しかし、これは現在の資料から組み立てられた合理的シナリオであり、ブリッグス船長本人がそう判断したと示す記録ではない。

メアリー・セレスト号を扱ううえで重要なのは、この違いである。

現時点のEvidence整理

区分 内容
FACT メアリー・セレスト号は無人で発見された
FACT 出航時には船長一家3人と乗組員7人、計10人が乗っていた
FACT 発見時に救命艇がなかった
FACT 船はその後ジブラルタルまで操船できた
FACT ジブラルタルで犯罪の可能性も調査されたが立証されなかった
LIKELY 10人は救命艇を使って本船から離れた可能性が高い
THEORY 浸水、ポンプ、天候、航法上の状況などから船長が沈没危険を判断した
THEORY アルコール蒸気や爆発への恐怖が退船判断に影響した
RUMOR / FICTION 超常現象や海の怪物などを失踪原因とする説

「幽霊船」のイメージは後から作られた

現在、メアリー・セレスト号を検索すると「世界でもっとも有名な幽霊船」の一つとして紹介されることが多い。
だが、実際の事件記録と現在のイメージの間には150年以上にわたる物語化が存在する。

大きな転換点の一つが1884年だった。
後にシャーロック・ホームズで知られるアーサー・コナン・ドイルが、メアリー・セレスト号を題材にしたフィクション「J. Habakuk Jephson’s Statement」を発表したのである。

作品は事実記録ではなかったが、実在事件を下敷きにしていたため、後世には作品内の細部まで実際の事件だったかのように混同されるようになった。
船名が「Marie Celeste」と書かれる有名な誤記も、この物語によって広く定着した要素の一つである。

その後も新聞、書籍、映画、テレビ番組、怪談集などによって新しい細部が追加された。
こうして1872年の海難事件は、20世紀には典型的な「幽霊船ミステリー」へ変化していった。

第9回では、この神話化の過程そのものを独立して検証する。
なぜなら、現在メアリー・セレスト号について語られる「謎」の中には、1872年には存在していなかった謎も含まれているからである。

では、現在どこまで分かっているのか

メアリー・セレスト号事件を、最小限の推測だけで整理すると次のようになる。

1872年11月7日、10人を乗せたメアリー・セレスト号がニューヨークを出た。
11月25日にはアゾレス諸島付近にいた。
その後のある時点で、10人全員が本船からいなくなった。

12月4日、船は無人の状態で発見された。
救命艇はなかった。
一部に損傷や浸水があったものの、本船は航行不能ではなかった。

ジブラルタルで犯罪の可能性を含む調査が行われたが、殺人、反乱、詐欺のいずれも確定できなかった。
失踪した10人も、その後確認されていない。

したがって現在の核心は、二つに絞ることができる。

なぜ10人は、本船よりはるかに危険な小艇へ移る必要があると判断したのか。

そして、

船を離れたあと、彼らに何が起きたのか。

合理的な仮説はいくつも存在する。
だが、そのどれか一つを確定させる直接証拠はない。

メアリー・セレスト号は「超常現象」ではなく、証拠が途切れた海難事件である

メアリー・セレスト号を不可解にしているのは、奇妙な現象が大量に確認されたからではない。
むしろ逆である。

船が残っている。
積荷も残っている。
航海記録も途中までは残っている。
発見者の証言もあり、その後の海事審問記録も存在する。

それにもかかわらず、もっとも知りたい部分だけが抜け落ちている。

「船を離れる」という判断が行われた瞬間と、その後の10人の行動を記録した資料がない。

その空白を埋めようとして、150年間にさまざまな説が作られてきた。
殺人、反乱、海賊、アルコール爆発、海震、海上竜巻、巨大生物、超常現象。

だが、説の数が多いことは証拠が多いことを意味しない。

CASE FILE 39では、最初から「犯人」や「真相」を決めて資料を当てはめるのではなく、1872年に残された記録から順番に範囲を狭めていく。

次回は、失踪した10人そのものを見る。
特に重要なのがベンジャミン・ブリッグス船長である。
彼がどのような船長だったかによって、「経験不足から無謀な退船をした」という説明がどこまで成立するのかも変わってくる。

まとめ

メアリー・セレスト号は1872年、ニューヨークからジェノヴァへ向かう航海中に乗船者10人全員を失い、その後、大西洋上で無人のまま発見された。

船は損傷や浸水を受けていたものの、その後ジブラルタルまで航行できる状態だった。
一方で救命艇はなく、船長一家と乗組員7人は二度と確認されなかった。

ジブラルタルでは殺人や反乱まで疑われたが、犯罪を立証できる証拠は得られなかった。
現在も、10人が船を離れた直接の理由と、その後の運命は分かっていない。

つまり、この事件について言えるのは「説明不能な超常現象が起きた」ということではない。
退船前後の決定的な記録が失われているため、複数の合理的シナリオの中から一つを確定できないということである。

次回は、ブリッグス船長一家と7人の乗組員を確認する。
メアリー・セレスト号に乗っていたのはどのような人々で、ブリッグスは船を任せられるだけの経験を持っていたのか。
事件を「人が消えた船」の話から、「10人の具体的な人間がいた航海」へ戻していく。

次の記事
第2回|最後の航海に乗っていたのは誰か|ブリッグス船長一家と7人の乗組員

CASE FILE 39|全記事

  1. メアリー・セレスト号とは?|航行可能な船から10人が消えた1872年の未解決事件
  2. 最後の航海に乗っていたのは誰か|ブリッグス船長一家と7人の乗組員
  3. 1872年11月25日まで何が記録されていたのか|ニューヨーク出航から最後の航海日誌
  4. 発見時のメアリー・セレスト号はどんな状態だったのか|Dei Gratia乗組員が見た無人船
  5. ジブラルタルの海事審問は何を疑ったのか|殺人・反乱・詐欺説と「証拠」の検証
  6. なぜブリッグス船長は船を離れた可能性があるのか|ポンプ・浸水判断・天候・航法を検証
  7. 1,701樽のアルコールは原因だったのか|漏洩・蒸気・爆発恐怖説を検証
  8. 海賊・反乱・海震・海上竜巻説はどこまで成立するのか|主要仮説を証拠で比較
  9. 「幽霊船メアリー・セレスト」はどう作られたのか|コナン・ドイルと後世の脚色
  10. 10人はどこへ消えたのか|確認事実・最有力仮説・未解決部分を最終整理

出典・参考資料

  • Royal Museums Greenwich「The mystery of the Mary Celeste」― 出航日、乗船者、発見時の状況、ジブラルタル審問、コナン・ドイル作品による神話化を確認。
  • Government of Gibraltar / Ministry for Heritage「Courthouse」― 1872〜1873年のジブラルタル海事審問、Frederick Solly-Floodによる犯罪説の捜査、最終的に犯罪を立証できなかったことを確認。
  • Smithsonian Magazine「Abandoned Ship: The Mary Celeste」― 船の来歴、1,701樽の積荷、発見時の船体・ポンプ・浸水状況、現代的な退船仮説の整理に使用。
  • Smithsonian Magazine「An Abandoned Merchant Ship Was Discovered Floating in the Atlantic in 1872」― 1872年航海の概要、乗船者数、後世の報道・創作による脚色を確認。
  • Gibraltar Vice-Admiralty Court関連記録― 発見者の証言、船内状況、サルベージ審問に関する一次記録。後続記事では個別の証言・調査内容をさらに分離して検証する。

本記事は、公的資料・博物館資料・同時代記録・海事審問関連資料等を照合し、確認できる事実と推測・後世の説を分けて構成しています。メアリー・セレスト号は後世の創作によって事実と伝説が混在しているため、フィクション由来の描写を史実として採用していません。発見日は資料によって12月4日/5日の表記差がありますが、本記事では当時の船上日付の扱いを踏まえ、民間日付の1872年12月4日を採用しています。

最後の航海に乗っていたのは誰か|ブリッグス船長一家と7人の乗組員

海難・失踪ミステリー

メアリー・セレスト号から消えたのは「乗員10人」という数字ではない。

37歳の船長がいた。
その妻と、2歳になったばかりの娘がいた。
第一航海士、第二航海士、船内の食事を担う給仕兼料理人、そして4人の船員がいた。

1872年11月7日、彼ら10人はニューヨークからイタリアのジェノヴァへ向けて出航した。
そして、その後一人も戻ってこなかった。

メアリー・セレスト号について「なぜ船を捨てたのか」を考える前に、確認しておかなければならないことがある。

その判断をした可能性が高い船長は、どのような人物だったのか。

もし経験の浅い船長と問題を抱えた乗組員が乗っていたのなら、判断ミスや反乱という説明は比較的成立しやすい。
逆に、経験ある船長と通常の船員構成だったのなら、それだけで別の問いが生まれる。

なぜ彼らは、少なくとも後から見れば航行可能だった本船を離れたのか。

この記事で分かること

  • 最後の航海に乗っていた10人の構成
  • ベンジャミン・ブリッグス船長の経歴と評価
  • 妻サラと娘ソフィアが乗船していた理由をどこまで確認できるか
  • 7人の乗組員はどのような構成だったのか
  • 「船員の反乱説」を人物背景だけで支持できるのか
  • 乗船者の構成が退船判断の検証になぜ重要なのか
CASE FILE 39|メアリー・セレスト号 1872

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第2回|最後の航海に乗っていたのは誰か|ブリッグス船長一家と7人の乗組員【現在の記事】

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最後の航海に乗っていた10人

1872年11月にメアリー・セレスト号でニューヨークを出たのは、船長一家3人と7人の乗組員だった。

人物 立場
Benjamin Spooner Briggs 船長
Sarah Briggs 船長の妻
Sophia Matilda Briggs 船長の娘・2歳
Albert G. Richardson 第一航海士
Andrew Gilling 第二航海士
Edward William Head 給仕・料理人
Volkert Lorenzen 船員
Boz Lorenzen 船員
Arian Martens 船員
Gottlieb Goudschaal 船員

19世紀の記録では外国人船員の姓名表記に揺れがあり、Lorenzen / Lorensen、Martensの名、Goudschaalの綴りなどは資料によって異なる。
本記事では、Royal Museums Greenwichなど現在の主要資料で用いられている表記を基本とする。

重要なのは、10人全員について詳細な人物伝が残っているわけではないという点である。
特に一般船員について分かることは限られている。

資料が少ない部分を「性格」や「人間関係」で補うことはしない。

船長ベンジャミン・スプーナー・ブリッグス

メアリー・セレスト号最後の船長、ベンジャミン・スプーナー・ブリッグスは1835年生まれ。
最後の航海時は37歳だった。

ブリッグス家は海との関係が深い一家で、ベンジャミン自身も若いころから船員として経験を積んでいた。
1872年の時点では、初めて大西洋へ出る新人船員ではなく、すでに商船を指揮してきた経験を持つ船長だった。

Smithsonianが後年の資料調査と子孫への取材を基にまとめた記事でも、ブリッグスは海運関係者から経験と能力を認められていた人物として扱われている。

ここは、メアリー・セレスト号を考えるうえで非常に重要である。

「海が怖くなって慌てて船を捨てた」というだけでは、十分な説明にならない。

もちろん、経験豊富な船長も判断を誤る。
経験があることは、ブリッグスが常に正しい判断をした証拠ではない。

だが少なくとも、

「航海経験のない人物が外洋でパニックになった」

という単純な説明は、確認できる人物像とは合わない。

家族を乗せていた船長

ブリッグスは一人で乗船していたわけではなかった。

妻サラ・ブリッグスと、2歳の娘ソフィア・マチルダも同じ船に乗っていた。

ブリッグス夫妻にはもう一人、アーサーという息子がいた。
当時7歳だったアーサーは学校へ通うためマサチューセッツに残り、最後の航海には同行しなかった。

結果だけを知る現在から見れば、この判断によってアーサーだけが一家の中で失踪を免れたことになる。

ただし、ここから「ブリッグスは危険な航海だと思って息子だけ残した」と推測する根拠はない。
確認できる資料では、学校へ通う年齢だったことが理由として説明されている。

FACT / INFERENCE

FACT:妻サラと2歳の娘ソフィアはメアリー・セレスト号に乗船した。

FACT:7歳の息子アーサーはマサチューセッツに残った。

確認できない推測:ブリッグスが航海の危険を予感してアーサーを残した。

家族の存在が退船判断をさらに難しくする

妻と幼児が乗っていたという事実は、後の退船原因を考える際に大きな意味を持つ。

大型の帆船から小さな艇へ移る行為は、それ自体が危険である。
特に外洋では、風や波の影響を受けやすく、水や食料にも制約がある。

その艇へ妻と2歳の娘まで移したのだとすれば、ブリッグスは何らかの理由から、

「メアリー・セレスト号に残る危険」

を、

「小艇へ移る危険」

より大きいと評価した可能性がある。

ここで重要なのは「娘を乗せているのだから絶対に無謀な判断をしない」と決めつけることではない。
人間は状況を誤認することもある。

見るべきなのは、ブリッグスがその瞬間に何を知り、何を知ることができず、船の状態をどのように認識した可能性があるかである。

その検証は第6回で、ポンプ、浸水量、天候、船位認識と合わせて行う。

第一航海士アルバート・G・リチャードソン

船長の次に重要な人物が、第一航海士アルバート・G・リチャードソンだった。

Royal Museums Greenwichは、リチャードソンについてブリッグスがよく知っていた人物と記録している。
他の事件研究でも、以前にブリッグスの下で航海した経験があった人物として扱われている。

つまり、少なくとも第一航海士については、出航直前に初めて会った未知の船員ではなかった。

これは後世の反乱説を検討するときの一つの材料になる。

船長と第一航海士の間に実際に深刻な対立があったことを示す記録は、現在確認されていない。

ただし、

「知り合いだったから反乱は絶対に起きない」

とまでは言えない。

ここでも人物背景と事件原因を分ける必要がある。
リチャードソンの経歴は「反乱を証明する材料ではない」というところまでしか言えない。

第二航海士アンドリュー・ギリング

第二航海士はアンドリュー・ギリング。
当時の記録を基にした研究では、およそ25歳だったとされている。

第一航海士と第二航海士は、船長を補佐しながら航海当直や船の運用を担う立場にある。
少人数の19世紀商船では、一人一人の役割は大きかった。

メアリー・セレスト号のような帆船を大西洋横断航海させるには、船長だけが船を動かしているわけではない。
航海士と一般船員が交代しながら、操帆、操舵、見張り、船体管理を続ける必要がある。

この点も、「10人が突然一斉に不可解な行動を取った」というイメージを一度取り除く理由になる。

彼らは、それぞれ役割を持つ船舶運航組織だった。

給仕・料理人エドワード・ウィリアム・ヘッド

船内の給仕・料理を担当していたのがエドワード・ウィリアム・ヘッドだった。
資料によってはWilliam Headと簡略に記載される。

一般船員とは職務が異なるものの、少人数の商船では船内生活を維持する重要な役割を担った。

後世のメアリー・セレスト号伝説では、食卓や調理中の食事について劇的な描写が追加されることがある。

しかし、ヘッドが料理中だった瞬間に異常が起きたことを示す確実な記録はない。

「食事が途中だった」という物語から失踪時刻を逆算するようなことはできない。

4人の船員

残る4人は、

  • Volkert Lorenzen
  • Boz Lorenzen
  • Arian Martens
  • Gottlieb Goudschaal

である。

VolkertとBozは兄弟だった。
4人はドイツ系の船員で、資料ではフリースラント諸島方面の出身者としてまとめられることが多い。

ここで注意したいのが、彼らの姓名表記である。

19世紀の船員記録、領事関係文書、後世の転記では同じ人物の綴りが一定していない。
例えばLorenzenがLorensenと記録されたり、Goudschaalの姓にも複数の綴りが残っている。

これは別人が複数存在したことを意味するものではない。
当時の外国人姓名の記録・転記過程による表記差として扱う必要がある。

資料上の注意|乗組員名の綴り

メアリー・セレスト号の一般船員については、米国の船員登録関係記録や後の領事文書でも姓名の綴りに差がある。
そのため本特集では、綴りの差だけを根拠に「乗員名簿が怪しい」「身元不明者がいた」といった解釈は行わない。

「問題のある乗組員だった」という証拠はあるのか

メアリー・セレスト号について古くから語られてきた説の一つに、乗組員による反乱がある。

船には大量のアルコールが積まれていた。
そこで、

船員が積荷を飲む


酔って暴れる


船長一家を殺害する


船を離れる

という筋書きが語られることがあった。

しかし、この説明には最初から問題がある。

まず、積荷が飲酒用の酒だったわけではない。
積載されていたのは商業用のアルコールである。

そして、出航前の乗組員について、集団反乱を予告するような重大なトラブルがあったことを示す確実な資料も確認されていない。

第一航海士リチャードソンはブリッグスの知る人物だった。
また、後世の研究で参照される出航前の家族書簡にも、船長夫妻が乗組員に強い不安を抱いていたことを示す内容はない。

だからといって反乱が「不可能」だったとは言えない。

航海中に状況が変化した可能性までは排除できないからである。

正確な評価は、

反乱を積極的に裏付ける証拠が現在確認されていない

となる。

ブリッグスとモアハウスは「親友」だったのか

もう一つ、メアリー・セレスト号の話で頻繁に登場する人物関係がある。

発見船デイ・グラティアの船長デヴィッド・モアハウスと、ブリッグスが親しい友人だったという話である。

この設定は後に、二人が共謀して保険金やサルベージ報酬を得ようとしたという説にも結び付けられた。

両者が同じ海運社会に属し、互いを知っていた可能性は十分にある。

しかし、「非常に親しい友人で、出航前夜にも一緒に食事をしていた」という細部については慎重に扱う必要がある。

この話を裏付ける根拠としてよく挙げられるのは、事件から約50年後に語られたモアハウス夫人の回想であり、1872年時点の同時代記録による強い裏付けがある情報ではない。

したがって本特集では、

「ブリッグスとモアハウスは親友だった」ことを確定事実として、共謀説の前提にはしない。

このような細かな人物関係の誇張も、メアリー・セレスト号の伝説化を考えるうえで重要になる。

船長の性格から事故原因を決めてはいけない

ブリッグスは経験ある船長だった。
乗組員にも、出航前から大きな問題があったことを示す記録はない。

ここから、

「優秀な船長なのだから判断ミスはあり得ない」

と結論づけることも間違いである。

事故調査で人物の評判は補助情報にはなるが、それだけで行動を確定することはできない。

例えば実際の浸水量より多く浸水していると認識したなら、経験豊富な船長ほど早期退船を選ぶ可能性もある。
反対に、状況を過小評価して船に残る可能性もある。

判断の合理性を評価するには、

  • その時点の天候
  • 船位
  • 船体の状態
  • 浸水量
  • ポンプが正常に使えたか
  • 積荷の状態
  • 近くに陸地が見えていたか
  • 救命艇と本船をどのように運用しようとしたのか

まで確認する必要がある。

これらを無視して「ブリッグスは優秀だから○○するはずがない」と考えるのも、逆に「船を捨てたのだから無能だった」と考えるのも、どちらも結果から人物像を作ってしまうことになる。

10人全員が同時に「消えた」とは限らない

メアリー・セレスト号は「乗組員が忽然と消えた船」と呼ばれる。

だが、記録から確認できるのは、

11月25日の最後の航海記録以降のどこかで10人が船からいなくなり、12月4日にデイ・グラティアが無人の船を発見した、

というところまでである。

全員が一瞬で消えた証拠はない。

船長が退船を命じ、全員が順番に救命艇へ移った可能性もある。
一部の人間が先に艇へ乗り、その後残りが移った可能性も否定できない。

つまり「10人が消えた」という表現は、発見結果を示しているのであって、失踪の瞬間を観察した記録ではない。

この区別をしないと、事件そのものが必要以上に超常的に見えてしまう。

人物構成から分かること、分からないこと

区分 評価
FACT ブリッグスは経験を持つ商船船長だった
FACT 妻サラと2歳の娘ソフィアが同行した
FACT 7歳の息子アーサーは航海に同行しなかった
FACT 第一航海士リチャードソンはブリッグスの知る船員だった
FACT 船長一家3人+乗組員7人の計10人が出航した
LIKELY 船長は乗組員に一定の信頼を置いて航海を開始していた
未確認 航海中に重大な船内対立が発生した
未確認 乗組員が反乱して船長一家を殺害した
未確認 ブリッグスが非合理的なパニックによって退船を命じた

なぜこの10人は船を離れたのか

人物を確認しても、失踪原因そのものは分からない。

むしろ逆に、問題は少し難しくなる。

船を指揮していたのは経験ある船長だった。
第一航海士には、ブリッグスとの以前からの関係があった。
妻と幼い娘まで同乗していた。
乗組員が出航前から反乱状態にあったことを示す資料も確認されていない。

それでも、後に救命艇だけがなくなり、本船には誰も残っていなかった。

だから検討すべきなのは「船長が臆病だったか」「船員が悪人だったか」という人物評価ではない。

経験ある船員たちが、船を離れた方が安全だと判断し得る状況が本当に発生していたのか。

そこまで戻る必要がある。

そのためには、まず最後に彼ら自身が残した記録を確認しなければならない。

まとめ

メアリー・セレスト号最後の航海には、ベンジャミン・スプーナー・ブリッグス船長、妻サラ、2歳の娘ソフィアと7人の乗組員が乗っていた。

ブリッグスは経験の浅い船員ではなく、37歳の時点ですでに商船船長として経験と評価を得ていた。
第一航海士アルバート・リチャードソンも、ブリッグスが以前から知る人物だった。

一方、7人の乗組員について詳細な人物記録が残っているわけではなく、航海中の人間関係を完全に復元することはできない。

したがって、出航前の人物背景だけから反乱説を完全に否定することもできない。
しかし同時に、反乱や船内暴力を積極的に裏付ける材料も確認されていない。

そして何より、船長は妻と2歳の娘を伴っていた。

もしブリッグスが退船を命じたのであれば、家族を含む10人を小さな艇へ移す危険よりも、本船に残る危険の方が大きいと判断したことになる。

では、その判断につながる異常はいつ現れたのか。

次回は1872年11月7日のニューヨーク出航から、記録が途絶える11月25日までを時間順に追う。

メアリー・セレスト号自身が最後に残した航海記録から、失踪直前の船がどこにいて、どのような状況に置かれていたのかを確認する。

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CASE FILE 39|全記事

  1. メアリー・セレスト号とは?|航行可能な船から10人が消えた1872年の未解決事件
  2. 最後の航海に乗っていたのは誰か|ブリッグス船長一家と7人の乗組員
  3. 1872年11月25日まで何が記録されていたのか|ニューヨーク出航から最後の航海日誌
  4. 発見時のメアリー・セレスト号はどんな状態だったのか|Dei Gratia乗組員が見た無人船
  5. ジブラルタルの海事審問は何を疑ったのか|殺人・反乱・詐欺説と「証拠」の検証
  6. なぜブリッグス船長は船を離れた可能性があるのか|ポンプ・浸水判断・天候・航法を検証
  7. 1,701樽のアルコールは原因だったのか|漏洩・蒸気・爆発恐怖説を検証
  8. 海賊・反乱・海震・海上竜巻説はどこまで成立するのか|主要仮説を証拠で比較
  9. 「幽霊船メアリー・セレスト」はどう作られたのか|コナン・ドイルと後世の脚色
  10. 10人はどこへ消えたのか|確認事実・最有力仮説・未解決部分を最終整理

出典・参考資料

  • Royal Museums Greenwich「The mystery of the Mary Celeste」― 最終航海の乗船者10人、各乗組員の氏名・役職、第一航海士リチャードソンとブリッグスの関係、1872年航海の基本事項を確認。
  • Smithsonian Magazine「Abandoned Ship: The Mary Celeste」― ブリッグスが経験と評価を持つ船長だったこと、妻サラ、娘ソフィア、息子アーサーに関する家族背景、現代の資料再検証を参照。
  • Smithsonian Magazine「An Abandoned Merchant Ship Was Discovered Floating in the Atlantic in 1872」― ブリッグス一家と7人の乗組員、最終航海の基本事項を確認。
  • United States Shipping Commissioner / U.S. National Archives由来の乗員記録― 乗組員の姓名・役職および原記録内での綴りの揺れを確認する際の基礎資料。

本記事では、人物の評判や性格だけから事件原因を推定していません。特に一般船員について残る個人情報は限定されているため、確認できない人物像や船内対立を補完せず、乗員名簿・博物館資料・後世の史料研究から確認可能な範囲のみを記載しています。また、19世紀の記録では外国人船員の姓名表記に複数の綴りが存在するため、表記差自体を事件上の異常とは扱っていません。

1872年11月25日まで何が記録されていたのか|ニューヨーク出航から最後の航海日誌

海難・失踪ミステリー

1872年11月25日午前8時。

メアリー・セレスト号の記録板には、アゾレス諸島サンタマリア島の東端が南南西、約6マイルに見えることが記された。

これが、船上から残された最後の確実な位置記録である。

その後、ベンジャミン・ブリッグス船長も、妻サラも、2歳の娘ソフィアも、7人の乗組員も、一行の記録を残していない。

約9日後。
メアリー・セレスト号は数百マイル東の大西洋上で発見される。

船はそこにあった。
人間だけがいなかった。

では、ニューヨークを出てから記録が途絶えるまで、何が起きていたのか。

今回は失踪原因を推理しない。
まず、メアリー・セレスト号自身が残した記録と、後の海事審問で保存された情報から、1872年11月25日午前8時までを時間順に再構成する。

この記事で分かること

  • メアリー・セレスト号が実際にニューヨークを離れた経緯
  • 大西洋横断中の航海は最初から異常だったのか
  • 11月24~25日に船がどこにいたのか
  • 正式な航海日誌とログ・スレートの違い
  • 11月25日午前8時に残された最後の位置記録
  • 「11月25日に全員が船を捨てた」と断定できるのか
CASE FILE 39|メアリー・セレスト号 1872

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11月4日、最後の航海の準備が整った

1872年11月初旬、メアリー・セレスト号はニューヨークで大西洋横断航海の準備を進めていた。

目的地はイタリアのジェノヴァ。

積荷は1,701樽の工業用アルコールだった。
船長は37歳のベンジャミン・スプーナー・ブリッグス。
妻サラ、2歳の娘ソフィア、そして7人の乗組員を合わせて10人が乗船する。

11月4日には乗組員との契約手続きなどが行われ、出航準備はほぼ完了した。

ただし、「11月4日にニューヨークを出港した」「11月5日」「11月7日」と、資料によって出航日の記述が異なることがある。

これは必ずしも単純な誤記ではない。

船が岸壁を離れた日と、港外へ向けて本格的な航海を開始した日を分ける必要がある。

いったん港を出たが、すぐ大西洋へは向かわなかった

ブリッグスの妻サラが航海直前に家族へ送った手紙が残っている。

それによれば、船はいったんニューヨークの岸壁を離れたものの、強い向かい風と悪い空模様のため、そのまま外洋へ進まず、スタテン島付近で錨泊した。

ブリッグスは、無理に風に逆らって進むより天候を待った。

結果として、本格的にニューヨークを離れたのは11月7日だった。

これは小さな出来事だが、船長の人物像を考えるうえでは興味深い。

少なくとも出航時のブリッグスは、

悪条件でも予定を優先して強行出航する船長ではなかった。

海況を見て、一度待つという判断をしている。

もっとも、この行動だけから後の判断まで推測することはできない。

ここで確認できるのは、1872年11月7日朝、風が比較的好転したところでメアリー・セレスト号が大西洋へ向かったという事実である。

出航時、船内に深刻な異常は記録されていない

サラの最後の手紙には、乗組員についても触れられている。

彼女は、新しい乗組員について概ね穏やかな一団に見えるという趣旨を書き残している。
一方で、まだ航海が始まったばかりであり、能力については分からないともしていた。

これは前回扱った「出航前から船員が反乱寸前だった」というイメージと一致しない。

もちろん、航海開始時に問題がなかったことは、その後も問題が起こらなかった証明にはならない。

しかし少なくとも、

ニューヨークを離れる段階で重大な船内対立が記録されているわけではない。

大西洋横断は順調一辺倒ではなかった

メアリー・セレスト号はニューヨークから東へ進み、大西洋を横断した。

航海にはおよそ2週間を要し、その間、船は強風や荒天にさらされた。

帆船にとって悪天候そのものは異常事態ではない。
19世紀の大西洋横断では、風向と風力によって速度も航路も大きく変化する。

したがって、

「航海中に嵐に遭った」

というだけで失踪原因を説明することはできない。

重要なのは、最後の数日間に船の状態と船長の認識がどう変化したかである。

失われた「オリジナルの航海日誌」

ここで資料上の問題が一つある。

メアリー・セレスト号の1872年航海について、現在われわれが船長の航海日誌そのものを最初から最後まで読めるわけではない。

発見後、船内には航海日誌が残されていた。
ジブラルタルでの海事審問でも内容が調べられた。

しかし、その原本は後に失われたとされている。

それでも最後の航海状況をある程度追えるのは、ジブラルタル司法長官フレデリック・ソリー=フラッドが審問のために末尾部分を書き写していたからである。

後世の研究は、この転記や審問証言、発見時に残っていたログ・スレートなどを組み合わせて航跡を再構成している。

資料上の重要な区別|航海日誌とログ・スレート

メアリー・セレスト号には正式なlog book(航海日誌)と、当直中の情報を一時的に記録するlog slate(ログ・スレート/記録板)があった。

後世の記事では両方をまとめて「航海日誌」と呼ぶことがあるが、厳密には別物である。

正式な航海日誌は11月24日まで記録されていたとされ、11月25日朝の最後の位置情報はスレート側に残されていた。

11月24日、アゾレス諸島へ接近していた

11月24日の正式な航海記録では、メアリー・セレスト号は、

北緯36度56分、西経27度20分付近

にいると記録されていた。

大西洋中央部、アゾレス諸島へ接近した位置である。

この日の船は強い西風に遭い、夜にかけて風はさらに強まり、雨を伴う荒れた海況になったと後世の資料から再構成されている。

ただし、ここでも「暴風に遭ったから船を捨てた」と結論づけることはできない。

翌朝、船はサンタマリア島を確認している。

つまり、少なくともその時点まで航海そのものは続いていた。

11月25日午前5時ごろ、サンタマリア島を確認

1872年11月25日の早朝。

メアリー・セレスト号から陸地が確認された。

アゾレス諸島東端に位置するサンタマリア島である。

午前5時ごろ、島を視認したことが記録された。

そして午前8時。

ログ・スレートには、サンタマリア島東端について、

「南南西、6マイル」

という位置関係が記された。

船から見てサンタマリア島東端が南南西方向、およそ6海里にあったという意味である。

この記録から推定すると、メアリー・セレスト号はサンタマリア島の北東側を通過し、東へ向かっていた。

1872年11月25日 08:00

確認地点:アゾレス諸島 サンタマリア島付近
記録:島の東端が南南西方向、約6海里

これが現在確認できるメアリー・セレスト号最後の船上位置記録となる。

Google Map|最後の記録地点となったサンタマリア島

サンタマリア島は、ポルトガル領アゾレス諸島でもっとも東側に位置する島である。

ニューヨークから東へ大西洋を横断してきたメアリー・セレスト号にとって、ヨーロッパへ向かう途中で接近した陸地だった。

Google Mapでサンタマリア島を確認する

この「陸地が近かった」という条件は、後に退船仮説を考える際に重要になる。

仮にブリッグスが船の沈没を懸念していたなら、陸地が視認できる場所で救命艇へ移ろうと考えること自体は、完全に理解不能な行動ではないからである。

ただし、それはまだ仮説である。

午前8時以降、記録は突然途絶える

午前8時のサンタマリア島に関する記載より後、乗船者自身が残した確実な航海記録は確認されていない。

ここからメアリー・セレスト号事件の「空白」が始まる。

重要なのは、

記録が途絶えた時刻と、人々が船を離れた時刻は同じとは限らない

ということである。

午前8時に最後の記録を書いた直後に退船した可能性はある。

数時間後かもしれない。

あるいは、それより後まで人が船に残っていた可能性も完全には排除できない。

「最後の記録=失踪時刻」として扱ってしまうと、存在しない時刻証拠を作ることになる。

「11月25日に全員が退船した」はFACTではない

多くの解説では、

「1872年11月25日、メアリー・セレスト号の全員が船を放棄した」

と書かれている。

これは状況から考えて十分あり得る。
しかし、厳密には確定していない。

確認できるのは、

  • 11月25日午前8時まで人が記録を付けていた
  • 後に船は無人で発見された
  • 救命艇がなくなっていた

という3点である。

ここから、

「11月25日前後に退船した可能性が高い」

とは評価できる。

しかし、

「11月25日午前8時直後に全員が救命艇へ移った」

とまでは記録から証明できない。

FACT / LIKELY / THEORY

FACT 11月7日、メアリー・セレスト号はニューヨークを離れてジェノヴァへ向かった
FACT 大西洋横断中に荒天を経験した
FACT 11月25日朝、サンタマリア島を視認した
FACT 午前8時、島の東端を南南西約6海里と記録した
FACT これ以降、乗船者自身による確実な記録は確認されていない
LIKELY 11月25日前後に乗船者が本船を離れた
THEORY 陸地が近い時点で船長が意図的な一時退船を決断した

現代の再検証では「船位の誤認」も指摘されている

後世の研究では、メアリー・セレスト号の航海記録と当時の風向・海況データを照合する試みも行われている。

その一つでは、ブリッグスが推測していた船位と実際の位置との間にかなりの誤差が生じていた可能性が指摘された。

19世紀の航海では、緯度は天体観測から比較的求めやすかった一方、経度の算出には正確な時刻を維持するクロノメーターが重要だった。

もし時刻計測に誤差があれば、船長が認識する位置もずれる。

現代の再検証では、ブリッグスが想定していたより船が西側にいた可能性まで提示されている。

ただし、これは1872年の記録そのものではない。

後世の海洋・気象データを用いた再構成仮説である。

そのため本記事では「ブリッグスのクロノメーターが故障していた」と確定しない。
この問題は、第6回の航法・ポンプ・浸水判断編で詳しく検討する。

最後の記録に「異常事態」は書かれていない

メアリー・セレスト号事件でもっとも奇妙な点の一つがここにある。

最後に残された記録は、

「爆発した」

「船が沈む」

「反乱が起きた」

「救命艇へ移る」

といった内容ではない。

サンタマリア島との位置関係を記した、通常の航海上の情報で終わっている。

海事審問を担当したソリー=フラッドも、航海の末期まで特に異常な記述がないことに注目していた。

つまり、

記録上では通常航海から失踪へ至る明確な境界線が見つからない。

午前8時までは航海が記録されている。
その後、記録だけが途切れる。

何かが起きたとしても、それを書き残す余裕がなかったのか。

書く必要がないと思う程度の一時的な対応だったのか。

あるいは午前8時から相当時間が経過してから状況が変化したのか。

記録だけでは判別できない。

11月25日から発見までの間に何が起きたのか

午前8時の記録後、メアリー・セレスト号は歴史資料の上からいったん姿を消す。

次に確認されるのは、デイ・グラティア号から発見された時である。

その場所はサンタマリア島から数百マイル東側だった。

後世の海流・風向データを使った研究では、無人状態でもメアリー・セレスト号がその方面へ移動すること自体は可能だったとする再構成がある。

つまり、

「船がサンタマリア島付近から発見地点まで移動した」

という事実だけを理由に、

「11月25日の時点ではまだ乗員が操船していた」

とも、

「11月25日直後から完全に無人だった」

とも断定できない。

この期間こそが、事件最大の記録空白である。

航海記録から分かる「最後の正常」

メアリー・セレスト号の記録を追うと、事件を「突然人間が消えた幽霊船」と表現することが適切ではないことが分かる。

少なくとも11月25日朝までは、人間が船を運航していた。

島を確認し、その位置を記録し、航海を続けていた。

したがって本当に探すべきなのは、

ニューヨークから何が起きたのか

ではない。

もっと範囲を狭められる。

1872年11月25日午前8時以降、船を放棄するまでの間に何が変わったのか。

これが事件原因を考えるうえで重要な時間帯になる。

時系列で整理する

日付 確認できる内容 確度
11月4日 乗組員契約など出航準備 FACT
11月5日前後 岸壁を離れるが、悪条件のためスタテン島付近で待機 FACT
11月7日 ニューヨークを離れジェノヴァへ向け本格出航 FACT
11月上~中旬 大西洋を東進。荒天を経験 FACT
11月24日 北緯36度56分・西経27度20分付近を記録。アゾレスへ接近 FACT / 転記資料
11月25日 早朝 サンタマリア島を視認 FACT
11月25日 08:00 島の東端が南南西約6海里とログ・スレートに記録 FACT
08:00以降 乗船者による確実な記録が途絶える UNKNOWN

まとめ

メアリー・セレスト号は1872年11月7日、ニューヨークからジェノヴァへ向けて本格的な航海を開始した。

大西洋横断中には荒天を経験したものの、航海記録から「最初から船に重大な異常があった」と判断できる材料はない。

11月24日、船はアゾレス諸島に接近していた。

翌25日早朝にはサンタマリア島を確認し、午前8時には島の東端が南南西約6海里にあることをログ・スレートへ記録した。

そして、そこで記録は途絶える。

この時点で船を捨てたのか。

数時間後だったのか。

それとも、さらに時間が経過してからだったのか。

現在の資料だけでは確定できない。

分かっているのは、午前8時までは人間がメアリー・セレスト号を運航していたということだけである。

そして次に船を目撃した者が見たとき、10人全員がいなくなっていた。

次回は、その発見の瞬間へ進む。

デイ・グラティア号の乗組員がメアリー・セレスト号へ乗り移ったとき、帆、索具、船倉、ポンプ、救命艇、航海計器、乗組員の私物はどのような状態だったのか。

「完全な状態の船から人間だけが消えていた」という有名なイメージを一度解体し、1872年の発見者証言から実際の船内状況を再構成する。

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第2回|最後の航海に乗っていたのは誰か|ブリッグス船長一家と7人の乗組員

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第4回|発見時のメアリー・セレスト号はどんな状態だったのか|Dei Gratia乗組員が見た無人船

CASE FILE 39|全記事

  1. メアリー・セレスト号とは?|航行可能な船から10人が消えた1872年の未解決事件
  2. 最後の航海に乗っていたのは誰か|ブリッグス船長一家と7人の乗組員
  3. 1872年11月25日まで何が記録されていたのか|ニューヨーク出航から最後の航海日誌
  4. 発見時のメアリー・セレスト号はどんな状態だったのか|Dei Gratia乗組員が見た無人船
  5. ジブラルタルの海事審問は何を疑ったのか|殺人・反乱・詐欺説と「証拠」の検証
  6. なぜブリッグス船長は船を離れた可能性があるのか|ポンプ・浸水判断・天候・航法を検証
  7. 1,701樽のアルコールは原因だったのか|漏洩・蒸気・爆発恐怖説を検証
  8. 海賊・反乱・海震・海上竜巻説はどこまで成立するのか|主要仮説を証拠で比較
  9. 「幽霊船メアリー・セレスト」はどう作られたのか|コナン・ドイルと後世の脚色
  10. 10人はどこへ消えたのか|確認事実・最有力仮説・未解決部分を最終整理

出典・参考資料

  • Royal Museums Greenwich「The mystery of the Mary Celeste」― 1872年11月7日の出航、11月25日朝のログ・スレート、サンタマリア島付近の最終記録を確認。
  • Smithsonian Magazine「Abandoned Ship: The Mary Celeste」― 大西洋横断中の荒天、11月25日午前5時の記録、サンタマリア島から約6マイルの位置、ソリー=フラッドによる末期航海記録の転記、後世の航跡再構成を参照。
  • Charles Edey Fay / Peabody Museum系史料研究― 11月24日の航海日誌位置、11月25日のログ・スレート記録、正式ログとスレートの区別を確認。
  • New Bedford Whaling Museum / Old Dartmouth Historical Sketches― サラ・ブリッグスがスタテン島沖から送った最後の手紙、出航延期と11月7日の航海開始、出航時の乗組員に関する記述を参照。

本記事では、正式な航海日誌とログ・スレートを区別しています。後世の一般資料では11月25日の記録を単に「最後の航海日誌」と呼ぶ場合がありますが、史料研究では正式なログブックは11月24日まで、11月25日朝の最終位置はログ・スレートに残された記録として扱われています。また、11月25日午前8時が「退船時刻」であることを示す直接証拠はないため、本記事では最後の記録時刻と失踪・退船時刻を同一視していません。

発見時のメアリー・セレスト号はどんな状態だったのか|Dei Gratia乗組員が見た無人船

海難・失踪ミステリー

1872年12月4日、大西洋。

帆船デイ・グラティア(Dei Gratia)の乗組員は、前方を不自然な動きで進む1隻の帆船に気づいた。

帆は上がっている。
だが航路は安定せず、操船されているようには見えない。

近づいて呼びかけても、甲板には誰も現れなかった。

デイ・グラティアの船長デヴィッド・モアハウスは、乗組員を小艇に乗せて調査へ向かわせた。

船尾に記されていた名前は、

MARY CELESTE

だった。

ニューヨークを自分たちより先に出航し、とっくに地中海方面へ進んでいるはずの船である。

第一航海士オリバー・デヴォーらが船へ乗り移った。

甲板にも、船室にも、人はいなかった。

しかし、彼らが見つけたのは「完全な状態の船から人間だけが突然消えた」という光景でもなかった。

帆と索具は傷み、ハッチの一部は開き、船内には水が入り、ポンプの一つは分解されていた。

一方で、船は沈みかけてはいなかった。
積荷の大部分も残されていた。

そして、あるべき場所からなくなっていた物があった。

救命艇。

さらに、船の書類とブリッグス船長の航海計器も見つからなかった。

発見時の状態を一つずつ確認すると、メアリー・セレスト号事件は「超常的な消失」というより、
何らかの理由で乗船者が船を離れた後に、本船だけが航海を続けた事件として見えてくる。

この記事で分かること

  • デイ・グラティア号はどのようにメアリー・セレスト号を発見したのか
  • 発見時に帆と索具はどのような状態だったのか
  • 船内にはどの程度の浸水があったのか
  • ポンプと測深棒はなぜ重要なのか
  • 救命艇、航海計器、船の書類はどうなっていたのか
  • 積荷と乗組員の私物は残されていたのか
  • 「温かい食事が残る完璧な幽霊船」という話は事実なのか
CASE FILE 39|メアリー・セレスト号 1872

← 第3回|1872年11月25日まで何が記録されていたのか|ニューヨーク出航から最後の航海日誌

第4回|発見時のメアリー・セレスト号はどんな状態だったのか|Dei Gratia乗組員が見た無人船【現在の記事】

→ 第5回|ジブラルタルの海事審問は何を疑ったのか|殺人・反乱・詐欺説と「証拠」の検証

12月4日、デイ・グラティアが奇妙な帆船を見つけた

11月25日にアゾレス諸島サンタマリア島付近で記録が途絶れてから、およそ9日。

メアリー・セレスト号は再び人間に目撃された。

1872年12月4日、デイ・グラティア号はアゾレス諸島より東側の大西洋を航行していた。

そこで乗組員が、安定しない進路を取る帆船に気づいた。

船は沈んでいなかった。
帆も一部は上がっていた。

しかし、正常な操船を受けているようには見えなかった。

デイ・グラティア側から呼びかけても返答はない。
甲板上にも人影は確認できなかった。

モアハウス船長は調査を決めた。

デイ・グラティアの第一航海士オリバー・デヴォーらが小艇で接近し、船へ乗り移った。

そこで船名が確認された。

メアリー・セレスト号だった。

この発見には、モアハウス側から見ても違和感があった。

メアリー・セレスト号は11月7日にニューヨークを出航している。
デイ・グラティアはそれより後にニューヨークを離れていた。

本来なら、先行したメアリー・セレスト号はすでにもっと東へ進んでいるはずだった。

それが大西洋上を無人で漂っていた。

人はいなかった

デヴォーらは甲板から船室まで確認した。

ベンジャミン・ブリッグス船長はいない。

妻サラもいない。

2歳のソフィアもいない。

第一航海士アルバート・リチャードソン以下、7人の乗組員もいなかった。

遺体も発見されなかった。

船内で大規模な戦闘が起きたことを直ちに示す状況も見当たらなかった。

ただし、

「何一つ乱れていなかった」わけではない。

この点は、後世のメアリー・セレスト号伝説と1872年の記録を分けるうえで非常に重要になる。

帆は一部だけが残り、索具も傷んでいた

発見されたメアリー・セレスト号は、完全に帆を畳んで漂流していたわけではない。

一部の帆は展開された状態だった。

一方で、帆そのものや索具には損傷があり、失われている帆もあった。
ロープ類にも乱れが生じていた。

つまり、船は「新品同様の状態で静かに浮いていた」のではない。

荒天の中を航海し、その後もしばらく無人状態で大西洋を移動していたと考えれば不思議ではない程度の損傷が生じていた。

この状態だけでは、

「重大事故が起きた」

とも、

「通常の荒天損傷だけだった」

とも断定できない。

ただし少なくとも、発見時のメアリー・セレスト号を完全無傷の船と表現するのは正確ではない。

貨物ハッチの一部は開いていた

甲板上では、船倉へ通じるハッチの状態にも異常があった。

前方側と後方側の貨物ハッチは開かれ、ハッチカバーは甲板上に置かれていた。

これは後の仮説にとって重要な材料となる。

例えば、

  • 船倉の浸水量を確認していた
  • 積荷の状態を確認していた
  • 船倉を換気していた

といった行動との関係が考えられるからである。

ただし、

ハッチが開いていた理由そのものを説明する記録は残されていない。

「アルコール蒸気を逃がすためだった」と断定することもできない。

確認できるのは、デヴォーらが乗り込んだ時点で一部のハッチが開いていたというところまでである。

船倉には約3.5フィートの水があった

メアリー・セレスト号の船底部には水が入っていた。

後世の史料整理では、その深さはおよそ3.5フィート、約1.1メートルとされている。

数字だけを見るとかなり深刻に思える。

しかし、この水位だけをもって「船が沈没寸前だった」と判断することはできない。

実際、メアリー・セレスト号はその後、デイ・グラティアから派遣された少人数の船員によってジブラルタルまで航行している。

つまり、発見時点で船体に水が入っていたことと、

実際に沈没が迫っていたこと

は別である。

この違いが、事件を難しくする。

後から船を調べたデヴォーたちには「まだ浮いている船」に見えた。

しかしブリッグス船長が退船判断をしたと仮定した場合、重要なのは、

その時点で彼が船内の水量をどう認識していたか

だからである。

ポンプの一つが分解されていた

さらに重要なのが、排水設備の状態だった。

メアリー・セレスト号には船底へ入った水を排出するためのポンプがあった。

発見時、そのうち一つが部分的に分解された状態になっていた。

そして、その近くには測深棒(sounding rod)が置かれていた。

測深棒は、船倉やビルジにどれだけ水がたまっているかを確認するための道具である。

この二つの状態は偶然なのか。

それとも、失踪直前に乗組員が浸水量を確認しようとしていた痕跡なのか。

ここから先は仮説になる。

だが、

「ポンプ周辺で何らかの点検・作業が行われていた可能性」

は、後の退船原因を考える際に無視できない。

技術的ポイント|ポンプと測深棒

帆船では、船内への浸水そのものだけでなく、「どれだけ水が入っているのかを正確に把握できるか」が重要になる。

もしポンプが正常に使えず、同時に船底の水量を正確に測れなければ、船長は実際より深刻な浸水が進んでいると判断する可能性がある。

ただし、発見時にポンプが分解されていたことだけから「ポンプ故障が退船原因だった」と確定することはできない。
これは第6回で改めて検証する。

救命艇がなくなっていた

発見状況でもっとも直接的な意味を持つのが救命艇だった。

メアリー・セレスト号に備えられていた小艇が、あるべき場所になかった。

Royal Museums Greenwichは、この欠落を乗船者が船を放棄したことを示す主要な手掛かりとしている。

もちろん、救命艇がなくなった理由を直接見た人はいない。

荒天によって流失した可能性だけを理論上完全に排除することもできない。

しかし、

  • 10人全員がいない
  • 救命艇もない
  • 航海書類の一部がない
  • 船長の航海計器もない

という状態を組み合わせると、

乗船者が救命艇を使って意図的に本船を離れた

と考えるのがもっとも自然である。

この意味で、メアリー・セレスト号は「人間だけが謎の力で消滅した船」ではない。

少なくとも退船行動を示唆する物証が残されている。

船の書類と航海計器もなくなっていた

救命艇だけではなかった。

ブリッグス船長が航海に使う計器や、船の重要書類の一部も発見されなかった。

Royal Museums Greenwichは、船の書類とブリッグスの航海計器が欠けていたことを記録している。

後世の資料では、クロノメーターや六分儀などがなくなっていたと整理されている。

これも重要な状況証拠になる。

もし乗船者が何の準備もなく瞬間的に船から転落したのなら、航海計器と書類だけが同時になくなる説明は難しい。

一方、

「救命艇へ移り、そこから陸地または本船への復帰を目指す」

という行動なら、位置を確認するための航海計器を持ち出す理由は成立する。

ただし、ここでも注意が必要になる。

どの人物が何を持ち出したのか。

どの時点で持ち出したのか。

それを直接記録した証言はない。

一方で、乗組員の私物は残っていた

船室が完全に空になっていたわけではない。

乗組員の私物は概ね船内に残されていた。

ブリッグス船長の船室からは剣も発見されている。

船内そのものは水に濡れていた部分があり、完全に整然としていたわけではないが、略奪された状態でもなかった。

これも海賊説や強盗説を考える際に重要になる。

価値のある船そのものも残され、
積荷の大部分も残され、
個人の所持品まで残っている。

海賊や強盗が船を襲撃したと考えるなら、

なぜ船と貨物を残して10人だけを連れ去る必要があったのか

を別に説明しなければならない。

積荷1,701樽は「消えていた」のか

メアリー・セレスト号には1,701樽の工業用アルコールが積まれていた。

その大部分は発見時にも船倉に残っていた。

したがって、

「積荷ごと強奪された船」

ではない。

後の荷下ろしでは9樽が空になっていたことが確認され、これがアルコール蒸気説の重要な材料になる。

しかし、この9樽については別の可能性もある。

後世の調査では、空になっていた樽は他の多数の樽とは異なる材質で、より液体を透過しやすかった可能性が指摘されている。

つまり、

9樽が空だった=何者かがアルコールを飲んだ

とは言えない。

この問題は第7回で、樽の構造、漏洩、蒸気、爆発危険を分離して詳しく扱う。

「温かい食事」は確認されていない

ここで、有名なメアリー・セレスト号の光景を確認しておく必要がある。

よく語られるのが、

「食卓には温かい食事が残っていた」

「コーヒーがまだ温かかった」

「食事をしている途中で人々だけが突然消えた」

という話である。

この場面は非常に印象的だ。

しかし、デヴォーらの発見証言を基準にすると、このような描写を確認事実として採用することはできない。

むしろ、Smithsonianの史料整理では船には長期間航海できるだけの食料と水が残されていたものの、「食事途中の食卓」が失踪の瞬間を保存していたという証拠は示されていない。

Royal Museums Greenwichも、発見状況として救命艇、帆、索具、ハッチ、ポンプ、測深棒、航海書類などを挙げる一方、温かい料理や食べかけの食事を確定事実として挙げていない。

FACT CHECK|「食事中に突然消えた幽霊船」

救命艇がなかった 確認できる
乗組員の私物が残されていた 確認できる
食料・水が残されていた 確認できる
温かい食事が食卓に並んでいた 確定事実として確認できない
食事中に10人が突然消えた 根拠なし

火災や爆発の跡はあったのか

積荷がアルコールだったため、発見直後から火災や爆発との関係は疑われてきた。

しかし、デヴォーらが乗船した際、船内に明白な大火災の跡が確認されたわけではない。

後世のSmithsonianによる再検証でも、搭乗者がメインハッチを閉じた状態で発見し、強いアルコール蒸気臭を報告していない点が指摘されている。

このため、

「巨大爆発が起こり船内を破壊した」

という単純な説明は発見状況と合わない。

ただし、

目立つ焼損を残さない圧力現象や、爆発への恐怖そのもの

まで発見状況だけから排除できるわけではない。

この点も、第7回で独立して検討する。

血痕や殺人の痕跡はあったのか

デヴォーらが最初に船を調べた段階で、明白な大規模殺人現場が見つかったわけではない。

Royal Museums Greenwichは、船長室に剣が残されていた一方、デヴォーらが明確な暴力の痕跡を認めなかったと整理している。

しかし、その後ジブラルタルへ船が運ばれると状況は変わる。

司法長官フレデリック・ソリー=フラッドは、船体の傷や船内にあった染みなどを犯罪の痕跡ではないかと疑った。

殺人。

反乱。

デイ・グラティア側との共謀。

さまざまな可能性が捜査対象となる。

だが、それは12月4日の発見時に殺人が確定したという意味ではない。

この問題は次回、ジブラルタル海事審問の中で詳しく検証する。

「航行可能」と「正常」は同じではない

メアリー・セレスト号について、

「完全に航行可能な船だったのに、なぜ船長は捨てたのか」

と説明されることが多い。

ここにも少し修正が必要になる。

発見された船には、

  • 帆・索具の損傷
  • 船内への浸水
  • 開かれたハッチ
  • 部分的に分解されたポンプ
  • 壊れた・乱れた航海設備

などがあった。

つまり、

完全に正常な状態ではなかった。

その一方で、

致命的に損傷した船でもなかった。

この二つを同時に理解する必要がある。

デイ・グラティア側は、船を放棄して沈めるのではなく、ジブラルタルまで運ぶ価値があると判断した。

そして実際にそれを成功させている。

したがって発見時点から見ると、

「なぜこんな船を捨てたのか」

という疑問が生じる。

しかしブリッグスが最後に船上にいた時点では、
デヴォーが後から知った情報すべてを把握できていたとは限らない。

事故原因を考えるうえでは、この情報の非対称性が重要になる。

少人数でジブラルタルへ向かった

モアハウス船長には選択肢があった。

無人船をそのまま残すこともできた。

しかし、海上で放棄された船を安全な港まで運べば、船と積荷の価値に応じたサルベージ報酬を請求できる。

そこでモアハウスはメアリー・セレスト号をジブラルタルへ運ぶことを決めた。

デイ・グラティア自体も航行を続けなければならないため、十分な人数を無人船側へ移すことはできない。

オリバー・デヴォーと少数の船員がメアリー・セレスト号へ移り、二隻を分担してジブラルタルを目指した。

距離はおよそ600海里。

容易な航海ではなかった。

それでもメアリー・セレスト号は航海を続け、12月13日にジブラルタルへ到着した。

この事実は重要である。

12月4日に発見された段階では、船は少人数でも数百海里を航行できる能力を残していた。

だからこそ、元の10人が船を離れた理由がさらに問題となった。

発見時の状態を一覧にする

項目 発見時の状態 意味
乗船者 10人全員不在 FACT
救命艇 なくなっていた 意図的退船を強く示唆
一部展開、一部損傷・喪失 完全無傷ではない
索具 損傷・乱れあり 荒天・無人航行等の影響を検討
貨物ハッチ 前後の一部が開いていた 理由不明
船倉 約3.5フィートの水 浸水あり。ただし沈没寸前とはいえない
ポンプ 1基が部分的に分解 浸水確認・排水作業との関連を検討
測深棒 ポンプ付近に残存 水量測定作業を示唆する可能性
航海書類 一部なくなっていた 計画的退船と整合
航海計器 ブリッグスの一部計器がない 救命艇での航法準備と整合する可能性
私物 概ね残存 大規模な略奪とは整合しにくい
積荷 大部分が残存 強盗・海賊説の説明負荷が大きい
明白な暴力痕跡 最初の搭乗者は確認せず 殺人はこの時点では未立証

ここから何が言えるのか

発見時の物証だけで失踪原因を確定することはできない。

しかし、少なくとも範囲をかなり狭めることはできる。

第一に、

船は完全に正常ではなかった。

荒天による損傷、浸水、ポンプ周辺の作業など、船長が安全性を気にする材料は存在した。

第二に、

船は発見時にはまだ航行できた。

デヴォーらは実際に数百海里を航海してジブラルタルへ到達している。

第三に、

乗船者が意図的に船を離れた可能性が高い。

救命艇がなく、船の重要書類と一部の航海計器もなくなっていたからである。

第四に、

大規模な略奪や明白な殺戮を示す状況は、最初の発見時には確認されなかった。

この4点を組み合わせると、中心的な問いはさらに具体的になる。

なぜブリッグス船長は、

実際には数百海里を航行できた船を、残るより危険な小艇へ移る必要がある船だと判断したのか。

あるいは、本当にブリッグス自身が退船を決めたのか。

それを調べるには、1872年当時の人々がこの船をどう見たかを確認しなければならない。

発見された「証拠」が、次に疑惑を生んだ

メアリー・セレスト号がジブラルタルへ到着すると、単純な無人船救助事件では終わらなかった。

サルベージ報酬を決めるため、海事審問が始まる。

そこで司法長官フレデリック・ソリー=フラッドは、船内の細かな傷や染みに注目した。

乗組員による反乱ではないか。

ブリッグス一家は殺されたのではないか。

デイ・グラティア側が何かを隠しているのではないか。

「無人船」という謎は、今度は犯罪事件の疑いへ変わっていく。

次回は、ジブラルタルで実際に何が調べられ、どの証拠が殺人説を生み、そしてなぜその説を立証できなかったのかを追う。

まとめ

1872年12月4日、デイ・グラティア号の乗組員は大西洋上でメアリー・セレスト号を発見した。

乗船者10人は全員いなかった。

しかし、船の状態を詳しく見ると、「完全無傷の幽霊船」という後世のイメージとは異なる。

帆と索具には損傷があり、一部の貨物ハッチは開き、船内には約3.5フィートの水が入っていた。

ポンプの一つは部分的に分解され、その近くには水深を確認する測深棒があった。

一方、積荷の大部分と乗組員の私物は残されていた。

なくなっていたのは、救命艇、船の重要書類、そしてブリッグス船長の航海計器だった。

この組み合わせは、乗船者が何らかの理由で救命艇へ移ったという説明とよく整合する。

しかし、理由は分からない。

発見時の船には損傷があった。
それでも数百海里を航海できるだけの能力も残っていた。

だからこそ、

「なぜ船を離れたのか」

という問題が残る。

そして1872年当時、最初にその答えとして強く疑われたのは、現在よく語られるアルコール蒸気説ではなかった。

殺人だった。

次回はジブラルタル海事審問へ進む。

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CASE FILE 39|全記事

  1. メアリー・セレスト号とは?|航行可能な船から10人が消えた1872年の未解決事件
  2. 最後の航海に乗っていたのは誰か|ブリッグス船長一家と7人の乗組員
  3. 1872年11月25日まで何が記録されていたのか|ニューヨーク出航から最後の航海日誌
  4. 発見時のメアリー・セレスト号はどんな状態だったのか|Dei Gratia乗組員が見た無人船
  5. ジブラルタルの海事審問は何を疑ったのか|殺人・反乱・詐欺説と「証拠」の検証
  6. なぜブリッグス船長は船を離れた可能性があるのか|ポンプ・浸水判断・天候・航法を検証
  7. 1,701樽のアルコールは原因だったのか|漏洩・蒸気・爆発恐怖説を検証
  8. 海賊・反乱・海震・海上竜巻説はどこまで成立するのか|主要仮説を証拠で比較
  9. 「幽霊船メアリー・セレスト」はどう作られたのか|コナン・ドイルと後世の脚色
  10. 10人はどこへ消えたのか|確認事実・最有力仮説・未解決部分を最終整理

出典・参考資料

  • Royal Museums Greenwich「The mystery of the Mary Celeste」― デイ・グラティアによる発見、デヴォーらの乗船、帆・索具、貨物ハッチ、ポンプ、測深棒、救命艇、私物、船舶書類・航海計器の状態を確認。
  • Smithsonian Magazine「Abandoned Ship: The Mary Celeste」― 発見時の船倉に約3.5フィートの水があったこと、1,701樽の積荷が大部分残されていたこと、救命艇とポンプの状態、食料・水が残されていたことを確認。
  • Government of Gibraltar / Ministry for Heritage「Courthouse」― ジブラルタルでの海事審問と、後に犯罪の可能性が捜査された経緯を確認。
  • Gibraltar Vice-Admiralty Court関連記録/Oliver Deveau testimony― デイ・グラティア第一航海士デヴォーによる発見時の船内状況、ポンプ、ハッチ、航海計器等の証言を参照。

発見日は資料によって12月4日/5日と表記されます。本特集では前記事までと同様、Royal Museums Greenwichが採用する民間日付の1872年12月4日で統一しています。また、「完全に無傷」「温かい食事が残っていた」「食事の途中で全員が突然消えた」といった有名な描写は、発見者証言による確定事実として採用していません。「航行可能」という表現についても、損傷や浸水がなかったという意味ではなく、発見後に少人数でジブラルタルまで航行できたという意味で使用しています。