1872年12月4日、大西洋。
帆船デイ・グラティア(Dei Gratia)の乗組員は、前方を不自然な動きで進む1隻の帆船に気づいた。
帆は上がっている。
だが航路は安定せず、操船されているようには見えない。
近づいて呼びかけても、甲板には誰も現れなかった。
デイ・グラティアの船長デヴィッド・モアハウスは、乗組員を小艇に乗せて調査へ向かわせた。
船尾に記されていた名前は、
MARY CELESTE
だった。
ニューヨークを自分たちより先に出航し、とっくに地中海方面へ進んでいるはずの船である。
第一航海士オリバー・デヴォーらが船へ乗り移った。
甲板にも、船室にも、人はいなかった。
しかし、彼らが見つけたのは「完全な状態の船から人間だけが突然消えた」という光景でもなかった。
帆と索具は傷み、ハッチの一部は開き、船内には水が入り、ポンプの一つは分解されていた。
一方で、船は沈みかけてはいなかった。
積荷の大部分も残されていた。
そして、あるべき場所からなくなっていた物があった。
救命艇。
さらに、船の書類とブリッグス船長の航海計器も見つからなかった。
発見時の状態を一つずつ確認すると、メアリー・セレスト号事件は「超常的な消失」というより、
何らかの理由で乗船者が船を離れた後に、本船だけが航海を続けた事件として見えてくる。
- デイ・グラティア号はどのようにメアリー・セレスト号を発見したのか
- 発見時に帆と索具はどのような状態だったのか
- 船内にはどの程度の浸水があったのか
- ポンプと測深棒はなぜ重要なのか
- 救命艇、航海計器、船の書類はどうなっていたのか
- 積荷と乗組員の私物は残されていたのか
- 「温かい食事が残る完璧な幽霊船」という話は事実なのか
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第4回|発見時のメアリー・セレスト号はどんな状態だったのか|Dei Gratia乗組員が見た無人船【現在の記事】
12月4日、デイ・グラティアが奇妙な帆船を見つけた
11月25日にアゾレス諸島サンタマリア島付近で記録が途絶れてから、およそ9日。
メアリー・セレスト号は再び人間に目撃された。
1872年12月4日、デイ・グラティア号はアゾレス諸島より東側の大西洋を航行していた。
そこで乗組員が、安定しない進路を取る帆船に気づいた。
船は沈んでいなかった。
帆も一部は上がっていた。
しかし、正常な操船を受けているようには見えなかった。
デイ・グラティア側から呼びかけても返答はない。
甲板上にも人影は確認できなかった。
モアハウス船長は調査を決めた。
デイ・グラティアの第一航海士オリバー・デヴォーらが小艇で接近し、船へ乗り移った。
そこで船名が確認された。
メアリー・セレスト号だった。
この発見には、モアハウス側から見ても違和感があった。
メアリー・セレスト号は11月7日にニューヨークを出航している。
デイ・グラティアはそれより後にニューヨークを離れていた。
本来なら、先行したメアリー・セレスト号はすでにもっと東へ進んでいるはずだった。
それが大西洋上を無人で漂っていた。
人はいなかった
デヴォーらは甲板から船室まで確認した。
ベンジャミン・ブリッグス船長はいない。
妻サラもいない。
2歳のソフィアもいない。
第一航海士アルバート・リチャードソン以下、7人の乗組員もいなかった。
遺体も発見されなかった。
船内で大規模な戦闘が起きたことを直ちに示す状況も見当たらなかった。
ただし、
「何一つ乱れていなかった」わけではない。
この点は、後世のメアリー・セレスト号伝説と1872年の記録を分けるうえで非常に重要になる。
帆は一部だけが残り、索具も傷んでいた
発見されたメアリー・セレスト号は、完全に帆を畳んで漂流していたわけではない。
一部の帆は展開された状態だった。
一方で、帆そのものや索具には損傷があり、失われている帆もあった。
ロープ類にも乱れが生じていた。
つまり、船は「新品同様の状態で静かに浮いていた」のではない。
荒天の中を航海し、その後もしばらく無人状態で大西洋を移動していたと考えれば不思議ではない程度の損傷が生じていた。
この状態だけでは、
「重大事故が起きた」
とも、
「通常の荒天損傷だけだった」
とも断定できない。
ただし少なくとも、発見時のメアリー・セレスト号を完全無傷の船と表現するのは正確ではない。
貨物ハッチの一部は開いていた
甲板上では、船倉へ通じるハッチの状態にも異常があった。
前方側と後方側の貨物ハッチは開かれ、ハッチカバーは甲板上に置かれていた。
これは後の仮説にとって重要な材料となる。
例えば、
- 船倉の浸水量を確認していた
- 積荷の状態を確認していた
- 船倉を換気していた
といった行動との関係が考えられるからである。
ただし、
ハッチが開いていた理由そのものを説明する記録は残されていない。
「アルコール蒸気を逃がすためだった」と断定することもできない。
確認できるのは、デヴォーらが乗り込んだ時点で一部のハッチが開いていたというところまでである。
船倉には約3.5フィートの水があった
メアリー・セレスト号の船底部には水が入っていた。
後世の史料整理では、その深さはおよそ3.5フィート、約1.1メートルとされている。
数字だけを見るとかなり深刻に思える。
しかし、この水位だけをもって「船が沈没寸前だった」と判断することはできない。
実際、メアリー・セレスト号はその後、デイ・グラティアから派遣された少人数の船員によってジブラルタルまで航行している。
つまり、発見時点で船体に水が入っていたことと、
実際に沈没が迫っていたこと
は別である。
この違いが、事件を難しくする。
後から船を調べたデヴォーたちには「まだ浮いている船」に見えた。
しかしブリッグス船長が退船判断をしたと仮定した場合、重要なのは、
その時点で彼が船内の水量をどう認識していたか
だからである。
ポンプの一つが分解されていた
さらに重要なのが、排水設備の状態だった。
メアリー・セレスト号には船底へ入った水を排出するためのポンプがあった。
発見時、そのうち一つが部分的に分解された状態になっていた。
そして、その近くには測深棒(sounding rod)が置かれていた。
測深棒は、船倉やビルジにどれだけ水がたまっているかを確認するための道具である。
この二つの状態は偶然なのか。
それとも、失踪直前に乗組員が浸水量を確認しようとしていた痕跡なのか。
ここから先は仮説になる。
だが、
「ポンプ周辺で何らかの点検・作業が行われていた可能性」
は、後の退船原因を考える際に無視できない。
帆船では、船内への浸水そのものだけでなく、「どれだけ水が入っているのかを正確に把握できるか」が重要になる。
もしポンプが正常に使えず、同時に船底の水量を正確に測れなければ、船長は実際より深刻な浸水が進んでいると判断する可能性がある。
ただし、発見時にポンプが分解されていたことだけから「ポンプ故障が退船原因だった」と確定することはできない。
これは第6回で改めて検証する。
救命艇がなくなっていた
発見状況でもっとも直接的な意味を持つのが救命艇だった。
メアリー・セレスト号に備えられていた小艇が、あるべき場所になかった。
Royal Museums Greenwichは、この欠落を乗船者が船を放棄したことを示す主要な手掛かりとしている。
もちろん、救命艇がなくなった理由を直接見た人はいない。
荒天によって流失した可能性だけを理論上完全に排除することもできない。
しかし、
- 10人全員がいない
- 救命艇もない
- 航海書類の一部がない
- 船長の航海計器もない
という状態を組み合わせると、
乗船者が救命艇を使って意図的に本船を離れた
と考えるのがもっとも自然である。
この意味で、メアリー・セレスト号は「人間だけが謎の力で消滅した船」ではない。
少なくとも退船行動を示唆する物証が残されている。
船の書類と航海計器もなくなっていた
救命艇だけではなかった。
ブリッグス船長が航海に使う計器や、船の重要書類の一部も発見されなかった。
Royal Museums Greenwichは、船の書類とブリッグスの航海計器が欠けていたことを記録している。
後世の資料では、クロノメーターや六分儀などがなくなっていたと整理されている。
これも重要な状況証拠になる。
もし乗船者が何の準備もなく瞬間的に船から転落したのなら、航海計器と書類だけが同時になくなる説明は難しい。
一方、
「救命艇へ移り、そこから陸地または本船への復帰を目指す」
という行動なら、位置を確認するための航海計器を持ち出す理由は成立する。
ただし、ここでも注意が必要になる。
どの人物が何を持ち出したのか。
どの時点で持ち出したのか。
それを直接記録した証言はない。
一方で、乗組員の私物は残っていた
船室が完全に空になっていたわけではない。
乗組員の私物は概ね船内に残されていた。
ブリッグス船長の船室からは剣も発見されている。
船内そのものは水に濡れていた部分があり、完全に整然としていたわけではないが、略奪された状態でもなかった。
これも海賊説や強盗説を考える際に重要になる。
価値のある船そのものも残され、
積荷の大部分も残され、
個人の所持品まで残っている。
海賊や強盗が船を襲撃したと考えるなら、
なぜ船と貨物を残して10人だけを連れ去る必要があったのか
を別に説明しなければならない。
積荷1,701樽は「消えていた」のか
メアリー・セレスト号には1,701樽の工業用アルコールが積まれていた。
その大部分は発見時にも船倉に残っていた。
したがって、
「積荷ごと強奪された船」
ではない。
後の荷下ろしでは9樽が空になっていたことが確認され、これがアルコール蒸気説の重要な材料になる。
しかし、この9樽については別の可能性もある。
後世の調査では、空になっていた樽は他の多数の樽とは異なる材質で、より液体を透過しやすかった可能性が指摘されている。
つまり、
9樽が空だった=何者かがアルコールを飲んだ
とは言えない。
この問題は第7回で、樽の構造、漏洩、蒸気、爆発危険を分離して詳しく扱う。
「温かい食事」は確認されていない
ここで、有名なメアリー・セレスト号の光景を確認しておく必要がある。
よく語られるのが、
「食卓には温かい食事が残っていた」
「コーヒーがまだ温かかった」
「食事をしている途中で人々だけが突然消えた」
という話である。
この場面は非常に印象的だ。
しかし、デヴォーらの発見証言を基準にすると、このような描写を確認事実として採用することはできない。
むしろ、Smithsonianの史料整理では船には長期間航海できるだけの食料と水が残されていたものの、「食事途中の食卓」が失踪の瞬間を保存していたという証拠は示されていない。
Royal Museums Greenwichも、発見状況として救命艇、帆、索具、ハッチ、ポンプ、測深棒、航海書類などを挙げる一方、温かい料理や食べかけの食事を確定事実として挙げていない。
| 救命艇がなかった | 確認できる |
| 乗組員の私物が残されていた | 確認できる |
| 食料・水が残されていた | 確認できる |
| 温かい食事が食卓に並んでいた | 確定事実として確認できない |
| 食事中に10人が突然消えた | 根拠なし |
火災や爆発の跡はあったのか
積荷がアルコールだったため、発見直後から火災や爆発との関係は疑われてきた。
しかし、デヴォーらが乗船した際、船内に明白な大火災の跡が確認されたわけではない。
後世のSmithsonianによる再検証でも、搭乗者がメインハッチを閉じた状態で発見し、強いアルコール蒸気臭を報告していない点が指摘されている。
このため、
「巨大爆発が起こり船内を破壊した」
という単純な説明は発見状況と合わない。
ただし、
目立つ焼損を残さない圧力現象や、爆発への恐怖そのもの
まで発見状況だけから排除できるわけではない。
この点も、第7回で独立して検討する。
血痕や殺人の痕跡はあったのか
デヴォーらが最初に船を調べた段階で、明白な大規模殺人現場が見つかったわけではない。
Royal Museums Greenwichは、船長室に剣が残されていた一方、デヴォーらが明確な暴力の痕跡を認めなかったと整理している。
しかし、その後ジブラルタルへ船が運ばれると状況は変わる。
司法長官フレデリック・ソリー=フラッドは、船体の傷や船内にあった染みなどを犯罪の痕跡ではないかと疑った。
殺人。
反乱。
デイ・グラティア側との共謀。
さまざまな可能性が捜査対象となる。
だが、それは12月4日の発見時に殺人が確定したという意味ではない。
この問題は次回、ジブラルタル海事審問の中で詳しく検証する。
「航行可能」と「正常」は同じではない
メアリー・セレスト号について、
「完全に航行可能な船だったのに、なぜ船長は捨てたのか」
と説明されることが多い。
ここにも少し修正が必要になる。
発見された船には、
- 帆・索具の損傷
- 船内への浸水
- 開かれたハッチ
- 部分的に分解されたポンプ
- 壊れた・乱れた航海設備
などがあった。
つまり、
完全に正常な状態ではなかった。
その一方で、
致命的に損傷した船でもなかった。
この二つを同時に理解する必要がある。
デイ・グラティア側は、船を放棄して沈めるのではなく、ジブラルタルまで運ぶ価値があると判断した。
そして実際にそれを成功させている。
したがって発見時点から見ると、
「なぜこんな船を捨てたのか」
という疑問が生じる。
しかしブリッグスが最後に船上にいた時点では、
デヴォーが後から知った情報すべてを把握できていたとは限らない。
事故原因を考えるうえでは、この情報の非対称性が重要になる。
少人数でジブラルタルへ向かった
モアハウス船長には選択肢があった。
無人船をそのまま残すこともできた。
しかし、海上で放棄された船を安全な港まで運べば、船と積荷の価値に応じたサルベージ報酬を請求できる。
そこでモアハウスはメアリー・セレスト号をジブラルタルへ運ぶことを決めた。
デイ・グラティア自体も航行を続けなければならないため、十分な人数を無人船側へ移すことはできない。
オリバー・デヴォーと少数の船員がメアリー・セレスト号へ移り、二隻を分担してジブラルタルを目指した。
距離はおよそ600海里。
容易な航海ではなかった。
それでもメアリー・セレスト号は航海を続け、12月13日にジブラルタルへ到着した。
この事実は重要である。
12月4日に発見された段階では、船は少人数でも数百海里を航行できる能力を残していた。
だからこそ、元の10人が船を離れた理由がさらに問題となった。
発見時の状態を一覧にする
| 項目 | 発見時の状態 | 意味 |
|---|---|---|
| 乗船者 | 10人全員不在 | FACT |
| 救命艇 | なくなっていた | 意図的退船を強く示唆 |
| 帆 | 一部展開、一部損傷・喪失 | 完全無傷ではない |
| 索具 | 損傷・乱れあり | 荒天・無人航行等の影響を検討 |
| 貨物ハッチ | 前後の一部が開いていた | 理由不明 |
| 船倉 | 約3.5フィートの水 | 浸水あり。ただし沈没寸前とはいえない |
| ポンプ | 1基が部分的に分解 | 浸水確認・排水作業との関連を検討 |
| 測深棒 | ポンプ付近に残存 | 水量測定作業を示唆する可能性 |
| 航海書類 | 一部なくなっていた | 計画的退船と整合 |
| 航海計器 | ブリッグスの一部計器がない | 救命艇での航法準備と整合する可能性 |
| 私物 | 概ね残存 | 大規模な略奪とは整合しにくい |
| 積荷 | 大部分が残存 | 強盗・海賊説の説明負荷が大きい |
| 明白な暴力痕跡 | 最初の搭乗者は確認せず | 殺人はこの時点では未立証 |
ここから何が言えるのか
発見時の物証だけで失踪原因を確定することはできない。
しかし、少なくとも範囲をかなり狭めることはできる。
第一に、
船は完全に正常ではなかった。
荒天による損傷、浸水、ポンプ周辺の作業など、船長が安全性を気にする材料は存在した。
第二に、
船は発見時にはまだ航行できた。
デヴォーらは実際に数百海里を航海してジブラルタルへ到達している。
第三に、
乗船者が意図的に船を離れた可能性が高い。
救命艇がなく、船の重要書類と一部の航海計器もなくなっていたからである。
第四に、
大規模な略奪や明白な殺戮を示す状況は、最初の発見時には確認されなかった。
この4点を組み合わせると、中心的な問いはさらに具体的になる。
なぜブリッグス船長は、
実際には数百海里を航行できた船を、残るより危険な小艇へ移る必要がある船だと判断したのか。
あるいは、本当にブリッグス自身が退船を決めたのか。
それを調べるには、1872年当時の人々がこの船をどう見たかを確認しなければならない。
発見された「証拠」が、次に疑惑を生んだ
メアリー・セレスト号がジブラルタルへ到着すると、単純な無人船救助事件では終わらなかった。
サルベージ報酬を決めるため、海事審問が始まる。
そこで司法長官フレデリック・ソリー=フラッドは、船内の細かな傷や染みに注目した。
乗組員による反乱ではないか。
ブリッグス一家は殺されたのではないか。
デイ・グラティア側が何かを隠しているのではないか。
「無人船」という謎は、今度は犯罪事件の疑いへ変わっていく。
次回は、ジブラルタルで実際に何が調べられ、どの証拠が殺人説を生み、そしてなぜその説を立証できなかったのかを追う。
まとめ
1872年12月4日、デイ・グラティア号の乗組員は大西洋上でメアリー・セレスト号を発見した。
乗船者10人は全員いなかった。
しかし、船の状態を詳しく見ると、「完全無傷の幽霊船」という後世のイメージとは異なる。
帆と索具には損傷があり、一部の貨物ハッチは開き、船内には約3.5フィートの水が入っていた。
ポンプの一つは部分的に分解され、その近くには水深を確認する測深棒があった。
一方、積荷の大部分と乗組員の私物は残されていた。
なくなっていたのは、救命艇、船の重要書類、そしてブリッグス船長の航海計器だった。
この組み合わせは、乗船者が何らかの理由で救命艇へ移ったという説明とよく整合する。
しかし、理由は分からない。
発見時の船には損傷があった。
それでも数百海里を航海できるだけの能力も残っていた。
だからこそ、
「なぜ船を離れたのか」
という問題が残る。
そして1872年当時、最初にその答えとして強く疑われたのは、現在よく語られるアルコール蒸気説ではなかった。
殺人だった。
次回はジブラルタル海事審問へ進む。
CASE FILE 39|全記事
- メアリー・セレスト号とは?|航行可能な船から10人が消えた1872年の未解決事件
- 最後の航海に乗っていたのは誰か|ブリッグス船長一家と7人の乗組員
- 1872年11月25日まで何が記録されていたのか|ニューヨーク出航から最後の航海日誌
- 発見時のメアリー・セレスト号はどんな状態だったのか|Dei Gratia乗組員が見た無人船
- ジブラルタルの海事審問は何を疑ったのか|殺人・反乱・詐欺説と「証拠」の検証
- なぜブリッグス船長は船を離れた可能性があるのか|ポンプ・浸水判断・天候・航法を検証
- 1,701樽のアルコールは原因だったのか|漏洩・蒸気・爆発恐怖説を検証
- 海賊・反乱・海震・海上竜巻説はどこまで成立するのか|主要仮説を証拠で比較
- 「幽霊船メアリー・セレスト」はどう作られたのか|コナン・ドイルと後世の脚色
- 10人はどこへ消えたのか|確認事実・最有力仮説・未解決部分を最終整理
出典・参考資料
- Royal Museums Greenwich「The mystery of the Mary Celeste」― デイ・グラティアによる発見、デヴォーらの乗船、帆・索具、貨物ハッチ、ポンプ、測深棒、救命艇、私物、船舶書類・航海計器の状態を確認。
- Smithsonian Magazine「Abandoned Ship: The Mary Celeste」― 発見時の船倉に約3.5フィートの水があったこと、1,701樽の積荷が大部分残されていたこと、救命艇とポンプの状態、食料・水が残されていたことを確認。
- Government of Gibraltar / Ministry for Heritage「Courthouse」― ジブラルタルでの海事審問と、後に犯罪の可能性が捜査された経緯を確認。
- Gibraltar Vice-Admiralty Court関連記録/Oliver Deveau testimony― デイ・グラティア第一航海士デヴォーによる発見時の船内状況、ポンプ、ハッチ、航海計器等の証言を参照。
発見日は資料によって12月4日/5日と表記されます。本特集では前記事までと同様、Royal Museums Greenwichが採用する民間日付の1872年12月4日で統一しています。また、「完全に無傷」「温かい食事が残っていた」「食事の途中で全員が突然消えた」といった有名な描写は、発見者証言による確定事実として採用していません。「航行可能」という表現についても、損傷や浸水がなかったという意味ではなく、発見後に少人数でジブラルタルまで航行できたという意味で使用しています。