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ウトヤ島からどう逃げ、生き延びたのか湖への避難と民間人・救急隊の救助

ウトヤ島からどう逃げ、生き延びたのか|湖への避難と民間人・救急隊の救助

テロ・襲撃事件

2011年7月22日、ウトヤ島には564人がいた。

17時21分ごろに銃撃が始まると、人々は島の建物、森、岩場、水際へ分散した。
しかしウトヤ島には、道路を走って島外へ逃げるという選択肢がない。

島を離れるには船に乗るか、約625m離れた本土へ向かって湖に入るしかなかった。

実際に多くの人がティリフィヨルド湖へ飛び込み、泳いで島から離れようとした。
その姿を対岸やUtvika Camping周辺から見た住民や宿泊客は、警察や救急の正式な救助活動が整う前から、自分たちのボートを出して湖へ向かった。

22 July Commissionは後に、この民間人による活動について、単なる「手助け」ではなく命を救った救助活動として明確に評価している。

この記事で分かること

  • ウトヤ島の参加者はどのように逃げたのか
  • なぜ湖へ入る人が相次いだのか
  • 周辺住民やキャンプ場利用者はどう救助したのか
  • 民間船の救助にはどのような危険があったのか
  • 島内では誰が応急処置を行っていたのか
  • 犯人逮捕後、警察・救急はどう救助を引き継いだのか
  • 負傷者はどこで治療され、どの病院へ運ばれたのか

CASE FILE 25|2011年ノルウェー連続テロ事件特集(全10回)

2011年7月22日、オスロ政府庁舎への爆破とウトヤ島での銃撃によって77人が死亡した。
この特集では攻撃、地理、警察対応、救助、公式調査、裁判、そして事件後のノルウェーまでを全10回で追います。

  1. 第1回 2011年ノルウェー連続テロ事件とは?|オスロとウトヤ島で77人が犠牲になった「22 July」
  2. 第2回 なぜ政府庁舎とAUFが狙われたのか|ブレイビクの極右思想と政治的標的化
  3. 第3回 オスロ政府庁舎爆破で何が起きたのか|最初の攻撃と首都中心部の混乱
  4. 第4回 ウトヤ島はどんな場所だったのか|AUFサマーキャンプと島・湖・船着場の地理
  5. 第5回 ウトヤ島で何が起きたのか|銃撃開始から逮捕までを時系列で追う
  6. 第6回 なぜ警察のウトヤ島到着は遅れたのか|通報・指揮・移動・連携の問題

  7. 第7回 ウトヤ島からどう逃げ、生き延びたのか|湖への避難と民間人・救急隊の救助【現在の記事】
  8. 第8回 22 July Commissionは何を失敗と認定したのか|防げた可能性とノルウェーの危機管理
  9. 第9回 ブレイビク裁判で何が争われたのか|責任能力と「21年」の予防拘禁
  10. 第10回 22 Julyはノルウェーに何を残したのか|改革・記憶・追悼施設の現在

先に結論|救助は一つの組織が始めたのではなかった

ウトヤ島での救助活動には、明確な「開始時刻」が一つだけあるわけではない。

銃撃が続く間、島内では参加者同士やNorsk Folkehjelp(ノルウェー人民援助)のスタッフが負傷者を助けていた。
島から湖へ逃れた人々を見た周辺住民やUtvika Campingの人々は、18時ごろから自分たちの船を出し始めた。

本土へ泳ぎ着いた人は、住民の家やキャンプ場へ運ばれ、衣服、毛布、温かいシャワー、応急処置を受けた。
私有車で病院やSundvolden Hotelへ運ばれた人もいた。

一方、正式な警察・救急体制では、現場が安全かどうか確認できないことが大きな制約になった。
犯人が一人なのか、別の実行犯がいないのか、島に爆発物がないのかが分からなかったからである。

18時34分にブレイビクが逮捕されると、警察による島内捜索、救命処置、負傷者の搬出が並行して始まる。
その後、大量の救急車、医師、救急ヘリ、軍・救難ヘリなどが投入され、大規模な医療搬送へ移った。

つまり救助は、

島内の相互救助
→ 湖への避難
→ 民間船・住民による救助
→ 警察による島内救助
→ 医療機関への大規模搬送

という複数段階が重なって進んだ。

島内で最初に起きたのは「組織的避難」ではなかった

17時21分ごろ、銃撃が始まった。

サマーキャンプの参加者には、事件を想定した避難計画に沿って一方向へ移動する時間はなかった。
銃声と周囲の動きを手がかりに、それぞれが安全だと思う場所へ逃れることになった。

Kafébyggetなどの建物へ入った人もいれば、島中央部から森へ走った人もいた。
岩の陰、木々の間、崖下、水際へ移動した人もいる。

Skolestuaでは、多数の参加者が建物内に入り、外から見えにくくするなどして身を守った。
Norsk Folkehjelpのスタッフらもそこで参加者を助け、同組織は後に、Skolestuaで身を守った人々や島内の重傷者への対応を通じ、50人近くの若者を救ったとされている。

しかし島内に残ることが常に安全だったわけではない。

実行犯は島内を移動していたため、「犯人から離れる」という判断と「島から離れる」という判断が次第に重なるようになる。

島の端まで逃げても、その先は湖だった

第4回で見たように、ウトヤ島は本土から約625m離れている。

森を抜け、島の端まで逃げたとしても、その先に道路はない。
ティリフィヨルド湖である。

ここで、ウトヤ島と本土側の現在の位置関係を確認しておく。

ウトヤ島と周辺の現在位置。現在のGoogle Mapは、2011年7月22日に参加者が泳いだ実際の経路、民間船の航跡、複数の上陸地点、Utøykaia・Utvika Camping・Elstangen・Sundvolden Hotelを結ぶ救助・医療搬送の時系列を再現するものではない。


Googleマップで大きく見る

そのため銃撃が続く中、一部の参加者は湖へ入った。

この選択には大きな危険があった。
雨天の中で衣服を着たまま泳ぎ、冷たい水の中を本土方向へ進まなければならない。
負傷している人や、泳ぎが得意でない人もいた。

さらに17時40分台には、実行犯が湖を泳いで逃げる人々に向けて発砲したことも公式時系列に記録されている。

それでも、島に残るより湖へ入る方が生存の可能性が高いと判断した人たちがいた。

18時05分、救急指令センターには、ウトヤ島から泳いできた人々がUtvikstranda周辺の複数地点へ上陸しているという最初の情報が入っている。

泳ぎ切った人もいれば、途中で船に救助された人もいた。

18時ごろ|対岸の人々が自分の船を出し始める

対岸にいた人々も、異変に気づき始めていた。

銃声を聞いた。
島から煙が見えた。
若者たちが水へ飛び込み、本土方向へ泳いでいる姿を見た。

22 July Commissionによれば、18時ごろからUtvika Campingや周辺地域にいた住民・観光客らが自分のボートを出し、湖へ向かった。

彼らは正式な救助機関から派遣された人々ではない。

手元にあったレジャーボートなどを使い、湖を泳いでいる人を引き上げ、さらにウトヤ島の岸へ近づいて、島から逃れようとしている人も乗せた。

救助する側にとっても安全な活動ではなかった。

実行犯はまだ島内で銃撃を続けていた。
委員会は、複数の民間船が実際に撃たれたことも記録している。

それでも救助は続いた。

22 July Commissionは、この活動を非常に高く評価し、民間人が自らの生命を危険にさらして若者を救ったと記録している。

ボートは「救助艇」であると同時に警察を運ぶ船にもなった

民間船の役割は、生存者の救助だけではなかった。

第6回で見たように、警察が準備したボートは18時19分ごろ、過積載によって航行不能になった。

そこで近くにいた民間船が警察官を乗せ、対テロ部隊を島へ運んだ。

18時21分、Beredskapstroppenは民間船の協力によってウトヤ島への渡湖を開始する。
18時27分、最初の部隊が島へ上陸した。

つまり民間船は、

島から人を逃がす

島へ警察を送り込む

という逆方向の二つの役割を担った。

22 July Centreに残されている生存者証言にも、湖へ救助に来た民間人が若者たちを助け、その後警察部隊を島へ運んだ事例が記録されている。

本土へ着いた後も、救助は終わらない

ボートで救出された、あるいは自力で泳いだ人々は、ウトヤ島周辺の一か所だけへ到着したわけではない。

Utøykaia、Utvika Camping、Utvikstranda周辺の民家など、複数地点へ分散した。

18時05分以降、救急側には本土へ泳いできた人々がいるという情報が入り始める。

ある民家には一時、約60人の若者が避難していたと22 July Commissionは記録している。

周辺住民は濡れて体温が低下した人々に、

  • 乾いた衣服
  • 毛布
  • 温かいシャワー
  • 飲食物
  • 応急処置

などを提供した。

その後、Sundvolden Hotelや病院へ自動車で送り届けた人もいた。

この段階では「正式な救急搬送」と「住民による輸送」が並行していた。

なぜ救急車はすぐUtvika Campingへ入らなかったのか

医療側では、銃撃発生の情報を受けた直後から救急車の出動が始まっていた。

最初の救急車が手配されたのは17時26分。
これは救急指令センターがウトヤ島の銃撃を把握してから約2分後だった。

その後、多数の救急車がウトヤ島周辺へ集められた。

しかし、現場へ近づくことには別の問題があった。

犯人がまだ活動している可能性があり、実行犯が複数いる可能性や、爆発物の存在も否定できなかった。

そのため救急側は、警察から「安全が確認されていない地域へ入らない」という指示を受けていた。

18時14分以降、Utvika Campingからは、救助された負傷者のため救急車を送ってほしいという通報が相次いだ。

しかし救急指令側は、地域がまだ安全確認されていないとして救急車を直接入れなかった。

最初の救急車にUtvika Campingへ進むよう指示が出たのは19時03分だった。

その間、民間人は危険を承知で湖へ出て、人々を救助し続けていた。

22 July Commissionはこの状況を「パラドックス」と表現し、専門救助機関が安全上の理由で待機している間、民間人が危険を冒して救助していた点を指摘している。

ただし、これは「救急隊が助けることを拒否した」という意味ではない。
武装犯が活動している可能性がある区域へ、武器も防護能力もない医療従事者を入れることには別の危険がある。

ここでも、現場安全と救命のどちらを優先するかという危機対応上の難しい問題が存在していた。

FACT CHECK|「救急隊は1時間半何もしなかった」のか

それは正確ではない。

救急側は17時26分から車両を手配し、多数の救急車や医療スタッフを周辺へ集結させていた。

問題は、銃撃が続き、現場の安全が確認できない状況で、待機中の救急車をどこまで前進させられるかだった。

一方で、実際に救出された負傷者がUtvika Campingなどへ運ばれていたにもかかわらず、専門医療側がそこへ入るまで時間を要したこともFACTである。

22 July Commissionは、このギャップを救助体制上の重要な問題として検証している。

18時34分以降|「犯人逮捕」で救助フェーズが変わる

18時34分、ブレイビクが逮捕された。

しかし警察には、すぐに島全体が安全だと判断できる材料はなかった。

別の実行犯がいるという情報も入り、島内に爆発物が存在する可能性も懸念されていた。

そのため警察は、犯人逮捕後ただちに島全体の安全確認、救命処置、負傷者の避難を並行して開始した。

警察官自身が応急処置を行い、島にいた参加者やNorsk Folkehjelpのスタッフも負傷者を助けた。

18時38分には島側の警察指揮官から、本土側へ医療スタッフや救助要員を島へ送るよう要請が出ている。

しかしこの情報も医療側へ十分に伝わらなかった。

結果として、本格的に医療スタッフが島へ渡ったのはさらに後になる。

18時40分以降|本土側に医療拠点ができる

18時40分以降、Utøya本土側船着場周辺の安全確認が進み、救急車が前方へ移動できるようになった。

18時50分ごろには本土側船着場周辺に負傷者の集積・治療地点が設けられた。

船で運ばれてくる負傷者を受け入れ、医師が重症度を判断する「トリアージ」を行い、応急処置をして適切な病院へ送る体制である。

現場では最終的に6つの医療チームが活動した。
それぞれに麻酔科医などが入り、重傷者への処置を行った。

最初の10~15分だけで10人以上の重傷者と複数の軽傷者が到着し、船着場周辺ではおよそ25人の負傷者が処置を受けたと委員会は記録している。

しかし船着場周辺は狭く、救急車やヘリコプターを大量に運用するには適していなかった。

そこで、さらに北側のElstangenに第二の大規模な医療集積地点が設けられた。

Elstangen|重傷者を病院へ送る「分岐点」

ElstangenはStorøyaへ向かう橋の近くにあり、ウトヤ島本土側船着場から約3.5km北に位置する。

ここには救急車だけでなく、救急ヘリコプターを複数運用できる空間があった。

負傷者は状態によって搬送先を分けられた。

特に状態の重い患者は、医師が搭乗する救急ヘリコプターなどでOslo University HospitalのUllevålトラウマセンターへ運ばれた。

最初の救急ヘリが負傷者を乗せて離陸したのは19時46分ごろ。
飛行時間は15~20分程度だった。

状態が安定している負傷者は救急車でRingerike、Drammen、Bærumなどの病院へ運ばれた。

現場では大規模な傷病者発生に対応するため、複数病院が同時に受け入れる体制を取った。

最終的に動員された医療資源

ウトヤ島の救助活動には、非常に大規模な医療資源が投入された。

資源 投入数
救急ヘリコプター 6機
救急車 42台
医療輸送バス 3台
軍ヘリコプター 3機
Sea King救難ヘリ 2機
警察ヘリコプター 1機

22 July Commissionは、医療機関側が最終的には実際の被害を上回る規模の大惨事にも対応可能な人員・資源を動員できていたと評価している。

つまりウトヤ島の医療対応では、初期の現場進入に課題があった一方、患者が正式な医療システムへ入った後の大量傷病者対応能力は比較的高かった。

Norsk Folkehjelpは事件前から島にいた

民間救助を考えるとき、周辺住民とは別に重要なのがNorsk Folkehjelpである。

同組織は以前からAUFサマーキャンプの医療・安全支援を担当しており、事件が始まった時点ですでにスタッフが島内にいた。

そのうち1人は、若者を守ろうとした際に銃撃を受け死亡した。

生存したスタッフはSkolestuaで参加者とともに身を守りながら、負傷者への応急処置を行った。

公式調査では、同組織のスタッフがSkolestuaや島内での活動を通じ、50人近い若者を救ったと記録されている。

犯人逮捕後も、負傷者が本土へ運ばれた際の対応、病院への搬送、Sundvolden Hotelでの登録や心理社会的支援などに加わった。

このことからも、ウトヤ島の救助を「警察と救急隊だけの活動」と見ることはできない。

Sundvolden Hotel|避難者と家族が集まる場所へ

事件現場から生きて戻った人のすべてが病院へ運ばれたわけではない。

身体的な重傷のない生存者の多くはSundvolden Hotelへ集められた。

ここでは生存者の受け入れ、氏名確認、家族との再会、心理的ケアなどが行われた。

事件当日の夜には、支援を申し出る人々もホテルへ集まった。
22 July Commissionによると、Sundvolden Hotelだけでも最終的に約250人のボランティアが登録され、その中には非番の医療従事者も多数含まれていた。

赤十字などのボランティア団体も、搬送、捜索、救急資源、心理的支援などへ加わった。

救助とは負傷者を湖から引き上げることだけではない。

安全な場所へ移し、体温を戻し、家族へ連絡し、誰が生存しているのか確認し、その後の支援につなぐところまで続いていた。

21時57分|生存者の島外避難が完了

犯人の逮捕は18時34分だった。
しかし、島にはまだ多くの人々が隠れていた。

警察は別の犯人や爆発物の可能性を警戒しながら島内を捜索し、生存者を少しずつ安全な場所へ移した。

民間船や警察艇、MS Thorbjørnなども避難に使われた。

22 July Commissionによると、21時57分、現場指揮官からすべての生存者の避難が完了したという報告が出された。

最初の銃撃から約4時間半。
犯人逮捕からでも3時間以上が経過していた。

そこから活動は、生存者の避難だけではなく、負傷者・行方不明者の捜索、湖での捜索、現場保全へ移っていく。

FACT CHECK|ウトヤ島救助の主要時刻

17:21ごろ 銃撃開始
17:26 最初の救急車が出動手配される
18:00ごろ 民間人がボートで本格的な救助を開始
18:05 本土へ泳ぎ着いた人々について救急側へ情報
18:21 民間船が警察対テロ部隊の渡湖にも協力
18:34 実行犯逮捕
18:50ごろ 本土側船着場に医療集積地点を設置
19:46 最初の救急ヘリが重傷者を搬送
21:57 島にいた全生存者の避難完了を報告

民間人の救助は「公式対応の代わり」だったのか

この事件では、周辺住民の活動が強く記憶されている。

そのため、「民間人が救助し、警察や救急は何もしていなかった」という単純な構図にしたくなる。

しかし実際には両者の役割は時間とともに変わっている。

事件初期、現場が安全確認されていない段階では、民間人の方が先に湖へ出て救助した。
これは事実である。

一方、犯人逮捕後には、警察、消防、救急、医師、救急ヘリ、病院などが大規模に動員され、重傷者をトリアージし、各医療機関へ搬送する専門的な医療システムが機能した。

その二つは競合するものではない。

初期の空白を民間人が埋め、その後、専門救助・医療機関が大規模な搬送と治療を引き継いだ。

22 July Commissionが民間人の活動を高く評価しながら、同時に医療機関の大量傷病者対応能力も評価している理由はここにある。

この救助から見えるもの

ウトヤ島で人々が生き延びた理由を一つにまとめることはできない。

森や岩陰へ隠れた判断。
建物に立てこもった判断。
湖へ入った判断。
互いに負傷者を助けた行動。
周辺住民が船を出したこと。
警察が犯人を逮捕したこと。
その後の医療搬送。

それぞれが異なる時刻、異なる場所で作用している。

特に重要なのは、正式な救助システムが現場へ入るまでの間にも、現場では救助が止まっていなかったことである。

制度の外にいた周辺住民、キャンプ場利用者、島内の参加者、ボランティア団体が、目の前にいる人を救うために動いていた。

そしてその活動そのものも、後の公式調査で「社会が22 Julyにどう対応したか」を考える重要な材料となった。

まとめ|湖は逃げ道になり、住民の船は救助路になった

ウトヤ島は、本土から約625mの湖で隔てられていた。

事件が始まると、この水面は人々を島内へ閉じ込める障害となった。
その一方で、湖へ入ることで島から離れ、生き延びた人もいた。

対岸の住民やUtvika Campingの人々は、その姿を見て船を出した。
一部の船は銃撃を受ける危険がある中でも救助を続け、さらに警察対テロ部隊の輸送にも協力した。

犯人逮捕後は、警察による島内救助と大規模な医療搬送が始まった。
最終的には6機の救急ヘリ、42台の救急車などが投入され、病院側も大量の負傷者を受け入れた。

つまりウトヤ島の救助は、「誰か一つの組織が全員を救った」という話ではない。

生存者自身の判断、仲間同士の救助、周辺住民、ボランティア、警察、救急、医療機関が時間差で重なった救助活動だった。

次回は事件当日の現場から離れ、約1年後に提出された22 July Commissionの報告書を見る。

政府庁舎への攻撃は防げたのか。
警察はもっと早くウトヤ島へ到達できたのか。
なぜすでに決められていた安全対策が実行されなかったのか。

ノルウェー自身が「何を失敗した」と結論づけたのかを公式報告書から整理する。



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CASE FILE 25|全10回

  1. 第1回 2011年ノルウェー連続テロ事件とは?|オスロとウトヤ島で77人が犠牲になった「22 July」
  2. 第2回 なぜ政府庁舎とAUFが狙われたのか|ブレイビクの極右思想と政治的標的化
  3. 第3回 オスロ政府庁舎爆破で何が起きたのか|最初の攻撃と首都中心部の混乱
  4. 第4回 ウトヤ島はどんな場所だったのか|AUFサマーキャンプと島・湖・船着場の地理
  5. 第5回 ウトヤ島で何が起きたのか|銃撃開始から逮捕までを時系列で追う
  6. 第6回 なぜ警察のウトヤ島到着は遅れたのか|通報・指揮・移動・連携の問題
  7. 第7回 ウトヤ島からどう逃げ、生き延びたのか|湖への避難と民間人・救急隊の救助【現在の記事】
  8. 第8回 22 July Commissionは何を失敗と認定したのか|防げた可能性とノルウェーの危機管理
  9. 第9回 ブレイビク裁判で何が争われたのか|責任能力と「21年」の予防拘禁
  10. 第10回 22 Julyはノルウェーに何を残したのか|改革・記憶・追悼施設の現在

出典・参考資料

  • 22 July Commission
    NOU 2012:14「Report of the 22 July Commission」Chapter 9
    ウトヤ島での救急・医療活動、民間人による救助、本土側医療拠点、Elstangen、救急ヘリ・救急車による搬送について確認。
  • 22 July Commission
    NOU 2012:14 Chapter 7
    犯人逮捕後の島内安全確認、救命処置、避難、民間船・MS Thorbjørnの利用、21時57分の生存者避難完了について確認。
  • 22 July Centre
    「What happened on 22 July, 2011? | Timeline」
    18時ごろからの民間船救助、警察部隊輸送、18時34分の逮捕、19時30分以降のヘリコプターを含む救助活動について確認。
  • 22 July Centre
    Witness testimony「Ida」
    島内での避難経路と、民間人が参加者を救助し、さらに警察対テロ部隊の輸送にも協力した事例を補助確認。
  • Norsk Folkehjelp
    22 July Commission収録資料
    事件当日に島内にいたスタッフによる救命活動、Skolestuaでの避難・応急処置について確認。

資料について:
本記事は個々の生存者の行動を一つの「正しい逃げ方」として一般化せず、22 July Commissionと22 July Centreが確認している複数の避難・救助経路を整理しています。
民間人の活動については、公式委員会が生命を救った重要な救助活動として明確に評価しています。
一方、救急隊の初期進入が遅れた点については、医療従事者自身の消極性ではなく、武装犯・複数犯・爆発物の可能性が残る現場を安全確認できないまま進入させることの問題と分けて記述しています。
医療資源の人数・機数についてはNOU 2012:14を基準とし、報道機関による推計値は主要数値の根拠には使用していません。