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三豊百貨店はどう建てられたのか用途変更・増築・繰り返された設計変更

三豊百貨店はどう建てられたのか|用途変更・増築・繰り返された設計変更

建築・構造物事故

1995年6月29日に崩壊した三豊百貨店は、最初から事故当時の姿で設計されていた建物ではなかった。

1987年の計画段階では、建物は4階建ての総合商業施設として設計されていた。しかし工事が進む途中で百貨店へ用途が変わり、売場を広げるための変更が加えられ、さらに5階が増設された。完成後も地下部分や売場は拡張され、5階の使い方も当初計画から変更された。[1]

問題は「設計変更をしたこと」そのものではない。建築物は、計画途中や使用開始後に用途を変更することがある。その場合は、新しい用途によって荷重や構造条件がどう変わるのかを再計算し、必要なら柱・床・壁などを補強する。

三豊百貨店では、その確認が十分に行われないまま複数の変更が積み重なった。1995年に検察がまとめた事故白書は、完成までに3回の設計変更が行われ、完全な設計図面が整わないまま工事が進み、構造安全性について十分な検討が行われなかったことを問題として挙げている。[2]

つまり、三豊百貨店の歴史をたどると、崩壊は1995年6月29日の数時間だけで始まったものではない。

建物の「使い方」と「形」が変わるたびに、本来なら再確認されるべき構造条件が少しずつずれていった。

CASE FILE 13|三豊百貨店崩壊事故特集(全10回)

この特集では、三豊百貨店がなぜ崩れたのかを、構造だけでなく組織・運用・行政まで含めて追う。

第2回では建物が完成するまでと、完成後に繰り返された変更に焦点を当てる。柱やスラブが具体的にどう荷重を支えていたのかは第3回、5階や屋上設備がどの程度荷重を増やしたのかは第4回で詳しく扱う。


  1. 第1回|三豊百貨店崩壊事故とは?|営業中の百貨店はなぜ崩れたのか
  2. 第2回|現在の記事:
    三豊百貨店はどう建てられたのか|用途変更・増築・繰り返された設計変更

  3. 第3回|三豊百貨店の建物構造|無梁板・柱・スラブは荷重をどう支えていたのか

  4. 第4回|なぜ建物の余裕は失われたのか|5階・冷却塔・改修と積み重なった荷重

  5. 第5回|崩壊の前兆はどこまで見えていたのか|ひび割れ、床沈下、それでも続いた営業

  6. 第6回|1995年6月29日、三豊百貨店で何が起きたのか|朝の異常から崩壊まで

  7. 第7回|瓦礫の下で続いた17日間|三豊百貨店の救助活動と最後の生存者

  8. 第8回|捜査は何を崩壊原因と認定したのか|設計・施工・維持管理を検証する

  9. 第9回|誰が三豊百貨店崩壊の責任を問われたのか|経営陣・建設関係者・公務員の裁判

  10. 第10回|三豊百貨店崩壊事故のあと何が変わったのか|安全点検・災害管理・制度改革

先に結論|問題は「設計変更」ではなく、変更を構造へ反映できなかったこと

三豊百貨店の建設過程を見ると、何度も「変更」という言葉が現れる。

4階から5階へ。
総合商業施設から百貨店へ。
5階はローラースケート場から飲食店へ。
売場面積はさらに拡大。
地下部分も増設。
設備も追加。

ただし、「途中で設計を変えたから危険だった」という説明では不十分である。

建築設計では、用途変更や増築そのものは珍しくない。重要なのは、変更後の荷重条件や構造条件を再計算し、必要な部材寸法・鉄筋量・補強方法などを設計へ反映することだ。

事故調査委員会の報告を整理したGardnerらの研究では、三豊百貨店の当初設計状態については一定の安全性があったと評価されている。一方で、実際の建物では部材寸法、施工状態、5階の用途変更、追加荷重など、設計条件から外れる要素が複数重なっていた。[3]

この違いは重要である。

「最初から絶対に倒れる設計だった」のではなく、設計された建物と、最終的に完成して使われた建物の間に差が生じていったと考えた方が事故調査の内容に近い。

1987年|出発点は4階建ての総合商業施設だった

韓国情報通信政策研究院がまとめた政府政策研究資料では、1987年当時、この建物は総合商業施設として設計されていたと整理されている。計画は地上4階までだったが、工事がかなり進んだ段階で百貨店へ用途が変更され、最終的に5階まで拡張された。[1]

後年の韓国報道でも、同じく当初を「4階建ての一般商業施設」として説明している。[4]

ここでは、インターネット上でしばしば見られる「最初は集合住宅だった」「オフィスビルだった」という説明には注意が必要になる。

英語圏の二次資料にはそうした記述も存在するが、今回確認した韓国側の公的研究資料や報道では総合商業施設・一般商業施設という整理になっている。このシリーズでは、根拠を統一できない出発点を断定せず、韓国側資料で確認できる範囲を採用する。

FACT CHECK|最初はアパートとして設計されたのか?

英語圏の解説には「住宅用建物」「オフィス棟」など複数の説明がある。一方、韓国の公的研究資料では、1987年時点を「総合商業施設」としている。

事故原因の理解に重要なのは名称そのものより、当初4階だった計画が、工事途中の用途変更を経て5階建て百貨店へ変化したことである。本記事では資料間で揺れる部分を無理に一つへ固定しない。

商業施設から百貨店へ|「広い売場」が建物の条件を変えた

総合商業施設と百貨店では、空間の使い方が同じとは限らない。

百貨店では、商品を広く見渡せる連続した売場、客が移動しやすい動線、エスカレーターなどが重要になる。壁や柱が多ければ、売場として使える面積が細かく分断される。

政府政策研究資料は、百貨店への変更に伴って売場を広げるため壁が取り除かれ、エスカレーター設置用の開口も設けられたと整理している。床に大きな開口を設ければ、その部分では床が本来負担していた力の流れも変わる。[1]

国家記録院も、4階エスカレーター部分の柱が設計上80cmだったものから60cmへ縮小されていたことや、柱・耐力壁・スラブをつなぐ鉄筋の定着状態に問題があったことを挙げている。[5]

ただし、これらを「エスカレーターを付けたから崩れた」と読むのは正しくない。

重要なのは、売場計画の変更によって建築計画が変わったとき、その変更を構造設計側でも再検討する必要があったという点である。

柱を小さくする。
床に開口を設ける。
壁の位置を変える。
上階を増やす。

一つひとつは建築上の変更だが、鉄筋コンクリート構造では、最終的にそれらすべてが荷重をどの経路で地面まで流すのかという問題につながる。

この力の流れについては、第3回で無梁板・柱・スラブの構造を使って詳しく見る。

4階から5階へ|上に一つ増やすことの意味

三豊百貨店では、当初4階までだった計画に5階が追加された。韓国の政府研究資料や後年の報道は、工事終盤の設計変更によって5階建てになったと整理している。[1][6]

建物の階を一つ増やすことは、単純に「屋上の上へもう一つ箱を載せる」ことではない。

新しい5階の床、自重、壁、利用者、設備などの荷重は、その下にある4階、3階、2階、1階の柱を経て基礎へ伝わる。そのため、上階を追加するなら、下階の柱や床も含めて構造全体に必要な耐力があるかを確認する必要がある。

三豊百貨店の場合、完成後に5階だけが独立して存在するわけではない。5階と屋上を支える柱や床の施工状態、鉄筋配置、実際の部材寸法などに問題があり、さらに5階の使い方まで変わった。[3]

したがって「5階を増築したこと」は事故原因の一要素ではあるが、それだけで崩壊を説明するものではない。

5階の最初の計画はローラースケート場だった

5階については、事故調査委員会を要約したGardnerらの論文から、比較的明確な設計条件を確認できる。

当初設計では5階はローラースケート場として計画され、固定荷重は8.0kPa、積載荷重は2.4kPaとして扱われていた。[3]

ここでいう固定荷重とは、床そのもの、仕上げ材、固定された壁や設備など、建物に常時かかる重さを指す。積載荷重は、人、家具、商品など利用によって変化する荷重である。

構造計算では、「何階だから」というだけではなく、その階を何に使うかによって想定する荷重が変わる。

ローラースケート場として計算された空間を別の用途へ変える場合、変更後の床仕上げ、壁、設備などが元の計算条件に収まるかを確認しなければならない。

そして三豊百貨店では、その5階が飲食店街へ変えられた。

ローラースケート場から韓国料理店へ|用途変更で増えた固定荷重

5階には最終的に複数の飲食店が入った。

韓国料理店では、厨房設備だけではなく、床に座って食事をする店舗のための床構成、間仕切り壁、給排水などが必要になる。事故調査委員会の記録では、壁や二重床などが追加されたにもかかわらず、5階の構造システム自体には変更が加えられなかったとされている。[3]

Gardnerらの計算では、この用途変更によって5階の固定荷重は約35%増加した。[3]

この数字は、「客が多すぎた」という意味ではない。

人が入る前から建物に常時載っている床・壁・仕上げなどの重さ自体が増えていたという意味である。

1995年の検察捜査でも、5階では床仕上げ、レンガ壁、冷蔵庫、庭園設備などによる追加荷重が確認されている。[7]

第4回では、こうした追加荷重を屋上冷却塔や屋根仕上げも含めて数値で整理する。ここでは、用途変更が建物の使い方だけでなく、構造物が常時支える重量そのものを変えたことを押さえておけばよい。

売場面積も完成後に増え続けた

変更は5階だけではなかった。

韓国国家記録院は、三豊百貨店の売場面積について、当初の13,732㎡から30,978㎡へ拡大されていたと整理している。また地下1階でも678㎡の増築が行われたとしている。[5]

単純計算すると、売場面積は当初の約2.3倍にまで広がったことになる。

ここで、「面積が2.3倍になったから建物の荷重も2.3倍になった」と考えてはいけない。売場面積と構造荷重は一対一で対応する数字ではない。

重要なのは、百貨店が完成した時点で変更が終わったのではなく、営業後も建物内部の用途や売場構成が変えられていたということだ。

事故調査では、こうした無断の用途変更や設備追加が維持管理上の問題として指摘された。[5]

建物の安全性は、竣工した瞬間だけで決まるものではない。

完成後に何を置くか。
どこに壁を追加するか。
どこを売場へ転用するか。
どの設備を屋上へ設置するか。

こうした変更も、本来は建物が想定している荷重や構造条件から外れないよう管理する必要がある。

完成まで3回の設計変更|「最後の設計図」はどれだったのか

事故後の捜査で特に問題になったのが、設計図書の管理だった。

1995年11月にソウル地方検察庁がまとめた事故白書について、聯合ニュースは、三豊側が完成までに3回の設計変更を行い、完全な設計図面が整わない状態で工事が進んだため、構造的な安全性の検討が十分に行われなかったと報じている。[2]

事故直後の捜査でも、設計変更は大きな焦点だった。

1987年7月21日に建築許可申請時に提出された最初の設計図は、事故後の捜査時点で所在が確認できず、検察は着工後の3回の設計変更や増改築の経緯を調べるうえで支障が出ていると説明していた。[8]

さらに、1987年の建築許可から完成・仮使用承認に至る過程で、複数回の設計変更や承認が行われていたことも捜査で確認された。[9]

設計変更そのもの以上に問題なのは、

「最終的に現場で何を造ったのか」と「行政・設計側が持つ図面」が一致しているかを追跡しにくい状態になっていたこと

である。

事故が起きたあと、救助隊が建物図面を十分に把握できず作業が遅れたことを国家記録院も記録している。[5]

設計図書の管理は、設計者だけの事務作業ではない。完成後の改修、点検、補強、そして事故時の救助にも関係する安全情報である。

「先に造り、あとで承認する」変更もあった

三豊百貨店の設計変更をSYSTEM型事故として見ると、もう一つ重要な点がある。

1995年7月の捜査報道では、設計図と異なる状態で1階・4階・5階の売場が増築され、その後に事業計画変更や仮使用について承認が行われた事例が調べられている。[10]

本来、建物の変更は、

計画する

構造・法令上の影響を確認する

必要な承認を得る

施工する

完成状態を検査する

という順序で管理される。

ところが、完成後や施工後に変更を追認するような運用が繰り返されれば、構造設計と実際の施工状態の間に差が生まれやすくなる。

三豊百貨店では、この認可過程をめぐって行政関係者への贈収賄も捜査・裁判の対象となった。ただし、誰がどの承認についてどの刑事責任を負ったのかは、第9回で判決に沿って整理する。

設計・施工・監理が互いをチェックできなかった

建築では、設計者、施工者、監理者、行政がそれぞれ異なる役割を持つ。

設計者は必要な性能を図面と計算に落とし込む。施工者は図面どおりに建物を造る。監理者は施工が設計どおり行われているかを確認し、行政は法令や許認可条件に適合しているかを審査する。

これらが独立して機能すれば、一つの工程でミスが起きても別の工程で発見できる可能性がある。

しかし国家記録院は、三豊百貨店について設計と監理を同一人物が担当していたこと、構造安全確認が形式的になっていたこと、行政側の安全点検にも問題があったことを事故の背景として挙げている。[11]

つまり、三豊百貨店で失われていたのは柱の断面積や鉄筋だけではなかった。

変更をしたときに「本当に大丈夫か」と別の立場から止める仕組みも弱かった。

この部分が、単なる施工不良事故ではなくSYSTEM型事故として読む理由になる。

当初設計は本当に危険だったのか

ここで一度、重要な点を整理しておきたい。

三豊百貨店については「最初から崩壊するように造られた」という説明を目にすることがある。

しかし事故調査委員会の結果を再計算したGardnerらは、5階と屋上の当初設計条件について、ACI規準とBS規準の双方で必要な安全性を満たす結果だったとしている。[3]

その後、

  • 5階の用途がローラースケート場から飲食店へ変わった
  • 固定荷重が増えた
  • 実際の柱寸法が計算上の値より小さかった
  • 床版の有効厚さが小さかった
  • コンクリート強度が設計値を下回った
  • 屋上側にも設計時と異なる荷重が加わった

といった条件が重なっていった。[3]

したがって事故の理解としては、

「危険な設計図をそのまま建てた」

よりも、

「一定の安全性を前提にした設計から、変更・施工・運用を通じて実物が離れていった」

という見方の方が重要になる。

変更履歴を一つの時間軸で見る

ここまでの流れを、建物側の変化だけに絞って整理すると次のようになる。

段階 確認できる主な変化 構造上の意味
1987年ごろ 4階建ての総合商業施設として計画 当初の構造条件が設定される
建設途中 百貨店へ用途変更 売場レイアウト・動線・開口等が変更
建設途中 4階から5階へ拡張 下階の柱・床へ新たな荷重が加わる
5階計画 ローラースケート場を想定 この用途を前提に荷重を計算
開業前後 5階を飲食店街へ変更 壁・床・設備等で固定荷重が増加
営業期間 売場・地下部分の増設、設備追加 設計時とは異なる使用条件が蓄積

この表を見ると、三豊百貨店の問題は「一回だけ違法な工事をした」という形では捉えにくい。

建物の用途と形が段階的に変わり、そのたびに設計、施工、許認可、維持管理が追随しなければならなかった。

それが十分に機能しなかった結果、1995年には図面上の前提と、現実に存在している建物の状態が大きく離れた

なぜこの過程が崩壊につながるのか

ただし、ここまで読んでもまだ一つ疑問が残る。

設計変更や用途変更が多かったことは分かった。しかし、それがなぜ「床が柱を突き抜けるように壊れ、建物全体が崩れる」という結果につながるのか。

その答えを理解するには、三豊百貨店の構造形式を見る必要がある。

建物はフラットスラブ/フラットプレート系と呼ばれる、床版を柱が直接支える構造だった。

この形式では、柱と床が接する部分が重要になる。

柱の直径が小さくなる。
鉄筋の位置がずれる。
床の有効厚さが小さくなる。
上から載る荷重が増える。

これらが同時に起きたとき、柱周辺でどのように余裕が失われていくのか。

次回は建築計画から一段階内側へ入り、「無梁板・柱・スラブは、そもそもどうやって百貨店の重量を支えていたのか」を構造の側から見ていく。

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第1回|三豊百貨店崩壊事故とは?|営業中の百貨店はなぜ崩れたのか

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第3回|三豊百貨店の建物構造|無梁板・柱・スラブは荷重をどう支えていたのか

CASE FILE 13|全10回

  1. 第1回|三豊百貨店崩壊事故とは?|営業中の百貨店はなぜ崩れたのか
  2. 第2回|現在の記事:三豊百貨店はどう建てられたのか|用途変更・増築・繰り返された設計変更
  3. 第3回|三豊百貨店の建物構造|無梁板・柱・スラブは荷重をどう支えていたのか
  4. 第4回|なぜ建物の余裕は失われたのか|5階・冷却塔・改修と積み重なった荷重
  5. 第5回|崩壊の前兆はどこまで見えていたのか|ひび割れ、床沈下、それでも続いた営業
  6. 第6回|1995年6月29日、三豊百貨店で何が起きたのか|朝の異常から崩壊まで
  7. 第7回|瓦礫の下で続いた17日間|三豊百貨店の救助活動と最後の生存者
  8. 第8回|捜査は何を崩壊原因と認定したのか|設計・施工・維持管理を検証する
  9. 第9回|誰が三豊百貨店崩壊の責任を問われたのか|経営陣・建設関係者・公務員の裁判
  10. 第10回|三豊百貨店崩壊事故のあと何が変わったのか|安全点検・災害管理・制度改革

出典・参考資料

本記事は、韓国の公的研究資料・国家記録院、事故調査委員会報告を整理した査読論文、1995年当時の検察捜査・報道資料を照合して構成しています。三豊百貨店の「最初の用途」については英語圏二次資料に集合住宅・オフィス等の異なる説明があるため、本記事では韓国側の資料で確認できる「総合商業施設」という表現を採用しました。また、用途変更・増築そのものを単独の崩壊原因とはせず、変更後の構造条件が適切に再検討・施工・管理されたかという観点から整理しています。