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三豊百貨店崩壊事故とは?|営業中の百貨店はなぜ崩れたのか

建築・構造物事故

1995年6月29日夕方、韓国・ソウルの瑞草区にあった三豊百貨店では、まだ多くの客と従業員が建物の中にいた。

その日の朝から、建物には異常が現れていた。5階の床では亀裂が広がり、午後には床が沈み始めていた。それでも百貨店全体を対象とした早期の避難は行われず、営業は続いた。そして17時55分ごろ、A棟の床と柱の接合部で始まった破壊が建物全体へ広がり、巨大な売場が短時間のうちに地下階まで崩れ落ちた。[1][2]

韓国国家記録院の整理では、この事故による被害は死者502人、負傷者937人、行方不明6人。1990年代の韓国社会にとって最大級の都市災害となった。[3]

三豊百貨店崩壊事故が現在まで繰り返し検証されている理由は、単に「建物の施工が悪かった」からではない。設計変更、施工上の欠陥、荷重の増加、維持管理、建物に現れた前兆、そして営業を止める判断が遅れたことが、同じ建物の中で重なっていた。建物の構造と組織の意思決定が、一つの事故へ収束した事例として見る必要がある。[4]

CASE FILE 13|三豊百貨店崩壊事故特集(全10回)

この特集では、「百貨店が崩れた」という結果だけでなく、建物がどのように計画・変更され、どこで構造上の余裕を失い、事故当日にどのような異常が現れ、それでもなぜ営業を止められなかったのかを追う。

第1回では事故全体を俯瞰する。第2回以降で、設計変更、無梁板構造、荷重、崩壊前の警告、6月29日の時系列、救助、事故調査、裁判、制度変更をそれぞれ分離して詳しく見る。

  1. 第1回|現在の記事:三豊百貨店崩壊事故とは?|営業中の百貨店はなぜ崩れたのか

  2. 第2回|三豊百貨店はどう建てられたのか|用途変更・増築・繰り返された設計変更

  3. 第3回|三豊百貨店の建物構造|無梁板・柱・スラブは荷重をどう支えていたのか

  4. 第4回|なぜ建物の余裕は失われたのか|5階・冷却塔・改修と積み重なった荷重

  5. 第5回|崩壊の前兆はどこまで見えていたのか|ひび割れ、床沈下、それでも続いた営業

  6. 第6回|1995年6月29日、三豊百貨店で何が起きたのか|朝の異常から崩壊まで

  7. 第7回|瓦礫の下で続いた17日間|三豊百貨店の救助活動と最後の生存者

  8. 第8回|捜査は何を崩壊原因と認定したのか|設計・施工・維持管理を検証する

  9. 第9回|誰が三豊百貨店崩壊の責任を問われたのか|経営陣・建設関係者・公務員の裁判

  10. 第10回|三豊百貨店崩壊事故のあと何が変わったのか|安全点検・災害管理・制度改革

この記事で分かること

  • 三豊百貨店崩壊事故がいつ、どこで起きたのか
  • 死者502人という大きな被害に至った経緯
  • 三豊百貨店がどのような構造の建物だったのか
  • 設計変更や施工上の問題がどのように重なったのか
  • 屋上設備や5階の用途変更がなぜ重要なのか
  • 事故当日にどのような異常が確認されていたのか
  • 「パンチングせん断」とは何か
  • なぜ一部の局所破壊が建物全体の崩壊へ広がったのか
  • なぜ危険の兆候がありながら客を早期避難させられなかったのか
  • 救助・捜査・裁判・制度変更まで事故後に何が起きたのか

先に結論|三豊百貨店は「一つの欠陥」で崩れたわけではない

三豊百貨店崩壊事故を「手抜き工事で建物が倒れた事故」とだけ説明すると、重要な部分が抜け落ちる。

事故後の調査では、設計段階の問題、施工上の欠陥、構造部材の実際の寸法や鉄筋位置、建物完成後の用途変更、追加された荷重、維持管理など、複数の問題が確認された。事故を再検討した法科学分野の研究も、設計・施工・管理に存在した直接要因と間接要因が重なった結果として崩壊を整理している。[4]

さらに、1995年6月29日には建物側から明確な異常が現れていた。建物だけを見れば「構造事故」だが、その異常に対して誰が何を知り、どの範囲を閉鎖し、客をいつ避難させるかという問題は「組織事故」でもある。

したがってこの事故は、

弱くなっていた建物

増えた荷重

進行する損傷

遅れた避難判断

という複数の層を分けて見る必要がある。

三豊百貨店崩壊事故の基本情報

発生日 1995年6月29日
崩壊時刻 17時55分ごろ
場所 韓国・ソウル特別市瑞草区瑞草洞1685-3
施設 三豊百貨店
主な崩壊部分 A棟
建物 鉄筋コンクリート造、地上5階・地下4階
死者 502人
負傷者 937人
行方不明 6人
主要な構造形式 無梁板/フラットスラブ系構造

人数については韓国国家記録院が死者502人、負傷者937人、行方不明6人と整理しており、2012年の事故原因再検討論文でも同じ数字が採用されている。国家記録院内の別コンテンツには古い集計や異なる数字も残るため、このシリーズでは502人・937人・6人を基準とする。[3][4]

事故現場はどこだったのか|現在の地図で旧所在地を見る

三豊百貨店は、ソウル中心部から南側に広がる瑞草区の瑞草洞にあった。国家記録院が記録する所在地は瑞草洞1685-3である。[3]

下のGoogle Mapは、この旧所在地を現在の地図上で確認するためのものだ。1995年の三豊百貨店の建物配置、A棟・B棟、中央部、売場内部などを再現した地図ではない。

三豊百貨店の旧所在地周辺。現在のGoogle Mapは1995年当時の百貨店建物や内部構造を表示していないため、歴史地点の位置確認用として見る必要がある。


Googleマップで大きく見る

この事故を理解するうえで重要なのは、特殊な工場や建設途中の建物が倒れたわけではないという点である。営業中の百貨店であり、買い物客、飲食店利用者、従業員が日常的に出入りしていた。そのため構造上の異常が「人のいる時間帯」に限界へ達したとき、被害は一気に大きくなった。

三豊百貨店はどのような建物だったのか

事故当時の三豊百貨店は、鉄筋コンクリート造の地上5階・地下4階の建物だった。主要部分には、梁を目立たせず、床版を柱が直接支えるフラットスラブ/フラットプレート系の構造が使われていた。[4][2]

一般的な鉄筋コンクリートの骨組みでは、床の荷重が梁へ伝わり、そこから柱へ流れていく。これに対してフラットスラブ系では、大きな梁を介さず床版から柱へ直接荷重を伝える。

この形式には、天井を平らにしやすい、階高を有効に使える、設備や売場を配置しやすいといった利点がある。百貨店のように広い売場を必要とする建物にとって、構造形式そのものが異常だったわけではない。

問題は、床と柱の接合部分に大きな力が集中することである。

柱が床版を下から押し抜くように破壊する現象を「パンチングせん断」と呼ぶ。紙を指で強く押したとき、指の周囲に沿って穴が開く状態を想像すると分かりやすい。実際の鉄筋コンクリートでは、柱周辺のコンクリートと鉄筋が荷重を支えるが、部材寸法、鉄筋位置、荷重、施工状態などの条件が悪化すると、この部分の安全余裕が小さくなる。

三豊百貨店の事故を調べた委員会は、5階レストラン部分の柱5E付近でパンチングせん断が始まったと結論づけた。後年の研究では、屋上スラブ側から始まった可能性についても検討されており、最初の破壊位置の細部には議論が残る。しかし、柱と床版の接合部で局所的な破壊が発生し、それが連鎖的な崩壊へ発展したという全体像は共通している。[2]

設計された建物と、実際に使われた建物は同じではなかった

三豊百貨店では、建設から営業開始後までにさまざまな変更が加えられていた。

国家記録院は、当初の計画から百貨店への用途変更が行われたこと、売場面積の拡大、不法な用途変更、設備の追加、屋上冷却塔などによって荷重が増加していたことを事故要因として整理している。[1]

構造工学の調査でも、5階と屋根を支える柱断面の縮小、施工品質の問題、5階の用途変更などが確認されている。[2]

ここで注意したいのは、「5階を食堂街にしたから崩れた」「冷却塔が重かったから崩れた」と一つだけを犯人にしないことだ。

建物には本来、一定の安全余裕を持たせる。しかし部材が設計どおりでない、施工精度が悪い、想定より重い設備や仕上げが増える、用途が変わる、といった条件が重なれば、その余裕は少しずつ失われる。

三豊百貨店で起きたのは、一つの極端な荷重が突然加わった事故ではなく、設計時の前提と実際の建物が長い時間をかけてずれていった事故と考える方が実態に近い。

事故当日の朝|建物はすでに異常を示していた

1995年6月29日朝、5階のレストラン部分では異常が明確になっていた。

国家記録院の事故経過では、8時05分ごろ、A棟5階の「春園」食堂付近で床に亀裂が発生したとされている。その後、午後にかけて床の沈下が進み、建物内では危険な変形が拡大していった。[1]

事故の約2か月前から5階付近で亀裂が確認されていたとする国家記録院の別資料もある。つまり、6月29日に突然ゼロから異常が始まったわけではなく、それまで蓄積していた構造上の問題が、その日に目に見える形で急速に悪化した可能性が高い。[5]

当日には5階の一部施設が閉鎖され、経営側も建物の状態について協議していた。それでも百貨店全体を早い段階で避難させる判断には至らなかった。

この判断が、事故の被害規模を考えるうえで非常に重要になる。

建物が崩壊すること自体と、その建物の中に何百人、何千人という人が残っていることは別の問題である。たとえ構造崩壊を完全に防げなかったとしても、より早い段階で全館避難が行われていれば、人命被害の規模は異なっていた可能性がある。

17時55分ごろ|局所破壊が建物全体へ広がった

午後になると床の沈下と変形はさらに進行した。

そして17時55分ごろ、A棟で構造破壊が急速に拡大した。国家記録院はA棟が約20秒という短時間で崩れたと整理している。[5]

フラットスラブ系の構造では、一つの柱と床版の接合部がパンチングせん断で耐力を失うと、その柱が支えていた荷重を周囲の柱や床へ再配分しなければならない。

周囲の構造に十分な余裕があれば、局所的な損傷で止まる可能性もある。しかしすでに多くの部分で安全余裕が小さくなっていれば、新しく荷重を受けた隣の接合部まで破壊する。

一つが壊れる。
荷重が隣へ移る。
隣も耐えられなくなる。
さらに次へ移る。

こうした連鎖によって、局所的な損傷が建物の広い範囲へ進む現象を進行性崩壊と呼ぶ。

2012年の事故原因研究も、三豊百貨店について、一つの柱・床版接合部の破壊が他の部分へ波及し、短時間で大規模な崩壊へ至る構造だったと説明している。[4]

なぜ502人もの犠牲者が出たのか

大きな人命被害は、建物の構造性能だけでは説明できない。

事故が起きたのは夕方だった。営業中の百貨店には客と従業員が残っていた。しかも崩壊が始まってから建物全体が失われるまでの時間は非常に短く、内部にいた人が自力で安全な場所まで移動する余裕はほとんどなかった。

一方で、建物側からの警告は崩壊の瞬間より前から存在していた。

Gardnerらの研究は、死者数が大きくなった要因の一つとして、所有・運営側が重大な構造異常の兆候に適切に対応せず、建物利用者を避難させなかった点を挙げている。[2]

ここが三豊百貨店事故のSYSTEM型としての中心になる。

構造に問題があった。
その問題が表面化した。
人が異常を認識した。
それでも営業中の建物から全員を出す判断が間に合わなかった。

事故は、コンクリートだけで成立したのではない。

崩壊後|瓦礫の下で始まった長期救助

崩壊直後から大規模な救助活動が始まった。しかし現場では、崩れた床版や柱が複雑に積み重なり、残った構造物の二次崩壊も警戒する必要があった。

初期の現場管理にも課題があった。国家記録院は、交通統制、現場への人の集中、建物図面の不足などが救助を難しくしたと記録している。[1]

それでも瓦礫の内部には、床や設備の隙間によって小さな生存空間が残っていた。

事故から10日後、13日後、さらに17日後にも生存者が発見された。最後に救出された朴勝賢(パク・スンヒョン)さんは、1995年7月15日、事故から約377時間後に救出されている。MBCの当時映像記録では、17日目の救出として詳細が残されている。[6]

17日後の生還は事故史の中でも強く記憶されているが、CASE FILEではこれを「奇跡」という一語で終わらせない。どのような空間が生存を可能にしたのか、救助側がどのように捜索を続けたのか、初動で何が問題だったのかは第7回で詳しく扱う。

事故調査|原因は設計・施工・維持管理へ広がった

事故後、現場調査、コンクリートや鉄筋の材料試験、設計図書、施工・管理記録、構造解析などが行われた。

事故原因を2012年に再検討した研究では、調査で確認された問題を、設計段階、施工段階、管理段階の複数レベルに分類している。[4]

つまり結論は、

「施工が悪かった」だけでも、
「重すぎた」だけでも、
「柱が細かった」だけでも、
「冷却塔が原因」だけでもない。

構造部材が本来期待された性能を持っていなかったこと、用途や荷重が変化したこと、施工品質が十分でなかったこと、建物の維持管理と異常への対応が不十分だったことが重なっていた。

第8回では、この原因を「直接原因」「構造上の寄与要因」「施工・管理上の背景要因」に分け、事故調査が何を認定したのかを詳しく検証する。

裁判|構造事故は刑事責任と汚職問題へ広がった

事故は技術調査だけでは終わらなかった。

三豊側の経営陣、建築・施工関係者、行政関係者らが刑事責任を問われた。三豊グループ会長だった李鐏(イ・ジュン)については、業務上過失致死傷などをめぐる裁判で、最終的に懲役7年6か月が確定した。[7]

また、三豊側から金銭を受け取った行政関係者についても収賄罪で有罪判決が確定している。[7]

ここでも「建物を造った人が全員同じ責任を負った」と考えるべきではない。設計、施工、運営、許認可、危険認識、事故当日の判断は、それぞれ異なる役割と法的責任を持つ。

第9回では、技術的な原因と刑事責任を切り離し、「誰が、何について責任を問われたのか」を判決の流れから整理する。

三豊事故のあと|災害管理の仕組みも見直された

三豊百貨店の崩壊は、建築安全だけでなく、韓国の災害対応体制そのものにも問題を突きつけた。

現場では救助指揮、交通統制、情報管理などに混乱が生じた。国家記録院は事故後の対応として、災害管理体制の法制化や地方自治体の災害担当組織整備などを記録している。[1]

また大規模な人的・物的被害を受け、政府は事故地域を特別災害地域として扱うための措置を進めた。大統領記録館には1995年7月の関連文書が残されている。[8]

ただし、その後の韓国の建築・防災制度の変化をすべて三豊事故だけの結果と説明することはできない。前年には聖水大橋崩壊も起きており、1990年代半ばには複数の大型事故を受けて安全制度全体が見直されていた。

第10回では、三豊事故と直接関係する対応と、同時期に進んでいたより広い制度改革を分けて見る。

FACT CHECK|「無梁板構造だから崩れた」は正しいのか

結論から言えば、正確ではない。

フラットスラブ/フラットプレート系の構造は世界各地で使用されている一般的な構造形式であり、それ自体が欠陥工法というわけではない。

三豊百貨店で問題だったのは、その構造形式に必要な柱・床版接合部の耐力、安全な鉄筋配置、適切な部材寸法、荷重管理、施工品質などが十分に確保されなかったことだった。

Gardnerらの計算では、当初の設計条件だけなら一定の安全性を持っていた一方、実際の部材寸法、荷重増加、鉄筋位置など複数の不利な条件を組み合わせると、パンチングせん断による崩壊可能性が大きく高まることが示されている。[2]

つまり、

構造形式
その構造がどう設計・施工・使用されたか

は分けて考える必要がある。

三豊百貨店事故で最も重要なのは「止められる時点があった」こと

1995年6月29日17時55分ごろ、三豊百貨店A棟は崩壊した。

その瞬間だけを切り取れば、鉄筋コンクリートの柱と床版が耐えられなくなった構造事故である。

しかし時間を巻き戻すと、事故の姿は変わる。

建物は設計から変更され、施工され、営業中にも使われ方が変わった。荷重は増え、構造上の余裕は小さくなった。そして事故前には亀裂が現れ、事故当日には床の変形が進行していた。

それでも建物には客が残った。

三豊百貨店崩壊事故を理解するうえで本質的なのは、「なぜ壊れたか」と同じくらい、壊れる前に危険が見えていたのに、なぜ建物を空にできなかったのかという問題である。

CASE FILE 13では、この二つを別々にせず追っていく。

次回は事故の瞬間からさらに時間を戻す。三豊百貨店は最初から、1995年6月29日に存在した姿で計画されていたわけではない。建設途中と営業開始後に何が変更され、それが構造上どのような意味を持ったのかを確認する。

次の記事


第2回|三豊百貨店はどう建てられたのか|用途変更・増築・繰り返された設計変更

CASE FILE 13|全10回

  1. 第1回|現在の記事:三豊百貨店崩壊事故とは?|営業中の百貨店はなぜ崩れたのか
  2. 第2回|三豊百貨店はどう建てられたのか|用途変更・増築・繰り返された設計変更
  3. 第3回|三豊百貨店の建物構造|無梁板・柱・スラブは荷重をどう支えていたのか
  4. 第4回|なぜ建物の余裕は失われたのか|5階・冷却塔・改修と積み重なった荷重
  5. 第5回|崩壊の前兆はどこまで見えていたのか|ひび割れ、床沈下、それでも続いた営業
  6. 第6回|1995年6月29日、三豊百貨店で何が起きたのか|朝の異常から崩壊まで
  7. 第7回|瓦礫の下で続いた17日間|三豊百貨店の救助活動と最後の生存者
  8. 第8回|捜査は何を崩壊原因と認定したのか|設計・施工・維持管理を検証する
  9. 第9回|誰が三豊百貨店崩壊の責任を問われたのか|経営陣・建設関係者・公務員の裁判
  10. 第10回|三豊百貨店崩壊事故のあと何が変わったのか|安全点検・災害管理・制度改革

出典・参考資料

本記事は、韓国国家記録院の公的記録、事故調査を再検討した構造工学・法科学分野の論文、当時の報道記録、司法記録等を照合し、確認できる事実と後世の単純化を分けて構成しています。事故時刻や被害人数など資料間で表記差がある箇所では、国家記録院および事故調査研究で一致する値を優先しています。

三豊百貨店はどう建てられたのか|用途変更・増築・繰り返された設計変更

建築・構造物事故

1995年6月29日に崩壊した三豊百貨店は、最初から事故当時の姿で設計されていた建物ではなかった。

1987年の計画段階では、建物は4階建ての総合商業施設として設計されていた。しかし工事が進む途中で百貨店へ用途が変わり、売場を広げるための変更が加えられ、さらに5階が増設された。完成後も地下部分や売場は拡張され、5階の使い方も当初計画から変更された。[1]

問題は「設計変更をしたこと」そのものではない。建築物は、計画途中や使用開始後に用途を変更することがある。その場合は、新しい用途によって荷重や構造条件がどう変わるのかを再計算し、必要なら柱・床・壁などを補強する。

三豊百貨店では、その確認が十分に行われないまま複数の変更が積み重なった。1995年に検察がまとめた事故白書は、完成までに3回の設計変更が行われ、完全な設計図面が整わないまま工事が進み、構造安全性について十分な検討が行われなかったことを問題として挙げている。[2]

つまり、三豊百貨店の歴史をたどると、崩壊は1995年6月29日の数時間だけで始まったものではない。

建物の「使い方」と「形」が変わるたびに、本来なら再確認されるべき構造条件が少しずつずれていった。

CASE FILE 13|三豊百貨店崩壊事故特集(全10回)

この特集では、三豊百貨店がなぜ崩れたのかを、構造だけでなく組織・運用・行政まで含めて追う。

第2回では建物が完成するまでと、完成後に繰り返された変更に焦点を当てる。柱やスラブが具体的にどう荷重を支えていたのかは第3回、5階や屋上設備がどの程度荷重を増やしたのかは第4回で詳しく扱う。


  1. 第1回|三豊百貨店崩壊事故とは?|営業中の百貨店はなぜ崩れたのか
  2. 第2回|現在の記事:
    三豊百貨店はどう建てられたのか|用途変更・増築・繰り返された設計変更

  3. 第3回|三豊百貨店の建物構造|無梁板・柱・スラブは荷重をどう支えていたのか

  4. 第4回|なぜ建物の余裕は失われたのか|5階・冷却塔・改修と積み重なった荷重

  5. 第5回|崩壊の前兆はどこまで見えていたのか|ひび割れ、床沈下、それでも続いた営業

  6. 第6回|1995年6月29日、三豊百貨店で何が起きたのか|朝の異常から崩壊まで

  7. 第7回|瓦礫の下で続いた17日間|三豊百貨店の救助活動と最後の生存者

  8. 第8回|捜査は何を崩壊原因と認定したのか|設計・施工・維持管理を検証する

  9. 第9回|誰が三豊百貨店崩壊の責任を問われたのか|経営陣・建設関係者・公務員の裁判

  10. 第10回|三豊百貨店崩壊事故のあと何が変わったのか|安全点検・災害管理・制度改革

先に結論|問題は「設計変更」ではなく、変更を構造へ反映できなかったこと

三豊百貨店の建設過程を見ると、何度も「変更」という言葉が現れる。

4階から5階へ。
総合商業施設から百貨店へ。
5階はローラースケート場から飲食店へ。
売場面積はさらに拡大。
地下部分も増設。
設備も追加。

ただし、「途中で設計を変えたから危険だった」という説明では不十分である。

建築設計では、用途変更や増築そのものは珍しくない。重要なのは、変更後の荷重条件や構造条件を再計算し、必要な部材寸法・鉄筋量・補強方法などを設計へ反映することだ。

事故調査委員会の報告を整理したGardnerらの研究では、三豊百貨店の当初設計状態については一定の安全性があったと評価されている。一方で、実際の建物では部材寸法、施工状態、5階の用途変更、追加荷重など、設計条件から外れる要素が複数重なっていた。[3]

この違いは重要である。

「最初から絶対に倒れる設計だった」のではなく、設計された建物と、最終的に完成して使われた建物の間に差が生じていったと考えた方が事故調査の内容に近い。

1987年|出発点は4階建ての総合商業施設だった

韓国情報通信政策研究院がまとめた政府政策研究資料では、1987年当時、この建物は総合商業施設として設計されていたと整理されている。計画は地上4階までだったが、工事がかなり進んだ段階で百貨店へ用途が変更され、最終的に5階まで拡張された。[1]

後年の韓国報道でも、同じく当初を「4階建ての一般商業施設」として説明している。[4]

ここでは、インターネット上でしばしば見られる「最初は集合住宅だった」「オフィスビルだった」という説明には注意が必要になる。

英語圏の二次資料にはそうした記述も存在するが、今回確認した韓国側の公的研究資料や報道では総合商業施設・一般商業施設という整理になっている。このシリーズでは、根拠を統一できない出発点を断定せず、韓国側資料で確認できる範囲を採用する。

FACT CHECK|最初はアパートとして設計されたのか?

英語圏の解説には「住宅用建物」「オフィス棟」など複数の説明がある。一方、韓国の公的研究資料では、1987年時点を「総合商業施設」としている。

事故原因の理解に重要なのは名称そのものより、当初4階だった計画が、工事途中の用途変更を経て5階建て百貨店へ変化したことである。本記事では資料間で揺れる部分を無理に一つへ固定しない。

商業施設から百貨店へ|「広い売場」が建物の条件を変えた

総合商業施設と百貨店では、空間の使い方が同じとは限らない。

百貨店では、商品を広く見渡せる連続した売場、客が移動しやすい動線、エスカレーターなどが重要になる。壁や柱が多ければ、売場として使える面積が細かく分断される。

政府政策研究資料は、百貨店への変更に伴って売場を広げるため壁が取り除かれ、エスカレーター設置用の開口も設けられたと整理している。床に大きな開口を設ければ、その部分では床が本来負担していた力の流れも変わる。[1]

国家記録院も、4階エスカレーター部分の柱が設計上80cmだったものから60cmへ縮小されていたことや、柱・耐力壁・スラブをつなぐ鉄筋の定着状態に問題があったことを挙げている。[5]

ただし、これらを「エスカレーターを付けたから崩れた」と読むのは正しくない。

重要なのは、売場計画の変更によって建築計画が変わったとき、その変更を構造設計側でも再検討する必要があったという点である。

柱を小さくする。
床に開口を設ける。
壁の位置を変える。
上階を増やす。

一つひとつは建築上の変更だが、鉄筋コンクリート構造では、最終的にそれらすべてが荷重をどの経路で地面まで流すのかという問題につながる。

この力の流れについては、第3回で無梁板・柱・スラブの構造を使って詳しく見る。

4階から5階へ|上に一つ増やすことの意味

三豊百貨店では、当初4階までだった計画に5階が追加された。韓国の政府研究資料や後年の報道は、工事終盤の設計変更によって5階建てになったと整理している。[1][6]

建物の階を一つ増やすことは、単純に「屋上の上へもう一つ箱を載せる」ことではない。

新しい5階の床、自重、壁、利用者、設備などの荷重は、その下にある4階、3階、2階、1階の柱を経て基礎へ伝わる。そのため、上階を追加するなら、下階の柱や床も含めて構造全体に必要な耐力があるかを確認する必要がある。

三豊百貨店の場合、完成後に5階だけが独立して存在するわけではない。5階と屋上を支える柱や床の施工状態、鉄筋配置、実際の部材寸法などに問題があり、さらに5階の使い方まで変わった。[3]

したがって「5階を増築したこと」は事故原因の一要素ではあるが、それだけで崩壊を説明するものではない。

5階の最初の計画はローラースケート場だった

5階については、事故調査委員会を要約したGardnerらの論文から、比較的明確な設計条件を確認できる。

当初設計では5階はローラースケート場として計画され、固定荷重は8.0kPa、積載荷重は2.4kPaとして扱われていた。[3]

ここでいう固定荷重とは、床そのもの、仕上げ材、固定された壁や設備など、建物に常時かかる重さを指す。積載荷重は、人、家具、商品など利用によって変化する荷重である。

構造計算では、「何階だから」というだけではなく、その階を何に使うかによって想定する荷重が変わる。

ローラースケート場として計算された空間を別の用途へ変える場合、変更後の床仕上げ、壁、設備などが元の計算条件に収まるかを確認しなければならない。

そして三豊百貨店では、その5階が飲食店街へ変えられた。

ローラースケート場から韓国料理店へ|用途変更で増えた固定荷重

5階には最終的に複数の飲食店が入った。

韓国料理店では、厨房設備だけではなく、床に座って食事をする店舗のための床構成、間仕切り壁、給排水などが必要になる。事故調査委員会の記録では、壁や二重床などが追加されたにもかかわらず、5階の構造システム自体には変更が加えられなかったとされている。[3]

Gardnerらの計算では、この用途変更によって5階の固定荷重は約35%増加した。[3]

この数字は、「客が多すぎた」という意味ではない。

人が入る前から建物に常時載っている床・壁・仕上げなどの重さ自体が増えていたという意味である。

1995年の検察捜査でも、5階では床仕上げ、レンガ壁、冷蔵庫、庭園設備などによる追加荷重が確認されている。[7]

第4回では、こうした追加荷重を屋上冷却塔や屋根仕上げも含めて数値で整理する。ここでは、用途変更が建物の使い方だけでなく、構造物が常時支える重量そのものを変えたことを押さえておけばよい。

売場面積も完成後に増え続けた

変更は5階だけではなかった。

韓国国家記録院は、三豊百貨店の売場面積について、当初の13,732㎡から30,978㎡へ拡大されていたと整理している。また地下1階でも678㎡の増築が行われたとしている。[5]

単純計算すると、売場面積は当初の約2.3倍にまで広がったことになる。

ここで、「面積が2.3倍になったから建物の荷重も2.3倍になった」と考えてはいけない。売場面積と構造荷重は一対一で対応する数字ではない。

重要なのは、百貨店が完成した時点で変更が終わったのではなく、営業後も建物内部の用途や売場構成が変えられていたということだ。

事故調査では、こうした無断の用途変更や設備追加が維持管理上の問題として指摘された。[5]

建物の安全性は、竣工した瞬間だけで決まるものではない。

完成後に何を置くか。
どこに壁を追加するか。
どこを売場へ転用するか。
どの設備を屋上へ設置するか。

こうした変更も、本来は建物が想定している荷重や構造条件から外れないよう管理する必要がある。

完成まで3回の設計変更|「最後の設計図」はどれだったのか

事故後の捜査で特に問題になったのが、設計図書の管理だった。

1995年11月にソウル地方検察庁がまとめた事故白書について、聯合ニュースは、三豊側が完成までに3回の設計変更を行い、完全な設計図面が整わない状態で工事が進んだため、構造的な安全性の検討が十分に行われなかったと報じている。[2]

事故直後の捜査でも、設計変更は大きな焦点だった。

1987年7月21日に建築許可申請時に提出された最初の設計図は、事故後の捜査時点で所在が確認できず、検察は着工後の3回の設計変更や増改築の経緯を調べるうえで支障が出ていると説明していた。[8]

さらに、1987年の建築許可から完成・仮使用承認に至る過程で、複数回の設計変更や承認が行われていたことも捜査で確認された。[9]

設計変更そのもの以上に問題なのは、

「最終的に現場で何を造ったのか」と「行政・設計側が持つ図面」が一致しているかを追跡しにくい状態になっていたこと

である。

事故が起きたあと、救助隊が建物図面を十分に把握できず作業が遅れたことを国家記録院も記録している。[5]

設計図書の管理は、設計者だけの事務作業ではない。完成後の改修、点検、補強、そして事故時の救助にも関係する安全情報である。

「先に造り、あとで承認する」変更もあった

三豊百貨店の設計変更をSYSTEM型事故として見ると、もう一つ重要な点がある。

1995年7月の捜査報道では、設計図と異なる状態で1階・4階・5階の売場が増築され、その後に事業計画変更や仮使用について承認が行われた事例が調べられている。[10]

本来、建物の変更は、

計画する

構造・法令上の影響を確認する

必要な承認を得る

施工する

完成状態を検査する

という順序で管理される。

ところが、完成後や施工後に変更を追認するような運用が繰り返されれば、構造設計と実際の施工状態の間に差が生まれやすくなる。

三豊百貨店では、この認可過程をめぐって行政関係者への贈収賄も捜査・裁判の対象となった。ただし、誰がどの承認についてどの刑事責任を負ったのかは、第9回で判決に沿って整理する。

設計・施工・監理が互いをチェックできなかった

建築では、設計者、施工者、監理者、行政がそれぞれ異なる役割を持つ。

設計者は必要な性能を図面と計算に落とし込む。施工者は図面どおりに建物を造る。監理者は施工が設計どおり行われているかを確認し、行政は法令や許認可条件に適合しているかを審査する。

これらが独立して機能すれば、一つの工程でミスが起きても別の工程で発見できる可能性がある。

しかし国家記録院は、三豊百貨店について設計と監理を同一人物が担当していたこと、構造安全確認が形式的になっていたこと、行政側の安全点検にも問題があったことを事故の背景として挙げている。[11]

つまり、三豊百貨店で失われていたのは柱の断面積や鉄筋だけではなかった。

変更をしたときに「本当に大丈夫か」と別の立場から止める仕組みも弱かった。

この部分が、単なる施工不良事故ではなくSYSTEM型事故として読む理由になる。

当初設計は本当に危険だったのか

ここで一度、重要な点を整理しておきたい。

三豊百貨店については「最初から崩壊するように造られた」という説明を目にすることがある。

しかし事故調査委員会の結果を再計算したGardnerらは、5階と屋上の当初設計条件について、ACI規準とBS規準の双方で必要な安全性を満たす結果だったとしている。[3]

その後、

  • 5階の用途がローラースケート場から飲食店へ変わった
  • 固定荷重が増えた
  • 実際の柱寸法が計算上の値より小さかった
  • 床版の有効厚さが小さかった
  • コンクリート強度が設計値を下回った
  • 屋上側にも設計時と異なる荷重が加わった

といった条件が重なっていった。[3]

したがって事故の理解としては、

「危険な設計図をそのまま建てた」

よりも、

「一定の安全性を前提にした設計から、変更・施工・運用を通じて実物が離れていった」

という見方の方が重要になる。

変更履歴を一つの時間軸で見る

ここまでの流れを、建物側の変化だけに絞って整理すると次のようになる。

段階 確認できる主な変化 構造上の意味
1987年ごろ 4階建ての総合商業施設として計画 当初の構造条件が設定される
建設途中 百貨店へ用途変更 売場レイアウト・動線・開口等が変更
建設途中 4階から5階へ拡張 下階の柱・床へ新たな荷重が加わる
5階計画 ローラースケート場を想定 この用途を前提に荷重を計算
開業前後 5階を飲食店街へ変更 壁・床・設備等で固定荷重が増加
営業期間 売場・地下部分の増設、設備追加 設計時とは異なる使用条件が蓄積

この表を見ると、三豊百貨店の問題は「一回だけ違法な工事をした」という形では捉えにくい。

建物の用途と形が段階的に変わり、そのたびに設計、施工、許認可、維持管理が追随しなければならなかった。

それが十分に機能しなかった結果、1995年には図面上の前提と、現実に存在している建物の状態が大きく離れた

なぜこの過程が崩壊につながるのか

ただし、ここまで読んでもまだ一つ疑問が残る。

設計変更や用途変更が多かったことは分かった。しかし、それがなぜ「床が柱を突き抜けるように壊れ、建物全体が崩れる」という結果につながるのか。

その答えを理解するには、三豊百貨店の構造形式を見る必要がある。

建物はフラットスラブ/フラットプレート系と呼ばれる、床版を柱が直接支える構造だった。

この形式では、柱と床が接する部分が重要になる。

柱の直径が小さくなる。
鉄筋の位置がずれる。
床の有効厚さが小さくなる。
上から載る荷重が増える。

これらが同時に起きたとき、柱周辺でどのように余裕が失われていくのか。

次回は建築計画から一段階内側へ入り、「無梁板・柱・スラブは、そもそもどうやって百貨店の重量を支えていたのか」を構造の側から見ていく。

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第1回|三豊百貨店崩壊事故とは?|営業中の百貨店はなぜ崩れたのか

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第3回|三豊百貨店の建物構造|無梁板・柱・スラブは荷重をどう支えていたのか

CASE FILE 13|全10回

  1. 第1回|三豊百貨店崩壊事故とは?|営業中の百貨店はなぜ崩れたのか
  2. 第2回|現在の記事:三豊百貨店はどう建てられたのか|用途変更・増築・繰り返された設計変更
  3. 第3回|三豊百貨店の建物構造|無梁板・柱・スラブは荷重をどう支えていたのか
  4. 第4回|なぜ建物の余裕は失われたのか|5階・冷却塔・改修と積み重なった荷重
  5. 第5回|崩壊の前兆はどこまで見えていたのか|ひび割れ、床沈下、それでも続いた営業
  6. 第6回|1995年6月29日、三豊百貨店で何が起きたのか|朝の異常から崩壊まで
  7. 第7回|瓦礫の下で続いた17日間|三豊百貨店の救助活動と最後の生存者
  8. 第8回|捜査は何を崩壊原因と認定したのか|設計・施工・維持管理を検証する
  9. 第9回|誰が三豊百貨店崩壊の責任を問われたのか|経営陣・建設関係者・公務員の裁判
  10. 第10回|三豊百貨店崩壊事故のあと何が変わったのか|安全点検・災害管理・制度改革

出典・参考資料

本記事は、韓国の公的研究資料・国家記録院、事故調査委員会報告を整理した査読論文、1995年当時の検察捜査・報道資料を照合して構成しています。三豊百貨店の「最初の用途」については英語圏二次資料に集合住宅・オフィス等の異なる説明があるため、本記事では韓国側の資料で確認できる「総合商業施設」という表現を採用しました。また、用途変更・増築そのものを単独の崩壊原因とはせず、変更後の構造条件が適切に再検討・施工・管理されたかという観点から整理しています。

三豊百貨店の建物構造|無梁板・柱・スラブは荷重をどう支えていたのか

建築・構造物事故

三豊百貨店の崩壊を説明するとき、必ず登場する言葉がある。

「フラットスラブ」「柱5E」「パンチングせん断」

これらを知らなくても「建物に施工不良があり、荷重が増え、最終的に崩れた」という概要は理解できる。しかし、なぜ一つの床と柱の接合部の破壊が、5階から地下まで続く大規模崩壊へ発展したのかを理解するには、三豊百貨店がそもそもどのように床の重さを支えていた建物だったのかを見る必要がある。

事故後の調査では、柱の寸法、床版の有効せい、鉄筋位置、コンクリート強度、柱周辺の床厚など、設計時の想定と実際の施工状態に複数の差が確認された。これらは別々の欠陥に見えるが、構造的には一つの場所へ集まってくる。

それが、床版と柱が直接つながる接合部だった。[1][2]

CASE FILE 13|三豊百貨店崩壊事故特集(全10回)

この特集では、三豊百貨店がなぜ崩れたのかを、設計・施工・運用・組織判断・事故後の調査まで分けて追う。

第2回では、4階建て計画から5階建て百貨店へ変わっていった建設・用途変更の過程を見た。第3回では、その変更を受け止める側だった建物の構造に焦点を当てる。

屋上冷却塔、5階飲食店、床仕上げなどが具体的にどれほど荷重を増やしたのかは第4回で扱うため、今回は「荷重が増えたあと、構造のどこが厳しくなるのか」を理解することを目的とする。


  1. 第1回|三豊百貨店崩壊事故とは?|営業中の百貨店はなぜ崩れたのか

  2. 第2回|三豊百貨店はどう建てられたのか|用途変更・増築・繰り返された設計変更
  3. 第3回|現在の記事:
    三豊百貨店の建物構造|無梁板・柱・スラブは荷重をどう支えていたのか

  4. 第4回|なぜ建物の余裕は失われたのか|5階・冷却塔・改修と積み重なった荷重

  5. 第5回|崩壊の前兆はどこまで見えていたのか|ひび割れ、床沈下、それでも続いた営業

  6. 第6回|1995年6月29日、三豊百貨店で何が起きたのか|朝の異常から崩壊まで

  7. 第7回|瓦礫の下で続いた17日間|三豊百貨店の救助活動と最後の生存者

  8. 第8回|捜査は何を崩壊原因と認定したのか|設計・施工・維持管理を検証する

  9. 第9回|誰が三豊百貨店崩壊の責任を問われたのか|経営陣・建設関係者・公務員の裁判

  10. 第10回|三豊百貨店崩壊事故のあと何が変わったのか|安全点検・災害管理・制度改革

先に結論|弱点は「床」でも「柱」でもなく、その接続部分に集中した

三豊百貨店は、鉄筋コンクリート造の5階建て建物だった。

一般的な鉄筋コンクリート建物では、


床版





基礎

という順番で鉛直荷重を流す構造が多い。

ところが三豊百貨店では、大きな梁を介さず、床版を柱が直接支える無梁床系の構造が採用されていた。Gardnerらはこれを「flat plate structure」、Parkは「flat slab structure」と表現している。[1][2]

両者は厳密な構造用語として完全に同じではないが、本事故の理解で重要なのは、


床版


と、梁を介さず荷重を直接伝える部分が存在していたことである。

この方式では売場の天井を平らにでき、梁に邪魔されず設備や商品を配置しやすい。百貨店のような大空間には合理的な構造形式である。

しかし一方で、床版から集まってきた荷重を柱へ渡す柱周辺の狭い領域には大きな力が集中する。

三豊百貨店で問題になった柱径、鉄筋位置、床厚、ドロップパネル、コンクリート強度は、すべてこの接合部の耐力に関係する。

床は何を支えているのか|まず「荷重」を分ける

建物の床が支えるのは、人の体重だけではない。

構造計算では、大きく固定荷重積載荷重を分けて考える。

種類 主な内容 三豊百貨店で関係したもの
固定荷重 建物に常時載っている重さ 床版、壁、床仕上げ、厨房設備、設備基礎など
積載荷重 利用状況によって変わる重さ 客、従業員、商品、家具など

床版はこれらの荷重を面として受ける。

梁のある建物なら、床版から梁へ荷重が伝わり、梁が柱へ渡す。無梁床では、この中継役となる大きな梁がないため、床版そのものが荷重を柱まで運ばなければならない。

広い床面が受けた荷重が、最終的には比較的小さな柱断面の周囲へ集まる。

ここに、無梁床構造で柱・スラブ接合部の設計が重要になる理由がある。

柱の真上では、床を「曲げる力」と「押し抜く力」が同時に働く

柱の周囲の床版には、単純な圧縮力だけが働いているわけではない。

床は荷重によってたわもうとする。柱から離れた部分では下側へたわむ一方、柱の直上では柱に持ち上げられるような変形になる。

この柱周辺では、床版上面側に大きな引張応力が生じる負曲げの領域となる。

コンクリートは圧縮には強いが、引張には弱い。そのため柱の周囲では、床版上部に配置された鉄筋が重要な役割を持つ。

同時に、柱は床版を下から局所的に押し上げる形になる。

荷重が大きくなると、柱周囲のコンクリートには「柱を中心に床を円形に切り抜こうとするような力」が生じる。

これがパンチングせん断である。

パンチングせん断とは何か

イメージとしては、薄い板の上から丸い棒を強く押した状態に近い。

板全体が曲がる前に、棒の周囲だけが円形に破れれば、棒は板を突き抜ける。

鉄筋コンクリートの床でも、柱周辺のせん断耐力が足りなくなると、柱の外周に沿うような斜めの破壊面が形成される。

すると床版は、柱に支えられている状態を失う。

柱自体が折れていなくても、

「柱が床を支えられなくなる」

ことがある。

これが、三豊百貨店事故で中心となった破壊形式だった。事故調査委員会は、5階レストラン部分の柱5E付近からパンチングせん断が始まったと結論づけている。[1]

用語メモ|「柱5E」の5は5階という意味ではない

事故調査資料に登場する「5E」は、平面図上で柱を識別するためのグリッド記号である。本記事では資料に合わせて「柱5E」と表記する。

「5階の柱5E」と書いた場合、前半の「5階」が階を、後半の「5E」が平面上の柱位置を示す。

柱径800mmと600mmでは、何が変わるのか

事故調査で確認された重要な差の一つが、柱の寸法だった。

Gardnerらによれば、5階と屋根を支える柱は、構造計算では直径800mmとして扱われていたが、実際には直径600mmだった。[1]

直径の差は200mmなので、一見すると25%小さくなっただけに見える。

しかし円柱の断面積は直径ではなく、直径の2乗に比例する。

直径800mm 直径600mm
直径比 100% 75%
断面積比 100% 約56%

つまり、800mmから600mmへの縮小は、円形断面のコンクリート面積で見ると約44%減少する。

Parkの再検証論文では、該当する一部の柱について、構造計算では直径800mm・主筋16本だったものが、実施設計では直径600mm・主筋8本となっていたことも整理されている。[2]

ただし、「柱が細いからその柱が圧縮で潰れた」という理解ではない。

パンチングせん断では、柱の周長も重要になる。

柱が小さくなれば、床版から柱へ力を渡す接合領域も小さくなり、同じ荷重であれば柱周辺に集中するせん断応力は大きくなる。

したがって柱径の縮小は、

  • 柱そのものの断面性能
  • 柱と床版の接合範囲
  • パンチングせん断に対する余裕

の複数に影響する。

鉄筋は「入っていればいい」のではない|位置が耐力を変える

鉄筋コンクリート構造では、鉄筋の本数だけでなくどこに配置されているかが重要である。

柱周辺の床版では負曲げが発生するため、上側の鉄筋が引張力を負担する。そのため鉄筋は、設計で想定した位置から大きくずれないよう施工しなければならない。

事故調査では、この上側鉄筋が本来より深い位置に施工されていた。

Gardnerらは、柱周辺の負曲げ領域で、床版の有効せいが設計上410mmだったのに対し、実際には約360mmまで小さくなっていたと整理している。[1]

Parkの調査でも、一部では上端鉄筋中心までの距離が床表面から約10cmに達していたことが確認されている。[2]

「有効せい」が50mm小さいだけで、なぜ問題なのか

有効せいとは、単純な「床の厚さ」ではない。

曲げやせん断に抵抗するとき、圧縮側のコンクリートと引張側鉄筋の間にどれだけ有効な距離があるかを表す寸法である。

鉄筋が本来より内部へ沈めば、床版の外形寸法が同じでも、有効せいは小さくなる。

パンチングせん断耐力を非常に単純化すると、


耐力 ∝ 柱周囲の有効な周長 × 有効せい × コンクリート強度に関係する項

という関係で考えられる。

つまり、

柱径が小さくなる

有効な周長が減る

鉄筋位置が下がる

有効せいが減る

という二つの変化は、どちらも柱・スラブ接合部の安全余裕を減らす方向に働く。

さらに上から載る荷重まで増えれば、

「耐力は下がるのに、必要な耐力は上がる」

という状態になる。

ドロップパネルとは何か|柱の周囲だけ床を厚くする

無梁床の柱周辺を強くする方法の一つが、ドロップパネルである。

床全体を厚くすると、コンクリート量が増え、建物自身も重くなる。

そこで柱周辺だけ床版を厚くし、柱から床へ力を伝える部分の有効せいとパンチングせん断耐力を確保する。

概念的には、


通常部分:薄い床
柱周辺:局所的に厚い床

という構成になる。

三豊百貨店の事故調査では、この柱周辺の増厚部についても施工上の問題が見つかった。

Gardnerらが引用した調査委員会報告では、柱通り4・Eの上部で予定されていたドロップパネルが施工されておらず、床厚が450mmではなく300mmとなっていた箇所が確認された。[3]

Parkの再検証でも、ドロップパネルと床版コンクリートの打設方法や施工継目など、柱周辺の施工品質が検討されている。[2]

この点も「ドロップパネルが一つ無かったから建物全体が崩れた」と単純化すべきではない。

柱径、有効せい、鉄筋、床厚、コンクリート強度、荷重という複数の要素が、同じ柱・床版接合部の余裕を削っていたことが重要である。

コンクリート強度も設計値を下回っていた

事故現場から採取されたコンクリートについても強度試験が行われた。

Gardnerらは、設計で想定された圧縮強度21MPaに対し、崩壊した北側部分では平均約18MPaだったと整理している。[1]

より詳細な調査値では、崩壊部分の平均圧縮強度は約18.4MPaと報告されている。[3]

18MPaだから直ちに建物が崩れる、という意味ではない。

設計では、材料強度、荷重、部材寸法などにそれぞれ安全余裕を持たせる。どこか一つが設計値からわずかに外れただけなら、直ちに崩壊へ至らない場合も多い。

三豊百貨店の問題は、

  • 柱が小さい
  • 床版の有効せいが小さい
  • 柱周辺の床厚に問題がある
  • コンクリート強度が設計値を下回る
  • 荷重が設計時より増えている

という複数の不利条件が同じ方向へ働いたことにある。

一つひとつは「即崩壊」ではない|安全率が削られていく

構造物は通常、使用荷重が少し増えた瞬間に壊れるようには設計しない。

材料強度のばらつき、施工誤差、使用条件の変化などを考慮し、設計規準では一定の安全余裕を持たせる。

Gardnerらが三豊百貨店を再計算した目的も、調査で確認された個々の不備が、この安全余裕をどの程度失わせたのかを見ることだった。

その結果、当初設計条件では一定の安全性を持つ一方、

荷重増加

柱寸法縮小

有効せい低下

偏った荷重

などを組み合わせると、使用した設計法によってはパンチングせん断に対する余裕が大きく失われることが示された。[1]

この結果は、「どの欠陥が真犯人だったのか」を探すより重要である。

三豊百貨店では、本来それぞれが持っていたはずの安全余裕が複数の工程で削られ、最後には一つの局所破壊を止められない状態になっていた

柱5Eでは何が起きたのか

事故調査委員会は、崩壊が5階レストラン部分の柱5E付近から始まったと結論づけた。[1]

事故当日の朝、5階ではこの付近を中心に大きな亀裂と変形が確認されていた。

床版と柱の接合部でパンチングせん断が進むと、柱周囲に亀裂が形成され、床版が柱から分離する方向へ変形する。

最終的に接合部が耐力を失えば、その床が受け持っていた荷重は別の場所へ移らなければならない。

Gardnerらは調査委員会の「5階柱5E接合部から開始」という結論を示しつつ、解析上は屋根スラブ側の柱5E接合部が先に破壊した可能性も残るとしている。[1]

FACT CHECK|崩壊は「柱5Eから始まった」と完全に確定しているのか

事故調査委員会は、5階レストラン階の柱5E付近を崩壊開始位置とした。

一方、Gardnerらは構造解析から、屋根スラブと柱5Eの接合部が先行して破壊した可能性も指摘している。

したがって本シリーズでは、「柱5E周辺の柱・スラブ接合部が崩壊開始領域だった」ことを強く支持される事実として扱い、「最初の一瞬が5階側だったか屋根側だったか」については技術的な留保を残す。

一つの接合部が壊れただけで、なぜ建物全体が落ちたのか

ここが三豊百貨店事故の構造上、最も重要な部分である。

柱5E付近の接合部が耐力を失ったとする。

それまで柱5Eが支えていた床の荷重は消えるわけではない。

周囲の床版と柱が、その荷重を新たに負担することになる。

十分な余裕があれば、構造物は荷重を再配分し、局所損傷だけで止まる可能性がある。

しかし三豊百貨店では、周辺の柱・床版接合部も同様に安全余裕を失っていた。

一つの接合部が壊れる

その荷重が隣の接合部へ移る

隣の接合部もパンチングせん断する

さらに広い床が支持を失う

上階の床が下階へ落下する

新たな衝撃荷重が下階へ加わる

という連鎖が起きれば、最初は局所的だった損傷が構造全体へ拡大する。

これを進行性崩壊(progressive collapse)と呼ぶ。

Parkの2012年の再検証も、三豊百貨店のフラットスラブ構造では、一つの支持部の破壊が周囲へ広がり、急速な進行性崩壊へつながったことを事故の重要な特徴としている。[2]

無梁床なら、一つの柱が壊れると必ず全壊するのか

そうではない。

無梁床・フラットスラブ構造そのものが、「一つの柱が損傷すれば必ず建物全部が崩れる」構造というわけではない。

適切な部材寸法、鉄筋、床厚、接合部耐力、連続性を確保し、局所損傷時にも周囲へ荷重を再配分できれば、損傷を限定できる可能性がある。

三豊百貨店で問題だったのは、構造形式そのものより、

  • 柱断面が設計計算より小さい
  • 上端鉄筋位置が適切でない
  • 有効せいが小さい
  • ドロップパネル施工に問題がある
  • コンクリート強度が設計値を下回る
  • 実際の荷重が設計時より増えている

という複数の条件が、パンチングせん断に弱い方向へ重なっていたことである。

「フラットスラブだから崩れた」と説明すると、設計・施工・使用管理という事故の本質が見えなくなる。

建物中央のコアや壁が残った理由

崩壊後の写真を見ると、すべての構造物が完全に粉砕されたわけではない。

Gardnerらは、三豊百貨店には2つの棟の間や建物端部に、エレベーターや設備を収めた剛性の高い耐力壁構造が存在していたと記録している。崩壊後も、北側の耐力壁や中央のサービスコアの一部は残った。[1]

これは、建物のすべての場所が同じ構造だったわけではないことを示している。

売場部分では、広い空間を作るための柱・スラブ構造が主に鉛直荷重を支え、エレベーター周辺などの壁構造は別の高い剛性を持っていた。

そのためパンチングせん断が売場側で連鎖しても、壁構造を持つコアまで同じ壊れ方をするとは限らなかった。

事故現場写真で一部の縦長構造物だけが残って見えるのは、この構造形式の違いとも関係している。

数字を並べると、何が起きていたのか

ここまでの主要な構造条件を整理する。

項目 設計・想定 調査で確認された状態 構造への影響
柱径 800mm 600mmの箇所 柱断面・接合周長の減少
床版有効せい 410mm 約360mm 曲げ・せん断耐力低下
コンクリート圧縮強度 21MPa 崩壊部平均約18~18.4MPa せん断耐力等の低下方向
柱周辺床厚 ドロップ部450mm 一部300mm 柱周辺の有効せい低下
5階固定荷重 ローラースケート場を想定 飲食店化で約35%増加 接合部に作用する荷重増加

この表で重要なのは、一つだけ極端な数字があることではない。

左から右へ見ると、

支える側の能力が小さくなる一方で、支えなければならない荷重が大きくなっている。

という同じ方向の変化が並んでいる。

これが、三豊百貨店の構造問題を理解するときの核心になる。

設計図だけを見ても事故は説明できない

第2回では、当初設計と最終的な建物の姿が少しずつ離れていったことを見た。

第3回で構造側から見ると、その意味がより明確になる。

構造計算では、

柱はこの大きさである。
鉄筋はこの位置にある。
床版にはこの有効せいがある。
コンクリートはこの強度を持つ。
床にはこの程度の荷重が載る。

という前提を置いて安全性を確認する。

そのうち一つが少し違っても、安全余裕によって吸収できる場合はある。

しかし複数の前提が同時に悪い方向へ外れると、設計図上で存在した安全余裕は実物の建物には残らなくなる。

三豊百貨店では、それが柱と床版の接合部に集中した。

次に見るべきは「その弱くなった構造に、何が載せられたのか」

ここまでで、三豊百貨店が荷重をどう支えていたのかは見えてきた。

床版が荷重を集め、柱へ直接伝える。

その接合部では、柱径、床厚、有効せい、鉄筋位置、コンクリート強度がパンチングせん断耐力を左右する。

そして事故調査では、その複数が設計時より不利な状態になっていた。

しかし、まだ半分しか説明していない。

構造物に必要な安全性は、

「どれだけ支えられるか」

だけでなく、

「実際にどれだけ載せたか」

との比較で決まる。

次回は5階の飲食店化、床構成、設備、屋上冷却塔、改修といった追加荷重へ視点を移す。

特に、三豊百貨店事故を語るとき頻繁に登場する「屋上の冷却塔を移動させたこと」は、本当に崩壊の直接原因だったのか。

第4回では、よく知られた説明と事故調査で確認された事実を分離しながら、構造の余裕がどのように削られていったのかを検証する。

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第2回|三豊百貨店はどう建てられたのか|用途変更・増築・繰り返された設計変更

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第4回|なぜ建物の余裕は失われたのか|5階・冷却塔・改修と積み重なった荷重

CASE FILE 13|全10回

  1. 第1回|三豊百貨店崩壊事故とは?|営業中の百貨店はなぜ崩れたのか
  2. 第2回|三豊百貨店はどう建てられたのか|用途変更・増築・繰り返された設計変更
  3. 第3回|現在の記事:三豊百貨店の建物構造|無梁板・柱・スラブは荷重をどう支えていたのか
  4. 第4回|なぜ建物の余裕は失われたのか|5階・冷却塔・改修と積み重なった荷重
  5. 第5回|崩壊の前兆はどこまで見えていたのか|ひび割れ、床沈下、それでも続いた営業
  6. 第6回|1995年6月29日、三豊百貨店で何が起きたのか|朝の異常から崩壊まで
  7. 第7回|瓦礫の下で続いた17日間|三豊百貨店の救助活動と最後の生存者
  8. 第8回|捜査は何を崩壊原因と認定したのか|設計・施工・維持管理を検証する
  9. 第9回|誰が三豊百貨店崩壊の責任を問われたのか|経営陣・建設関係者・公務員の裁判
  10. 第10回|三豊百貨店崩壊事故のあと何が変わったのか|安全点検・災害管理・制度改革

出典・参考資料

本記事は、三豊百貨店事故調査委員会の内容を整理した構造工学論文と、事故原因を再検証した法科学分野の査読論文を中心に構成しています。「フラットスラブだから危険だった」「柱が細かったから単独で崩壊した」といった単純化は避け、柱寸法、鉄筋位置、床版有効せい、ドロップパネル、コンクリート強度、荷重条件が柱・スラブ接合部のパンチングせん断耐力へどう重なったかを説明しています。崩壊開始位置については、事故調査委員会の柱5E・5階接合部説を基本としつつ、屋根側接合部が先行した可能性を指摘する後年の構造解析も併記しています。

なぜ建物の余裕は失われたのか|5階・冷却塔・改修と積み重なった荷重

建築・構造物事故

三豊百貨店の崩壊原因を紹介する記事では、しばしば「屋上に重い冷却塔を載せた」「それを屋上で引きずった」という話が強調される。

確かに、冷却塔は重要な要素だった。

しかし事故調査を構造側から読むと、建物に加わっていた余分な荷重は冷却塔だけではない。

5階は当初想定されたローラースケート場から飲食店街へ変更され、壁や床が追加された。屋根では、設計計算より重い仕上げが施工された。さらに空調用冷却塔が載せられ、その位置まで変更された。

第3回で見たように、三豊百貨店では柱径、床版の有効せい、鉄筋位置、コンクリート強度など、「支える側」の安全余裕が設計時より小さくなっていた

そこへ今度は、「支えなければならない側」の荷重が増えていた。

三豊百貨店の崩壊を理解するには、この二つを同時に見る必要がある。

CASE FILE 13|三豊百貨店崩壊事故特集(全10回)

この特集では、建物の構造的な弱点だけでなく、その弱点がなぜ放置され、事故当日まで営業が続いたのかを追う。

第3回では無梁床構造とパンチングせん断を見た。第4回では、その構造に実際にどのような荷重が加わっていたのかを整理する。

事故当日の亀裂や床沈下、それを見た経営側の判断は第5回で扱うため、今回は崩壊前までに建物の荷重条件そのものがどう変化したのかに集中する。

  1. 第1回|三豊百貨店崩壊事故とは?|営業中の百貨店はなぜ崩れたのか
  2. 第2回|三豊百貨店はどう建てられたのか|用途変更・増築・繰り返された設計変更
  3. 第3回|三豊百貨店の建物構造|無梁板・柱・スラブは荷重をどう支えていたのか
  4. 第4回|現在の記事:なぜ建物の余裕は失われたのか|5階・冷却塔・改修と積み重なった荷重
  5. 第5回|崩壊の前兆はどこまで見えていたのか|ひび割れ、床沈下、それでも続いた営業
  6. 第6回|1995年6月29日、三豊百貨店で何が起きたのか|朝の異常から崩壊まで
  7. 第7回|瓦礫の下で続いた17日間|三豊百貨店の救助活動と最後の生存者
  8. 第8回|捜査は何を崩壊原因と認定したのか|設計・施工・維持管理を検証する
  9. 第9回|誰が三豊百貨店崩壊の責任を問われたのか|経営陣・建設関係者・公務員の裁判
  10. 第10回|三豊百貨店崩壊事故のあと何が変わったのか|安全点検・災害管理・制度改革

先に結論|冷却塔ひとつで崩れた事故ではない

三豊百貨店では、建物完成までとその後の使用過程で、設計時には想定されていなかった、あるいは設計時より大きな荷重が複数加わっていた。

事故調査委員会の結果を整理したGardnerらの論文では、特に次の3点が確認できる。[1]

場所 設計・当初想定 実際の状態
5階 ローラースケート場 飲食店街へ変更し、固定荷重が約35%増加
屋根 軽量コンクリート仕上げ 1.9kPa 実際の仕上げ荷重 約4.0kPa
屋根 計算上の積載荷重 1kPa 冷却塔の自重相当 約4kPa

これらはすべて、同じ種類の問題ではない。

5階の用途変更は、床そのものへ常時載る固定荷重を増やした。

屋根仕上げは、設計計算で想定した自重より実物が重かった。

冷却塔は局所的に大きな荷重を加え、さらに移動によって屋根スラブへ損傷を与えたと事故調査委員会は整理した。

重要なのは、複数の変更が同じ構造系へ同時に作用したことである。

「荷重が大きい」とはどういう意味なのか

まず、事故記事で使われる「重すぎた」という言葉を少し分解しておきたい。

構造物にとって重要なのは、建物全体で何トンあるかだけではない。

同じ10トンでも、広い面積へ均等に載る場合と、一つの柱の近くへ集中する場合では、床や柱に発生する力は違う。

さらに、荷重には時間的な違いもある。

種類 意味 三豊百貨店での例
固定荷重 常に建物へ載っている重量 床、壁、仕上げ、固定設備
積載荷重 使用状況により変化する重量 人、商品、家具等
局所荷重 限られた場所へ集中する重量 大型設備、冷却塔等
偏った荷重 柱・床へ均等でない力を与える状態 冷却塔位置、設備配置

三豊百貨店では、単に「建物全体が重かった」のではない。

設計時とは異なる場所に、異なる種類の荷重が加わっていた。

5階|ローラースケート場から飲食店街へ

事故調査委員会によれば、5階は当初ローラースケート場として計画されていた。

Gardnerらが示す設計条件では、5階の当初の固定荷重は8.0kPa、積載荷重は2.4kPaだった。[1]

kPaは圧力の単位だが、床荷重では「1平方メートル当たりどの程度の力がかかるか」と考えると理解しやすい。

1kPaは、おおまかには1㎡当たり約100kgfに相当する。

したがって8.0kPaなら、単純換算では1㎡当たり約800kgf程度の固定荷重というイメージになる。ただし、これは構造計算上の面荷重を理解するための概算であり、建物重量をそのままkgへ換算した値ではない。

この5階は、実際にはローラースケート場ではなく飲食店街として使用された。

そこで追加されたのが、間仕切り壁や二重床などだった。[1]

韓国料理店では、通常の売場とは違う床構成が必要になる場合もある。

床座で利用する店舗、厨房、給排水、間仕切り、床仕上げなどを整備すれば、その重量は客がいない夜間でも常に床へ載り続ける。

事故調査委員会は、こうした変更によって5階の固定荷重が当初想定より約35%増加したと評価した。[1]

35%増という数字は、何を意味するのか

「35%増」と聞くと、それだけで建物が耐えられなくなったように感じるかもしれない。

しかし、そう単純ではない。

建物は通常、使用時の荷重ぎりぎりで壊れるようには設計されていない。材料強度や荷重には安全係数を設定し、ある程度の余裕を持たせる。

実際、Gardnerらの再計算では、当初設計条件だけを使った場合、5階と屋根の柱・スラブ接合部には規準上一定の安全性があった[1]

問題は、その余裕を削る条件が35%の荷重増加だけではなかったことにある。

第3回で確認したように、

  • 柱径が計算上800mmだったものから600mmとなった箇所
  • 床版の有効せいが410mmから約360mmへ小さくなった部分
  • コンクリート強度が設計値21MPaに対し崩壊部で平均約18MPaだったこと
  • 柱周辺の床厚・鉄筋施工上の問題

も存在した。[1]

つまり、


要求される耐力は増える
一方で
実際に存在する耐力は減る

という両方向の変化が起きていた。

屋根|設計では1.9kPaだった仕上げが、実際には4kPa

5階の上にある屋根側でも、計算上の前提と実物には差があった。

事故調査委員会をまとめたGardnerらによれば、屋根の構造計算では軽量コンクリート仕上げの自重として1.9kPaが想定されていた。[2]

しかし、事故後に調査された実際の屋根仕上げ荷重は約4kPaだった。

単純な比率なら、設計計算で見込んだ値の約2.1倍になる。

ここでも、「屋根仕上げだけで建物が崩れた」という意味ではない。

重要なのは、柱5E周辺の接合部から見れば、上から伝わってくる恒常的な荷重が設計時の想定より大きくなっていたことである。

そしてその屋根には、さらに大型の空調設備が載せられた。

冷却塔は「エアコン本体」ではない

三豊百貨店事故の記事では、「屋上のエアコンを移動した」という表現を見ることがある。

より正確には、問題になったのは空調システムに使用される冷却塔(cooling tower)である。

大型建物では、空調設備で発生した熱を冷却水へ移し、その熱を屋外へ放出するために冷却塔が使われる。

冷却塔はファンだけではない。

構造体、水槽、配管、内部部材、水などを含む設備であり、運転時には大きな重量になる。

三豊百貨店では、この冷却塔が屋上に設置されていた。

韓国国立中央図書館の災害アーカイブも、荷重を十分考慮しないまま屋上冷却塔が設置されたことを、5階・屋上の過大荷重とともに崩壊原因の一部として整理している。[3]

冷却塔の重量は「87トン」で確定しているのか

FACT CHECK|冷却塔の総重量

三豊百貨店の冷却塔については、後年の解説資料に「3台で36トン」「1台15トン」「冷却水を含む運転時87トン」など複数の数字がある。

一方、事故調査委員会報告を直接要約しているGardnerらの査読論文では、冷却塔荷重を総重量○トンではなく、床へ作用する面荷重として扱っている。

同論文では、構造計算上の屋根の積載荷重を1kPaとしていたのに対し、冷却塔の自重による荷重を4kPaとしている。[2]

そのため本シリーズでは、二次資料間で値が揺れる総トン数を事故原因の確定値として使用せず、事故調査委員会を基にした4kPaという構造計算上の値を優先する。

ここで重要なのは、「何トンだったか」という印象的な数字だけではない。

設計上1kPaとしていた荷重条件に対し、その位置へ4kPa相当の設備荷重が加わったのであれば、床・柱接合部には設計時と異なる曲げやせん断が発生する。

冷却塔は、なぜ移動させられたのか

事故調査委員会によれば、冷却塔は当初、建物の東側に設置されていた。

しかし東側の住民から騒音に関する苦情があり、反対側へ移動させることになった。[2]

通常、大型設備を屋上で移動させる場合、その重量、吊り上げ方法、移動経路、床の局部耐力などを検討する必要がある。

冷却塔を一度分解して小さな部品として運ぶ方法も考えられるが、事故調査委員会の記録では、再組立てが難しいことから小分けにはされなかった。

その結果、冷却塔は屋根上を移動させられ、その過程で屋根スラブへ損傷を与えたと報告されている。[2]

この移設は、三豊百貨店事故を紹介する映像や記事で頻繁に取り上げられる。

ただし注意したい。

冷却塔を移動した瞬間に、1995年の崩壊が決定したわけではない。

建物はその後も使用され続けている。

移設は、既に余裕の小さかった屋根スラブへさらに損傷や不均衡な荷重を加えた一要素として見るべきである。

なぜ冷却塔の「位置」が重要なのか

同じ冷却塔なら、屋上のどこへ置いても重量自体は変わらない。

しかし構造への影響は変わる。

フラットスラブ構造では、床版が受けた荷重が柱へ直接伝わる。

そのため、冷却塔を柱間のどこへ置くかによって、

  • どの柱が多く荷重を負担するか
  • 床版がどの方向へ曲がるか
  • 柱・スラブ接合部へどの程度の不均衡モーメントが加わるか

が変わる。

Gardnerらは、冷却塔荷重によって柱・スラブ接合部へunbalanced moments=不均衡モーメントが生じたと記している。[1]

これは単に真下へ押すだけの力ではない。

床版の片側へ大きな荷重が寄れば、柱との接合部を回転させるような曲げ作用が加わる。

パンチングせん断耐力を評価するとき、この曲げ作用は無視できない。

「冷却塔を引きずったから柱5Eが壊れた」と言い切れるのか

ここも、事故の説明で単純化されやすい部分である。

事故調査委員会をまとめた論文から確認できるのは、

  • 冷却塔は住民苦情を理由に位置変更された
  • 小さく分解せず移動された
  • 移動によって屋根スラブに損傷を与えた
  • 冷却塔荷重は柱・スラブ接合部へ不均衡モーメントを生じさせた

というところまでである。[2]

一方で、

「移設時の一回の損傷が、そのまま2年後の崩壊を単独で引き起こした」

と因果関係を一本に固定するのは適切ではない。

第3回で見た構造欠陥、5階の用途変更、屋根荷重、施工品質なども同時に存在していたからである。

冷却塔は重要な寄与要因ではあるが、単独原因ではない。

荷重を「合計」するだけでも事故は説明できない

では、

5階固定荷重35%増

屋根仕上げ4kPa

冷却塔4kPa

を単純に足せば、事故原因を計算できるのか。

それも違う。

これらは作用する場所、面積、方向が異なる。

構造計算では、どこへどの荷重が加わり、それによって床版へどのような曲げモーメントやせん断力が発生するかを解析する必要がある。

特に三豊百貨店のようなフラットスラブ構造では、柱周辺のパンチングせん断だけではなく、荷重が偏ることで発生する不均衡モーメントも接合部耐力に影響する。

したがって本質は、

「重い物がたくさん載っていた」

ではなく、

「設計時とは違う荷重状態が、設計・施工時より耐力の低い柱・スラブ接合部へ作用していた」

ことである。

耐力と荷重を一つの図式で見る

ここまで第3回と第4回で扱った内容をまとめると、事故直前の建物を次のように整理できる。

耐力を下げる側 荷重を増やす側
柱径800mm想定 → 一部600mm 5階を飲食店街へ変更
床版有効せい410mm → 約360mm 5階固定荷重 約35%増
コンクリート21MPa想定 → 崩壊部平均約18MPa 屋根仕上げ1.9kPa想定 → 約4kPa
ドロップパネル・鉄筋施工上の問題 冷却塔荷重 約4kPa
柱・床接合部の施工品質 設備位置による不均衡モーメント

構造物の安全性を非常に単純化すれば、


安全余裕 = 耐力 ÷ 要求される力

と考えることができる。

耐力が下がる。
要求される力が上がる。

この二つが同時に進めば、その比率は急速に悪化する。

三豊百貨店では、一つの巨大なミスによって突然安全率がゼロになったというより、異なる工程で生じた複数の変更が同じ安全余裕を少しずつ消費したと捉える方が分かりやすい。

事故調査も「過大荷重だけ」を原因にはしていない

韓国国立中央図書館の災害アーカイブは、三豊百貨店について、5階食堂部分の床が沈下したあと、床荷重が周辺柱へ移り、連鎖的なせん断破壊が起きたと整理している。[3]

その原因として挙げられているのは、

  • 設計変更手続き上の問題
  • 構造図と実施工の相違
  • スラブ鉄筋配置
  • 柱・ドロップ部の施工不良
  • 5階と屋上の過大荷重
  • 屋上冷却塔
  • 監理・許認可上の問題

などである。

つまり公的な災害整理でも、過大荷重は「事故原因の一部」であって、他の構造・施工・管理問題から独立した唯一原因とはされていない。

なぜ建物はすぐには崩れなかったのか

ここまで問題が多かったなら、なぜ三豊百貨店は完成直後に崩れず、数年間営業できたのか。

これは、構造物が通常、ある程度の余裕を持っていることと関係する。

設計値からわずかに外れた箇所があるからといって、その日に必ず崩れるわけではない。

また日常の荷重状態も常に一定ではない。

そのため、構造的な余裕が小さくなった建物でも、しばらく使用できてしまう場合がある。

Gardnerらの解析は、この事故の重要な点を示している。

当初設計条件だけなら安全性を満たしていた。しかし、

  • 柱径の縮小
  • コンクリート強度低下
  • 床版有効せい低下
  • 用途変更による荷重増加
  • 偏荷重・不均衡モーメント

を順次組み合わせると、使用する設計式によってはパンチングせん断破壊の可能性が大きく上昇する。[1]

「長年立っていたから安全」という判断は成立しない。

むしろ安全余裕の小さい建物ほど、限界に近づくまで外からは普通に使えてしまうことがある。

そして1995年、建物自身が警告を出し始めた

ここまでの第2~4回では、事故を建物の側から見てきた。

用途が変わった。

構造部材が設計計算と違った。

荷重が増えた。

屋上設備が追加され、移動された。

安全余裕は設計時より小さくなった。

しかし、この段階ではまだ事故を「防げなかった」とは言い切れない。

建物が危険な状態に近づいたあと、最終的に人命被害を大きくしたもう一つの問題が残っているからである。

崩壊前に、建物は目に見える警告を出していた。

1995年春には5階周辺で亀裂が確認され、6月29日の朝にはその異常が急速に拡大した。

床が沈む。
亀裂が広がる。
音がする。
設備が振動する。

異常は、構造計算書の中だけに存在していたのではない。

人が見て確認できる状態になっていた。

では、その情報は誰まで伝わっていたのか。

なぜ5階の一部を閉鎖しながら、百貨店全体の営業は続いたのか。

次回は構造計算から離れ、1995年6月29日に現場で認識されていた「崩壊の前兆」と組織の意思決定を追う。

前の記事


第3回|三豊百貨店の建物構造|無梁板・柱・スラブは荷重をどう支えていたのか

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第5回|崩壊の前兆はどこまで見えていたのか|ひび割れ、床沈下、それでも続いた営業

CASE FILE 13|全10回

  1. 第1回|三豊百貨店崩壊事故とは?|営業中の百貨店はなぜ崩れたのか
  2. 第2回|三豊百貨店はどう建てられたのか|用途変更・増築・繰り返された設計変更
  3. 第3回|三豊百貨店の建物構造|無梁板・柱・スラブは荷重をどう支えていたのか
  4. 第4回|現在の記事:なぜ建物の余裕は失われたのか|5階・冷却塔・改修と積み重なった荷重
  5. 第5回|崩壊の前兆はどこまで見えていたのか|ひび割れ、床沈下、それでも続いた営業
  6. 第6回|1995年6月29日、三豊百貨店で何が起きたのか|朝の異常から崩壊まで
  7. 第7回|瓦礫の下で続いた17日間|三豊百貨店の救助活動と最後の生存者
  8. 第8回|捜査は何を崩壊原因と認定したのか|設計・施工・維持管理を検証する
  9. 第9回|誰が三豊百貨店崩壊の責任を問われたのか|経営陣・建設関係者・公務員の裁判
  10. 第10回|三豊百貨店崩壊事故のあと何が変わったのか|安全点検・災害管理・制度改革

出典・参考資料

本記事は、事故調査委員会報告を整理したGardnerらの査読論文、Parkによる事故原因再検証、韓国国立中央図書館の災害アーカイブを中心に構成しています。冷却塔については二次資料に「36トン」「45トン」「運転時87トン」など異なる総重量表記があるため、本記事では総重量を確定値として使用せず、事故調査委員会を基にした構造荷重値「4kPa」を優先しました。また、冷却塔の移設を単独の崩壊原因とはせず、5階用途変更、屋根仕上げ、構造部材・施工上の問題と重なった寄与要因として扱っています。

崩壊の前兆はどこまで見えていたのか|ひび割れ、床沈下、それでも続いた営業

建築・構造物事故

1995年6月29日17時55分ごろ、三豊百貨店A棟は崩壊した。

しかし、その時まで建物が何の警告も出していなかったわけではない。

韓国国家記録院によれば、事故当日の8時05分ごろにはA棟5階の春園食堂付近で床に亀裂が発生していた。午後には床そのものが沈み始めた。それより前、1995年4月ごろから5階付近では亀裂が確認されていたとする公的記録も残っている。[1][2]

つまり三豊百貨店事故では、構造物内部の異常が誰にも分からないまま突然限界を超えたのではない。

亀裂が見える。
床が沈む。
建物から音がする。
一部の施設を閉める。
技術者や管理者が状況を確認する。

それでも百貨店全体の営業は続いた。

この事故を「施工不良による建物崩壊」だけで理解すると、ここが抜け落ちる。

構造上の危険が、人間が認識できる情報へ変わったあと、なぜ人を建物の外へ出す判断につながらなかったのか。

第5回では、崩壊の前兆と組織の意思決定を分けて追う。

CASE FILE 13|三豊百貨店崩壊事故特集(全10回)

第2回から第4回までは、建物の側から事故を見てきた。

設計と用途が変わり、柱・スラブ接合部の安全余裕が小さくなり、5階や屋上では設計時と異なる荷重が加わっていた。

第5回では視点を変える。

その構造的な問題が、1995年6月29日に「見える異常」となったあと、組織内部で何が起きたのかを追う。

  1. 第1回|三豊百貨店崩壊事故とは?|営業中の百貨店はなぜ崩れたのか
  2. 第2回|三豊百貨店はどう建てられたのか|用途変更・増築・繰り返された設計変更
  3. 第3回|三豊百貨店の建物構造|無梁板・柱・スラブは荷重をどう支えていたのか
  4. 第4回|なぜ建物の余裕は失われたのか|5階・冷却塔・改修と積み重なった荷重
  5. 第5回|現在の記事:崩壊の前兆はどこまで見えていたのか|ひび割れ、床沈下、それでも続いた営業
  6. 第6回|1995年6月29日、三豊百貨店で何が起きたのか|朝の異常から崩壊まで
  7. 第7回|瓦礫の下で続いた17日間|三豊百貨店の救助活動と最後の生存者
  8. 第8回|捜査は何を崩壊原因と認定したのか|設計・施工・維持管理を検証する
  9. 第9回|誰が三豊百貨店崩壊の責任を問われたのか|経営陣・建設関係者・公務員の裁判
  10. 第10回|三豊百貨店崩壊事故のあと何が変わったのか|安全点検・災害管理・制度改革

先に結論|「予知できたか」と「避難できたか」は別の問題

三豊百貨店事故を振り返るとき、

「崩壊すると分かっていたのに営業を続けた」

という説明が使われることがある。

しかし、この表現は少し整理する必要がある。

1995年6月29日の朝8時の時点で、誰かが「17時55分にA棟全体が進行性崩壊する」と正確に予測していたことを示す資料は確認できない。

一方で、

  • 床に亀裂が生じていた
  • 床が目に見えて沈下していた
  • 異音や振動が発生していた
  • 5階の一部店舗を閉鎖する必要がある状態だった
  • 管理側が異常を認識していた

ことは確認できる。[1]

したがって問題は、

「崩壊時刻まで正確に予測できたか」ではなく、「重大な構造異常が現れた建物を営業中のまま使用し続けることが妥当だったか」

というリスク判断にある。

事故約2か月前|5階にはすでに亀裂が現れていた

前兆は事故当日の朝に突然始まったわけではない。

韓国国家記録院の「大規模崩壊事故」の記録では、1995年4月ごろ、事故のおよそ2か月前から三豊百貨店5階南側の天井付近で亀裂が発生し始めていたとされる。[2]

ここで重要なのは、亀裂があったという事実だけではない。

鉄筋コンクリート建物には、微細なひび割れ自体は珍しくない。乾燥収縮、温度変化、仕上げ材など、構造安全性に直結しないひび割れも存在する。

そのため、

「ひび割れが一つある=直ちに崩壊する」

とは判断できない。

問題は、その亀裂が時間とともに拡大し、床の変形や異音など別の異常と同時に現れ始めたことである。

単独なら軽微に見える兆候でも、複数が同時に進行すれば意味は変わる。

6月29日8時05分ごろ|春園食堂の床が割れ始める

事故当日の公的記録で、明確な時刻として残っているのが8時05分ごろである。

韓国国家記録院によれば、A棟5階の春園食堂で床が割れ始めた。[1]

この異常は、壁紙に細い亀裂が一本入った程度の話ではなかった。

構造事故に関する後年のケーススタディでは、柱5E付近で大きな亀裂と床の沈下が確認され、その場所にあったレストランが閉鎖された経過が整理されている。[3]

ここで最初の重要な分岐が発生する。

異常が見つかった結果、

「異常なしとして営業を継続した」わけではない。

少なくとも一部では問題を認識し、該当する店舗・場所への対応が行われた。

つまり管理側は、建物に通常ではない状態が起きていること自体は把握していた。

一部閉鎖と全館避難は、まったく違う判断である

ここで、施設管理の判断を二段階に分ける必要がある。

判断 意味
一部閉鎖 異常が見える場所だけを使用停止する
全館避難 建物全体を安全とは判断できないため、利用者を外へ出す

一部閉鎖は、

「問題はこの場所だけに限定されている」

という前提に立つ。

一方、全館避難は、

「原因や範囲が分からない以上、安全側へ倒す」

という判断である。

三豊百貨店では5階で異常が確認されながら、百貨店全体の使用停止には至らなかった。

後から事故原因を知っている現在の視点だけで判断すべきではないが、フラットスラブ構造では一つの柱・床接合部の損傷が周辺へ荷重を再配分するため、異常を「その店舗だけの局所的問題」と考えることには大きなリスクがあった。

昼にかけて|異常は「亀裂」から「建物の挙動」へ変わった

午前中から昼にかけて、建物の異常はさらに進んだ。

後年の工学系ケーススタディでは、昼ごろには建物内で異音や小さな振動が認識され、12時30分ごろには空調設備が振動の原因ではないかと考えられ、運転を停止した経過が整理されている。[3]

ここで注目すべきなのは、設備を止める判断が行われたことだ。

これは、

「建物に異常がある」という認識が、朝の亀裂確認だけで終わっていなかった

ことを示している。

振動が空調設備によるものなのか、床・柱そのものの損傷によるものなのか。その時点で原因を完全に特定できなかったとしても、構造物の変形が進んでいる以上、原因不明であること自体が安全上の問題になる。

床が「沈む」ことは、亀裂より一段重い警告だった

韓国国家記録院は、午後に入ると5階食堂の床が沈下したと記録している。[1]

亀裂と床沈下には、重要な違いがある。

亀裂は、材料内部で応力が生じていることを示す。

床沈下は、構造物の形そのものが変わっている。

床版や柱・床接合部に損傷が進行すれば、それまでその部分が負担していた荷重は別の場所へ移る。

第3回で説明したように、フラットスラブ構造ではこの荷重再配分によって周辺の柱・スラブ接合部まで厳しくなり、パンチングせん断が連鎖する可能性がある。

つまり、

亀裂

変形

荷重再配分

と進むほど、異常は局所的な「補修箇所」ではなく、構造システム全体の問題へ近づいていく。

午後の対策会議|問題は経営レベルまで上がった

異常は施設担当者だけが把握する問題ではなくなった。

事故翌日の海外報道では、三豊側が悪化する建物状態について午後2時ごろに緊急会議を開いていたと韓国メディア情報を基に報じている。[4]

工学系の事故ケーススタディでは、さらに午後4時ごろ、柱5E付近の亀裂が朝より拡大し、建物閉鎖と緊急補修を勧告する技術的意見が示されたという時系列が整理されている。[3]

ただし、この時間帯の会議参加者、発言内容、誰がどの言葉で「崩壊」を予測したかについては、後年の映像作品や二次資料で細部が異なる。

そのため本記事では、

  • 経営・管理側まで構造異常が共有されたこと
  • 午後にも状態悪化が続いていたこと
  • それでも全館避難に直結しなかったこと

を確実度の高い骨格として扱う。

FACT CHECK|「売上を失いたくなかったから避難させなかった」は確定事実か

三豊百貨店事故については、

「経営陣が売上を優先し、避難を拒否した」

という説明が非常によく知られている。

事故直後の報道にも、経営側が建物を開けたままにしたことと営業上の判断を結び付ける記事があり、後年の工学ケーススタディでも同様の説明が採用されている。[4][5]

一方、韓国国家記録院の事故経過から直接確認できるのは、8時05分ごろに亀裂が生じたあとも顧客避難措置を取らず、営業状態のまま午後の床沈下と最終崩壊に至ったことである。[1]

したがって、

「全館避難が行われなかった」

は確認できる事実として扱える。

しかし個々の意思決定者の内心を、

「利益だけが理由だった」

と一語で説明するのは慎重であるべきだ。

本シリーズでは、経営判断の法的責任については第9回の裁判記録で改めて確認する。

なぜ「原因が分かるまで営業」では危険なのか

設備事故や製造設備のトラブルでも同じだが、安全上の異常が起きた場合、

原因特定

安全確保

は順序を分けて考える必要がある。

安全が確認できない状態で、

「原因を調べてから止める」

という順序にすると、調査している時間そのものがリスクになる。

安全側の基本的な順序は、

危険兆候を確認

人を危険区域から離す

設備・建物を停止

原因を調査

安全確認後に復旧

となる。

三豊百貨店では、原因が特定できていない状態で構造変形が進行していた。

この点だけを見ても、営業継続には非常に大きな不確実性が残っていた。

「昨日まで大丈夫だった」は安全確認にはならない

事故前の三豊百貨店は約5年間営業していた。

その事実は、管理側にとって心理的な安心材料になり得る。

しかし構造物では、

昨日まで使えた

今日も安全

とは限らない。

構造部材は、荷重・変形・亀裂の蓄積によって徐々に限界へ近づくことがある。

特にパンチングせん断のような破壊は、最終段階で耐力を失うと急激に進行する。

三豊百貨店では、長期間存在していた設計・施工上の問題に対し、事故当日になって床沈下という大きな変形が加わった。

つまり6月29日は、

「以前から弱かった建物が、その日も同じ状態だった」

のではない。

状態が時間単位で悪化していた日

だった。

警告を三段階に分けると、事故の構造が見える

三豊百貨店で確認された前兆は、すべて同じ重みではない。

段階 確認された現象 意味
第1段階 数か月前からの亀裂 継続的な点検・原因調査が必要な兆候
第2段階 6月29日朝の亀裂拡大・異音・振動 異常が進行している可能性
第3段階 床の沈下・天井変形 構造物そのものが大きく変形している状態

このように並べると、

「小さなひびを見落とした事故」

とは性質が違うことが分かる。

警告は一度だけではなく、時間とともに強くなっていた。

それでもなぜ「全館避難」という入力にならなかったのか

SYSTEM型事故として考えると、ここが最も重要になる。

組織には複数の階層がある。

現場従業員。
施設管理担当。
店舗責任者。
技術者。
経営幹部。

現場で異常が見つかっても、

情報が上へ伝わるだけでは事故は止まらない。

情報を受けた人が、

営業停止

顧客への告知

避難誘導

入館停止

という具体的な行動へ変換する必要がある。

三豊百貨店では、

異常の発見

一部閉鎖

設備停止

会議・確認

までは進んだ。

しかし、

全館避難

という決定へ移るまでが遅れた。

安全システムとして見るなら、これは「センサーが無かった」事故ではない。

建物そのものがセンサーのように、

亀裂、変形、音、振動

という信号を出していた。

問題は、その信号を停止命令へ変換するロジックが機能しなかったことにある。

制御システムに置き換えると、何が欠けていたのか

この事故を設備のインターロックに置き換えると、構造が分かりやすい。

たとえば産業設備で、

異常振動検出

機体変形検出

異音発生

安全担当者による異常確認

まで揃ったのに、

「原因がまだ完全には分からない」

という理由で自動運転を継続する設計なら、フェイルセーフとは言いにくい。

本来は、

安全が確認できない重大異常

を検知した段階で、

停止

退避

原因究明

の順にする。

三豊百貨店にはPLCも安全リレーもない。

しかし組織運用上は、

重大な構造異常が確認されたら全館を使用停止する

という人間系のインターロックが必要だった。

結果として、その機能が事故当日には働かなかった。

崩壊直前|非常ベルは鳴ったが、時間は残っていなかった

韓国国家記録院は、崩壊が始まるわずか数分前になって非常ベルが鳴らされ、顧客の避難が始まったと整理している。[2]

しかし、その時点では遅かった。

17時55分ごろ、A棟の崩壊が始まった。

国家記録院によれば、建物は約20秒という短時間で崩れ落ちた。[2]

数分の避難時間と20秒程度の構造崩壊。

百貨店には多数の客と従業員がおり、上階、売場、地下階など各所から建物外へ移動しなければならなかった。

崩壊の直前になってから非常ベルを鳴らしても、全員が安全圏へ移動できる時間はなかった。

この事故では、

「避難命令が最終的に出たか」

だけを見るのでは不十分である。

「安全に避難できるだけの時間を残して出たか」

を見る必要がある。

FACT CHECK|経営陣だけ先に逃げたのか

三豊百貨店事故では、

「経営陣だけが危険を知って先に建物から逃げた」

という説明も広く知られている。

事故直後の報道や後年の解説には、管理・経営側の一部が崩壊前に建物を離れていたとする記述がある。[4]

ただし「全経営陣が全員、崩壊を確信して計画的に自分たちだけ避難した」と一括して書くには、人物ごとの行動と時刻をさらに分けて検証する必要がある。

本シリーズでは、この点を煽情的なエピソードとして固定せず、責任関係を扱う第9回で裁判・捜査資料に基づいて整理する。

後知恵で「なぜ逃げなかった」と責める記事にしてはいけない

事故後には、どの異常が崩壊につながったのかが分かっている。

そのため現在の読者には、

「床が沈んだ時点で、すぐ逃げればよかった」

と思える。

しかし当時、一般の買い物客が、

床の亀裂

数時間後に建物が全壊

と判断することは現実的ではない。

安全判断の責任は、利用者一人ひとりに同じように存在するわけではない。

建物の状態を把握できる施設管理者、専門知識を持つ技術者、営業停止権限を持つ経営側には、一般客より多くの情報と判断権限があった。

したがって重要なのは、

「なぜ客が自分で逃げなかったのか」

ではなく、

「安全情報を持つ側が、利用者を避難させる仕組みをなぜ動かせなかったのか」

である。

三豊百貨店で失敗したのは「検知」より「判断」だった

事故をシステムとして整理すると、次のようになる。

段階 6月29日に起きたこと 評価
異常検知 亀裂、異音、振動、床沈下を確認 機能した
現場対応 一部店舗閉鎖、設備停止、状況確認 部分的に機能
情報共有 管理・経営レベルで問題を認識 機能した
危険判定 建物全体を直ちに使用停止する判断に至らず 不十分
安全出力 早期の全館避難・入館停止が行われず 機能しなかった

この表から見ると、三豊百貨店事故は、

「誰も異常を知らなかった」

事故ではない。

異常を検出し、情報も共有されたのに、それを十分早い安全動作へ変換できなかった事故

だった。

危険を認識した時点が「最後の防護層」だった

設計変更はすでに終わっていた。

施工不良も建物の中に存在していた。

5階の用途変更も終わっていた。

冷却塔も屋上にあった。

1995年6月29日の朝になってから、これらを数時間で修正することはできない。

しかし、まだ一つできることはあった。

建物から人を出すこと。

事故そのものを止められなくても、被害を小さくする防護層は残っていた。

安全工学では、一つの防護が失敗しても次の防護が事故を止める、あるいは被害を限定する考え方が重要になる。

三豊百貨店では、

設計

施工

維持管理

異常検知

という複数の段階を通過して危険が進んだ。

最後に残った防護層が、

営業停止と避難

だった。

その防護も、十分な時間を残して作動しなかった。

前兆を知ると、6月29日の見え方が変わる

三豊百貨店の崩壊だけを映像で見ると、事故は突然起きたように見える。

17時55分。

建物が揺れ、床が落ち、A棟が短時間で消える。

しかし時間を朝まで戻すと、事故の姿は違う。

8時05分ごろには亀裂がある。

午前中に一部店舗を閉じる。

昼には異音や振動が問題になる。

午後には床が沈む。

管理・経営側で対応が検討される。

それでも客は建物内にいる。

そして崩壊の数分前になって、ようやく避難が始まる。

崩壊は約20秒だったが、事故を止めるための判断時間は20秒しかなかったわけではない。

ここに「惨劇の前兆」というテーマの本質がある。

次回|6月29日を一本の時間軸で再構成する

第5回では、前兆と意思決定に焦点を当てた。

そのため、朝から崩壊までの細かな出来事をすべて時刻順には並べていない。

次回は視点を再び時間軸へ戻す。

1995年6月29日、

朝の異常発見。
店舗営業開始。
亀裂の拡大。
床沈下。
会議。
崩壊直前の異音。
避難開始。
そして17時55分ごろ。

複数の出来事を一本の時系列に並べると、どの段階で状況が「補修可能な異常」から「即時避難が必要な危険」へ変わっていったのかが見えてくる。

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第4回|なぜ建物の余裕は失われたのか|5階・冷却塔・改修と積み重なった荷重

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第6回|1995年6月29日、三豊百貨店で何が起きたのか|朝の異常から崩壊まで

CASE FILE 13|全10回

  1. 第1回|三豊百貨店崩壊事故とは?|営業中の百貨店はなぜ崩れたのか
  2. 第2回|三豊百貨店はどう建てられたのか|用途変更・増築・繰り返された設計変更
  3. 第3回|三豊百貨店の建物構造|無梁板・柱・スラブは荷重をどう支えていたのか
  4. 第4回|なぜ建物の余裕は失われたのか|5階・冷却塔・改修と積み重なった荷重
  5. 第5回|現在の記事:崩壊の前兆はどこまで見えていたのか|ひび割れ、床沈下、それでも続いた営業
  6. 第6回|1995年6月29日、三豊百貨店で何が起きたのか|朝の異常から崩壊まで
  7. 第7回|瓦礫の下で続いた17日間|三豊百貨店の救助活動と最後の生存者
  8. 第8回|捜査は何を崩壊原因と認定したのか|設計・施工・維持管理を検証する
  9. 第9回|誰が三豊百貨店崩壊の責任を問われたのか|経営陣・建設関係者・公務員の裁判
  10. 第10回|三豊百貨店崩壊事故のあと何が変わったのか|安全点検・災害管理・制度改革

出典・参考資料

本記事は、韓国国家記録院の公的事故記録を主軸とし、事故調査委員会を基にした構造工学論文、工学系事故ケーススタディ、1995年当時の報道を補助的に照合して構成しています。事故当日の会議時刻・参加者・発言内容には後年資料間で差があるため、確実度の高い「亀裂・床沈下・一部閉鎖・異常の管理側認識・全館避難の遅れ」を中心に記述しました。また、「利益だけを理由に避難を拒否した」「経営陣全員が意図的に先に逃げた」といった人物心理・行動の単純化は避け、法的責任は第9回で裁判資料に基づいて扱います。

1995年6月29日、三豊百貨店で何が起きたのか|朝の異常から崩壊まで

建築・構造物事故

1995年6月29日の朝、ソウルの三豊百貨店では、すでに通常とは違う状態が始まっていた。

A棟5階の飲食店では床に亀裂が現れた。時間が経つにつれて床は沈み、建物からは異音や振動が伝わるようになった。一部の店は閉鎖され、設備も停止された。それでも、下の売場では客が買い物を続けていた。

そして夕方。

崩壊の数分前になって避難が始まったが、残された時間は短かった。

17時55分ごろ、A棟の構造が連鎖的に耐力を失った。床版が落下し、その衝撃が下階へ伝わり、建物の大部分が短時間のうちに崩れた。韓国国家記録院は、A棟の崩壊を約20秒と記録している。[1]

第6回では、事故原因を項目ごとに説明するのではなく、1995年6月29日の一日を時間の流れに沿って再構成する。

重要なのは、「何時に何が起きたか」を並べることだけではない。

建物の状態が時間とともにどのように悪化し、それに対する人間側の対応がどこまで追いついていたのか。

二つの時間軸を重ねると、この事故の成立過程が見えてくる。

CASE FILE 13|三豊百貨店崩壊事故特集(全10回)

第5回では、亀裂や床沈下という警告が確認されながら、なぜ早い段階で全館避難へ移れなかったのかを組織判断の側から見た。

今回は同じ6月29日を、判断の是非ではなく時系列として追う。

  1. 第1回|三豊百貨店崩壊事故とは?|営業中の百貨店はなぜ崩れたのか
  2. 第2回|三豊百貨店はどう建てられたのか|用途変更・増築・繰り返された設計変更
  3. 第3回|三豊百貨店の建物構造|無梁板・柱・スラブは荷重をどう支えていたのか
  4. 第4回|なぜ建物の余裕は失われたのか|5階・冷却塔・改修と積み重なった荷重
  5. 第5回|崩壊の前兆はどこまで見えていたのか|ひび割れ、床沈下、それでも続いた営業
  6. 第6回|現在の記事:1995年6月29日、三豊百貨店で何が起きたのか|朝の異常から崩壊まで
  7. 第7回|瓦礫の下で続いた17日間|三豊百貨店の救助活動と最後の生存者
  8. 第8回|捜査は何を崩壊原因と認定したのか|設計・施工・維持管理を検証する
  9. 第9回|誰が三豊百貨店崩壊の責任を問われたのか|経営陣・建設関係者・公務員の裁判
  10. 第10回|三豊百貨店崩壊事故のあと何が変わったのか|安全点検・災害管理・制度改革

先に全体像|異常発見から崩壊まで約10時間

韓国国家記録院の事故記録で最初に明確な時刻が示されるのは、6月29日8時05分ごろである。

A棟5階の春園食堂で床に亀裂が生じ始めた。[2]

そこから崩壊まで約10時間。

一日の大きな流れは次のようになる。

時刻・時間帯 建物側 人間側 確度
8時05分ごろ 5階春園食堂で床の亀裂 異常が認識され始める 公的記録
午前 亀裂・変形が継続 一部店舗の使用停止、現場確認 複数資料で確認
昼前後 振動・変形が問題になる 設備停止、5階での対応 二次資料を含む
午後 食堂床の沈下が進行 管理・経営側で対応検討 公的記録+補助資料
夕方 変形が急速に進行 避難開始 公的記録
17時55分ごろ 連鎖的なせん断破壊、A棟崩壊 多数の客・従業員が建物内に残る 公的記録・事故調査系論文

この一日で注目すべきなのは、建物の状態が一定ではないことである。

朝から夕方まで「危険な建物が同じ状態で営業していた」のではない。

時間が進むほど、異常の種類と程度が変化していた。

8時05分ごろ|5階・春園食堂の床が割れ始める

韓国国家記録院は、事故当日の8時05分ごろ、三豊百貨店A棟5階の春園食堂で床が割れ始めたと記録している。[2]

5階は、第2回・第4回で確認したように、当初想定されたローラースケート場から飲食店街へ用途が変更されていた。

床や間仕切りなどの固定荷重が増え、柱・スラブ接合部にも設計時とは異なる力が作用していた。

その場所に、目で確認できる異常が現れた。

この時点では、もちろん「今日の夕方に建物全体が崩れる」と確定したわけではない。

しかし、事故後に判明した構造状態を踏まえれば、亀裂は内部で進行していた応力と変形が表面へ現れ始めたものだった。

午前|異常は一つの店だけでは済まなくなっていく

朝に確認された異常を受け、5階では一部の店舗が営業を停止し、施設担当者らによる確認が行われた。

後年の事故ケーススタディでは、柱5E周辺を中心に床の変形や亀裂が確認されていたことが整理されている。

ここで重要なのは、

「何も異常がないと判断された」のではない

という点である。

実際に一部店舗を閉じるという対応が取られている以上、通常営業とは異なる状態にあることは認識されていた。

一方、建物全体の営業停止までは行われなかった。

下階では通常の百貨店営業が続き、客は売場を利用していた。

午前から昼|音と振動が加わる

事故当日に関する工学系ケーススタディや証言整理では、午前から昼にかけて、上階付近から異音や振動が感じられるようになった経過が記録されている。

こうした振動について、当初は屋上の空調設備などが原因ではないかと考えられた。

そのため、空調設備の運転を止めるなどの対応も行われたとされる。

原因が設備にあるのか、建物の構造そのものにあるのか。

当時の現場から見れば、最初から明確だったとは限らない。

しかし、

亀裂

変形

振動

と、異なる種類の異常が同時に現れ始めたことで、状況は単なる表面仕上げの問題では説明しにくくなっていた。

午後|床が「割れる」から「沈む」へ変わる

午後になると、異常はさらに進んだ。

国家記録院は、5階食堂の床が沈下し始めたと記録している。[2]

これは時系列上、大きな転換点である。

亀裂は材料内部で応力が高まっていることを示すが、床沈下は構造物の形そのものが変化していることを意味する。

第3回で見たフラットスラブ構造では、床版が柱へ直接荷重を渡している。

柱・スラブ接合部が損傷して床が下がれば、それまでその柱が受けていた荷重の一部が周囲の柱へ移る。

国家記録院も、

床の沈下によって床版荷重が隣接柱へ追加で伝わり、連鎖的なせん断破壊へ至った

と事故経過を整理している。[2]

午後|建物の問題が経営側の議題になる

午後には、建物の異常は現場担当者だけの問題ではなくなっていた。

技術者を含めた確認や経営側の会議が行われ、建物の状態と補修方法が検討されたことが、当時報道や後年の事故資料に残っている。

ここで第5回で扱った判断問題が発生する。

一部を閉鎖して補修するのか。

建物全体を閉鎖するのか。

客を即時に外へ出すのか。

原因をさらに確認してから判断するのか。

最終的に、百貨店全体を十分早い段階で空にする判断には至らなかった。

その間にも、構造物の状態は悪化し続けていた。

夕方|「補修を考える時間」から「避難する時間」へ

構造事故では、ある時点までは補修や支保工の設置を考えられる場合がある。

しかし損傷が進み、構造物が連続的に変形し始めれば、同じ対応を続けることはできない。

夕方の三豊百貨店では、その境界を越えつつあった。

床の沈下が進み、建物から異音が続き、上階にいた人々の中には自ら避難を始めた者もいたとする証言記録が残っている。

問題は、百貨店の利用者全体へ危険が共有される時点が遅かったことである。

建物の上階で何が起きているかを知らない客にとって、下階の売場は通常営業している百貨店に見える。

5階で構造物が限界へ近づいていても、地下階や下層階の客には、それを判断する情報がほとんどなかった。

崩壊数分前|ようやく避難が始まる

韓国国家記録院の「大規模崩壊事故」資料では、崩壊開始のわずか数分前になって非常ベルが鳴らされ、客の避難が始まったとされている。[1]

ここから先は、時間の尺度が変わる。

朝から午後までは「時間」単位で状況が進行していた。

崩壊直前になると、それが「分」単位になった。

多数の客と従業員がいる百貨店を、数分で完全に空にすることは困難である。

上階だけではない。

買い物中の客、飲食店利用者、従業員、地下売場にいた人々が、それぞれ現在位置から出口まで移動しなければならない。

非常ベルが鳴った時点で、構造物側にはそれだけの時間が残っていなかった。

17時52分か、17時55分か|資料で崩壊時刻が違う

FACT CHECK|崩壊時刻

三豊百貨店の崩壊時刻は、資料によって数分の差がある。

韓国国家記録院の事故別詳細ページでは、

1995年6月29日17時55分ごろ

とされている。

また、事故調査委員会報告を要約したGardnerらの査読論文も、

17:55

と記載している。

一方、国家記録院の「記録で見る大規模崩壊事故」ページでは17時52分ごろという記述もある。

本シリーズでは、事故別詳細記録と事故調査系論文が一致する17時55分ごろを本文の基準とし、分単位の記録差があることを併記する。

17時55分ごろ|柱と床の接合部が耐力を失う

事故調査委員会は、崩壊開始領域を5階レストラン部分の柱5E周辺とした。

Gardnerらの論文では、調査委員会が5階の柱5E接合部から崩壊が始まったと結論づけた一方、解析上は屋根スラブ側の5E接合部が先に破壊した可能性も示されている。[3]

したがって、

「最初の一瞬に5階側と屋根側のどちらが先だったか」

には技術的な留保が残る。

しかし全体としては、柱5E周辺の柱・スラブ接合部が崩壊開始領域だったことが強く支持されている。

接合部が耐力を失うと、その床版を支えていた柱は荷重を受け持てなくなる。

しかし床の重量そのものは消えない。

行き場を失った荷重は、隣の柱や床版へ再配分される。

数秒後|一つの破壊が隣へ伝わる

国家記録院は、食堂床の沈下によって各床版の荷重が隣接柱へ追加で伝わり、連鎖的なせん断破壊が発生したと整理している。[2]

第3回で説明したパンチングせん断が、一つの接合部だけで止まらなかった。

柱Aが支えられなくなる。

荷重が柱B・Cへ移る。

もともと余裕の小さいB・Cも耐力を失う。

さらに広い床版が支持を失う。

という形で崩壊範囲が拡大していく。

構造工学では、このように局所的な損傷が周囲へ波及して建物の広い範囲を失わせる現象を進行性崩壊という。

床版が落下すると、今度は「静かな荷重」ではなくなる

通常時、建物の床は自重や人、設備などを静的な荷重として支えている。

しかし上階の床版が落下すると、状況は変わる。

数百トン規模の構造物が高さを持って落下すれば、下階には自重以上の衝撃荷重が加わる。

その下の床は、通常使用時に想定される荷重を受けているのではない。

上から落下してきた床、商品、設備、人、瓦礫を一度に受ける。

そこで下階も耐えられなくなる。

一階分落ちる。
その床が次の床へ衝突する。
さらに下へ落ちる。

こうして鉛直方向にも崩壊が広がった。

約20秒|A棟が消えるまで

国家記録院は、A棟が約20秒で崩壊したと記録している。[1]

20秒という時間は、事故の映像を見るより数字で考えた方が短さを実感しやすい。

異常を認識する。
周囲を見る。
出口の方向を判断する。
人混みの中を移動する。
階段へ向かう。

それだけで20秒を超える。

まして地下階や建物中央部から安全圏まで移動することはできない。

つまり、構造崩壊が始まったあとに利用者個人の判断で被害を大きく減らす余地は極めて小さかった。

人命を守れる時間は、崩壊開始後の20秒ではなく、その数時間前に存在していた

崩壊直後|現場は「建物事故」から「都市災害」へ変わった

A棟の崩壊によって大量の瓦礫と粉じんが発生した。

道路には負傷者、避難者、救急車、消防車、警察、報道関係者、周辺住民が集中した。

建物内部では多数の人が瓦礫の下に取り残されていた。

ここから事故の性質は変わる。

崩壊前までは、

建物を止める事故

だった。

崩壊後は、

生存者を探し出す災害

になる。

国家記録院は、初期救助について、現場への多数の人員流入、交通統制の不十分さ、設計図面情報の不足などが救助活動を難しくしたと記録している。[2]

それでも、この瓦礫の内部から事故後10日以上が経過して生存者が救出されることになる。

その過程は第7回で扱う。

6月29日の時間軸を4つに分ける

一日の出来事を、建物側と人間側に分けて整理すると次のようになる。

段階 建物 管理側 利用者
亀裂が顕在化 現場確認・一部閉鎖 百貨店は営業
異音・振動・変形 設備停止・技術確認 大部分は通常利用
午後 床沈下が進行 対応・補修を検討 多数が建物内
夕方 接合部が限界へ 避難開始 避難時間が不足
17時55分ごろ 進行性崩壊 対応不能 多数が取り残される

この表から分かるのは、建物と人間の時間軸がずれていたことである。

建物側では、朝から夕方へ向けて異常が強くなっている。

しかし人間側では、対応が同じ速度で強化されていない。

一部閉鎖。
設備停止。
確認。
会議。

と段階的に対応している間にも、構造物側は限界へ近づいていた。

「どの時点なら止められたのか」は一つに決められない

事故後には、

「朝8時05分に避難させていればよかった」

「午後の会議で閉店すべきだった」

と、ある一つの時刻を事故回避点として選びたくなる。

しかし実際の安全判断は、それほど単純ではない。

8時05分の亀裂だけで全館崩壊を予測できたのか。

どの時点で床沈下が構造上の重大異常だと判断できたのか。

専門家が得ていた情報は何だったのか。

資料にはなお検討すべき部分が残る。

一方で明確なのは、時間が進むにつれて、

「安全である」と判断するために必要な根拠は弱くなり、「使用を止めるべき根拠」は増えていた

ことである。

この事故の時間的な本質|20秒の崩壊に、約10時間の前段階があった

三豊百貨店の崩壊そのものは非常に短かった。

約20秒。

しかし、その20秒だけを事故だと考えると、本質を見失う。

8時05分ごろ、床に亀裂が現れる。

その後、異音と振動が加わる。

午後には床が沈む。

技術者や管理側が異常を確認する。

それでも建物内には多数の客が残る。

そして夕方、ようやく避難が始まったあと、構造物側が先に限界を迎える。

つまり、

三豊百貨店事故は「20秒で起きた事故」ではない。

崩壊までの約10時間、さらに言えば数か月前から続く前兆の中で、安全を回復する機会が少しずつ失われていった事故だった。

次回|崩壊後、瓦礫の下で何が起きていたのか

17時55分ごろで、建物の時間軸はいったん終わる。

しかし人の時間軸は終わらなかった。

崩れた床版の間には、小さな空間が残った。

水も食料もほとんどない状態で、生存者は救助を待った。

地上では、二次崩壊の危険がある瓦礫の中へ救助隊が入った。

事故後10日以上が経過しても、生存者は発見された。

そして17日目。

最後の生存者が瓦礫の中から救出される。

次回は、三豊百貨店崩壊事故を「どう壊れたか」から「どう救ったか」へ切り替え、初動救助、捜索、生存空間、長期生存者、そして約377時間後の救出までを追う。

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第5回|崩壊の前兆はどこまで見えていたのか|ひび割れ、床沈下、それでも続いた営業

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第7回|瓦礫の下で続いた17日間|三豊百貨店の救助活動と最後の生存者

CASE FILE 13|全10回

  1. 第1回|三豊百貨店崩壊事故とは?|営業中の百貨店はなぜ崩れたのか
  2. 第2回|三豊百貨店はどう建てられたのか|用途変更・増築・繰り返された設計変更
  3. 第3回|三豊百貨店の建物構造|無梁板・柱・スラブは荷重をどう支えていたのか
  4. 第4回|なぜ建物の余裕は失われたのか|5階・冷却塔・改修と積み重なった荷重
  5. 第5回|崩壊の前兆はどこまで見えていたのか|ひび割れ、床沈下、それでも続いた営業
  6. 第6回|現在の記事:1995年6月29日、三豊百貨店で何が起きたのか|朝の異常から崩壊まで
  7. 第7回|瓦礫の下で続いた17日間|三豊百貨店の救助活動と最後の生存者
  8. 第8回|捜査は何を崩壊原因と認定したのか|設計・施工・維持管理を検証する
  9. 第9回|誰が三豊百貨店崩壊の責任を問われたのか|経営陣・建設関係者・公務員の裁判
  10. 第10回|三豊百貨店崩壊事故のあと何が変わったのか|安全点検・災害管理・制度改革

出典・参考資料

本記事は韓国国家記録院の事故別記録を時系列の基準とし、事故調査委員会を整理した構造工学論文、後年の事故原因再検証を補助的に照合して構成しています。崩壊時刻については国家記録院内でも「17時52分ごろ」と「17時55分ごろ」の表記差があるため、本記事では事故別詳細記録およびGardnerらの論文が一致する17時55分ごろを基準としました。午前・午後の会議や個々の証言に基づく細かな分単位の時刻は資料差が大きいため、確度の低い時刻を断定せず、「午前」「昼前後」「午後」「夕方」と幅を持たせています。

瓦礫の下で続いた17日間|三豊百貨店の救助活動と最後の生存者

建築・構造物事故

1995年6月29日17時55分ごろ、三豊百貨店A棟が崩壊した。

ここまでの第2回から第6回では、設計変更、構造、荷重、崩壊前の警告、そして約20秒の進行性崩壊までを追ってきた。

しかし、建物が崩れた時点で事故が終わったわけではない。

積み重なった床版、折れた柱、鉄筋、商品、設備。その内部には、完全には押し潰されず、人が横たわれるだけの小さな空間が残っていた。

地上では救助隊が瓦礫を取り除き、声や物音を探した。

事故から51時間後には、地下に取り残されていた環境美化員24人がまとまって救出された。その後、生存者が見つからない期間が続いたが、事故11日目には約230時間、13日目には約285時間、そして17日目には約377時間にわたって閉じ込められていた生存者が相次いで発見された。

MBCが事故17日目にまとめた救助記録では、三豊百貨店の瓦礫から合計38人が生存状態で救出されたとされている。[1]

第7回では、この17日間を「奇跡の生還」という言葉だけで終わらせない。

なぜ瓦礫の中に生存できる空間が残ったのか。救助隊は何に苦戦したのか。なぜ10日以上経過したあとも捜索を続ける意味があったのか。

救助する側と、閉じ込められた側の両方から見ていく。

CASE FILE 13|三豊百貨店崩壊事故特集(全10回)

第6回では、1995年6月29日の朝から17時55分ごろの崩壊までを一本の時間軸で再構成した。

第7回は、その直後から始まる。

  1. 第1回|三豊百貨店崩壊事故とは?|営業中の百貨店はなぜ崩れたのか
  2. 第2回|三豊百貨店はどう建てられたのか|用途変更・増築・繰り返された設計変更
  3. 第3回|三豊百貨店の建物構造|無梁板・柱・スラブは荷重をどう支えていたのか
  4. 第4回|なぜ建物の余裕は失われたのか|5階・冷却塔・改修と積み重なった荷重
  5. 第5回|崩壊の前兆はどこまで見えていたのか|ひび割れ、床沈下、それでも続いた営業
  6. 第6回|1995年6月29日、三豊百貨店で何が起きたのか|朝の異常から崩壊まで
  7. 第7回|現在の記事:瓦礫の下で続いた17日間|三豊百貨店の救助活動と最後の生存者
  8. 第8回|捜査は何を崩壊原因と認定したのか|設計・施工・維持管理を検証する
  9. 第9回|誰が三豊百貨店崩壊の責任を問われたのか|経営陣・建設関係者・公務員の裁判
  10. 第10回|三豊百貨店崩壊事故のあと何が変わったのか|安全点検・災害管理・制度改革

先に結論|長期生存を可能にしたのは「瓦礫の中に残った空間」だった

三豊百貨店で長期間生存した人々には、共通する条件があった。

完全に圧壊した場所ではなく、落下した床版や柱、エスカレーター、設備などが偶然支え合い、身体が収まる空隙=ボイドが残っていたことである。

事故17日後のMBCの救助現場報道も、長期生存したチェ・ミョンソク、ユ・ジファン、パク・スンヒョンの3人はいずれも、崩れた構造物の間に身体を保持できる空間を確保していたことを指摘している。[2]

重要なのは、「瓦礫の下」という言葉から想像する状態が一様ではないことだ。

ある場所では床版同士が密着して押し潰される。

別の場所では、柱や梁、設備がつっかえ棒のようになり、数十cmから1m程度の隙間ができる。

三豊百貨店の生存者は、その限られた空間の中にいた。

崩壊直後|救助隊が直面したのは巨大な立体パズルだった

進行性崩壊したA棟では、上階の床版が下階へ次々と落下した。

その結果、事故現場は単純な瓦礫の山にはならなかった。

厚いコンクリート床版が斜めに重なり、その間に柱、鉄筋、エスカレーター、商品棚、設備、配管などが入り込んだ。

救助するには、それらを取り除かなければならない。

しかし、重機で上から順番に壊せばよいわけではない。

一枚の床版を不用意に動かすと、それが支えていた別の瓦礫が沈み、その下に残っている空隙を押し潰す可能性がある。

つまり救助隊は、


速く掘る
しかし
生存空間を壊さない

という相反する条件の中で作業しなければならなかった。

韓国国家記録院は初期救助について、現場への人員集中、交通統制の不足、建物図面の不足などが活動を難しくしたと整理している。崩壊した建物の内部構造を正確に把握する情報が十分でないことも、救助側にとって大きな問題だった。[3]

事故直後から数日|生存者は次々と発見された

崩壊直後から救助作業は夜を徹して続けられた。

最初の数日間には、地下階を中心に複数の生存者が救助された。

特に大きかったのが、事故発生から約51時間後の7月1日である。

A棟地下3階にあった環境美化員の更衣室付近から、清掃業務に従事していた24人がまとまって救助された。MBCの事故経過整理では、7月1日だけで27人が救出されたとしている。[4]

崩壊から2日以上が経過しても、多数の人が生きていることが確認された。

これは救助側に、

建物内部にはまだ比較的大きな生存空間が残っている

という情報を与えた。

71時間後|救出されても助かるとは限らなかった

一方、瓦礫から生きて出られれば必ず回復できるわけではない。

7月2日には、三豊百貨店でアルバイトをしていたイ・ウンヨンが、事故から約71時間後に生存状態で救助された。

しかしMBCの事故経過では、救出から約2時間30分後に死亡したと記録されている。[4]

長時間の圧迫、脱水、外傷、低体温、循環状態など、瓦礫下で身体が受ける影響は人によって大きく異なる。

この出来事のあと、生存者が見つからない期間が続いた。

現場では遺体の収容が増え、「これ以上の生存者はいないのではないか」という見方も強くなっていった。

それでも捜索は続いた。

事故11日目|約230時間後、チェ・ミョンソクを発見

状況が変わったのは7月9日だった。

事故発生日を1日目として数えると11日目

実際の埋没時間では約230時間だった。

A棟中央部に近い地下1階、エスカレーター付近の瓦礫から、アルバイト従業員だったチェ・ミョンソクの声が確認された。[5]

彼がいたのは、重なった床版の間に形成された約1.3mほどの空隙だったとMBCは報じている。完全に立ち上がれる空間ではなかったが、身体全体が押し潰されることを防いだ。[6]

救助隊は、声だけを頼りに重機で掘り進んだわけではない。

長い棒を差し込んで本人に握らせ、位置と反応を確認した。そこから酸素溶接機や削岩機を使い、コンクリートの間に救出経路を作った。

発見から救出までにも約1時間40分を要した。作業中に周囲の瓦礫が崩れれば、生存者自身を傷つける危険があったためである。[5]

約230時間後の生存者発見は、現場の前提を変えた。

事故から10日近くが経過したあとでも、まだ生存者がいる可能性が現実のものになったからである。

「11日後」ではなく「事故11日目」|日数表現に注意

FACT CHECK|230時間は11日なのか

当時の韓国報道では、チェ・ミョンソクについて「事故11日目に救出」と表現されている。

ただし、230時間を24で割ると約9日14時間である。

これは矛盾ではない。

韓国報道の「11日目」は、6月29日を第1日として暦日を数えた表現である。

同様に、

  • チェ・ミョンソク:事故11日目/約230時間
  • ユ・ジファン:事故13日目/約285時間
  • パク・スンヒョン:事故17日目/約377時間

と整理する。

本記事では、報道上の日数と実際の経過時間を併記する。

事故13日目|約285時間後、わずか30cmの空間からユ・ジファンを救出

チェ・ミョンソクの救出から約2日後の7月11日。

今度は、すぐ近くの地下1階中央エスカレーター付近から、ユ・ジファンの生存が確認された。

埋没時間は約285時間

事故発生日から数えると13日目だった。[7]

ユ・ジファンがいた空間はさらに狭かった。

MBCが本人の証言と現場確認をもとに再現したところ、長さは約1.5m、空間の高さはわずか約30cmだった。身体を起こすことはできず、姿勢を変えることさえ難しい空間だった。[8]

頭上には重なったコンクリート床版があり、その上にはエスカレーターの鋼製部材もあった。

それらが完全に落ち切らず、わずかな隙間を残したことが、結果として身体を直接圧壊から守った。

雨が降れば、瓦礫の中まで水が届いたのか

長期生存については、「雨水を飲んで生き延びた」という説明も見られる。

しかしユ・ジファン本人の当時証言では、外で雨が降っている音は分かったものの、厚いコンクリートに遮られ、雨水が生存空間へ容易に入ってきたわけではなかった。[8]

したがって、三豊百貨店の長期生存者全員について、

「雨水を飲めたから助かった」

と共通原因にすることはできない。

チェ・ミョンソクは救出直後、水について言及している一方、パク・スンヒョンについて当時MBCは「水のない空間」で生き延びたと報じている。[5][9]

個々の生存者が実際にどの程度の水分を摂取できたのかは、資料だけでは完全には確定できない。

この点は、「17日間、水を一滴も飲まずに生きた」といった強い表現へ単純化しない方がよい。

長期生存に必要だった4つの条件

災害時に瓦礫の下で長期間生存できるかは、一つの要因だけでは決まらない。

三豊百貨店の生存例と、後年に専門家が整理した一般的な条件を重ねると、少なくとも次の4点が重要になる。

条件 意味
生存空間 胸部・頭部が圧迫されず、呼吸できる空隙が残る
空気 完全密閉されず、外部とわずかでも通気がある
水分 脱水の進行速度に大きく影響する
外傷の程度 大出血や致命的な圧迫損傷がないこと

聯合ニュースが後年、過去の長期生存事例を医学的観点から整理した記事でも、特に水分を確保できるか、身体を保持できる空間があるかが重要とされている。[10]

三豊百貨店の長期生存者では、少なくとも「身体が完全に圧壊されない空間」が共通していた。

なぜ床版の崩壊で空隙ができたのか

三豊百貨店の進行性崩壊は、多数の床版がほぼ水平に落下する形を含んでいた。

しかし床版は完全に平行なまま重なったわけではない。

柱、エスカレーター、壁、設備、商品棚などが途中に挟まり、一部の床版は傾いた。

すると、

上の床版

 空間

下の床版

のように、三角形や楔形の隙間が生まれる。

チェ・ミョンソクの空間は、当時MBCが「笠のような形」と表現する約1.3mの隙間だった。ユ・ジファンの場合は高さ約30cm、パク・スンヒョンの場合は天井と柱・床版の間に身体を横たえられる空間が残った。[6][8][9]

ここは第3回で扱った「進行性崩壊」と表裏の関係にある。

建物にとっては壊滅的な連鎖崩壊だった。

しかし均一に押し潰されなかった結果、局所的には人が生きられる空隙も残った。

救助側にとって、生存空間は同時に「壊してはいけない構造」だった

生存空間があると分かっても、救出は簡単ではない。

瓦礫の隙間は、周囲の構造物が微妙に支え合って成立している。

上にあるコンクリートを一枚持ち上げる。
鉄筋を一本切断する。
重機で瓦礫を引く。

それだけで荷重バランスが変わり、生存者のいる空間が潰れる可能性がある。

7月9日のチェ・ミョンソク救出では、救助隊は削岩機や溶接機を使いながら救出通路を作ったが、途中には周囲の瓦礫が本人へ落下する危険もあった。[5]

つまり救出作業は、

瓦礫を除去する作業

ではなく、

現在の不安定な力の釣り合いを保ちながら、人が通れる経路だけを作る作業

だった。

事故17日目|最後の生存者、パク・スンヒョン

7月15日。

事故発生日から数えて17日目。

ユ・ジファンが救出されてからさらに4日が経過していた。

午前10時55分ごろ、A棟南側の地下1階付近で瓦礫撤去をしていた重機作業員が、床材を取り除いた際、小さな穴を発見した。

穴は高さ約10cm、幅約30cm。

その奥から人の存在が確認された。[11]

取り残されていたのは、地下1階の子ども服売場で働いていたパク・スンヒョンだった。

事故から約377時間

当時MBCは、韓国内で確認された長時間埋没後の救出記録として報じている。[12]

パク・スンヒョンの空間|約1.5m四方、高さ約50cm

MBCの当時報道では、パク・スンヒョンの生存空間は、およそ縦横1.5m、高さ約50cmとされている。[12]

事故発生時、地下1階から逃げようとしたが、10mも進まないうちに崩落に巻き込まれた。

意識を取り戻したとき、落下した天井部分と周辺構造物によって作られた狭い空間に横たわっていたという。[9]

周囲には他の被災者の声もあった。

しかし時間が経つにつれ、その声は少なくなっていったと当時の報道は伝えている。

暗闇の中では時計も外光もなく、何日経ったのかを判断することも難しかった。

10時55分に発見、11時15分ごろ救出

パク・スンヒョンがいた空間へつながる穴を確認したあと、救助隊は慎重に開口部を広げた。

MBCの現場記録では、空間内部のコンクリートと鉄筋が救出経路を完全には塞いでいなかったため、作業は比較的早く進んだ。

本人の生存を確認すると水が渡され、身体を保護するための毛布も入れられた。

そして11時15分ごろ、救出された。[11]

事故から約377時間。

しかし「377時間」という数字だけを見ると、一つ重要な点を見落とす。

彼女は377時間後に突然生き返ったのではない。

その間ずっと、瓦礫の中の小さな空間で生存し続けていた。

FACT CHECK|17日間、本当に水を一滴も飲んでいなかったのか

パク・スンヒョンについて当時のMBC報道は「水のない状態で377時間を生き延びた」と伝えている。

一方、人間の水分摂取量を瓦礫内部で後から正確に測定することはできない。

ごく少量の水分が何らかの経路で入った可能性まで完全に排除する資料も確認できない。

したがって、

「17日間、一滴の水も口にしなかったことが医学的に証明された」

とまでは書かない。

確認できるのは、通常の飲料水や食料を確保できない極めて厳しい環境に長期間閉じ込められていたこと、救出直後に水を求めたと当時報道されていることである。

3人の長期生存者を比較する

生存者 救出日 報道上の日数 埋没時間 生存空間
チェ・ミョンソク 7月9日 事故11日目 約230時間 地下1階、約1.3mの笠状の空隙
ユ・ジファン 7月11日 事故13日目 約285時間 長さ約1.5m、高さ約30cm
パク・スンヒョン 7月15日 事故17日目 約377時間 約1.5m四方、高さ約50cm

3人の空間は同じではない。

水分を得られた条件も同じではない。

負傷状態も異なる。

それでも共通しているのは、コンクリート同士が完全に密着せず、呼吸できる空間が残っていたことである。

「72時間を超えたら生存者はいない」は絶対的な期限ではない

大規模災害では、発生後72時間が人命救助の一つの目安として語られることが多い。

これは時間が経過するほど、重傷、脱水、低体温などによって生存可能性が低下するためである。

しかし72時間を過ぎた瞬間に、生存確率がゼロになるわけではない。

三豊百貨店はその典型例になった。

約230時間。
約285時間。
約377時間。

10日以上が経過したあとにも、生存者は存在していた。

この事実は、

「統計的に可能性が低い」ことと、「この瓦礫の中に生存者がいない」ことは同じではない

ことを示している。

救助を続ける判断もまた、SYSTEMの一部だった

三豊百貨店では、時間が経つほど現場の状況は厳しくなった。

遺体の収容が続く。

夏の暑さと雨が作業環境を悪化させる。

大量の瓦礫を撤去しなければならない。

重機を使えば作業は速いが、生存空間を壊す危険もある。

それでも捜索を完全な瓦礫撤去へ切り替えず、生存者の可能性を残して作業を続けたことが、後半の3人の発見につながった。

7月13日のMBC現場報道では、重機8台でコンクリートを撤去しながら、救助隊員が懐中電灯で隙間を確認する作業が続いていた。[13]

つまり、救助活動では、

大量撤去

細部確認

という二つを併用しなければならなかった。

生存者38人という数字が示すもの

MBCの17日間の救助記録では、三豊百貨店の瓦礫から生存状態で救助された人は38人と整理されている。[1]

この数字には、事故直後から数日のうちに救助された人と、10日以上を経て救助された人の両方が含まれる。

注目されやすいのは最後の3人だが、救助活動の全体像を考えるなら、初期段階で多数を救出した活動も同じように重要である。

特に地下3階の24人は、ある程度まとまった生存空間が残ったことで、50時間以上が経過したあとも集団で救出された。

一方、後半になるほど、救助対象は広い空間から瓦礫の間に残る数十cm単位の空隙へ変わっていった。

「奇跡」では説明できない

当時の報道は、230時間、285時間、377時間の救出を繰り返し「奇跡」と表現した。

社会的な感覚としては理解できる。

しかし事故を検証する記事では、それだけで終わらせるべきではない。

生存には、

  • 身体を押し潰さない空隙
  • 呼吸できる空気
  • 致命傷を負わなかったこと
  • 極端な温度環境でなかったこと
  • 水分条件
  • 救助作業がその場所まで到達したこと

が関係する。

つまり結果は非常に稀だったが、物理的条件のない場所から人が突然生還したわけではない。

崩壊した建物の内部に、偶然残った生存可能な空間を、救助隊が見つけるまで失わなかった。

そこに長期生存の構造がある。

救助活動から見えた、別の三豊百貨店の問題

救助活動を見ると、事故前とは別のSYSTEM上の問題も見えてくる。

設計・施工段階では、図面と実物の違いが問題になった。

事故後には、その図面情報の不足が救助側にも影響した。

どこに柱があるのか。
地下階の区画はどうなっているのか。
エスカレーターや設備はどこにあるのか。
どこに大きな空間が残る可能性があるのか。

完成した建物の正確な情報が管理されていれば、災害時にも利用できる。

第2回で扱った「設計図と実物の差」は、崩壊原因だけの問題ではなかった。

事故後の救助にもつながる情報管理の問題だった。

17日目で、生存者救助の時間軸はいったん終わった

7月15日、パク・スンヒョンが救出された。

事故から約377時間。

その後も生存者の可能性を考慮した捜索は続いたが、彼女が三豊百貨店崩壊事故で最後に救出された生存者となった。

崩壊から17日間。

その間に救助活動は、

多数を短時間に救う段階

瓦礫内部を捜索する段階

ごく小さな生存空間を探す段階

へ変化していった。

一方で現場では、救助と並行してもう一つの作業が進んでいた。

なぜ建物は崩れたのかを調べること。

コンクリートを採取する。

鉄筋位置を測る。

設計図を集める。

柱の寸法を確認する。

構造計算をやり直す。

建設・改修・維持管理の記録を追う。

次回は救助現場から事故調査へ視点を移す。

第3回と第4回で見てきた構造上の問題は、事故後の捜査と技術調査によってどのように確認され、最終的に「何が崩壊原因だった」と整理されたのか

第8回では、設計・施工・維持管理を一つの因果関係として検証する。

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第6回|1995年6月29日、三豊百貨店で何が起きたのか|朝の異常から崩壊まで

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第8回|捜査は何を崩壊原因と認定したのか|設計・施工・維持管理を検証する

CASE FILE 13|全10回

  1. 第1回|三豊百貨店崩壊事故とは?|営業中の百貨店はなぜ崩れたのか
  2. 第2回|三豊百貨店はどう建てられたのか|用途変更・増築・繰り返された設計変更
  3. 第3回|三豊百貨店の建物構造|無梁板・柱・スラブは荷重をどう支えていたのか
  4. 第4回|なぜ建物の余裕は失われたのか|5階・冷却塔・改修と積み重なった荷重
  5. 第5回|崩壊の前兆はどこまで見えていたのか|ひび割れ、床沈下、それでも続いた営業
  6. 第6回|1995年6月29日、三豊百貨店で何が起きたのか|朝の異常から崩壊まで
  7. 第7回|現在の記事:瓦礫の下で続いた17日間|三豊百貨店の救助活動と最後の生存者
  8. 第8回|捜査は何を崩壊原因と認定したのか|設計・施工・維持管理を検証する
  9. 第9回|誰が三豊百貨店崩壊の責任を問われたのか|経営陣・建設関係者・公務員の裁判
  10. 第10回|三豊百貨店崩壊事故のあと何が変わったのか|安全点検・災害管理・制度改革

出典・参考資料

  • MBC Newsdesk — 「三豊崩壊事故発生から17日間の生存者救助記録」(1995年7月15日)

    17日間で生存状態で救助された人数を38人とする整理、51時間後の環境美化員24人、230時間・285時間・377時間の長期生存者の時系列確認に使用。
  • MBC Newsdesk — 「三豊百貨店崩壊現場、生存空間を探して救助活動」(1995年7月17日)

    チェ・ミョンソク、ユ・ジファン、パク・スンヒョンの長期生存に、瓦礫内部へ残った身体を保持できる空間が共通していたことの確認に使用。
  • 韓国国家記録院 — 「삼풍백화점 붕괴사고」

    崩壊後の初期救助、現場統制、交通、人員集中、建物図面情報の不足など、救助活動全体の公的整理に使用。
  • MBC Newsdesk — 「三豊百貨店崩壊惨事以降の救助過程」(1995年7月11日)

    事故後の生存者救出経過、51時間後の環境美化員24人、7月1日の計27人、71時間後に救出された生存者の死亡、230時間・285時間の救出について確認。
  • MBC Newsdesk — 「三豊崩壊事故11日目、チェ・ミョンソク救出」(1995年7月9日)

    約230時間後の発見、棒による反応確認、削岩機・溶接機を使った約1時間40分の救出作業、救出時の状態確認に使用。
  • MBC Newsdesk — 「地下1階の笠状の空間でチェ・ミョンソクが230時間生存」(1995年7月9日)

    地下1階で重なった床版の間に約1.3mの生存空間が形成されていたことの確認に使用。
  • MBC Newsdesk — 「地下1階から救出されたユ・ジファン」(1995年7月11日)

    地下1階中央エスカレーター付近で13日目、約285時間後に生存確認・救助された経過の確認に使用。
  • MBC Newsdesk — 「高さ30cm・長さ1.5mの空間で285時間」(1995年7月11日)

    ユ・ジファンの生存空間寸法、外の雨音は認識していたが雨水が容易には入らなかったこと、通気のある狭い空間で生存していた状況の確認に使用。
  • MBC Newsdesk — 「パク・スンヒョン、暗闇の377時間」(1995年7月15日)

    地下1階で逃走中に崩落へ巻き込まれ、天井・構造物の間に残った狭い空間で長期間生存したこと、当時の本人証言を基にした状況整理に使用。
  • 聯合ニュース — 「災害後の生存期間は? 三豊事故では17日」(2011年3月19日)

    三豊百貨店の230時間・285時間・377時間の生存例と、一般に瓦礫下の生存で水分・生存空間・体温等が重要になるという専門家整理の確認に使用。
  • MBC Newsdesk — 「17日目に救助されたパク・スンヒョン、発見から救出まで」(1995年7月15日)

    10時55分ごろの小開口発見、高さ約10cm・幅約30cmの入口、救助中の水・毛布供給、11時15分ごろの救出経過に使用。
  • MBC Newsdesk — 「377時間後に救出されたパク・スンヒョン」(1995年7月15日)

    約377時間という埋没時間、約1.5m四方・高さ約50cmと報じられた生存空間、事故17日目の救出記録に使用。
  • MBC Newsdesk — 「三豊百貨店崩壊現場、中央ホール集中救助」(1995年7月13日)

    長期化した現場で重機による瓦礫撤去と、救助隊による隙間確認を並行していた状況の確認に使用。

本記事は、1995年当時のMBC Newsdeskの救助記録を中心に、韓国国家記録院と聯合ニュースの後年整理を照合して構成しています。「事故11日目・13日目・17日目」は事故発生日を第1日として数えた暦日表現であり、実際の埋没時間は約230時間・285時間・377時間として区別しました。また、長期生存者の水分摂取については当時報道でも状況が一様ではないため、「全員が雨水で生存した」「17日間一滴も水を飲まなかったことが医学的に確定している」といった単純化は避けています。長期生存は、空隙、通気、外傷の程度、水分条件、救助作業が到達するまで空間が維持されたことなど複数条件の組み合わせとして扱っています。

捜査は何を崩壊原因と認定したのか|設計・施工・維持管理を検証する

建築・構造物事故

1995年6月29日、三豊百貨店A棟が崩壊した。

しかし事故直後の段階では、現在のように原因が整理されていたわけではない。

冷却塔が重すぎたのか。

コンクリートが弱かったのか。

柱が細かったのか。

5階を飲食店へ変更したことが原因なのか。

それとも、フラットスラブという構造形式そのものに問題があったのか。

多数の仮説を検証するため、事故現場では救助活動と並行して、構造部材の回収、材料試験、図面の確認、構造計算の再検討が始まった。

1995年7月25日、検警合同捜査本部は中間捜査結果を発表した。

さらに約4か月にわたる捜査と技術鑑定を経て、11月8日、ソウル地方検察庁は536ページに及ぶ「三豊百貨店崩壊事故捜査および原因究明鑑定団活動白書」をまとめた。

最終的な結論は、一つの欠陥を名指しするものではなかった。

建築・構造設計、施工、監理、用途変更、荷重、維持管理。

建物の一生に関わる複数の段階で問題が重なり、その結果として柱と床版の接合部が耐えられなくなった。

第8回では、第2回から第5回まで個別に見てきた問題を、事故後の捜査・鑑定結果から逆向きに組み立て直す。

CASE FILE 13|三豊百貨店崩壊事故特集(全10回)

ここまで、三豊百貨店の設計変更、フラットスラブ構造、追加荷重、崩壊前の警告、6月29日の時系列、17日間の救助活動を追ってきた。

第8回では、それらを事故後の調査がどのように評価したのかを整理する。

  1. 第1回|三豊百貨店崩壊事故とは?|営業中の百貨店はなぜ崩れたのか
  2. 第2回|三豊百貨店はどう建てられたのか|用途変更・増築・繰り返された設計変更
  3. 第3回|三豊百貨店の建物構造|無梁板・柱・スラブは荷重をどう支えていたのか
  4. 第4回|なぜ建物の余裕は失われたのか|5階・冷却塔・改修と積み重なった荷重
  5. 第5回|崩壊の前兆はどこまで見えていたのか|ひび割れ、床沈下、それでも続いた営業
  6. 第6回|1995年6月29日、三豊百貨店で何が起きたのか|朝の異常から崩壊まで
  7. 第7回|瓦礫の下で続いた17日間|三豊百貨店の救助活動と最後の生存者
  8. 第8回|現在の記事:捜査は何を崩壊原因と認定したのか|設計・施工・維持管理を検証する
  9. 第9回|誰が三豊百貨店崩壊の責任を問われたのか|経営陣・建設関係者・公務員の裁判
  10. 第10回|三豊百貨店崩壊事故のあと何が変わったのか|安全点検・災害管理・制度改革

先に結論|捜査が認定したのは「総体的な失敗」だった

1995年11月8日に公表された検察白書は、三豊百貨店事故について、

建築・構造設計、施工、維持管理など、建築過程全般にわたる複合的な不備による事故

と最終的に整理した。

つまり、

「冷却塔が原因」
「柱が細かったから」
「コンクリートが弱かったから」

という一つの説明では足りない。

事故原因を分解すると、少なくとも次の4層に整理できる。

主な内容
直接的な崩壊メカニズム 柱・スラブ接合部のせん断破壊と進行性崩壊
構造耐力を下げた要因 柱寸法、鉄筋、ドロップパネル、施工品質など
要求荷重を増やした要因 5階用途変更、床・壁、屋根仕上げ、冷却塔など
事故を防げなかった管理要因 設計変更、監理、維持管理、前兆への対応

この4つは、別々の事故原因ではない。

一つの因果関係の中にある。

事故調査は何を調べたのか

崩壊原因を再検証したTae Won Parkの研究では、事故後の技術調査は大きく4種類に整理されている。

  1. 崩壊現場と地盤状態の調査
  2. 現場から採取したコンクリート・鋼材の強度試験
  3. 設計図書と施工・維持管理記録の検討
  4. 構造解析

つまり、瓦礫を見て「施工が悪そうだ」と判断したわけではない。

図面ではどう設計されていたのか。

構造計算ではどの寸法を使っていたのか。

実際の柱はどの大きさだったのか。

鉄筋はどこへ配置されていたのか。

コンクリートはどの程度の強度を持っていたのか。

完成後にどのような変更が行われたのか。

それらを照合して崩壊を再現していった。

調査には大きな制約があった|救助と証拠保存は両立しにくい

ただし、事故現場を理想的な状態で保存することはできなかった。

瓦礫の下には多数の被災者がいた。

最優先すべきなのは、当然ながら救助と遺体収容である。

そのため重機で瓦礫を取り除き、コンクリート床版や柱を移動させる必要があった。

Parkは後年の研究で、救助活動と現場整理のため、事故現場そのものを調査用に完全保存することはほぼ不可能だったと述べている。

そこで調査側は、回収された柱・スラブ・鉄筋、事故前の写真、設計図書、構造計算書、施工記録など複数の証拠を組み合わせる必要があった。

この点は重要である。

三豊百貨店事故には非常に詳細な調査結果が残っているが、崩壊開始の「最初の一瞬」まで映像のように完全再現できるわけではない。

直接的な崩壊メカニズム|柱と床版の間で何が起きたのか

検察の中間捜査結果では、5階と屋上の過大荷重が、施工上の問題を抱えた柱・スラブ部分へ作用し、柱とスラブの間でせん断破壊が発生したことが崩壊の直接的なメカニズムとして整理された。

三豊百貨店は大きな梁を使わず、床版を柱が直接支えるフラットスラブ系の構造だった。

この形式では、柱周辺の床版へ大きなせん断力が集中する。

限界を超えると、柱が床を押し抜くようなパンチングせん断が発生する。

そして一つの接合部が支えを失えば、そこが負担していた荷重が周囲の柱へ移る。

隣の柱も余裕を失っていれば、次の接合部が壊れる。

これが連鎖し、A棟の大規模な進行性崩壊へ発展した。

原因1|構造計算書と実際の設計が違っていた

事故後の捜査で、最も重要な発見の一つが構造計算書と設計図の不一致だった。

1995年7月の検察捜査では、A棟4階・5階のエスカレーター周辺にある複数の円形柱について、構造計算上は、

直径800mm・主鉄筋16本

とされていたのに対し、設計・施工図では、

直径600mm・主鉄筋8本

となっていたことが確認された。

実際の柱も、600mm側の設計に従って施工されていた。

つまりこの問題は、

「施工者が800mmの図面を無視して600mmにした」

という単純な施工ミスではない。

構造計算で必要とされた条件が、設計図へ適切に反映されていなかった。

設計段階から確認系統が機能していなかったことになる。

80cmから60cm|数字以上に大きい差

直径800mmから600mmへの変更は、直径だけなら25%の縮小である。

しかし円形柱の断面積で比較すると、

600² ÷ 800² = 0.5625

となる。

つまり断面積は、800mm柱の約56%

約44%小さくなる。

さらにフラットスラブでは、柱周囲の長さそのものがパンチングせん断耐力に関係する。

柱が小さくなれば、床から柱へ荷重を渡す領域も小さくなる。

このため柱径の違いは、柱の圧縮性能だけでなく、柱・スラブ接合部の耐力にも影響した。

原因2|ドロップパネルが設計どおりではなかった

柱と床版の接合部を強くするため、フラットスラブ構造では柱周辺だけ床を厚くするドロップパネルが使われる。

検察は事故現場から回収した部材と事故直前の写真を調査し、崩壊開始領域とされた5階食堂付近の柱の一つで、ドロップパネルが存在しなかったことを確認した。

別の箇所でも、本来15cmの増厚が必要だった部分が、実際には6~9cm程度しか施工されていなかったことが捜査で確認されている。

ドロップパネルが薄い、あるいは存在しなければ、柱周辺の床版有効せいが小さくなる。

その結果、パンチングせん断に対する余裕が低下する。

ここでも重要なのは、

「ドロップパネルが一か所なかったから全壊した」

という読み方ではない。

すでに柱径、鉄筋、荷重など他の条件も不利になっていた。

原因3|床版の鉄筋位置が深すぎた

調査では、スラブ上部の鉄筋位置にも問題が確認された。

本来、柱周辺では上側鉄筋が床表面に比較的近い位置へ配置され、負曲げに抵抗する必要がある。

しかし検察捜査では、床表面から3~4cm程度の位置が想定されていた鉄筋が、実際には6~10cm程度の深さへ配置されていた部分が確認された。

鉄筋が内部へ沈むと、外から見た床厚が同じでも、構造計算上有効に働く有効せいが小さくなる。

Gardnerらの再計算では、設計上410mmだった有効せいが、実際には約360mmになっていたと整理されている。

これも、柱・床版接合部のせん断耐力を小さくする方向へ働いた。

原因4|コンクリート強度は設計値より低かった

事故現場から回収されたコンクリートについても試験が行われた。

Gardnerらが事故調査委員会結果から整理した値では、設計圧縮強度は21MPaだったのに対し、崩壊した北側部分の平均値は約18MPaだった。

ただし、ここは誤解しやすい。

「18MPaだったから建物が崩れた」わけではない。

構造物には通常、安全余裕がある。

コンクリート強度が設計値を多少下回っていても、それだけで即座に崩壊するとは限らない。

しかし、

柱が小さい。
有効せいが小さい。
鉄筋位置が悪い。
ドロップパネルに問題がある。
さらに荷重が増えている。

という状態であれば、コンクリート強度低下も同じ方向へ安全余裕を削る。

原因5|5階は構造計算なしに飲食店街へ変えられた

第4回で詳しく扱ったように、5階は当初ローラースケート場として計画されていた。

しかし実際には飲食店街へ変更された。

レンガ壁、床仕上げ、設備、庭園などが追加され、固定荷重が増加した。

検察の1995年7月25日の中間捜査結果では、この用途変更について、十分な構造計算を行わないまま変更されたことが問題として挙げられた。

事故調査委員会を整理したGardnerらは、用途変更によって5階固定荷重が当初想定より約35%増えたと計算している。

つまり、耐力の小さくなった柱・床版接合部に対して、上から作用する荷重は逆に増加していた。

原因6|屋根にも設計時より大きな荷重があった

屋上でも同じ問題が確認された。

設計時に軽量コンクリート仕上げとして想定されていた荷重より、実際の屋根仕上げは重かった。

さらに空調用冷却塔が設置されていた。

検察は5階と屋上の過大荷重を、崩壊に大きく寄与した要因として挙げている。

ただし、ここでも冷却塔単独説には注意が必要である。

事故調査の結論は、

「冷却塔が重かったので建物が壊れた」

ではない。

設計・施工上の問題によって余裕を失った構造へ、設計時と異なる5階・屋上荷重が作用した。

この組み合わせで理解する必要がある。

原因7|監理が施工不良を止められなかった

建物は、設計者が図面を作り、施工者が造れば完成するわけではない。

工事が図面どおり行われているかを確認する監理が必要になる。

しかし検察の中間捜査では、三豊百貨店で常駐監理が十分に行われていなかったことも問題とされた。

韓国国家記録院の事故整理でも、

  • 設計と監理の独立性が弱かったこと
  • 構造安全確認が形式的だったこと
  • 専門知識を持たない行政職員による形式的な安全点検

などが背景として挙げられている。

構造計算と設計図が違う。

設計図と実施工にも問題がある。

その途中で誰かが検出して是正できれば、事故への連鎖を切ることができる。

三豊百貨店では、そのチェック層も十分に機能しなかった。

原因8|完成後の維持管理でも、変更が繰り返された

事故原因は、1989年の完成時点で固定されたわけではない。

営業開始後も売場の拡張、用途変更、設備追加などが行われた。

建築物に変更を加えるなら、

現在の構造耐力

新たに加わる荷重

既存の損傷状態

を確認する必要がある。

ところが三豊百貨店では、完成後の建物についても適切な構造安全確認が十分に行われなかった。

韓国国家記録院はこの事故を、設計・施工だけでなく維持管理上の失敗まで含む事故として整理している。

原因9|崩壊前の亀裂・床沈下に対応できなかった

そして最後に残るのが、1995年6月29日の判断である。

どれだけ設計や施工に問題があっても、崩壊前に建物から人を避難させれば、少なくとも502人という人命被害は回避・縮小できた可能性がある。

検察が11月にまとめた白書でも、事故当日に何度も現れた崩壊兆候へ適切に対応しなかったことが、被害を大きくした要因として指摘された。

ここは構造的な「崩壊原因」と、人命被害を拡大した「管理上の原因」を分ける必要がある。

問い 主な要因
なぜ建物が崩れたのか 設計・施工上の欠陥と過大荷重による柱・スラブ接合部の破壊
なぜ502人が死亡したのか 営業中の建物で崩壊し、重大な前兆後も十分早く全館避難が行われなかったこと

この二つは関連しているが、同じ問いではない。

7月25日の「中間結果」と11月8日の「最終白書」を分ける

三豊百貨店事故の資料を読むと、7月中旬から後半の報道に、

「崩壊原因が判明」
「直接原因を確認」

という表現が複数登場する。

しかしこれらの多くは、捜査途中の結果である。

7月13日には柱径やドロップパネルの問題が報じられた。

7月16日には、構造計算書と設計図を比較した初期検討で13か所の差が確認されたと報道された。

その後、7月25日の中間捜査結果では、柱・スラブ・鉄筋など11か所が構造計算書と異なる設計になっていたと整理されている。

この「13」と「11」は矛盾として一方を消すべきではない。

捜査途中の暫定確認と、その後の整理結果の違い

として扱う方が適切である。

そして11月8日に、約4か月の精密鑑定と捜査をまとめた536ページの白書が発行された。

本シリーズでは、最終的な事故像についてはこの11月段階の整理を優先する。

FACT CHECK|結局「最大の原因」は何だったのか

1995年7月25日の中間捜査結果では、特に

5階・屋上の過大荷重と、ドロップパネルなど柱・スラブ部分の施工不良

が決定的な原因として強く挙げられた。

しかし11月の最終白書は、事故全体を設計・施工・維持管理まで含む総体的な不備として結論づけている。

したがって、

「直接、構造を破壊したものは何か」

という問いなら、

耐力の不足した柱・スラブ接合部へ過大な荷重が作用し、せん断破壊が連鎖したこと

と説明できる。

一方、

「なぜその状態になったのか」

まで問うなら、設計・施工・監理・用途変更・維持管理・避難判断まで含める必要がある。

FACT CHECK|コンクリートの「手抜き工事」が主原因だったのか

三豊百貨店はしばしば「粗悪なコンクリートによる手抜き工事」と説明される。

実際、崩壊部から採取されたコンクリートの平均強度は設計値を下回っていた。

しかし事故調査は、コンクリート強度だけを主原因とはしていない。

柱寸法、鉄筋位置、ドロップパネル、荷重、用途変更などを含めて計算すると、複数の不利条件が重なっていた。

したがって、

「安いコンクリートを使ったので崩れた」

という説明は過度な単純化になる。

FACT CHECK|フラットスラブ構造そのものが欠陥だったのか

これも違う。

Gardnerらは事故調査委員会報告を使って、当初設計条件での柱・スラブ接合部を複数の設計規準で再計算している。

当初の設計条件だけなら、一定の安全性を有していた。

問題は、

  • 部材寸法が計算条件から変わったこと
  • 鉄筋位置など施工状態が不利だったこと
  • 荷重が増加したこと
  • 維持管理でそれを是正できなかったこと

が重なったことである。

フラットスラブ構造だから自動的に危険なのではない。

この構造に必要な精密な設計・施工・管理が確保されなかったことが問題だった。

事故原因を一本の因果関係にすると

ここまでの調査結果を、一つの流れとして整理する。


設計変更を繰り返す

構造計算と設計図に差が生じる

柱径・鉄筋・床版接合部などの耐力が設計想定より低くなる

施工・監理でも問題を是正できない

5階を飲食店化し、屋根にも追加荷重を載せる

完成後の維持管理でも十分な構造検討を行わない

柱・スラブ接合部の安全余裕が小さくなる

1995年6月29日、床変形が急速に進行

柱・スラブ接合部でせん断破壊

荷重が隣接柱へ移動

進行性崩壊

そして人命被害については、さらに、


重大な前兆を確認

一部閉鎖・会議

全館避難が遅れる

営業中の建物が崩壊

という別の因果関係が重なる。

「一人のミス」で説明できない事故だった

三豊百貨店事故の原因を詳しく調べるほど、責任の範囲は広がる。

構造計算をした人。

設計図を作った人。

施工した人。

現場を監理した人。

用途を変更した経営側。

建物を点検した行政。

事故当日に営業継続を判断した人。

それぞれの行動が同じ重さの責任を持つわけではない。

また、技術的に事故へ寄与したことと、刑法上の責任が成立することも同じではない。

事故調査では、

「何が建物を壊したか」

を追える。

しかし裁判では、

「誰がその結果について法的責任を負うのか」

を個人ごとに判断しなければならない。

ここから先は、構造解析だけでは決められない。

次回|技術的原因は、誰の刑事責任になったのか

事故原因は、設計・施工・維持管理の複合的な失敗として整理された。

しかし白書が完成する前から、捜査は責任者個人へ向かっていた。

三豊側の経営陣。

設計者。

施工関係者。

監理関係者。

そして許認可を担当した公務員。

事故後、複数の人物が起訴された。

三豊グループ会長だった李鐏には、一審で懲役10年6か月が言い渡された。

しかしその後の控訴審では刑が変更され、最終的に大法院で懲役7年6か月が確定する。

なぜ刑期が変わったのか。

建物を所有・運営していた経営者は、502人の死亡についてどの範囲まで刑事責任を負ったのか。

設計者、施工者、公務員は何を問われたのか。

そして三豊側と行政の間にあった贈収賄は、事故原因とどのような関係にあったのか。

次回は技術調査から法廷へ移る。

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第7回|瓦礫の下で続いた17日間|三豊百貨店の救助活動と最後の生存者

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第9回|誰が三豊百貨店崩壊の責任を問われたのか|経営陣・建設関係者・公務員の裁判

CASE FILE 13|全10回

  1. 第1回|三豊百貨店崩壊事故とは?|営業中の百貨店はなぜ崩れたのか
  2. 第2回|三豊百貨店はどう建てられたのか|用途変更・増築・繰り返された設計変更
  3. 第3回|三豊百貨店の建物構造|無梁板・柱・スラブは荷重をどう支えていたのか
  4. 第4回|なぜ建物の余裕は失われたのか|5階・冷却塔・改修と積み重なった荷重
  5. 第5回|崩壊の前兆はどこまで見えていたのか|ひび割れ、床沈下、それでも続いた営業
  6. 第6回|1995年6月29日、三豊百貨店で何が起きたのか|朝の異常から崩壊まで
  7. 第7回|瓦礫の下で続いた17日間|三豊百貨店の救助活動と最後の生存者
  8. 第8回|現在の記事:捜査は何を崩壊原因と認定したのか|設計・施工・維持管理を検証する
  9. 第9回|誰が三豊百貨店崩壊の責任を問われたのか|経営陣・建設関係者・公務員の裁判
  10. 第10回|三豊百貨店崩壊事故のあと何が変わったのか|安全点検・災害管理・制度改革

出典・参考資料

  • 聯合ニュース — 「検察、三豊惨事白書発刊」(1995年11月8日)

    ソウル地方検察庁が536ページの「三豊百貨店崩壊事故捜査および原因究明鑑定団活動白書」を発行し、建築・構造設計、施工、維持管理など建築過程全般の複合的な不備を最終結論としたことの確認に使用。
  • 聯合ニュース — 「設計・施工等の総体的な不備、過大荷重が崩壊原因」(1995年7月25日)

    検警合同捜査本部の中間捜査結果。5階・屋上の過大荷重、柱・スラブ施工不良、構造計算なしの用途変更、常駐監理不在などが直接・間接的原因として整理されたことの確認に使用。
  • 聯合ニュース — 「三豊百貨店、柱・スラブ工事不良確認」(1995年7月13日)

    構造計算上の柱径800mm・主鉄筋16本に対し、設計・施工では600mm・8本だったこと、ドロップパネルが設計寸法より薄く施工されていたことの確認に使用。
  • 聯合ニュース — 「三豊捜査、柱骨組み等の設計差確認」(1995年7月16日)

    構造計算書と設計図の初期精査で13か所の差が確認されたこと、柱、鉄筋、ドロップパネル、スラブの施工状態など捜査途中の技術確認に使用。7月25日の後続整理との数字差は捜査進展によるものとして区別。
  • 聯合ニュース — 「三豊百貨店、5階柱ドロップパネルなしで施工」(1995年7月17日)

    崩壊開始領域とされた5階食堂付近の柱上部にドロップパネルが存在しなかったことを、残骸分析と崩壊直前写真から確認した捜査結果に使用。
  • 韓国国家記録院 — 「三豊百貨店崩壊」

    床沈下から隣接柱への荷重移動と連鎖的せん断破壊、設計・監理体制、構造安全確認、行政点検、施工・下請け等を含めた事故背景の公的整理に使用。
  • Tae Won Park — Inspection of collapse cause of Sampoong Department Store, Forensic Science International, 2012

    現場・地盤調査、コンクリート・鋼材試験、設計図書・施工管理資料、構造解析という事故調査方法と、設計・施工・管理上の直接・間接要因が重なったという技術的再検証に使用。
  • Gardner, Huh & Chung — Lessons from the Sampoong department store collapse, Cement and Concrete Composites, 2002

    事故調査委員会報告の整理、パンチングせん断、柱径、床版有効せい、コンクリート強度、用途変更による荷重増加、および複数の不利条件を組み合わせた構造解析の確認に使用。

本記事は1995年7月の検警合同捜査本部による中間捜査結果、同年11月のソウル地方検察庁白書についての当時報道、韓国国家記録院、事故調査委員会報告を整理したGardnerらの構造工学論文、Parkによる2012年の再検証を照合して構成しています。捜査途中では「構造計算書との差13か所」、後の中間結果では「11か所」など数字が変化している部分があるため、一方を誤りとして消さず、暫定調査と後続整理を区別しました。また「冷却塔」「コンクリート」「柱径」「フラットスラブ」のいずれか一つを単独原因とはせず、最終白書に沿って設計・施工・荷重・監理・維持管理が重なったSYSTEM事故として整理しています。

誰が三豊百貨店崩壊の責任を問われたのか|経営陣・建設関係者・公務員の裁判

建築・構造物事故

三豊百貨店がなぜ崩れたのか。

事故後の技術調査は、設計、施工、用途変更、追加荷重、維持管理など、複数の問題が同じ建物の中で重なっていたことを明らかにした。

しかし、原因が分かっただけでは裁判にならない。

刑事裁判で問われるのは、

「その原因について、誰が、どのような注意義務を負い、それを怠ったのか」

である。

1995年12月27日、ソウル地方裁判所は三豊百貨店崩壊事故をめぐって起訴された25人に一審判決を言い渡した。三豊側の経営陣だけではない。施設担当者、構造・建築設計者、施工関係者、そして三豊側から金銭を受け取った行政関係者まで被告席に並んだ。[1]

三豊グループ会長だった李鐏(イ・ジュン)には、一審で懲役10年6か月。

息子で三豊百貨店社長だった李漢相(イ・ハンサン)には懲役7年。

その後、李鐏の刑は控訴審で懲役7年6か月へ変更され、1996年8月23日、大法院が原判決を確定させた。[2][3]

だが、この裁判で最も重要なのは刑期の数字だけではない。

大法院は三豊百貨店について、

建築計画、構造設計、施工、完成後の維持管理という異なる段階の過失が複合して一つの事故を生んだ

と認定した。[4]

つまり司法判断でも、この事故は「一人の手抜き」で説明されなかった。

CASE FILE 13|三豊百貨店崩壊事故特集(全10回)

第8回までは、技術的な原因と事故調査を追ってきた。

第9回では視点を法廷へ移し、「事故原因」と「刑事責任」を分けて整理する。

  1. 第1回|三豊百貨店崩壊事故とは?|営業中の百貨店はなぜ崩れたのか
  2. 第2回|三豊百貨店はどう建てられたのか|用途変更・増築・繰り返された設計変更
  3. 第3回|三豊百貨店の建物構造|無梁板・柱・スラブは荷重をどう支えていたのか
  4. 第4回|なぜ建物の余裕は失われたのか|5階・冷却塔・改修と積み重なった荷重
  5. 第5回|崩壊の前兆はどこまで見えていたのか|ひび割れ、床沈下、それでも続いた営業
  6. 第6回|1995年6月29日、三豊百貨店で何が起きたのか|朝の異常から崩壊まで
  7. 第7回|瓦礫の下で続いた17日間|三豊百貨店の救助活動と最後の生存者
  8. 第8回|捜査は何を崩壊原因と認定したのか|設計・施工・維持管理を検証する
  9. 第9回|現在の記事:誰が三豊百貨店崩壊の責任を問われたのか|経営陣・建設関係者・公務員の裁判
  10. 第10回|三豊百貨店崩壊事故のあと何が変わったのか|安全点検・災害管理・制度改革

先に結論|「建物を壊した責任」と「行政を腐敗させた責任」は別に裁かれた

三豊百貨店事件では、異なる種類の犯罪が一つの裁判に現れる。

責任の種類 主な対象 主な罪
建物崩壊と死傷結果への責任 経営・設計・施工・施設管理関係者 業務上過失致死・致傷など
許認可をめぐる腐敗 三豊側・行政関係者 贈賄・収賄・収賄後不正処事など
会社財産等をめぐる犯罪 経営関係者 業務上横領等

この三つを混ぜると、

「賄賂を受け取った公務員が建物を直接崩した」

という誤った理解になりやすい。

行政関係者への贈収賄は重大な問題だったが、物理的な崩壊メカニズムそのものは、第8回で見た設計・施工・荷重・維持管理上の複合的な欠陥によって説明された。

裁判では、それぞれについて別の構成要件と証拠が必要だった。

事故後、25人が刑事裁判へ

検察は1995年12月6日の結審時、三豊百貨店崩壊事故について、

「設計・施工・維持管理過程の総体的な不備によって発生した惨事」

という立場を示した。

李鐏には懲役20年を求刑。

李漢相には懲役7年。

三豊・設計・施工関係者には禁錮3~5年、公務員についても収賄額や行為に応じて懲役刑が求刑された。[5]

裁判の対象は、経営トップだけではなかった。

一審判決時点で被告人は25人

建築計画から施工、施設管理、行政許認可まで、事故の因果関係を構成した複数の立場が刑事責任を問われた。

李鐏|なぜ経営トップに業務上過失致死傷が成立したのか

李鐏は単なる株主や名目的所有者ではなかった。

大法院判決は、李鐏について三豊建設の代表取締役であり、三豊百貨店の会長として建物新築工事と完成後の維持管理業務を統括していたと認定している。[4]

判決が挙げた注意義務は広い。

当初ショッピングセンターとして工事を始めたあと百貨店へ事業計画を変更したなら、実際の用途に合わせて総合的な建築計画を作り直す必要があった。

5階を飲食店街として使用するなら、その荷重を考慮して構造計算をやり直し、必要な補強をしなければならなかった。

屋根に冷却塔を設置するなら、その荷重を床版へ直接作用させない構造上の措置を検討する必要があった。

そして事故当日には、現場から亀裂進行について報告を受け、状態が深刻であることを確認した以上、客と従業員を安全に避難させる注意義務もあったとされた。[4]

つまり李鐏の責任は、

「会長だから責任を取らされた」

のではない。

建物の計画・変更・維持管理に実際の権限と注意義務を持ち、それを怠ったという具体的な過失が認定された。

「専門家に任せていた」は免責にならなかった

大法院判決には、この事件の重要な部分がある。

李鐏側は、日常点検を担当する職員が別におり、事故当日にも専門家の助言に基づいて補強工事の準備をしていたという事情を主張した。

しかし大法院は、それだけで李鐏に崩壊を予見する可能性がなかったとはいえないと判断した。[4]

これは経営責任を考えるうえで重要である。

巨大な施設では、経営者本人が鉄筋を組んだり構造計算をしたりするわけではない。

それでも、安全に関する重大情報が経営レベルへ上がり、営業停止や避難を決定できる権限が経営側にあるなら、

「専門家がいるから自分には関係ない」

とはならない。

一審|李鐏に懲役10年6か月

1995年12月27日。

ソウル地方裁判所刑事合議22部は一審判決を言い渡した。

李鐏について、業務上過失致死傷や特定犯罪加重処罰法違反に関わる犯罪などを認定し、懲役10年6か月を言い渡した。検察の求刑は懲役20年だった。[1]

一審裁判所は、三豊事故を、

社会に蔓延した不実と腐敗が重なった事故

と評価した。

そして、建築法規を無視した工事、無分別な利益追求、行政関係者への贈賄などを厳しく指摘した。[1]

李漢相|三豊百貨店社長にも懲役7年

李鐏の息子で、三豊百貨店社長だった李漢相も業務上過失致死傷などで起訴された。

検察の求刑は懲役7年。

一審判決も懲役7年だった。[1]

1996年4月26日の控訴審でも、李漢相には懲役7年が言い渡されている。[2]

ここでも、親族であるという理由ではなく、百貨店経営・管理における地位と注意義務が問題になった。

設計者|計算と図面に責任を持つ側

刑事責任は経営側だけでは終わらない。

一審では、構造設計者や建築設計者にも業務上過失致死傷について有罪判決が言い渡された。

聯合ニュースの一審判決一覧では、

  • 構造設計者:禁錮3年
  • 建築設計者:禁錮3年

などが記録されている。[1]

大法院判決は、設計段階の過失も具体的に記録している。

構造計算担当者については、5階・屋根階の一部柱とスラブの耐力計算、外周柱との接続、冷却塔3基の荷重計算などに問題があったとされた。

設計・監理担当者についても、

  • 冷却塔設置による構造条件を図面へ反映しなかった
  • 5階を飲食店街へ用途変更した際に再構造計算を行わせなかった
  • 屋根仕上げ方法を十分に指定しなかった
  • 工事監理を十分に行わなかった

と認定されている。[4]

施工側|「図面が悪かった」だけでは終わらなかった

事故原因には設計上の問題があった。

しかし裁判所は、施工側にも独立した注意義務があったと認定した。

大法院判決には、施工時の問題として、

  • 上端鉄筋が正常位置より沈んで施工されたこと
  • 多数のドロップパネル部分が設計より薄かったこと
  • 一部のドロップパネル施工が欠落したこと
  • 梁の鉄筋量が設計より少なかったこと
  • スターラップの径・間隔が図面と異なっていたこと
  • 鉄筋の定着長不足

などが詳細に記載されている。[4]

一審では5階躯体工事に関わったウソン建設側の担当者にも有罪判決が出た。

ウソン建設の建築主任には禁錮1年6か月、ほか複数の施工関係者には禁錮1年・執行猶予2年などが言い渡された。[6]

裁判所は、三豊側だけに事故原因を集中させず、施工側にも責任が存在すると判断した。

維持管理側|完成したあとも注意義務は終わらない

三豊百貨店事故の最高裁判決が特徴的なのは、建築中の行為だけを問題にしていない点である。

判例要旨は、

建築計画

建築設計

建築工事

建物完成後の維持管理

における過失が複合的に作用したとする。[4]

完成後の5階飲食店化。

冷却塔の設置・移設。

設備工事に伴う構造部材への変更。

崩壊当日の亀裂への対応。

これらは建設会社が建物を引き渡した後の問題である。

「竣工したから安全責任が終了する」のではない。

建物を変更しながら使用する側にも、構造安全を維持する注意義務があることが裁判でも重要視された。

大法院が認めた「共同正犯」|別々の時期の過失が一つの事故を作った

この判決で特に重要なのが、

業務上過失致死傷罪の共同正犯

という判断である。

通常、「共同正犯」と聞くと、複数人が相談して一緒に犯罪を行った場面を想像しやすい。

しかし三豊百貨店の場合、

構造設計者と施工担当者と経営者が、

「建物を崩壊させよう」

と相談していたわけではない。

それぞれが異なる時期・異なる役割で、安全上必要な注意を怠った。

大法院は、それらの過失が組み合わさって同じ崩壊・死傷結果を生じさせたとして、各段階の関係者を業務上過失致死傷罪の共同正犯として処罰する判断を維持した。[4]

この考え方は、三豊事故をSYSTEM型として見るうえでも非常に重要である。

一人の行為だけでは事故全体を説明できない。

しかし、

「自分の工程だけなら建物は崩れていない」

という理由で、すべての関係者が責任を免れるわけでもない。

公務員|設計変更と許認可をめぐる贈収賄

三豊事故の刑事裁判には、もう一つ大きな問題があった。

行政側の腐敗

である。

一審では、三豊側から設計変更や仮使用承認などをめぐって金銭を受け取ったとして、元瑞草区庁長の李忠雨(イ・チュンウ)と黄哲民(ファン・チョルミン)が有罪となった。

一審判決は、

被告 一審
李忠雨・元瑞草区庁長 懲役3年+追徴金1,300万ウォン
黄哲民・元瑞草区庁長 懲役2年6か月+追徴金1,200万ウォン

だった。[1]

さらに元瑞草区庁都市整備局長など、ソウル市・瑞草区庁の複数の公務員についても収賄や不正処事をめぐる刑が言い渡された。

ただし、一審で認定された賄賂額はそのまま確定しなかった

ここは事件解説で省略されやすい。

一審では元区庁長2人に対して1,300万ウォン、1,200万ウォンという大きな収賄額が認定された。

しかし控訴審では、認定された金額が縮小した。

1996年4月26日のソウル高等法院判決では、黄哲民について一審の1,200万ウォンすべてではなく、200万ウォンを賄賂として認定し、懲役10か月とした。[2]

最終的に大法院は、

被告 確定刑
李忠雨・元瑞草区庁長 懲役10か月+追徴金300万ウォン
黄哲民・元瑞草区庁長 懲役10か月+追徴金200万ウォン

とした原判決を確定させた。[3]

したがって、

「元区庁長が1,300万・1,200万ウォンの賄賂を受け取ったことが最高裁でそのまま確定した」

と書くのは正確ではない。

一審と確定判決を分ける必要がある。

贈収賄があった=その行政承認だけで建物が崩れた、ではない

贈収賄が確認されたことは、行政監督の信頼性を大きく損なう事実である。

しかし技術的な因果関係は別に検討しなければならない。

賄賂を受け取る。

不適切な行政判断が行われる。

安全上問題のある変更・営業状態が是正されない。

というSYSTEM上の経路は考えられる。

一方、物理的に床版を破壊したのは、柱・スラブ接合部へ作用した荷重と不足した耐力である。

つまり、

汚職は構造破壊の「力」ではない。

危険を検出・是正するはずの行政防護層を弱くする要因

として理解する方が正確である。

李鐏の刑はなぜ10年6か月から7年6か月になったのか

1995年12月27日の一審は懲役10年6か月。

1996年4月26日のソウル高等法院は懲役7年6か月

そして8月23日、大法院がその原判決を確定した。[2][3]

ここでは注意が必要である。

現在確認できる当時の公開報道要約だけでは、一審10年6か月から控訴審7年6か月へ変更された理由の全文を十分に確認できない。

したがって本記事では、

「反省したため減刑された」
「高齢だったから減刑された」
「事故責任が軽く認定された」

などの理由を推測では補わない。

確認できる事実は、

控訴審が業務上過失致死等について李鐏へ懲役7年6か月を言い渡し、大法院がその判断を維持した

というところまでである。

FACT CHECK|減刑されたということは、事故責任も否定されたのか

それは違う。

大法院判決は李鐏について、建築計画、用途変更、冷却塔、維持管理、そして事故当日の避難措置に関する業務上の注意義務違反を明確に認定している。

また建築計画・設計・施工・維持管理の各段階の過失が複合して事故を発生させたという原審判断も維持した。

したがって、刑期が一審より短くなったことを「崩壊への責任が否定された」と読むことはできない。

大法院判決|96도1231

1996年8月23日、大法院刑事第2部は三豊百貨店事件について判決を言い渡した。

事件番号は、

96도1231

である。

李鐏については懲役7年6か月を言い渡した原審を確定。

元瑞草区庁長2人についても懲役10か月と追徴金を言い渡した原審を維持し、ほかの被告人らの上告も棄却した。[3]

しかしこの判決の意味は、刑期確定だけではない。

判例要旨として現在まで残っている重要事項は、

  • 複数段階の過失が重なった建物崩壊で各関係者を業務上過失致死傷の共同正犯としたこと
  • 贈賄側と収賄側の処罰関係について判断したこと
  • 業務上過失致死傷罪の公訴時効の起算点を示したこと
  • 行政職員の虚偽文書作成などについて職務上の不正行為を判断したこと

などだった。[4]

建物を造ったのは1980年代なのに、公訴時効は切れていなかったのか

設計・施工関係者の過失の多くは、1980年代後半の建築時に行われていた。

そのため裁判では、

「すでに公訴時効が成立しているのではないか」

という争点も生じた。

大法院はこれを退けた。

業務上過失致死傷罪では、過失行為をした瞬間だけでなく、被害者が死亡・負傷するという結果が発生して犯罪が終了した時点から公訴時効を計算すると判断した。[4]

三豊事故では、その結果が発生したのは、

1995年6月29日

である。

したがって、建築行為が何年も前だったことだけを理由に刑事責任を免れることはできなかった。

三豊裁判の刑を整理する

主要な被告について、確認できる判決経過を整理する。

立場 一審 控訴審・確定段階
李鐏・三豊会長 懲役10年6か月 控訴審7年6か月 → 大法院確定
李漢相・三豊社長 懲役7年 控訴審7年
構造設計者 禁錮3年 関係者ごとに控訴審判断
建築設計者 禁錮3年 関係者ごとに控訴審判断
ウソン建設建築主任 禁錮1年6か月 施工関係者にも有罪判決
李忠雨・元瑞草区庁長 懲役3年+追徴1,300万ウォン 懲役10か月+追徴300万ウォン確定
黄哲民・元瑞草区庁長 懲役2年6か月+追徴1,200万ウォン 懲役10か月+追徴200万ウォン確定

この表だけを見ると、「502人が死亡した事故にしては軽い」と感じる読者もいるかもしれない。

実際、当時の韓国社会でも一審判決の量刑について批判や不満が報じられた。[7]

ただし刑事裁判では、被害者数をそのまま刑期へ換算するわけではない。

適用できる犯罪類型、当時の法定刑、個々の被告の注意義務、因果関係、故意か過失かなどを基に量刑される。

なぜ「殺人罪」ではなかったのか

三豊百貨店では、事故当日に重大な亀裂や床沈下が認識されていた。

それでも営業が続いた。

そのため、

「危険を知っていたなら殺人ではないのか」

という疑問が生まれる。

しかし刑法上の殺人罪には、単に危険な判断をしただけではなく、人を死亡させることについて故意が必要になる。

三豊事件で裁判所が認定した中心的な犯罪は、

業務上過失致死傷

だった。

大法院も、李鐏について事故当日に亀裂の深刻さを確認した以上、客や従業員を避難させる注意義務があったと認定した一方、判決は殺人故意を認定するものではない。[4]

FACT CHECK|「崩れると知っていて客を残した」なら殺人では?

「建物に重大な危険があることを予見できた」

ことと、

「人が死亡しても構わないと認容した」

ことは刑法上同じではない。

三豊事件の確定判決は、重大な注意義務違反と予見可能性を認定したが、殺人罪として処罰したものではない。

責任は25分の1ずつだったわけではない

25人が起訴されたからといって、責任を25等分したわけではない。

ある人物は構造計算を誤った。

別の人物は設計図へ必要な安全条件を反映しなかった。

施工側は鉄筋や床版を適切に施工しなかった。

経営側は建築計画を繰り返し変更し、用途変更や追加設備を進めた。

行政側には贈収賄と許認可をめぐる問題があった。

そして事故当日には、危険を認識しながら利用者を十分早く避難させられなかった。

役割は違う。

刑も違う。

しかし大法院は、

「それぞれの過失が別々だから、誰も全体事故について責任を負わない」

とはしなかった。

三豊裁判がSYSTEM事故として重要な理由

三豊百貨店の判決文を読むと、事故原因の文章が非常に長い。

構造計算。

設計。

鉄筋。

ドロップパネル。

5階用途変更。

冷却塔。

設備工事。

維持管理。

事故当日の避難。

通常の刑事事件なら、一つの人物の一つの行為を追えばよい場合もある。

三豊ではそうならない。

数年前の設計上の過失が残る。

施工上の過失がその上に加わる。

完成後の変更がさらに加わる。

行政監督が十分に止めない。

最後に、崩壊当日の判断まで加わる。

これらが1995年6月29日に一つの結果へ収束した。

大法院が「各段階の過失が複合的に作用した」と整理したことは、この事故の構造を非常に端的に表している。

裁判で終わっても、安全問題は終わらなかった

1996年8月23日、大法院判決によって主要な刑事責任が確定した。

しかし、それで三豊百貨店事故への対応が完了したわけではない。

502人が死亡した巨大事故は、

「誰を刑務所へ送るか」

だけでは再発を防止できない。

構造設計の確認方法。

工事監理。

既存大型建築物の安全点検。

用途変更時の安全確認。

災害現場の指揮系統。

大規模救助体制。

事故が起きたときの行政対応。

事故後の韓国では、こうした制度そのものが検討対象になった。

ただし、現在の制度をすべて、

「三豊百貨店事故をきっかけに作られた」

と説明することも正確ではない。

前年1994年には聖水大橋崩壊があり、1995年にも大邱上仁洞ガス爆発など大規模事故が続いていた。

三豊百貨店は、その連続する大型災害の中で韓国の安全・災害管理体制を根本から問い直す一つの決定的な事件になった。

次回はいよいよ最終回。

三豊百貨店崩壊事故のあと、実際に何が変わったのか。

安全点検、災害管理法、救助体制、制度改革を、事故との直接的な因果関係が確認できるものと、同時期の広い改革とに分けて追う。

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第8回|捜査は何を崩壊原因と認定したのか|設計・施工・維持管理を検証する

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第10回|三豊百貨店崩壊事故のあと何が変わったのか|安全点検・災害管理・制度改革

CASE FILE 13|全10回

  1. 第1回|三豊百貨店崩壊事故とは?|営業中の百貨店はなぜ崩れたのか
  2. 第2回|三豊百貨店はどう建てられたのか|用途変更・増築・繰り返された設計変更
  3. 第3回|三豊百貨店の建物構造|無梁板・柱・スラブは荷重をどう支えていたのか
  4. 第4回|なぜ建物の余裕は失われたのか|5階・冷却塔・改修と積み重なった荷重
  5. 第5回|崩壊の前兆はどこまで見えていたのか|ひび割れ、床沈下、それでも続いた営業
  6. 第6回|1995年6月29日、三豊百貨店で何が起きたのか|朝の異常から崩壊まで
  7. 第7回|瓦礫の下で続いた17日間|三豊百貨店の救助活動と最後の生存者
  8. 第8回|捜査は何を崩壊原因と認定したのか|設計・施工・維持管理を検証する
  9. 第9回|現在の記事:誰が三豊百貨店崩壊の責任を問われたのか|経営陣・建設関係者・公務員の裁判
  10. 第10回|三豊百貨店崩壊事故のあと何が変わったのか|安全点検・災害管理・制度改革

出典・参考資料

本記事は、韓国国家法令情報センターが公開する大法院1996年8月23日宣告96도1231判決を司法判断の中心資料とし、1995年の一審、1996年の控訴審・大法院判決を伝えた聯合ニュース、ソウル新聞、MBCの当時報道を照合して構成しています。一審判決で認定された収賄額と確定判決の追徴額には大きな差があるため、判決段階を区別しました。また、李鐏の一審10年6か月から控訴審7年6か月への変更理由については、参照できた当時の公開報道要約だけでは理由全文を確認できないため、推測による減刑理由は記載していません。事故当時の一部報道では死者503人とする暫定集計がありますが、本シリーズの被害人数は韓国国家記録院の後年確定整理に合わせ、死者502人を基準としています。

三豊百貨店崩壊事故のあと何が変わったのか|安全点検・災害管理・制度改革

建築・構造物事故

1995年6月29日、三豊百貨店A棟が崩壊した。

死者502人、負傷者937人。

事故後には経営陣、設計・施工関係者、公務員らが捜査され、刑事裁判も行われた。

しかし、一人ひとりの刑事責任を確定させても、同じ構造の事故を防げるとは限らない。

三豊百貨店では、

設計変更。
構造計算と図面の不一致。
施工不良。
用途変更。
追加荷重。
不十分な監理。
行政上の問題。
維持管理。
崩壊前の警告。
遅れた避難。

という複数の防護層が同時に機能しなかった。

ならば事故後に必要なのは、

「悪い人を処罰する」だけではなく、次の建物・次の災害で同じ失敗が重ならない仕組みを作ること

だった。

そして三豊事故からわずか19日後の1995年7月18日、韓国では人為的災害を包括的に扱う「災難管理法」が制定された。

同年10月には、大規模災害時の専門救助を担う中央119救助隊が発足した。

一方、建築・構造物の安全管理については、三豊事故より前から制度改革が始まっていた。

ここが最終回で最も重要な点である。

韓国の安全制度は、三豊百貨店一件だけを起点に突然生まれたわけではない。

1994年の聖水大橋崩壊、阿峴洞都市ガス爆発、1995年の大邱上仁洞ガス爆発、そして三豊百貨店崩壊。

1990年代半ばに相次いだ大事故の中で、制度そのものが組み替えられていった。

CASE FILE 13|三豊百貨店崩壊事故特集(全10回)

第1回から第9回まで、三豊百貨店がどう造られ、なぜ安全余裕を失い、どのように崩れ、誰が責任を問われたのかを追ってきた。

最終第10回では、その事故が社会制度へ何を残したのかを見る。

  1. 第1回|三豊百貨店崩壊事故とは?|営業中の百貨店はなぜ崩れたのか
  2. 第2回|三豊百貨店はどう建てられたのか|用途変更・増築・繰り返された設計変更
  3. 第3回|三豊百貨店の建物構造|無梁板・柱・スラブは荷重をどう支えていたのか
  4. 第4回|なぜ建物の余裕は失われたのか|5階・冷却塔・改修と積み重なった荷重
  5. 第5回|崩壊の前兆はどこまで見えていたのか|ひび割れ、床沈下、それでも続いた営業
  6. 第6回|1995年6月29日、三豊百貨店で何が起きたのか|朝の異常から崩壊まで
  7. 第7回|瓦礫の下で続いた17日間|三豊百貨店の救助活動と最後の生存者
  8. 第8回|捜査は何を崩壊原因と認定したのか|設計・施工・維持管理を検証する
  9. 第9回|誰が三豊百貨店崩壊の責任を問われたのか|経営陣・建設関係者・公務員の裁判
  10. 第10回|現在の記事:三豊百貨店崩壊事故のあと何が変わったのか|安全点検・災害管理・制度改革

先に結論|三豊事故後に変わったのは「建築法」だけではなかった

三豊百貨店は建物崩壊事故だった。

そのため事故後の改革も、建築基準やコンクリートの規定だけが変わったように思われやすい。

実際には、事故が露呈させた問題はもっと広かった。

事故で露呈した問題 その後の制度上の方向
既存施設の安全状態を把握できない 安全点検・精密安全診断・維持管理の制度化と強化
人為災害を統括する法律が弱い 災難管理法の制定
国・自治体・消防等の指揮系統が分散 中央・地域の災害対策組織を法定化
大規模救助を統括する専門部隊が不足 中央119救助隊発足
自治体だけでは巨大災害を処理できない 特別災害地域制度による国レベルの支援
安全点検・維持管理を怠る責任が弱い 施設物安全管理特別法の罰則強化

つまり、建物そのものだけではなく、

予防・監視・停止・救助・指揮・復旧

という災害管理全体が見直された。

まず訂正しておきたいこと|「施設物安全法」は三豊事故後に作られた法律ではない

三豊百貨店事故の解説では、

「事故後に建物安全点検を義務付ける法律が制定された」

という説明を見ることがある。

これは半分正しく、半分間違っている。

韓国の「施設物の安全管理に関する特別法」は、

1995年1月5日に制定され、4月6日に施行

されていた。

三豊百貨店が崩壊したのは6月29日なので、法律の方が先である。

この法律は、前年1994年10月の聖水大橋崩壊などを背景に、橋梁や大型施設の安全点検、精密安全診断、維持管理を制度化する目的で作られた。

法律では施設を危険度や公共性によって区分し、管理主体へ安全点検・維持管理の責任を課した。

構造上重大な危険が確認された場合には、管理主体が使用制限、使用禁止、撤去などの措置を行う仕組みも置かれた。

FACT CHECK|三豊事故で「施設物安全管理特別法」が制定された?

制定そのものは三豊事故より前。

1995年1月5日制定、4月6日施行である。

したがって、

「三豊百貨店崩壊を受けて、この法律が新しく作られた」

とは書けない。

一方、三豊事故後の1995年12月30日には同法が改正され、安全点検・精密安全診断・維持管理を行わず重大事故を起こした場合などの刑事罰が強化された。

三豊事故以前から始まっていた施設安全制度が、事故後さらに強化された

と理解するのが正確である。

1995年12月30日|安全点検を怠った場合の罰則が強化された

施設物安全管理特別法は、三豊事故から約半年後の1995年12月30日に改正された。

改正では、安全点検、精密安全診断、維持管理を実施しない、あるいは不十分に実施した結果、公衆に危険を発生させた場合の刑罰が明確化・強化された。

特に人を死亡・負傷させた場合には、より重い刑を科す規定が設けられた。

これは三豊事故で問題になった、

「建物が完成したあと、誰が安全状態を維持するのか」

という問題と重なる。

第9回の大法院判決でも、設計・施工だけでなく完成後の維持管理が事故原因の一段階として認定されていた。

建築物の安全責任は、竣工検査を通った瞬間に終了するものではないという考えが、制度側でもより明確になっていった。

三豊事故の19日後|「災難管理法」が制定された

より直接的に三豊事故と結び付けられる制度が、

災難管理法

である。

韓国国家記録院は、この法律について、1990年代に相次いだ聖水大橋崩壊、阿峴洞都市ガス爆発、大邱上仁洞ガス爆発などの人為災害を背景としながら、三豊百貨店崩壊事故が直接的な契機となったと整理している。

法律第4950号。

制定日は、

1995年7月18日。

三豊百貨店崩壊から19日後だった。

目的は、火災、爆発、崩壊、交通事故など、人為的原因による大規模災害について、

  • 予防
  • 対応
  • 復旧
  • 緊急救助

を一つの体系として整備することだった。

それ以前は「誰が全体を指揮するのか」が曖昧だった

1990年代初頭の韓国では、災害対応の権限が種類ごとに分かれていた。

自然災害。
火災。
爆発。
建物崩壊。
交通事故。
戦争・民防衛。

それぞれに担当機関があり、必要に応じて協力する形だった。

日常的な小規模事故なら、この方法でも対応できる。

しかし三豊百貨店のように、

消防。
警察。
軍。
自治体。
医療機関。
行政機関。
民間重機。

が同時に必要になる大規模災害では、

「誰が全体を指揮・調整するのか」

が重要になる。

国家記録院は、三豊事故の救助で責任監督機関が明確でなかったことなどにより、体系的な活動が困難だったと整理している。

第7回で見た初動混乱は、単に現場の人員不足だけではなかった。

指揮系統そのものの問題でもあった。

災難管理法は何を作ったのか

1995年の災難管理法は、災害対応を制度として階層化した。

主な仕組みは次のように整理できる。

制度 役割
中央安全対策委員会 国レベルの災害管理政策を総合調整
地域安全対策委員会 自治体レベルで災害管理政策を調整
中央事故対策本部 大規模災害発生時に主管省庁が対応を統括
地域事故対策本部 現地自治体で災害収拾を統括
緊急救助救難本部 救助機関の役割分担と指揮・統制
特別災害地域 自治体だけでは対応困難な巨大災害へ国が特別支援

ここで事故前との違いが見える。

災害時に各機関がそれぞれ動くのではなく、

「調整する組織」「現場を統括する組織」「救助を指揮する組織」

を法律上位置付けようとした。

特別災害地域|三豊事故で新制度が実際に使われた

災難管理法には、大規模災害について特別災害地域を指定できる仕組みも設けられた。

自治体の行政・財政能力だけでは収拾が著しく困難な場合、国が行政、財政、税制、金融などの特別支援を行うための制度である。

大統領記録館には、三豊百貨店事故地域を特別災害地域として扱うための記録が残っている。

記録では、被害が極めて大きく影響範囲も広いため、ソウル市だけの行政・財政能力では事故収拾が困難であり、政府レベルの特別措置が必要と説明されている。

1995年7月19日の大統領談話でも、災難管理法に基づき三豊事故現場を特別災害地域として支援する方針が示された。

三豊百貨店事故は、巨大災害に対して、

「自治体の事故」から「国全体で処理する災害」へ切り替える制度

が現実に必要であることを示した。

救助体制にも直接的な変化|中央119救助隊

第7回では、三豊百貨店の救助現場で、

指揮系統。
人員集中。
交通統制。
建物情報。
重機運用。

など複数の問題があったことを見た。

韓国国家記録院によれば、三豊事故では責任監督機関の不在などが緊急人命救助を難しくした。

そこで政府は、大規模災害時に救助活動を総括する専門部隊の必要性を認識した。

そして1995年10月、

中央119救助隊

が発足した。

国家記録院は、三豊百貨店崩壊をこの組織発足へつながった重要な契機として明確に位置付けている。

その後、中央119救助隊は組織改編・拡充を重ね、韓国の大規模災害救助を担う中央組織へ発展していった。

救助の問題は「消防隊員の能力不足」ではなかった

三豊事故の初動混乱を見ると、

「救助隊の対応が悪かった」

という説明に流れやすい。

しかしSYSTEM型として見るなら、それだけではない。

どれほど個々の救助隊員が優秀でも、

誰が現場全体を指揮するか分からない。
各機関の役割が決まっていない。
重機運用を誰が判断するか曖昧。
情報が一か所へ集約されない。

という状態なら、大規模災害の効率は落ちる。

中央119救助隊や災難管理法による救助指揮体系の整備は、

個人能力ではなく「組織構造」を改善する対策

だった。

事故後、建物の安全評価も行われた

韓国国家記録院は、三豊百貨店事故を契機として建物の安全評価が実施されたことも記録している。

三豊事故が衝撃的だった理由の一つは、

老朽化した廃墟が崩れたのではなく、

営業中の大型商業施設が、完成からわずか数年で崩れたこと

にあった。

見た目が新しい。
営業している。
多数の客が利用している。

それだけでは、安全性の証明にならないことが明確になった。

事故後の安全対策では、

「問題が起きてから補修する」

だけではなく、

問題が表面化する前に点検・診断する

方向がより重要になっていく。

安全点検と「精密安全診断」は違う

施設安全制度では、単純な目視点検だけではなく、より詳細な精密安全診断が位置付けられた。

一般的な点検では、

亀裂。
変形。
腐食。
漏水。
設備状態。

など外観や日常的な異常を確認する。

一方、重大な問題が疑われる施設では、材料状態や構造性能まで含めて専門的に評価する必要がある。

三豊百貨店では、第5回で見たように、亀裂そのものは事故前から確認されていた。

問題は、それが、

「補修すべき表面上の異常」なのか「建物使用を止めるべき構造上の異常」なのか

を適切に評価できなかったことだった。

安全点検制度は、異常を発見するだけでなく、その意味を評価する仕組みまで必要になる。

FACT CHECK|三豊事故だけで韓国の建築制度が全面刷新されたのか

そう単純ではない。

韓国では1994年10月に聖水大橋が崩壊していた。

その後、

阿峴洞都市ガス爆発。
大邱上仁洞ガス爆発。
三豊百貨店崩壊。

と大規模な人為災害が続いた。

施設物安全管理特別法は三豊事故以前の1995年1月に制定されており、安全管理制度の見直しはすでに始まっていた。

一方、国家記録院は三豊百貨店崩壊を7月18日の災難管理法制定の「直接的な契機」と明記しており、中央119救助隊も同事故で明らかになった問題を受けて同年10月に発足した。

したがって、

三豊事故は韓国安全制度改革の唯一の起点ではないが、改革を急速に具体化させた決定的な事故の一つ

と整理するのが適切である。

1994〜95年の事故を並べると、制度変更の背景が見える

時期 事故・制度 意味
1994年10月 聖水大橋崩壊 大型インフラの施工・維持管理問題が表面化
1994年12月 阿峴洞都市ガス爆発 都市型人為災害への対応課題
1995年1月 施設物安全管理特別法制定 大型施設の点検・診断・維持管理制度を整備
1995年4月 同法施行 制度運用開始
1995年4月 大邱上仁洞ガス爆発 再び大規模人為災害
1995年6月29日 三豊百貨店崩壊 建築安全と災害対応双方の欠陥が表面化
1995年7月18日 災難管理法制定 人為災害を包括する管理体系を法制化
1995年10月 中央119救助隊発足 大規模災害専門救助体制を強化
1995年12月30日 施設物安全管理特別法改正 点検・維持管理違反への罰則を強化

この表を見ると、三豊事故を「すべての改革の始まり」とする説明が正確でない理由が分かる。

改革はすでに動き始めていた。

しかし三豊百貨店が崩れたことで、

建築安全の問題と、災害対応システムの問題が同時に突き付けられた。

2004年|災難管理法はさらに大きな制度へ統合された

1995年の災難管理法が、現在までそのまま残っているわけではない。

その後も大規模災害を経験する中で制度は改正され、2004年3月11日に、

「災難及び安全管理基本法」

が制定された。

これに伴い、1995年の災難管理法は廃止された。

同年には、災害管理を専門に扱う消防防災庁も発足している。

したがって、

1995年の制度

改正・組織整備

2004年の総合的な災害安全管理体系

という流れで見る必要がある。

三豊百貨店事故から直接現在の制度へ一本の線が続くわけではない。

事故と制度改正を繰り返しながら、管理体系そのものが更新されていった。

制度を作れば、事故はなくなるのか

ここまでを見ると、

法律を作った。
点検制度を作った。
救助組織を作った。
指揮本部を作った。

なら同じ事故は防げるように思える。

しかし三豊百貨店事故そのものが、それほど単純ではないことを示している。

三豊百貨店にも、

設計図。
構造計算。
建築許可。
監理。
行政点検。

という制度は存在していた。

それでも事故は起きた。

問題は、

制度が「あるか」ではなく、実際に安全側へ機能するか

である。

三豊事故の10回を、安全防護層として振り返る

CASE FILE 13で追ってきた内容を、安全防護層として並べてみる。

防護層 本来の役割 三豊百貨店で起きたこと
構造計画 用途と荷重に適した構造を決める 用途・階数が途中で変更
構造設計 必要な柱・床・鉄筋を計算 計算条件と設計図に差
施工 設計どおり造る 柱・鉄筋・ドロップ部等に問題
監理 施工不良を発見・是正 チェックが十分機能せず
行政 違法・危険な変更を止める 形式的点検・贈収賄問題
維持管理 完成後の変更と劣化を管理 用途変更・追加設備を十分検証せず
異常検知 危険を早期発見 亀裂・沈下そのものは発見
営業停止 危険時に利用者を建物から出す 全館避難が遅れた
緊急救助 崩壊後の人命救助 指揮・情報・現場統制に課題

事故後の制度改革は、この表の一か所だけを直すものではなかった。

点検を制度化する。

維持管理の責任を明確にする。

危険なら使用を制限する。

災害時の指揮本部を決める。

専門救助組織を作る。

自治体の能力を超えたら国が介入する。

複数の防護層を追加・強化する方向へ進んだ。

CASE FILE 13の結論|建物は20秒で崩れたが、事故は何年もかけて作られた

三豊百貨店A棟の崩壊そのものは約20秒だった。

しかし20秒だけを見ても、この事故は理解できない。

1980年代後半。

建物の計画が変わる。

設計が変わる。

5階が追加される。

用途が変わる。

施工段階で設計条件との差が生まれる。

営業後にも設備や荷重が追加される。

それでも建物は立ち続ける。

1995年。

亀裂が現れる。

6月29日朝、床が割れる。

午後、床が沈む。

それでも客は建物内にいる。

17時55分ごろ。

柱と床版の接合部が限界を超え、崩壊が連鎖する。

約20秒後、A棟は瓦礫になる。

その後17日間、救助が続く。

捜査が始まる。

裁判が行われる。

法律と組織が変わる。

この時間軸で見ると、三豊百貨店崩壊事故は、

「突然起きた建物事故」ではない。

長い期間にわたって安全余裕と防護層が少しずつ失われ、最後に人命を守る避難判断まで機能しなかったSYSTEM事故だった。

事故が残した最も大きな問い

三豊百貨店には、事故を止められる可能性のある地点が一つだけあったわけではない。

設計変更時に止められたかもしれない。

施工監理で見つけられたかもしれない。

用途変更時に再計算できたかもしれない。

安全点検で危険を発見できたかもしれない。

6月29日の朝に営業を止められたかもしれない。

午後の床沈下で全館避難できたかもしれない。

一つの防護が失敗しても、次が止めれば大惨事にはならない。

しかし、

すべての防護が同じ方向へ抜けたとき、最後に残るのは事故そのものになる。

三豊百貨店崩壊事故が30年以上経った現在も検証され続ける理由は、ここにある。

建築構造の事故であると同時に、

組織管理の事故。
行政監督の事故。
リスク判断の事故。
災害対応の事故。

だった。

CASE FILE 13は、その複数の層を一つずつ追ってきた。

建物はなくなった。

しかし、事故から得られた教訓が本当に残るかどうかは、

制度を作ったことではなく、その制度が次の異常を見つけたときに実際に人を止め、避難させられるか

によって決まる。

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第9回|誰が三豊百貨店崩壊の責任を問われたのか|経営陣・建設関係者・公務員の裁判

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第1回|三豊百貨店崩壊事故とは?|営業中の百貨店はなぜ崩れたのか

CASE FILE 13|全10回

  1. 第1回|三豊百貨店崩壊事故とは?|営業中の百貨店はなぜ崩れたのか
  2. 第2回|三豊百貨店はどう建てられたのか|用途変更・増築・繰り返された設計変更
  3. 第3回|三豊百貨店の建物構造|無梁板・柱・スラブは荷重をどう支えていたのか
  4. 第4回|なぜ建物の余裕は失われたのか|5階・冷却塔・改修と積み重なった荷重
  5. 第5回|崩壊の前兆はどこまで見えていたのか|ひび割れ、床沈下、それでも続いた営業
  6. 第6回|1995年6月29日、三豊百貨店で何が起きたのか|朝の異常から崩壊まで
  7. 第7回|瓦礫の下で続いた17日間|三豊百貨店の救助活動と最後の生存者
  8. 第8回|捜査は何を崩壊原因と認定したのか|設計・施工・維持管理を検証する
  9. 第9回|誰が三豊百貨店崩壊の責任を問われたのか|経営陣・建設関係者・公務員の裁判
  10. 第10回|現在の記事:三豊百貨店崩壊事故のあと何が変わったのか|安全点検・災害管理・制度改革

出典・参考資料

本記事では、三豊百貨店崩壊事故を韓国の安全制度すべての単一起点とは扱っていません。「施設物の安全管理に関する特別法」は三豊事故以前の1995年1月に制定されており、聖水大橋崩壊などを背景にすでに施設安全制度の改革が進んでいました。一方、韓国国家記録院は、1995年7月18日の「災難管理法」制定について三豊百貨店崩壊を直接的な契機と明記し、同事故で露呈した救助指揮上の問題を受けて同年10月に中央119救助隊が発足したと整理しています。そのため本記事では「三豊事故の直接的な制度対応」と「1990年代の大型事故群の中で進んだ広範な改革」を分離して記述しました。