三豊百貨店崩壊事故とは?|営業中の百貨店はなぜ崩れたのか
1995年6月29日夕方、韓国・ソウルの瑞草区にあった三豊百貨店では、まだ多くの客と従業員が建物の中にいた。
その日の朝から、建物には異常が現れていた。5階の床では亀裂が広がり、午後には床が沈み始めていた。それでも百貨店全体を対象とした早期の避難は行われず、営業は続いた。そして17時55分ごろ、A棟の床と柱の接合部で始まった破壊が建物全体へ広がり、巨大な売場が短時間のうちに地下階まで崩れ落ちた。[1][2]
韓国国家記録院の整理では、この事故による被害は死者502人、負傷者937人、行方不明6人。1990年代の韓国社会にとって最大級の都市災害となった。[3]
三豊百貨店崩壊事故が現在まで繰り返し検証されている理由は、単に「建物の施工が悪かった」からではない。設計変更、施工上の欠陥、荷重の増加、維持管理、建物に現れた前兆、そして営業を止める判断が遅れたことが、同じ建物の中で重なっていた。建物の構造と組織の意思決定が、一つの事故へ収束した事例として見る必要がある。[4]
CASE FILE 13|三豊百貨店崩壊事故特集(全10回)
この特集では、「百貨店が崩れた」という結果だけでなく、建物がどのように計画・変更され、どこで構造上の余裕を失い、事故当日にどのような異常が現れ、それでもなぜ営業を止められなかったのかを追う。
第1回では事故全体を俯瞰する。第2回以降で、設計変更、無梁板構造、荷重、崩壊前の警告、6月29日の時系列、救助、事故調査、裁判、制度変更をそれぞれ分離して詳しく見る。
- 第1回|現在の記事:三豊百貨店崩壊事故とは?|営業中の百貨店はなぜ崩れたのか
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第2回|三豊百貨店はどう建てられたのか|用途変更・増築・繰り返された設計変更
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第3回|三豊百貨店の建物構造|無梁板・柱・スラブは荷重をどう支えていたのか
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第4回|なぜ建物の余裕は失われたのか|5階・冷却塔・改修と積み重なった荷重
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第5回|崩壊の前兆はどこまで見えていたのか|ひび割れ、床沈下、それでも続いた営業
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第6回|1995年6月29日、三豊百貨店で何が起きたのか|朝の異常から崩壊まで
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第7回|瓦礫の下で続いた17日間|三豊百貨店の救助活動と最後の生存者
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第8回|捜査は何を崩壊原因と認定したのか|設計・施工・維持管理を検証する
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第9回|誰が三豊百貨店崩壊の責任を問われたのか|経営陣・建設関係者・公務員の裁判
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第10回|三豊百貨店崩壊事故のあと何が変わったのか|安全点検・災害管理・制度改革
この記事で分かること
- 三豊百貨店崩壊事故がいつ、どこで起きたのか
- 死者502人という大きな被害に至った経緯
- 三豊百貨店がどのような構造の建物だったのか
- 設計変更や施工上の問題がどのように重なったのか
- 屋上設備や5階の用途変更がなぜ重要なのか
- 事故当日にどのような異常が確認されていたのか
- 「パンチングせん断」とは何か
- なぜ一部の局所破壊が建物全体の崩壊へ広がったのか
- なぜ危険の兆候がありながら客を早期避難させられなかったのか
- 救助・捜査・裁判・制度変更まで事故後に何が起きたのか
先に結論|三豊百貨店は「一つの欠陥」で崩れたわけではない
三豊百貨店崩壊事故を「手抜き工事で建物が倒れた事故」とだけ説明すると、重要な部分が抜け落ちる。
事故後の調査では、設計段階の問題、施工上の欠陥、構造部材の実際の寸法や鉄筋位置、建物完成後の用途変更、追加された荷重、維持管理など、複数の問題が確認された。事故を再検討した法科学分野の研究も、設計・施工・管理に存在した直接要因と間接要因が重なった結果として崩壊を整理している。[4]
さらに、1995年6月29日には建物側から明確な異常が現れていた。建物だけを見れば「構造事故」だが、その異常に対して誰が何を知り、どの範囲を閉鎖し、客をいつ避難させるかという問題は「組織事故」でもある。
したがってこの事故は、
弱くなっていた建物
+
増えた荷重
+
進行する損傷
+
遅れた避難判断
という複数の層を分けて見る必要がある。
三豊百貨店崩壊事故の基本情報
| 発生日 | 1995年6月29日 |
|---|---|
| 崩壊時刻 | 17時55分ごろ |
| 場所 | 韓国・ソウル特別市瑞草区瑞草洞1685-3 |
| 施設 | 三豊百貨店 |
| 主な崩壊部分 | A棟 |
| 建物 | 鉄筋コンクリート造、地上5階・地下4階 |
| 死者 | 502人 |
| 負傷者 | 937人 |
| 行方不明 | 6人 |
| 主要な構造形式 | 無梁板/フラットスラブ系構造 |
人数については韓国国家記録院が死者502人、負傷者937人、行方不明6人と整理しており、2012年の事故原因再検討論文でも同じ数字が採用されている。国家記録院内の別コンテンツには古い集計や異なる数字も残るため、このシリーズでは502人・937人・6人を基準とする。[3][4]
事故現場はどこだったのか|現在の地図で旧所在地を見る
三豊百貨店は、ソウル中心部から南側に広がる瑞草区の瑞草洞にあった。国家記録院が記録する所在地は瑞草洞1685-3である。[3]
下のGoogle Mapは、この旧所在地を現在の地図上で確認するためのものだ。1995年の三豊百貨店の建物配置、A棟・B棟、中央部、売場内部などを再現した地図ではない。
三豊百貨店の旧所在地周辺。現在のGoogle Mapは1995年当時の百貨店建物や内部構造を表示していないため、歴史地点の位置確認用として見る必要がある。
この事故を理解するうえで重要なのは、特殊な工場や建設途中の建物が倒れたわけではないという点である。営業中の百貨店であり、買い物客、飲食店利用者、従業員が日常的に出入りしていた。そのため構造上の異常が「人のいる時間帯」に限界へ達したとき、被害は一気に大きくなった。
三豊百貨店はどのような建物だったのか
事故当時の三豊百貨店は、鉄筋コンクリート造の地上5階・地下4階の建物だった。主要部分には、梁を目立たせず、床版を柱が直接支えるフラットスラブ/フラットプレート系の構造が使われていた。[4][2]
一般的な鉄筋コンクリートの骨組みでは、床の荷重が梁へ伝わり、そこから柱へ流れていく。これに対してフラットスラブ系では、大きな梁を介さず床版から柱へ直接荷重を伝える。
この形式には、天井を平らにしやすい、階高を有効に使える、設備や売場を配置しやすいといった利点がある。百貨店のように広い売場を必要とする建物にとって、構造形式そのものが異常だったわけではない。
問題は、床と柱の接合部分に大きな力が集中することである。
柱が床版を下から押し抜くように破壊する現象を「パンチングせん断」と呼ぶ。紙を指で強く押したとき、指の周囲に沿って穴が開く状態を想像すると分かりやすい。実際の鉄筋コンクリートでは、柱周辺のコンクリートと鉄筋が荷重を支えるが、部材寸法、鉄筋位置、荷重、施工状態などの条件が悪化すると、この部分の安全余裕が小さくなる。
三豊百貨店の事故を調べた委員会は、5階レストラン部分の柱5E付近でパンチングせん断が始まったと結論づけた。後年の研究では、屋上スラブ側から始まった可能性についても検討されており、最初の破壊位置の細部には議論が残る。しかし、柱と床版の接合部で局所的な破壊が発生し、それが連鎖的な崩壊へ発展したという全体像は共通している。[2]
設計された建物と、実際に使われた建物は同じではなかった
三豊百貨店では、建設から営業開始後までにさまざまな変更が加えられていた。
国家記録院は、当初の計画から百貨店への用途変更が行われたこと、売場面積の拡大、不法な用途変更、設備の追加、屋上冷却塔などによって荷重が増加していたことを事故要因として整理している。[1]
構造工学の調査でも、5階と屋根を支える柱断面の縮小、施工品質の問題、5階の用途変更などが確認されている。[2]
ここで注意したいのは、「5階を食堂街にしたから崩れた」「冷却塔が重かったから崩れた」と一つだけを犯人にしないことだ。
建物には本来、一定の安全余裕を持たせる。しかし部材が設計どおりでない、施工精度が悪い、想定より重い設備や仕上げが増える、用途が変わる、といった条件が重なれば、その余裕は少しずつ失われる。
三豊百貨店で起きたのは、一つの極端な荷重が突然加わった事故ではなく、設計時の前提と実際の建物が長い時間をかけてずれていった事故と考える方が実態に近い。
事故当日の朝|建物はすでに異常を示していた
1995年6月29日朝、5階のレストラン部分では異常が明確になっていた。
国家記録院の事故経過では、8時05分ごろ、A棟5階の「春園」食堂付近で床に亀裂が発生したとされている。その後、午後にかけて床の沈下が進み、建物内では危険な変形が拡大していった。[1]
事故の約2か月前から5階付近で亀裂が確認されていたとする国家記録院の別資料もある。つまり、6月29日に突然ゼロから異常が始まったわけではなく、それまで蓄積していた構造上の問題が、その日に目に見える形で急速に悪化した可能性が高い。[5]
当日には5階の一部施設が閉鎖され、経営側も建物の状態について協議していた。それでも百貨店全体を早い段階で避難させる判断には至らなかった。
この判断が、事故の被害規模を考えるうえで非常に重要になる。
建物が崩壊すること自体と、その建物の中に何百人、何千人という人が残っていることは別の問題である。たとえ構造崩壊を完全に防げなかったとしても、より早い段階で全館避難が行われていれば、人命被害の規模は異なっていた可能性がある。
17時55分ごろ|局所破壊が建物全体へ広がった
午後になると床の沈下と変形はさらに進行した。
そして17時55分ごろ、A棟で構造破壊が急速に拡大した。国家記録院はA棟が約20秒という短時間で崩れたと整理している。[5]
フラットスラブ系の構造では、一つの柱と床版の接合部がパンチングせん断で耐力を失うと、その柱が支えていた荷重を周囲の柱や床へ再配分しなければならない。
周囲の構造に十分な余裕があれば、局所的な損傷で止まる可能性もある。しかしすでに多くの部分で安全余裕が小さくなっていれば、新しく荷重を受けた隣の接合部まで破壊する。
一つが壊れる。
荷重が隣へ移る。
隣も耐えられなくなる。
さらに次へ移る。
こうした連鎖によって、局所的な損傷が建物の広い範囲へ進む現象を進行性崩壊と呼ぶ。
2012年の事故原因研究も、三豊百貨店について、一つの柱・床版接合部の破壊が他の部分へ波及し、短時間で大規模な崩壊へ至る構造だったと説明している。[4]
なぜ502人もの犠牲者が出たのか
大きな人命被害は、建物の構造性能だけでは説明できない。
事故が起きたのは夕方だった。営業中の百貨店には客と従業員が残っていた。しかも崩壊が始まってから建物全体が失われるまでの時間は非常に短く、内部にいた人が自力で安全な場所まで移動する余裕はほとんどなかった。
一方で、建物側からの警告は崩壊の瞬間より前から存在していた。
Gardnerらの研究は、死者数が大きくなった要因の一つとして、所有・運営側が重大な構造異常の兆候に適切に対応せず、建物利用者を避難させなかった点を挙げている。[2]
ここが三豊百貨店事故のSYSTEM型としての中心になる。
構造に問題があった。
その問題が表面化した。
人が異常を認識した。
それでも営業中の建物から全員を出す判断が間に合わなかった。
事故は、コンクリートだけで成立したのではない。
崩壊後|瓦礫の下で始まった長期救助
崩壊直後から大規模な救助活動が始まった。しかし現場では、崩れた床版や柱が複雑に積み重なり、残った構造物の二次崩壊も警戒する必要があった。
初期の現場管理にも課題があった。国家記録院は、交通統制、現場への人の集中、建物図面の不足などが救助を難しくしたと記録している。[1]
それでも瓦礫の内部には、床や設備の隙間によって小さな生存空間が残っていた。
事故から10日後、13日後、さらに17日後にも生存者が発見された。最後に救出された朴勝賢(パク・スンヒョン)さんは、1995年7月15日、事故から約377時間後に救出されている。MBCの当時映像記録では、17日目の救出として詳細が残されている。[6]
17日後の生還は事故史の中でも強く記憶されているが、CASE FILEではこれを「奇跡」という一語で終わらせない。どのような空間が生存を可能にしたのか、救助側がどのように捜索を続けたのか、初動で何が問題だったのかは第7回で詳しく扱う。
事故調査|原因は設計・施工・維持管理へ広がった
事故後、現場調査、コンクリートや鉄筋の材料試験、設計図書、施工・管理記録、構造解析などが行われた。
事故原因を2012年に再検討した研究では、調査で確認された問題を、設計段階、施工段階、管理段階の複数レベルに分類している。[4]
つまり結論は、
「施工が悪かった」だけでも、
「重すぎた」だけでも、
「柱が細かった」だけでも、
「冷却塔が原因」だけでもない。
構造部材が本来期待された性能を持っていなかったこと、用途や荷重が変化したこと、施工品質が十分でなかったこと、建物の維持管理と異常への対応が不十分だったことが重なっていた。
第8回では、この原因を「直接原因」「構造上の寄与要因」「施工・管理上の背景要因」に分け、事故調査が何を認定したのかを詳しく検証する。
裁判|構造事故は刑事責任と汚職問題へ広がった
事故は技術調査だけでは終わらなかった。
三豊側の経営陣、建築・施工関係者、行政関係者らが刑事責任を問われた。三豊グループ会長だった李鐏(イ・ジュン)については、業務上過失致死傷などをめぐる裁判で、最終的に懲役7年6か月が確定した。[7]
また、三豊側から金銭を受け取った行政関係者についても収賄罪で有罪判決が確定している。[7]
ここでも「建物を造った人が全員同じ責任を負った」と考えるべきではない。設計、施工、運営、許認可、危険認識、事故当日の判断は、それぞれ異なる役割と法的責任を持つ。
第9回では、技術的な原因と刑事責任を切り離し、「誰が、何について責任を問われたのか」を判決の流れから整理する。
三豊事故のあと|災害管理の仕組みも見直された
三豊百貨店の崩壊は、建築安全だけでなく、韓国の災害対応体制そのものにも問題を突きつけた。
現場では救助指揮、交通統制、情報管理などに混乱が生じた。国家記録院は事故後の対応として、災害管理体制の法制化や地方自治体の災害担当組織整備などを記録している。[1]
また大規模な人的・物的被害を受け、政府は事故地域を特別災害地域として扱うための措置を進めた。大統領記録館には1995年7月の関連文書が残されている。[8]
ただし、その後の韓国の建築・防災制度の変化をすべて三豊事故だけの結果と説明することはできない。前年には聖水大橋崩壊も起きており、1990年代半ばには複数の大型事故を受けて安全制度全体が見直されていた。
第10回では、三豊事故と直接関係する対応と、同時期に進んでいたより広い制度改革を分けて見る。
FACT CHECK|「無梁板構造だから崩れた」は正しいのか
結論から言えば、正確ではない。
フラットスラブ/フラットプレート系の構造は世界各地で使用されている一般的な構造形式であり、それ自体が欠陥工法というわけではない。
三豊百貨店で問題だったのは、その構造形式に必要な柱・床版接合部の耐力、安全な鉄筋配置、適切な部材寸法、荷重管理、施工品質などが十分に確保されなかったことだった。
Gardnerらの計算では、当初の設計条件だけなら一定の安全性を持っていた一方、実際の部材寸法、荷重増加、鉄筋位置など複数の不利な条件を組み合わせると、パンチングせん断による崩壊可能性が大きく高まることが示されている。[2]
つまり、
構造形式と
その構造がどう設計・施工・使用されたか
は分けて考える必要がある。
三豊百貨店事故で最も重要なのは「止められる時点があった」こと
1995年6月29日17時55分ごろ、三豊百貨店A棟は崩壊した。
その瞬間だけを切り取れば、鉄筋コンクリートの柱と床版が耐えられなくなった構造事故である。
しかし時間を巻き戻すと、事故の姿は変わる。
建物は設計から変更され、施工され、営業中にも使われ方が変わった。荷重は増え、構造上の余裕は小さくなった。そして事故前には亀裂が現れ、事故当日には床の変形が進行していた。
それでも建物には客が残った。
三豊百貨店崩壊事故を理解するうえで本質的なのは、「なぜ壊れたか」と同じくらい、壊れる前に危険が見えていたのに、なぜ建物を空にできなかったのかという問題である。
CASE FILE 13では、この二つを別々にせず追っていく。
次回は事故の瞬間からさらに時間を戻す。三豊百貨店は最初から、1995年6月29日に存在した姿で計画されていたわけではない。建設途中と営業開始後に何が変更され、それが構造上どのような意味を持ったのかを確認する。
CASE FILE 13|全10回
- 第1回|現在の記事:三豊百貨店崩壊事故とは?|営業中の百貨店はなぜ崩れたのか
- 第2回|三豊百貨店はどう建てられたのか|用途変更・増築・繰り返された設計変更
- 第3回|三豊百貨店の建物構造|無梁板・柱・スラブは荷重をどう支えていたのか
- 第4回|なぜ建物の余裕は失われたのか|5階・冷却塔・改修と積み重なった荷重
- 第5回|崩壊の前兆はどこまで見えていたのか|ひび割れ、床沈下、それでも続いた営業
- 第6回|1995年6月29日、三豊百貨店で何が起きたのか|朝の異常から崩壊まで
- 第7回|瓦礫の下で続いた17日間|三豊百貨店の救助活動と最後の生存者
- 第8回|捜査は何を崩壊原因と認定したのか|設計・施工・維持管理を検証する
- 第9回|誰が三豊百貨店崩壊の責任を問われたのか|経営陣・建設関係者・公務員の裁判
- 第10回|三豊百貨店崩壊事故のあと何が変わったのか|安全点検・災害管理・制度改革
出典・参考資料
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韓国国家記録院 — 삼풍백화점 붕괴사고
1995年6月29日の事故経過、朝からの床亀裂、床沈下、増築・用途変更、追加荷重、屋上冷却塔、初期救助活動上の問題、事故後の災害管理体制整備の確認に使用。
-
Gardner, Huh & Chung — Lessons from the Sampoong department store collapse, Cement and Concrete Composites, 2002
調査委員会報告をもとに、フラットプレート構造、柱5E付近からのパンチングせん断、柱断面縮小、施工不良、5階用途変更、荷重増加、事故前の構造異常と避難判断を技術的に確認するため使用。
-
韓国国家記録院 — 삼풍백화점 붕괴사고
事故日時、旧所在地、死者502人、負傷者937人、行方不明6人、建物規模などの基本情報確認に使用。
-
Inspection of collapse cause of Sampoong Department Store, Forensic Science International, 2012
建物の地上5階・地下4階構成、フラットスラブ構造、被害人数、材料試験・設計図書・施工管理記録・構造解析による事故調査、設計・施工・管理の複合要因という結論の確認に使用。
-
韓国国家記録院 — 기록으로 만나는 대한민국「대형 붕괴사고」
事故前約2か月からの亀裂、事故当日の異常、A棟が短時間で崩壊した経緯、安全評価・災害対応体制見直しの歴史的整理に使用。
-
MBC Newsdesk — 17일만에 구조된 박승현양 발견에서 구조까지의 전 과정
1995年7月15日、事故17日目に朴勝賢さんが瓦礫から救出された当時記録の確認に使用。
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ソウル新聞 — 삼풍사고 형량 확정/이준 회장 7년6월/대법원
1996年8月23日の韓国大法院判決、李鐏会長の懲役7年6か月確定、行政関係者の収賄事件など、事故後の刑事責任確認に使用。
-
韓国大統領記録館 — 특별재해지역선포건의
三豊百貨店崩壊事故後、被害規模を踏まえて特別災害地域指定と政府レベルの支援措置が検討された経緯の確認に使用。
本記事は、韓国国家記録院の公的記録、事故調査を再検討した構造工学・法科学分野の論文、当時の報道記録、司法記録等を照合し、確認できる事実と後世の単純化を分けて構成しています。事故時刻や被害人数など資料間で表記差がある箇所では、国家記録院および事故調査研究で一致する値を優先しています。