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1995年6月29日、三豊百貨店で何が起きたのか朝の異常から崩壊まで

1995年6月29日、三豊百貨店で何が起きたのか|朝の異常から崩壊まで

建築・構造物事故

1995年6月29日の朝、ソウルの三豊百貨店では、すでに通常とは違う状態が始まっていた。

A棟5階の飲食店では床に亀裂が現れた。時間が経つにつれて床は沈み、建物からは異音や振動が伝わるようになった。一部の店は閉鎖され、設備も停止された。それでも、下の売場では客が買い物を続けていた。

そして夕方。

崩壊の数分前になって避難が始まったが、残された時間は短かった。

17時55分ごろ、A棟の構造が連鎖的に耐力を失った。床版が落下し、その衝撃が下階へ伝わり、建物の大部分が短時間のうちに崩れた。韓国国家記録院は、A棟の崩壊を約20秒と記録している。[1]

第6回では、事故原因を項目ごとに説明するのではなく、1995年6月29日の一日を時間の流れに沿って再構成する。

重要なのは、「何時に何が起きたか」を並べることだけではない。

建物の状態が時間とともにどのように悪化し、それに対する人間側の対応がどこまで追いついていたのか。

二つの時間軸を重ねると、この事故の成立過程が見えてくる。

CASE FILE 13|三豊百貨店崩壊事故特集(全10回)

第5回では、亀裂や床沈下という警告が確認されながら、なぜ早い段階で全館避難へ移れなかったのかを組織判断の側から見た。

今回は同じ6月29日を、判断の是非ではなく時系列として追う。

  1. 第1回|三豊百貨店崩壊事故とは?|営業中の百貨店はなぜ崩れたのか
  2. 第2回|三豊百貨店はどう建てられたのか|用途変更・増築・繰り返された設計変更
  3. 第3回|三豊百貨店の建物構造|無梁板・柱・スラブは荷重をどう支えていたのか
  4. 第4回|なぜ建物の余裕は失われたのか|5階・冷却塔・改修と積み重なった荷重
  5. 第5回|崩壊の前兆はどこまで見えていたのか|ひび割れ、床沈下、それでも続いた営業
  6. 第6回|現在の記事:1995年6月29日、三豊百貨店で何が起きたのか|朝の異常から崩壊まで
  7. 第7回|瓦礫の下で続いた17日間|三豊百貨店の救助活動と最後の生存者
  8. 第8回|捜査は何を崩壊原因と認定したのか|設計・施工・維持管理を検証する
  9. 第9回|誰が三豊百貨店崩壊の責任を問われたのか|経営陣・建設関係者・公務員の裁判
  10. 第10回|三豊百貨店崩壊事故のあと何が変わったのか|安全点検・災害管理・制度改革

先に全体像|異常発見から崩壊まで約10時間

韓国国家記録院の事故記録で最初に明確な時刻が示されるのは、6月29日8時05分ごろである。

A棟5階の春園食堂で床に亀裂が生じ始めた。[2]

そこから崩壊まで約10時間。

一日の大きな流れは次のようになる。

時刻・時間帯 建物側 人間側 確度
8時05分ごろ 5階春園食堂で床の亀裂 異常が認識され始める 公的記録
午前 亀裂・変形が継続 一部店舗の使用停止、現場確認 複数資料で確認
昼前後 振動・変形が問題になる 設備停止、5階での対応 二次資料を含む
午後 食堂床の沈下が進行 管理・経営側で対応検討 公的記録+補助資料
夕方 変形が急速に進行 避難開始 公的記録
17時55分ごろ 連鎖的なせん断破壊、A棟崩壊 多数の客・従業員が建物内に残る 公的記録・事故調査系論文

この一日で注目すべきなのは、建物の状態が一定ではないことである。

朝から夕方まで「危険な建物が同じ状態で営業していた」のではない。

時間が進むほど、異常の種類と程度が変化していた。

8時05分ごろ|5階・春園食堂の床が割れ始める

韓国国家記録院は、事故当日の8時05分ごろ、三豊百貨店A棟5階の春園食堂で床が割れ始めたと記録している。[2]

5階は、第2回・第4回で確認したように、当初想定されたローラースケート場から飲食店街へ用途が変更されていた。

床や間仕切りなどの固定荷重が増え、柱・スラブ接合部にも設計時とは異なる力が作用していた。

その場所に、目で確認できる異常が現れた。

この時点では、もちろん「今日の夕方に建物全体が崩れる」と確定したわけではない。

しかし、事故後に判明した構造状態を踏まえれば、亀裂は内部で進行していた応力と変形が表面へ現れ始めたものだった。

午前|異常は一つの店だけでは済まなくなっていく

朝に確認された異常を受け、5階では一部の店舗が営業を停止し、施設担当者らによる確認が行われた。

後年の事故ケーススタディでは、柱5E周辺を中心に床の変形や亀裂が確認されていたことが整理されている。

ここで重要なのは、

「何も異常がないと判断された」のではない

という点である。

実際に一部店舗を閉じるという対応が取られている以上、通常営業とは異なる状態にあることは認識されていた。

一方、建物全体の営業停止までは行われなかった。

下階では通常の百貨店営業が続き、客は売場を利用していた。

午前から昼|音と振動が加わる

事故当日に関する工学系ケーススタディや証言整理では、午前から昼にかけて、上階付近から異音や振動が感じられるようになった経過が記録されている。

こうした振動について、当初は屋上の空調設備などが原因ではないかと考えられた。

そのため、空調設備の運転を止めるなどの対応も行われたとされる。

原因が設備にあるのか、建物の構造そのものにあるのか。

当時の現場から見れば、最初から明確だったとは限らない。

しかし、

亀裂

変形

振動

と、異なる種類の異常が同時に現れ始めたことで、状況は単なる表面仕上げの問題では説明しにくくなっていた。

午後|床が「割れる」から「沈む」へ変わる

午後になると、異常はさらに進んだ。

国家記録院は、5階食堂の床が沈下し始めたと記録している。[2]

これは時系列上、大きな転換点である。

亀裂は材料内部で応力が高まっていることを示すが、床沈下は構造物の形そのものが変化していることを意味する。

第3回で見たフラットスラブ構造では、床版が柱へ直接荷重を渡している。

柱・スラブ接合部が損傷して床が下がれば、それまでその柱が受けていた荷重の一部が周囲の柱へ移る。

国家記録院も、

床の沈下によって床版荷重が隣接柱へ追加で伝わり、連鎖的なせん断破壊へ至った

と事故経過を整理している。[2]

午後|建物の問題が経営側の議題になる

午後には、建物の異常は現場担当者だけの問題ではなくなっていた。

技術者を含めた確認や経営側の会議が行われ、建物の状態と補修方法が検討されたことが、当時報道や後年の事故資料に残っている。

ここで第5回で扱った判断問題が発生する。

一部を閉鎖して補修するのか。

建物全体を閉鎖するのか。

客を即時に外へ出すのか。

原因をさらに確認してから判断するのか。

最終的に、百貨店全体を十分早い段階で空にする判断には至らなかった。

その間にも、構造物の状態は悪化し続けていた。

夕方|「補修を考える時間」から「避難する時間」へ

構造事故では、ある時点までは補修や支保工の設置を考えられる場合がある。

しかし損傷が進み、構造物が連続的に変形し始めれば、同じ対応を続けることはできない。

夕方の三豊百貨店では、その境界を越えつつあった。

床の沈下が進み、建物から異音が続き、上階にいた人々の中には自ら避難を始めた者もいたとする証言記録が残っている。

問題は、百貨店の利用者全体へ危険が共有される時点が遅かったことである。

建物の上階で何が起きているかを知らない客にとって、下階の売場は通常営業している百貨店に見える。

5階で構造物が限界へ近づいていても、地下階や下層階の客には、それを判断する情報がほとんどなかった。

崩壊数分前|ようやく避難が始まる

韓国国家記録院の「大規模崩壊事故」資料では、崩壊開始のわずか数分前になって非常ベルが鳴らされ、客の避難が始まったとされている。[1]

ここから先は、時間の尺度が変わる。

朝から午後までは「時間」単位で状況が進行していた。

崩壊直前になると、それが「分」単位になった。

多数の客と従業員がいる百貨店を、数分で完全に空にすることは困難である。

上階だけではない。

買い物中の客、飲食店利用者、従業員、地下売場にいた人々が、それぞれ現在位置から出口まで移動しなければならない。

非常ベルが鳴った時点で、構造物側にはそれだけの時間が残っていなかった。

17時52分か、17時55分か|資料で崩壊時刻が違う

FACT CHECK|崩壊時刻

三豊百貨店の崩壊時刻は、資料によって数分の差がある。

韓国国家記録院の事故別詳細ページでは、

1995年6月29日17時55分ごろ

とされている。

また、事故調査委員会報告を要約したGardnerらの査読論文も、

17:55

と記載している。

一方、国家記録院の「記録で見る大規模崩壊事故」ページでは17時52分ごろという記述もある。

本シリーズでは、事故別詳細記録と事故調査系論文が一致する17時55分ごろを本文の基準とし、分単位の記録差があることを併記する。

17時55分ごろ|柱と床の接合部が耐力を失う

事故調査委員会は、崩壊開始領域を5階レストラン部分の柱5E周辺とした。

Gardnerらの論文では、調査委員会が5階の柱5E接合部から崩壊が始まったと結論づけた一方、解析上は屋根スラブ側の5E接合部が先に破壊した可能性も示されている。[3]

したがって、

「最初の一瞬に5階側と屋根側のどちらが先だったか」

には技術的な留保が残る。

しかし全体としては、柱5E周辺の柱・スラブ接合部が崩壊開始領域だったことが強く支持されている。

接合部が耐力を失うと、その床版を支えていた柱は荷重を受け持てなくなる。

しかし床の重量そのものは消えない。

行き場を失った荷重は、隣の柱や床版へ再配分される。

数秒後|一つの破壊が隣へ伝わる

国家記録院は、食堂床の沈下によって各床版の荷重が隣接柱へ追加で伝わり、連鎖的なせん断破壊が発生したと整理している。[2]

第3回で説明したパンチングせん断が、一つの接合部だけで止まらなかった。

柱Aが支えられなくなる。

荷重が柱B・Cへ移る。

もともと余裕の小さいB・Cも耐力を失う。

さらに広い床版が支持を失う。

という形で崩壊範囲が拡大していく。

構造工学では、このように局所的な損傷が周囲へ波及して建物の広い範囲を失わせる現象を進行性崩壊という。

床版が落下すると、今度は「静かな荷重」ではなくなる

通常時、建物の床は自重や人、設備などを静的な荷重として支えている。

しかし上階の床版が落下すると、状況は変わる。

数百トン規模の構造物が高さを持って落下すれば、下階には自重以上の衝撃荷重が加わる。

その下の床は、通常使用時に想定される荷重を受けているのではない。

上から落下してきた床、商品、設備、人、瓦礫を一度に受ける。

そこで下階も耐えられなくなる。

一階分落ちる。
その床が次の床へ衝突する。
さらに下へ落ちる。

こうして鉛直方向にも崩壊が広がった。

約20秒|A棟が消えるまで

国家記録院は、A棟が約20秒で崩壊したと記録している。[1]

20秒という時間は、事故の映像を見るより数字で考えた方が短さを実感しやすい。

異常を認識する。
周囲を見る。
出口の方向を判断する。
人混みの中を移動する。
階段へ向かう。

それだけで20秒を超える。

まして地下階や建物中央部から安全圏まで移動することはできない。

つまり、構造崩壊が始まったあとに利用者個人の判断で被害を大きく減らす余地は極めて小さかった。

人命を守れる時間は、崩壊開始後の20秒ではなく、その数時間前に存在していた

崩壊直後|現場は「建物事故」から「都市災害」へ変わった

A棟の崩壊によって大量の瓦礫と粉じんが発生した。

道路には負傷者、避難者、救急車、消防車、警察、報道関係者、周辺住民が集中した。

建物内部では多数の人が瓦礫の下に取り残されていた。

ここから事故の性質は変わる。

崩壊前までは、

建物を止める事故

だった。

崩壊後は、

生存者を探し出す災害

になる。

国家記録院は、初期救助について、現場への多数の人員流入、交通統制の不十分さ、設計図面情報の不足などが救助活動を難しくしたと記録している。[2]

それでも、この瓦礫の内部から事故後10日以上が経過して生存者が救出されることになる。

その過程は第7回で扱う。

6月29日の時間軸を4つに分ける

一日の出来事を、建物側と人間側に分けて整理すると次のようになる。

段階 建物 管理側 利用者
亀裂が顕在化 現場確認・一部閉鎖 百貨店は営業
異音・振動・変形 設備停止・技術確認 大部分は通常利用
午後 床沈下が進行 対応・補修を検討 多数が建物内
夕方 接合部が限界へ 避難開始 避難時間が不足
17時55分ごろ 進行性崩壊 対応不能 多数が取り残される

この表から分かるのは、建物と人間の時間軸がずれていたことである。

建物側では、朝から夕方へ向けて異常が強くなっている。

しかし人間側では、対応が同じ速度で強化されていない。

一部閉鎖。
設備停止。
確認。
会議。

と段階的に対応している間にも、構造物側は限界へ近づいていた。

「どの時点なら止められたのか」は一つに決められない

事故後には、

「朝8時05分に避難させていればよかった」

「午後の会議で閉店すべきだった」

と、ある一つの時刻を事故回避点として選びたくなる。

しかし実際の安全判断は、それほど単純ではない。

8時05分の亀裂だけで全館崩壊を予測できたのか。

どの時点で床沈下が構造上の重大異常だと判断できたのか。

専門家が得ていた情報は何だったのか。

資料にはなお検討すべき部分が残る。

一方で明確なのは、時間が進むにつれて、

「安全である」と判断するために必要な根拠は弱くなり、「使用を止めるべき根拠」は増えていた

ことである。

この事故の時間的な本質|20秒の崩壊に、約10時間の前段階があった

三豊百貨店の崩壊そのものは非常に短かった。

約20秒。

しかし、その20秒だけを事故だと考えると、本質を見失う。

8時05分ごろ、床に亀裂が現れる。

その後、異音と振動が加わる。

午後には床が沈む。

技術者や管理側が異常を確認する。

それでも建物内には多数の客が残る。

そして夕方、ようやく避難が始まったあと、構造物側が先に限界を迎える。

つまり、

三豊百貨店事故は「20秒で起きた事故」ではない。

崩壊までの約10時間、さらに言えば数か月前から続く前兆の中で、安全を回復する機会が少しずつ失われていった事故だった。

次回|崩壊後、瓦礫の下で何が起きていたのか

17時55分ごろで、建物の時間軸はいったん終わる。

しかし人の時間軸は終わらなかった。

崩れた床版の間には、小さな空間が残った。

水も食料もほとんどない状態で、生存者は救助を待った。

地上では、二次崩壊の危険がある瓦礫の中へ救助隊が入った。

事故後10日以上が経過しても、生存者は発見された。

そして17日目。

最後の生存者が瓦礫の中から救出される。

次回は、三豊百貨店崩壊事故を「どう壊れたか」から「どう救ったか」へ切り替え、初動救助、捜索、生存空間、長期生存者、そして約377時間後の救出までを追う。

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第5回|崩壊の前兆はどこまで見えていたのか|ひび割れ、床沈下、それでも続いた営業

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第7回|瓦礫の下で続いた17日間|三豊百貨店の救助活動と最後の生存者

CASE FILE 13|全10回

  1. 第1回|三豊百貨店崩壊事故とは?|営業中の百貨店はなぜ崩れたのか
  2. 第2回|三豊百貨店はどう建てられたのか|用途変更・増築・繰り返された設計変更
  3. 第3回|三豊百貨店の建物構造|無梁板・柱・スラブは荷重をどう支えていたのか
  4. 第4回|なぜ建物の余裕は失われたのか|5階・冷却塔・改修と積み重なった荷重
  5. 第5回|崩壊の前兆はどこまで見えていたのか|ひび割れ、床沈下、それでも続いた営業
  6. 第6回|現在の記事:1995年6月29日、三豊百貨店で何が起きたのか|朝の異常から崩壊まで
  7. 第7回|瓦礫の下で続いた17日間|三豊百貨店の救助活動と最後の生存者
  8. 第8回|捜査は何を崩壊原因と認定したのか|設計・施工・維持管理を検証する
  9. 第9回|誰が三豊百貨店崩壊の責任を問われたのか|経営陣・建設関係者・公務員の裁判
  10. 第10回|三豊百貨店崩壊事故のあと何が変わったのか|安全点検・災害管理・制度改革

出典・参考資料

本記事は韓国国家記録院の事故別記録を時系列の基準とし、事故調査委員会を整理した構造工学論文、後年の事故原因再検証を補助的に照合して構成しています。崩壊時刻については国家記録院内でも「17時52分ごろ」と「17時55分ごろ」の表記差があるため、本記事では事故別詳細記録およびGardnerらの論文が一致する17時55分ごろを基準としました。午前・午後の会議や個々の証言に基づく細かな分単位の時刻は資料差が大きいため、確度の低い時刻を断定せず、「午前」「昼前後」「午後」「夕方」と幅を持たせています。