1985年6月18日、ロナルド・レーガン大統領は記者会見で、テロリストに譲歩すればさらなるテロを招くとして、アメリカは人質を取る者たちに譲歩しないという立場を改めて表明した。
ところが、そのわずか数週間後。
ホワイトハウス内部では、アメリカ製の対戦車ミサイルをイランへ渡し、その見返りとしてレバノンで拘束されているアメリカ人人質の解放につなげる構想が具体的に検討され始めていた。
なぜ、1979年のイラン革命と米大使館人質事件以来、敵対関係にあったアメリカとイランの間で、このような秘密交渉が始まったのか。
後に「イラン・コントラ事件」と呼ばれる秘密活動の出発点には、単純な一つの理由ではなく、いくつかの問題が重なっていた。
レバノンで増え続けるアメリカ人人質、革命後のイランとの断絶、イランに対するソ連の影響力への懸念、そしてイラン国内に西側との関係改善を望む勢力が存在するのではないかという期待である。
第2回では、まだ「コントラ」も資金流用も登場しない。
1985年、レーガン政権がなぜイランとの秘密外交へ踏み出し、そこへ武器と人質が入り込んでいったのかを追う。
CASE FILE 43
イラン・コントラ事件 1985–1987|全10回
イランへの秘密武器取引と、ニカラグアのコントラへの秘密支援。
本来は異なる二つの政策が、どのように一つの政治スキャンダルへ結びついたのかを、公文書・議会調査・独立検察官報告から追う。
-
第1回 イラン・コントラ事件とは?|武器売却とコントラ支援が結びついた秘密工作の全貌
- 第2回 なぜイランへ武器を売ったのか|レバノン人質問題と「イラン・イニシアチブ」[現在の記事]
-
第3回 武器はどうイランへ渡ったのか|イスラエル経由から米国直接取引まで
-
第4回 なぜコントラ支援は秘密化したのか|ボランド修正と議会統制
-
第5回 武器代金はどうコントラへ流れたのか|資金流用と「Enterprise」の仕組み
-
第6回 誰が秘密作戦を動かしたのか|オリバー・ノース、ポインデクスターとNSCの実働化
-
第7回 イラン・コントラ事件はどう発覚したのか|1986年11月、秘密工作が表に出るまで
-
第8回 調査は何を突き止めたのか|タワー委員会と1987年議会公聴会
-
第9回 刑事責任はどう裁かれたのか|ウォルシュ独立検察官、逆転判決、そして恩赦
-
第10回 レーガンはどこまで知っていたのか|確定事実・争点・イラン・コントラ事件が残したもの
1985年、レバノンでアメリカ人人質が増えていた
イランへの秘密接触を理解するには、まず1980年代半ばのレバノンを見る必要がある。
当時のレバノンでは内戦が続き、複数の武装組織が活動していた。
その中でアメリカ人を標的とした誘拐が相次ぎ、レーガン政権にとって重大な外交・安全保障問題になっていた。
1984年には長老派牧師ベンジャミン・ウィアと、CIAベイルート支局長ウィリアム・バックリーが拘束された。
1985年1月にはカトリック救援組織Catholic Relief Servicesのローレンス・ジェンコ、3月にはAP通信の中東特派員テリー・アンダーソンが拉致された。
さらに5月28日にはベイルート・アメリカン大学病院のデービッド・ジェイコブセン、6月9日には同大学農学部長トーマス・サザーランドが拘束された。
1985年夏までに、複数のアメリカ人がレバノンで行方を奪われた状態となっていた。
レーガン自身も、人質問題への関心が非常に強かった。
後のイラン・コントラ調査では、この「人質を生きて帰したい」という大統領の強い意向が、イランとの秘密交渉を継続する重要な要因の一つだったことが繰り返し確認されている。
なぜ「イラン」が人質解放につながると考えられたのか
ここで注意したいのは、アメリカ人人質を直接拘束していたのがイラン政府だった、という意味ではないことである。
人質事件の舞台はレバノンだった。
しかしアメリカ側では、イランがレバノンのシーア派武装勢力に影響力を持っており、その影響力を使えば人質解放を促すことができるのではないかと考えられた。
したがって、構想は大まかに次のようなものだった。
| 主体 | 期待された役割 |
|---|---|
| アメリカ | イランとの関係改善へ何らかの「善意」を示す |
| イラン側の接触相手 | 西側との関係改善を進める |
| イラン側 | レバノンの武装勢力へ影響力を行使する |
| 武装勢力 | アメリカ人人質を解放する |
ただし、この構図には最初から大きな不確実性があった。
イラン政府が人質拘束組織を完全に指揮していたわけではない。
さらにアメリカ側が接触していた人物が、本当にイラン政府内部の有力者へどこまでアクセスできるのかも明確ではなかった。
それでも、他に有効な手段が見つからない状況で「イランを通じて人質解放に働きかける」という案は、ホワイトハウス内部で検討されるようになった。
人質だけが理由ではなかった――対イラン戦略の見直し
後から事件を見ると、イランへの接触は「人質を取り戻すために武器を渡した」と説明したくなる。
しかし、1985年春の政策議論にはもう一つの軸があった。
それが、革命後のイランを完全に西側から孤立させ続けることへの安全保障上の懸念だった。
1979年のイラン革命によって親米的だったパフラヴィー朝は崩壊し、米イラン関係は急速に悪化した。
一方、冷戦はまだ続いていた。
アメリカ政府の一部には、イランが西側との関係を失うことでソ連の影響を受けやすくなるのではないかという懸念があった。
1985年5月、CIA長官ウィリアム・ケーシーの要請で作成された特別国家情報評価(Special National Intelligence Estimate=SNIE)は、この問題を検討した。
ウォルシュ独立検察官の最終報告によれば、そこでは西側諸国とイランの関係改善を進める新しい方法が必要だとされ、選択肢の一つとして対イラン武器販売制限の見直しまで示されていた。
6月になると、NSCスタッフは国家安全保障担当大統領補佐官ロバート・マクファーレン向けに「U.S. Policy Toward Iran」と題する国家安全保障決定指令(NSDD)の草案を作成した。
構想の中心は、イランとの貿易や政治関係を徐々に改善し、西側との関係を再構築することだった。
選択的な軍事装備の供給も、その手段の一つとして検討された。
つまり最初の政策論には、
- レバノンのアメリカ人人質を解放したい
- イランとの完全な敵対関係を将来的に修正したい
- ソ連がイランへ影響力を広げることを防ぎたい
という複数の目的が存在していた。
この点は後の「arms for hostages」という評価を理解するうえで重要になる。
出発点の政策構想と、実際に運用された取引の形は完全には同じではなかった。
政府内部でも武器供与には反対があった
対イラン政策の見直しが、レーガン政権内部で一致して支持されていたわけではない。
マクファーレンは1985年6月17日、対イラン政策案をジョージ・シュルツ国務長官、キャスパー・ワインバーガー国防長官、ウィリアム・ケーシーCIA長官らへ回覧した。
シュルツとワインバーガーは、この方針に反対した。
一方、ケーシーは支持した。
特に問題となったのは、関係改善の手段として武器を用いることだった。
当時アメリカは、テロ支援に関係する国家への武器供給を抑制し、他国にもイランへの武器移転を避けるよう求める政策を取っていた。
その状況で自ら秘密裏にアメリカ製兵器を渡せば、公表している政策との矛盾が生じる。
また、もし人質の解放と兵器供給が直接結びつけば、「テロリストに譲歩しない」というレーガン政権自身の原則とも衝突する。
実際、6月18日の記者会見でレーガンは、人質を取った者へ譲歩することはさらなるテロを招くという立場を公に示していた。
それにもかかわらず、秘密交渉では人質と武器が徐々に同じテーブルへ載ることになる。
イスラエルから持ち込まれた「イランとの秘密ルート」
政策議論を具体的な秘密交渉へ変えた重要な役割を担ったのがイスラエルだった。
1985年5月初め、NSCの非常勤コンサルタントだったマイケル・リディーンは、マクファーレンの了承を得てイスラエルを訪れ、首相シモン・ペレスとイラン情勢について話し合った。
この接触を起点として、イスラエル側から「イラン国内には西側との関係改善を望む人物がいる」という情報がアメリカ側へ伝えられていった。
7月3日、イスラエル外務省のデービッド・キムヒがホワイトハウスでマクファーレンと会談した。
キムヒの説明によれば、イスラエルと接触しているイラン人たちはアメリカとの政治的対話を望んでおり、その意思を示すため、レバノンの武装勢力に働きかけてアメリカ人人質を解放させることができるという。
ただし、イラン側も見返りを求めていた。
それが軍事装備だった。
この時点から、抽象的だった「イランとの関係改善」と、具体的な「人質解放」、さらに「武器供給」という三つの問題が、一つの交渉経路の中へ入り始める。
マンウチェル・ゴルバニファル――信用できない仲介者
この秘密ルートで中心的な仲介者となった人物が、イラン人実業家マンウチェル・ゴルバニファル(Manucher Ghorbanifar)だった。
1985年7月、イスラエル側はゴルバニファルがイラン国内の「西側との関係改善を望むグループ」と接触しているとアメリカ側へ説明した。
ゴルバニファルによれば、そのグループは人質解放へ働きかけることができ、その代わりにアメリカ製TOW対戦車ミサイル100発を必要としていた。
ただし、ここには極めて大きな問題があった。
CIAはゴルバニファルを信頼していなかった。
独立検察官ウォルシュの最終報告によれば、CIAは過去の接触から彼の情報を信用できないと判断し、1984年7月には米政府機関が彼との取引を避けるよう事実上勧告する「burn notice」を出していた。
それにもかかわらず、ゴルバニファルはその後約1年間、アメリカ、イスラエル、イランをつなぐ最初の主要ルート――後に「First Channel」と呼ばれる経路の中心人物となった。
FACT CHECK|「イランの穏健派」は確認された組織だったのか
この表現は慎重に扱う必要がある。
当時の交渉では、イスラエル側やゴルバニファルから「アメリカとの関係改善を望むイラン人」「穏健派」といった説明が繰り返し持ち込まれた。
しかし、アメリカ側はその人物たちの実際の権限や影響力を十分に確認できていなかった。
したがって、「イラン政府内に明確な親米穏健派組織が存在し、米国がそれと公式交渉した」と理解するのは正確ではない。
このシリーズでは、当時の米側資料で用いられた構想・主張として扱い、実在の影響力が確認された事実とは分ける。
レーガンはいつ武器供与を認めたのか
ここも、単純な日付を一つ置くだけでは説明できない。
1985年7月18日ごろ、癌手術後にベセスダ海軍病院で療養していたレーガン大統領をマクファーレンと首席補佐官ドナルド・リーガンが訪れ、イスラエル側からの提案を説明した。
ウォルシュ報告によれば、この時レーガンはイランとの対話をさらに探ることには前向きだったが、武器供与まで明確に承認したとは確認されていない。
その後、7月末にはリディーンがゴルバニファルらと接触。
8月2日にはキムヒが再びマクファーレンと会い、問題をより具体化した。
論点は、
- アメリカ自身がイランへ武器を売るのか
- イスラエルによる米国製兵器の売却を認めるのか
- イスラエルが供給した分をアメリカが補充するのか
という実際の武器移転方法へ移っていた。
8月初めにはレーガン、ジョージ・H・W・ブッシュ副大統領、シュルツ、ワインバーガー、ケーシーらもこの提案について説明を受けた。
シュルツとワインバーガーは依然として武器販売に反対した。
独立検察官報告では、レーガンが最終的にイスラエルによる武器移転を認めた正確な日付は確定できないとしている。
ただし、遅くとも1985年8月23日までには、イスラエルがイランへ渡したミサイルをアメリカが補充する方針を承認していたと整理されている。
重要なのは、ここでも政府高官の記憶や認識が完全には一致していないことである。
最初の96発――しかし人質は解放されなかった
政策検討は、1985年8月に実際の武器移転へ変わった。
8月20日、イスラエルが手配した最初の96発のTOW対戦車ミサイルがイランへ到着した。
ところが、期待された人質解放は起きなかった。
ゴルバニファルは、武器が想定していた相手とは違うところへ渡ったと説明し、さらに武器を送れば人質解放につながる可能性があると主張した。
ここで秘密交渉を停止することも可能だった。
しかし実際には、9月上旬にパリで追加交渉が行われた。
ゴルバニファルは今度は、一人の人質を解放させるためにさらに400発程度のTOWが必要だと主張した。
そして9月14日、イスラエルがチャーターした航空機によって408発のTOWミサイルがイランへ届けられた。
翌9月15日、レバノンで拘束されていたベンジャミン・ウィア牧師が解放された。
武器供給の直後に人質が一人帰還したことは、交渉を続けたい側にとって強い材料になった。
一方、アメリカ側が特に解放を求めていたCIAベイルート支局長ウィリアム・バックリーは戻らなかった。
後に判明したところでは、バックリーはすでに死亡していた。
「戦略的接触」が「武器と人質」に近づいていく
1985年春の構想と、9月までに起きたことを比べると変化が見える。
| 段階 | 中心となった考え |
|---|---|
| 1985年5~6月 | イランを完全に孤立させず、西側との関係改善を模索する |
| 7月 | イラン側とされる人物が人質解放へ影響力を持つという情報が入る |
| 7~8月 | 善意の証明として米国製軍事装備を求める提案が具体化する |
| 8月 | イスラエル経由でTOWミサイル96発が実際にイランへ渡る |
| 9月 | さらに408発を供給した翌日に、米国人人質1人が解放される |
この流れを見ると、当初の「イランとの戦略的関係改善」という広い政策構想に、レバノン人質問題が入り、その人質問題を動かすための手段として武器供与が具体化していったことが分かる。
さらに一度人質が解放されたことで、「武器を送れば次の人質も解放されるかもしれない」という構造から抜けにくくなった。
これは後年、レーガン自身が事件を振り返った際の説明とも関係する。
1987年3月4日のテレビ演説でレーガンは、当初はイランへの「戦略的な接近」として始まったものが、実施過程では武器と人質の交換へ変質したことを認めている。
FACT CHECK|最初から「arms for hostages」が正式政策だったのか
少なくとも政策文書上は、そう整理できない。
1985年春~夏の政策検討では、対イラン関係改善、ソ連の影響力抑制、人質問題など複数の目的が存在していた。
レーガン政権は事件発覚後も、承認した政策は「戦略的な対イラン接近」であり、単純な人質との武器交換ではなかったと説明した。
しかし実際の交渉では、武器供給と人質解放が明確に結びつく取引が繰り返された。
1987年3月、レーガン自身も、事実と証拠を見れば実施された政策が武器と人質の交換へ変質したことを認めている。
したがって、「最初から武器と人質の交換だけを目的としていた」とするのも、「武器と人質は関係なかった」とするのも、どちらも実態を十分に表していない。
なぜ止まらなかったのか
1985年夏の時点ですでに、この秘密交渉には複数の危険信号があった。
シュルツ国務長官とワインバーガー国防長官は武器供与に反対していた。
主要仲介者のゴルバニファルはCIA自身が信用できないと評価していた。
最初の96発を送っても人質は解放されなかった。
そしてアメリカ政府の公的な「テロリストへ譲歩しない」という立場とも緊張関係にあった。
それでも政策は続いた。
理由の一つは、9月15日にベンジャミン・ウィアが実際に解放されたことだった。
秘密ルートがまったく機能しないわけではないという印象を与えたからである。
もう一つは、レーガン政権内部に「イランとの将来的な関係改善」という戦略的期待が残っていたことだった。
さらに、人質が危険にさらされている状況では交渉を打ち切ること自体にも政治的・人道的な重さがあった。
この構造は1985年末まで続き、武器の種類、数量、取引方法を変えながら秘密活動を拡大させていく。
1985年末には、最初の構想から遠く離れていた
9月以降も交渉は続き、イラン側はTOWだけでなくHAWK地対空ミサイルなどを要求するようになった。
交渉の中では、「人質を一人解放すれば武器を渡す」「武器を送ればさらに人質解放へ働きかける」といった具体的な交換条件が持ち込まれていく。
マクファーレン自身も、こうした状況に次第に懐疑的になった。
1985年12月にロンドンでゴルバニファルらと会談した後、彼はこのルートが広い政治対話ではなく、武器と人質の取引から抜け出せなくなっていると判断した。
しかし、秘密活動そのものは終わらなかった。
むしろ1986年には、イスラエル経由だけではなく、CIAを利用したアメリカ側からの直接的な武器供給へ仕組みが変わっていく。
そして、この取引を実務面で動かす役割を急速に拡大していく人物がいた。
NSCスタッフ、オリバー・ノースである。
まとめ|「人質を救いたい」から始まっただけではない
アメリカが1985年にイランとの秘密接触へ踏み出した背景には、複数の目的があった。
レバノンで増え続けるアメリカ人人質を解放したい。
革命後に断絶したイランとの関係に新しい入口を作りたい。
そして冷戦下で、イランがソ連側へさらに接近する可能性を抑えたい。
その政策構想に、イスラエルから「イラン国内に西側との関係改善を望む人々がいる」という情報が持ち込まれた。
さらに彼らはレバノンの人質解放に影響を与えられると説明された。
だが、その「善意の証明」として要求されたのがアメリカ製兵器だった。
1985年8月20日に96発のTOWミサイルがイランへ渡る。
人質は解放されない。
9月14日にはさらに408発が送られ、翌日にベンジャミン・ウィアが解放された。
こうして、「イランとの戦略的関係改善」という政策と、「レバノンの人質を取り戻す」という目的と、「武器を供給する」という手段が切り離せなくなっていった。
次回は、その武器が実際にどのような経路で動いたのかを見る。
イスラエルが米国製TOWをイランへ送り、アメリカがイスラエルへ補充する仕組みから、1986年の米国直接取引まで。
そして、その取引の価格差が後にコントラ支援へ流れる資金の源になっていく。
CASE FILE 43|全記事
- 第1回 イラン・コントラ事件とは?|武器売却とコントラ支援が結びついた秘密工作の全貌
- 第2回 なぜイランへ武器を売ったのか|レバノン人質問題と「イラン・イニシアチブ」[現在の記事]
- 第3回 武器はどうイランへ渡ったのか|イスラエル経由から米国直接取引まで
- 第4回 なぜコントラ支援は秘密化したのか|ボランド修正と議会統制
- 第5回 武器代金はどうコントラへ流れたのか|資金流用と「Enterprise」の仕組み
- 第6回 誰が秘密作戦を動かしたのか|オリバー・ノース、ポインデクスターとNSCの実働化
- 第7回 イラン・コントラ事件はどう発覚したのか|1986年11月、秘密工作が表に出るまで
- 第8回 調査は何を突き止めたのか|タワー委員会と1987年議会公聴会
- 第9回 刑事責任はどう裁かれたのか|ウォルシュ独立検察官、逆転判決、そして恩赦
- 第10回 レーガンはどこまで知っていたのか|確定事実・争点・イラン・コントラ事件が残したもの
出典・参考資料
-
Lawrence E. Walsh, Final Report of the Independent Counsel for Iran/Contra Matters, Part I: Iran/Contra — The Underlying Facts.
1985年の対イラン政策論議、レバノン人質、リディーンとイスラエル側の接触、ゴルバニファル、TOW移転、ウィア解放などの主要時系列確認に使用。
-
Lawrence E. Walsh, Final Report of the Independent Counsel for Iran/Contra Matters, Chapter 1: United States v. Robert C. McFarlane.
マクファーレン、ケーシー、ノースらの対イラン秘密活動への関与と、人質解放・武器供給の関係確認に使用。
-
U.S. Department of State, Office of the Historian, Foreign Relations of the United States, 1981–1988, Volume I.
1986年11月13日および1987年3月4日のレーガン大統領演説など、事件発覚後の米政府による公式説明の確認に使用。
-
Ronald Reagan Presidential Library — Robert C. “Bud” McFarlane Files / Iran-Contra archival collections.
国家安全保障会議とマクファーレンの役割、対イラン秘密外交に関する公文書所在の確認に使用。
-
President’s Special Review Board, Report of the President’s Special Review Board (Tower Commission), 1987.
イラン・イニシアチブの政策目的と、戦略的接触が実施段階で武器と人質を結びつける取引へ変質した過程の検証に使用。
本記事は、ウォルシュ独立検察官最終報告、米国務省Foreign Relations of the United States、レーガン大統領図書館、タワー委員会資料等を照合して構成しています。「イランの穏健派」の存在や影響力など、当時の仲介者・当事者が主張した内容については、公的に確認された事実と区別しています。